33年ネット諸兄姉どの(2025.12.21)
先輩故佐藤正弥氏(1956年商卒、1958年修士)の「二つの大戦の裏面史」(2013.3㈱原書房)を読でると
日本をこよなく愛した戦前のフランス大使ポール・クローデル(1921年(大正10年) - 1927年(昭和2年詩人、劇作家、外交官)のことが書かれてあった。
それで、芳賀徹(はが とおる)教授が幕末のイギリス公使、ラザフォード・オールコック(Sir Ratherford Alcock、
1809-97について書いていることをおもいだした。クローデルより70年前、明治維新(1968年)を迎える直前のことである。
「文化の往還ー比較文化のたのしみ」(芳賀徹 1989.10.16第一版 ㈱福武書店。1989.10.16、平成元年10.16日
・芳賀徹(はが とおる、1931年5月9日 - 2020年2月20日、日本文学、比較文学、東大名誉教授)
以下は、ざっとの抜き書きである。
★『大君の都』の外交官
オールコックが前任地の広東からイギリス軍艦サンプソン号で、上海、長崎経由で江戸品川沖に到着したのは、一八五九年(今から166年前)六月二十六日(安政六・五・二十六)のことであった。前年八月二十六日に、アメリカよりも一月遅れて日英修好通商条約が江戸幕府とエルギン卿との間に調印されてから、このイギリス最初の駐日総領事兼外交代表の着任まで、ちょうど十カ月が経っていた。
オールコックはいわゆるキャリアの外交官ではなかった。外科医としてイギリス軍に従軍してポルトガルやスペインで歴戦した後に、一八四三年、三十四歳の年に、アヘン戦争の結果、南京条約によって開港場となったばかりの中国の厦門に渡り、その地で新設のイギリス領事館の一等書記官となった。 それが彼の大英帝国外交官としてのアジアにおける活躍の第一歩であった。 そのように医者や商人や宣教師がにわかに領事館や公使館の書記官にリクルートされるというのは、西欧列強が急速に世界に勢力を伸ばしつつあった当時では、しばしばあったことであって、オールコックの場合もそのーつにすぎない。ただ、彼の場合は、その外科医としての前歴が、外交官となってからも意外に役立つ結果となる。それも彼が、一八四四年、福州領事に抜擢され、以後上海、広東と十五年あまり領事を勤めた後に、折からの攘夷派暴漢の外国人殺傷事件が頻発する日本に赴任したことにほかならなっかった。彼は、「大君の都」(The Capital of the Tycoon :A Narrative of a Three Years'Residence in Japan)を1863年、在任中に書き上げて公刊した。
★オールコックの「ジャポニスム」 への寄与
それでは、この駐日イギリス公使の心のうちに生じてきた東西文明観の変化とはいったいどのようなものであったか。その議論の詳細は、渡辺昭夫氏のきわめて示唆に富むすぐれた論文、「文明論と外交論ーラザフォード・オールコックの場合」(東大『教養学科紀要11 』、一九七八年)にゆずって、ここではあまり立ち入るまい。
ただ、簡単にいうならば、要するにオールコックは、日本をよりよく知ってゆけば知ってゆくほど、この国は文明というもののさまざまの重要な局面においていささかも西洋に劣るものではない、と考えるようになっていったのである。それは、彼の愛読したケンペルやツュンべリーも実はすでに感じとって述べていたことであった。
(注;出島の三学者(でじまのさんがくしゃ)は、江戸時代、長崎の出島(オランダ商館)に来日し博物学的研究を行ったエンゲルベルト・ケンペル、カール・ツンベルク、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの3人の学者のこと。当時江戸幕府は鎖国政策によりオランダとの交易のみを認めていたが、3人はいずれもオランダ人ではなかった。ケンペルはドイツ人医師、リンネの弟子。ツンベルク(カール・トゥーンベリ)はスウェーデン人医師・植物学者。やはりリンネの弟子。シーボルトはドイツ人医師、シーボルト事件で有名。)
だが、オールコックにおいて特徴的なことは、このような日本文明についての認識が、自己のよって立つ文明的基盤そのものへの真剣な間いかけとなって現れるところにある」(渡辺論文)。つまり、国民の物的幸福といい、平等や自由といい、欧米人はこれまでそれらの美しい果実は自分たちの高度な文明のみが生みだしたものときめこんできたが、はたして、ほんとうにそうなのか、それらは、宗教も社会制度も西欧とはまったく異質なこの日本にも、西欧と同じかたちではないにしても、実は同じほど高度に豊かが実現されているのではないか。
