付録     遼史日本国王府(白河院政)

2020年2月21日~2021年4月6日


遼(916~1125)は契丹人の征服王朝である。南に華人の農耕民を、北に遊牧民を抱えている。南を治めるのに南面官、北を治めるのに北面官と異なった政治組織を持っている。日本は遼と「国交はなかった」とされているが、遼史百官志には「日本国王府」が記載されている。日本国王府に該当する機構を探すと院政に突き当たる。微かな証拠と状況証拠からではあるが、院政と武士政治の誕生は、実際は以下に述べるようなものとすると、存外うまく説明できる。遼の日本国王府がその後の急激な武士社会を到来させたとみられる。自然発生した土地を守る地侍が結集して武士集団になって権力を握ったとはとても思えないし、蒙古の来襲に勝てたとも思えない。


(1)遼史百官志北面官 

遼史百官志には北面と南面の政治機構が出ている。北面官には北面属国官が含まれている[注1]。北面属国官の説明として遼が制した属国と部官、大きいものは王のように封じ、小さいものは部の(節度?)使とする。酋長と契丹人は区別することを命じ、恩威を兼ねて制し・・・」[注2]がある。属国内の職名は以下のように順序だてて列挙されている。

属国職名総目:大王于越、左相、右相、惕隐(司徒)、太师、太师、司空(闼林)、部(には)節度使司節度使、節副度使、国(には)詳穏司、詳穏、都監、将、小将軍大部職名:并同属国(属国に同じ)、諸部職名:并同部族(部族に同じ)

日本国王府は以下の順序のなかで登場する。

諸国、・・・西夏国西平王府、高麗国王府、新羅国王府、日本国王府、・・・、大部、・・・回跋部大王府、抃母部大王府、黄龙府女直部大王府、・・・


(2)白河の実像

白河は「北面の武士」(1099~1104)を創設した。院政とは日本国王府のことで、白河が日本国王府の長であったと判断される。白河院政(1086~1129年)は朝廷の上に立った。遼の支配方式である「酋長と契丹人は区別することを命じ、恩威を兼ねて制し・・・」を参考にすれば現地政府をそのままにして包摂する方法を取るように言っている。

たとえば次の密貿易事件を見ると朝廷は権力を失っていない。遼史大安7年(1091)「九月・・己亥、日本国遣鄭元、鄭心及僧応範等二十八人来貢」があり、大安8年(1092)にも日本は来貢している。この遣使は日本史上の大宰権帥正二位藤原伊房が1094年に密(私)貿易をしたかどで罰せられることに対応する。伊房は従二位に降格のうえ停職を命じられた。復位が許されたものの4代にわたり公卿に上ることはできなかった。伊房は白河に仕えた賢臣三房の一人である。この事件は、日本国王府白河)が遣使を出したが、朝廷は認めなかった。つまり、日本国王府と朝廷の二重権力構造があった。朝廷にとって朝貢が遼の属国を意味するので認めなかったが、朝廷には白河本人を罰する力はないので、朝廷の身分を持つ白河派の伊房を罰したと解釈できる。

白河の活動拠点は鴨東白河 の法勝寺(1076~)等と鳥羽離宮(1086~)である。これらは平安京域に接し大内裏を南と東から押さえ包摂している。法勝寺の八角九重の塔(高さ80m、基壇直径32m、1083年 )は地震で倒壊(1091)するも再建された(1098)。院御所の白河南殿(白河泉殿)が創建された(1095)白河北殿が建立された(1118)。 鴨東白河 には尊勝寺(1102)、最勝寺(1118)、円勝寺(1128)など六勝寺といわれる6つの寺が1149年まで建立された。  鳥羽離宮は平安京の朱雀大路を3㎞ほど南に延長し(鳥羽作道)、造営された。南殿1087)が完成し,北殿(1088)が造立され,北殿内に馬場殿(1090)がつくられ,閑院の舎屋を移して泉殿(1092)が造立された。最初の御堂証金剛院(1101)が北殿の南辺に,三重塔と多宝塔2基が東殿郭内に造立された(1109‐10) 院の近臣をはじめとする貴族から雑人に至るまで,鳥羽殿周辺に宅地が与えられ,仏所や御倉町なども造られたのであたかも都遷の如しといわれた。白河は貴族を集め朝廷を包摂し権力の掌握を図った。

