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読書遍歴(27の1)「失われた時を求めて」
読書遍歴を書き続ける中でどうしても避けて通れない一冊がマルセル・プルーストの大作『失われた時を求めて』(刊行1913~27)であった。全7巻の大作の第二巻『花咲く乙女たち』(井上究一郎訳)が新潮社の現代世界文学全集の一冊にあり、学生時代(57年3月)に読んだ。同じころに三笠書房からも現代世界文学全集が出されており、その一冊にやはり『失われた時を求めて』の最終第七巻『見出された時』(五來達訳)があった。私はこの本も同じころに国立市の書店(旭通にあり記憶では三笠書店が書店名であった)で手に入れたが読むには至らなかった。
私は『花咲く乙女たち』を読んで、その主要登場人物である画家エルスチールの語る芸術論、恋愛論、人生論に大いに啓発された。当時、恋愛論の主流はスタンダールでその結晶作用論は広く知られており、人生論についてはロマン・ロランの大河小説『ジャン・クリストフ』が読むべきものとされていた。私は『ジャン・クリストフ』は読まなかったが今振り返ってみると、私にとっては『花咲く乙女たち』がスタンダールやロマン・ロランの位置を占めていたのだと思う。
『失われた時を求めて』で私が次に読んだのは第五巻『囚われの女』で中央公論の「世界の文学」の中の一冊であった。訳者は一橋大学助教授の鈴木道彦である。プルーストは彼の大作をほぼ完成したところで、つまり最後まで手を入れることができないままに1922年に51才で亡くなった。そのせいもあって彼の文章は解釈に苦しむところが少なくない。私はそれを覚悟のうえで鈴木訳を読んだのであるが井上訳の第二巻よりもすっきりと読めて大いに満足した。ただ一ヵ所明らかに人名を取り違えていると思われるところがあった。そこで私は名訳を読ませて戴いたお礼に、そして一橋大学助教授ということの親近感から、それを指摘する手紙を書き、それに幾つかの疑問を書き添えたのであった。
鈴木道彦氏はそれに対して謝意を述べられた上で14頁にわたる長文の手紙で私が解明を求めた質問に関して「何度読み返してもそのように書いてあります。プルーストは心ゆくまで校正に時間をかけられなかったので往々にしてこのような場合があるのです」と述べておられた。鈴木教授は間もなく獨協大学へ移られたが、私はその後かなりの時間をおいてから(長い間日本を不在にしていた)再び教えを乞うことになりそれは昨24年11月に教授が亡くなられる一年ほど前まで続いた。
『失われた時を求めて』の日本語の全訳は淀野隆三を始めとするフランス文学者計6人の手によって1953年3月から55年10月にかけて新潮社から出版された。それは私が『花咲く乙女たち』を読んでプルーストの名を知った4年前のことであるが1958年1月からはその全訳の改訂版が訳者と出版社の一任を受けた淀野隆三によって新潮文庫として順次出版され始めた。私は早速それを購入して第一巻『スワンの恋』を読み始めたのだが、長く続けることはできなかった。通勤電車の中で読むことが多かったせいもあって興味が中断され、それを補うだけの集中力もなかった。アメリカの作家カーソン・マッカラーズは、私とは違って、本を置くことが出来なくなってそのまま読み続け、勤めていた保険会社を辞めてしまったということである。
『失われた時を求めて』の個人訳を最初に試みたのは五來達(とおる)であった。五來氏が三笠書房の『見出された時』の月報で明らかにしているところでは「昭和3年(1928年)頃から語学の勉強のためプルーストの翻訳をはじめた」。その後それが、三笠書房の社主の知るところとなり、昭和9年(1934年)からプルースト全集が出版されはじめた。しかしそれは五巻までで後は出版延期となり、その後訳し続けた原稿は戦火のため焼けてしまったという。戦争がなければ最初の個人訳全集は五來氏によって早々と達成されていたことであろう。五來氏は1927年頃、「小川泰一氏がプルーストを日本に紹介する文を読んだ。その年ちょうどフランス評論紙に『見出された時』が連載されていた』ので月々これに目をとおした」というから、プルーストはその頃から日本文壇に知られはじめたのであったろう。
五來氏は日大工学部化学科教室で研究に従事している畑違いの学者であり、外部に知られているのはその名前だけであった。井上究一郎は『見出された時』邦訳の月報に寄稿を求められた機会に初めて会ってその人となりを確かめている。
五來達氏は「翻訳は原文への漸近線である。数学の極限のように、限りなく近づく過程ともいえる。プルーストにあってはとくにその感が深い。プルーストは幾度もくりかえし翻訳され、絶えず新しい翻訳が前の翻訳を越えて試みられねばならない」と述べている。
『失われた時を求めて』の日本最初の個人訳は井上究一郎によるもので「ちくま文庫」から全10巻(1993年完結)で出された。それに鈴木道彦訳(集英社2001年完結、および同文庫版)が続き、さらにその後、岩波文庫から吉川一義訳(全14冊、〇年完結)が出されている。
