戦争と平和
(用語は当時のものです)
1900〜1945
1900 伊・国王ウンベルト1世、暗殺
ヴィットーレ・エマニュエーレ3世が国王に
1900 Pareto, Vilfredo Frederico Damaso著, 川崎嘉元訳『エリートの周流 ―社会学の理論と応用―』✅
ドレフュス事件、ミラノ暴動を目の当たりにした「マキァヴェルリの後裔」は
激動の20世紀を予言(松島『経済から社会へ』p.58)
エリートという語を巷間に流布
パレート家は1792年に爵位を得、祖父の代にナポレオン1世から貴族に叙せられた
(松島『経済から社会へ』p.114の註(2))
この年、半引退生活のためにセリニーに移住、アンゴラ荘(ペルシャ猫の館)を開く
(松島『経済から社会へ』p.56)
p.8「人間行為のうち、その大部分は、それ自身の起源を論理的推論のうちにではなく、
感情のうちにもつ」
p.8「人間は、非論理的動機によって行為するよう強いられるけれども、人間はおのれの
行為を論理的にある種の原理に結びつけることを好む。こうして人間は、自分の行為
を正当化するために、事後的に、これらの原理を発明するのである」
pp.12-13:経済の循環(ジェヴォンズ、ジュグラー)は社会の循環の一例
p.19:モンテスキューに言及
p.19:エリートの語源はイタリア語のaristocrazia
pp.19-20:社会循環はエリートの交代劇
pp.22-27:社会契約説の批判
p.25:ヴォルテールに言及
pp.28-29:国家への宗教的帰依の抬頭
フランス革命、ドイツの神、イギリス帝国主義、フランス国家主義、
アメリカ・ジンゴイズム(狂信的愛国主義)、社会主義
p.30「少なからぬ衛生学者が自分の教義を守ろうとして興奮するさまは、いやしくも理性の光
を失っていない人びとにとっては、彼らが発狂したとしか思えないほどに異常である。
いうなれば、この人たちは、ひとりの人間の健康を保つためなら、その理由だけでこの人
を殺す用意さえあると思わせる。かくして、かつて人びとの魂を救うために、その人びと
を火あぶりにしてしまったあの宗教裁判にも劣るほどの分別しか示しえないのである」
pp.40-42:ガリレオの宗教裁判について
p.50:エリート衰退の2つの兆候(財産を奪う貪欲さを失わないまま柔和になる)
p.53:フランスとベルギーで過激な社会主義が伸長
p.55「仲裁裁判所においては、たとえ「雇用主」や「ブルジョアジー」の側にすべての正当性が
あろうとも、明らかに彼らは有罪とされてしまうであろう。このような裁判のまねごとしか
行われないところでは、正直な弁護士は依頼人に対して、敗訴するのは既定の事実である
から、訴訟を起こさないようにと忠告することになろう」
p.62「いま現在は土地所有者でありながら、将来は社会主義者になる者は数多い。かくして、
この人びとは、一度に二つのまぐさ桶からえさを得ることになる」
p.70:以前保守的であったミラノは、産業の発展とともに左傾化した
(経済発展が遅れたフィレンツェは保守的)
p.70:新しいエリート層は1870年(普仏戦争)以来の平和な時代に富を築いた労働者層
p.71:資本蓄積が進んだ社会で進む選別(AI時代に残る仕事)
p.79:フランスにおける新旧エリート
新:十分な気力と力強さ→階級闘争を主張
旧:疲労の極み→連帯を主張
p.85「しばらくのあいだは、新しいエリートも柔軟な姿勢をとり、すべての人びとに開放的な
姿勢を示すであろう。だが、ひとたび勝利した後には、他のエリートにも起こったと同様
のことがこの新しいエリートにも起こるであろう。すなわち、勝利の後、エリートは硬直
化し、排他的となる」
p.86「一七八九年の革命は、ジャコバン党の寡頭政治を生み出し、皇帝の専制政治によって幕を
閉じた」
p.87「ローマの主人たちは、経験から、奴隷自身に巣の中の卵を抱かせておく方が彼らの利益に
なることを知った。その方が奴隷をいっそう仕事に駆り立てることができ、その結果、
主人にとってはより多くの生産物が手に入るからである」
pp.103-104:懐疑主義者がヴォルテールという形式を、社会主義者がマルクスという形式を見出
した。時代の空気を具象化したのが思想家である
p.104:来るべき世界大戦と「軍事的独裁」を予言
実務家であったパレートは1890年に支配人を務めた製鉄会社を退社
同年サロンにてパンタレオーニの知遇を受け、彼を通して1891年にワルラスと出会う
1893年にワルラスの跡を継いでローザンヌ大学のポストを得たが、ワルラスへの思いは屈折
空想主義的理想に浸る観念論ワルラスと、イタリアの現実に身を焼く経験論パレート
政府介入を容認するワルラスと、絶対的自由を標榜するパレート
(訳者解説, 丸山『ワルラスの肖像』第7章)
世紀が転換するに応じて、パレートの心境も理性的自由から情念的権力闘争へと変化
1902年の著作では普通選挙を衆愚政治として痛烈に批判、貴族的エリートによる権力掌握を夢想
(活動家であった父の血を引く)
1900 英・ロンドン大学改組
各カレッジの教授会を主体として運営されてきたが、1898年に成立したロンドン大学法
により、LSEはロンドン大学の一部に組み込まれ、財政的な安定を得る1901年から経済学
の学位が授与される(木村『LSE物語』p.44)
1900 墺・ケルバー内閣
バデーニ言語令で遠心力が強まる帝国に融和をもたらすべく
公共投資等による経済発展を目指す(1901年の運河・鉄道建設法)
蔵相ヴェーム=バヴェルクは巨額の財政支出に反対、無力化する
(八木『オーストリア経済思想史研究』pp.67-71)
1900 明治33年・北海道拓殖銀行設立
1901 明治34年・官営八幡製鉄所設立
1901 明治34年・史料の編纂
『大日本史料』『第日本古文書』第1回配本
1901 明治34年・聖路加病院設立
皇室からの下賜金により築地に設立された聖ルカ教会(米国聖公会)の病院
1901 Wieser, Friedrich von『ドイツ・プラハ大学講演』
ヴェーム=バヴェルクとは幼馴染、妹はバヴェルクの妻に
台頭するチェコ人とドイツ人の対立により、チェコとドイツに分割されたプラハ大学の
ドイツ側の学長に就任したヴィーザー(ヴィーゼル)の講演
理論経済学の綺麗事では済まない現実に直面し、社会学へ傾倒
社会を規定するのは「契約」ではなく「権力」
オーストリア各地でドイツ系住民の立場が弱まるにつれ、ドイツ民族主義が台頭
これを見ていたのがヒトラー
プラハ大学は、神聖ローマ帝国皇帝カール4世が、ベーメンを帝国の中心とすべく教皇
クレメンス6世から設立特許を得て1348年に設立
15世紀はじめ、ボヘミア王に庇護され、プラハ大学学長を務めたヤン・フスの教えが
ベーメン人に広がり、また、学内選挙方式がドイツ人有利からチェコ人有利の方式に
変更された。ドイツ人はライプツィッヒに移動してライプツィッヒ大学を開学する
1415年、コンスタンツ公会議の決定によりフスは火刑に処せられる
フス戦争とその収束を経て大学はいったん消滅、再興は1622年、イエズス会の手による
第2次大戦時、ドイツに占領されたチェコではチェコ側の大学は閉鎖され、多くが亡命
大戦後、ソ連により解放されたチェコでチェコ側の大学が復活、ドイツ側の大学は閉鎖
現在残るプラハ・カレル大学はチェコ側の大学
フスによるドイツ人追い出し、フス戦争、三十年戦争、イエズス会、オーストリア帝国
の分解、ナチス・ドイツの台頭、ソ連による解放など、激動の歴史に翻弄されてきた大学
ヴィーザーが直面した大学分裂もその1つに過ぎない
1901 北京議定書
1902 Hobson, John Atkinson著, 矢内原忠雄訳『帝国主義論』✅
数学者のホブソン(ハロッド『ケインズ伝』上,p.68と親戚?)
