2023年1月1日
(1)漢城から熊津へ
昆支王は百済国蓋鹵王の王子であり、文周王の弟で、宋書「毗死子 慶(蓋鹵王)代立・・・・以行征虜將軍左賢王餘昆」の餘昆のことである。475年、高句麗の長寿王は百済の漢城を包囲した(三国史記)。敗色濃厚の蓋鹵王は王子の文周王に木刕満致と祖弥桀取とともに南に行くように命じた。漢城は落城し、蓋鹵王は敗死した。475年は百済扶余家にとって危急存亡の時であった。文周王は百済王に就き、南下して熊津を拠点とした。王弟の昆支王は、熊津まで文周王に同行し、477年4月に内臣佐平に就いたが、同年7月に死亡したとされる。
一方、書紀では雄略5年(461年)に倭国に派遣された蓋鹵王の王弟軍君を昆支王としている。既に五人の子があったとする。さらに雄略23年(479年)、昆支王は文周王がなくなった時、五人の子供の二番目の未多王を百済の東城王として送り込んだとある。軍君=昆支王説は逸書の百濟新撰を典拠とした書紀の注釈である。後に詳しく見るが、6世紀前半から、畿内に副葬品に半島系の特徴を持つ複数の群集墳が見られるようになるが、これらは475年の危急存亡に際して渡って来た多数の百済貴族の家系の者たちの物であろう。渡って来た多数の貴族を束ねるのが昆支王となるが、彼が軍君であるならば14年も前に渡来しているのであるから、どのように後にやって来た貴族をまとめる事が出来るか不思議である。やはり、昆支王は475の危機の時に彼ら貴族を伴ってやってきたと考えるほうが筋が通る。また三国史記の方は昆支王に対し「内臣佐平(佐平の長)」という役職名があり、直前の段には解仇を兵官佐平に任じており、具体性があり、書記の軍君・昆支同一化の根拠は薄い。したがって、昆支王477年7月死亡記事は百済からいなくなった意味である。書記の雄略23年(479年)に昆支王は登場しており、昆支王は477年に倭国に渡ったのである。
[注]新撰姓氏録に「飛鳥戸造ー出自百済国主比有王男昆伎王也 」と出ており、昆支王は羽曳野市の飛鳥戸神社の祭神である。
(2)熊津から倭国へ
百済貴族の木刕満致は半島での航跡が途絶え、蘇我満智が倭国に現れた。文周王と共に南下した木刕満致は昆支王と共に倭国に来たのであった。百済王族とそれを支える貴族のペアが倭国に誕生したことになる。文周王が貴族と共に王弟昆支王を倭国に渡らせたのは王統担保のためであるといえる。実際、百濟では以下のように混乱が生じるのであるが、王を倭国から補充している。
熊津では、文周王が478年に解仇によって暗殺された。文周王の長男三斤王(在位-479)が即位したが、弱冠13歳であったので、軍事的、政治的な権限は解仇の手に委ねられた。解仇が翌年には反乱を起こしたので、百済は難渋しながらも解仇を撃殺した。三斤王のあとを東城王(=牟大、在位:479年 - 501年 )が継いだ。三国史記によれば東城王は昆支王第2子末多王であり、書記雄略23年に倭国から昆支王第2子末多王が帰国しており一致する。東城王が即位すると、百済は復興へ向けて大きく変化し始め、480年、南斉から使持節、都督百濟諸軍事、鎮東大將軍を叙綬された。 東城王が暗殺され、東城王次男の武寧王(462-523:在位502 - 523)が即位した。武寧王は昆支王の孫に当たる[注]。
[注]書記では武寧王は、雄略5年に軍君が倭国に来る際、筑紫の各羅嶋で一児が生まれたので嶋君と名付けて百済に送り返したとする。
(3)倭国の変貌
昆支王が来た477年は倭の五王の時代である。倭の五王は南朝に百済都督を求めてきたが決して叙されなかった。倭の五王武は478年に南朝に上表したが、やはり都督百済を許されず、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六國諸軍事、安東大将軍であった。武は南斉によって479年に鎮東大將軍になった。百済は早くから鎮東大將軍であり、百済都督を叙されていた。百済都督権の争いの渦中に、昆支王は倭国にきているのであるが、来た時点では倭国が安東大将軍で、百済が鎮東大将軍で百済が格上であった。