平安京域の状況を京都市の年表で見ると、左右京職に京中にある空閑地を調べさせ,各地主に耕作させている(827)。朱雀大路は昼間は牛馬の放し飼いの場となり,夜間は盗賊が出没した(862)。九条坊門小路の東にあった鴨川唐橋が焼ける(879)。初めて内裏が焼失(960)、この後内裏の焼失が相次ぎ,里内裏が多くなった。大風により羅生門が倒壊し(980),以後再建されなかった。内裏焼失(1082)。内裏再建は堀河の時(1100)。19年間、堀河は里内裏ですごした。この間に白河は八角九重の塔を含む鴨東の開発鳥羽離宮の開発をした。白河が朝廷系ならば、鴨東・鳥羽開発より内裏再建を優先するはずである。白河は朝廷系ではない人物と見れば筋が通るのである。

東からの六勝寺全景模型(平安京創生館 )西に延びる広い道は二条通で大内裏の南に接する

法勝寺復元模型(平安京創生館

法勝寺の八角九重の塔( https://www.kyoto-arc.or.jp/news/gensetsu/182zoo.pdf )は、池の中之島に配置され、当初、檜皮葺と想定されていたが、瓦が発掘されたので、国風文化ではなかった。同時代に遼には応県木塔があり、法勝寺の塔は遼のシンボルタワーとみられる。


応県木塔: 高さ67m、径30mで、外観は5層であるが、内部は9層の八角塔である。遼朝の第7代皇帝である興宗の外戚、蕭孝穆が建立した。塔が完成したのは、造立が始まった1056年から140年後であったとされる (Wikipediaより)。法勝寺の八角九重の塔はこのようなものではなかったか。

南からの鳥羽離宮全景模型(平安京創生館)

南殿、泉殿、北殿-、東殿、田中殿などからなる。 鴨川と桂川の合流地点で、山陽道も通る交通の要衝であった。平安京造営時に朱雀大路を延長した鳥羽作道も作られ、鳥羽は平安京の外港としての機能を持った。また、貴族達が狩猟や遊興を行う風光明媚な地としても有名であった。このため古くから、鳥羽には貴族達の別邸が建ち並び、市が立つなど、都市として発達していた。 当時の鴨川は鳥羽離宮南側にあり、巨椋池につながり、宇治の平等院とは水路で通交できた。北に延びる道は鳥羽作道で、朱雀大路を延伸したものである。

(3)日本国王府

遼王朝(916~1125)の契丹人は性や結婚に関して平等主義的で、女性は狩猟を教えられ、夫が不在の時には家族の財産の管理をし、軍事的地位をもった。結婚は手配されたものではなく、女性は最初の結婚で処女である必要はなく、女性は離婚して再婚する権利を持っていた。契丹人は女真族を従え女真族を虐めた。英語版Wikipedia(Khitan)によると、遼の使節は女真族の未婚の女性の性接待を受けた。それは慣習に過ぎなかったが、女真族の貴族にその妻の売春接待を強要し、それが理由で女真族は後にたちあがり金王朝(1115~1234)をつくり、遼王朝を滅ぼすに至った。遼の使節は自分たちの習俗を出先に持ち込む習慣があったのである。

近年の発掘によると、女真族の一派が10世紀から13世紀初頭にかけて、アムール川水系および沿海州の日本海沿岸部に進出しており、オホーツク海方面への交易に従事していた。1019年の刀伊の入寇の主力は女真族であったと考えられている。 ウラジオストクや豆満江は遼の女真族の王府の配下にあり、奥州は女真族の交易活動の地に接しており、女真族の版図に加えられようとして起こったのが、前九年の役(1051~1062)・後三年の役(1083~1087)とみられる。日本国王府のほうは西から日本列島を包摂した。白河院政の始まりである1086年を日本国王府の成立年と見れば、後三年の終戦(1087)は遼の二つの王府(女真王府、日本国王府)による日本列島包摂の完成によるものと見られる。

王府の包摂により後三年が終戦したなら、朝廷には戦果がなく、費やした戦費の問題が残る。朝廷が後三年を義家の私戦として勧賞・戦費の支払いを拒否し、かつ、義家が役の間に貢納を行わずに戦費に廻していた事を、官物未納と咎め、義家の受領功過定を通過させなかったのは、戦費損失の持って行き場がなかったと解釈される。更に朝廷は義家の陸奥守を解任し、義家は新たな官職に就くことも出来なかった。10年後の1098年、白河の意向で受領功過定が下りるまで、朝廷は義家に未納分を請求し続けた。 白河裁定により朝廷の損失が確定し、朝廷の財政は傾き、朝廷は税の取り立て強制力を一部失い、没落していった。義家一派は白河に付いた。

