2020年2月21日~2021年4月6日
加筆 2026年2月13日
日本は遼と国交はなかったとしているが、遼史百官志には日本国王府が記載されている。日本国王府に該当する機構を探すと院政に突き当たる。絵柄の一致や建物の遺構を不動点とすると、院政は本文で述べるようなものとなり、存外うまく説明できる。日本国王府がもたらした遼の軍事制度がその後の急激な武士社会を到来させたとみられ、遼の軍事(国民皆兵制、部族制、契約社会、騎馬)と日本の武士社会(武士の急増、氏族、御恩と奉公、騎射)の類似性を説明できる。自然発生した土地を守る地侍が結集して武士集団になって国家権力を握り、世界最大の艦隊であった二度の蒙古の来襲に勝てたとはとても思えない。また、遼の属国である高麗史に日本国使の記載がある。
遼史に日本国王府と書かれている
遼(916~1125)は契丹人の征服王朝である。南に華人の農耕民を、北に遊牧民を抱えている。南を治めるのに南面官、北を治めるのに北面官という異なった政治組織を持っている。遼史百官志の北面官には北面属国官があり、そのなかに高麗国王府、新羅国王府に続いて日本国王府が記載されている。また同書には、属国を支配する方法として「大きいものは王のように封じ、小さいものは部の(節度)使とする。酋長と契丹人は区別することを命じ、恩威を兼ねて制し・・」がある。制圧するのではなく、懐柔や包摂手法を取れといっているようである。
日本を取り巻く国際情勢
国交のある国は渤海のみとなっていた。その渤海が926年に遼 に征服され、東丹王国となった。渤海人民は分離移動されtた。東丹国は936年に遼に吸収された。渤海使の裴璆 が東丹国の使いとして丹後についたのが929年である。が入京出来なかった。この時、初めて朝廷は、渤海が遼に滅ぼされ東丹国という封国 になったことを知ったとなっている。
遼は後漢を滅ぼした(950)。宋へ遠征軍を送り「澶淵の盟」(1004) を締結して100年以上続く平和を得た。
半島方面では、高麗(918~ 1392)が興り、935年に新羅を吸収した。高麗が宋(960~)に使節を派遣して国交を結んだのは、宋と敵対していた遼にとって高麗侵攻の動機となった[。遼は高麗に派兵した(993年)。994年に高麗は遼に正朔をおこなうことを約束したが、宋との関係を続けた。 遼は高麗に侵攻(1011、1014~1017、1018)した。高麗は「藩属国となり毎年朝貢を怠らない」旨の謝罪を行い和睦した(1020年)。1022年以降、高麗は契丹の年号を用い、朝貢の義務を果たした。
日本は高麗と国交はないとされるが、高麗史巻七の文宗 10年(1055)「十月己酉朔,日本國使正上位權隸滕原,朝臣賴忠等三十人來,館于金州。」とあり、高麗に遣いを出している。
遼は興宗 (1031-1055)の時、軍事的進攻は弱まった。道宗(1055-1101)の時代、すべての官吏は主要な儀式において中国の宮廷衣装を着用することが義務付けられた。道宗自身も漢学、詩歌、儒教、仏教に深い関心を持つなど、文化的になった。
女真族は遼の時代、松花江・豆満江流域、咸鏡南道、咸鏡北道方面に居住域を広げた。農耕・漁撈・牧畜・狩猟に従事し、中国内地と高麗人参や獣の毛皮を交易していた。馬や金の産地でもあり、高麗や契丹と交易し、武器などを得た。1019年の刀伊の入寇は女真族によるものとみられる。契丹人王朝の支配が中国東北部におよぶと、女真族は、漁撈や農耕、養豚、狩猟を生業としていた生女真と遼の領土内に移されて遼の戸籍に入った熟女真に大別された。生女真から阿骨打が出て1115年には遼から自立して金を建国した 。
当時の平安京の状況