ところが武は梁書では「高祖卽位(502),進武號征東將軍」であり、「都督、王並如故」という文言が入っていないので、斉からも得ていた都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六國諸軍事を失ったとみられる。その後、任那が流動的になってくるので、爵位の書き洩らしではない。また、503年には日十大王が倭国王になった。武に後継ぎがなく日十大王は昆支王系と読み取れる(「継体天皇」参照)。文周王の昆支派遣は、四半世紀を必要としたが、倭の実権を奪う意図をもっていたのである。大王位が昆支王系になった503年、昆支の孫の武寧王は敗者継体王に「長寿を念ずる」と倭国の安定を求めるメッセージを送った。倭国は512年に任那4県を百済へ割譲し、513年、百済が伴跛国と争った己汶・帶沙について、倭国が実力で百済の軍事代行まがいのことをするようになる。更に倭国は600年まで全く中国に朝貢しなくなったのである。
(4)古墳の変化
5世紀中葉まで畿内の古墳は竪穴式石室である。畿内の古墳が横穴式石室に変わるのが5世紀末とされている。竪穴式石室は埋葬後に天井石で封鎖するので追葬を想定していない。横穴式石室は入口を開閉することにより何度も埋葬を行うことができる。横穴式石室は中国の漢の時代に発達し朝鮮半島を経て日本に伝わった。九州には5世紀後半までに横穴式石室が浸透してゆくが、6世紀に入り一気に日本全国に広がったのは畿内の昆支王の高井田山古墳が始まりである。「古墳からみた6~7世紀日本列島と韓半島」にあるように、畿内の横穴式古墳は九州からではなく、百済から直接もたらされた。高井田山古墳の昆支王がその始まりであった。
また、後期群集墳が6世紀前半から7世紀にかけて作られた。これらも横穴式石室を持つ。群集墳であることを考慮すれば、時期的に昆支王系王族を支えた貴族集団のものと考えられる。大王が百済系に変ったことと、それを支える百済貴族たちの勢力が畿内を制していったことを群集墳は物語っている。五王時代の巨大古墳は強大な権力とその他の民という社会構造を示しているが、河内の東南部の群集墳は豊かな人々が河内の東南部に居住したことを示している。社会構造の変化もあったのである。各群集墳の終焉時期から、平尾山古墳群は蘇我一族、高安山古墳群は終焉時期が早く物部一族と目されているが、高安山古墳群からもミニチュア炊飯具型土器が発掘されており、高安山古墳群は別の消えた百済系豪族のものの可能性がある。
高井田山古墳---大阪府柏原市に高井田山古墳がある。この古墳は百済武寧王陵と関連づけられ、百済王族が持ち主とされ、昆支王のものと見られている。高井田山古墳の周囲に高井田横穴古墳群と平尾山古墳群がある。高井田山古墳は畿内最古の横穴式石室古墳である。直径22メートルの円墳で、副葬品に銅鏡・火熨斗・衝角付冑・短甲・ガラス玉 などがある。高井田山古墳が百済からもたらされた根拠は①扁平な石を積み上げて石室としている。比較的小さな扁平な石の組み合わせは武寧王古墳にも見られるように朝鮮半島の百済式である。➁夫婦合葬。日本で初の夫婦合葬。中国や朝鮮半島では夫婦合葬が普通。③火熨斗(アイロン)。青銅製で中国では漢代以降、朝鮮半島では5世紀以降の墳墓からしばしば出土する。日本国内の古墳からは4例しか出土していない。武寧王陵墓からでた熨斗と一致。 ④木棺内のガラス玉。内1個は金装ガラス(直径12ミリ)で心材のガラス管と外側のガラス管の間に金箔が挟まれている。武寧王陵からは同種のものが大量に出土している。 ⑤石室内に祭祀土器。この時期の日本では石室内に祭祀土器を副葬する例は殆どなく、朝鮮半島では数多くみられる。これらの理由により、時期的に百済からやって来た王族昆支王の古墳と考えられている。