前九年後三年が収束して奥州藤原(1087~1189)が起きた。奥州藤原の埋葬方法は朝鮮半島経由のものと全く違うので、南部日本と別民族と見ることは妥当である。これも二つの王府説を裏付ける。後述するように日本国王府は契丹人によるものである。契丹人に虐げられていた女真族の奥州藤原が17万騎を持っていても京都に軍事的進出はできなかった。奥州藤原が平安京とは無関係に北方貿易(北宋)をしていたことや、平泉が平安京に次ぐ人口を抱えていたことも二つの王府説によって説明できる。えさし郷土文化館のツキイチコラムによれば、道路の幅と間隔を平泉文化期の基準尺=0.3058㍍で割ると、道路幅で100尺、33尺、50尺、66.6尺が、道路間隔で400尺、800尺の数値が得られ、都市計画が存在した。 

北面の武士の創設時期(1099~1104)は摂関家が衰退した頃で、後三年の白河裁定翌年以降であり、朝廷が弱体化した時と重なる。日本国王府は軍事力強化のために北面の武士を遼から調達し、それを核に各地に軍兵を組織したと考えられる。1091年と1092年の連続の遼への来貢が軍事組織幹部の調達に当たるのではないか。伊房に対する懲罰が密貿易という経済事件にしては重すぎることも参考になる。調達され遼の軍事集団が日本国王府の軍事部門を樹立した。遼の北面官は国民皆兵制であることも重要なポイントである。日本国王府は日本を国民皆兵にしたのではないか。各地に配置された軍兵は朝廷の地方官に扶養させれば可能である。その軍兵が後の武士社会の基盤となり、武士社会の到来となったとみられる。武士の自然発生説では短期間に権力を握るに至ったことを説明することは困難である。


(4)最初の遼人

遼仏教の中心は華厳経であり、清衡の金銀字一切経には華厳経 が入っており、女真族平泉の仏教は遼仏教である。清衡は中尊寺(1105着手)、基衡(~1157)は毛越寺、秀衡(~1187)は無量光院を建てた。無量光院は宇治平等院鳳凰堂と同型である。同型の建築物の中では平等院鳳凰堂が最も早い(1053)。平等院の平面図は中国東北部の空想上の鳥である鳳凰を模している。平等院は遼文化である。鳳凰堂の屋根の鳳凰の装飾は遼文化に類似のものがある。また、遼の重臣・耶律羽之(890~941)の墓に描かれた花の文様が、平等院の鳳凰堂の宝相華とよく似ていることが、九州国立博物館の調査でわかった遼の影響は白河以前からあった。遼の絵師が来た事実から、絵師を含む集団渡来したと想像される。鳳凰をモチーフにした平等院は遼人がデザインしたものだろう。日本国王府の記載は、遼が日本に使節を派遣したことを意味する。平等院は遼の使節の到来と関係があるのだろう。絵師を含む集団が派遣され遼デザインの寺を作り、完成を祝して使節が訪れ、しばらく逗留する運びとなる。

白河(10531129、在位:1073~)。白河の生年は平等院完成の年である。史学上、後三条の皇太子時代(尊仁)の妃藤原茂子から生まれている。その時の天皇は後冷泉で、後冷泉には1059年に子が生まれているが、(生まれてその日に亡くなった皇子以外では)唯一の男子であるにもかかわらず、高階為家(白河天皇の近臣となる)の養子となって高階為行と名乗り一生を終えている 。(為行と白河は遼の使節の落胤?)。1068年、白河は父帝即位とともに貞仁親王となり、1069年に立太子。1072年に後三条譲位により即位。1073年に後三条病没。父後三条とその母陽明門院は、白河の異母弟実仁、更にその弟の輔仁に皇位を継がせる意志を持ち、譲位時に実仁親王を皇太弟と定めたが、1085年に実仁親王薨去、1086年、白河は実子善仁を皇太子に立て即日譲位し、8歳の幼帝堀河1079- 1107 在位:1087- 1107 が生まれる。堀河崩御により、白河は堀河の皇子(白河の孫)を4歳の幼帝鳥羽1103- 1156 在位: 1107- 1123)を即位させ、つづいて曾孫を4歳の幼帝崇徳(1119- 1164 在位: 1123- 1142) に立てたことになっている。

