広開土王碑の時代背景

広開土王の碑にでる倭に関する記事は解釈に異論があるが日本の学会の解釈は次のとおりである。

・391年、百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡[海]破百殘■■新羅以為臣民 (そもそも新羅・百残は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に海を渡り百残・加羅・新羅を破り、臣民となしてしまった。 )

・399年、百済は先年の誓いを破って倭と和通した。そこで王は百済を討つため平壌に出向いた。ちょうどそのとき新羅からの使いが「多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下としたので高句麗王の救援をお願いしたい」と願い出たので、大王は救援することにした。

・400年、5万の大軍を派遣して新羅を救援した。新羅王都にいっぱいいた倭軍が退却したので、これを追って任那・加羅に迫った。ところが安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。

・404年、倭が帯方地方(現在の黄海道地方)に侵入してきたので、これを討って大敗させた。

これらの事象の背景を観察する。年代からいうと辰王が渡った(346年)後の倭のことで、倭の五王の讃(421年叙綬)に差し掛かるか否かの時代についての記述である。高句麗の圧迫により、辰王は馬韓の月支国を去って倭国に移ったのであった。辰王として、王族やその配下の貴族とともに、大挙して倭国に移り住み、各地に王族は散らばり、経済的軍事的に体制の立て直しを図ることができる状態であった。一方、三韓の地は、あらたな統一王が出ず、分国した状態であった(百済・加羅・新羅・安羅)。このような状態が50年ほど続き、体勢を立て直した倭国の辰王が旧地を奪還しようとして、半島に打って出て高句麗に反撃した。このように考えると、広開土王碑は何の問題もなく読める。しかしながら、臣民となしたはずの百残・加羅・新羅について、宋書の記事「義熙12年(416年),以百濟王餘映為使持節、都督百濟諸軍事、鎮東將軍、百濟王。」により百済王に都督権があり、 425年頃だと思われる宋書の記事「自稱使持節、都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭國王。表求除正,詔除安東將軍、倭國王。」により、倭の珍は半島の都督を得ていない。「臣民」は高句麗政権の判断で、宋政権は認めていない状態ということではないか。