00046
フェルメールの「デルフトの風景」
ユージン・ドラクロワの「天使と戦うヤコブ」
パリのサン・シュルピス聖堂の壁画である。
神の使いである天使と戦い続けるヤコブは
プルーストの生涯の苦闘を想起させる。
鈴木道彦氏の著作集が国立市の増田書店で展示された。
1912年10月28日、強力な支援者を得て『スワン家の方へ』の出版が図られた。しかし3社から断りが入り、創立者の1人がアンドレ・ジッドであったN.R.F.社(後のガリマール社)もそのうちの1社であった。ジッドがプルーストのこの著作を認めなかったことを生涯にわたって悔いとしたことは広く知られている。最後に商才に長けたベルナール・グラッセが引き受けて同書はようやく出版の運びとなった。プルーストは何度ことわられてもめげなかった。出版業が確立する以前の当時のフランスではしばしば著者が出版費用を負担した。プルーストは自己宣伝にも長けており、評論家に贈り物をし、リッツ・ホテルの食事に招待することも珍しくなかった。
『スワン家の方へ』は1913年11月14日に1,750部が上梓され多くの賛辞が寄せられた。フランシス・ジャムはプルーストをシェイクスピア、バルザック、タキツスに並ぶ作家と称えた。しかしその喜びもつかの間、プルーストが熱愛し同居中だったアルフレッド・アゴスティネリが12月1日突然姿を消したのである。
プルーストは若年の頃から多くの同性愛者を持っており、彼の性的傾向は彼と親近する人たちには知られていた。歌劇「カルメン」や組曲「アルルの女」などで知られる作曲家ジョルジュ・ビゼーの息ジャック・ビゼーが最初の恋人であった。マルセル17歳の時である。先に友人として上げたルシアン・ドーデ(作家アルフォンス・ドーデの息子)やジョルジュ・デ・ラウリス、また『スワン家の方へ』をタイプ原稿に仕上げたアルベール・ナミアスなどはそのような契りを結んだ仲間たちであった。
プルーストはこのような自分の性癖を「悪徳」と認識しており、それが噂になって広まることを恐れていた。青年期に入って彼の性癖が活字で暗示された際には、いずれも大事には至ってないが、一度ならずピストルによる決闘を申し込んでいる。決闘は時代遅れであったがプルーストにとっては名誉を守ることであり、男らしさを示すことでもあった。
アゴスティネリはそのような多くの愛人の中でもとりわけ際立った一人であった。プルーストが最初にアゴスティネリに会ったのは、アゴスティネリがジャック・ビゼーの経営するタクシー会社の運転手をしていた1907年のことだった。二人はカブールを起点としてノルマンディ地方を周遊した。プルーストは田園地帯を「飛ぶように」走る自動車の経験を綴ったエッセイで、髭をはやし、飛行士のようないでたちをした運転手を巡礼や黒い頭巾を被った修道女に譬えて描いている。翌年アゴスティネリはプルーストをヴェルサイユへ送ったが、プルーストは喘息に襲われてホテルの部屋に閉じこもるか、さもなければアゴスティネリやや召使のオディロン・アルバレ(セレステの夫)とドミノなどをして暇をつぶした。その後、用がなくなったのでアゴスティネリは去り、どうやら忘れられたようであった。
そのアゴスティネリが再び浮上したのは1913年のことで25歳になっていた。細身になり、失業しており、アンナという女と同棲していた。アルバレという運転手を兼ねる召使がすでにいるので運転手はいらないので秘書として雇い、アゴスティネリはアンナと一緒に移り住んだ。プルーストはアゴスティネリを稀に見る知能の持ち主と評価して、後にジッドに「彼から偉大な作家のものに匹敵する手紙をもらっている」と述べている。セレステの言では、身分をわきまえない「幼稚な気分屋」とすげない。
プルースト本人は『逃げ去る女』で「確かに私はもっと知能にすぐれた人たちを知っている。しかし愛の深みにはまった者にとっては、愛する人たちの知性や品格を客観的に見定めることは最も難しい」と述べている。プルーストの愛の対象は時がたつにつれて芸術を愛好する同じ階級のゲイからアゴスティネリのような労働者階級の異性愛者へと移っていった。アゴスティネリの後に雇った秘書、6フィート4インチ、金髪のスエーデン人、エルンスト・フォースグレンやリッツ・ホテルの給仕で画家志望のアンリ・ロシャが同様であった。ロシャはプルーストの家の一室に籠って絵を描き続けた。『囚われの女』で絵を描くアルベルチーヌはこのロシャである。
