白山人類学研究会第16回研究フォーラム(対面・オンラインハイフレックス方式)
みえない移民労働者――日本・台湾に生きるインドネシア人と共生の諸相
◎日時:2024年12月21日(月)11:00~17:30 (対面・オンラインハイフレックス方式)
◎会場:東洋大学白山キャンパス 2号館 16階スカイホール
◎要旨:
日本と台湾は、1990年代以来、労働力不足や少子高齢化を背景に、海外から多数の移民労働者を受け入れてきた。2023年、移民労働者の人口は、台湾では総就労人口の6.1パーセントを、日本では同3.4パーセントを占めるまでになっている。本フォーラムでは、これら移民労働者のうちインドネシア人に焦点をおき、かれらと地域社会との関係を、日常生活における共生(ないし非共生)という視点から探り、また比較検討する。
インドネシア人移民労働者は、日本では約12万人、台湾では約27万人を数える(2023)年。多くは、製造業、建設業、農業漁業等の非熟練労働部門で働いている。両国に共通する特徴としては、かれらが漁業部門の移民労働者の圧倒的多数を占めていることがあげられる。これらインドネシア人移民労働者は、職場を離れて地域社会の人びとと直接、交流することはほとんどない。とりわけ漁業のように船上を職場、宿舎とするインドネシア人は、ほとんど地域社会との接点がないといってもよい。
こうした「みえない存在」になっているインドネシア人移民労働者は、就労地でいかに自らの生活世界をつくっているのか、そこでホスト社会とどのように結びついているのか、またホスト社会はかれらにどう働きかけ、包摂しようとしているのか——本フォーラムでは、日台両国におけるインドネシア人移民労働者と地域社会との日常生活レベルでの関わりの諸相を、フィールドでの具体的事例によりながら提示し、そこにみられる共生(ないし非共生)の地域性および共通性を検討していく。
◎プログラム:
11:00-11:15 趣旨説明 間瀬朋子(南山大学外国語学部)・長津一史(東洋大学社会学部)
【問題の所在—インドネシア側の視点から】
11:15-11:55 発表① 間瀬朋子(南山大学外国語学部)
「海外で漁船乗組員になるインドネシア人の派遣と保護をめぐる法制度とその変化――中ジャワ送り出し漁村への影響をまじえて」
【日本のインドネシア人移民労働者と地域社会】
13:00-13:40 発表② 合地幸子(東洋大学アジア文化研究所)
「インドネシア人漁業技能実習生の日本における共生の様態―祭りを事例として」
13:40-14:20 発表③ 長津一史(東洋大学社会学部)
「宮城県三陸におけるインドネシアの系譜―マグロ、震災、パンデミック」
14:20-14:35 休憩(15分間)
【台湾のインドネシア人移民労働者と地域社会】
14:35-15:15 発表④ 柴山元(京都大学大学院ASAFAS院生)
「華人排斥とトコ・インド―台湾のインドネシア移民のたまり場の歴史」
15:15-15:55 発表⑤ 小池誠(桃山学院大学国際教養学部)
「台湾のモスクに集うインドネシア人―日本との比較に向けて」
15:55-16:10 コメント①:西川慧(石巻専修大学人間学部)
16:10-16:25 コメント②:今村真央(山形大学人文社会科学部)
16:25-16:30 テーブル設営
16:30-17:20 コメントへの応答と総合討論
進行役:ゴロウィナ・クセーニャ(東洋大学社会学部)
※本研究フォーラムは、科研費基盤研究(C) 「『みえる』移民、『みえない』移民―漁船、水産加工、魚食とインドネシア人」(代表:間瀬朋子)、人間文化研究機構・グローバル地域研究プロジェクト「海域アジア・オセアニア」東洋大学拠点(代表:長津一史)、井上円了記念研究助成「帰還移民の社会的再統合に関する比較研究」(代表同)、科研費基盤研究(B)「津波常襲地における海辺居住のレジリエンス」(代表同)との共催です。
Visual Anthropology as a Research Method: History of Soviet Documentary and Ethnographic Film
Ekaterina TRUSHKINA(Russian State University for the Humanities)
日時:2024年11月25日(月)18:15~ (対面・オンラインハイフレックス方式)
要旨
The Soviet documentary and ethnographic films are studied as a specific direction of cinema and at the same time as a complex phenomenon expressed by various methodological approaches and interactions between scholars and filmmakers. They also reflect the cultural and national policies of the USSR in the 1920s-1980s. I examine the ethnographic film as the most important cultural practice within the framework of national policy implemented in different periods of the history of the USSR.
