2020年2月21日~2021年4月6日
改定2025年2月1日
日本は遼と国交はなかったとしているが、遼史百官志には日本国王府が記載されている。日本国王府に該当する機構を探すと院政に突き当たる。微かな証拠と状況証拠からではあるが、院政と武士政治の誕生は、本文で述べるようなものとすると、存外うまく説明でき、遼の日本国王府がその後の急激な武士社会を到来させたとみられる。自然発生した土地を守る地侍が結集して武士集団になって権力を握り、世界最大の艦隊であった蒙古の来襲に勝てたとはとても思えない。
遼史に日本国王府と書かれている
遼(916~1125)は契丹人の征服王朝である。南に華人の農耕民を、北に遊牧民を抱えている。南を治めるのに南面官、北を治めるのに北面官と異なった政治組織を持っている。遼史百官志には北面と南面の政治機構が出ている。北面官には北面属国官があり、そのなかに高麗国王府、新羅国王府に続いて日本国王府が記載されている。また同書には、属国を支配する方法として「大きいものは王のように封じ、小さいものは部の(節度)使とする。酋長と契丹人は区別することを命じ、恩威を兼ねて制し・・」がある。制圧するのではなく、懐柔や包摂手法を取れといっているようである。
当時の平安京の状況
京都市の年表から当時の平安京域の状況を見る.。左右京職に京中にある空閑地を調べさせ,各地主に耕作させている(827)。朱雀大路は昼間は牛馬の放し飼いの場となり、夜間は盗賊が出没した(862)。九条坊門小路の東にあった鴨川唐橋が焼ける(879)。初めて内裏が焼失し(960)、この後内裏の焼失が相次ぎ、里内裏が多くなった。大風により羅生門が倒壊し(980)、以後再建されなかった。内裏が1082年に焼失した。内裏再建は堀河天皇の時の1100年である。19年間、堀河天皇は里内裏ですごした。
『名前でよむ天皇の歴史』(朝日新書)によれば、天皇号は967年(冷泉院)から1779年(後桃園院)まで使われていなかったので、院政の時期は天皇号はなかったのである。天皇号がなくなった原因は、唯一の朝貢国である渤海が926年に遼に倒され、919年の入京が最後となっており、皇帝を名のる意味合いがなくなったことが考えられる。平安京設立時にくらべれば、朝廷の実力は相当落ちていたとせざるを得ない。しかしながら、渤海を倒した遼に朝貢することは東夷の雄たらんとする平安京の矜持が許さなかったと思われる。これは、渤海使の裴璆 が東丹国の使いとして929年に丹後についたが入京出来なかったことに現れている。この時、初めて朝廷は、渤海が遼に滅ぼされ東丹国という封国 になったことを知ったのではある。
白河法皇の実像とは
上記のように寂れた感のある平安京域を放置して、白河は鴨東や鳥羽離宮の開発をした。鴨東と鳥羽離宮は平安京に東と南から接しており、都の出入り口をおさえる形で、内裏を包摂したのである。
建築の具体例をあげると、鴨東では、法勝寺が1076年から造営される。法勝寺には1083年にモニュメント的な八角九重の塔が建てられ、高さが80m、基壇直径が32mもあった。この塔は1091年に地震で倒壊したが1098年には再建されている。1095年には院御所の白河南殿が創建された。1118年には白河北殿が建立された。 鴨東 には尊勝寺(1102)、最勝寺(1118)、円勝寺(1128)など六勝寺といわれる寺々が1149年まで建立され続けた。 一方、鳥羽離宮のために、平安京の朱雀大路を3㎞ほど延伸し、鳥羽作道といわれるアクセス道路が造営されている。鳥羽離宮では、1087年に南殿が完成し,1088年には北殿が造立され,1090年には北殿内に馬場殿がつくられ,1092年には閑院の舎屋を移して泉殿が造立された。最初の御堂証金剛院(1101)が北殿の南辺に,三重塔と多宝塔2基が東殿郭内に造立された(1109‐10)。 院の近臣の貴族から雑人に至るまで、鳥羽殿周辺に宅地が与えられ、仏所や御倉町なども造られたのであたかも都遷の如しといわれた。
内裏再建より鴨東・鳥羽開発を優先し、貴族を集め朝廷を包摂し、権力の掌握を図った白河は朝廷系ではないとできる。白河院政(1086~1129年)はあきらかに朝廷より上位の政権である。遼の支配思想「酋長と契丹人は区別することを命じ、恩威を兼ねて制し・・」は、現地政府をそのままにして包摂するように言っており、まさに院政を遼の機構ではないと言う方が難しい。院政とは遼の日本国王府のことで、白河が日本国王府の長であったと判断される。以下、更に検証していく。