『名前でよむ天皇の歴史』(朝日新書、遠山美都男著)によれば、村上天皇(-967)の次の冷泉院から光格天皇(1780-)の前の後桃園院まで天皇号は使われていなかった(例外はある)。呼称は「白河院」「後白河院」のように、退位後にゆかりの地名や建物名に「院」を足した名称で呼ばれた。白河は堀河に譲ってから白河院とよばれたことになる。鳥羽も院と呼ばれていることになり、同時に院が複数いた。院政とは帝でない者の政治、すなわち白河院政とは内裏ではないところで白河が権力を握っていたことを意味している。例えばの解釈であるが、日本国王府は遼の名称であるから認めないが、権力実体の存在は認めて、院と称しているのかもしれない。天皇号が消えていた時代、白河が帝に就いていた事実はどんな正式な資料によるのだろうか。


(5)日本国王府の存続

遼は1125年に亡んだが、鳥羽離宮の造営は続き、勝光明院(1136)が平等院を模写して造られ、金剛心院(1154)が建てられるなどした。六勝寺の造営も続いていた。日本国王府は遼亡き後も存在したことになるが、遼の消滅により弱体化し、朝廷が復活してくることになる。北面の武士団がこれに加わって内部抗争となり、保元の乱(1156)、平治の乱(1160)となった。北面の武士団が乱を通じて支配力を獲得し、源平合戦(1180~1185)を起こすに至った。源氏も平家も北面の武士のメンバーであり、遼出身である。源平の戦いの時は、遼はすでにないので女真族の奥州は金王朝に属しているとみられ、源平の戦いは埒外であった。頼朝が奥州を徹底的に滅ぼした事実、頼朝は契丹人で遼王朝を滅ぼした女真族に報復したと判定させる。奥州藤原が逃げた先は十三湊であり、金王朝に頼ろうとしており、彼らが女真族であると見るのは妥当である。さかのぼって、源氏が平家を殲滅的に追撃したのを民族の違いに求めれば、平家は女真族となる。平安期末から鎌倉政府成立までの抗争は、遼が崩壊して日本列島に残された契丹人が生き残りをかけて女真族を殲滅したと読めるのである。


(6)鎌倉は日本国王府の後裔

坂東を平定し、平家と平泉を滅ぼし実権を握った頼朝は、東国を拠点にしていた。京都すなわち日本国王府との関係が問題となる。頼朝は119011月7日に入京し、9日、後白河法皇に拝謁し、長時間余人を交えず会談した。頼朝は権大納言右近衛大将に任じられたが、12月3日に両官を辞している。日本国王府は頼朝を使って朝廷を制しようとしたのだが頼朝は辞した40日間の在京で頼朝の後白河院との対面は8回を数えた。日本国総追補使・総地頭の地位は、より一般的な治安警察権を行使する恒久的なものに切り替わった。翌年3月22日には頼朝に諸国守護権を認めた。12月14日、頼朝は京都を去り29日に鎌倉に戻った。11923月に後白河法皇が崩御し、7月12日、即位した後鳥羽天皇によって頼朝は征夷大将軍に任ぜられたが、朝廷が一方的に官位を出したニュアンスが強く頼朝が朝廷のもとに下った印象操作の感がある。頼朝には朝廷から官位を受ける理由がないからである。日本国王府には将軍職があり、これと異なる征夷大将軍が出されたのが事実なら、後白河亡き日本国王府は朝廷寄りの傾向が出てきたということだろう。頼朝が征夷大将軍だった事実は吾妻鏡の原文が失われているので確認できない。

実朝は12歳で三代将軍になった。実朝は右大臣昇進など、朝廷に官位で篭絡される。これに危機を覚えた北条は実朝を公暁(実朝の甥、僧)に暗殺させ、その他の頼朝直系を根絶やしにし、実権を握った。この行為は法なき王権闘争であり北条はもとより京都に従う意思はなく、北条は独立した政府であった。

