2025年4月23日
倭の五王の武には直系がなかったとみられ、倭の五王勢力は継体王を、昆支系は日十王を擁立し、日十大王が誕生した。503年~599年の間、中国史書に倭の記述が無いのは倭が朝貢しなかったからであるが、少なくとも日十大王になってから倭国は半島の都督権を取得する意図はなかったことになる。昆支王が到来してから倭国は百済の属国となっていったと解釈せざるを得ない。継体王と日十大王との関係を述べる。継体は殺害されたという情報が古くからある。
(1)継体は大王でなかった
倭の五王である讃・珍・済・興・武は中国南朝に叙綬を願い出た。
珍は438年、使持節都督倭百済新羅任那秦韓慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王を求め、安東將軍倭國王のみを叙綬された。
済は443年、安東將軍倭國王を得、451年、使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事を加えた。同年さらに、安東大將軍に進んだ。
武は477年、使持節都督倭百済新羅任那加羅秦韓慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王を求めたが、478年、使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭王を叙綬された。
武は479年、南斉から使持節都督倭新羅任那加羅秦韓〔慕韓〕六國諸軍事安東大將軍倭王そして鎮東大將軍をえた。
武は502年、梁から征東將軍を与えられた。征東將軍でしかなく、都督などの爵位は得られなかった。書紀の継体紀と欽明紀では任那地方が百済と新羅の領土となるので武は都督を失っているのである。この記述を最後に600年まで中国史書から倭国の記述が消える。
倭の五王政権は百済都督を欲したものの終に得ることはなかった。にもかかわらず、継体紀には任那4県が無条件に百済に割譲されたことが記述されている。この百済に対する変節を書紀は説明していない。欽明紀には任那が新羅に取られてゆくことが記述されているが、こちらは悲壮感が溢れており、書紀の立ち位置はあきらかに百済寄りにある。百済に対するこの変節は見過ごすことのできないものである。
書紀は継体を応神の5世孫としているから、継体は倭の五王系である。継体が倭国の最高権力をもっていたなら、彼の意思で百済国に任那4県を無条件割譲したことになる。百済都督を欲した倭の五王系統の政権としてはありえないことである。したがって継体は最高権力者ではなく、別に最高権力者がいた可能性が考えられる。もし、最高権力者が百済配下であれば、任那西半分の百済への無条件割譲、東半分を新羅にとられる悲壮感を説明できる。また、倭国が600年まで朝貢しなかった事実は、少なくとも半島の都督を得る意思はなかったのであるから半島を利しており、この事も説明できる。そのような権力者を探してみると存在するのである。
(2)日十大王の存在
隅田八幡神社に人物画像鏡が保存されており、その銘文中に日十大王が書かれている。この銘文は次の通りである。
「癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作此竟 」
訳:癸未の年八月 日十大王の年、男弟王が意柴沙加の宮におられる時、斯麻が長寿を念じて開中費直、穢人今州利の二人らを遣わして白上同二百旱をもってこの鏡を作る 。
以下に、この銘文を解釈する。