京都市の年表から当時の平安京域の状況を見る.。左右京職に京中にある空閑地を調べさせ,各地主に耕作させている(827年)。朱雀大路は昼間は牛馬の放し飼いの場となり、夜間は盗賊が出没した(862年)。九条坊門小路の東にあった鴨川唐橋が焼ける(879年)。初めて内裏が焼失し(960年)、この後内裏の焼失が相次ぎ、里内裏が多くなった。大風により羅生門が倒壊し(980年)、以後再建されなかった。内裏が1082年に焼失した。内裏再建は堀河天皇の時の1100年である。19年間、堀河天皇は里内裏ですごした。
『名前でよむ天皇の歴史』(朝日新書)によれば、天皇号は967年(冷泉院)から1779年(後桃園院)まで使われていなかったので、院政の時期は天皇号はなかったのである。平安京設立時にくらべれば、朝廷の実力は相当落ちていたとせざるを得ない。
刀伊の入寇の際(1019年)、高麗が保護した270名の日本人を高麗使が送り届け対馬に来た。朝廷は日本側の情勢「衣食ノ乏シキ」を知られることを警戒したほど経済的に貧しい状況であった。
白河法皇の実像とは
寂れた感のある平安京域を放置して、白河は鴨東や鳥羽離宮の開発をした。鴨東と鳥羽離宮は平安京を東と南から接し、都の出入り口をおさえる形で、内裏を包摂したのである。
建築の具体例をあげると、鴨東では法勝寺が1076年から造営される。法勝寺には1083年にモニュメント的な八角九重の塔が建てられた(高さ80m、基壇直径32m)。この塔は1091年に地震で倒壊したが1098年には再建されている。1095年には院御所の白河南殿が創建された。1118年には白河北殿が建立された。 鴨東 には尊勝寺(1102年)、最勝寺(1118年)、円勝寺(1128年)など六勝寺といわれる寺々が1149年まで建立され続けた。
平安京の朱雀大路を3㎞ほど延伸し、鳥羽作道が造られた。鳥羽離宮では、南殿(1087年)、北殿(1088年)、馬場殿(1090年)、泉殿(1092年)が造立された。御堂証金剛院(1101年)、三重塔と多宝塔2基(1109‐10年)が造立された。 院の近臣の貴族から雑人に至るまで、鳥羽離宮周辺に宅地が与えられ、仏所や御倉町なども造られたのであたかも都遷の如しといわれた。
内裏再建より鴨東・鳥羽開発を優先し、貴族を集め朝廷を包摂し、権力の掌握を図った白河は朝廷系ではないとできる。白河院政(1086~1129年)はあきらかに朝廷より上位の政権である。遼の支配思想「酋長と契丹人は区別することを命じ、恩威を兼ねて制し・・」は、現地政府をそのままにして包摂するように言っており、まさに院政を遼の機構ではないと言う方が難しい。院政とは遼の日本国王府のことで、白河が日本国王府の長であったと判断される。以下、更に検証していく。
写真:六勝寺全景模型(東から、平安京創生館 )西に延びる広い道は二条通で大内裏の南に接する
写真:法勝寺復元模型(平安京創生館 )法勝寺の八角九重の塔( https://www.kyoto-arc.or.jp/news/gensetsu/182zoo.pdf )は、池の中之島に配置された。高さ80m、基壇直径32mもあった。瓦が発掘されたので、国風文化ではなかった。復元模型図のような心柱形式だと基壇の直系32mは大きすぎる。同時代に遼には応県木塔があり、基壇の径30mが参考になる。法勝寺の塔は遼のシンボルタワーとみられる。
参考:応県木塔(Wikipedia)応県木塔は 高さ67m、径30mで、外観は5層であるが、内部は9層の八角塔である。心柱は存在しない。造立開始は1056年である。
写真:鳥羽離宮全景模型(南から、平安京創生館)