1902 ブリュッセル協定
砂糖に関する関税・輸出奨励金の国際合意
輸入関税、内国消費税、輸出奨励金によって混乱を極めていた砂糖税制について
独、墺・洪、白(ベルギー)、西、仏、英、伊、蘭、瑞、那(ノルウェー)による合意
1902 明治35年・日英同盟
義和団の乱後、南下政策を進めるロシアを牽制したい思惑で一致
独墺伊三国同盟にも露仏協商にも参加せず、中立を保つ英国をカナダが讃えた
輝かしい孤立(Splendid Isolation)の終焉
背景に独接近を試みたジョセフ・チェンバレンの失敗
1903 英・ケンブリッジ大学、経済学トライポス(優等卒業試験)を創設
マーシャルの尽力による
実務的な側面をカバーしたのは歴史と政治問題の若手講師で人望があった
ゴールズワーシー・ロウズ・ディッキンソン(ハロッド『ケインズ伝』上, p.75)
1903 英・チェンバレン・キャンペーン
帝国特恵関税で雇用を確保すべきだとする主張(木村『LSE物語』p.31)
帝国内の関税を引き下げることで帝国内貿易を盛んにする
11月23日、マーシャルら14人はこのキャンペーンを批判する自由貿易の主張を
タイムズ紙に投書
1903 ロシア社会民主労働党の分裂
ボリシェヴィキ(多数派)とメンシェヴィキ(少数派)に分裂
1903 明治36年・永井荷風、アメリカへ赴任
日本大使館や横浜正金銀行に勤め、1907年には父のコネで横浜正金銀行
リヨン支店(フランス)に勤める
歴史の面影を残す欧米と、文明開花を機に江戸を捨て去る日本の対比
(阿部謹也『「世間」とは何か』pp.209-210)
1903 明治36年・七博士意見書
東京大学を中心とする教授たちが桂内閣の外交姿勢は軟弱だとして批判
厳しい現実が見えない博士たちを伊藤博文は黙殺
1904 ムッソリーニ、瑞ローザンヌ大学にてパレートの講義を聴講
1902年からこの年までスイスに滞在、社会主義的活動の合間に
レーニンの秘書であったアンジェリカ・バラバノーヴァとも交流、マルクス主義を学ぶ
ムッソリーニのある講演の聴衆の1人がレーニンであったとも伝わる
期限切れビザの問題で投獄されようとしていたムッソリーニを救ったレンシは後に『ファシズム
の理論』を刊行、自らもファシスト党に関わったが、これが右傾化すると離れ、弾圧された
同年11月14日、イタリア皇太子誕生に伴う大赦にて赦され、ムッソリーニは帰国の途につく
(ヴルピッタ『ムッソリーニ』pp.79-85)
1904 明治37年・日露戦争
戦中、日本から退去したロシア大使館は上海を拠点とし、アレクサンドル・パブロフ
を中心にフィガロのフランス人記者バレという名のスパイを仕立て、日本に派遣
伊藤博文や大隈重信など中枢に食い込み、講和交渉の手の内を察知していた
(名越越郎『ゾルゲ事件』p.257)
「エリート層の情報管理が甘い日本は、日露戦争の頃から「スパイ天国」だった」
(名越越郎『ゾルゲ事件』p.260)
1905 明治38年・日本海海戦
5月27日早朝、本日天気晴朗ナレドモ波高シ
https://www.youtube.com/watch?v=3xLvnGkbu7c
1905 明治38年・ポーツマス条約
9月5日、米大統領セオドア・ローズヴェルトの仲介で
同日、日比谷焼き討ち事件、背景にマスコミの煽り
1905 Knapp, Georg Friedrich著, 小林純・中山智香子訳『貨幣の国家理論』
19世紀後半、オーストリア帝国の貨幣は銀の価格を上回る価値を有していた
紙幣が本位を上回る価値を持ちうることを理論化
1906 Pareto, Vilfredo Frederico Damaso『経済学提要』
1906 英・労働党結成
1900年に成立した労働代表委員会が党に
1906 モロッコ問題に関する会議
モロッコの監督権をめぐる独仏の争い
1907 英仏露の三国協商成立
英仏協商は1904年成立、日露戦争に敗北した露とこの年に協商を結び三国協商へ
イランを事実上分割統治する(北部は露、南部は英)
1907 米・母の日キャンペーン
メソジスト派のアンナ・マリー・ジャーヴィスが5月12日を母の日とした
後日、仏独伊などで大衆の心を掴むために政治利用される
1907 第2インターナショナルの大会
独シュトゥットガルトにて開催、来るべき戦争に乗じて革命を起こす方針
しかし、母体が労働者である以上、働く場である国家を転覆させる革命は
支持されず、先鋭化したレーニンらは居場所を失う
体制内で労働者の権利を実現:カウツキーらの社会民主主義路線
少数精鋭の活動家が革命を主導:レーニンらの共産主義路線
(佐々木太郎『コミンテルン』pp.18-20)
1908 内村鑑三『代表的日本人』✅
13年前(1895年)に『日本及び日本人』(Japan and the Japanese)という題で
発表した英文著書は徳富蘇峰の尽力もありよく売れた
日清戦争時の義戦論から日露戦争時の非戦論へ心境が変化したことを受けて
一部を除いて再版
フランスの首相クレマンソーが読み、もし日本に行くことがあれば内村と会いたいと
言ったというエピソード
キリスト教者である内村は、日本の美徳をキリスト教の文脈で理解する
西郷隆盛、上杉鷹山、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮上人を「代表的日本人」として紹介
西郷隆盛:西郷とペリー提督を同じ魂を持つ人とみる
木戸や三条を欠いても維新は成ったが、西郷なくして維新は成らず
クロムウェル的な西郷とナポレオン的な太閤秀吉を偉大な歴史的人物と評価
上杉鷹山:鷹山による米沢藩の再建をいわゆる千年王国論(サヴォナローラのフィレンツェ
共和国、クロムウェルのイギリス共和国、ウィリアム・ペンのペンシルヴェニア
入植を例示)になぞらえる
「民の声は神の声」と、改革の是非を家臣団に諮った
耕作放棄地の再開墾、漆と桑の栽培、灌漑用水の整備など、産業振興に尽力
二宮尊徳:父を早くに亡くし、叔父に預けられた尊徳は独立独歩で富を築く
「「自然」は、その法にしたがう者には豊かに報いる」
廃村復興の救世主として、小田原藩主大久保忠真は尊徳に白羽の矢を立てる
中江藤樹:ジェントルマン養成所としての江戸期の教育(藩校)
「"学者"とは、徳によって与えられる名であって、学識によるのではない。学識は
学才であって、生まれつきその才能をもつ人が学者になることは困難ではない。しかし、
いかに学識に秀でていても、徳を欠くなら学者ではない。学識がある人だけではただの
人である。無学の人でも徳を具えた人は、ただの人ではない。学識はないが学者である」
(p.123)
熊沢蕃山との出会い(p.127)
藤樹は、庭にあった藤の木から
https://www.city.takashima.lg.jp/material/files/group/1/R605_36s.pdf
日連上人:明治期の日ユ同祖論
明治27(1984)年1月29日『史海』30号, 槐陰迂叟「上代考一斑」
聖書に従う宗教改革者ルターになぞらえる
八万の法蔵といわれる経典から、最後に説かれた法華経を選ぶ
1908 英・老齢年金法
70歳以上の低所得者に年金支給、海軍の軍縮により財源捻出
1908 土・青年トルコ党の乱
立憲政治へ移行
墺、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ併合
露、ダーダネルス海峡の航行権→英の横槍で実現せず
1909 Walras, Marie Esprit Léon著『経済と力学』
数学者ポアンカレとの書簡を収録
主観効用を式で表すことができるか
(丸山『ワルラスの肖像』pp.289-290)
1910 Hilferding, Rudolf著, 岡崎次郎訳『金融資本論』 資料
1910 米・グリーンランド買収の申し出
駐デンマーク米大使モーリス・イーガンが米植民地であるフィリピン・ミンダナオ島
等との交換を提案も、不首尾に終わる
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/25/012700046/
https://jp.mondediplo.com/2025/03/article1618.html
1910 明治43年・塩の専売
(宮本常一『生きていく民俗』p.144)
1911 明治44年・夏目漱石、政府から博士号授与の打診を受けるも断る
阿部謹也『「世間」とは何か』p.183に夫人への手紙が収録されている
1911 英・国民保険法
低所得者向けに失業と健康の保険
ロイド・ジョージ「4ペンスに対して9ペンスを」 (村岡・川北編著, p.227)
1911 英・議会法
蔵相ロイドジョージが提出した予算を貴族院が妨害したことをきっかけに
貴族院に対する庶民院の優越を定める
同年、議員歳費を認める(ノブレス・オブリージュから職業へ)
1911 Schmoller, Gustav von著, 田村信一訳『国民経済、国民経済学および方法』✅
1893年に『国家科学辞典』第6巻として初出
1897年にベルリン大学総長に就任したシュモラーは、官僚アルトホフを通じて
ドイツの大学からメンガー率いるオーストリア学派を排除
強権的なやり方はゾンバルトやウェーバーの批判を招く
一方、メンガーはウィーン大学からドイツ人を排除、後継者を純粋培養
第1次大戦でドイツ敗北、失意のうちにシュモラーとその学派は終焉を迎える
1911 Taussig, F. W., Principles of Economics
https://archive.org/details/principlesecono00unkngoog
1911 辛亥革命
1912 清滅亡
この後の中国大陸は軍閥割拠の無法地帯に
1912 Mises, Ludwig Heinrich Edler von著, 東米雄訳『貨幣及び流通手段の理論』✅
1912 Schumpeter, Joseph Alois著, 塩野谷祐一・中山伊知郎・東畑精一訳『経済発展の理論』✅
メンガー、バヴェルクから受け継がれたオーストリア学派の思想
1912 Pigou, Arthur Cecil著, 八木 紀一郎監訳, 本郷亮訳『富と厚生』✅
1912 明治45年・改元
7月30日に明治天皇崩御、大正へ 資料
1912 第1次バルカン戦争
ロンドン条約でトルコはヨーロッパを失地
パレート『一般社会学提要』p.179に伊土戦争についての記述
1912 伊・ムッソリーニ、社会党から穏健派を追放、主導権を握る
伊土戦争に反対しなかった穏健派を糾弾、フォルリーという一支部の書記長から中央進出
党の機関紙『アヴァンティ!』の編集長に就任
(ヴルピッタ『ムッソリーニ』p.109)
1913 第2次バルカン戦争
トルコからもぎ取った果実の奪い合い
ブカレスト条約でブルガリアが失地、トルコは領土の一部を回復
モンテネグロの併合をオーストリアに阻まれたセルビアに怒りのマグマがたまる
1913 Keynes, John Maynard著, 則武保夫・片山貞雄訳『インドの通貨と金融』✅
同窓生でもあったマクミランの出版社から出版、1942年半ばまでに4,900部ほどを
売り上げるベストセラーに、同時期に発刊した『確率論』も1942年半ばまでに3,500部
を売り上げた(ハロッド『ケインズ伝』上, p.191)
1914 Schumpeter, Joseph Alois著, 中山伊知郎・東畑精一訳『経済学史』✅
1914 英・三角産業同盟
鉄道、鉱山、運輸の労働組合の同盟
大規模ストの計画は第1次大戦で頓挫(村岡・川北編著, p.225)
1914 第1次大戦
6月28日、皇帝フランツ・ヨーゼフの甥フェルディナントが暗殺(サラエボ事件)
7月28日に墺とセルビア公国の間で戦闘が始まる
独のベルギー侵攻をみて、英も協商側で参戦、ヨーロッパ中に飛び火