20世紀最高の作品という評のあるプルーストの翻訳はこのようにして行われたが、プルーストについての解説、研究、論評は汗牛充棟もただならない。日本語の出版物だけを見てもその多くがフランス語に熟達し、フランスに留学し学位も取ったという人々であるから内容も多岐にわたり、好い加減なものではない。英語のものではあるがエリック・カーペレスの『プルースト作品中の絵画』(Paintings in Proust, 2008年)などは『失われた時を求めて』の文中で言及される絵画すべてを網羅した美麗な原色の画集といってよい。
プルーストの文章がいかに長く、いかに複雑であろうとも、いやむしろそうならばなおさらのこと、プルーストの作品にしがみついて、おそらく五來達氏がしたであろうように直接プルーストの本そのものから学ぶのが本筋に違いない。しかし私のように集中力を欠く読者にとっては、プルースト自身ではなくプルースト周辺の人々の語るプルーストも、たとえ雑音が混じっているとしても、捨てがたい。プルーストは実に多くのミステリーに包まれた作家だからである。
英国には早くからスコット・モンクリーフの翻訳があり、名訳の評が高かった。題名は
” Remembrance of Things Past “となっており、シェイクスピアのソネットから採られているというが、プルーストはこの標題を良しとしなかったという。伝記はジョージ・D・ペインターの『マルセル・プルースト』上下二巻があり、1959年に上巻が、またその時の予告通り6年後の1965年に下巻が発行されている。文書に残された第一次資料のみによって構成された詳細なもので、当時の並み居る文人から絶賛され、その評価は今日も維持されている。プルーストを知る人へのインタヴューを一切していなのは彼の名声が高まるにつれてその後に出てくる数多の証言と一線を画して、混乱を防ぐ結果になっているだろう。
プルーストは膨大な書簡を残している。イリノイ大学のフィリップ・コルプは1970年から93年にかけて、日付を特定し解説を加えた21巻に及ぶプルーストの書簡集を編集、出版している。プルーストは事ごとに猛烈な勢いで手紙を書いているので、それらはそのまま彼の生涯の再構成につながるともいえる。それはペインターの作業に共通するものを持っている。コルプは1949年という早い時期に大著『マルセル・プルーストの書簡』を出しているからペインターもその恩恵を受けていると思われる。
同じころに私が手にしたのは晩年のプルーストの身近に仕えた家政婦、セレステ・アルバレの語る『ムシュー・プルースト』(英訳1976年)である。プルーストの同性愛は知られてはいたが具体的なことはまだ霧の中にあったと思う。日中は病床にあり外出するとすれば埃の静まった夜でしかなかったプルーストに日夜仕えたセレステはプルーストの秘密に通暁しているに違いないということで広く関心を呼んだ本であったが、セレステはプルーストの同性愛を完全に否定している。プルーストを身近に知る人には明らかであったが活字を通してしかプルーストを知り得ない読者の中にはそれを真に受けた人もいたかもしれない。セレステはムシュー・プルーストを傷つけるような発言を極力慎んだのである。
プルーストに関してはもちろんフランス語の文献について見るのが王道であろう。しかし、フランス語を読めないものにとっては難解なプルーストに少しでも近づく手がかりとしては英語の文献に頼るしかなかった。『失われた時を求めて』を部分的に読んではいても私にとってパリはルーブル美術館の都であった。私は数日の滞在の間もっぱらルーブルに通った。印象派の絵画はルーブルの分館として使われたジュ・デ・ポームに集められていた。ミシュランのガイドブックを手にしてくたくたに疲れるまでパリを歩いた。名所や幾つかの通りの名前を覚えた。偶然のことながら小さな美術館で開かれていた「プルースト展」へも足を踏み入れたことを幸運と思った。帰る日にはブローニュの森の周りをタクシーで回って空港へ向かった。そこは話者が初恋の少女ジルベルトと遊んだ公園だったからである。
こんな次第で私は井上究一郎の全訳が出る前にあれこれの翻訳を渡り歩いて、心もとないが何とか一度だけ最終編の『見出された時』へたどり着いた。第二巻『花咲く乙女たち(の蔭)』と第五巻『囚われの女』を先に読んだことはすでに述べた通りである。その後は新潮文庫版の『スワン家の方』に始まってスコット・モンクリーフの英訳をへて最後は第七編井上訳の『見出された時』で終った。読了日は1993年10月24日とマークしてある。井上が完訳を達成して間もない頃、私が会社勤めを辞めて間もなくのことになる。深い印象を得られぬままに英訳に頼ったのはChatto & Windus社の英訳全巻を持っていたからである。まだロンドンに住んでいた頃、小奇麗な近くの本屋で12分冊の一部が並んでいるのを見て全部揃えられないかと聞いたところ、「ポツポツと出ているから出た順に買ったらいいでしょう」と言われてそれに従ったのだった。