南殿、泉殿、北殿-、東殿、田中殿などからなる。 鴨川と桂川の合流地点で、山陽道も通る交通の要衝であった。平安京造営時に朱雀大路を延長した鳥羽作道も作られ、鳥羽は平安京の外港としての機能を持った。また、貴族達が狩猟や遊興を行う風光明媚な地としても有名であった。このため古くから、鳥羽には貴族達の別邸が建ち並び、市が立つなど、都市として発達していた。 当時の鴨川は鳥羽離宮南側にあり、巨椋池につながり、宇治の平等院とは水路で通交できた。北に延びる道は鳥羽作道で、朱雀大路を延伸したものである。
現在鴨川は、鳥羽離宮跡の西側を南へと流れているが、鳥羽離宮が造営された当時は、離宮の東側を南に流れ、その後徐々に西南へ向きを変えて行ったらしい。
朝廷と院の二重権力構造
次の密貿易事件を見ると朝廷は権力を失っていない。朝廷は白河に牛耳られたわけではない。大安7年(1091年)と大安8年に日本は来貢していると遼史に書かれている。この遣使は大宰権帥で正二位の藤原伊房が1094年に密(私)貿易をしたかどで罰せられたことに対応する。伊房は従二位に降格のうえ停職を命じられた。復位が許されたものの4代にわたり公卿に上ることはできなかった。伊房は白河に仕えた賢臣三房の一人である。この事件は、日本国王府(白河)が遣使を出したが、朝廷としては認めなかった。つまり、日本国王府と朝廷の二重権力構造があった。朝廷にとっては朝貢が遼の属国を意味するので認めなかったが、朝廷には白河本人を罰する力はないので、朝廷に身分を持つ白河派の伊房を罰したと解釈できる。
最初に来た遼人は?
平等院(1052年)の平面プランは中国東北部の空想の鳥、鳳凰をモチーフにしている。鳳凰堂の屋根の鳳凰の装飾は遼文化に類似のものがある。また、遼の重臣・耶律羽之(890~941年)の墓に描かれた花の文様が、平等院の鳳凰堂の宝相華とよく似ていることが、九州国立博物館の研究員によって指摘され、遼の影響は白河以前からあった事が示された。
日本国王府が記載されている限り、遼が日本に使節を派遣したと考えられる。日本では、大昔から海外の外交使節を迎え入れる専用の館が建てられている。平安京も鴻臚館を立てている。平等院は遼使節を迎え入れる館ではないかと思える。建築のために絵師を含む集団が遼から到来し平等院をデザインしたのではないか。平等院完成時、遼の使節が到来したものと推定される。使節を送り返す時には送使が出されるが、高麗史の1055年「十月己酉朔,日本國使正上位權隸滕原,朝臣賴忠等三十人」がそれに当たるのではないか。
あるいは、「日本は高麗と国交がなかった」は朝廷としては使いを出していない意味であるから、権力者が私的に國使を派遣したことになる。1055年当時の権力者は平等院を建てた頼通(992-1074)である。平等院は別荘ではなく政治拠点と解釈される。平等院を拠点に頼通は私的に高麗を中継して遼と接触し、遼人が往来した可能性も考えられる。
白河(1053ー1129年、在位:1073~)は後三条天皇が皇太子の時代に妃の藤原茂子から生まれている。その時の天皇は後冷泉で、後冷泉には1059年に子が生まれているが、唯一の男子であるにもかかわらず、白河天皇の近臣となる高階為家の養子となって高階為行と名乗り一生を終えている 不思議がある。
契丹人と女真族の関係:遼には契丹人とそれに従えられた女真族があった。契丹人は、性や結婚に関して平等主義的で、女性は狩猟を教えられ、夫が不在の時には家族の財産の管理をし、軍事的地位をもった。結婚は手配されたものではなく、女性は最初の結婚で処女である必要はなく、女性は離婚して再婚する権利を持っていた。契丹人は女真族を虐めた。Wikipedia(Khitan)によると、遼の使節は女真族の未婚の女性の性接待を受けた。それは慣習に過ぎなかったが、女真族の貴族にその妻の売春接待を強要し、それが理由で女真族は後にたちあがり金王朝(1115~1234年)をつくり、遼王朝を滅ぼすに至った。
鳥羽離宮は離宮か?