リヒャルト・ゾルゲはドイツ軍に、ヒトラーはオーストリア軍に従軍、2人とも負傷
ゾルゲは看護婦から社会主義の洗礼を受けてドイツ共産党入党、1925年にモスクワへ
渡りソ連共産党に入党、1929年にスパイとして採用され、1930年から上海で活動
(名越越郎『ゾルゲ事件』p.19)
1914 英・ロンドン証券取引所の取引停止
7月28日にオーストリアとセルビアの間で戦闘が始まる
7月30日にはバンク・レートを4%へ、31日には8%へ引き上げて、ロンドン・シティ
からの資金流出を食い止めようとした。同日7月31日(金)に証券取引所の取引停止
人々は週末の支払いのための少額現金を求めてスレッドニードル街に列をなした
当時少額紙幣がなく、金貨での支払いであった(5ポンド紙幣では生活の用をなさない)
8月1日にはバンク・レートを10%へ引き上げ、無制限に銀行券を供給する書簡を出すも
事態は沈静化せず、8月3日(月)から6日(木)までバンク・ホリディとなった。
8月6日、カレンシー・ノート(政府紙幣?)発行の法案が成立し、バンク・レートは
7日に6%、8には5%に引き下げられた。
1917年末には、カレンシー・ノートの発行残高は2億1,278万ポンドに上り、銀行券の
7558万ポンドの3倍に達した。
(金井雄一『中央銀行はお金を創造できるか』p.29, pp.38-39, p.66)
1915 伊・オーストリア=ハンガリー二重帝国に宣戦布告
協商国からイタリア領土拡張を持ちかけられたロンドン秘密条約による
ムッソリーニも従軍し、最前線で大怪我を負い除隊
参戦により、伊に国民意識が芽生える
(ヴルピッタ『ムッソリーニ』pp.130-133)
1916 Pareto, Vilfredo Federico Damaso『一般社会学概論』
概論としながら、2,000ページほどの大著で難渋極まる
この書の要約版として『一般社会学提要』が出版される
「パレートの思想は若い人向けではない。それが最も多くを示唆するのは、世間という
ものに少しくうんざりしはじめている成熟した人々に対してである」との言を引用
(パレート『一般社会学提要』校訂者あとがき)
1916 英・徴兵制
アスキス内閣による
(ハロッド『ケインズ伝』上, pp.244-245)
1916 英・キッチナー元帥戦死
6月5日、ソ連との交渉に向かう途上、乗船した巡洋艦ハンプシャーが機雷に触れ沈没
ケインズは直前までこの船に乗船予定であった
(ハロッド『ケインズ伝』上,p.248)
1916 独・カブラの冬
英による海上封鎖により食糧途絶、76万人(戦時の誇張?)が餓死
(小野寺・田野『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?』p.87)
1917 ロシア革命
2月革命
ロシア暦2月23日(現在の3月8日)
女性労働者のデモを発端に、ロマノフ朝崩壊
厭戦気分という導火線にレーニンが火を付ける
革命政府とソヴィエト(評議会)の二重権力に終止符を打つべく
「すべての権力をソヴィエトへ」
10月革命
ロシア暦10月25日(現在の11月7日)
レーニン、トロツキーが権力を握る『世界を揺るがした10日間』
資本主義が未発達のロシアに起きた革命は、マルクスの理論と真逆の現象
11月選挙
革命を主導したボリシェヴィキは第1党を取れず
1917 伊・カポレットの悲劇
10月、伊軍は壊滅的な敗北を被る(ヴルピッタ『ムッソリーニ』p.135)
ヘミングウェイ『武器よさらば』の舞台
1917 フィンランド独立
12月6日、フィンランド公国は、民族自決を謳うロシアの革命政府と革命によって
生じたロシアの混乱に乗じて独立を果たす
王国樹立を目指すも革命勢力に阻まれ、革命勢力はドイツ介入によって排除される
など混乱が続くも、大戦後の1919年にフィンランド共和国として各国の承認を得る
1918 露・ボリシェヴィキの独裁色強まる
1917年11月の選挙で第1党を取れなかったボリシェヴィキは
1月、憲法制定会議の解散を強行、ボリシェヴィキの独裁色が強まる
学者肌のカウツキーは、デタラメな国家運営を厳しく非難
(佐々木太郎『コミンテルン』p.21)
1918 独・ベルリンにてストライキ
1月、軍需工場でストライキ、厭戦気分が高まる
(ウェーバー『社会主義』はじめに, p.5)
1918 ウィルソンの14か条
ウィルソン米大統領の議会演説
1918 ブレスト・リトフスク条約
3月3日
ドイツの革命家への働きかけも実を結ばず、また1月に組織した労農赤軍
による抵抗も虚しく、ドイツのロシア侵攻は止まない
単独講和によりロシアは多額の賠償金を課され、領土も割譲
レーニンは農村部において恐怖政治を敷く「富農を縛り首にせよ」
(佐々木太郎『コミンテルン』p.24)
1918 大正7年・シベリア出兵
バイカル湖の西、イルクーツクまで
同年、米騒動も
1918 スペイン風邪大流行(インフルエンザのパンデミックが米から世界へ)
3月に発生、秋にピーク(5億人感染、5,000万人以上の死者) 資料
第一次大戦での戦死者は1,600万人規模とされる
1918 英・普通選挙法
投票の財産条件撤廃、30歳以上の婦人に参政権
年末の選挙でロイド・ジョージが圧勝、戦後の住宅政策として田園都市構想
1エーカー(1,200坪ほど)につき12戸というある程度ゆったりとした敷地
大平正芳はこれに学ぶ
1918 Weber, Max著, 濱島朗訳『社会主義』✅
1月にドイツで起きたストライキから厭戦気分、社会主義革命の不穏な空気が漂う6月
オーストリアに乗り込んだウェーバーは墺の将校に対して講演(はしがき)
p.24:「将校団はやはりわれわれとは別の身分に属しており、どんなに望んだところで、機械
とか鋤の背後にあるわれわれの状態を、自分たちがするほど完全に自分たちの身になって
考えることは不可能なのだ、これは争えない事実なのだ」というドイツ兵の本音
p.25:「あなたは社会主義者に利用されている」という説得は、「いや、社会主義者を利用
しているのがわれわれである」という反論を受けるので力がない
pp.28-29:スイスの直接民主制の下では、貴族的な資産家が知事に選出されてきた
政治に関わるには「ゆとり」が必要なため
民主制は金持ちによる低コスト運営か(スイス)、高給を得る官僚による高コスト運営
か(アメリカ)
p.33:そのアメリカでも、党派的官僚から職業官僚への転換が急速に進んでいる
pp.33-34:今日の戦争は、いわゆる「戦争御用商人」によってではなく、大学出の官僚によって
引き起こされる(品のない金儲けを廃し、尚武の精神を称揚する決闘としての戦争)
→資本家を悪役に仕立てる社会主義者への警戒、逆に原因は社会主義的官僚なのだと
p.36:「教育された専門官僚群による管理の必要という事実は、社会主義といえども考慮に入れ
なければならない第一の事実なのであります。近代経済をそれ以外の方法で管理すること
はできません」
p.37:手工業者が息づいているところでは今なお自主独立精神があるが、大企業では経営手段
(工場や店舗、原材料など)が労働者から分離されており、賃金奴隷と化している
p.38:これは大学の研究者も同様である(講堂や器具、機械は大学の所有で、研究者はそれを
「使わせてもらう」立場に堕している。いつでも解雇されうる)
p.39:兵も同様に、馬や甲冑、食料等を国から与えられて戦う官僚制の底辺に位置する
pp.40-41:企業、大学、軍隊にみられる「働き手の経営手段からの分離」は民主主義・資本主義
の世でも社会主義の世でも変わらない運命
pp.41-42:社会主義者は、私的経済秩序は「生産の無政府状態」であるという
p.44:私的経済秩序においても穀物など必需品については安定供給を意識して、自由貿易に
任せることはなかった
p.47:「競争の重圧下では、収益性はできるだけ、多くの人間労働、およびいちばん高い賃金を
とって経営にもっとも高価につく種類の人間労働を、労働を節約する新機械によって排除
するということにかかっています」
p.51:私的経済にも、社会主義者のいう「共同経済」の側面がある(カルテルやシンジケート)
ただ、社会主義においては異議申し立てができないため、労働者の隷属性は深まる
p.52:国家官僚と私的経済の官僚的機構が一体化する国家社会主義は統制不能に陥り
「せつない」
1918 Spengler, Oswald Arnold Gottfried 『西洋の没落』
1918 Schumpeter, Joseph Alois著, 木村元一・小谷義次訳『租税国家の危機』✅
1918 独・終戦とその後の混乱
厭戦気分が蔓延していた独海軍に出撃命令が下ると、それに反発した兵士たちは
11月4日、キール(ハンブルグの北、デンマークに近い軍港)にて暴動を起こす
兵士は労働者と協力し、労兵協議会(レーテ:ロシア語ではソヴィエト)を設立、
市政を掌握
11月7日、ミュンヘンのウィッテルスバッハ王朝は退位を宣言、全国に飛び火
アイスナーが権力を握るも、左右両派、キリスト教者から非難を浴びる
11月9日、マックス首相はヴィルヘルム2世の廃位を宣言、自らも辞任し
社会民主党(SPD)のエーベルトが首相に就く
シャイデマンは共和国の成立を、リープクネヒトは社会主義共和国の成立
を宣言、混乱が広がる
11月10日、ヴィルヘルム2世はオランダに逃避
社会民主党と独立社会民主党の連立による仮政府が成立
11月11日、フランスとの休戦条約に調印
11月15日、団体交渉権、8時間労働などを盛り込んだ労働協約を締結
(林健太郎『ワイマル共和国』pp.9-19)
12月30日、ドイツ共産党・スパルタクス団結成
ドイツ社会民主党の極左勢力が結集
組織化された労働者を基盤とするオップロイテの一団は、極左ではあるが
参加せず、むしろ、組織を持たないスパルタクス団を一揆主義者と非難
1919 独・革命の試みとその挫折
1月5日、ベルリン街頭で20万人規模のデモ、革命政府の樹立宣言も、軍は呼応せず静観
1月12日、バイエルンで総選挙、アイスナーがユダヤ人であることを糾弾したバイエルン
人民党が35%の最多得票、アイスナーの独立社会民主党の得票はわずか2.5%に
1月15日、カール・リープクネヒト、ローザ・ルクセンブルクは、ベルリンの騒乱の中
連行途中で殺害され、無軌道な極左の暴発は抑え込まれる
指揮官ノスケによる抑え込みは、軍の濫用だと国民から批判されるが、軍は帰還兵
や失業者などを義勇兵の形で飲み込み、力を増す
ドイツ共産党を率いたレヴィは、早急な革命ではなく、選挙による勢力拡大を志向
1月19日、総選挙が実施され、82.7%という高投票率で社会民主党が163議席を獲得
2月6日、ヴァイマールにて議会招集、社会民主党(163議席)、中央党(91議席)、民主党
(75議席)からなるヴァイマール連合がエーベルトを大統領に選出
2月21日、バイエルンのアイスナー、暗殺される
この後、バイエルンは反ユダヤ化・右傾化する
6月22日、議会にてヴェルサイユ条約批准
6月28日、ヴェルサイユ宮殿鏡の間にてヴェルサイユ条約調印
8月14日、ヴァイマール憲法公布・施行
文化薫るヴァイマールの国民劇場にて8月11日に制定
内相プロイス、学者マックス・ウェーバーの肝煎で挿入された48条は
未熟な民主制を制御すべく、大統領に強大な権力を与える
「最も民主的」との形容詞が付くが、実際には極左を抑えるお題目であり
戦後の混乱の中で、48条乱発による独裁的な政権運営を許す副作用が目立つ
社会民主党(SPD)は労働者を重視し、その少し上の自営業者は専門職など、帝政
時代の中間層を軽視、中間層の不満を吸収したのがナチスを含む右派陣営
「一九二四年以降、野党の立場に立った社会民主党はそのためますます共和国当初
