継体天皇と日十大王

2024115


倭の五王系大王の武には直系がなかった。倭の五王勢力は後継に継体王を擁立したが敗れ、昆支系の日十大王が誕生した。中国史書に503年以降600年まで倭の記述がなく、朝貢しなかった。昆支系大王は半島の都督権を放棄する意図があったと出来、倭国は百済の属国となったと判定される。継体は殺害されたという情報が古くからあり、継体王と日十大王との関係を述べる。継体は一般には大王と呼ばれるが、河内に日十大王がいる限り、継体の大王はありえない。


(1)大王の繁栄と衰退

縄文海進と海退により、各地に湿地帯や沖積平野が出現していた。大阪では倭の五王政権下で鉄器による沖積平野の大規模な治水が行われ、産業の大躍進があった。武は昇明2年(478)に宋に上表し、「使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭王」 を得た。南朝斉(479年~502年)からも「都督倭·新羅·任那·加羅·秦韓·慕韓六國諸軍事、安東大將軍」を叙綬された。しかし、梁書では「高祖卽位(502),進武號征東將軍」を最後に倭国に関する記述が消える。

他方、高句麗には天監七年(508)「高驪王樂浪郡公雲,乃誠款著,貢驛相尋,宜隆秩命,式弘朝典。可撫東大將軍、開府儀同三司,持節、常侍、都督、王並如故」がある。百済の餘隆(武寧王:在位502-523)には、普通2(521)「行都督百濟諸軍事、鎮東大將軍、百濟王餘隆,守籓海外,遠脩貢職,乃誠款到,朕有嘉焉。宜率舊章,授茲榮命。可使持節、都督百濟諸軍事、寧東大將軍、百濟王」 がある。新羅は普通2(521)に百済に付いて朝貢した記述がある。

梁書に502以降の倭の記述がないのは、倭国は朝貢しなかったのである。都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事の役職を更新する意思がないということでもある。倭国に何があったのか興味がそそられる。

 

(2)日十大王の誕生

百済王弟昆支王が河内に577年に到来していた。昆支王の到来により、畿内の墓制が竪穴式大型前方後円墳から横穴式にかわり、また、群集墳も現れるなど、五王政権に大きな影響を与えたので、政権に食い込んでいたと考えざるを得ない。

武寧王(斯麻、在位:502-523)が贈った隅田八幡神社人物画像鏡の「癸未年八月日十大王年」から癸未年八月(503年)の大王は日十大王であることが解る。503年には大王は武から日十大王に替わっていた。

百済貴族の木刕満致も半島から姿を消し、蘇我満智となって河内に現れ、昆支王とのペアができあがった。100年後の河内には、アマタリシヒコ大王(=聖徳太子)と蘇我馬子ペアが現れる。王と支える貴族の関係は世代を超えて不変であるから、アマタリシヒコ大王の祖先は昆支王であり、昆支王との間にある日十大王はしたがって昆支系である。「昆支」の文字の上の部分をとれば「日十」ではあるが、昆支王の死亡年は高井田山古墳の造営時期から5世紀末であり、日十大王は昆支王ではない(昆支王については「昆支王」のページを参照)。

 

(3)継体王の経歴

倭の五王時代の大阪平野と同様の発展は越前平野にもあった。海進時に九頭竜川、日野川、足羽川からの土砂が堆積し、海退により平野らしくなって海面から姿を表し、越前平野は大きな湿地帯となっていた。鉄器による大規模な治水が行われ、港が開かれ水運が発達し、稲作、養蚕、採石、製紙など様々な産業が発展した。伝承ではこれを男大迹王(継体)の功績とする。

継体の生まれは父の別業がある近江湖北高島とされる。倭の五王時代、鉄をはじめ半島との交易が盛んとなり、近江や越前や倭国の各地はこの交易に参画したであろう。継体王の威信財である広帯二山式冠[注1]や捩じり環頭大刀の金属加工技術ルーツが百済や任那にあるのはその時の交易によるものだろう。これら威信財は近江、淀川水系、北摂で発掘されており、継体は越前、近江、北摂、淀川水系に勢力を伸ばしていた。

 人物画像鏡は武寧王が継体王(男弟王)に贈ったもので、銘文は次の通り。「癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作此竟 」(癸未の年八月 日十大王の年、男弟王が意柴沙加の宮におられる時、斯麻が長寿を念じて開中費直、穢人今州利の二人らを遣わして白上同二百旱をもってこの鏡を作る )。継体王が捜し求められる書紀の物語は、武に後裔がいなかったので継体に大王に成ることが求められたことを暗示する。継体は北陸から意柴沙加宮(大和の忍坂宮)に出て来ていたことになる。しかし、大王になったのは人物画像鏡により日十大王であった。鏡はその直後の事であり、メッセージ「長寿を念ずる」は、日十大王を廃せば容赦はしないとの武寧王の警告と解釈される。

