小笠原・八丈島~「日本」の「バナナ」の起源

【1】バナナとは?芭蕉とは?

 「日本人」はバナナという果物を「バナナ」と呼んでいますが、西洋の人々がバナナを「バナナ」と名付けるずっと以前から「日本人」とバナナに深いかかわりがあることに気付いているでしょうか?そしてバナナを「バナナ」と呼ぶようになったことと、「日本国」の成立過程に意外な関係があることをご存知でしょうか?

 このバナナの足HPでも説明しているように、果実が利用されるバショウ属の栽培植物、それがバナナと呼ばれているのですが、芭蕉(Musa basjoo)という観葉植物は「日本人」にとってなじみ深い植物でした。松尾芭蕉という俳号にも使われたのはご存知でしょうし、聖徳太子が注釈を記したとされる維摩経にも芭蕉の文言が出てきます。維摩経の十喩のくだりは、バナナの植物学的特徴をよくとらえている一方、アジアの人々になじみ深い仏教の概念もよく表しています。「是身如聚洙不可撮摩/是身如泡不得久立幻/是身如炎従渇愛生/是身如芭蕉中無有堅」(十喩の内4つまでを抜粋)というくだりですね。ちなみに最初の2つを解題したのが鴨長明の方丈記の書き出しです。

小笠原父島のキングバナナ

 維摩経、仏教の起源は、南アジアであることは周知のとおりです。そして、南アジアはバナナをかなり昔から栽培している地域の一つではありませんか。上記の「是身如芭蕉中無有堅」のくだり、サンスクリット語原典では「kadalī-skandhôpamo ’ya kāyo ’sārakatvāt」であり(植木雅俊訳 2011 『梵漢和対照・現代語訳 維摩経』 岩波書店)、つまり芭蕉はサンスクリット語では「kadalī」です。そして現在のヒンディー語では「kadalī」は南アジアの人々が普段食べるバナナだそうです。維摩経をはじめとする仏教経典が、サンスクリット語から中国語へ翻訳された際、東アジアに存在していた芭蕉という植物が「kadalī」の訳として当てられたのだと考えられます。

【2】日本語で最初に記載された「バナナ」

 バナナはある程度芭蕉なのですが、「バナナ」というカタカナ語が最初にバナナに当てられたのはいつのことでしょうか?安土桃山時代の呂宋助左衛門や山田長政のような、バナナが食用とされてきた地域を訪れる「日本人」が増えてきて以降、「日本人」がバナナに触れてきたのは間違いないでしょう。ただ、それらのバナナは「バナナ」という西洋の言葉ではなく、現地の言葉で理解され食されたはずです。

 「バナナ」という言葉が日本語で記載された記録は、筆者が集めた限り小花作助という幕臣が記した『小笠原島風土略記』(1862)が最初です。その頃、日本ではなかった小笠原諸島を日本領とするために派遣された小花作助らが、欧米系およびオセアニア系の島民から聞き取った諸事をまとめたもの、それが『小笠原島風土略記』です。実際にはその表記は「バナナ」ではなく、「ボナナ」なのですが・・・。その後、明治政府にも出仕した小花作助が編纂にかかわった『小笠原島誌纂』(小笠原島庁 1888)では「バナナ」表記ですし、読売新聞1884年8月5日号でマーシャル諸島の産物の一つとして「バナナ」が使われ、あるいは朝日新聞1892年8月27日号で「支那バナナ」の広告が出ています。小笠原や南洋の産物への接触、そして明治以降盛んになった外国からの輸入を通じて日本に「バナナ」が広まっていったのだと推測されます。

『小笠原島風土略記』(小花作助 1862)から抜粋

【3】小笠原のバナナは誰が持ってきた?

 小笠原諸島は幕末から明治にかけて、国民国家としての「日本国」が成立する過程で日本に包含された地域です。上記の小花作助らが小笠原に派遣されて以降、江戸幕府、そして政権が変わって明治政府によるアメリカやイギリスとの外交交渉の結果日本に包含されることになりました。ではそれ以前に小笠原に人は住んでいたのでしょうか?確実に記録に残るのは、欧米系およびオセアニア系の一団の人々が1830年にハワイから移住してきたということです。「ナサニエル・セボレー、マテオ・マザロ、リチャード・ミリンチャンプ、チャールズ・ジョンソン、アルディン・チャピンの欧米人5人とカナカ系の人々20人が初めて組織的に定住・開拓を始めた。」(全国離島振興協議会 1989『離島振興三十年史』)