の国民的立場から遠ざかり、労働者階級の部分的利益を主張するプレッシャー・
グループとなってしまった。そして経済の好況によって労働者大衆の経済的欲求が
充足されると、かえって観念的なイデオロギー闘争に自己満足を求めるようになった
のである」
(林健太郎『ワイマル共和国』p.135)
11月18日、敗戦の原因を究明する調査委員会にて、ヒンデンブルク元帥は匕首伝説
(背後の一突き:社会主義者、アイスナー、ルクセンブルクらユダヤ人の
妨害による不運の敗北という陰謀論)を主張、以後右派が盛んに用いる
1919 パリ講和会議
1月18日、英ロイド=ジョージ、仏クレマンソー、米ウィルソン、伊オルランドの四巨頭
がヴェルサイユ宮殿に集い、各国世論とモルガン家の圧力により巨額の賠償金を独に要求
1919 Keynes, John Maynard著, 早坂忠訳『平和の経済的帰結』✅
巨額賠償金に激怒したケインズは、代表団の一員の地位を捨て条約締結前に帰国
あっという間に本書を書き上げ世に問い、ベストセラーに
1919 LSE、ケインズを理事に招聘する試み
ケインズは承諾しなかった(ハロッド『ケインズ伝』上, pp.285-286)
1919 コミンテルン結成
1918年12月、英国労働党が第2インターナショナルの再建に動き出す
漸進的な改革を打ち出すカウツキーらとそれに反対するレーニンら
議会かソヴィエトか
1月24日、レーニンは大会開催を呼びかける文書を発出
3月、モスクワにて第1回大会開催も、参加者はわずか54名(うち外国から5名)
モスクワから西へ向かって欧州に革命を起こせば、欧州の植民地もドミノ的な革命となる
これの相似形が、日本を共産化すれば大東亜共栄圏丸ごと共産化できるという危険思想
レーニンの持論は「革命的敗戦主義」:戦争にわざと負け、混乱に乗じて革命を起こす
ドイツのスパルタクス団は敗戦革命の第1事例として重視される
(佐々木太郎『コミンテルン』pp.3-4)
1919 独・ヴァイマール共和国成立
1919 伊・ムッソリーニ、戦闘ファッショ結成
3月23日、ミラノにて
社会主義、民族主義、無政府主義、文明讃美など雑多な「周縁の者たち」の集まり
過激化して流血を辞さない社会主義運動に対抗する用心棒として政治利用されるが
ムッソリーニも逆用して力をつける
(ヴルピッタ『ムッソリーニ』p.140)
1919 伊・フィウメ占領
帰趨に不透明感が漂うフィウメ(現クロアチアのリエカ)を、詩人ダンヌンツィオ率いる軍
が急襲(ヴルピッタ『ムッソリーニ』p.144)
1919 アフガニスタン独立
この後、イランがGreat Gameの最前線に
1919 大正8年・後藤新平・フーバー会談
9月6日、ロンドン発ニューヨーク行きの船上で、当時食糧庁長官のフーバーと
(後藤新平『国難来』pp.79-80)
1919 Marshall, Alfred, Industry and Trade
https://archive.org/details/in.ernet.dli.2015.220380/page/n59
アルフレッド・マーシャル『産業と商業』公刊100周年記念講演会(兵庫県立大学
政策科学研究叢書97)を参照
英国の経済発展を蘭仏米独と比較
1920 Pareto, Vilfredo Federico Damaso著, 姫岡勤訳・板倉逹文校訂『一般社会学提要』✅
パレートはソシュールの友人であったため、言語に関する造詣が深い(校訂者あとがき)
p.8:「経済学を心理学に換えようとする恐るべき天才」は「抱腹絶倒」
第2章:論理的行為と、非論理的な行為×(主観的+客観的)
p.20:非論理的行為の例として、ファーブルが観察した昆虫を挙げる
p.22:流麗なギリシャ語文法もローマのカピトリウムにおける卜占も慣習の賜物
p.23:自由競争下の事業家は部分的に非論理的、独占下の事業家は論理的
p.27:自由貿易の理論は自由貿易の採用に影響しない。影響するのはその国の事情
国の事情によって、理論と経済政策の採用が決まる。理論と経済政策の相関は
見かけのもの。政策変更のためには感情に訴える必要がある。
p.29:結束力と革新力との関係で社会変革の道のりが異なる
p.30:魔力について「論理的行為しか考慮しない者は、これに類した現象に出会うと、
これを無視し、軽蔑し、病的な事実だと見做して、それ以上問題にしない。
だが非論的行為が、社会生活においてどれほど大切であるかを知っている者は、
これらの現象を注意して研究せねばならぬ」
第4章:プロテスタントのレーナック氏とドミニコ修道会士のM.J.ラグランジュ師による
宗教の定義の違い
p.61:トマス・アクィナス『神学大全』(qu 107)にある天使の以心伝心は実験的世界を
超越している
p.62:「「連帯」に関する形而上学的理論は論理的実験的科学の反駁を免れる。しかし、
この経験外の実体を作った人達は、経験的実体間の関係を確立するため、とりわけ
隣人の金をまき上げるために、経験外の実体を利用しようとする」
p.63:アウグスティヌス『神の国』は「対蹠民」(地球の裏側に住む人たち)を否定
これは現代(パレートの時代)の知識では「事実と衝突する」推論である
p.64:「ラクタンティウスの誤り」(対蹠民はいないとする主張)は「社会科学において
は一般的であって、多数の人々が同一の推理を続けている」
pp.64-66:実体間の関係と諸感情の関係、感情の推論に良い、美しい、正しいという漠然と
した語が用いられるのは、推論の適応範囲が広がるから
p.72:「我々は中庸をとらねばならぬ。換言すれば事実の精査と選択とによって、慎重に
理論を構成し、またどんなに妥当な理論でさえ、何らかの誤謬で汚れていることを
常に心にとどめて、用心深く事実を用いなければならない」
p.73:「ある著者のテキストの重要性は、著者が言おうとしたことよりも、ある時代のある
土地の人間が、その書物を読んで了解した所のものによってきまる」
p.81:権威は「魔女や幽霊などの存在を論証するために広く用いられた」
p.84:「才智があり学識がある人々の考えは、いつも現実に対応している」
「論理的実験的科学においては、裁判の役目は経験にある」
p.85:自らの理論を正当化するのに経験を用いるコントとスペンサーを、臆断と科学の過渡的
状況として捉える
p.86:「神学的建築物や形而上学的建築物のうちに経験が持ち込まれると――その仕方は
どうでもよい――これらの建築物は、徐々に崩壊し始める」
p.87:「ヨーロッパでは、愛国主義と戦争に反対する意志は毛頭ないことを明言しなければ、
意見を発表し得なかった」
p.89:「イタリアの新聞の第四面には、自己の利益を眼中に置かずに、強烈な博愛の情から、
次回の富籤の当選番号を知らしめる予言者の予言が載っている。この種の広告は、
少なくとも三十年来見えている。そしてこの尊敬すべき予言者が、広告の掲載費を
負担しているところをみると、常にこうした予言を信ずる人々があるに違いない」
p.90:「「大多数の幸福」のために何ものも犠牲にせねばならぬという原理のように、明らか
に経験を超越している原理がある」と功利主義を批判
p.94:歴史的説話は伝わりにくいがゆえに少々大袈裟に書かれ、ときとして伝説にまでなる
pp.97-98:当時の西洋人から見たアニミズム批判(未開人、野蛮人の語も散見)
p.106:「分別をはたらかして」原理を選ぶ必要性(ロジックが正しくとも前提が間違えて
いれば、それは虚しい)→社会ダーウィン主義、唯物史観の誤謬
p.107:「歴史上のどんな事実でもどんな政治的・道徳的・宗教的秩序でも、すべて「ブル
ジョアジー」による「プロレタリアートの搾取」行為が、その唯一の原因であり、
「搾取」に対する「プロレタリアート」の抗争がその救済策である。もし事実が
こうした推論に正応するなら、それは今までにかつて見ない完全な学問であろう。
不幸にして理論と事実の辿る途は別々である」との唯物史観批判
p.110:「もし政治家が「連帯の理論を信じなさい、そうすれば私の利益になりますから」
と言うとすれば、明らかに人に笑われて、人を説得するどころではない。だから彼は
人が聞けば容認するような原理の上に立たなければならぬ」
p.111:「一理論が、ある社会階級の利益になるがために作られたのであれば、この理論は
一般原因をもっている。だが一理論が、その作者が金を貰ったがために作られたもの
か、或は競争者を侮辱するために作られたものであれば、この理論は特殊原因をもって
いる」
p.113:「残基は人間の或る本能に対応している」不明確な主観的表現(例:温かい)
「井戸の水は、冬は温かく、夏は冷たい」
p.117-121:残基の第1綱としての結合
ケインズの「アニマルスピリッツ」からシュンペーターのイノベーションへの
流れの元になる考え
p.120:「「善」または「良」という名辞は、嗜好にあうものや、健康によいものや、ある
道徳的感じを含み、そして人々が嫌悪を懐かず牽引を感ずるような残基の総体を形成
する」
p.122:残基の第2綱としての持続
ライン川に対する憧憬は「愛国集団(ドイツライン)の旗の傍に着座することもでき
るし、或いは詩人の詩嚢のうちに位置を占めることもできる」
p.128:残基の第4綱としての社会性
「多数の人々の心のうちには、ある斉一性のための新物恐怖の残基が、他の事物に
関する進歩の宗教という反対の残基と共存している」
p.131:「実在的な優越または想像上の優越の何らかのしるしをもっている者或はもっている
と見做される者、即ち老人・老練家・学者・貴族・強者・君主・僧侶・女性、少なく
とも解放された女性・政治家・法螺吹等々の権威を、一般に人々は容認する」
p.131:善悪の基準は自己の内心か、「社会集団の是認または非難か」
p.132:「禁慾者は往々にして非常な利己主義者」
p.133:「社会均衡の状態が存続しているとき、もしこの均衡が変更されると、これを回復
しようとする力が生ずる」
p.134:「少数のうぶな「インテリゲンチア」が信じているように「平等の感情」はいかなる
抽象概念にも関係がなく、自己にとって不利な不平等を免れ、別の有利な不平等を
設立しようとする人々の直接の利益に関係しているのである」
p.135:「一つの力に対して他の同等の反対力を対抗させて均衡を作り、結果を零にすること
はできる。ある行為に対しては他の行為によって償い、その印象を消し合うようにする
ことは可能である」
p.140:「保全の或る変更に対して、同種の他の変更を対置しようとするこの感情から賠償の
用を為す変更の性質と量とを決定する無数の規定が生れる」
p.152:「社会的事項における具体的理論は、残基と派生とから成っている。残基は感情の表現
であり、派生は論理的推理や詭弁や派生するために用いられた感情の表現を包括し、それ
は人間の推理の欲求の表現である」「派生は、二つの極限即ち純粋に本能的な行為と厳密
に論理実験的な科学においては存在せず、その中間の場合に現れる」
p.153:「派生は、人々の感情を動かす唯一の言語であり、従って人々の行為を変えることが
できるからである。これに反して、単に論理的実験的研究を目的とする者は、派生を
用いないよう細心の注意をせねばならぬ。これらの人々にとっては、派生は研究の対象
であって、決して説得の手段ではない」→ケインズの説得方式
pp.153-154:目的と残基を結ぶものが派生(第12図)
p.155:「極く少数のドイツの社会主義者は資本論を読んだであろうが、それを解しえた者は
白い蝿のように稀である。だがこの書物の精妙不分明な論究は、外から見て感嘆され、
同書に権威を付与した。こうした感嘆は派生の形式を決定したが、残基または結論を
決定したのではなく、この残基もしくは結論は同書以前から存し、同書が忘れてしま
