タンザニア北西部のハヤのページにも記したように、アフリカのバナナ文化は大まかに、西部から中西部の低地帯に見られるプランテン文化と、中部から東部の高地帯に広がる東アフリカ高地系バナナ文化に特徴を見いだすことができます。
東アフリカのタンザニアに関しては、「バナナ食い」として知られる民族集団が幾つかあります。キリマンジャロ山麓に居住するチャガ(the Chagga)や、ビクトリア湖西岸域のハヤ(the Haya)は、いずれも東アフリカ高地系統のバナナ(AAA)が中心のバナナ文化を築いてきました。それに対して、ここで紹介するニャキュウサ(the Nyakyusa)は、タンザニア、ひいては東アフリカ全体で唯一、プランテンを基盤とした文化を形成している人びとです。
ニャキュウサはタンザニア南部、マラウィ湖の北縁に広がる地域に居住するバントゥー系農耕民です。これまでの研究から、彼らが始めてこの地域に定住したのは16世紀後半から17世紀前半と考えられています(Kalinga 1985)。ニャキュウサ社会にはかつて、‘世代村(Age Village)’と呼ばれる特徴的な年齢組織が存在していたことが知られています。簡単に説明すると、10歳頃になると少年たちが親の家から少し離れたところに各自の小屋を建て、同年代の少年たちでひとつの村を形成するというものです。植民地行政機構の影響で1940~50年代にかけて、伝統的な首長制が変質し、それに伴うようにこの世代村も作られなくなりましたが、この独特な社会構造は人類学的な関心を集めました[詳しくは、Wilson (1951)を参照]。栗田 (1987)は、80年代半ばのニャキュウサの村での調査から、10代後半の少年が自分の小屋を建てて住むというなごりは残っているものの、土地不足などと関連して半数以上の少年が親と同居していたと報告しています。
ニャキュウサは、標高500~2000m近くの非常に広い範囲に居住しています。そのなかのすべての地域で一様にプランテンが重要なのではなく、プランテンがとくに栽培されているのは標高700~1000m前後の地域です。それより低地では水稲栽培が多く、逆にルングウェ山山麓の高地ではトウモロコシ、そしてジャガイモの重要性が高くなっていきます。また、周辺にはさまざまな民族集団が居住していますが、プランテン中心の農耕様式はみられません。
調査地域は標高900m前後で、火山性の丘陵地が広がっており、土壌は比較的肥えています。年平均降雨量は2500mm前後と多く、月平均気温は15~25℃の範囲で温暖です。調査村は人口3000人弱、人口密度はおよそ40人/km2です。村では数十戸以上の世帯の屋敷畑がかなり密集して並んでいます。
ニャキュウサのプランテンやバナナはすべてカージャ(kaaja)と呼ばれる屋敷畑(ホーム・ガーデン)で生産されます。カージャはプランテンが中心の畑ですが、ハヤにとってのキバンジャと同様、さまざまな作物、樹木などから構成される多層的な空間になっています。カージャで栽培される他の重要な作物には、換金作物であるコーヒー、カカオ、カルダモンに加えて、タロ、カボチャ、アブラヤシなどがあります。ハヤが屋敷畑でトウモロコシやインゲンマメを栽培するのに対して、ニャキュウサはそれら穀類やマメ類の多くを別の耕起畑で栽培しています。ニャキュウサ社会では、男性がおもに換金作物や、バナナを含めたデンプン作物の栽培管理を担い、女性はマメ類や野菜などの栽培を中心的におこないます。
カージャの平均的なサイズは分かりませんが、計測した1枚のカージャは0.25ha、別のカージャは約1haほどの面積がありました。平均的にはおそらくこの間ではないかと思います。だいたいその中央付近に家屋や小屋などが建っていますが、それらは中庭(ulubingilo)を取り囲むような形で並んでいます。この中庭はいつもきれいに除草、清掃されており、意外なほど広い面積が充てられています。これがカージャの1つの特徴といえるでしょう。先の0.25haのカージャでは全体の1/3くらいを占めていたでしょうか。伝統的に一夫多妻のニャキュウサ社会では、それぞれの夫人が独立した家屋とバナナ畑とをもっており、それらが中庭を中心に円状に並んでいたようです。さらに詳しく調査しないと分かりませんが、この中庭はニャキュウサの世帯内、さらには村内の人びととの社交の場として重要なものと考えられます。