The population of the Soviet Union was characterized by its ethnic and religious diversity. The Soviets paid a great attention to the elaboration of cinema as a great tool for mass propaganda and agitation among people. Ethnographic films take its own place closely connected with the nation-building processes and production of the image of a multiethnic Soviet state. The major state film project “The Cinema Atlas of the USSR” (1920s-1930s), initiated by the Soviet government, is a unique series of documentaries, which contributed to the political construction of images of new territories. The project idea was to collect a film almanac of 150 series about the life of different ethnic groups of the Soviet Union. Several film expeditions to different regions of the USSR were initiated. One of the first was organized by the film company “Soviet Cinema” (“СОВКИНО”) and took place in Buryatia. Documentary “Baikal” (“Байкал”, 1928) and fiction film “Storm over Asia” (“Потомок Чингисхана”, 1928) are the unique film documents that expand the boundaries of the research in the field of visual anthropology, as well as in the anthropology of religion, especially Buryat Buddhism.
Late history of ethnographic film in the USSR of the 1960s-1980s is closely connected with the Soviet intellectual culture. It is not easy to determine its boundaries and its place among academic and community practices and a wider range of film lovers and viewers. The research describes the activity of Soviet scholars from the All-Union Music Commission of the Union of Composers USSR (also known as Folklore Music Commission), involved in the process of creating such kind of films (on the example of the film “The Dreamtime” (“Времена Сновидений”, 1982) by A. Slapinsh, E. Novik, E. Alekseev). I also present the data on the practices of film screenings “Folklore on Screen” and organization of the first Soviet Festival of Visual Anthropology (1987).
ミナンカバウの一村落における高齢者の暮らし─25年前の事例
西廣 直子(東洋大学)
日時:2024年10月21日(月)18:15~ (対面・オンラインハイフレックス方式)
要旨
本発表は、修士論文「インドネシアにおける高齢化と高齢者の現状―ミナンカバウの事例―」をもとにした、調査村の高齢者の暮らしについての事例報告である。