離宮の呼称は出先の印象があるが、鳥羽離宮は東西1.7km南北1.2㎞で内裏より広く、法皇が優雅に暮らすには広すぎる。鳥羽離宮は京都の水運を抑える位置にあり、計画された路がある城郭とみられる。周辺には貴族から雑人に至るまで宅地が与えられ、仏所や御倉町なども造られたのである。鳥羽離宮の位置は京都の朱雀大路を通じて対峙しているように見える。特に瀬戸内海を通ってくる物資をチェックできる。逆に朝廷の管理を受けずに自由に貿易できる位置でもある。軍事的には北面の武士によって京都から防衛したと思われる。
北面の武士の創設時期(1099~1104年)は摂関家が衰退した頃で、後三年の役の白河裁定の翌年であり、朝廷が弱体化した時と重なる。日本国王府は軍事力を必要として、遼から導入した軍事制度が北面の武士ではないか。北面の武士を核に各地に軍兵を組織したと考えられる。1091年と1092年の連続の遼への来貢が軍事組織の調達に当たるのではないか。伊房に対する懲罰が密貿易という経済事件にしては重すぎることも参考になる。
遼の二つの王府が日本を覆う
奥州は女真族の交易活動の地に接しており、前九年の役(1051~1062年)と後三年の役(1083~1087年)は奥州が女真族の版図に加えられようとして起こったのではないかと推測される。白河院政の始まった1086年を日本国王府の成立年と見れば、1087年の終戦は遼の二つの王府(日本国王府、女真王府)による日本列島被覆の完成によるものと見ることができる。そうだとすると朝廷は戦勝せず終戦したことになり、費やした戦費の問題が残ることになる。実際、朝廷は後三年を義家の私戦として勧賞・戦費の支払いを拒否し、かつ、義家が役の間に貢納を行わずに戦費に廻していた事を、官物未納と咎め、義家の受領功過定を通過させなかったのである。戦費損失の持って行き場がなかったと解釈でき辻褄が合うのである。朝廷は義家に未納分を請求し続け、1098年 白河の意向で受領功過定が下り、朝廷の損失が確定し、義家一派は白河に付いた。これにより朝廷の財政は傾き、税の取り立て力を一部失い、没落していった。
前九年・後三年が収束して奥州藤原(1087~1189年)が起きた。奥州藤原の埋葬方法は朝鮮半島経由のものと全く違うので、南部日本と別民族と見ることは妥当である。これも二つの王府説を裏付ける。奥州藤原が17万騎を持っていても京都に軍事的進出をしなかったのは遼の王府間の争いになるからである。奥州藤原が平安京とは無関係に北方貿易(北宋や沿海州)をしていたことや、平泉が平安京に次ぐ人口を抱えていたことも二つの王府説によって説明できる。えさし郷土文化館のツキイチコラム(2016年4月4日) によれば、平泉遺跡群内に発見される道路は側溝を伴う本格的なもので 、平泉文化期の基準尺=0.3058メートルで測ると、道路幅は100尺、33尺、50尺、66.6尺、道路間隔は400尺、800尺であった。平安京の基準尺は平城京からのもので0.296メートルであるから、平泉は平安京とはルーツが違い、遼文化女真族の仮説を補強する。
遼の北面官は国民皆兵
遼の北面官は国民皆兵制である。奥州藤原17万騎は国民皆兵制によるものとすれば納得できる。ならば日本国王府も国民皆兵のはずである。遼の国民皆兵制が後の武士社会をもたらしたと考える事が出来る。武士集団は荘園などを守る侍が結集したものとされているが、短期間に国家権力を握ったことを説明するのは困難であり、組織的な母体を前提としなければならない。それを遼人の北面の武士に求めるのは自然なことである。遼の軍事組織を導入することは契丹人や女真族の組織経営できる軍人を導入すると言うことである。1274年と1281年の二度の元寇があったが、1281年の元軍は当時世界最大の艦隊であった。風が吹いたとはいえ、元軍に勝った鎌倉政府は強かった。それは彼らが契丹人であり、平家や平泉を殲滅する力を持っており、軍事組織が強固なものであった証でもある。