4)倭国の従属国的地位

百済南下政策で倭国に来た昆支王は、昆支王系大王の成立によって、倭国を百済の支配下に置く目的を達成した。すでに見たように倭国は国際史上姿を消したのでその動静は国際的史書からは得られず、書紀等から拾うことになる。その前に、倭の五王の役職であった使持節・都督諸軍事とは「軍事だけでなく民政をも掌握し、敵国との国境守備・辺境の異民族対策など複数の州郡にまたがった防衛をする」ことである。つまり、都督は国を所有することは出来ないが軍事によって敵国から守る代わりに、内部の支配権を得た。産業なども育て利益を得ることができたのであろう。が都督を持っていた任那は地域名で、そのなかに小国があり、国王がいた。これらの王が自国の帰趨を決めることができたと思われる。

(a)任那西半分の帰趨

・武寧王(在位:502-523)のときの継体6年(512年)、倭国は上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁の任那4県を百済に無条件割譲した。4県は百済と境界を接し、面積も任那の半分あり、百済は国土を大きく広げた。倭国が百済系大王に成ってから600年まで朝貢していない事実は、南朝から得ていた都督の更新を放棄した意味がある。つまり、百済は倭国に傀儡政府を作り、任那の軍事権を放棄させ、任那の西半分を領土にしたと読める。

(b)任那東半分の帰趨

・継体7年(513年)6月から同10年(516年)9月、百済が伴跛国と争った己汶・帶沙について、倭国が実力で伴跛国と争い、百済に己汶・帶沙を与えた。己汶・帶沙は上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁の東に接し、百済は領土拡大をした。倭国は百済の軍事代行をしている。

・継体23年(529年)3月、百済が加羅の国の多沙津を欲し、倭国はこれを百済に与えたので、加羅の国王は怒って新羅についた。倭国は百済の領土欲のために働いている。

・継体21年(527年)6月、新羅にとられた南加羅と喙己呑を回復するために近江毛野が派遣されたが、磐井が新羅と結んで海上封鎖し、行くことができなかった。中央に背いた磐井は継体22年(528年)11月に鎮圧された。磐井の乱(527年-528年)は武寧王の強力な支配力が薨去によって薄れたということだろう。

・継体23年(529年)、百済が加羅国の多沙津を欲し、倭国はこれを百済に与えたので、加羅国の王は怒って新羅と結んだ。毛野はやっと安羅に派遣されたが、4ケ村とられるなど芳しくなく、政治もまずく、24年(530年)10月引き上げることになる。その帰路、対馬で毛野は死亡した。

・532年には金官伽耶が新羅に投降し、東半分の新羅への帰属が完成した。

これら東半分の領土争いに出兵しているのは倭国軍である。百済と新羅の間で任那の分割の約束があるとすると、東半分について百済軍が出兵すれば、新羅との全面戦争になるので倭国軍を使って牽制したと見ることができる。いずれにしても、百済は自軍を使わず任那の領土を手に入れている。

(c)百済を助ける倭国の行動

 継体6年(512年)に筑紫国の馬40頭が百済に渡されている。欽明紀では船10隻とともに70頭が渡されている。頭数から馬は実用であり、倭国は百済の馬の供給地になっている。

宣化元年(536年)、那津官家(現在の博多付近)造営。各地から集めた食料を保管する。「筑紫は遠近の国々が朝貢してくる所であり、凶年に備え賓客をもてなす」といっている。百済の凶年時のための備蓄倉庫と解することができる。

 

(5)日十大王下の継体

書紀によれば継体は応神5世孫である。河内の巨大古墳に葬られた応神は倭の五王であろうから辰王である。昆支系王に対抗するために、辰王族は北陸の継体を擁した。継体は辰王の5代目という示唆なのだろう。したがって、敗れたとはいえ継体の尾張氏と連携は、辰王族の結束を意味し、昆支系大王にとって気持ちのいいものではなかった。

継体王は、507年に樟葉宮(淀川)、511年に筒城宮(木津川)、518年に弟国宮(桂川)を造った。この地域には、巨椋池という広大だが浅い干拓可能な池があり、これを利用した経済基盤も考えられる。淀川水系は河内の北に接しており、大王を牽制している。継体の経済基盤は水運とされている。木津川を押さえたので大阪湾への迂回ルート(河内を通らない)を大和に提供でき、大和との連携が図れた。実際、継体は継体20年(526年)に磐余玉穂宮(奈良県桜井市)に遷都している。武寧王が崩御して3年経っており、継体と河内の勢力関係に変化が起きていた。すなわち、武寧王死後、継体は大和を支配し、大王を包囲する形を作った。しかし、継体王は子孫とともに殺害された(534年)。 


