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読書遍歴(27―2)「失われた時を求めて」
今回、本稿をまとめるにあたって私は書棚に潜んでいたエドマンド・ホワイトによる165頁の短い伝記『マルセル・プルースト』を読んだ。ホワイトは著名な小説家であり伝記作家であるだけでなく大学でプルーストについての講義を受け持ってもいた。そればかりか彼は公然たる同性愛者である。そのせいか、同性愛者でなければ知らないであろうような隠語に通じており、それによって彼らの世界に潜入して行くだけの分析力を持っていたように思われる。
プルーストの研究者たちの多くは作品論に傾き、彼の大作がどのようにして書き続けられたかの方法論(それは作品論に欠かせない)に疎いように見える。またプルーストの同性愛について深く立ち入った考察に乏しい。しばらく遠ざかっていたプルーストとその作品について、この忘れられていた小さな本は驚くほど多くのことを教えてくれた。
プルーストは1871年7月10日に生まれた。裕福なユダヤ人の家に生まれた母ジャンヌは、普仏戦争の敗北とそれに続くフランスの内戦下の飢餓状態の中でマルセルを身ごもっていたためマルセルは虚弱児として生れ、一時は生命も危ぶまれながら育った。2年後に生まれた弟のロバートは健康で活発であった。このように2人は対照的であったが、生涯を通じて仲が良く元気な弟の方が喘息に悩む兄の面倒を見る立場にあった。周知のようにマルセルは母親への依存心が強く、毎夜寝る前の母のキスが欠かせなかった。それも一度では足りずに、どうにかして母をもう一度呼び戻したいと思い悩んで過ごした。『失われた時を求めて』の冒頭「コンブレ」から短く引用すると下記のようになる。
「二階に寝に行くとき、私の心を慰める唯一のものは、ベッドにはいったあとで母が来てキスをしてくれるということだった。」その後、母が寝にあがってくるときに「その通り道に待ち伏せ、こうして廊下でもう一度『お休み』をいうためにずっと起きていたのが母に分かったら、もう家においてもらえまい、明日にでも学校の寄宿舎へ入れられてしまうだろう、それは確実だった。構うものか!たとえ五分後に窓から身を投げなければならないにしても、まだその方がましだった。いま欲しいもの、それはママンだ、ママンに『おやすみ』を言うことだ。」
この思い出の後に、菩提樹のお茶に浸したマドレーヌのかけらが、コンブレについての話者の記憶を連鎖的に呼び覚ます挿話が語られる。「(そして)ちょうど日本人の玩具で、水を満たした瀬戸物の茶碗に小さな紙きれを浸すと、それまで区別のつかなかったその紙が、ちょっと水につけられただけでたちまち伸び広がり、ねじれ、色がつき、それぞれ形がことなって、はっきり花や家や人間だとわかるものになってゆくものがあるように、今や家の庭にあるすべての花、スワン氏の庭園の花、ヴィヴォンヌ川の睡蓮、善良な村人たちとそのささやかな住居(すまい)、教会、全コンブレとその周辺、これらすべてががっしりと形をなし、町も庭も、私の一杯のお茶からとびだしてきたのだ。」
プルーストの作品と切り離すことのできないこのプチ・マドレーヌの記憶は話者が幼年期をすごしたと同じコンブレ時代のママンの口づけの記憶と双璧をなすものであるがこの方は無意識の記憶であった。それがコンブレについての記憶を次から次へと眼前に彷彿とさせる。プルースト一流の比喩をここに味わうことができる。
プルーストは『失われた時を求めて』以前に二つの作品を書いていた。『愉しみと日々』(1896年6月)と『ジャン・サントイユ』である。前者は出版されたが、愛情の破綻を描いた半自伝的な後者は完成に至らず、死後に出版された。いずれもプルースト研究家に使用されるが独立の著書としては評価されていない。
プルーストが次に向かったのはイギリスの審美主義者、かつモラリストであるジョン・ラスキン(1819~1900)の翻訳である。ラスキンが19世紀末の思想界にどれだけのインパクトを及ぼしたかは今では知りがたい。アメリカでは審美主義者たちによってラスキン・クラブが形成され、サンフランシスコの港湾地域には美術や民芸品にこだわった住宅が広まった。しかしラスキンの影響はこのようなプラクティカルなものばかりではなく、その本領は理想主義、つまり都会に埋没されようとしている個人の尊厳、労働する男女大衆の生き甲斐となる文化の重要性を主張したことであった。彼は野放図な資本主義に恐れをなし、独立した職人が社会を構成するユートピア的な中世を理想とした。彼の著作はガンジーの思想や萌芽期の英国労働党にも影響を与えている。