愛の対象が下層階級に移るにつれて支出も増大した。プルーストの伝記を読むものは如何に裕福な家に生まれたとしても自らの収入のない若者がどうして上流の社交界に出入りできるのかを不思議に思わずにはいられない。プルーストは時折り派手な金遣いをする反面で日頃は節約に努めており、彼の両親も倹約家で息子のための支払いに良い顔をしなかった。
母の死後3カ月半してマルセルと弟のロバートは、それぞれが今(1990年代)の金にして600万ドルという予想外の遺産を手にして驚いた。それにも拘わらずマルセルは、いつ破産するかしれないと心配しながらも高価な贈り物をして友人たちの歓心を買い続けた。
アゴスティネリは大勢の身内を抱えており、彼らのためにもプルーストから巨額の金を引き出していた。プルーストは自分がアゴスティネリに与えられるものは金だけだということを自覚していた。その金が日増しに大きくなっていくにつれてアゴスティネリが逃走するチャンスは大きくなっていった。アゴスティネリは富よりも冒険を望んでいた。初期の自動車に興奮した次には大戦間近に航空機に惹かれた。プルーストはアゴスティネリの飛行訓練のために多額の金を払ったのだが彼は突然姿を消したのである。
アゴスティネリがプルーストと同居したのは1913年の初めから12月1日の朝までのわずかな期間でしかない。プルーストが眠っている間に彼はアンナと一緒に姿を消していた。その理由は不明としかいえない。アゴスティネリは故郷のモナコ付近へ越して近くの飛行学校へ匿名で入っていた。ショックで打ちひしがれたプルーストはあらゆる手段を使って行方を捜したが手懸りは見つからなかった。希望の実現を目指してアゴスティネリのために飛行機を一台注文さえした。せっかく出版されたばかりの『スワン家の方へ』の喜びも消し飛んで、お祝いの手紙をもらっても返信には絶望の言葉を連ねるばかりだった。
年が変わって春になると、アゴスティネリから短い便りが届き始めた。おそらく、間もなく金がなくなることが心配になったのだろう。それがどんな理由からであったにせよ愛する人と再び連絡が取れたことでプルーストは天にも昇る心地だった。
ところが突然、天地は逆転した。1914年5月30日、アゴスティネリは2か月後の2回目の単独飛行にでて不帰の客となったのである。彼はインストラクターの指示に従わずに地中海上に出て、低空旋回を試みて海中に墜落した。彼は泳げなかった。海中の機体につかまって必死に助けを求めたが、そのまま機体とともに海中に沈んだ。彼は多額の金を身につけていた。彼は貪欲な家族を信用できなかったのである。
プルーストは残されたアンナを引きとって慰め、新しい生活へと送り出した。彼自身は仕事に戻ることができなかった。6月には『失われた時を求めて』の第2巻『花咲ける乙女たち』のタイプセットが届き始めた時、彼はアンドレ・ジッド宛てに次のように書いている。「私の哀れな友人が死んでからグラッセットが毎日のように送って来る草稿の包みを一つとして開く勇気を持てない。」また11月にはルシアン・ドーデに次のように書いている。「タクシーに乗るたびに私は前からくるバスが衝突して私を押しつぶしてくれないものかと本気で望んでいる」。
プルーストが校正するはずだった第2巻が出版されるのはそれから5年後の1919年6月、『スワン家の方へ』の再刊と同時で、それも別の出版社からだった。それまでには彼が『失われた時を求めて』で当初予想できなかった二つの悲劇が起こっていた。一つは第一次世界大戦であり、もう一つはアゴスティネリの死である。
アゴスティネリの死はアルベルチーㇴを主役の1人に引き上げたと言ってよい。それによって『花咲く乙女たち』はアルベルチーヌを囲む乙女たちの情景が加わり、豊かで独立した1巻になり、さらにまた話者とアルベルチーヌの逃走と死が描かれる『囚われの女』と『逃げ去る女』の2巻が加えられたのである。話者は飛行機ではなくヨットをアルベルチーヌに与えろことを考える。
一部の評論家はこれによって作品の全体像が歪められたという。しかしホワイトは次のように言う。アルベルチーヌが挿入された結果、真剣味のない戯れや束の間の恋心が生む巨大な空隙が「激しく、悲劇的な壮大さ、ラシーヌ的な情熱」(ジャン‐イヴ・タディエの表現)によって埋められたのであり、『愉しみと日々』は別として、元々のプランにはなかった女性の同性愛というテーマ、つまりゴモラがソドムと並置されたのである」。アゴスティネリの死後8年の間に『失われた時を求めて』の分量は2倍に膨れ上がった。