写真:六勝寺全景模型(東から、平安京創生館 )西に延びる広い道は二条通で大内裏の南に接する
写真:法勝寺復元模型(平安京創生館 )法勝寺の八角九重の塔( https://www.kyoto-arc.or.jp/news/gensetsu/182zoo.pdf )は、池の中之島に配置された。高さ80m、基壇直径32mもあった。研究では檜皮葺と想定されていたが、瓦が発掘されたので、国風文化ではなかった。同時代に遼には応県木塔があり、法勝寺の塔は遼のシンボルタワーとみられる。応県木塔は 高さ67m、径30mで、外観は5層であるが、内部は9層の八角塔である。造立開始は1056年である。
写真:鳥羽離宮全景模型(南から、平安京創生館)
南殿、泉殿、北殿-、東殿、田中殿などからなる。 鴨川と桂川の合流地点で、山陽道も通る交通の要衝であった。平安京造営時に朱雀大路を延長した鳥羽作道も作られ、鳥羽は平安京の外港としての機能を持った。また、貴族達が狩猟や遊興を行う風光明媚な地としても有名であった。このため古くから、鳥羽には貴族達の別邸が建ち並び、市が立つなど、都市として発達していた。 当時の鴨川は鳥羽離宮南側にあり、巨椋池につながり、宇治の平等院とは水路で通交できた。北に延びる道は鳥羽作道で、朱雀大路を延伸したものである。
朝廷と院の二重権力構造
次の密貿易事件を見ると朝廷は権力を失っていない。朝廷は白河に牛耳られたわけではないのである。大安7年(1091)と大安8年(1092)に日本は来貢していると遼史に書かれている。この遣使は大宰権帥で正二位の藤原伊房が1094年に密(私)貿易をしたかどで罰せられたことに対応する。伊房は従二位に降格のうえ停職を命じられた。復位が許されたものの4代にわたり公卿に上ることはできなかった。伊房は白河に仕えた賢臣三房の一人である。この事件は、日本国王府(白河)が遣使を出したが、朝廷としては認めなかった。つまり、日本国王府と朝廷の二重権力構造があった。朝廷にとっては朝貢が遼の属国を意味するので認めなかったが、朝廷には白河本人を罰する力はないので、朝廷に身分を持つ白河派の伊房を罰したと解釈できる。
最初に来た遼人は誰?
平等院の平面プランは中国東北部の空想の鳥、鳳凰である。鳳凰堂の屋根の鳳凰の装飾は遼文化に類似のものがある。また、遼の重臣・耶律羽之(890~941)の墓に描かれた花の文様が、平等院の鳳凰堂の宝相華とよく似ていることが、九州国立博物館の調査でわかったので、遼の影響は白河以前からあった事が示された。日本国王府が記載されている限り、遼が日本に使節を派遣したと考えられる。日本では、大昔から海外の外交使節を迎え入れる専用の館が建てられている。平安京も鴻臚館を立てている。平等院はそれまでの建築と全く異なるデザインで、遼使節を迎え入れる館ではないかと思える。建築のために絵師を含む集団が遼から到来し、鳳凰をモチーフに平等院は遼人がデザインしたものだろう。平等院完成後、遼の使節が到来したものと推定される。
白河(1053ー1129、在位:1073~)の生年は平等院完成の年である。後三条天皇が皇太子の時代に、妃の藤原茂子から生まれている。その時の天皇は後冷泉で、後冷泉には1059年に子が生まれているが、唯一の男子であるにもかかわらず、白河天皇の近臣となる高階為家の養子となって高階為行と名乗り一生を終えている 不思議がある。為行と白河は遼の使節の落胤なのだろうか。
遼の契丹人と女真族の関係
日本国王府を設置した遼はどんな世界であったのか。遼には上位に当たる契丹人とそれに従えられた女真族があった。契丹人は、性や結婚に関して平等主義的で、女性は狩猟を教えられ、夫が不在の時には家族の財産の管理をし、軍事的地位をもった。結婚は手配されたものではなく、女性は最初の結婚で処女である必要はなく、女性は離婚して再婚する権利を持っていた。契丹人は女真族を虐めた。Wikipedia(Khitan)によると、遼の使節は女真族の未婚の女性の性接待を受けた。それは慣習に過ぎなかったが、女真族の貴族にその妻の売春接待を強要し、それが理由で女真族は後にたちあがり金王朝(1115~1234)をつくり、遼王朝を滅ぼすに至った。遼の使節は自分たちの習俗を出先に持ち込む習慣があったのである。