斯麻は武寧王陵墓誌から百済武寧王(斯麻、在位:502-523)である。武寧王生存中の「癸未年」は503年であるから、この鏡は武寧王が国王として倭国の男弟王に宛てたものである。「癸未年八月日十大王年」はその国を支配する王名を用いて時代を区切る方法で、503年8月の大王は日十大王であると言っている。従って、この鏡では男弟王は日十大王の下にある。ここまでは確実だが、「男弟王」が誰かによって意味合いが異なる。魏志倭人伝に「男弟」があり、卑弥呼の弟を指す言葉と解釈されている。また、固有名詞として読めばこれは百済で作られたメッセージであるから本来百済語での発音となるが、日本語で解釈すれば「男大迹」(ヲホド)と「男弟王」(ヲオト)は近いので男弟王は継体王と言えるかもしれない。男弟王が誰であるかにかかわらず、隣国の王が日十大王下の男弟王に直接メッセージを送ることは、内政干渉であるから、日十大王に対して非礼である。しかし鏡が贈られた事実から、日十大王は武寧王のメッセージを送る行為を容認している。このことは日十大王が武寧王の制御下にあることを意味している。
書紀は507年に 継体王が樟葉に宮を造ったことをもって王に就位したとしている。前王が亡くなり空位が生じたので応神5世孫の継体が高い人格によって推挙されたのである。しかし、日十大王と重なり、鏡と書紀の双方が事実とすると、継体王は実力を持って存在し、日十大王は総意によって大王になったわけではなかった。
倭の五王の時代にワカタケル大王が存在するので、五王は大王を称していたとできる。また、倭の五王の宮は仁徳紀の記述から上町台地にあり、大王を継承した日十大王も上町台地にいたとしたい。一方、継体王は507年以降、淀川・木津川・桂川に宮を造っているので、河内を取り巻く形で日十大王を牽制した。継体王系列は河内の日十大王系列に服従していないのである。書紀が継体王が実権を握ったとしているのは、継体王を主流であるとし、日十大王系列を否定したということになる。
(3)日十大王誕生の背景
継体王を推したのは、旧勢力の倭の五王系の人々である。では日十王を推した人々は誰なのか。武寧王のメッセージ行為が日十大王に許される事からわかる通り、百済系の人々である。百済文周王の王弟である昆支王と共に来た新しい人たちである。昆支王が河内に到来したのは477年。475年の蓋鹵王敗死に起因し、文周王と共に熊津に南下した昆支王は多くの貴族と共に倭国に渡ったのであった(「昆支王」参照)。昆支王の墓所である高井田山古墳は畿内初の横穴式古墳で、以降、畿内の墓制は竪穴式前方後円墳から横穴式に変って行った。また、大規模な群集墳がいくつも現れるなど大きな変化が起こった。昆支王は近畿の墓制に影響を与える程の影響力を持ち、五王政権に食い込んだのである。昆支王は彼の高井田山古墳の築造年代から5世紀中には死亡しているが、彼の系脈は倭国を百済系に変えようと画策したものとみられる。梁書の「高祖卽位(502),進武號征東將軍」からは、すでに武に陰りが見られ、百済系の力が倭の五王武政権に何らかの形で及んでいたと想像させる。
(4)日十大王系列政権
書記は継体王を倭国王として王統を繋いでいるが、実際には日十大王が居た。後に河内には、阿毎多利思比孤(アマタリシヒコ大王=聖徳太子)が現れる。昆支王を支えた貴族は蘇我満智であり、阿毎多利思比孤を支えたのは蘇我馬子で、昆支王系は阿毎多利思比孤大王まで蘇我氏とともに続いたのである。阿毎多利思比孤大王が書紀では推古の皇太子として挿入されているように、日十大王は書紀にどのように記載されているか解らないし、全く記載されていないかもしれない。したがって、日十大王を書紀中の人物に同定するのは日十大王の行動が詳しく解ってからのこととなる。書紀のこの時代の対外記事には親百済のものが多く、 例えば出来事は、継体X年などとして記されるが、継体系が執政したわけではなく、実際は日十大王系列政権が機能していたのである。
ここで、日十大王系政権の親百済行動ぶりを探ると次のようなものがある。
(a)任那西半分の帰趨
継体6年(512年)、倭国は上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁の任那4県を百済に無条件割譲した。この4県は百済と境界を接し、面積も任那の半分あり、百済は国土を大きく広げた。
(b)任那東半分の帰趨