さて、カージャにおけるバナナの栽培ですが、管理のための実践が幾つかされているようです。例えば、ハヤの間でおこなわれている余分な葉や乾燥葉鞘の除去は、ニャキュウサでも実践する人が多いということです。実際に、除去した葉を地面に敷いてマルチングのようにしているひとがいました。また雄花序の除去も品種に関わらず一般的にされているようです。有機物の施用に関しても、家畜飼養者は積極的に乾燥糞や堆肥を施用しており(ただし家畜を飼養しているのは半数弱の世帯で、全体でも規模は小さい)、灰の施用もよくおこなわれているといいます。灰の施用は、ハヤがプランテンの品種に対してのみ実践している例がありますが、ニャキュウサはプランテンに限らず他のバナナにも用いるそうです。
この他、地域の農業改良普及員が土壌侵食の防止にテラス栽培を奨めていますが、実際にとりいれているひとは多くありませんでした。
土地利用や栽培形態をみると、高地系バナナを栽培するタンザニアの他の集団と大きな違いはなさそうです。ニャキュウサだけがなぜプランテン文化を開花させたのか、その理由を知るにはやはり、地域の歴史やバナナの伝播に関する情報を集めていくほかにないかもしれません。
1つの村で23の地方品種が観察されました。遺伝子型ごとにみると、2倍体AAが1、3倍体AAAが7、3倍体AABが9、2倍体ABが1、3倍体ABBが5品種でした。東南アジアで栽培されているプランテン以外のAABの品種は東アフリカでは報告されておらず[ロッセル(Rossel 1998)によると、中部アフリカにはもともとポルトガル人によってもたらされたAABのバナナが、今日では広く栽培されている。例えばバカ・ピグミー。]、ニャキュウサの場合も、AABの9品種はすべてプランテンです。この数は、同じようにプランテン文化が見られるカメルーンの熱帯雨林地帯の事例と比べると少ないといえます。ニャキュウサとプランテンとの関わりが中部アフリカのものより新しいことが関連しているのでしょう。
9品種あるプランテンのうち、雄花序をもたない(もしくは成熟につれて著しく小さくなる)ホーン・タイプが1品種ありますが('ngego')、残りはすべてフレンチ・タイプの品種です。フレンチ・プランテンはニャキュウサの言葉で'itooki'(複数はmatooki)と総称されます。ロッセル(Rossel 1998)は比較言語学的な分析から、この語彙は、ハヤ語などビクトリア湖周辺地域の言語で主食用バナナを指す'-tooke'に由来した借用語彙であると述べています。ハヤのページで紹介しているように、'-tooke'とは東アフリカ高地系統のバナナであり、ニャキュウサは主食用という用途から、これをプランテンに適用したのかもしれません。語彙について言えば、ニャキュウサは「熟した」状態のプランテンやバナナについて固有の語彙をもっており、それぞれ'ifufu'、'ibifu'と呼んでいます。村の年配者からうかがった話しでは、ニャキュウサは現在の地域に定住した頃には、火を利用しておらず、熟したバナナやプランテンを生食していたといいます。そのような時代があったとすると、「熟した」状態の果実に別々の語彙をもっていることも理解しやすいです。
プランテンのなかでも、'sege'はニャキュウサにとってもっとも重要な品種です。ある屋敷畑では、プランテンとバナナの全株数の半分以上をこの品種が占めていました。村びとによれば、'sege'はニャキュウサにとってもっとも古い品種であり、成熟した果実は他のプランテンよりもとても美味しいということです。