すると、いまの欧米人が貿易や外交についていだいているはなはだオプティミスティック通念― 「(西欧という)高度の文明と(アジアという)低次の文明が交錯したときに生じるのは、劣勢民族の漸進的向上と優勢民族の直接的な利益との交換であり、そういうかたちで、両文明が融合し調和のうちに共存してゆく」(同右論文)はずだという根強い通念も、疑われなければならないのではないか。オールコックは、まさにその通商と外交の最先端に立つうちに、そのような思考の転換に逢着したのである。それは、いまの私たちには当然の考えと思われる。
だが、ほとんど誰の眼にも西欧文明は圧倒的に他の世界に優越するものと見えていた当時にあって、そんな考えをもつものはまだめったにいなかった。
それにしてもオールコックは、日本でのどのような経験のなかから、どのようにして、この日本文明への新たな開眼に達していったのか。それは結局、前に触れたような彼の日本での学習とあらゆる些細な強烈な体験のすべてをとおして、という以外にないのかもしれない。その過程を具体的に示す例も『大君の都』のなかに探せば、いくらでもあろう。だが、いまーつだけあげてみるとすれば、それは一八六〇年九月、あの富士登山を全うして山を下り、熱海に向う道中の一節である。九月十三日、夕闇の迫るころ、オールコックー行は刻々に増水するらしい狩野川をこわごわ渡って、三島の宿にたどりつき、愉快な食事と座談のあとに、みな蚊帳にもぐりこんで熟睡した。
そのつぎの九月十四日〔万延元年七月二十九日〕は好天に恵まれて、朝早く馬にのって出発し、三島と海岸をへだてている山の多い半島〔伊豆半島〕を横切ってすすんだ。まず林や灌木の列や屈曲して流れる渓流などによって美しく飾られた広い谷間をとおりすぎた。その土地はきわめて肥沃であり、そこの産物はひじょうに多種多様である。全平地は耕作された丘陵にとり囲まれて円形劇場のようになっており、かなたにはもっと高く遠方までのびている山々があり、それらの山はおいしげった漕木林や松の木によっておおわれていた。小さな居心地のよさそうな村落や家々が森や丘陵のふところにいだかれており、ここかしこには庭園の塀が見うけられ、大名の田舎の邸宅にいたる並木道がかいま見られた。封建領主の圧制的な支配や全労働者階級が苦労し陣吟させられている抑圧については、かねてから多くのことを聞いている。だがこれらのよく耕作された谷間を横切って、ひじょうなゆたかさのなかで家庭を営んでいる幸福で満ち足りた暮らし向きのよさそうな住民を見てみると、これが圧制に苦しみ、苛酷な税金をとり立てられて窮乏している土地だとはとても信じがたい。むしろ反対に、ョーロッパにはこんなに幸福で暮らし向きのよい農民はいないし、またこれほど温和で贈り物の豊富な風土はどこにもないという印象をいだかざるをえなかった」(山口光朔訳、第二十一章)引用の前半はいかにも絵画的な美しい描写である。オールコックは絵ごころのある人で、『大君の都』にも富士登山に同行した画家S・J ・ゴワーや、長崎・江戸旅行の道づれワーグマンの絵のほかに、自分のスケッチもたくさん入れている。その遠近法のきいた画家風の眼で、伊豆の自然と小さな村落の織りなす美しい景観を眺めてゆくうちに、彼は後半でいうように、これがいわゆる「封建制」下の農民の生活なのだろうか、と疑わないではいられなくなる。いま眼の前に明るくはっきりと見えているものを疑うわけにはいかないから、彼は通常その上にかぶせられている概念の方をいぶかしがらざるをえない。あの、どう見ても幸福そうで、豊かげな農村が、「圧制に苦しみ、苛酷な税金をとり立てられて窮乏している土地」といえるのだろうか、と。オールコックは枕惚のうちにうっとりとして対象を美化してしまうたぐいの人ではないから、わが目をこすりわが頬をつねるといった感じで、重ねて「とても信じがたい」とか「印象をいだかざるをえなかった」とかの、ブレーキのかかった言いまわしを用いている。
そこで、結局最後にオールコックの心のなかに残されたものはなにだったろうか。それはー この日本を長く支配してきたのはやはり鎖国の下での封建制にちがいない、だがそれは国民の生活の安全と幸福を維持するのに、西欧の近代の文明よりもかえってすぐれた有効な機能を果たしてきたのではないか、との思いであった。その思いが、伊豆の山村を行ったこの日ばかりでなく、前にも後にもことあるごとに反加されて、オールコックはついに次のようなーつの結論にたどりつく。
「これほど長く中世的な形態を維持してきて十分に発達した封建制度を持った国民とその制度の現状は、注意深い研究にあたいする。
この封建性によって日本人は、われわれの考えている意味では自由でないにしても、多くのしあわせを享受することができた。 西洋諸国の誇るいっさいの自由と文明をもってしても、同じくらい長年月にわたってこのしあわせを確保することはできなかったのである。国家の繁栄・独立・戦争からの自由・生活の技術における物質的な進歩ーこれらはすべて、日本人が国民として所有し、そして何世代にもわたってうけついできたものである。」(同右、第三十五章)
