2026年3月24日
付録「遼史日本国王府(白河院政)」では、遼が金王朝に征服され、日本列島に取り残された遼の武士団(北面の武士)は、生き残りをかけた争いとなり、その殲滅的戦いを契丹人(源氏)と女真族(平家)の民族の争いに求めた。鎌倉政権以降は源平の戦いで勝利した契丹人の世界となったとみられる。承久の乱で徹底的に北条の監視下に置かれた朝廷の公家は京都の一政治勢力に格落ちし、遼人の政治は徳川政権の終わりまで続くのである。
一方、女真族は平家落人として九州などに散り、そのネットワークは倭寇となり、版図を海上や海外に求めたとできる。倭寇は単なる海賊ではなく、その強さや継続性の源泉を平家女真族ネットワークに求めれば理解しやすい。平家女真族は明などを侵し、中国から敵視された。源氏はその倭寇を取り締まる明冊封体制下の協力者と見ることができる。倭寇の初出は高麗史高宗10年(1223)5月の「倭寇金州(倭が
金州を寇す)」であるから、時期的にも平家滅亡に合う。
日本史は源氏平家を源平藤橘と束ねて親王の末裔としている。これは印象操作で、海外に出た彼らを「国内にあるべきものが不遜にも」と思わせ、「経済的野心」に行動の原点を求めさせているが、武士は遼の末裔であり国際的であったのである。
義経が大陸に渡ってチンギスハンになった説も、源義経が契丹人であることを考えれば、満州にわたり、チンギスハンになったかどうかは別にして荒唐無稽な話ではない。
源姓
日本の政治は源氏(契丹人)に移った。足利義満は明から日本国王臣源道義と任じられている。義長は山口都督(明史「於是山口都督源義長具咨送還被掠人口」)を授けられた。明史では彼らは源姓である。また徳川家康は源家康を名乗っている。自分たちは大陸の出自で、姓は源、つまり、元契丹人だと称していることになる。日本国王も都督も冊封であるから、彼らは中国の冊封体制の中で地位を確立しようとしたと読める。徳川が中国の冊封下である証拠はないが、平秀吉一派を制し(次項参照)、朝鮮通信使を定期的に受け入れていたのは明の属国の下流であるから中国冊封下にあったと思われる。
平姓
平家は、源氏に追討され西海に散ったとされるが、平家落人伝説があるように九州など各地に落ちのび、女真族ネットワークを形成したのではないか。刀伊の入寇の女真族のネットワークは倭寇ネットワークと変じ、中国沿岸、朝鮮半島沿岸を襲ったと見られる。女真族は内陸の契丹人とは違い海洋に面した地域に住んでいた関係で航海技術がある。
秀吉
明史「自言爲平秀吉,薩摩州人之奴」から秀吉は平姓を名乗っているので、秀吉は女真族と思われるが、女真族ならば倭寇ではないのかと想起される。秀吉が薩摩の人は意外である。尾張の出自は徳川体制下の儒学者が書いた太閤記がもとで、太閤記は豊国廟を破却し、豊国神社を廃絶した家康の意向を汲んでおり、秀吉の真実が書かれているわけではなく、儒教的立場から出世物語として政治的に利用されたのであるから、尾張のほうが信憑性が薄い。薩摩州人之奴は下僕を意味し、身分がなかったことを告白しているのだから明史のほうが本当なのだろう。平秀吉を薩摩人とみると、見方がガラリと変わり、何もかもがダイナミックに繋がるのである。
後期倭寇の拠点に薩摩があるので、秀吉を倭寇の頭目と見る事が出来る。秀吉が倭寇の頭目であれば、明攻略は彼の宿願である。まず、彼は日本統一を果たす。太閤記では彼の知略が強調されるが、彼の後ろには倭寇ネットワークという兵站組織があることになる。それによって各地の武将を攻略できたのである。日本の覇者になることが目的ではなく、明攻略のための経済基盤の確立が目標である。彼の金・銀・銅の鉱山の支配の意味も見えてくる。国際的物資を獲得して、倭寇ネットワークによって貿易し、富(=戦力)を蓄えることが目的だった。秀吉とは倭寇が富を蓄え、明攻略の足場を日本で築いていたのである。彼の海賊禁止令は貿易の独占であり、御朱印船貿易は彼の倭寇ネットワークの言い換えである。秀吉の朝鮮出兵は明国を支配下に置くための一歩である。嘉靖大倭寇(1540年~1565年)では明国内に呼応者がおり大事件になったが、秀吉の朝鮮出兵でも明国内に呼応者ネットワークが存続していたと見れば、決して無謀な侵略ではなかった。実際、加藤清正は1593年、明攻略の道の偵察のため豆満江を越え、1万の女真族(オランカイ)と戦っておりその強さを実感している。そのあと、女真族のヌルハチは明と朝鮮に支援を申し出て、逆に警戒され断られている。秀吉が死ななければ、日本、明+朝鮮、女真族の三つ巴がどうなったか予測できない。後金を興すヌルハチは秀吉の朝鮮出兵のとき女真族統一の真っ最中だったのである。秀吉は中国のどの都市を誰に任せるかまで予定していた(例えば後陽成を北京に、自分は最大の貿易拠点の寧波)のも大戯けと一笑に付すことはできない。文禄の役のあと1595年に明から秀吉は日本国王に、行長、秀家、長盛、吉継、家康、輝元、秀保らが都督僉事 に任じられた。つまり、倭寇が「明属国」を宣旨されたのであるから、受け入れられるはずもなく、慶長の役に突き進んだ意味も解るのである。
秀吉の支配を倭寇の支配とみると、徳川が豊国廟を破却し豊国神社を廃絶して国民の記憶から遠ざけ、秀吉を出世物語に貶めた意味は、単に政敵というより、女真族勢力が再び結集しないように国民から秀吉を忘れさせる意図があった。徳川の鎖国政策は倭寇対策政策だったのかもしれないのである。
明治維新
英国は徳川を潰すために、徳川から封じられていた倭寇ネットワークを利用したと見る事が出来る。大英帝国ならば、明史を研究し、日本の勢力図を民族的な観点から見ていたであろう。英国が薩摩や長州に目を付けたのは彼らが徳川が恐れていた倭寇の国だからである。彼らなら徳川を倒す強い動機があろうと。成り行きで薩摩や長州が選ばれたのではなく、英国は最初から薩摩や長州が目当てであったと思われる。その主たる方法が賠償金を課すことであった。賠償金で縛られた薩摩と長州は英国の思い通り、徳川を倒し新政府を作った。
徳川時代は源氏契丹人ネットワークにより海洋を忘れさせられた日本となったが、大英帝国らによって海を版図とする平家女真族ネットワークは再び目を覚まし、国家主権を奪い、海洋国へと突き進んでいった。明治政府には数千人の雇われ外国人がおり、内500~600人は政府が雇ったものである。英国は日本を極東での英国の軍事代行者とした。江華島事件を起こさせ朝鮮半島への介入をさせた。日清戦争で勝利を得た日本は大きな賠償金により発展するが、日露戦争では逆に賠償金無しの戦勝という借金漬けに嵌るのである(国際的視点からの近現代史)。