戦時下にプルーストは恐れ気もなく街を歩き回って、夜中でも構わず人を起して古い話を聞きだしたり、リッツの給仕長に面白い噂話を問いただしたりした。戦争の進展にも注意を怠らなかった。何人もの友だちを戦場で失い、病気を抱える彼自身が招集されるのではないかと恐れていた。夫のオディロン・アルバレが出征してからはセレステが1人でプルーストの面倒を見た。プルーストは夜の外出から帰ってからその日の見聞の一部始終を、セレステを立たせたまま興奮して話し続けた。そのためセレステは朝8時、9時になってから床につき午後2時頃になって起きた。
セレステはプルーストの同性愛は否定したがプルーストが「調査のために」ホモの男たちが集まる売春宿を訪れていたことは話した。その宿を経営するのは、元は貴族の屋敷の召使をしていたアルベール・ル・クジアという男で彼の金持ちの客たちの異様な性癖の面倒を見るだけでなく、彼らの家系の詳細にも通じていた。プルーストはル・クジアの店のコストの支払いを援助し、それどころか、驚くべきことに彼の両親の家具をその売春宿に提供さえしていた。ホワイトの著書は、プルーストの落ち込んだ奈落の深さを偲ばせる異様な行動、両親に対する冒涜的行為(profanity)をさらに立ち入って記述している。
1917年と18年、プルーストはこれがこの世の最後の愉しみとでも思ったかのように、夜おそく、リッツを中心に頻繁に外出した。給仕長のオリヴィエ・ダベスコは上流社会の人士を知り尽くしていてプルーストの本のために数多くの逸話を提供した。リッツは人の出入りが多い、豪華で居心地の良いサロンであり、給仕たちにちやほやされプルーストは夜中でも食事できた。彼は美貌のポール・モラン作家夫妻ととりわけ親しくなり食事や室内楽を楽しんだ。執筆やこのような外出のためにプルーストはアドレナリン剤やカフェインを濫用し、それを鎮めるために就寝時にはアヘンのような鎮静剤を必要とした。
すでに蝕まれていた身体にこのような無理が積み上がって、プルーストは目まいに襲われるようになり、日に何度も転倒することもあり、失語症にも襲われるようになった。言葉が思い出せない、思い出せても発音できないという状況である。
このような時にプルーストは新しい住まいを探さなければならなくなった大叔父から家を引き継いだ叔母がその家を売却したのである。プルーストは一時的に騒々しいロラン・ピシャ街8番地に移ったがその後ほどなく、アメラン街44番地に落ち着いた。
1919年11月に『花咲く乙女たち』6,600部が増刷された。そして12月10日、プルーストは同書によってフランスで最も権威のあるゴンクール賞の栄に浴した。これでプルーストは単なる社交界の時評家ではなく哲学的で万人に知られる小説家になったのである。例によって、高価なプレゼントが贈られ、食事の接待も行われた。
受賞ですべてが「めでたし、めでたし」となったわけではなかった。批評家たちは、受賞作をまとまりのない少年期と思春期の回想で、形も整わず、筋書きも終りもないと痛烈な批判を浴びせた。この批判に対してプルーストは全7巻が出版されれば批判家たちは全体像を読み取ることができると確信して早く残りの巻を出したかった。全巻の冒頭にある一見して取りとめのない「コンブレ」の章はその後にくるテーマを集約し予告するというオペラに譬えれば序曲に他ならなかった。七巻におよぶ大きな輪と、そこに展開されるテーマと繰り返し登場する人物は、冒頭の2巻を漫然と読んだだけの読者には予測し得ない強固な建築物を造り上げられているのだ。
ホワイトの著書は、詳細な「参考文献一覧」はジョージ・ペインターに譲るとしながら、なお短い参考文献の項目があり、真っ先に、フィリップ・コルプの書簡集、ジョージ・ペインターの伝記をあげている。セレステの口述による回顧録を「寛大で、利己的な男、弱虫であって強い男、同情心に溢れたスノッブ」について、最も身近からの観察によって描かれた感動的な肖像画であると称揚しているのが注目される。