われた後も存続し、マルクス主義者にも非マルクス主義者にも共通なものである」
p.159:「断言を受け容れる者は、深くは考えない人々である。例えば「この事を新聞で読んだ」
と言えば、それだけでその人にとっては十分の証拠なのである」「断言がラテン語で
表現されるということは、それが鸚鵡返しのものではないなら、著者の教養を示し、
正当な権威を与えうることを証している」
p.161:「権威が弱まれば、A=Bの論証も損なわれる。本来理論的実験的領域に所属する命題
を権威の領域に移すのが、論争者の用いる一つの手段である」
p.163:「野蛮時代では、一民族は他民族に対して大した談判もせずに戦争を始め、他を強奪し
掠奪した。現代でも同じ事は矢張り行われるけれども、ただ「死活の利害」の名の下で
行われ、そしてこれは大した文明の増進だと言われる」
pp.168-169:「若干の政治家は自己のために何物かを欲しながら党のため、郷土のため、祖国
のためだと言う。ある種の労働者は自己の境遇の改善を欲しながら「プロレタリア」の
ため「労働者階級」のための改善と号する」
p.169:法律上の「関係は、一定の場合や一定の事情にのみ適合するにすぎないのに、あらゆる
場合、あらゆる事情に適用され、かくて絶対的道徳や絶対的法律の観念が生ずる。従って
社会のうちに生起し発展したこの関係は、社会より前に存在し、社会の原理であるとされ、
かくして「契約」や「社会契約」や「社会的責務」という付加物を有する「連帯」や「法
による平和」等々の理論が創造される」
p.171:「形而上学者は、彼らの空想界において自分に従わない者の知識を「不完全」であると
言う。彼らの「知識」が「脱漏」を有しない事は本当である。というのは、それは全然
実験的科学の「脱漏」だからである」
p.172:「一定様式の推論に慣れている形而上学者は、全く別種の推理を理解しえなくなり、
そして彼らは、自分らには異様で不可解な実験的科学の言語で述べられた推理を、自分
達の言葉に翻訳し、推理を歪める。しかるに実験的学説の追随者は形而上学の空語を
知らないと、哀れな形而上学者は考えている」
p.173:「実験的療法と呪術的療法とが共存している処では、この二つの部類は混同して同質な
一つのかたまりとなる」
p.175:「人間の行為の準拠たる神の意思を知るための一つの方法に注意することは、大切な
事である。この方法とは、神は分別に富んだ人のように行為し、またこのような人の
欲するものを欲すると想定する点にある。要するに神の意思は結論から抹殺され、分別
に富んだ人またはこうした人と仮定された人間の意思だけが残る」
p.176:「論理的詭弁によって騙される者は、すでに騙される傾向をもっている者だけである。
一層正確に言えば、騙すと言うことはないのである。即ち推論の作者とそれを受け容れる
者との間には、感情の相互的合致による相互の了解ができている。論理的詭弁の衣装は
余計なものである」
p.176:科学的推理に記号を使う意味(節599、600)c.f. 複数の意味を持つ「自然」という語
p.179:経済学で「価値」という曖昧な語を用いることで生じる混乱
p.179:「今日では、自由の意味は五十年前の自由の意味の正反対である」
束縛を脱することから束縛することへの意味の転換
p.181:自らの信条を正当化するための「真のとか正しいとか正直なとか尊いとか良い」という
形容詞
p.184:形而上学者、神学者、重農主義者、ルソー主義者達は「現在の状態から出発して、
自分の好まないものをすべて除き去り、残ったものを自然的と呼ぶ」
p.187:論理的実験的科学に入り込もうとする信仰の排除
p.188:「何らかの名辞Tに注意が向けられると、このTを説明したいと望む。別の言葉で言うと、
このTから、多少とも論理的な派生を引き出そうとする」「当節では、あまりに充て推量
が多過ぎ、この種の研究の根底は非常に薄弱である」
pp.189-190:「無意味で支離滅裂な語は、いつの時代にも奔流をなしている。奔流は、時には
水嵩を増して洪水となり、時には水が引いて常の河床を流れる。が、ともかく流れは
続いている」cf.「克服」
p.190:ユークリッドの幾何学への言及→ケインズ『一般理論』
p.202:大新聞の影響「見解を容易に読者に強制しうるがためでもなければ、またその見解が
――それは往々にして子供らしい議論であるが――論理的実験的に妥当であるがため
でもなく、むしろ派生を介して残機に作用するその巧みさに依るのである」
p.204:「鰓しか持たない動物は、大気中で生存することはできず、反社会的本能しか有たない
人間は、社会において生活しえない。さらに形態と環境との間には、一定の適応関係
がある。ダーウィン説はこの適応関係を完全と観る点で誤っている」
p.207:「知るためには論理的実験的科学のみが価値がある。行のためには感情に従う方が
はるかに重要である」
p.210:残基を抑圧する手段としてのその残基を持つ人々の抑圧(スペインの異端糾問所)
p.210:教育の効果は限定的「人間の行為として表われた合成力にかかわる多種類の作用の
うちの一つである」
p.211:表現の自由の制限は失敗に終わる e.g.ビスマルクの文化闘争、ドミニコ会の魔女狩り
p.213:異端に対する罰を排すると、他の軽犯罪が増える(共通する残基の表現に対する抑圧
(異端尋問)を廃止すると、同一の残基の別表現(軽犯罪)の抑えが効かなくなる
→昨今のアメリカ国内に見られる略奪の無罪化
第二帝政後のフランスで「キリスト教に対する罪科の刑罰が廃止された 」
pp.214-218:理想を高く掲げると、現実のしがらみに足を取られてもある程度高い社会的効用
に到達できる(説得の技法としての「功利道徳」)
p.219:労使交渉において、高尚な理想が掲げられ「より大きな分前を要求する」という本音が
隠されたために、労働者は多くのものを獲得することができた
p.222:「不正確である処のある日用語を用いて、人々が間違った学説を真であると信ずること
は、有用でありうると言おう。更に正確な表現を採用して、こう言えば一層現実に近づく。
即ち経験や現実に合致しない学説を、合致していると信ずることは、有用でありうる」
p.226:「政府や国家が何らかの自己の行為を正当化するために使用する決疑法を通して「人民
の安寧が最高の法たるべし」salus populi suprema lex がしばしば登場している」
p.230:「功利道徳説と呼ばれる顕著な種類の理論は、道徳というものは功利の正しい計算の表現
にすぎず、不正直な行為は功利に関する間違った判断の結果であると主張する。」「この
理論は人間生活の完き合理化を目指す人々に愛好される。従ってこの理論は理性教・科学
教・進歩教の進学に再び見出される」
p.232:支配者は「歴史を一瞥すれば誰にでも立証されうる斉一性を述べたという理由のみに
よってまきアヴェルリが非難されたと同様、不道徳だという非難を免れない(一〇四七)。
マキアヴェルリはまた、アリストテレスやその他の人々を剽窃したと非難される。事実は
マキアヴェルリが、現実を記述したこれらの人々と符号したにすぎないのである」
pp.238-239:「ロシアでは日露戦争後美しい未来に対する熱烈な希望に充ちた革命運動があった。
革命が鎮圧され、希望が消えると、意気消沈と物質的享楽の傾向との時代がやってきた」
p.243:「純粋法学並びに純粋経済学が具体的現象において妥当するのは、仮定された仮設が
具体的現象において優越した役割を演じている限りにおいてである」
pp.243-244:「関税による保護防衛機は、直接の(この制限に注意せよ)結果として、富の破壊
を来たすと純粋経済学は教える。応用経済学はこの結論を確認する。だが純粋経済学も応用
経済学も、何故イギリスの自由貿易がその強度と様式とを異にしたアメリカやドイツや
その他の多数の国の保護貿易と共存するかを説明することができない。またドイツの繁栄が
保護防衛と共に増大したのに反して、イギリスの繁栄は、いかにして自由貿易と共に増大
したのかの理由はなお更分らない」(保護防衛→保護貿易と思われる)
p.244:「古典経済学は、簡単に言うと、少なくともある程度、存在するものばかりでなく、
存在すべきものの究明に当り、部分的には、事実の客観的研究の代わりに説教をもってした。
こういうやり方は、専ら実験的立場を維持する代わりに、一つの宗教の傾向をとった。これ
は最初の経済学者達にとっては寛恕さるべきことである。アダム・スミスやジャン・バティ
スト・セイの時代では、ほかのやり方をするのは困難でもあったろう」
p.245:「古典経済学者は存在すべきものを問題とし、彼らは少数の原理から出発して、論理を
以って存在すべきものを決定した。そして理論やこれらの原理は、地球全体に妥当するもの
であるから、彼らはそれに劣らず広汎な妥当性を有する法則を発見した。しかしその結論が
事実と矛盾する以上、誤謬のありかを見出さねばならぬ」
pp.246-247:ドイツ歴史学派とマルクス学派による古典経済学は功を奏しているが、必要なのは
経済学の外にある社会学の知識
p.247:「経済学者の多くは、こう言う相互関係に注意を払っていない。と言うのは相互関係は、
事実の広汎な知識を必要とする長い骨の折れる研究だからである。これに反して「原理」に
関するお喋りは、わずかの想像力と紙とペンとインキがあれば、誰にでも書ける」
pp.249-255:エリートの周流(エリートは社会信用スコアが高い人)
社会は非エリート、政治的エリート、非政治的エリートに分けられる
貴族は永続せず、入れ替わる
p.262:「論理的帰結は一定の所与の残基から引き出されるという仮説に基づいた学問は、
殆どまたは全然現実に接触しない社会現象の一般形態を与えるであろう。それは大体
非ユークリッド幾何学または四次元の空間の幾何学に似た社会学であろう。現実にとどまる
には、若干の基本的残基のみでなく、これが人間の行為の決定に作用する種々の方法をも
知るために、経験に訴えねばならない」
p.270:「純粋経済学は個人の満足を規範として選び、個人をば満足の唯一の裁判官として成功
している。そのようにして、経済的効用乃至実利 ofelimita は規定されている。だが個人から
決定の役目を奪って、その個人にとって最も有利なものを求めようとすれば、その役目を引受け
る他の者を見出さねばならない」
p.270:「ある個人もしくは社会集団にとって、何が「有利」かを知り、或は知っていると考え
るとき、こう言う事物を獲得するのは「有用」だと言われ、そしてこの事物を獲得するよう
近づけば近づく程大きな効用が得られると見做される。そこで我々は類比によって右に規定
した実体Xを効用 utilita と呼ぶ」
p.272:872節はパレート効率の定義
p.273:873節-875節は無償の公共財に対する補償
p.274:「被支配階級をして個人の効用の極大を忘れて集団の効用乃至単に支配階級の効用の
極大のために働かしめるのに役立ちうるのは、非論理的行為だけである。そして支配階級は
大抵このことを直覚している」
p.274:ニーチェの「超人」の賛美者は支配階級の効用を重視、マルクスの「平等」の賛美者は
下層階級の効用を重視
p.276:「専ら「理性」のみが支配する社会というもは存在せず、また存在しえないものである。
何となれば人々が論理的実験的推理によって解決しようとする問題の与件が分っていないから
である」
p.277:「論理的実験的推理は社会機構において僅かの役割しかもたず、思想よりも感情が勝って
いる」
pp.277-278の第27図、第28図→複数の社会集団の引き合いがもたらす社会均衡
ケインズ『一般理論』における労働者、企業家、金利生活者の間の社会均衡の雛形?
