2017年8月19日
卑弥呼が印綬された魏の時代、列島は弥生時代から古墳前期にさしかかる頃である。半島は辰国の地が三韓(馬韓、辰韓、弁辰)に変り、78の小国が林立していた。三韓は、馬韓出身の辰王を戴いていた。高句麗の南下により、半島の小国は統合され、馬韓から百済が興る。後になるが、辰韓から新羅が興る。そのような動きの中、辰王が列島にやってきて倭の五王となり、河内を開発し、産業を発達させ、その力で列島を統一した。倭の五王は南朝から半島と列島の都督を叙された。この時期、半島南部と列島は経済的に一体化し、河内の発展の背景には、半島の鉄器と縄文海退によってできた沖積平野という処女地があった。
(1)河内の大発展
韓式系土器が主に大阪府や奈良県で出土する。5世紀代のものが多く、出土場所は、手工業生産に関わる集落や、流通に関係する集落である。韓式系土器は形や製作技法において朝鮮半島で製作された土器と類似する。輸入されたものもあるが、渡来人によって作られた。古墳中期(4世紀末ー5世紀末)の河内周辺における発展項目には、轆轤、高温焼成が必要な須恵器、織物などの工業的生産、馬匹、鉄製品の急激な増産、鉄鍬、馬具の出現、甲冑の革綴から鋲留への技術の変化、茨田堤や堀江開削の大土木工事などがある。これらはすべて、渡来人によりもたらされたものである。産業が集約されると流通路が必要になる。流通路に配置された集落から韓式系土器が出土することから、渡来人技術者を組織し、配置する者が存在したことがわかる。
写真:韓式系土器(大阪府立近つ飛鳥博物館)
書紀に産業発展に関連する記述がある。応神3年の百済阿花王即位と百済本紀の阿莘王の即位392年を同一とみなすと、403年に 縫衣工女が百済から来ている。百済から弓月君が120県の人民を率いてきている。404年に百済より馬が飼育者(阿直岐)とともに来ている。405年に百済から王仁が諸々の典籍を持ってきた。409年には倭漢直の先祖阿知使主が子の都加使主と17県の自分の輩を率いてきた。426年には呉国から縫女の兄媛・弟媛・呉織・穴織が来ている。土木工事では、仁徳紀に宮の北部を掘って堀江(大阪市大川)を開いたこと、茨田の堤を築造した記述がある。堀江は宮の北側であるので、仁徳の王宮は上町台地にあったことが推定される。王宮の南門からまっすぐ丹比邑までの大通りを作った記述がある。山城の栗隈に大溝を掘って田に水を引き、河内の石川郡に大溝を掘って原をうるおし4万頃(頃=100畝、畝=6000平方尺)の田を得たとある。和珥池、横野の堤、猪飼津橋を作った記述もある。仁徳12年に鉄の盾・鉄の的が高句麗から送られ、射抜けるかどうか鉄の強さの実験をしている。
図:河内地図(大阪府立近つ飛鳥博物館資料)赤い丸印は韓式系土器の出土場所
河内湖:縄文海進により生駒山麓まで海が進み、その後、上町台地から砂州が伸び、弥生後期から古墳期にはほぼ塞がれ、淀川の一部や大和川が流れ込んで河内湖を形成していた。河内湖を排水するため大阪湾と繋ぐ水路を仁徳が開削した。これが堀江で、大阪市内を流れる大川である。
河内の発展は急激であり、文明が徐々に伝播してきて進化したという説明は不可能である。半島と列島の間で遺物に差がみられないほど密接な関係がみられるのである。それは流通が日常的であり、分業されており、工人や支配者が頻繁に行き来した結果であるとみられる。
五世紀初頭から末葉にかけて、倭の五王(讃・珍・済・興・武) は中国南朝から都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六國諸軍事を得た。半島と列島は一体になりえた。応神紀の弓月君渡来の模様は工人集団の移動が組織的に行われたことを示している。急速な産業の発展は、家内工業ではなく、地域的専業性を持つ大規模な手工業組織によるもので、流通組織を必要とした。副葬品の鉄鋌が河内と大和の古墳に集中していることから、河内と大和が鉄鋌の輸入を独占していた。鉄・鉄製品の供給を通じて、地方へ支配を強めたと見られている。甲冑の製作が変化し、奈良・大阪の工房で甲冑の集中生産があり、特に5世紀第3四半期の甲冑の副葬品の増大はそれまでの副葬品と不連続で、倭国統一と関係が深い。副葬品に武具が急速に増えたことは、軍事的な側面があったということだろうか。