このような独自の根強い価値をつくりだしてきた制度の国であればこそ、いま日本は西洋からの通商と変革の要求に激しい抵抗を示しながら、きしみをあげて少しずつ変ろうとしている。変らずにいるわけにはゆくまい。 だが、はたしてそれがほんとうに日本のためにいい結果をもたらすのかどうか。「すべてが終ったとき、文明化の作用が彼らをこれまでよりもより賢明な、より善良な、より幸福な国民たらしめるかどうかは、ひときわ解決しがたい問題である」(同右)。日本を任地とし、この国を大英帝国の通商のための連鎖の一環に繰りこみ、確保することを自分の任務としている外交官が、このような洞察を語るというのは、やはり稀有なことではなかろうか。 それは彼の脳裡にさまざまな思念の往復があり、葛藤もあってのことだったにちがいない。そしてオールコックにそうまで語らせる動機に、彼が接した日本の風景の美しさや民衆生活の豊かさばかりでなく、もうーつ日本の美術とクラフトへの愛着があったことはたしかであろう。オールコックー行は三島から熱海に出て、二週間ほど滞在していた間に、村中の店がみなからっぽになるほどさまざまの品を買いこんだ上に、紙造りの工場を見学してその全工程をくまなく研究したし、長崎からの旅行のときも大坂その他で絹織物から燭台、提灯、鋳物、火鉢の類まで買った。もちろん、江戸でもそうだったろう。 それらは全部で何百点、何千点の蒐集となったのかはよくわからないが、そのうち総計六一四点の、漆器、陶磁器、鋳物、木工の類から絵本、地図、玩具にいたるまでを一八六一年のうちにロンドンに送り、翌年五月からの「ロンドン万国博覧会」に出品し、みずからその詳しいカタログを執筆もしたことは、周知のとおりである。オールコックは日本のこれらの、ほとんどが名もなき人々の手になる工芸品、美術品、民具のたぐいの美しさ、みごとさ、面白さを、とくに誰に教えられたのでもなく自分の眼で発見し、それらにほれぼれとし、夢中になったものらしい。
『大君の都』のなかでもとくに集中的に日本文明を論じた重要な一章(第三十五章)の半分を捧げて、この異質な文明の輝きをなし、それを解く鍵ともなってくれる美術工芸を讃えている。
「すべての職人的技術においては、日本人は問題なしに非常な優秀さに達している。 磁器、ブロンズ製品、絹織り物、漆器、冶金一般、さらに意匠と仕上げの点で精巧な技術を見せる製品 ーにかけては、ョーロッパの最高の製品に匹敵するのみならず、それぞれの分野においてわれわれれが模倣したり、肩を並べることができないような品物を製造することができる、となんのためらいもなしにいえる。」(同右)
彼は言っている。「私は、そのような品(古い漆器のすばらしい作例)
を万国大博覧会に出品するために集めたのだが、それは職人的な技術、より高度な産業技術における日本人の進歩を例証し、その文明を立証するためであった。」(同右)
そしてオールコックの日本美術礼讃はさらに最高級の言葉をつらねてつづく。ーー
「日本人はきわめてかんたんな方法で、そしてできるだけ時間や金や材料を使わないで、できるだけ大きな結果をえているが、おそらくこういったばあいの驚くべき天才は、日本人のもっとも称讃すべき点であろう。かれらがもっともすぐれた作品をつくり出す道具はきわめてかんたんなものであり、想像しうるかぎりのもっとも雑なものであることが多い。野天であれ工房であれ、自然が力をかしてくれるときには、日本人はかならずその力を利用して、自分は時間や金や労力をなるたけ使わず、自然の力に自分の仕事をやらせるo このことは完壁なほどにまで行われているので、これを見る人はすべて、これが日本人の精神的特徴のひとつであって、並々ならぬ知的能力と教養のほどを示していると考えるのである。(同右)
ほとんど手ばなしの賞讃ぶりである。このような日本人の職人仕事の巧みさは、これもケンペルやツュンベリーの昔から西洋人が注目し、伝説化されかかってさえいたものであった。だが、オールコックはオールコックなりに江戸や横浜の町で、また旅先で、職人たちの黙々とした、あるいは陽気な手わざのあざやかさに見とれ、またその手さきから次々に生まれる品の洗練に眼をみはったのであったろう。そしてそこに、あの封建・鎖国といわれる制度と平和のもとに、長い時間をかけて円熟し、このような小さな手仕事と日常生活の隅々にまでゆきわたっている日本の文明の密度の高さを読みとっていたのである。それは一八七〇年代、八〇年代にフランス、イギリス、ドイツに群がり出てくるジャポニスムの画家、批評家、蒐集家たちと、すでにほとんど同じ日本美術観・日本観であったといえる。
今から166年前の話であるが、オールコックの称賛に、今日、30年に及ぶ閉塞感の中で一台の燭台を見るに過ぎないとするのか、あるいはその底流・根底に流れる日本文化の世界性を感じるかであるが、無論わたしは、後者である。
イチハタ