pp.283-284:905節は支配階級と被支配階級における力の作用を論じている
「力を行使する習慣を失い、商売の立場から政策を考察し、ただ損益の関係から政策を判断
する習慣を持った国民は、直ちに平和を買う傾向がある」しかし「結局こういうやり方は国を
滅ぼすに到るということを、経験が示している」
p.285:国家権力が及ばない、脆弱なところにおいては自警団、私刑、小社会が力を持つ
p.285:日本より優れていることを自認していた中国は封建的軍閥が温存されていたために
「ヨーロッパ人の流れ者団体によって襲われた」。「支那人はヨーロッパ人から殺人・
強盗・略奪を受けたあげくに、賠償金を支払わされた。一方、日本人はロシアとの戦い
に勝って全世界の尊敬を受けた」
p.293:「もしシュモラーが自由貿易論者であったとすれば、恐らくプロシアの枢密院顧問官に
選任されなかったであろう。これに反しイギリスの自由貿易論者は、謂わゆる「自由主義
的」政府による引立てを獲得した」
p.294:イギリスの自由貿易とドイツの保護貿易をエリートの周流という概念で紐解く
p.295:経済学は「誤謬の理論を生じさせる派生を重んずべきでないことを我々に教え、また
外見上は厳密に経済的のように見えるが、実際は他の社会現象に依存する現象に作用する
ところの真の力がいかに多いか我々に示す学問である」
p.298:「経済的観点から見れば、企業家が借りる貯蓄その他の資本の利息は、できるだけ低い
方が企業家にとっては都合がよい。これに反し貯蓄家には、利息がなるたけ高い方がよい」
pp.299-300:ケインズの労働者、アクティブな企業家、不活動な金利生活者の3分類
「S部類の人々を投機者 speculatori R部類の人々を金利生活者 godenti una rendita と呼ぼ
う」
p.301:「すべての文明国民において、形式はほとんど同じであるが、この形式の下に大きな
実質的相違があり、違った事物に同じような名称が与えられている。例えば議会の権限
は、フランスの代議院からロシアの国会または日本の衆議院に至る極大から極小まである」
p.302:「支配階級の方が、感情によって晦まされる程度が小さいから、感情に晦まされる程度
が大で、自己の利益をよく見ない被支配階級より、自己の利益をよりよく見ると言える。
その結果、支配階級は被支配階級を欺いて、自己の利益に奉仕させることができる。けれ
ども支配階級の利益は、必ずしも被支配階級の利益と矛盾せず、しばしば一致すらする
から、欺瞞は被支配階級にも利益をもたらしうる」
p.305:現代のデモクラシーは経済的封建制であり、取り巻きの操縦が政治の手段である
p.306:いかなる政体においても、誰が支配者であろうとも権力は濫用される。支配層の
地位を盤石ならしめるべく、被支配層をうまく活用するためにも濫用される
p.307:万年野党は理念的である
p.310:「たとえ不完全であっても、経済現象の統計が存する所では、質的評価を量的評価に
換えることが可能となる。量的評価は、用いられた方法が不安全であるとしても、常に
有利である。なぜかと言うに、一層よい統計と一層正しい統計使用法によって、結果を
完全にする途が開かれているからである」
p.311:金鉱掘りの話→ケインズの一般理論の原型
p.313:財政赤字について、現代の日本にも当てはまるような議論
p.315:貯蓄について、蜂が蜜を貯めるようなものとの表現
舞台では主義主張のぶつかり合いがあるが、舞台裏では儲け話が占めている
p.316:金利生活者の臆病さ(借り換えやインフレで財産が目減りしても声を上げられない)
p.318:「今日では、彼らは知識階級や社会主義者の革命家及び無政府主義者の革命家をすら
援助する」
p.319:「金持ちの財を奪うべしと説く者に金持ちが金を払うのは、気が狂っているように思わ
れるが、そうではなく極めて思慮深いのだ。他人がおしゃべりをしている間に、彼らは富
を増やす」
p.322:「人間のもっている利を求め、不利を避けるという性癖に原因するものにほかならぬ」
p.322:恐慌について
p.323:黄金慾について
pp.324-326:保守と革新の振り子、確信と懐疑の振り子
p.326:「軽信の大洋中にある懐疑の小島のように現れたルキアノスの著作の価値は零に近い。
これに反してヴォルテールの著書は広汎に受け容れられた。それは懐疑の大陸のよう
であり、そこで重要な徴標として考慮される価値がある」
p.328:知識人が過去を称揚する局面と、未来を称揚する局面は立ち代わり現れる
pp.340-341:革新的な南部フランスと保守的な北部フランス、中国は日本を例に革新的になり
つつある。極めて革新的なイタリアは国内統一がままならず、ロンバード街の繁栄と
マルコ・ポーロ、アメリゴ・ベスプッチの探検力、メディチ家の財と外交力、マキア
ヴェルリの理論にもかかわらず、征服の憂き目に遭った。
p.349:「ガリアにはローマの商人や市民があふれている。いかなるガリア人もローマ市民が
いなければ商売を営めない。いっぺんの貨幣と雖もローマ市民の帳簿に記入されな
けれ、ガリアでは流通しない」キケロ, Pro Marco Fonteio, V, 11からの引用
p.354:「社会事項に関するほとんどすべての理論家達は、これまで特になんらかの理想に
たいする信仰に駆られていた。そこで彼らはこの理想に合致するように見える事実
のみを容れて、これに反対な事実をほとんど無視していた。実際、こういう理論は、
その型式は実験的であっても、形而上学の傾向をもっている」
p.355:イタリアの公共事業の公営、税制について
p.356:「自由貿易に好都合な理論が唱えられるのは、自由貿易が階級の周流と利益にとって
都合のよいバイであり、保護貿易の理論の場合も同様である。「個人主義」や「国家
主義」の理論に対しても同様のことが言われる」
p.356:アダム・スミスとジャン・バティスト・セイを「実験的現実に近い」と評価し、歴史
学派(シュモラーらの学説)は「神秘的国家主義」として批判
p.364:「法律上の原理が、この原理を共同の感情を表しているものとして認容されている国民
間において用いられるのであれば、この原理は現実と撞着しない結論をもたらしうる。
が、この同意と感情の共同とがなくなれば、こうした特質はなくなる」
p.375:モンテスキュー『ローマ人盛衰原因論』への言及
1920 Weber, Max著, 中山元訳『世界宗教の経済倫理』✅
中山版は『宗教社会学論文集』第1巻「世界宗教の経済倫理」の序論と中間考察の翻訳
「上部構造である宗教は下部構造である経済に支配される」というマルクス唯物論の批判
また、ルサンチマン概念を提出したニーチェも単純すぎるとして批判(p.18)
幸福と苦難の弁神論:私が幸せなのは神に選ばれているから、という予定説(p.20)
弁神論とは、悪や不幸が充満した世界を創りたもうた神を「弁護する」論の意(p.31)
弁神論は二元論(神と悪魔、天国と地獄、…)
「神を弁護する人間」は神を超越していないか? という疑問
預言には模範と使命の2種がある(模範は理想状態に入る瞑想、使命は能動的な禁欲)
達人的宗教意識:模範、瞑想、神秘、カリスマ、貴族的、反経済的、アジア的、非人格的
大衆的宗教意識:使命、行動、合理、教会、官僚的、経済的、プロテスタント的、人格的
身分的状況と階級的状況(pp.100-103)
p.114:禁欲と瞑想、現世内と現世逃避の二軸で4とおりの世界観
p.116:ピューリタンの「幸福な頑迷さ」
p.124:「あなたがわたしにすることを、わたしもあなたにしよう」という格律は
隣人団体の中で「〈愛の共産主義〉の倫理へと」高まる
p.128-130:合理的な貨幣経済と博愛倫理の緊張関係は、主人と奴隷の関係より厳しい
→ケインズ「人の心を抑圧するより自分の預金残高に権力を振るうほうがまだまし」
pp.134−137には同様の文脈で非人格的な官僚制度は、家父長制より厳しい
p.131:プロテスタントの召命(現世の営為=神への奉仕)
p.134:土着の文化と「唯一の世界神」の緊張関係
p.143:カルヴァン派クロムウェルの〈聖者の軍隊〉/ルター派は「皇帝のものは皇帝に」
プロイセン出身のヴェーバーはルター派を正当化?(凄惨な三十年戦争)
pp.157-160:宗教と芸術の緊張関係
pp.178-183:宗教と学問(科学)との緊張関係:世界の意味の肯定と否定
p.191:自然の因果律と倫理的な因果律の対立
p.201:ゾロアスター教の二元論→ペルシャの最終審判→ユダヤ教→キリスト教予定説
1920 英・ゴールドとシルバーの輸出禁止
5年の時限立法であったため、1925年までに金本位制復帰の機運が高まる
(金井雄一『中央銀行はお金を創造できるか』p.46)
1920 独・カップ一揆
3月13日、カップ率いる一団がベルリンに侵入、新政権樹立を僭称するも、わずか4日で
腰砕けとなる。ミュラー政権が跡を引き継ぎ、陸軍統帥部長官にゼークトを据える。
徴兵制から職業軍人への転換が進むにしたがい、ゼークトは軍に地外法権的な力を与える