(6)継体崩御

継体は継体25年に崩御し、摂津三島郡藍野に葬られたというのであるが、書紀に次のような注釈がある。

 ーある本によると、(継体)天皇は28年に崩御としている。それをここに25年崩御としたのは、百済本記によって記事を書いたのである。その文にいうのに「25年3月、進軍して安羅に至り、乞屯城を造った。この月、高句麗はその王、安を殺した。また聞くところによると、日本の天皇および皇太子・皇子皆死んでしまった」と。これによって言うと辛亥の年は25年に当たる。後世、調べ考える人が明らかにするだろう。ー

ある本が正しければ、毛野が安羅に使わされたのは継体25年3月(531年、辛亥)で、新羅に4ケ村とられ、継体26年(532年)に毛野の働きの悪さが奏上され、任那王は毛野に手を焼き、新羅と百済に協力を仰ぎ毛野と戦わせ、継体26年(532年)に毛野は帰国途上対馬で病で死んだことになる。すると、532年に金官伽耶が新羅へ投降した事実がつながってくる。ある本の「継体25年3月に進軍」は正しく、したがって継体28年説は正しく、「天皇・皇太子・皇子皆死んでしまった」も真実となる。高槻市のホームページは「今城塚古墳には3基の家形石棺が納められていたと見られる」と述べており、ある本の「日本の天皇、皇太子、皇子皆死んでしまった」と合致する。継体は534年に崩御し、その皇太子の安閑や皇子の宣化の即位はなかったのである。欽明(539-571年)まで5年の空白が生じるが、河内の大王が存在するので大和地方の王位空白の問題にすぎない。 

この論考シリーズでは継体系を絶ったのは金官伽耶王弟の脱知爾叱今(=欽明)としている。脱知爾叱今は金官伽耶の滅亡(532年)で倭国に渡ってきた。倭国の状況は、継体が大和も傘下に治め優勢になりつつある。継体を取り除くことは、河内の大王にとって安心であり、脱知爾叱今にとっても、河内の希望を叶える事で倭国で地位を確保できる。かくして、暗殺は実行され、大和に脱知爾叱今(欽明)を据え、大和を河内の傘下に治めたのである。

継体一家の死は国際的な意味がある。ひとつは、百済にとって、属国倭国内での叛乱の危険を除去したことである。もうひとつは、継体は倭の辰王系の中でもっとも辰王に近い存在であろうから、「日本の天皇および皇太子・皇子皆死んでしまった」はその最近縁者が根絶した意味がある。つまり、百済の辰王が揺るがぬものになったことになる。これらから、継体一家の死亡事件は、百済が昆支系に命じておこさせたとも考えられる(「辰王位」のページ)。

 

(7)継体王陵墓

古墳時代の大阪湾の海岸線は現在より内陸で、東側の海岸線は上町台地と千里丘陵を結ぶラインにある。上町台地と生駒山地に囲まれた地域は河内湖で、淀川や大和川が流れ込む大湿地帯であった。湿地帯の北が摂津で、南が河内・和泉である。河内・和泉は倭の五王が開拓し、かれらの陵墓が百舌鳥・古市古墳群である。摂津には千里丘陵の東側に隣接して富田台地があり、5世紀前半に三島大溝が安威川左岸から長さ4kmに渡って掘削され、富田台地は開発された。

その開発者の陵墓が太田茶臼山古墳(三嶋藍野陵)の主とみられる。太田茶臼山古墳は近畿北部では最大で、全国でも21位の規模だが、培塚を備えており、竪穴式で、出土埴輪からも5世紀中葉の築造と推定され、比定される継体王の没年に合わない。その東の横穴式の今城塚古墳(高槻市郡家新町)が継体王の墓陵である。継体の今城塚古墳と太田茶臼山古墳は至近距離にあるので、被葬者に関連があるはずで、継体とその祖父ではないか。今城塚古墳造営の時は近畿では昆支王の古墳を始まりとする古墳のコンパクト化が浸透してきているが、今城塚古墳は周濠が巡らされ、大量の埴輪が列せられている前方後円墳で、当時としては古るめかしく感じさせるものだった。近くにある新池埴輪製作遺跡は、450年頃から550年まで、太田茶臼山古墳や今城塚古墳他の埴輪を生産した。

「水都大阪の歴史」より

左:5世紀以前

右:5世紀以降

下図:継体王墓からの出土した石棺の破片  。阿蘇ピンク石・竜山石・二上山白石の三種類の石棺があった。(今城塚古代歴史

[1]広帯二山式冠の金工技術ルーツは土屋隆史氏の研究「古墳時代の日朝交流と金工品」から百済・任那にあり、継体の源流は百済・任那に求められる。