西面の武士は、1200年ごろ後鳥羽上皇が北面の武士を模して結成した武力集団である。関東や在京の御家人を中心に調達された。承久の乱(1221)は後鳥羽上皇が北条にたいして起こした。この論考の流れから言えば、復活した京都が契丹勢力に挑んだのである。鎌倉契丹人はこの乱で完勝した。鎌倉側は、三人の上皇、後鳥羽上皇の皇子を配流した。仲恭天皇を廃し、後堀川天皇をたてた(しかし、天皇称号は途切れているので印象操作である。後鳥羽上皇の膨大な荘園を没収した。六波羅探題を設置して朝廷を監視し、朝廷を幕府に従属させた。幕府は朝廷を監視し、朝廷は幕府をはばかって細大もらさず幕府に伺いを立てるようにさせられた。以降の武家政治は契丹人が日本国を支配したとの結論になる。

鎌倉政府は13人の合議制で、複数人の評定衆で最高政務をおこない、独裁制を排除した。契丹君長構成する8部族の部族長を束ね、議会を開き独断をしない。遊牧民の金王朝が合議制であった。鎌倉の合議制は遊牧民に原点を求めることができる。1274年と1281年の二度の元寇では、1281年の元軍は当時世界最大の艦隊であったが、風が吹いたとはいえ、元軍に勝った鎌倉政府は強かった。それは彼らが契丹人であり、女真族を殲滅する力を持っており、元とは遊牧民同士で相手が読めていたのだろう。刀伊の入寇時の朝廷の対応とは大違いである。

鎌倉時代に描かれた絵巻物『男衾三郎絵詞』第2段には鎌倉時代の武士の様子が描かれ、「馬小屋の隅に生首を絶やすな、首を切って懸けろ」、「屋敷の門外を通る修行者がいたら蟇目鏑矢で追い立て追物者にしてしまえ(犬追物の的の代わりにせよ)」といった描写がある。それまでの日本にはなかった風物なのであろう。この残虐性は遊牧狩猟民契丹人由来と考えられる。「屋敷の門外を・・・」は遊牧民が定住させられた場合に思い起こす行動である。また、実朝を襲った公暁がその首を切り落として、放さず持ち続けた話は有名である。そのような行為が語り継がれうる習俗が東国にあるのも民族性からだ。武士に刀のイメージは江戸時代であり、その前は七本槍のように槍が主流、源平では那須与一や海道一の弓取りといわれるように弓矢すなわち流鏑馬(騎射)である。これも遊牧民文化を想起させる。

「契丹の上級階級の女性は政治における地位や軍事的地位を持つことができた 」(Mote、1999) の研究があり、北条政子や巴御前や板額御前 の出現を説明できる。鎌倉時代にあっては、女性も男性と平等に財産分与がなされていた(Wikipedia(巴御前))事実もある。中世日本において武士同士の主従関係は、御恩と奉公により成り立っており、主人の軍事行動に当たり家来が手勢を引き連れ参陣し、または戦場において軍功を挙げた場合(奉公)、主人はこれに対し、その「参陣」「軍功」が単なる私闘・私戦ではなく正当性のある「公戦」におけるものだと認定し、本領を安堵したり、新領地を恩賞として与えたり(新恩給与)すべきものとされていた。そのため、後日の恩賞のため、参陣や軍功の事実を証する必要が生じ、軍忠状のような文書が主人名にて発給されることになった。 律令制と全く異なる契約社会が到来したのである。このような社会秩序がどこから湧いて出るものかを考えれば、外国の制度としか言いようがないのである。

鎌倉文化(源平以降の源氏)はこれまでの日本の常識を覆すものであった。その背景は、状況証拠から、鎌倉政府は契丹人説を考慮すべきだと思う。


(7)仏教

遼は、仏教を重んじ、保護する政策をとっていた。もともと、契丹人は氏族制と結びついたシャーマニズムであったが、仏教を国教としたのである。契丹が氏族制から中国的な君主専制体制を目指すためには、域内の漢民族や渤海人と契丹人の融和をはかる必要があり、内陸部に漢民族を移住させる政策をとったが、移住先に仏寺を建設するなどし、超氏族的・超民族的な性格を有する仏教を国教として採用し、仏教を人心収攬の手段とした。この線で、法勝寺、鳥羽離宮、平泉を考えるべきである。

日本では1052年は末法思想元年と呼ばれ恐れられていた。平等院を建てた遼人によってはじまったのではないか。末法思想が流行する背景には、社会不安が根底にある。異民族の流入や政治の弱体化などによって生に対する信頼の欠如から社会不安が起きる。前九年の役が始まったこととも関係がある。北からの女真族の流入、西からの遼の王府支配と国民皆兵制、その後の武力集団の跋扈など、遼が朝廷を包摂した現象は、社会に新しい秩序を生み出すことなく、権力闘争の世界にはいり、民衆の不安を導いた。平安期末から鎌倉期にかけての念仏仏教現象は遼の侵入が主因であると考えれば腑に落ちる。