 バナナは、この1830年前後に欧米系およびオセアニア系の人々がハワイあるいは太平洋の島々から持ち込んだものと推定されます。その品種が何であったのかについて系統分析を進めていきたいのですが、その頃の文献資料、あるいは現在の小笠原における分布など状況証拠からすると、「キングバナナ」(ゲノムタイプAAB)と呼ばれる品種であると考えられます。

小笠原父島のサンジャクバナナ

小笠原父島のサンカクバナナ

 『小笠原島誌纂』にも記述されているように、小笠原島庁は小笠原領有後から「内地」(中心は八丈島)からの開拓者を積極的に受け入れていました。またコーヒーやココヤシなど外来の作物を、ハワイやグアム、香港などから積極的に導入しようとしていました。その過程で、様々な品種が小笠原、さらには日本の各地にも持ち込まれていったと考えられます。現在、八丈島にも「キングバナナ」が多く見られるのですが、小笠原と八丈島の間の、開拓者を介した密なつながりが想起されます。

 小笠原と同じように、明治以後「日本国」は台湾を植民地としたり、パラオ等のオセアニアの島々を委任統治領として包含していきました。その過程で、「日本」領内でバナナの品種がやりとりされたことも、小笠原および八丈島の農家さんへの聞き取りから明らかになってきました。小笠原には「サンジャク(三尺)バナナ」(ゲノムタイプAAA)、「サンカクバナナ」(ゲノムタイプABB)と呼ばれる品種も見られます。サンジャクは台湾など東アジアを経由して、サンカクはパラオなどの「南洋」から、そのようなやりとりの中で第二次大戦前までに導入されたと考えられます。逆にパラオでは「Sato(佐藤?砂糖?) Banana」(ゲノムタイプAAA)という日本から持ち込まれたと語られる品種が存在したりします。

【4】現在の小笠原・八丈島のバナナ

 第二次大戦後、小笠原も含めた「南洋」、そして台湾は「日本国」ではなくなりました。その後、小笠原だけは1968年に改めて「日本国」に包含され、島々に残った欧米系およびオセアニア系の人々も「日本人」となりました。また戦中戦後、八丈島をはじめとする「内地」に引き揚げていた人々も「返還」後、徐々に再定住するようになりました。そのような経緯を見ると、小笠原のバナナは、日本というよりグローバルなバナナの伝播過程の中で考えるべきなのでしょう。また、小笠原に定住した欧米系およびオセアニア系の人々、そして「南洋」を行き来した八丈島出身の開拓者たちは、「日本国」の枠内にとらわれず活動してきた国際人であったと言えるでしょう。

 小笠原のバナナは、当初「内地」に輸出されかなりの商業的利益を上げたようです。しかし1910年ころ発生した萎縮病による大被害を受けて(朝日新聞1913年6月15日号)、その後大規模に生産されることはなくなったと考えられます。庭木として、畑のわきに植える畦畔作物として、時々人々の食卓を彩る穏やかな利用が現在まで続いています。2011年、小笠原諸島が世界遺産に認定されたのを一つの契機に、観光が小笠原の人々の暮らしに大きな影響を与えています。小笠原・八丈島のバナナは、「日本国」や「南洋」の歴史を知ることのできる、そして単純においしい産物として、貴重な資源であることは間違いないでしょう。以下、現在の小笠原・八丈島で見られるバナナの品種を写真で紹介しましょう。

JA小笠原農産物観光直売所(父島)で販売されるキングバナナ

小笠原父島の扇浦、小笠原島庁が建っていたあたりに生えているキングバナナ

小笠原父島の扇浦に立つバナナについての看板

小笠原父島の農園に生えているサンカクバナナ

小笠原父島、宿泊施設の敷地内に生えるサンジャクバナナ

小笠原母島の農園に生えているサンカクバナナ(父島のサンカクとは異なった品種と考えられる)

小笠原母島の農園に生えているモンキーバナナ(返還後導入された品種らしい、手前のキングバナナと樹高が異なる)

小笠原母島の農園に生えているキングバナナ

小笠原母島、観光協会案内所で配られていたモンキーバナナ

千葉大学で試しに育てている小笠原キングバナナ(左の2株は小笠原サンジャクバナナ)

八丈島、道路わきの私有地に生えているキングバナナ

八丈島、一般家庭の庭木として生えているロッカクバナナ(小笠原父島のサンカクバナナと同じ品種と考えられる)

八丈島の農家の温室で栽培されているサンジャクバナナ

八丈島ではロッカクバナナは熟したものを生食するらしい(写真はオセアニアの人々が料理バナナとして収穫する段階のもの)

実習で八丈島に滞在した千葉大の学生が試作したロッカクバナナコロッケ

同じく学生が試作した大学バナナ