6月6日、総選挙の結果、社会民主党の議席は102に減少、民主党も39議席に減少
これに対して極左の独立社会民主党は84議席、右派も伸長しPolarizationが進行
社会民主党を中心としたミュラー内閣から中央党、人民党、民主党の連立政権へ
1920 イラン・ソヴィエト社会主義共和国
6月、カスピ海南岸に位置するギーラーン州にて
首班に立てたクーチェクがイラン中央と接近するをみるや、クーデター勃発
極貧のロシアに英国とのGreat Gameに興ずる余裕はなく、むしろ英国に経済援助
を求めていた(コミンテルン本部に無断で暴走した分子を排除)
1921年11月、コミンテルンから見放され、イラン中央から攻撃されてこの国は消滅
1920 コミンテルン第2回大会
37か国から200名を超える参加者
国家の廃止を最終目標とし、その中間形態としてのプロレタリア独裁
もはや労働者の解放は放擲され、「自分だけが正しい」の正当化に走る
純化、秘密、軍隊的規律など
ヴェルサイユ条約で国を取り戻したポーランドは、共和国の復活を夢見た
(ポーランド、リトアニア、ベラルーシ、ウクライナの連邦国家樹立の夢)
ポーランドは現ウクライナのキエフまで攻め入ったものの、この大会中に
ロシアの赤軍が押し返し、ポーランドの首都ワルシャワに迫っていた
世界革命の妄想が大会を支配していた
9月1日から7日かけて、アゼルバイジャンのバクーにて東方諸民族大会が開催
中東の宗教民族主義に火をつけ、Great Gameの防波堤とすることを目論むも
ロシア型の植民地主義と受け取られ反発招く(現代まで続くカフカス情勢不安)
10月、大会終了後、ポーランド軍はベラルーシの首都ミンスクまで反攻
(佐々木太郎『コミンテルン』pp.36-40, p.72)
1920 ラッパロ条約
11月12日、フィウメ等の紛争地域の帰趨をめぐるイタリアと後のユーゴスラビアとの条約
フィウメから事実上撤退するなど後退を余儀なくされたイタリア政界で穏健派として力を
つけたのがムッソリーニ(ヴルピッタ『ムッソリーニ』p.151)
1920 伊・ボローニャ暴動
農村地域で乱暴狼藉の限りを尽くしてきた社会主義者に対する自警意識の高まり
11月21日、地方議員が社会主義者に射殺されたことに反発して
農村地域の服装(黒シャツ)が地元農民の制服に→黒シャツ隊
(ヴルピッタ『ムッソリーニ』p.156)
1920年の終わり頃に88支部2万人の組織は、1921年には834支部25万人に急成長
社会主義者に必要に攻撃、誹謗中傷されていた治安関係者に支持を広げた
1920 国際連盟発足
米国は参加せず
1921 ソヴィエト・ロシアの混乱とドイツへの影響
2月、ペトログラードのストライキ、クロンスタット要塞の暴動など混乱が続く
混乱の救いのために、ドイツ共産党による革命が必要とされた
この流れで3月に起きたドイツのマンスフェルト蜂起は数日で鎮圧され、7月に開催
された第3回コミンテルンでは、一揆主義から穏健への転換が起きた
ドイツはロシア内に「工業振興会社」を設立し、密かに再軍備への道を歩み出す
8月にはエルツベルガーが暗殺される
1920 仏・フランス共産党結成
反戦が不徹底であったという贖罪意識に訴えるアクロバテックな主張が通る
(佐々木太郎『コミンテルン』p.46)
1921 メンガー死去
2月26日
第1次大戦に敗北したオーストリア帝国はハイパーインフレに襲われる
この機に一橋大学はメンガーの蔵書2万冊の一部を入手 メンガー文庫
1921 露・クロンシュタットの反乱
2月28日、ペトログラード(現在のサンクトペテルブルク)の水兵が反乱を起こす
赤軍により短期に鎮圧されるも、各地で農民も労働者も蜂起、ボリシェヴィキは
毒ガスまで用いて鎮圧
革命の主体となるべき層からノーを突きつけられるという皮肉
3月10日から開催された第10回ロシア共産党大会は混乱を極めた
妥協として農村からの徴発を止め、市場原理を復活させる(新経済政策:ネップ)
他方、ボトムアップを旨とするサンディカリズムは否定され、極端な独裁体制へ
(佐々木太郎『コミンテルン』pp.60-61)
1921 英ソ通商協定
3月、英国の勢力圏でコミンテルンを活動させないことを条件に、経済援助を引き出す
第1次大戦で大打撃を受けた英国と、崩壊寸前・混乱の極みにあったボリシェヴィキの
弱者連合
これを機にコミンテルンは地下に潜り秘密工作が主体に
1921 独・マンスフェルト蜂起
ドイツ共産党の指導者レヴィを追い落として純化した組織は、苦境に立つボリシェヴィキ
を外部から支援するべく3月下旬、ロシアから送り込まれたハンガリー人クン・ベーラを
中心にドイツ中部で混乱を引き起こすも、瞬く間に鎮圧される
蜂起の失敗を痛烈に批判したレヴィは除名される
(佐々木太郎『コミンテルン』pp.56-59)
1921 独・ヒトラー、ナチスの党首に
3月31日付で軍務を離れ、党に専念
ユダヤ人排斥とヴェルサイユ条約破棄を主張
1921 中国共産党結党
フランスの租界にて10数名が集まる、その中に毛沢東も
(佐々木太郎『コミンテルン』p.128)
1921 モンゴル人民政府の成立
外モンゴルに逃げ込んだ白軍(帝政ロシアの軍で英国の支援を受ける)を
モンゴル国内の民族派とボリシェヴィキが手を組み駆逐
1924年11月には、モンゴル人民共和国となる
(佐々木太郎『コミンテルン』p.98)
1921 プロフィンテルン結成
コミンテルンの労働組合部門
1921 ワシントン海軍軍縮条約
主力艦保有比率を米英5、日本3、仏伊1.67に
シベリア撤兵
1921 ロシア大飢饉
3,500万人が飢餓状態に置かれる 資料
米商務長官フーバーは大々的に食糧や物資を援助、その際、政治犯を含めた拘束米国人の
解放を交換条件にしたことからボリシェヴィキの警戒高まる
ボリシェヴィキは、ドイツ共産党のミュンツェンベルクを使って世界的な支援要請、これに
アインシュタイン、アナトール・フランス、バーナード・ショーなど、著名人が賛同
「かわいそう」という慈善をテコにいとも簡単に浸透できたという成功体験は今日にも…
1921 伊・国民ファシスト党結成
11月9日
政界進出後、暴力的な社会党に対抗する暴力装置から中央集権的な政党に脱皮
穏健化して政権奪取を狙うムッソリーニと社会党の壊滅を望む地方有力者の関係にヒビ
(ヴルピッタ『ムッソリーニ』p.166)
1921-1922 Weber, Max著, 阿閉吉男・脇圭平訳『官僚制』✅
大著『経済と社会』第3部第6章(本書は独立した本ではなく、大著の1章)
p.7:一定の義務的活動、命令権力と強制力、権力と強制力を継続的に執行するための人員計画
の3つを兼ね備えたものを官僚制という
p.11:「官僚は「天職」である」(ある種の主従関係ではなく、「即物的目的」のために働く)
pp.14-15:官僚の任命者は首長または被支配者(国民)でありうる。前者の方が後者よりも
官吏候補者の技術的能力を客観的に評価しやすい
p.15「世論」について(öffentliche Meinung は公論と訳されることが多いようである)
p.16:官吏の終身雇用について(官吏が安心して業務遂行できるように)
p.18:官吏の俸給について(高い地位と引き換えの比較的低賃金、固定給、年金)
p.20:「ある程度の貨幣経済の発達は、純官僚制的行政を創出するための〔正常の前提〕ではない
までも、それがつねに存在するための正常な前提ではある。なぜならば、歴史的経験によれ
ば、貨幣経済の発達がなければ、官僚制的構造がその内的本質をいちじるしく変えたり、
まったく他の構造に移ったりすることは、ほとんど避けられないからである」
pp.21-22:請負人に徴税を任せ定額を上納させる制度は、ときとして官吏による「無分別な搾取」
をもたらす
p.24:「官吏にたいする賦与として現物給付や現物用益権を割当てる仕方は、すべて、官僚制機構
を弛緩させ、とくに体統的従属関係を弱体化する傾向をもつものである」
p.26:官吏に貨幣の支払いをするために、貨幣での徴税がなされる
p.30:名望家国家(大英帝国、初期のローマ帝国)と官僚制的国家(エジプト)
p.33:「複雑化した任務に関するかぎり、有給の官僚制的な仕事は、形式上無報酬の名誉職的な
仕事よりもいっそう的確であるばかりでなく、結果としてしばしば安価でさえもある」
p.34:「一度、行政に課せられた任務が質的に増大するや、――こんにちではイギリスにおいて
もそうなってきている――名誉職的な名望家行政は限界点に達する」
p.34:「巨大な近代資本主義的諸企業は、それ自身が厳格な官僚制的組織の無比の見本である」
p.35:官僚制が得意とする「「即物的な処理」とは、何よりもまず、「人を顧慮せず」計算可能
な規則にしたがって行われる処理を意味する。ところで、この「人を顧慮せず」という
ことは、「市場」およびいっさいのむき出しの経済的利益追求一般の合言葉でもある」
pp.35-36:再読に値する、よく言及される箇所
p.41:「国家理性」とは、自己増殖的、自己保存的な官僚制の本能である
p.41:「勢力」という概念(V. パレートが提出)