近年の発掘によると、女真族の一派が10世紀から13世紀初頭にかけて、アムール川水系および沿海州の日本海沿岸部に進出しており、オホーツク海方面への交易に従事していた。また、1019年の刀伊の入寇の主力は女真族であったと考えられている。 ウラジオストクや豆満江は遼の女真族の王府の配下にあり、契丹人は女真族を使って勢力拡大を図っていたと見られる。
遼の二つの王府が日本を覆う
奥州は女真族の交易活動の地に接しており、前九年の役(1051~1062)と後三年の役(1083~1087)は奥州が女真族の版図に加えられようとして起こったのではないかと推測される。白河院政の始まった1086年を日本国王府の成立年と見れば、1087年の終戦は遼の二つの王府(日本国王府(平安)、女真王府(平泉))による日本列島被覆の完成によるものと見ることができる。そうだとすると朝廷は戦勝せず終戦したことになり、費やした戦費の問題が残ることになる。実際、朝廷は後三年を義家の私戦として勧賞・戦費の支払いを拒否し、かつ、義家が役の間に貢納を行わずに戦費に廻していた事を、官物未納と咎め、義家の受領功過定を通過させなかったのである。戦費損失の持って行き場がなかったと解釈でき辻褄が合うのである。朝廷は1098年まで義家に未納分を請求し続けた。1098年、 白河の意向で受領功過定が下り、朝廷の損失が確定し、義家一派は白河に付いた。これにより朝廷の財政は傾き、税の取り立て力を一部失い、没落していった。
前九年・後三年が収束して奥州藤原(1087~1189)が起きた。奥州藤原の埋葬方法は朝鮮半島経由のものと全く違うので、南部日本と別民族と見ることは妥当である。これも二つの王府説を裏付ける。奥州藤原が17万騎を持っていても京都に軍事的進出をしなかったのは遼配下の王府間争いになるからである。奥州藤原が平安京とは無関係に北方貿易(北宋)をしていたことや、平泉が平安京に次ぐ人口を抱えていたことも二つの王府説によって説明できる。えさし郷土文化館のツキイチコラムによれば、平泉遺跡群内に発見される道路は側溝を伴う本格的なもので 、平泉文化期の基準尺=0.3058メートルで測ると、道路幅は100尺、33尺、50尺、66.6尺、道路間隔は400尺、800尺であった。平安京の基準尺は平城京からのもので0.296メートルであるから、平泉は平安京とはルーツが違い、女真族である仮説を補強する。
遼の北面官は国民皆兵である
北面の武士の創設時期(1099~1104)は摂関家が衰退した頃で、後三年の役の白河裁定の翌年であり、朝廷が弱体化した時と重なる。日本国王府は軍事力を必要として、遼から軍事部門を調達し、それを北面の武士と言っているのではないか。北面の武士を核に各地に軍兵を組織したと考えられる。1091年と1092年の連続の遼への来貢が軍事組織の調達に当たるのではないか。伊房に対する懲罰が密貿易という経済事件にしては重すぎることも参考になる。
遼の北面官は国民皆兵制である。奥州藤原17万騎は国民皆兵制によるものとすれば納得できる。ならば日本国王府も国民皆兵のはずである。遼の国民皆兵制が後の武士社会をもたらしたと考える事が出来る。武士集団は荘園などを守る侍が結集したものとされているが、短期間に国家権力を握ったことを説明するのは困難であり、やはり何か組織的な母体を前提としなければならない。それを遼人の北面の武士に求めるのは自然なことである。1274年と1281年の二度の元寇があったが、1281年の元軍は当時世界最大の艦隊であった。風が吹いたとはいえ、元軍に勝った鎌倉政府は強かった。それは彼らが契丹人であり、平家や平泉を殲滅する力を持っており、軍事組織が強固なものであった証でもある。
遼滅亡後の日本国王府の行方
遼は1125年に亡んだ。鳥羽離宮の造営は続き、勝光明院(1136)が平等院を模写して造られ、金剛心院(1154)が建てられるなどした。六勝寺の造営も続いていた。したがって、日本国王府は遼亡き後も存在したことになるが、弱体化は避けられないであろうから朝廷が復活してくる。帰る国を失った北面の武士団がこれに加わって内部抗争となり、保元の乱(1156)、平治の乱(1160)が起きた。北面の武士団が乱を通じて支配力を獲得し、源平合戦(1180~1185)を起こすに至った。源氏も平家も上層部は北面の武士のメンバーであるから遼出身である。源平の戦いの時は、奥州の女真族は金王朝に属しているとみられ、源平の戦いは外国の内乱であるから介入しなかった。頼朝が奥州を徹底的に滅ぼした事実は、頼朝は契丹人で、遼王朝を滅ぼした女真族に報復したと判定させる。奥州藤原が逃げた先は十三湊であり、金王朝に頼ろうとしており、やはり、彼らが女真族であるとの見方は妥当である。さかのぼって、源氏が平家を殲滅的に追撃したのを民族の違いに求めるとすれば、平家は女真族となる。平安期末から鎌倉政府成立までの抗争は、遼が崩壊して日本列島に残された契丹人が生き残りをかけて女真族を殲滅したと読めるのである。
