天武天皇=孝徳天皇の皇子

2019年7月30日


この論考シリーズでは天武天皇[注1]を独立して解析することはなかった。他のタイトルでの考察で天武=孝徳の皇子とせざるを得なかった。ここでは、他のページで述べたことを天武を軸にまとめる。天武がはじめて天皇を自称したいきさつめいたものを述べてみる。


(1)孝徳天皇の皇子

天智紀によると、天智は即位するまで称制期間があり、王が存在しない状態が続いた。ところが、旧唐書には称制の期間に倭国酋長の記述があり、これが誰なのかの疑問が生じた。詳しくは、扶余勇=天智天皇のページで説明したが、簡単に述べると以下である。壬申の乱は近江政府と大海人グループの戦いである。東国にはまだ近江政府の支配が及んでいなかったので東国は古い倭国のままである。大海人は東国に脱出して態勢を固め、近江政府を滅ぼしたので、大海人は古い倭国系であることがわかった。大海人グループは壬申の乱の勝者であり、大海人はそのトップであるから元倭国王という事になる。すなわち、大海人が旧唐書の倭国酋長である。劉仁軌に従った倭国酋長は白村江の敗者であるから、白村江を指揮したのは大海人という結論になる。

書紀はこの倭国王を書いていないので、この近辺の書紀の王統は創作である。斉明国王は存在せず、大海人が倭国王であったことになる。大海人の直前の王は孝徳となる。この二人の関係は特に理由がないかぎり、王と太子である。皇極紀によれば、孝徳(=翹岐王)には亡くなった子供以外に子供がいることが書かれているので、天武天皇=孝徳天皇の皇子と結論するのは自然なことである。

書紀王統を創作した理由は、単純に、天武自身が白村江で敗れ、扶余勇を庇って処罰され、唐の支配を受けて封禅の儀に出席し、倭国王を降ろされた事実を隠したかったからである。もし、書紀がこの倭国王を書けば、王として屈辱の過去を認めることにつながるのである。別人に重祚させ、さらに天智称制という手段によって自分自身の存在を隠したのである。


(2)天武からみた倭国の概略史

天皇制や万系一世は書紀が出来てからのものである。それまでの倭国王の歴史はさまざまな王が入り乱れる普通の国の歴史である。それを簡単に整理しておく。

倭の五王からはじめると、五王は辰国から河内に渡ったものである。昆支王が百済からやってきて、五王の最後の武を昆支系が襲った。武寧王の後押しで倭国王になった昆支系大王は中国に朝貢することもなく(従って、半島の都督権を主張することもなく)、倭国は百済の分国のようなものになった(任那割譲)。継体は昆支系に大王位を取られ、河内を北辺から牽制し、やがて大和も配下にした。継体一家は金官伽耶王弟(欽明)に殺され、大和は河内の属国となった。河内の大王はアマタリシヒコ大王まで続いた。受戒して上宮法皇となったアマタリシヒコは母親、妻と不審な連続死を遂げた。翹岐王が百済から派遣され、蘇我入鹿が倒され、翹岐王は孝徳として河内に収まり倭国を支配した。孝徳の王子の大海人は律令制を引き継ぎ倭国を支配した。難波を父から引き継いだ。

突然、百済が崩壊した。彼は祖国を復興するために大量の兵を船で送り白村江で敗れた。百済復興がならず、多くの百済貴族とともに扶余勇が倭国に渡ってきた。勇も大海人も唐の処罰の対象である。勇はより深い罪であったが、大海人は勇を庇って処罰され、封禅の儀に出席することにした。大海人は勇の従兄弟(百済武王が祖父)で、勇は百済義慈王の直系で大海人より格上であるから、従わされたのである。

勇は難波に兄の善光を置き倭国を支配した。大海人は首都難波を善光に譲らねばならなかった。大海人は畿内のもうひとつの大国である大和に移った。その中心が明日香であった。彼はそこを本拠とし、勇を補佐した。勇は近江まで支配地を拡大していった。大海人は、危機感を持った。このままいけば、勇がその兄弟とともに倭国を経営し、将来は勇の王子が国を運営し、大海人はどんどん遠ざけられてゆく。この王統保存の法則の中で、元倭国王であった大海人は実権を取り返そうとしたのである。


(3)壬申の乱

壬申の乱を遡る668年9月に平壌が陥落する。同年同月、新羅は倭国に金東厳を遣わし調を奉った。近江政府は国王への贈り物以外に、国王でない鎌足が国王でない将軍大角干金庾信に多大な贈り物をした。新羅の訪問は矛先を倭国に向けたことを暗示する圧力外交だったからだ。倭国内の分裂が進んだことは十分ありうる。また、大友が太政大臣になった671年1月、高句麗が調を奉じている。高句麗の一部は安勝をたてて670年に新羅に合流し、新羅は安勝を高句麗王としている。高句麗の来訪は新羅が高句麗を従えた誇示の意味合いがあり、これも圧力外交だった。扶余勇側と旧倭国側(大海人)の対立がすすみ、大海人はもちろん新羅に傾いた(父孝徳は遣唐使再開に新羅の斡旋を受けるなど近しい)。

新羅の文武王は鶏林州大都督となったが、670年に高句麗遺民たちの高句麗復興運動を支援し、唐と戦争をはじめた(唐・新羅戦争670-676)。新羅は高句麗王を立てた。百済地域の唐軍を攻撃し、百済地域を占領した(671年)。新羅のこれらの行動は唐からの独立である。新羅の反唐活動と大海人の親唐の近江政府討伐活動とは方向が同じで、壬申の乱は、大海人が新羅に呼応して、唐の都督政権である近江政府を討伐する戦争でもあったと捉えることができる。