8)参考:日本国の置かれた状況 

「遼との国交はなかった」は朝廷として正式な国交はなかったという意味でしかない。この言葉は、まるで交流がなかったかのような印象を与え、日本の国内変化を単なる社会現象としてとらえさせる役割を果たしている。上で見たように、遼王朝は朝廷を包摂し、その後の政治をほしいままにしたのであって、この時代の大変化は社会現象ではない。海外からの勢力の流入が原因なのである。院政に至るころまでの朝廷の他国との関係を見ておく必要があるだろう。

(a)遼史

太祖4年(925年)十月丁夘唐以滅梁来告即遣使報聘庚辰日本國来貢辛巳髙麗國来貢 

道宗7年(1091年)九月己亥,日本國遣鄭元、鄭心及僧應範等二十八人來貢。 

道宗8年(1092年)九月丁未,日本國遣使來貢。 

(b)宋史

雍熙元年(984),日本國僧奝然與其徒五六人浮海而至 ・・・・ 二年,隨台州寧海縣商人鄭仁德船歸其國。 後數年,仁德還,奝然遣其弟子喜因奉表來謝曰:「日本國 ・・・」

咸平五年(1002),建州海賈周世昌遭風飄至日本,凡七年得還,其與國人滕木吉至,上皆召見之。世昌以其國人唱和詩來上,詞甚雕刻膚淺無所取。詢其風俗,云婦人皆被髮,一衣用二三縑。又陳所記州名年號。上令滕木吉以所持木弓矢挽射,矢不能遠,詰其故,國中不習戰鬥。賜木吉時裝錢遣還。

景德元年(1004),其國僧寂照等八人來朝,寂照不曉華言,而識文字,繕寫甚妙。凡問答並以筆札。詔號圓通大師,賜紫方袍。

天聖四年(1026)十二月,明州言日本國太宰府遣人貢方物,而不持本國表,詔卻之。其後亦未通朝貢,南賈時有傳其物貨至中國者。

熙寧五年(1072),有僧誠尋至台州,止天台國清寺,願留。州以聞,詔使赴闕。誠尋獻銀香爐,木槵子、白琉璃、五香、水精、紫檀、琥珀所飾念珠,及青色織物綾。神宗以其遠人而有戒業,處之開寶寺,盡賜同來僧紫方袍。是後連貢方物,而來者皆僧也。

元豐元年(1078),使通事僧仲回來,賜號慕化懷德大師。明州又言得其國太宰府牒,因使人孫忠還。遣仲回等貢絁二百匹、水銀五千兩,以孫忠乃海商,而貢禮與諸國異,請自移牒報,而答其物直,付仲回東歸。從之。

乾道九年(1173),始附明州綱首以方物入貢。


960年に成立した北宋は各地に貿易を管理する事務所を設立し、日本、高麗、南海貿易を行った。日本は894年の遣唐使廃止以来、1173年まで朝貢していない。貿易は民間となる。律令制では海外に出国するには朝廷の許可が必要であり(渡海制)、日本人が渡航することは禁じられていたので、貿易は外国人の来航によるもののみとなる。911年には年紀制 が導入され、海商が来航する間隔が規制された。遣唐使廃止後の日本が鎖国状態であった説は誤りである。朝貢貿易(国家独占貿易)は貿易量の拡大により機能しなくなっており、遣唐使を止めたのは、海商による貿易が伸びてきたからである。政府は貿易を大宰府を拠点に管理した意味は官吏(唐物使)が到着する船の荷を先取的に買い取る事である。年紀制は、貿易高が伸長し海商の船荷を政府が買い取る予算が足りなくなったからと見られる。海商は大宰府で取引すると年紀を勘定されるので、他の港に荷を下ろすことになる(私貿易)。貿易の管理不在が発生する。他国の文物(情報を含む)が政府が関与しない入る事態となっていたとみられる。 