遼滅亡後の日本国王府の行方
遼は1125年に亡んだが、白河院は1129年までつづき、その後を鳥羽院が院政を敷いた。鳥羽離宮の造営は続き、勝光明院(1136年)が平等院を模写して造られ、金剛心院(1154年)が建てられるなどした。六勝寺の造営も続いていた。したがって、日本国王府は遼亡き後も存在したことになる。しかし、弱体化は避けられないから朝廷が復活してくる。鳥羽院の死(1156年)によって遼の日本国王府の弱体化は一層進む。復活してきた朝廷と、祖国を失った北面の武士団がこれに加わって内部抗争となり、保元の乱(1156年)、平治の乱(1160年)が起きたとできる。
①清盛
保元・平治の乱を通じて支配力を得た平家の拠点は京都六波羅である。六波羅を興した平正盛は北面の武士である。六波羅は鴨川の東にあり、京都への物流を監視できる場所で、鳥羽離宮のミニ版である。鳥羽離宮を定めた白河が家臣の正盛に京都の東を抑えるように指示したかのように見える。
平清盛は徳子を入内させ安徳を生んだ。天皇称号が消えていた時期に安徳は天皇号を使っている。清盛が福原に遷都し、日宋貿易に肩入れしたのは、祖父正盛が六波羅で都の物資の水上輸送を監視したこと、父忠盛が敦賀赴任で宋船の入港を監視したことに関連し、それを瀬戸内海航路に広げたもののようである。
清盛の福原遷都は安徳の居所を変えた意味で、日本全体を治める積りはなかった。もしその意図があるなら、福原のような狭い所を都に選ぶことはない。清盛は単に天皇を自分の権威の印として利用する意識しかなかったと読める。
➁後白河院
後白河は天皇になったとされるが、立太子を経ていない。美福門院へ養子に出した後白河の第一皇子が即位するには幼いので、それまでの中継ぎとして急遽即位したという。天皇血脈に無理に埋め込んだ形跡のようで、後白河が朝廷出身でないことは証明されたと同然である。
後白河が院となり、自分の皇子が二条天皇となり、平治の乱となった後、親子で二頭政治となった。没落する日本国王府と復活する朝廷の図式を表している。しかし、二条朝廷政権は瓦解し(1166)、後白河(日本国王府系)が復活した。
後白河は1160年、居所の法住寺殿造営に取り掛かかる。法住寺殿(14ヘクタール)は平家の六波羅の南に接し、まさに遼の関係者が集っている構図である。平等院を参考に両翼の出張った最勝光院を法住寺殿の中に建立した(1173)。自ら宇治に赴き、平等院の見取り図を閲覧している。平等院は遼と強い関係があり、後白河はルーツを誇示したかった。
後白河院は日宋貿易拡大に取り組んだ。天皇の外国人との接見はタブーとされていたが、福原で宋人と会っている(1170)。秀衡と組んだのは、奥州産の金を日宋貿易の輸出品にするためである。清盛は後白河に日本には生息しない羊と麝を献上している。宋から後白河院と清盛に供物が届けられた(1172)。その明州刺史の趙伯圭(皇帝の兄)による送文「日本国王に賜ふ物色、太政大臣に送る物色」の「日本国王」は後白河院、「太政大臣」は清盛を指す。「国王」は中国皇帝が周辺諸国に授ける臣下の称号であるが、返牒が出され答進物が送られた(1173)ので、後白河は宋の臣下を受諾した。これは後白河が朝廷系ではない十分な証拠である。
③源平合戦
