2024年11月30日
付録「遼日本国王府(白河院政)」では、遼が金王朝に征服され、日本列島に取り残された遼の武士団(北面の武士)は、生き残りをかけた争いとなり、その殲滅的戦いを契丹人(源氏)と女真族(平家)の民族の争いに求めた。鎌倉政権以降は、日本は遼人、主に源平の戦いで勝利した契丹人の世界となったとみられる。承久の乱で徹底的に北条の監視下に置かれた朝廷などの公家は京都の一政治勢力に格落ちし、遼人の政治は徳川政権の終わりまで続くのである。
この間、朝廷が武士の棟梁に征夷大将軍を任命するなどの行為は、権威を保ちたい朝廷側の工作に過ぎず、日本の覇者を目指した者たちは朝廷から権威を授けてもらうなどの考えは毛頭なかった。むしろ、日本の頂点を目指した者たちは国際社会の中での地位を得ようとしたはずである。
明史を見てみると、足利も大内も大友も皆、源姓を名乗っている。なぜ、源姓なのかを考えるに、公式の場、つまり国際舞台に名乗りを上げる場合には、本来の由緒ある姓を名乗る、いわゆる紋付き袴を履く訳である。国内で、出自を言ってもみんな源姓であるから区別がつかないので、土地に根差した名前等を名乗っていたのであろう。朝廷が没落する中、日本の覇者を巡り、彼らは、国際舞台で如何に認知されるかが念頭にあった。そう考えれば、自分たちは大陸の出自で、姓は源なのだ、つまり、大陸の元契丹人だと。秀吉の場合は平姓を名乗ったので、元女真族だと。
義満も秀吉も明から日本国王を任じられている。中国は属国であれ、蕃国であれ、その国を実効支配する者を国王と認定している。
義満は明から征夷大将軍ではなく征夷将軍を与えられている。征夷大将軍は朝廷からのものである。大内は山口都督を授けられた。都督も征夷将軍も明が授けたので冊封を意味する。朝廷は、他国の権力が授けた称号であるからあずかり知らぬという態度を取り、大名は勘合貿易と言う経済面の利権を手にするために明に近づいたのだとするが、朝廷も遣唐使などは貿易独占であったのだから、大名を謗ることは出来ない。
秀吉は1595年に日本国王に任じられている。同時に、行長、秀家、長盛、吉継、家康、輝元、秀保が都督僉事 を任じられている。秀吉の朝鮮出兵は、明を攻略するための一歩であり、中国を制覇後にどの都市を誰に任せるかまで予定していた(例えば後陽成を北京に)。これを大戯けと一笑に付すことはできない。彼に、自分は女真族の末裔と言う認識があるならば、満州人がたびたび中国を支配地にしていた事実から、中国支配を本気で考えていたのかもしれないのである。
歴史を巻き戻せば、義経が大陸に渡ってチンギスハンになったという説も、源義経が契丹人であることを考えれば、日本を追い出されて、満州にわたり、チンギスハンになったかどうかは別にして荒唐無稽な話ではないのである。
日本史は源氏や平家を源平藤橘と束ねて親王の末裔としている。これによって、海外に出た武士の行動を「国内にあるべきものが不遜にも」とか、「経済的野心」とかの雰囲気を醸し出しているが、実のところは印象操作なのだろう。日本の覇者となった武士は遼の末裔であり、実際国際的であったのである。