河内湖の干拓や灌漑による農耕地の創出により、増える産業人口をまかない、先住の山裾の住民たちと住み分けをしながら、経済力をつけてゆくことができた。4世紀には古墳は山裾にあったが、5世紀には低地に移り巨大化した。倭の五王を中心とした新しい勢力が到来した痕跡である。古墳の巨大化と低地化は未利用の沖積平野を開拓する技術を持っていたということになる。各地の大河川の沖積平野も同様に絶好の開発対象になった。実際、ある程度の傾斜がある方が、水の誘導はやさしく、殆ど傾斜がない平地では、大規模な灌漑土木技術が必要であった。
河内では半島との貿易などのための難波津(港)の整備がなされた。
(2)倭の五王の列島統一
古墳の形は、出雲から北陸にかけては四隅突出型が多く、関東・中部では、前方後方型が多く、西日本、瀬戸内、九州北部では、前方後円墳が多かった。前方後円墳は、後に東日本でも認められ、岩手県が最北端で、南は鹿児島県にまで広がった。出雲地方にも、古墳前期(~4世紀後半)の後半には前方後円墳が現れる。古墳の共通の形式への移行や共通の副葬品から、被葬者間に関係があったことが窺え、政治的、身分的関係が、全国に亘ってあった。
古墳の大きさから、近畿に政権の中枢があった。近畿の大型前方後円墳は大和・柳本に集中していたが(3世紀ー4世紀)、佐紀古墳群に取って代わられ(4世紀中葉)、少し遅れて、古市・百舌鳥に集中が始まるものの(4世紀末葉)、佐紀古墳群はなお造営が続いた。4世紀末から5世紀末にかけて古墳の中枢は河内の百舌鳥・古市にあった。この時代に該当する政権は倭の五王であるので、倭の五王が百舌鳥・古市の古墳の主である。埼玉県稲荷山の鉄剣の銘文「獲加多支鹵大王」と熊本県江田船山の鉄剣の銘文「獲□□□鹵大王」は同一人物の統治を裏付け、稲荷山鉄剣銘文にある辛亥年(=471年)には全国統一されていたことになる。宋書の大明6年(462年)には五王の興が記述され、昇明2年(478年)には五王の武が上表しており、獲加多支鹵大王が興であるか武であるかは不明であるが、武は倭王を叙されていたので全国統一を続けていたと思われる。
写真:大山古墳(伝仁徳陵)明治時代に御陵整備事業があった
写真:大山古墳より出土した石棺のレプリカ(堺市博物館)。出土品はボストン美術館に運ばれている。
(3)倭の五王は辰王の後裔
倭の五王のいた河内は経済的な大発展があり、倭の五王は倭国を統一し、かつ半島と経済的に一体となった。倭の五王はなぜこのようなことができたかを中国史書をもとに探ってみる。倭の五王(讃・珍・済・興・武)は中国南朝に叙綬を願い出た。珍は都督倭・百濟・新羅・任那・秦韓・慕韓を求め、安東將軍倭國王のみを叙綬された。済は安東將軍倭國王に加え、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六國諸軍事を叙綬された。451年、済は安東大將軍に進んだ。倭國王武は都督倭・百濟・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七國諸軍事を求めたが、百済は許可されず、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六國諸軍事、安東大將軍倭王を叙綬された。479年、南斉から使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓〔慕韓〕六國諸軍事、鎮東大將軍をえた。 最終的に武は列島と、百済と高句麗を除く半島の支配権を許された。百済王には百済国のみの支配権が認められた。倭は百済に比べ広い範囲の除正を得た。
武は珍よりも広い都督を叙綬され、五王の支配権は拡大していった。倭の五王は卑弥呼(魏の時代)より新しいので、渡ってきたとするなら魏の時代以降となる。そのころ、半島を支配していて無くなった国に辰国がある。辰国の跡が三韓と呼ばれるようになった。辰国がなくなってからも辰王は存在し、馬韓から出ていた。三韓を構成する小国の王たちも馬韓種人とあるので、辰王は韓半島南部の支配権を引き続き有していたとみられる。高句麗が活発になって韓半島に政治的変化が起こり、伯済が馬韓から出て百済となった。辰王が都していたのは馬韓の月支国である。月支国は伯済より正統性があったが、伯済が馬韓を制したときには、辰王はとどまれず、列島に渡ったものと考えられる。これが倭の五王で、韓半島南部全域を支配する正統性を持っていたと考えることができる。この辰王が河内に渡来し経済的成功をおさめた。辰王がもと版図であった半島の領有権を主張した結果、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓を得た。百済をも領有しようとしたが、中国南朝は百済に百済都督を与えた。百済が百済都督を得たのは百済もまた正統性な辰王を主張したのである。なぜなら、百済の扶余隆の墓誌に辰朝人の記述があるからである。