源平合戦(1180~1185)に17万騎の奥州勢力の介入はなかった。源氏も平家も上層部は北面の武士のメンバーであるから遼出身である。源平合戦の時、女真族の奥州は金王朝(1115 – 1234)に属しているとみられ、源平の戦いは外国の内乱であるから奥州は介入しなかったのである。
後に頼朝が奥州を徹底的に滅ぼした事実は、頼朝は契丹人で、遼王朝を滅ぼした女真族に報復し、奥州を金王朝から取り戻したと判定させる。奥州藤原が逃亡した先は十三湊で、大陸(金王朝)に頼ろうとしており、やはり、彼らは女真族であると見てよい。源氏が平家を殲滅的に追撃したのを民族の違いに求めるとすれば、平家は女真族となる。平安期末から鎌倉政府成立までの抗争は、遼が崩壊して日本列島に残された契丹人が生き残りをかけて女真族を殲滅したと読めるのである。
④頼朝
平家と平泉を滅ぼし実権を握った頼朝は、東国を拠点にした。頼朝は1190年11月7日に入京し、法住寺殿の後白河法皇と会談した。頼朝は鎌倉と日本国王府との関係を協議したものと読める。1192年 3月に後白河法皇が崩御するとともに日本国王府は消滅したとみられ、後鳥羽天皇のもとで九条兼実が頼朝を征夷大将軍に任じた。頼朝は日本国王府系であるから、朝廷から官位を受ける理由がない。征夷大将軍は朝廷が一方的に出し、頼朝が朝廷のもとに下った印象操作の感がある。頼朝が征夷大将軍だった事実は吾妻鏡の原文が失われているので確認することができない。頼朝の時点では、京都は朝廷の亡骸であり、探題を置く必要性を感じなかったのであろう。
⑤後鳥羽上皇
後鳥羽が天皇になった時(1183)、安徳天皇は生存しており二人の天皇という状態が2年間あった。安徳の母徳子は清盛の娘すなわち女真族であるから外国人の血が混じり、平家が安徳と共に西国に逃れた機に、朝廷側が安徳を排除して血脈を戻そうとした可能性がある。
1192年の後白河院の崩御後は九条兼実が朝廷を主導した。後鳥羽は1198年に譲位し、23年間に亘る院政を敷いた。1202年兼実が出家し、後鳥羽上皇が治天の君となった。後鳥羽は鎌倉に介入し、幕府の者に朝廷側の役を任じたりしている。1203年には将軍実朝の実現に関与した。上皇と実朝は義兄弟関係となっており、実朝を取りこむことで幕府内部への影響力拡大を図った。
後鳥羽は1204からは京都内の五辻殿を居所としている。五辻殿は大内裏に近接しており(五辻通、千本東入)、朝廷出身を証明している。1205に設けた西面の武士は五辻殿内である。
1219に実朝が甥の公暁に暗殺されたことで後鳥羽と実朝の関係に終止符が打たれたが、頼朝の妹の曾孫にあたり、九条道家の子である藤原頼経を4代目の鎌倉殿として迎え入れさせるなど、婚姻によって鎌倉殿に公家の血を加えた。
1221年、後鳥羽上皇は、時の執権・北条義時追討を出し承久の乱を起こしたが、幕府の大軍に完敗。2か月後、19万と号する大軍を率いて上京した泰時によって、後鳥羽上皇、順徳上皇は流され、土御門上皇も自ら土佐国に遷った。院の皇子雅成親王、頼仁親王は配流された。仲恭天皇も廃され、替わって後鳥羽の甥茂仁王が後堀河天皇となった。後鳥羽院は隠岐に流される直前に出家して法皇となった。後鳥羽上皇の膨大な荘園は没収された。六波羅探題が設置され朝廷は監視され、幕府に従属させられた。朝廷は幕府をはばかって細大もらさず幕府に伺いを立てるようにさせられた。
以降の武家政治は契丹人が日本国を支配したとの結論になる。
遼のスケールや文化を感じさせる都市計画