高井田横穴古墳群など---高井田横穴古墳群は高井田山古墳の周辺にある。丘陵を掘削して横穴式石室構造を持つ墓室で、200基以上確認されている。6世紀前半から7世紀まで構築された。2-4基を単位として小群を構成していることが窺える。おおよそ10-15の小群で一大群を構成しているようである。他に、柏原市には安福寺横穴群、玉手山横穴群、大平寺横穴群がある。大平寺横穴群は6世紀末からであるが他は6世紀前半から造営が始まっている。
平尾山古墳群---生駒山地南端の丘陵地帯に位置し、1407基の古墳が確認されている]。高井田山古墳に隣接し、東西3km、南北2km。古墳群の墳丘の大半は径10m前後の円墳で構成されており、内部構造の多くは横穴式石室である。石室は比較的小型のものが多い。古墳群の形成は6世紀前半から7世紀後半まで。渡来系氏族の古墳に特徴的な炊飯具のミニチュアの副葬がみられる。
高安山古墳群---高安山の麓に分布する古墳群。かつては600基ほどあったが、約200基の古墳群が現存している。6世紀から7世紀にかけて造られ、その多くが、横穴式石室を持った直径10~20メートルほどの小さな円墳でる。 渡来系氏族の古墳に特徴的な炊飯具のミニチュアの副葬がみられる。
一須賀古墳群---6世紀前半から7世紀中頃にかけて築かれた。23支群・総数262基からなる。墳形は、ほとんどが直径10メートルから20メートルの円墳であるが、方墳も一部見られる。大半が横穴式石室であり、一部に木棺直葬、石棺式石室なども見られる。最大規模の墳(直径30メートルの円墳、現存しない)には、副葬品として須恵器、土師器、ミニチュア竈、純金製耳環、ガラス玉(青色34、黄色70)、金銅製冠片、金銅製履片、金銅装単龍環頭大刀柄頭片、馬具、環状金具、鉄刀、鉄刀子などが見つかっている。かなりの古墳において、ミニチュア炊飯具型土器(調査された48基中14基)や韓式系土器が副葬されており、また、朝鮮半島の影響を受けたと見られる玄室の床面が羨道部の床面より低い構造をもつ横穴式古墳があることから、百済・漢人系氏族との関連がある。
(5)河内は百済
昆支王は文周王の王弟である。後の義慈王が王弟の翹岐王を倭国に渡らせて倭国を支配させた。扶余隆が即位する時に備えてか、弟の豊が倭国に渡っている。王弟に分脈を作らせて支配地を広げる手法である。翹岐王が倭国に渡った時には昆支王系が先に渡っていた。昆支王が倭国に渡った時には、王仁や百済王子辰孫王や阿知使主や弓月君などの百済人脈が倭国にあった。波状的に半島西部から河内に押し寄せているのである。
百済系大王が倭国を支配したが、書紀に日十大王は出ない上、その後裔も全く書かれているようには見えない。けれども、隋書でアマタリシヒコはオオキミ(大王)を号しており、百済系大王は日十大王からアマタリシヒコ大王まで続くのである。アマタリシヒコ大王は、上宮法皇となり一家連続死で命脈が絶たれ、その後、貴族の蘇我が政権を取ったと思われるが、百済から渡ってきた翹岐王に乙巳の変で誅された(「翹岐=孝徳天皇」参照)。このような政治や政変の流れを見ると、河内は全く百済国の一部である。畿内に「百済」を冠する地名や宮が散在するのも当然である。
写真:昆支王の高井田山古墳
高井田山古墳の石室は、近畿地方で6世紀以降に展開する石室の原型。ルーツは、形態や構造的な類似から朝鮮半島・百済の漢城時代の石室に求められる。その設計プランと構築技術が近畿地方にもたらされた。
石室に葬られた2人は夫婦。当時の日本にはそのような習慣はなく、中国や朝鮮半島の王族らは、夫婦合葬が普通。
石室の形態、埋葬方法、副葬品、儀礼など、百済との強い関係がある。火熨斗が武寧王の王妃の副葬品に一致、石室規模が百済の王陵に匹敵する大きさであることから、高井田山古墳には百済から渡来した王族クラスの夫婦が埋葬された。
写真:銅鏡・火熨斗(武寧王陵のものと同じ)