プルーストは1900年から1906年の間、ラスキンに没頭し、不得手な英語で人手を頼りにして『アミアンの聖書』と『胡麻と百合』を翻訳している。フランス文学では極めてまれなプルーストの複雑な構文や長い文章はラスキンのスタイルに類似しており、その時の訳業で身につけたと思われる。プルーストはラスキンの理想主義、反知性主義、審美主義には反応したが貧者に対する彼の道徳的見解には無関心であった。これはフランスでは改革は常に反カトリック主義の色彩が強いからでもあったろうが、プルーストにはもっと個人的な理由があった。
『胡麻と百合』は労働者階級の運命の改善をはかる手段としての読書の重要性を論じたものである。これに対してプルーストはその訳書の序文に「読書論」を掲載して、読書は子供の想像力を呼び覚ます、それ自体が目的である不思議な力を持つものであることを論じている。この文章においてプルーストは初めて、やがて『失われた時を求めて』で達成される、成熟して個性的なスタイルを十分に示している。(彼はこの文章ですでに、やがてコンブレとなる村での子供時代を描いている。)彼はまた、この文章で彼自身の審美眼とラスキンやウイリアム・モリス(美術工芸運動を主導した)のそれとを対比して見せている。
エドマンド・ホワイトは、作家としてのプルーストはこのようにして、彼自身の未成熟な2つの作品に始まり、ラスキンを師と仰ぐことによって一つの到達点に達したと説く。しかし、プルーストはその師に心服するところまでは行かなかった。プルーストの真価を示す最初の文章は、「読書論」に続いて現れたもう一人の偉大な思想家への痛烈な反論であるとホワイトは結論する。『失われた時を求めて』は文壇の大御所に向けられた遠慮会釈のない『サント・ブーヴに反論する』(未定稿1908~1910)の中に生まれたのであった。
1906年12月26日、プルーストはオスマン通り102番地へ引っ越した。そこは亡くなった大おじが所有していた6部屋のアパートで、繁華街にあり喘息患者には不向きであった。しかし、そこは母と一緒によく食事に訪れた家で彼は母の知らない家に住む気はなかった。1910年には寝室の壁をコルク張りにして、光、騒音、とりわけ埃を遮断した。埃の元となる家具は切り詰めて部屋は病室のようだった。ここにセレステ・アルバレが住み込むようになったのは1913年のことで、彼女はその後プルーストの死に至るまで10年にわたってその身辺に仕えた。プルーストはこの部屋で膨大な『失われた時を求めて』のほとんどを書いた。その発端となったのはシャルル・オーギュスタン・サント・ブーヴについての母との対話であった。
サント・ブーヴは小説の「伝記的手法」(作家についての入手可能な知識のすべてを知らなければその作家の本質を理解することは不可能であるとする批評の立場)をうち立てた。プルーストを憤激させたのは、サント・ブーヴがこの手法によって同時代の3人の偉大な作家、スタンダール、ボードレール、ネルヴァルの評価を大きく引き下げたことである。プルーストは最も重要な批評家の技量は、評価の確定した過去の作家ではなく現代の作家の評価に現れると主張した。
プルーストはまた、一人の芸術家の中には社会的存在と創造的存在の二つのものが共存しておりこの二つの存在の間の関連性は無きに等しいと主張した。『サント・ブーヴに反論する』プルースト死後の1954であった。)しかもこの評論集の前半には『失われた時を求めて』の母体となったと見てよい物語の断章が置かれている。プルーストは、ホワイトが『プラトンの対話編』になぞらえる「母との対話」から生まれた考えを直ちに書き下ろすことはせずに病床で熟考を重ねた。彼は自分の才能を疑う手紙を友人(ルシアン・ドーデ)に出している。しかし、彼は一日に10回も激しい喘息の発作に襲われるほどで、ものを書ける状態にはなかった。
1908年になってようやく、——というのはサント・ブーヴの生誕百年祭はすでに1904年に盛大に行われていた——もう一人の友人(ジョルジュ・デ・ラウリス)に次のように書いている。「私はサント・ブーヴについて何か書こうと思う。私はおそらく2編となる文章(雑誌論文)を考えている。1つは普通の論文、そしてもう一つはある朝の物語から始まるだろう。ママンが私のベッド近くに来て私はサント・ブーヴについて書きたいと思っている論文の話をし、その考えを彼女のために展開するだろう。」彼はその後に、彼の心は言いたいことで一杯のトランクのように重いと書いている。しかし、それから3カ月たった後もただの一行も書いていなかった。