遼の南京析津府(現在の北京)には白蓮潭が造られ、そのほとりに皇帝の離宮が建てられた。北京の北海は遼の白蓮潭が受け継がれたものである。また、遼の皇帝は、季節ごとに異なる場所にある離宮(行宮)を巡り、遊牧民の伝統として狩猟を行った。狩猟は彼らの生活、文化、そして軍事訓練の重要な一部で、行宮は水宮あるいは捺鉢(なちぼつ、移動する宮廷)と呼ばれ、 水辺や湿地帯が豊富な地域に作られた。このように、遼は広大な水辺を取り入れる文化を特徴としている。
摂関政治の建築にも池を内包する屋敷建築があったけれども、120メートル四方の邸宅内に小さな池があるというスタイルである。ところが平等院や鳥羽離宮、平泉においては、池や水辺を主体とした様式に突如変っている。平等院や毛越寺の池の広さはそれまでのものよりはるかに大きい。平等院は池の中之島に建っている。法勝寺八角九重の塔も池の中である。鳥羽離宮も水辺を求めている。これらは遼文化を想像させる。
契丹を連想させる武士社会の制度・風習・文化
最後に、遼が日本社会にもたらしたと思われる事柄を紹介する。
①鎌倉政府は13人の合議制である。他方、契丹の君長は構成する8部族の部族長を束ね、議会を開き独断をしない。遊牧民の金王朝が合議制であった。鎌倉の合議制は遊牧民に原点を求めることができる。
②それまで家系中心であった社会と全く異なる契約社会が中世日本で現れた。武士同士の主従関係は、御恩と奉公により成り立っており、主人の軍事行動に当たり家来が手勢を引き連れ参陣し、または戦場において軍功を挙げた場合(奉公)、主人はこれに対し、その「参陣」「軍功」が単なる私闘・私戦ではなく正当性のある「公戦」におけるものだと認定し、本領を安堵したり、新領地を恩賞として与えたり(新恩給与)すべきものとされていた。そのため、後日の恩賞のため、参陣や軍功の事実を証する必要が生じ、軍忠状のような文書が主人名にて発給されることになった。
③契丹の上級階級の女性は政治における地位や軍事的地位を持つことができた (Mote、1999) 。遼の影響は北条政子や巴御前や板額御前 の出現を説明できる。鎌倉時代にあっては、女性も男性と平等に財産分与がなされていた事実もあり(Wikipedia(巴御前))、契丹人社会の流れを汲むものである。
④鎌倉時代に描かれた絵巻物『男衾三郎絵詞』第2段には鎌倉時代の武士の様子が描かれ、「馬小屋の隅に生首を絶やすな、首を切って懸けろ」、「屋敷の門外を通る修行者がいたら蟇目鏑矢で追い立て追物者にしてしまえ(犬追物の的の代わりにせよ)」といった描写がある。それまでの日本にはなかった風物なのであろう。この残虐性は遊牧狩猟民契丹人由来と考えられる。
⑤実朝を襲った公暁がその切り落とした首を放さず持ち続けた話は有名である。このような行為も日本と異なる民族性からだ。武士に刀のイメージは江戸時代、その前は七本槍のように槍が主流、源平では那須与一や海道一の弓取りといわれるように弓矢すなわち流鏑馬(騎射)である。これも遊牧民文化を想起させる。
⑥死刑は律令制においては国家存立を脅かす大罪に対して適用され、天皇の権限であったのにたいし、武士社会では、一般化した。
⑦日本では1052年は末法思想元年と呼ばれ恐れられてはいたが、末法思想が実際に流行するには、社会不安が根底になければならない。異民族の流入や政治の弱体化は生に対する信頼の欠如を生み、社会不安が起きる。前九年の女真族の流入は社会不安の一因であり、西からの遼の王府支配、国民皆兵制、その後の武力集団の跋扈など、遼が朝廷を包摂した現象は、社会に新しい秩序を生み出すことなく、権力闘争の世界にはいり、民衆を不安に導いた。平安期末から鎌倉期にかけての念仏仏教現象は遼の侵入が主因であると考えれば腑に落ちる。