平家と平泉を滅ぼし実権を握った頼朝は、東国を拠点にした。頼朝は1190年11月7日に入京し、後白河法皇と会談した。後白河法皇は日本国王府の代表とみられ、頼朝は日本国王府との関連を協議したものと読める。 1192年3月に後白河法皇が崩御するとともに日本国王府はなくなったものとみられ、朝廷の後鳥羽天皇が台頭してきて頼朝を征夷大将軍に任じた。流れから言って、頼朝が朝廷から官位を受ける理由がないので、征夷大将軍は朝廷が一方的に出したニュアンスが強く、頼朝が朝廷のもとに下った印象操作の感がある。頼朝が征夷大将軍だった事実は吾妻鏡の原文が失われているので確認することができない。
日本国王府がなくなり、頭をもたげた朝廷は承久の変(1221年)で鎌倉に挑んで完敗した。鎌倉側は、三人の上皇、後鳥羽上皇の皇子を配流した。仲恭天皇を廃し、後堀川天皇をたてた。後鳥羽上皇の膨大な荘園を没収した。六波羅探題を設置して朝廷を監視し、朝廷を幕府に従属させた。幕府は朝廷を監視し、朝廷は幕府をはばかって細大もらさず幕府に伺いを立てるようにさせられた。以降の武家政治は契丹人が日本国を支配したとの結論になる。
契丹を連想させる制度風習文化
最後に、遼が日本社会にもたらしたと思われる事柄を紹介し、遼史日本国王府(白河院政)の説明を終わる。
①鎌倉政府は13人の合議制である。他方、契丹の君長は構成する8部族の部族長を束ね、議会を開き独断をしない。遊牧民の金王朝が合議制であった。鎌倉の合議制は遊牧民に原点を求めることができる。
②それまで家系中心であった社会と全く異なる契約社会が中世日本で現れた。武士同士の主従関係は、御恩と奉公により成り立っており、主人の軍事行動に当たり家来が手勢を引き連れ参陣し、または戦場において軍功を挙げた場合(奉公)、主人はこれに対し、その「参陣」「軍功」が単なる私闘・私戦ではなく正当性のある「公戦」におけるものだと認定し、本領を安堵したり、新領地を恩賞として与えたり(新恩給与)すべきものとされていた。そのため、後日の恩賞のため、参陣や軍功の事実を証する必要が生じ、軍忠状のような文書が主人名にて発給されることになった。
③契丹の上級階級の女性は政治における地位や軍事的地位を持つことができた (Mote、1999) 。遼の影響は北条政子や巴御前や板額御前 の出現を説明できる。鎌倉時代にあっては、女性も男性と平等に財産分与がなされていた事実もあり(Wikipedia(巴御前))、契丹人社会の流れを汲むものである。
④鎌倉時代に描かれた絵巻物『男衾三郎絵詞』第2段には鎌倉時代の武士の様子が描かれ、「馬小屋の隅に生首を絶やすな、首を切って懸けろ」、「屋敷の門外を通る修行者がいたら蟇目鏑矢で追い立て追物者にしてしまえ(犬追物の的の代わりにせよ)」といった描写がある。それまでの日本にはなかった風物なのであろう。この残虐性は遊牧狩猟民契丹人由来と考えられる。
⑤実朝を襲った公暁がその切り落とした首を放さず持ち続けた話は有名である。このような行為も日本と異なる民族性からだ。武士に刀のイメージは江戸時代、その前は七本槍のように槍が主流、源平では那須与一や海道一の弓取りといわれるように弓矢すなわち流鏑馬(騎射)である。これも遊牧民文化を想起させる。
⑥日本では1052年は末法思想元年と呼ばれ恐れられてはいたが、末法思想が実際に流行するには、社会不安が根底になければならない。異民族の流入や政治の弱体化は生に対する信頼の欠如を生み、社会不安が起きる。前九年の女真族の流入は社会不安の一因であり、西からの遼の王府支配、国民皆兵制、その後の武力集団の跋扈など、遼が朝廷を包摂した現象は、社会に新しい秩序を生み出すことなく、権力闘争の世界にはいり、民衆を不安に導いた。平安期末から鎌倉期にかけての念仏仏教現象は遼の侵入が主因であると考えれば腑に落ちる。