継体7年(513年)6月から同10年(516年)9月、百済が伴跛国と争った己汶・帶沙について、倭国が実力で伴跛国と争い、百済に己汶・帶沙を与えた。倭国は百済の軍事代行をした。己汶・帶沙は上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁の東に接し、百済は領土を拡大した。
継体21年(527年)6月、新羅にとられた南加羅と喙己呑を回復するために近江毛野が派遣されたが、磐井が新羅と結んで海上封鎖し、行くことができなかった。中央に背いた磐井は継体22年(528年)11月に鎮圧された。磐井の乱(527年-528年)は武寧王の強力な支配力が薨去によって薄れたことを意味する。
継体23年(529年)、百済が加羅国の多沙津を欲し、倭国はこれを百済に与えたので、加羅国の王は怒って新羅と結んだ。この件で、毛野は安羅に派遣されたが、4ケ村とられるなど芳しくなく、政治もまずく、24年(530年)10月引き上げることになる。
532年には金官伽耶が新羅に投降し、任那東半分の新羅への帰属が完成した。
(c)百済を助ける倭国の行動
継体6年(512年)に筑紫国の馬40頭が百済に渡されている。欽明紀では船10隻とともに馬70頭が渡されている。頭数から馬は実用であり、倭国は百済への馬の供給地になっている。
宣化元年(536年)、那津官家(現在の博多付近)造営。各地から集めた食料を保管する。書紀宣化2年「筑紫の国は、遠近の国々が朝貢してくる所であり、往来の関門とする所である。このため海外の国は、潮の流れや天候を観測して貢ぎをたてまつる。応神天皇から今に至るまで、籾種を収めて蓄えてきた。凶年に備え賓客をもてなし、国を安んずるのに、これに過ぎるものはない。」は、百済の凶年時の備蓄倉庫にもなる。
(d)百済仏教の流入
阿毎多利思比孤の遣隋使は倭国の仏教は百済からのものであると言っている。倭国最古の飛鳥寺建立には、仏舎利、僧、瓦博士や造寺工などが百済から渡来した。百済王興寺がモデルになったとされる。心柱を立てる儀式に蘇我馬子はじめ100人以上の参加者が、百済風の髪型で百済服を着て参列した。
(5)継体王
倭の五王時代に沖積平野の大阪平野が開拓され発展があったのと同様のことは越前平野にもあり、縄文海進時に九頭竜川、日野川、足羽川からの土砂が堆積した海底は、縄文海退により海面から姿を表し、越前平野が大きな湿地帯となっていた。鉄器による大規模な治水が行われ、港が開かれ水運が発達し、稲作、養蚕、採石、製紙など様々な産業が発展した。伝承ではこれを男大迹王(継体)の功績としているが、畿内が代々倭の五王によって開拓されたように、北陸も長きにわたって開発されたものと見られ、6世紀初めの王が継体王であったという意味であろう。
倭の五王時代、鉄をはじめ半島との交易が盛んとなり、近江や越前や倭国の各地はこの交易に参画した。継体王の威信財である広帯二山式冠[注]や捩じり環頭大刀の金属加工技術のルーツが百済や任那にあるのは交易によるものだろう。継体王のこれら威信財は近江、淀川水系、北摂で発掘されており、継体は越前、近江、北摂、淀川水系に勢力を伸ばした。
書紀によれば継体は尾張氏と連携しているが、旧勢力の結束を意味し、昆支系大王にとって気持ちのいいものではない。
継体王は、大王争いに敗れたあと、507年に樟葉宮(淀川)、511年に筒城宮(木津川)、518年に弟国宮(桂川)を造った。淀川水系は河内の北に接しており、大王を牽制している形である。この地域には、巨椋池という広大で浅い干拓可能な湖があり、継体はこれを利用して経済基盤を造ったとも考えられる。継体は淀川・木津川を押さえることによって大和勢力に河内を通らない大阪湾へのルートを提供し、大和との連携が図れた。継体は、継体20年(526年)に磐余玉穂宮(奈良県桜井市)に遷都している。526年は武寧王が崩御して3年経っており、継体は、大和を支配し、河内の大王を包囲する形を作った。しかし、継体王は子孫とともに殺害されたのである(534年)。
[注]広帯二山式冠の金工技術ルーツは土屋隆史氏の研究「古墳時代の日朝交流と金工品」から百済・任那にあり、継体の源流は百済・任那に求められる。