984年に東大寺僧奝然が訪問している。奝然は年代紀により天皇の順番や日本地理を示している。奝然は帰国後、数年たって、弟子を遣り謝辞を述べるなど、まったく個人的に外交を行っている(朝廷への報告はあっただろう)。1002年に漂流して日本に至った周世昌は7年後に帰国した。ついてきた日本人に日本の風俗を聞いている。1004年には僧寂照が訪問している。大宰府が貿易の管理を行っていたが、1019年の刀伊の入寇の頃からの大宰府の機能は衰えた。宋の商人は主に博多や薩摩坊津、越前敦賀まで来航し、私貿易が盛んに行われていた。1026年、大宰府が明州(貿易管理の役所)に国表を持たずに遣いを出しているが、宋朝はこれを退けた。その後も朝貢されていない。貿易商によって日本の産品は中国に届いている。1072年は僧誠尋が宋を訪れている。その後も宋を訪れる者はみな僧である。1078年に僧仲回が来る。明州は大宰府の牒を得たといっている。綱首(博多の唐房に住み、船を所有して日宋貿易に従事した宋人のこと。1173年福原の外港にあたる大輪田泊を拡張し、博多を素通りさせ、交易船が直輸する。それまでは、博多の綱首が日宋貿易を中継していた。1173年の正式な交易は、明州の長官から方書・牒書が後白河法皇と清盛宛てに送付され、藤原永範返書し、後白河法皇と清盛が進物した。

(c)外国の海賊の増加

9世紀から11世紀にかけて日本は、記録に残るだけでも新羅や高麗などの外国の海賊による襲撃・略奪を数十回受けている。 刀伊の主力は女真族であった。東北部にいた靺鞨・女真系の人々は渤海と共存・共生関係にあり、産品を渤海を通じて宋などに輸出していた。女真族が日本海に姿を現すのは、926年契丹によって渤海が滅ぼされ、さらに985年には渤海の遺民定安国も契丹に滅ぼされ、契丹の進出と渤海が消失したことで女真などが利用していた従来の交易ルートは大幅に縮小を余儀なくされたことによる。さらに991年には契丹が鴨緑江流域に三柵を設置し、女真から宋などの西方への交易ルート閉ざしてしまったこともある。女真による高麗沿岸部への襲撃が活発化するのはこの頃からである。

(d)遼への認知度

日本紀略は929年12月に東丹(遼史巻60、「天顯元年(926年)二月改渤海國為東丹渤海が遼に征服された後の国名)の使節が丹後国竹野郡大津浜に来着したことを伝える。この派遣は、東丹が遼陽城に移った後の時期に当たることから、遷都後も日本海沿岸に東丹の支配が及んでいたことがわかる。使者はこれまで二度も渤海国使として来日したことがある者で、何故国名が変わったのかを問われ、渤海が契丹に征服されたことを知らせ新王の非道ぶりを訴えた。これを聞きとがめた朝廷は、主君を変えたばかりか、新主の悪口を言うとは不届きであるとして入京させず、追い返している。京都は日本の友好国渤海を遼が制して東丹とした事実を3年以上知らなかったとすると、 新事実を得たのに接見せず追い返したのは不思議な行為である。むしろ東丹と付き合うことによって遼と関係を悪くするのを恐れたであろう

将門(~940)が「実力者が天下を治める」典型例として遼の太祖(在位907-926)を挙げている。遼とは国交がないといいながら、将門には遼の太祖の情報は入っていたのだった。

(e)日本の外交方針

朝廷は宋に対して国表などを通じた正式な国交を避けている。東丹国使者都への迎え入れ避けている。この判断は遼を刺激することを避けていると読める。たとえば、高麗では926年に契丹に滅ぼされた渤海の世子大光顕の亡命を受け容れたことにより国交は途絶したものの無事であったが、960年に高麗は使節を派遣して国交を結んだことが、高麗侵攻の動機となった。こういう事態に至らないために朝廷は遼とは穏便に済ませたかったのではないかと思われる 。遼は高麗にも最初は使節を送っているのだから、日本にも遼使節は来たのである。平等院は使節を迎え入れるために建造したものとの想像は外れてはいないだろう

[1]北面官に属す官:北面朝官,北面御帳官,北面著帳官,北面皇族帳官,北面諸帳官,北面宮官,北面部族官,北面坊場局冶牧厩等官,北面軍官,北面辺防官,北面行軍官,北面属国官,北面部族官(大部),北面部族官(諸部)

[2]遼史原文「制,属国、属部官,大者王封,小者准部使。命其酋契丹人区别而用恩威兼制,得柔之道。考其可知者具如左。」