東南アジアや中部アフリカと異なり、タンザニアには料理して食べる3倍体AAAのバナナ、高地系統のバナナが分布しています。北部の高地ほどではありませんが、ニャキュウサもこの系統の品種を栽培しています。AAAの7品種のうち、3品種がそれにあたります。比較的最近になって導入された'uganda'という高地系品種は、その名の通りウガンダかタンザニア北部から導入されたと思われますが、全房が大きく、高地系品種のなかでもっとも人気があります。一方でかつて栽培されていた高地系品種が他に幾つかあったそうですが、果実が小さく好まれなかったなどの理由でいずれも数が減り、いまでは村で見られなくなったといいます。
ABやABBの品種はいずれも20世紀に導入されてきたもので、いずれも生食、料理、そして(わずかながら)酒造用と多目的に利用されています。
全体として見ると、プランテンが重要であることに加え、品種数からは遺伝子型の偏りがむしろ小さいことがニャキュウサの特徴といえると思います。この点においてはハヤの事例よりも、ルグルやザンジバルの事例に見られるような「インド洋複合」からの影響を受けていると感じます。
(1)食文化
上でも述べましたが、ニャキュウサは現在の地に定住したときからバナナやプランテンを生食という形で利用していたと伝えられています。ある年輩者は、その栽培が広まったのは火が利用されるようになってからだと話してくれましたが、初めの頃は焼きバナナにして食べたり、また、とくに乾季には、プランテンを天日干ししたのち粉にしたものを固粥にして食べたりしていたといいます。この固粥(kinyangwa)は、ニャキュウサのプランテン文化を象徴するもので、東アフリカでバナナの固粥を主食にしていた人びとは他に例がないと思われます。のちに導入され耕作が広まったシコクビエからも同様に固粥を作っており、長い間これら2種の固粥が調査地周辺では一般的な主食だったそうです。
一方で20世紀前半には、プランテンはインゲンマメと一緒に茹でて食されていたといいます。茹でたプランテンは'mbaraga'と呼ばれますが、これが1950年前後から固粥よりも頻繁に作られるようになったそうで、今日ではもっとも一般的な食事になっています。村ではプランテンだけではなく、あらゆるバナナが茹でて食べられています。プランテンの固粥は、年輩者が乾季に食べる程度になっているそうです。ちなみにシコクビエから作っていた固粥も80年代にはトウモロコシに代わり、最近ではシコクビエを地酒の原料としてもっぱら利用しています。
これらに加え、揚げたプランテンが村の軽食屋で作られています。村の中心に2軒あったほか、定期市を開く日には市のまわりに3軒ほどがこれを扱っていました。どこの店も決まって、揚げプランテンと豚肉の素揚げをメニューとしていて、夕刻を中心に若者や女性らで賑わっていました。
また、バナナを用いた軽食として、'fitumbura'というものがあります。これはキャッサバの粉と熟したバナナ[品種は'gulutu (ABB)'を用いることが多い]を混ぜて練り、その生地を平たく伸ばして揚げたものです。同じタンザニアのハヤにも同様なもの('baragara')がみられますが、ハヤのものは1枚の直径が5cm程度だったのに対して、'fitumbura'は直径が10cmはあろうかという大きさで、数枚でお腹は満たされてしまいます。
(2)物質文化
バナナに関するニャキュウサの物質文化で特徴的なのが、3種類の「ござ」です。いずれも収穫した作物(トウモロコシやシコクビエ、カカオ)を天日干しする際によく利用されます。これらのござはそれぞれに名称があり、また、調査地域のニャキュウサ女性の多くがこれらを編むことができるといいます。
'bulili'は、バナナの乾いた葉柄(petiole)から造られる長いござで、約1.5m x 3mの大きさがあります。細かく編み込むため、うまく使えば6年くらいはもつといいます。'luteefu'は、'bulili'よりも小型のござで、サイズはおよそ1m x 1.5mといったところです。偽茎外皮の乾燥葉鞘、もしくは乾いた葉柄を使って編み込んだもので、3年ほどもつそうです。これら両者の違いは、材料というよりも、ござのサイズに拠っているようです。3種類目は'ipuku'と呼ばれるもので、これも乾いた葉鞘、葉柄のどちらからでも作ることができます。葉柄で作る場合、先の2種類のござは1本の葉柄を4-5本に細かく裂いたものから編んでいくのに対して、'ipuku'は1本を縦に2本に裂いたものを使います。目が粗い分だけ早く作ることができるそうです。