大海人皇子が壬申の乱で東国に脱出し、体制を整えることができた背景には、東国は孝徳政治に従った人々で、王子の大海人に恭順していると考えられ、扶余勇の力が近江までにしか及んでいなかったことが挙げられる。また、孝徳が金春秋や新羅王族を招き、遣唐使再開を新羅に寄り掛かったなど、新羅との関係が深かったこともある。東国は地勢的に越国を経由すると新羅と近い。

壬申の乱に勝った大海人は明日香を宮にした。難波は善光の管理下にある。善光は血統的には大海人より格上であるが、実行力のある倭国王大海人に恭順したのである。大海人も善光を利用しない手はなかった。勝利を愛でるために一番に駆けつけたのは新羅の金押実であった。唐・新羅戦争が終わり、統一新羅の時代となる。天武政権では当然のことながら遣新羅使が多くなった。

大海人は都を難波に戻さなかった。新羅との付き合いが深まるので、百済人の多い大王政権の首都難波と決別したかったのであろう。明日香に拠点を持った大海人は、その近辺に藤原京を計画した。その構想は大きかった。難波を副都にした。古代の大道が畿内にある。直線的で非常に幅が広いので驚かされる。これらは、天武系政権が作ったものである。


(4)天皇称号

天皇称号が使われることになるが、国号が倭から日本に替わる状況を踏まえておかねばならない。白村江に敗れた百済王子扶余勇が倭国に渡り「日本」を名乗った。「日本」は小国であったが百済が南遷して名乗った国号である。扶余勇の政府は東進し近江政府となり、「日本」は西日本を覆った。扶余勇が崩御し、天武は壬申の乱をおこして近江政府を滅ぼした。驚くことに倭国は近江政府の国号「日本」を使用した。天武は百済を受け継いでいる意識があったのである。したがって、倭国の大王位を「日本」において受け継ぐことはあり得なかった。

天武自身は扶余家の傍系であり、辰王を名乗るわけにいかなかった。半島では扶余家は唐に捉えられて全員が瑕疵が出来、義慈王の王子の中で傷がない最も年上の王子は善光で、彼が扶余家として正統であった。扶余家の血筋は善光に委ねるざるをえない(持統期に善光を百済王氏としたのは、百済王家嫡流の意味である)。

辰王でもなく、大王も断ち切りたい大海人は新しい称号「天皇」を用いた。秦の始皇帝が、自分が中国の最初の皇帝であるとして始皇帝を自称したのと同じく、天武自身が新生日本における最初の王と考えたのであろう。日本国は天皇の国であるというわけである。この論稿集で欽明・孝徳・天智・天武は半島生まれのスメラミコトであることが発見されたが、彼らの和風諡号には「天」が付いている。「天」は半島由来を表す符丁である。「天皇」は朝鮮半島由来の皇という意味になる。

天皇を重みづけするために、自身の祖とした人々に天皇称号をつけ、あたかも、天皇がこの国を支配してきたように記紀で主張した。一国を支配するためには、多種多様な来歴をもつ人々を認知する必要もあった。それを記紀によって実現した。百済と袂を分かって倭国に先着していた人々の象徴が倭の五王や継体王で、五王や継体王を取り込むことによって、古い渡来人を認知した。大和はさらに古い渡来人であろうが、歴史書の舞台として優遇して取り込んだ。欽明は金官伽耶からきた人々の象徴である。天皇から除外した昆支系河内のアマタリシヒコ大王の業績は偉大であり、皇太子として挿入した。これによって、天武は昆支系河内の人々を取り込んだ。扶余勇を天智天皇とし新しい百済人を取り込むことも忘れなかった。


(5)百済人の象徴

天武は沙宅紹明に大佐平を追贈した(天武紀下)。なぜ他国の貴族称号を倭国王が授与するのか最初は解せなかったが、百済貴族たちにとって、扶余家の天智・大友も亡くなり、天武が、仕えるべき扶余家の中心人物だったからである。天武は扶余家として、すなわち百済として沙宅紹明に大佐平を追贈したのである。百済貴族は島国においても、百済人意識であった。扶余勇崩御後は翹岐王皇子の天武を主君として戴いたのである。


(6)日本国号

近江政府が付けた日本国号を壬申の乱の勝者が受け継いだのも驚くべきことではなかった。壬申の乱は言わば扶余家内部の争いだったからだ。日本国号は扶余家が考案したと考えれば、百済貴族は諸手を挙げて賛意を示すであろう。国号変更を扶余家と百済貴族が行った事実は、百済人達は倭国に同化したのでなく、倭国を牛耳ったことを示している。

天武系政権は日本国号を名乗らざるを得ない事情もある。日本国号は扶余勇が称したのであった。唐に許された扶余勇派を滅ぼした天武系政権が別の国号を名乗れば、名実ともに唐政権に盾突いたことになる。壬申の乱を内乱として、政権交代に過ぎないとするためには、国号を変えてはならなかった。そうしないと、攻められる恐れがあったという背景があったのだ。

[1]天武を新羅人とする説には疑問がある。天武は沙宅に大佐平を追贈したが、新羅人が何故百済人の位を叙綬するかの説明がつかない。扶余勇が渡ってきたとき、天武が新羅人であるなら、百済人扶余勇をなぜ即刻倒さなかったのか。