回 専門家インタビュー Apr. 2021

生物多様性は「八百万の神様」ー「地球倫理」と現代版「鎮守の森」

竹内 生物多様性の問題は、気候変動問題と比較されることが多いですが、社会に説明するときには、独特の難しさがあります。よく言われるのは、気候変動問題というのは地球全体で同じ倫理をもとに説明できる「一神教」であるが、生物多様性はローカルな問題や地域や個人の価値観が入る「多神教」もしくは「八百万の神」であるので、万人の説得は難しいということです。そういった難しさがある一方、生物や生態系は地域の文化とかアイデンティティ、精神的な充足にも繋がっているといった独特の価値もあります。先生が本の中で書いていた「地球倫理」は、ローカルな自然観に個人をつけたしたもので、生物多様性の問題を考える、普及するには重要な倫理観だと思っています。これを広めていくには、どのような方策が考えられるでしょうか。


広井 私もその点に関しては非常に関心があります。今のお話のように、現在気候変動や脱炭素は社会の関心が相対的に高くなっていて、それに比べると生物多様性とか生態系の話はちょっと地味かもしれませんね。ただ、私はそれは発信の仕方だと思っています。ついこのあいだ、地元の新聞(京都新聞)に「生物多様性と「八百万の神様」」[13]という記事を書きました。ここでも、「生物多様性」は日本の「八百万の神様」の発想と通じるものがあること、「八百万の神様」が大事だというのは、生物多様性も大事ということを言っています。「八百万の神様」というのは生物だけじゃなくて風の神様とか岩の神様とか非生物もあったりしますが、自然がある種の内発的な力を持っているというものです。ですから、生物多様性とか生態系の重要さを、日本あるいは世界に発信する時、そういう「八百万の神様」・「鎮守の森」的なものと結び付けて発信することは有効かもしれません。幸い、かろうじて日本ではそれがまだ保全されているというか発想が残っています。例えば、ジブリ映画などもありますので、そういうものと結び付けてもいいでしょうね。環境省の次期生物多様性国家戦略研究会でも、そういう精神的な要素とか伝統文化、文化的な要素をもうちょっと盛り込むべきではないかというようなことも言ったりしています。あと、その関連ですとマイナーですが「社叢学会[14]」があります。社叢とは、神社やお寺の自然で、要するに鎮守の森ですが、この社叢学会は実は文系の研究者もいますけど植物生態学者もいます。社叢の森・鎮守の森的な視点から、この生物多様性や生態系の問題をもっと発信していこうという議論をついこの間もしたばかりで、その辺は今後非常に重要な点だと思っています。


竹内 日本の場合は、鎮守の森とか里山は身近にありますし、概念も浸透しているので受け入れられると思いますけれど、海外でもこの考え方は通じるでしょうか。


広井 これはまた面白いところです。実はですね、地球上のほとんどと言ってもいいぐらいの地域で、鎮守の森的な自然信仰や多神教的な世界が土台として存在すると私は思っています。例えば、北欧のノルウェーには「スターヴ教会」という木造の教会がありますが、ここではキリスト教と元々あった多神教的な自然信仰が結びついており、それは地域の一番根っこにあった自然信仰と一神教が融合している例です。ほかにもフィンランドではカレワラという民族の生成を唄った詩のようなものがありますが、ここでは面白いことに、「最初は多神教の神々がいっぱいいたけれど、キリスト教がやってきて神々が森に帰っていった」ということがうたわれています。このように、北欧でも土台に多神教的な自然信仰があって、その上に体系化された宗教であるキリスト教がのっかっているような構造があります。実は、日本の神仏習合も同じで、神道の土台の上に仏教がやってきてそれが独特な形で上手く混ざりあっています[15]。このように日本に限らず海外にも多神教的な発想はあると思いますので、地域の生物多様性との関わりから、発信したり連携したりしていけるんじゃないかと思います。


近藤 「鎮守の森プロジェクト」についてお伺いしたいと思います。このプロジェクトでは、コミュニティの繋がりの場として「鎮守の森」を捉えているのだと思いますが、なぜこの場所はコミュニティの核になりえたのでしょうか。以前は地域で生活していた人が神社や自然に関わっていたから「鎮守の森」の特別さを意識することができて、だから核になりえたのかと思うのですが、人間の暮らしぶりが大きく変わってしまった今では、「鎮守の森」の価値も変わって、コミュニティの核になりえないのかもしれないと思ったのですが、その辺はどうでしょうか。


広井 よく環境の分野とかで「懐かしい未来」という言い方がなされるように、単純に昔に帰るということではないと思います。むしろ、現代的に再評価するとか再発展するみたいな方向です。私が今やっているのは、鎮守の森を再生可能エネルギーと結び付けたり、あるいは今それこそマインドフルネスとか心身の癒しなどのセラピーと結び付けたりすることです。そのコアにあるものを活かしながら、現代的な形に再構成するといったことです。あとは、鎮守の森は、狭い意味の宗教施設ではなく社会的にも広い機能があります。例えば、お祭りとか、お寺の寺子屋とか市場のような、地域再生機能、教育機構、経済機能などです。私が注目したいのは、やはり「自然観」ですね。さきほど、「八百万の神様」というのは、まさに生物多様性というのを言い換えたようなものと言いましたが、「なぜ生物多様性が大事なのか」というのを多くの人はピンと来ないと思いますが、「八百万の神様が大事」と言い換えることができます。つまり、ジブリ映画のように「じゃあなんで自然を守らないといけないんですか」という問いに対して「そこに神様がいるから」という答えは1つのイメージで、日本の伝統的な自然観でもあります。さらに言うと、それは必ずしも神秘的な意味というよりは、自然というのは単なる機械ではなくて、混沌から秩序を生み出す力を持っているといったような、ノーベル化学賞を受賞したイリヤ・プリゴジンのいう自己組織化みたいなことで、それは現代的な自然観にも繋がるものではないかと思います。


近藤 「八百万の神」のような自然観があったから鎮守の森を重要に思うのではなくて、逆に、自然に関わって生活することで「八百万の神」のような世界観ができる、ということもありますか。例えば、地元の川の落差が急で生き物が移動できないので、みんなで石を積んだりして生き物が移動できる魚道にする、といったローカルな自然保全の取り組みがあります。これは自然が大事だからこういうような作業をするという面もあると思いますが、こういう作業をやることで八百万の神のような世界観ができることもあるのかと。私たちのチームで考えている「NbSシステム」でも、地域の住民がどこの生態系がどうだという情報を共有するプラットフォームとして利用できると考えており、これに基づいて実際に野外に出て作業をすることができれば、それは鎮守の森みたいな役割を果たすのではないかな、と思いました。


広井 それは素晴らしい発想で、私は基本的にそうだと思っています。これはちょっと哲学的な言い方になりますけれど、人間の観念とか意識というのは最初にそっちがあるのではなくて生活とか経済活動とか生産行動・活動とかの中で出来ていくのが価値観とか倫理だと思うので、まさに仰る通りだと思います。むしろ鎮守の森が現代的な形でそういう活動を通じてできるというのは素晴らしい考え方だと思います。

[13] http://kokoro.kyoto-u.ac.jp/20210401_hiroi/

[14] http://www.shasou.org/

[15] 特に江戸時代までは神仏が融合しており、その後明治になってから廃仏毀釈となり神と仏は分かれた経緯もある