葉鞘でござを作る場合には、どの品種のものでも構わないといいますが、葉柄を利用する場合には、'halale'(ABB)という品種を好んで用いています。バルビシアーナ(BB)の形質が強いほど、一般にバナナの繊維は丈夫といわれています。ニャキュウサのある村びとも、この品種を好むのは繊維が丈夫で長持ちするからと話してくれました。しかしながら、この'halale'は80年代に現れたという病虫害によって大きなダメージを受け、近年では栽培が減る傾向にあるといいます。この代わりに人びとは、'gulutu'や'kambani'といった別の品種の葉柄も利用するようになっているそうですが、これらの遺伝子型もそれぞれABBとABで、繊維の丈夫なものを選別して利用していることには変わりありません。
ニャキュウサのプランテン文化やバナナの利用については、まだまだ理解すべき部分が多く残されているように思います。とりわけ歴史的側面について深く考慮しないと、東アフリカでおそらくニャキュウサだけがプランテンとの密な関係を築き、文化を発展させた事実を適切に解釈することができません。
プランテン文化の生成期に遡ることは容易にはできませんが、20世紀半ば、首長制時代末期のニャキュウサとプランテンの関わりは、ウィルソン(Wilson 1959)の記述から多少うかがうことができます。例えば、ある首長は支配下のすべての村々で若いプランテンの葉や全房を刈り取ることを禁じ、他の作物を食べるように奨励したといいます。この首長の意図は他国に対する繁栄の誇示だったとされ、彼は、プランテンやバナナが青々と茂り実っていることによって国全体が豊かに見えると考えていたといいます。これとは別に、ウィルソンは幾つかの儀礼におけるエピソードを通じて、ニャキュウサ社会では、プランテンが男性を、バナナが女性を象徴する存在であることを描述しています。またロッセル(1998)も、各世帯がそれぞれに聖なるプランテン(もしくはその聖域)をもっており、祖先崇拝の儀式においてそれを利用していたことを述べています。これらのことは、プランテンがニャキュウサ社会において政治的、文化的な象徴として用いられており、彼らの文化に深く根ざした存在であったことを示しています。
このような話しを今回の調査のなかで耳にすることはできませんでしたが、バナナの伝播と受容という観点からも、この地域の異質性は興味深いものです。タンザニア独立以降の社会経済的な変容のなかで、ニャキュウサのプランテン文化がどのように維持され、または変化しているのか。これを少しでも理解するために、ふたたび訪問できたらと考えています。
-参考文献-
Kalinga, O. J. M. 1985 A History of the Ngonde Kingdom of Malawi (New Babylon Studies in the Social Sciences, No 45), Mouton de Gruyter, Berlin.
栗田和明 1987 「ニャキュウサ族の家と居住形式」和田正平編著『アフリカ 民族学的研究』p.609-630
Rossel, G. 1998. Taxonomic-Linguistic Study of Plantain in Africa. CNWS Publications vol.65, Leiden Research School CNWS, the Netherlands.
Wilson, M. 1951 Good Company: A Study of Nyakyusa Age Village. Oxford University Press, London.
Wilson, M. 1959 Communal Rituals of the Nyakyusa. Oxford University Press, London.