数多のプルーストの伝記からはジャン・イヴ・タディエ(Jean-Yves Tadie、ソルボンヌ大学教授)の952頁の大著『マルセル・プルースト』(1996年)を、理由を列挙して最良のものと絶賛している。その理由の最大のものは「プルーストの手稿をこの世の誰よりも完璧に、また誰よりも深い理解力を持って研究しているからである」という。また「彼が同意してくれるかどうか全く自信はないが、私がこの小著で説いた(プルーストの)同性愛はすべてタディエ氏のこの記念碑的著作に負うものと言わねばならない」と述べている。
私はここで初めてタディエ氏の名を知ったのであるが彼の書いた邦訳された短文2点が手元にあった。井上究一郎訳『見出された時』の後に添付されたこの巻の要約と鈴木道彦訳『失われた時を求めて』の月報「プルーストの手帖13」に寄せられた10頁の「現代の作家プルースト」という文章である。
ここでタディエ氏の見識の一端をご紹介したいのであるが、その前にプルーストのその後の巻が出版された日時を確かめておくことにする。プルーストは1922年11月18日に死亡したが『ゲルマントの方』、『ソドムとゴモラ』はその生前1922年中に発行され、『囚われの女』、『逃げ去る女』はそれぞれ1923年、1925年に、『見出された時』は1927年に発行された。
タディエ氏は最初に第一次大戦とともに亡びたある社会の描写が、どうして今でも読者を魅了するのか、これほど長大な作品で、波乱万丈というわけでもない小説がどうして読者の関心を引きつけられるのだろうか、というのも「この小説の主題は、ある男が自分の天職を見出し、その過程で時間に一つの意味を提示する、と一言で要約できからである」という。この問題提起の中で、でタディエ氏は意図せずして多くの批評家を悩ませた「プルーストは何をかいたのか」という質問に一言で答えてくれている。
タディエ氏は、1930年代から50年代までのほぼ20年間、プルーストの名声はすたれたという。アンドレ・マルローやサルトルなど社会や政治への参加(アンガージュマン)を標榜する小説の流行、第二次世界大戦の勃発、さらに戦後の実存主義などが要因となって、プルーストはすでに亡びた世界を描く作家、公爵夫人たちのサロンに出入りするブルジョワ作家として不評を買うようになったのである。(この指摘は次のようなことを思い出させる。鈴木道彦氏は学生時代からプルーストを研究していたが、その後サルトルの著作に没頭してアンガージュマンを実行して寸又峡事件の金嬉老の救済に尽くしており『アンガージュマンの思想』(1969年)などの評論集もある。ささいながら、私自身もプルーストの話をした親しい友人から「それが社会主義とどういう関係があるんだ」と言われて絶句した記憶がある。私は遠まわりをして説明する気力も能力もなかった。)
アンドレ・モーロワのすぐれた伝記『マルセル・プルーストを求めて』が1949年に、次いでジョージ・ペインターによる伝記の第一巻が1959年に刊行される。以前の版よりはるかに信頼のおけるテクストのプレイヤード版が1954年に刊行された。これらが刺激となり、また翻訳を通じてプルーストの読者は世界に広がった。
タディエ氏は、「プルーストの復権は、かれが突如として現代的な作家とみなされるようにならなければ、ありえなかったろう」という。彼が小説の技法を覆し、かつて保守主義者と見なされてきたこの人物が実は革新的な作家であることを人々は発見したのである。彼は一人称による叙述法を工夫した。これは世界とその歴史に向けられる視点をまるごと、ただ一人の話者に委ねるもので、その探求は果てしない。次にそれよりもいっそう重要な独創は、この単一の視点は時間に従属していることである。主人公は絶えず変化し、それにつれて彼の観察する対象も変化していく。作中人物の一人ひとりが時には見分けもつかないほどに変貌し、家々も大通りも歳月と同じようにうつろいやすいのである。
時間が変化を一様に及ぼすのは周知の法則に過ぎないだろう。「しかしプルースト的な時間は唐突で、四方八方に展開する変化の数々を通して進行する。記憶とはまさに、このようにして過ぎ去った時間を現在に取り戻す能力なのだ。」「この小説を通してプルーストが読者に体験させようとしているのは、記憶についての新しい観念であり、その記憶とは二重の記憶である。無意志的記憶を意志的記憶と区別することで、今日になって、神経科学が明らかにするであろう一つの現象を、彼は強調している。つまりわれわれの脳裡にかつて刻まれたある状況の要素がひとつでもあれば、それを媒介にして、すでに消滅した状況をそっくり意識によみがえらせることができるというのである。」
