2023年1月23日
(1)扶余豊の年表
扶余豊(623-668)は義慈王の王子。631年に倭国に渡る(8歳)。641年には武王が亡くなり義慈王が百済王になり、642年には王弟翹岐王が倭国に渡った。645年に翹岐王は倭国王(孝徳)になり、扶余家は、百済を義慈王、倭国を翹岐王の兄弟支配体制となる。孝徳の白雉元年(650)の記事に豊は百済君として登場している。660年に百済崩壊。662年に、豊は兵5,000と軍船170艘で百済へ渡り、百済王に推戴された。663年6月、豊は実権を握る鬼室福信を殺害し百済復興軍は著しく弱体化した。白村江の戦いに敗れ、豊は高句麗に逃れたが[、高句麗も668に唐に滅ぼされ、唐により流刑になった。
(2)扶余豊の王族としての地位
王家では血脈を絶やさないのは至上命題であろう。高句麗に追われ続けて南下してきた百済は分脈をさらに南に残しおくことが安心材料となった。文周王が熊津に南下した時、弟昆支王は倭国にあった。義慈王が王位に就いた時王弟の翹岐王が倭国に派遣された。義慈王の皇太子隆が王位に就いた時、倭国では派遣されていた豊が王位に就く予定だったのではなかったか。兄弟体制を予定したが、百済崩壊で急遽、戻らねばならなかったという事のようにみえる。豊は百済に戻って王位に就いたが、敗れても、逃亡しても、敵に捕まるまでは王とみなせるので、高句麗が破れるまで彼は百済王だったとできる。勇(=天智)が称制を脱したのが高句麗が破れる頃であるのは豊を王としていたからであろう。
(3)扶余豊=鎌足説
白村江の敗戦で、豊は宝剣を捨て高句麗へ逃げた。旧唐書は豊が逃げその宝剣を得たとしか書いていないので、高句麗へ本当に行ったのか疑問を挟む余地がある。死の間際の鎌足の扶余勇への言葉「軍国の役に立てず」は、倭国に留まった者の言葉より、王として百済の地に戻ったが百済復興がならなかったことを弟に詫びた言葉と捉えるほうがぴったりくる。そもそも、扶余勇が見舞ったのは鎌足が内大臣(最側近)であったからであるが、倭人が内大臣にはなりえない(文周王の内大臣は弟の昆支王)。扶余勇は従兄の大海人皇子を使って鎌足に大織冠を送った。礼の取り方から鎌足が大海人皇子より上位である。元倭国王より上位の倭人は存在しえないので「鎌足=豊」は自然な結論である。豊が織冠を送られ、死の間際の鎌足が大織冠を送られたのは「豊=鎌足」の暗示ではないか。鎌足の墓からは大織冠の素材になりうるものが発掘されている。書紀に白村江の頃の鎌足の記述がないのも参考になる。つまり、白村江後、豊は百済王を退位し倭国に再び渡り、弟に百済再興をゆずった。そして、元王として貴族のトップとなり、特別に藤原姓を名のり、天皇を生み出す永遠の母系の家系となったのではないか。鎌足の墓は大阪府三島の阿武山にある。勇の墓は京都の山科にある。双方とも、大和でも河内でもなく淀川水系にある。
書紀を物語として読むと、鎌足の死の場面は半島から島国に逃れた王子兄弟が万感の思いを込めて別れるクライマックスである。作者不比等は自分の親がもと百済王であったことをこの短い場面を使って残したかったように私には思える。