発表者が調査した当時(2000年)のインドネシアの65歳以上人口の割合は全国平均で4.5%であったが、西スマトラ州(ミナンカバウの故地)は6.52%であった(BPS他)。調査地は10.3%であり、地域によってはすでに当時から高齢化が進んでいたことを明らかにした。一方出生率はそれほど低下しておらず、ミナンカバウの慣習である「ムランタウ(出稼ぎ)」が高齢化の一因として考えられた。
母系制社会ミナンカバウは、かつて男子は10歳になると生家を離れることが求められた。富や名声を得て「故郷に錦を飾る」のが良しとされたが、時代と共に学問のためのムランタウや、女性のムランタウも珍しくなくなり、ムランタウ先に家族ぐるみで移住する「ムランタウ・チナ(merantau cino)=中国風ムランタウ」が一般的になった(加藤、1983)。調査村も例外ではなく、過疎化も進み、「以前なら考えられなかった」という女性の1人暮らしや夫婦のみの世帯も全世帯の3割あった。
本発表では、1人暮らし高齢者、夫婦2人暮らし、家族と同居の3パターンを取り上げ、参考までに近隣の老人ホームの事例も報告する。25年前のミナンカバウ村落の実態を把握し、その中で見えてきた過去(当時よりも過去)の高齢者の暮らしを参考にしながら、「高齢者扶養」の視点でミナンカバウの母系社会を見る可能性を探る。
※本研究会は、人間文化研究機構海域アジア・オセアニア研究(MAPS)東洋大学拠点との共催です。
近代スポーツがケニア都市部の低所得層の若者にもたらしたもの
-富裕層とのネットワークの活用と再編-
萩原 卓也(東洋大学)
日時:2024年7月22日(月)18:15~ (対面・オンラインハイフレックス方式)
要旨
ケニアにおいても近代スポーツへの参加者が増加し、競技アスリートを含む実践者とそれを取り巻く支援者で構成される社会集団が形成されるようになった。そのような集団がどのように維持され、また引退後はどのような生活を営んでいるのかを研究調査することは、近代スポーツと人間社会のかかわりを検討するうえで欠かせない。
本発表では、競技生活から離れたケニアの元自転車競技選手が、競技時代に培った技能や富裕層とのネットワークをいかに活用・再編しているのかに注目する。そこで浮き彫りになってくるのは、特定の分野に注力するのではなく、重心を置きつつも周囲の需要に応じて自転車の整備や修理、サイクリングツアーのガイドなどをスポット的かつ身軽に展開していく彼らの姿である。さらに興味深いのは、アスリート的な「ディシプリン」を保持していない富裕層の身体の変革を図っていく実践も見受けられることである。このような事例から、競技生活をとおして低所得層の若者が得たものや、当該地域における自転車競技団体そのものの位置づけを考えたい。
発表者は、首都ナイロビ郊外に拠点を構える自転車競技選手育成団体Sにおいて、2013年より彼らと共同生活を営みながら、約7,500キロの距離を彼らとともに走ってきた。この団体は低所得層の若者たちをプロの自転車競技選手へと育成することを目標に掲げるとともに、ケニア社会を生き抜くために彼らを自律/自立させることも目指している。団体Sの特徴のひとつは、富裕層コミュニティとの密接である。ケニアの都市部では、中間層・富裕層の増加、環境問題や健康維持への意識の高まりが相まって、サイクリング人口が増加している。競技用自転車の整備や修理には特別な工具や技術が必要である。ケニア国内でサイクリングを楽しみたい観光客には、その土地に精通した地元のツアーガイドが不可欠である。このような需要に応えながら、彼らは引退後も富裕層とのネットワークを活用・再編していく。本発表では、2023年2月~3月、2024年2月~3月にかけて実施したフィールドワークのデータをもとに報告する。
※本研究会は、人間文化研究機構海域アジア・オセアニア研究(MAPS)東洋大学拠点との共催です。
文化が政治を動かすとき
-新たなインドネシア・ポピュラー音楽史の可能性-
金 悠進(東京外国語大学)
日時:2024年6月24日(月)18:15~ (対面・オンラインハイフレックス方式)
要旨
文化と政治の不可分な関係はカルチュラル・スタディーズをはじめとして様々な学問分野でしばしば議論されてきた。しかし、その「関係」はあいまいで、そして地域・国の歴史的な文脈によって異なる。 インドネシアでは植民地時代から現在に至るまでその密接な関係が議論の対象となった。とりわけ1998年の民主化においては、少なからぬミュージシャンたちが、学生運動やレフォルマシ(改革)に共鳴して反体制を掲げた。だが、歴史的には、スカルノ「指導される民主主義」期、スハルト権威主義体制期において、多くのミュージシャンが権力に依存せざるを得ない状況下にあった。かれらはいかに政治・経済権力に依存し、そして脱却していったのか。にもかかわらず、なぜかれらは民主主義時代において権力に依存せざるを得なくなってきたのか。それは現代民主主義にいかなる意味を付与するのか。これが本発表の骨子である。
