七支刀

(1)七支刀文面

七支刀に刻まれている文面はWipkipediaにより次の通り紹介されている。

(表)

泰■四年■月十六日丙午正陽造百錬■七支刀■辟百兵宜供供(異体字、尸二大)王■■■■作 

また

泰■四年■月十六日丙午正陽造百錬■七支刀■辟百兵宜供供王■■■■作 

(裏)

先世(異体字、ロ人)来未有此刀百済■世■奇生聖(異体字、音又は晋の上に点)故為(異体字、尸二大)王旨造■■■世 

また

先世来未有此刀百濟■世■奇生聖故為王旨造■■■世


文面の意味は判読されていない文字もあり詳細には解らないが、百済が作った七支刀が日本にあるのだから、百済が倭に与えたものである。文字を刻んだ刀は威信財であるから、下位のものが上位のものに献上することはないだろうから、倭が百済の上ということはなかったと考える。


(2)制作年代の推定

銘の時期は、「泰■四年」である。Wikipediaには以下の3通りの説があり、これを検証する。

「太和四年」(369年)説

泰」は「太」と音通するため「太和四年」(369年) とする説。年号をわざわざ字画が多い文字を使用してまで変更することはないと思われ、否定したい。

西晋の「泰始四年」(268年) 説

 268年にはまだ「百済」の国名はない。表面は西晋で作り、裏面を付加したということもない。字体を比べればわかるであろう。西晋から戴いた威信財(自分の中国での偉さを示す大事な証拠の品)を加工して自分の威信を示すことに流用することは考えにくい。裏面を刻銘中に失敗すれば、何もかも失う恐れがあり、そういう行動はとらないのではないか。よって否定したい。

③南朝宋の「泰始四年」(468年)説

これがただしいと思われる。百済は南朝宋の配下にあったのであるから、「泰始」年号の使用は妥当である。 威信財を与える側にとっては、受け取り側が受領する意思を示しているわけであるから、威信財は「今後平和を維持しよう」という意味であろう。当時、百済と倭国の共通の問題があるとすれば、半島南部の都督権問題で、特に倭王が百済都督を自称したが、除されなかったので無念の気持ちがあり、これに対する慰留ではないか。