この時期にプルーストが書いた手紙には彼が書きたいと思っている幾つもの話題が列挙されている。貴族の研究、パリについての小説、サント・ブーヴとフロベールについて、女たちについてのエッセイ、男色についてなど。ほかにも墓石、教会の窓のステンドグラス、そして小説についてのエッセイなども上げている。ここで注目されることは、プルーストはその発端において、彼の本を多くはエッセイからなる数冊の本と考えていたことである。『サント・ブーヴに反論する』は完成品とはならなかった。しかし物語と評論が同格に対置され、対応することによって、それらの総合としての『失われた時を求めて』の母体となったと見ることができる。
以上のような分析の後にホワイトは次のように言う。「これらの雑多な主題を一つに纏め、それを回顧録でもエッセイでも、また作品集としてでもなく、一冊の小説として仕上げられるということにプルーストが気づくまでには暫くの時間を要した。彼はジャンルをわきまえない著作家に惹き付けられるのを常とした。ボードレールの散文詩やフロベールの『感情教育』などを称賛しているのがその例である。しかし、これらの先人たちとプルーストの違うところは彼のプロジェクトの壮大さである。それは一人称で語る数人の人物の心の動きだけではなく、広範な社会のパノラマを描いたもの、一言にしていえば奥深さと共に広大さを備えた一冊なのである。」
プルーストが病を推して『サント・ブーヴに反論する』を書いたのは1908年から1910年の間と考えられる。それまでに彼の周辺には幾つもの不幸が訪れていた。1903年11月には父が死亡し、その2年後、1905年9月には愛する母を亡くして深く悲しんだ。
プルーストをめぐる最大のドラマは、いそいそとパーテイに出かけるダンディな若者、34歳にもなって2冊の薄い本とラスキンの翻訳を出しただけのマルセルが文学史上稀に見る長大かつ非凡な小説を完成する偉大なプルーストに成長したことである。その長大な作品にいつまでも着手しなかった心理的な側面を彼はその作品の最後近くで次のように説明している。「私の怠け癖はいざ仕事となると一日伸ばしにする習慣につながり、死も、同じように先送りできるかもしれないと想像したに違いない。」
遅延の芸術的な側面として、彼の野心があまりに大きかったことがあげられる。それは身近な若者の精神および芸術的な成長をパリの社交界のパノラマとともに描こうとするものだからである。それは作家としての多くの技術的なスキルを必要とするもので、プルーストは30代後半に至るまで、完成した流れるようなスタイルをものにすることはできなかった。
1909年8月半ばにプルーストはほぼ完成に近い「小説」(と彼は呼んだ)の出版をある編集者にもちかけている。彼の説明に従えばそれは幾つかの側面で『失われた時を求めて』に似てはいるが、(後に完成する4,300頁と比べてはるかに短い)300頁ほどのものでしかなく、その後に150頁のサント・ブーヴ論が続く予定とのことであった。幸いにして編集者はこれを断り、それを新聞に連載するという試みも実現しなかった。その後プルーストは慌てずに落ち着いて3年の間、彼の小説に取り組んだ。
1909年から11年まで彼はその小説の第一巻を書き直して拡充した。彼は草稿の細部を埋め、観察を書き加えた。プルーストにとっては書き直すということは書き加えることであった。1910年には後に『スワン家の方へ』と『ゲルマントの方』になる部分に取り組み、その翌年にはこれを『失われた時』と『見出された時』の二冊に仕上げた。
このように小説に熱中するにつれて他の著作は少なくなり、外出はほとんどしなくなった。しかし芸術への関心は衰えず時おりはオペラやコンサート、あるいは画廊に足を運んだ。このころロシア・バレーのディアギレフ、やニジンスキー、あるいはショスタコーヴィッチなどと食事をしている。若く才気豊かなジャン・コクトーと知り合ったのもこの頃である。
プルーストが彼の大著に取り組む時間が長引きいつまでも終りが来ないのではないかと落ち込むような時、彼はそれを絶えず拡張が続けられて完成することのないゴシック教会、あるいはワーグナーの楽劇「二―ベルングの指輪」に譬えるのを常とした。彼はワ-グナーのように「主題について自分が知っているすべて、近くのものも遠くのものも、易しいものも難しいものもすべてを吐き出す」ことを尊重した。彼は文学においてもこの種の包み隠しのない明晰さを好んだ。批評家の中にはワーグナーの歌劇「パルシファル」を『失われた時を求めて』のひな型になぞらえる者もいるほどである。なぜなら「パルシファル」では聖杯を、プルーストの小説では「文学の秘密」を、探求する若者を追っているからである。プルーストの「花咲ける乙女たち」は「パルシファル」の「花の乙女たち」に、(遠祖をドイツに持つ)ゲルマント一族(Guermantes clan)は聖杯の騎士の隊長ゲルネマンツ(Guernemannz)に、それぞれ対比するのである。