欧米ポピュラー音楽の規制と民族文化の奨励を後押ししたスカルノ時代に、ミュージシャンたちは政権の意向に従いながらも、面従腹背の実践を行った。スハルト時代には一転して欧米ポピュラー音楽の規制が緩和され、非政治的なロックが黄金期を迎える。1980年代には企業協賛フェスが大々的に定期開催され、ポップ歌手・ダンドゥット歌手は政党の選挙活動に動員された。1990年代にはアンダーグラウンド音楽シーンが台頭し、民主化以降の音楽業界で影響力を増してゆく。その過程で、政府の新たな産業政策の推進役として重要な役割を担いながら、国軍の後ろ盾のもと「表現の自由」を謳歌していった。 本発表は拙著『ポピュラー音楽と現代政治―インドネシア 自立と依存の文化実践』(2023年、京都大学学術出版会)を土台とし、刊行後に浮き彫りとなった反省点(と開き直り)を振り返りながら、今後の研究課題の足がかりとなるものとしたい。
※本研究会は、人間文化研究機構海域アジア・オセアニア研究(MAPS)東洋大学拠点との共催です。
船大工のクラフツマンシップ
-インドネシア・南スラウェシの船づくりにみる技術の構造化と即興性-
明星 つきこ(日本学術振興会・東洋大学)
日時:2024年5月20日(月)18:15~ (対面・オンラインハイフレックス方式)
要旨
インドネシア・南スラウェシ州コンジョ地域は、ピニシ船(Pinisi)をはじめ、漁船や貨物船、また近年では観光船を含む大小さまざまな木造船の一大生産地として知られている。それらの船は地元の船大工らによって一つひとつ手作業で造られている。コンジョの船づくりの技術的特徴としては、設計図を用いないことや、外側の船殻を先に造り後から内側に構造材を取り付けるプランク・ファースト工法である点、また木製釘の利用などが挙げられる。こうした船づくりは、予め設計された通りに作業を進める近代的/西洋的な船づくりとは異なるが、それは必ずしもコンジョの船づくりが前近代的で劣っていることを意味しない。とりわけ現地で伝統的に船用材として用いられてきた木材の特徴を踏まえると、むしろ合理的であるとも言える。
本研究では、人類学的参与観察をもとに、船づくりの具体的な手順と船大工らがどのように素材を扱っているかを考察した。その結果、コンジョの船づくりは、ある程度パターン化された手順をもとに設計図を用いずとも船体を造ることが可能であり、また曲がりや歪みのある木材を使うために、素材の状態やそれを用いる状況に応じて各種道具を駆使しながら、即興的に適切なパーツを作り、組み立てていることが明らかとなった。本発表では、今日まで受け継がれているこれら技術的特徴を持つ南スラウェシの船づくりを通して、船大工にとってのクラフツマンシップとは何かを探り、また近年の物質文化研究においても重要視されている「もの」と人との相互的なかかわり合い(インタラクション)について検討したい。
※本研究会は、人間文化研究機構海域アジア・オセアニア研究(MAPS)東洋大学拠点との共催です。
博物館資料の情報を取り戻す試み
—タイ東北部バンチェン遺跡から流出した土器の現在—
中村 真里絵 (愛知淑徳大学)
日時:2024年4月15日(月)18:15~ (対面・オンラインハイフレックス方式)
要旨
博物館資料は、元々あった地域の文脈から切り離されて展示される。 それらは、出来る限りの情報を残すことでその資料的価値が担保されてきた。 しかし、実際にはそうした情報が付与されていない資料も多く存在する。 行政や研究者の支援を受けていない私設博物館のなかにはこうした資料整理に関する問題を抱えているところもある。 本発表では私設博物館が抱える現状を念頭におきながら、現在、発表者がかかわっている私設博物館、ヨコタ博物館の資料をめぐる問題について検討したい。 愛知県新城市に位置するヨコタ博物館は、故横田正臣氏が収集したコレクションが基になっている。 収集の契機となったのは、1969年の横田氏とタイ東北部のバンチェン遺跡の彩文土器との出会いである。 以降30年にわたって、横田氏は私財を投じて東南アジア大陸部を中心とする資料を1万点以上も収集し、1974年に行政を頼らずに一人で博物館を開設した。 収集の契機となったバンチェン遺跡は1960年代にその存在が知られると、出土する遺物の美しさとその年代測定値の「古さ」が注目を浴び、地域住民や古美術商らの手によりまたたく間に世界に流通したことが知られている。 日本へも多くの遺物が流出した。本発表では、バンチェン遺跡における地域住民への聞き取り調査から、これらの資料がどのように情報を失って日本にやってきたのか、またそれらの資料が現在どのような状況に置かれているのかを明らかにする。 その上で、失われた情報を取り戻す試みとして、現在すすめているヨコタ博物館の資料のデジタルアーカイブス化事業について紹介したい。
本研究会は、人間文化研究機構海域アジア・オセアニア研究(MAPS)東洋大学拠点との共催です。