宋書の倭国と百済の扱いを比べると、458年に百済蓋鹵王が求めた家臣の王候たち11人に対する除正には、全員の名前とその役職である冠軍將軍、征虜將軍、輔國將軍、龍驤將軍、寧朔將軍、建武將軍が記載されている一方、倭国の珍が425年~443年に倭隋等十三人に「平西、征虜、冠軍、輔國將軍」を求めたが、宋は「詔並聽」と答えているに過ぎない。また倭王済の時の23人に対しては、「除所上二十三人軍、郡」と述べるにすぎず、百済のほうが綿密である。
辰王は何時倭国に渡ったかを推定する。百済ができた時には辰王は半島を出ていると考えられる。中国史書にでる百済王の最初が近肖古王 (在位346-375)であるから、遅くとも近肖古王の前に辰王は半島を去ったものと思われ、346年が辰王の出半島の下限である。
(4)半島と倭の国際情勢の変化
魏書「國出鐵,韓、濊、倭皆從取之。諸巿買皆用鐵,如中國用錢,又以供給二郡」が示す通り、弁辰は鉄を産し、韓、濊、倭がこれを求め、取引貨幣のように使っていた。鉄は中国の二郡に供給されていた。三韓と中国の間に朝貢関係はなかったと捉えられている。魏書「從郡至倭,循海岸水行,歷韓國,乍南乍東,到其北岸狗邪韓國,・・・・始度一海,千餘里至対馬國・・・無良田,食海物自活,乖船南北市糴。・・・至一大國・・・亦南北市糴」の狗邪韓國(金官伽耶)は倭人の北限とみられ、鉄を取っていた倭人とは狗邪韓國の人である。南北市糴は、狗邪韓國と対馬・壱岐が列島の米と半島の鉄を取引していたことを指している。壱岐市(一大國)のカラカミ遺跡の鉄の精錬炉跡や鉄器はその痕跡である。
三韓時代までの大陸と倭の交流状況は、北から半島への民族流入が活発になり影響を受ける。西晋が4世紀初頭に終わると、中国は南北朝時代に入り、北朝は遊牧民政権、南朝は漢人政権となる。楽浪郡は313年に高句麗王美川王によって滅ぼされ、楽浪郡の中国人(王氏、韓氏)が南に下った。馬韓の一国であった伯済が馬韓を制し百済国となった(346年)。恒常的な高句麗の南下圧力があって、辰王が半島から倭国に渡り、河内の文明的発展があった。河内の発展は大陸の民族移動に起因するのである。
半島で倭系遺物が発掘されている。3世紀から5世前葉にかけては沿岸部に、5世紀中葉から6世紀にかけて内陸部にも達する。倭国人の活動が内陸部に達したのではなく、伽耶内部のネットワークが確立されるにしたがって、倭系遺物が再配分されたものである。 倭国に逃避した辰王が大量の倭国民を引き連れて半島に移動したというようには考えられてはいない。辰王は五王の時代に都督として半島を再び支配したのである。
(5)辰国とは
辰国は衛子朝鮮の南にあった。前3世紀からあったとされる。 馬韓・辰韓・弁辰はもと辰国である。馬韓は西にあり、54国からなり、北は楽浪に接し、南は倭に接する。辰韓は東にあり、12国からなり、北は濊貊に接す。弁辰は韓の南で12国からなり、南は倭と接する。合計78国。伯済はその一国。みな古の辰国である。馬韓が最大で、そこの国々が辰王を共立している。都は馬韓の月支国にあり、尽く三韓の地の王である。その諸国の王はみな馬韓種人である。(「韓有三種:一曰馬韓、二曰辰韓、三曰弁辰。馬韓在西,有五十四國,其北與樂浪,南與倭接,辰韓在東,十有二國,其北與濊貊接。弁辰在辰韓之南,亦十有二國,其南亦與倭接。凡七十八國,伯济是其一國焉。大者萬餘户,小者數千家,各在山海間,地合方四千餘里,東西以海為限,皆古之辰國也。馬韓最大,共立其種為辰王,都目支國,尽王三韓之地。其諸國王先皆是馬韓種人焉。」(後漢書))
辰韓は古の辰國である。(「一曰馬韓,二曰辰韓,三曰弁韓。辰韓者,古之辰國也。」(魏書と魏略))。
後漢書と魏書魏略は少し異なるが次のことは言える。三韓に分ける基準は人種・習俗であり、夫々が王を独自に戴いていたのではなかった。三韓の地を支配していたのは、古の辰国の辰王である。辰王は馬韓の月支国に都し、世襲であり、自ら王となることは出来ない。「辰」の文字は百済「辰斯王」や扶余隆の墓誌「百済辰朝人也」にも現れ、辰国・辰王の血筋は百済扶余家にも流れていた。世襲の辰王が倭の五王と百済の二つ経脈になったことについては「辰王位」のページで考察する。
図:辰国の位置(Wikipedia)
参考:
国立歴史民俗博物館研究報告第110集2004年2月「弁辰と伽耶の鉄」「韓国の倭系遺物」
大阪府立近つ飛鳥博物館展示ガイドブック「考古学から見た日本古代国家と古代文化」
大阪府立近つ飛鳥博物館平成28年度秋季特別展「大王と豪族」