このような心理学的な理論をもとに、プルーストは自作の小説の構造を築いた。鍵となる瞬間とか決定的な出来事などは、もはや他の小説家の作品に見られるような結婚、誘拐、死亡、ましてや恋愛でもなく、無意志的記憶のよみがえる瞬間、エルスチール(作中の画家)やヴァントイユ(作中の音楽家)のそれのように偉大な芸術作品との出会い、満開のサンザシの花を眺めることにある。
タディエ氏はこのほかにもプルーストの現代的な特質を上げて、なお書ききれないというのであるが、忘れてならないのは、プルーストは主要な芸術の総括を作中の人物に体現させていることである。エルスチール然り、ヴァントイユ然りであるが、ほかにベルゴットは文学を体現している。そして『失われた時を求めて』が結末に向けて展開するにつれて、プルーストは作中人物の背景で芸術理論を展開し、「真実の生」を発見し、解明することが文学に課せられた役割なのであるという。
ここまでタディエ氏の所論の一部を紹介したが、ここでタディエを離れてエドマンド・ホワイトの記述に戻ることにする。プルーストは自らの死の前夜に、口述してベルゴットの死に『デルフトの風景』を加えさせた。作中のベルゴットは、大好きな『デルフトの風景』がパリで展覧されているのを聞いて病をおして出かける。彼は隅々までよく記憶していると思っていた画布の、それまで気付かなかった壁面のごく小さな黄色に衝撃を受けて目を止めた。「私はあのように書くのだった。私の最近の本は無味乾燥だった。あの壁の黄色い一角のように絵具を塗り重ねて私の文章を貴重なものに出来たのだ!」目まいの中で、彼の脳裡には天上に天秤が浮かび一方の皿には自分の命が、もう一方の皿にはみごとに黄色に描かれ小さな壁面が乗っているのが浮かんだ。彼は自分が軽率にも、後者のために生命を犠牲にしたように感じた。彼はソファに倒れ込み、新たな発作で床に転げ落ちて息を引きとった。
プルースト自身は、アゴスティネリ死後に雇い、徴兵逃れのためにアメリカに亡命していたスエーデン人秘書、フォースグレンとホテル・リヴィエラで密会するために夜の11時から明け方3時まで空しく待ち続けた。1922年9月18日のことである。プルーストは肺炎から始まる気管支炎を患っており、その2カ月後11月18日の夕刻5時から6時の間に息を引きとった。死因は肺膿瘍である。その時、医師としてプルーストを看取った弟のロベールは「彼が進んで健康を犠牲にさしだすほど大切な人間とは一体どんな奴だ」と嘆いたという。
プルーストとその作品の全容に接近しようとする本稿の試みは、エドマンド・ホワイトの著作に忠実に従いつつ、プルーストが『サント・ブーヴに反論する』で批判した作者と作品を結び付ける試みに深入りしてしまったかもしれない。しかし、それは結果として、むしろプルーストの主張する一人の芸術家に内在する「社会的存在と創造的存在」の二つの存在を確認することになったのではないかと思う。ホワイトは彼の著書の末尾で、20世紀文学を拓いた『失われた時を求めて』の価値を詳細に論じている。それについては。いたずらに紙幅を拡げることをせずに割愛し、タディエ氏の評を熟読玩味することにしたい。ホワイト氏もそれに異論を唱えることはないであろう。
プルーストが深い関心を示し、また彼の生活を彩り、作品でも多くの頁を費やしたサロンについて触れるところが少なかったのが気がかりとして残る。プルーストはその社会に憧れながら、やがて病気のためにそこを去っていくのであるが、それは人間の愚かしさのルツボであり、社会の変動、浮き沈み、崩壊するフランス社会がそこに凝集されている。プルーストは『ジャン・サントイユ』で「ひとりのスノブでもある小説家は、スノブたちを描く小説家になるのだ」と記しているという。
添付写真は、⓵文中で触れたフェルメールの「デルフトの風景」と②ユージン・ドラクロワの「天使と戦うヤコブ」。後者はパリのサン・シュルピス聖堂の壁画である。神の使いである天使と戦い続けるヤコブはプルーストの生涯の苦闘を想起させる。⓷鈴木道彦氏の著作集が国立市の増田書店で展示された。
エドマンド・ホワイト氏は今年6月3日に亡くなられた。著書『マルセル・プルースト』は田中裕介の邦訳があるが品切れ。キンドル版がある。