(6)継体崩御
継体は継体25年に崩御し、摂津三島郡藍野に葬られたのであるが、書紀に次のような注釈がある。
ーーーある本によると、(継体)天皇は28年に崩御としている。それをここに25年崩御としたのは、百済本記によって記事を書いたのである。その文にいうのに「25年3月、進軍して安羅に至り、乞屯城を造った。この月、高句麗はその王、安を殺した。また聞くところによると、日本の天皇および皇太子・皇子皆死んでしまった」と。これによって言うと辛亥の年は25年に当たる。後世、調べ考える人が明らかにするだろう。ーーー
ある本が正しければ、毛野が安羅に使わされたのは継体25年3月(531年、辛亥)で、継体26年(532年)に毛野は帰国途上対馬で病で死んだことになる。すると、532年に金官伽耶が新羅へ投降した事実がつながってくる。ある本の「継体25年3月に進軍」は正しく、したがって継体28年説は正しく、「天皇・皇太子・皇子皆死んでしまった」も真実となる。高槻市のホームページは「今城塚古墳には3基の家形石棺が納められていたと見られる」と述べており、ある本の「日本の天皇、皇太子、皇子皆死んでしまった」と合致する。継体は534年に崩御し、その皇太子の安閑や皇子の宣化の即位はなかったのである。欽明(539-571年)まで5年の空白が生じるようにみえるが、河内には大王が存在するので大和国の王位空白の問題にすぎない。
この論考シリーズでは継体系を絶ったのは金官伽耶王弟の脱知爾叱今(=欽明)としている。脱知爾叱今は金官伽耶の滅亡(532年)で倭国に渡ってきた。この時の倭国の状況は、継体が大和も傘下に治め、優勢になりつつあった。河内の大王にとって、継体を取り除くことは安心材料であり、脱知爾叱今にとっては、河内の希望を叶える事で倭国で地位を確保できることがあった。こうして脱知爾叱今は継体一家を暗殺して大和を入手し、大和を河内に献上したのである。
継体一家の死は国際的な意味がある。ひとつは、百済にとって、属国倭国内での叛乱の芽を除去したことである。もうひとつは、継体は倭の辰王系の中でもっとも辰王に近い存在であろうから、「日本の天皇および皇太子・皇子皆死んでしまった」はその最近縁者が根絶し、百済の辰王が揺るがぬものになった意味がある。継体一家の死亡事件は、百済が大王に命じて成し遂げたとも考えられる(「辰王位」参照)。
(7)継体王陵墓
古墳時代の大阪湾の海岸線は現在より内陸で、東側の海岸線は上町台地と千里丘陵を結ぶラインにある。上町台地と生駒山地に囲まれた地域は河内湖で、淀川や大和川が流れ込む大湿地帯であった。湿地帯の北が摂津で、南が河内・和泉である。河内・和泉は倭の五王が開拓し、かれらの陵墓が百舌鳥・古市古墳群である。摂津には千里丘陵の東側に隣接して富田台地があり、5世紀前半に三島大溝が安威川左岸から長さ4kmに渡って掘削され、富田台地は開発された。
その開発者の陵墓が太田茶臼山古墳(三嶋藍野陵)の主とみられる。太田茶臼山古墳は近畿北部では最大で、全国でも21位の規模だが、培塚を備えており、竪穴式で、出土埴輪からも5世紀中葉の築造と推定され、継体が古墳の主に比定されるが、継体王の没年に合わない。その東の横穴式の今城塚古墳(高槻市郡家新町)が継体王の墓陵である。継体の今城塚古墳と太田茶臼山古墳は至近距離にあるので、被葬者に関連があるはずで、継体とその祖父ではないか。今城塚古墳造営の時は近畿では昆支王の古墳を始まりとする古墳のコンパクト化が浸透してきているが、今城塚古墳は周濠が巡らされ、大量の埴輪が列せられている前方後円墳で、当時としては古るめかしく感じさせるものだった。近くにある新池埴輪製作遺跡は、450年頃から550年まで、太田茶臼山古墳や今城塚古墳他の埴輪を生産した。
図:5世紀以前「水都大阪の歴史」より
図:5世紀以降「水都大阪の歴史」より
写真:今城塚古墳(継体王墓)からの出土した石棺の破片 。阿蘇ピンク石・竜山石・二上山白石の三種類の石棺があった。(今城塚古代歴史館)