pp.42-43:「「世論」の夜積極的な行政への働きかけは、いずれも、〔かつての〕「絶対的」
支配者の「星法院」と同程度に、ばあいによってはそれよりはるかに強く、司法および
行政の合理的経過を妨げる。それは世論が、大衆民主主義の条件下では非合理的「感情」
から生まれ、通常政党指導者や新聞によって喚起されまたは操縦された共同社会行為と
なるからである」
p.45:三十年戦争の時代、兵器や甲冑を兵士個人が所有していた。その後、中隊長が軍備を
用意し、1807年のティルジット条約後は国家がそれを用意した(軍人の官僚化)
p.47:「官僚制的組織は、何よりもまず、同質的な小単位体の民主主義的自治と対蹠的な、
近代的大衆民主主義の不可避的な随伴現象である」
p.49:「「民主化」は、かならずしも当該の社会団体の内部における支配にたいする被支配者
の積極的参与の機会の増大を意味するものではない」。みなが官吏になれ、世論が官僚
機構に与える影響を拡大し、「官職の支配権力を極小化すること」を意味する。
p.53:官僚制は、ひとたび完成してしまうと官吏にとっても被支配者層にとっても抜き差し
ならない存在になる
p.54:「文書を廃止することによって「もろもろの既得権」の基礎と「支配」を同時に絶滅
できるというバクーニン主義の素朴な考えは、人間は文書とは独立にみずからの習熟
した規範と規則の維持をたえず目指すものである、という事実を看過している」
p.55:官僚機構が「近代的通信・交通手段(電信)を掌握しているばあい」革命は不可能に
なり、残された方法はクーデターのみになる
p.57:「官僚制化が、保障された伝統的な「暮し」にたいする小市民的な利益に逆らい、
あるいは私的な営利チャンスを抑圧する国家社会主義的な結果をもたらしたばあいもある」
p.61:「「職務上の秘密」という概念は官僚制独自の発明にかかるもので、事の性質上それの
許される領域外では、純即物的に首肯しがたいこの態度ほど、官僚制が狂熱的に擁護する
ものはほかにない」
p.63:「仕事にたいする専門知識の点で官僚制に勝るものは、ただ一つ「経済」の領域における
私経済的な利害関係者たちだけである。それというのも経済の領域では、事実にたいする
正確な知識をもつかもたぬかが、彼らにとって直接、経済的生存にかかわる問題だからで
ある」
p.64:「資本主義的時代における、経済生活に与える官庁の影響力はごく狭い枠内に限られ、
この〔経済〕領域における国家の施策は、きわめてしばしば、予測されない思いもよらぬ
方向にそれてしまうか、あるいは、利害関係者たちの、仕事にたいするすぐれた専門知識
によって骨抜きにされてしまうのである」
p.65:内閣などの機関は、国王等支配者が官僚制から自らを守るための「堡塁」であり「隠れ蓑」
pp.68-69:公法(官庁相互の関係)と私法(支配される個々人相互の関係)
pp.70-73:官吏を選抜する試験は民間にも広まり、ある種地位独占のための手段となっている
身分の決め手が家柄から試験免状(と試験を受ける余裕を与える財産)へと変わった
高等教育はこうした新身分制としての試験にまみれている(文化人→専門家)
1922 ドイツ賠償金に関する会議
1月、カンヌ会議
4〜5月、ジェノア会議
賠償金の支払い継続が事実上不可能と悟った連合国は、敗戦国ドイツ、ソヴィエト・ロシア
も交えて賠償金の再交渉を始める
連合国はソヴィエト・ロシアを国家として承認する代わりに、ヴェルサイユ条約批准を迫る
帝政ロシアの債務を、ドイツから取り立てた賠償金で払うよう、ロシアに交渉
1922 ラッパロ条約(1920年のラッパロ条約とは別物)
4月16日、敗戦国ドイツと連合国から承認されないソヴィエト・ロシアは債務と賠償金
を相殺、放棄 資料
軍備を密かに増強したいドイツと軍事技術の移転を望むロシアの利害が一致し、
秘密裏にロシア国内でドイツの軍需品の生産することも合意
6月24日、ラッパロ条約を結んだラーテナウ外相が暗殺される
これを受けて、ヴィルト首相は憲法48条を発動(緊急事態条項)
1922 スターリンの「自治共和国化案」
3月に開催された第11回党大会にて、新設された書記長ポストにスターリンが就任
急速に膨れ上がる共産党の統制を維持するため、粛清も容認
ウクライナ、ベラルーシ、ザカフカースの独立共和国をロシア配下の自治共和国とする
スターリンのこの提案をレーニンは拒絶
(佐々木太郎『コミンテルン』p.175)
1922 コミンテルン第4回大会
11月開催、7月15日に結党したばかりの日本共産党が承認される
1922 伊・ローマ進軍
ムッソリーニ率いる黒シャツ隊が複数ルートでローマ進軍の動き
政治的空白に苦慮していた政権は取り込みを画策するも失敗
エマニュエーレ3世が大命降下、ムッソリーニを首班に指名
10月30日、ローマへ乗り込み無血革命、身長167cmのドゥーチェが権力を握り、
即日多党連立内閣組閣(背景に4年で5内閣という政治的不安定)
連立内閣を妥協とみた草の根の黒シャツ隊や地域の有力者(ラッス)からは不満の声
(『ムッソリーニ』p.30, pp.169-180, p.183)
翌1923年にパレート死去、1925年頃からファシスト党は当初の支持者であった
金利生活者(既存の既得権を持った中間層)を切り捨て、全体主義的運動に変容
(松島『経済から社会へ』pp.98-99)
パレートはフランス革命時のベンサム、シィエスのような存在
1922 アイルランド島の南部、アイルランドとして独立
12月6日、英愛条約にて
1922 ソビエト社会主義共和国連邦成立
12月30日
レーニン的な国家構想の形式をとりつつ、実態はスターリン的な一党独裁
1923 Keynes, John Maynard著, 中内恒夫訳『貨幣改革論』✅
1923 Schmitt, Carl著, 樋口陽一訳『現代議会主義の精神史的状況』✅
1923 仏・ルール占領
1月4日、ポアンカレ首相は、賠償金支払いの不履行を理由に炭田地帯ルール占領を宣言
1月11日にベルギーとともに占領
独はルールの炭鉱労働者に賃金を保証し、スト抗戦を訴える
領内最大級の工業地帯の創業を停止することは長く続けられなかった
マルクを刷って賃金を渡したため、インフレ加速
1923 伊・国防義勇軍の設立
南部を中心に一大勢力となっていた国粋党の武装勢力をファシスト党が管理、国粋党自体も
ファシスト党に取り込む
当初はファシスト党が暴力を抑えると歓迎されたが、次第に党の暴力装置に変容
(ヴルピッタ『ムッソリーニ』pp.189-190)
1923 大正12年・関東大震災
9月1日は防災の日となる
1923 独・ミュンヘン一揆、ハイパーインフレ
バイエルンの州都ミュンヘンは、ビスマルク時代に従属的地位に甘んじていたため、
連邦からの独立心が強かった(ウェーバー『社会主義』解説, p.118)
1920年には数百人規模であったナチスは、1923年には5万人規模に膨れ上がる
9月26日、バイエルン政府は非常事態を宣言、カールを国家総監に任命
バイエルンに直接介入できないシュトレーゼマン政権は、他の州に非常事態宣言を出して
混乱の広がりを未然に防いだ
10月10日、チューリンゲンとゼクセンでは極左による革命騒ぎ
ソ連はこうした極左過激派より、ナチス的な右派の運動を後押しし、ドイツ全土を防波堤と
して利用することを考えた、しかし、ドイツがルールでの抵抗運動をやめると、実力行使に
及ぶ、これは数日のうちに鎮圧された(いわゆるドイツの10月)
11月8日から9日にかけて、ヒトラーは挫折・逮捕後政党政治に傾倒する
11月13日にドイツ系アメリカ人家庭に生まれたヤルマール・シャハトがライヒ通貨委員に任命
シャハトはレンテンマルク(土地マルク)を発行(交換比率は1兆マルク=1レンテンマルク)
12月23日、シャハトはライヒスバンク総裁となる 資料
このように混乱を極めた1923年ドイツの失業率は28%、不完全就労は42%に上った
(林健太郎『ワイマル共和国』pp.129-130)
(佐々木太郎『コミンテルン』pp.133-135)
ハイパーインフレを解決したシャハトの魔術的手腕を駐在員としてみていたのは
戦後日銀総裁になる一万田尚登
ハイパーインフレ収束後、債権者に一定程度の補償がなされた
民間の債権:1920年6月30日以前の購入者には購入時のマルクの金価値25%を上限、
それ以降の購入者にはマルクの金価値の15%を上限に補償
国債:1920年6月30日以前の購入者には購入時のマルクの金価値12.5%を上限に補償
それ以降の購入者には無補償
(Pigou著, 本郷訳『財政学』p.35, トゥーズ『ナチス破壊の経済』上, p.18)
ハイパーインフレにより、古き佳きドイツ国民(労働者層より少し上の中間層)が没落、
ナチスはこうした中間層に支持を広げてゆく
1923 英国の財政状況
内国債の利払いと年金の経費が政府総支出の53%に(1913年には21%であった)
(Pigou著, 本郷訳『財政学』p.39)
1924 第5回コミンテルン大会
1月21日にレーニンが死去してからはじめての大会
6月半ばから7月上旬に実施、ヘーゲルを参照するコルシュとルカーチを批判
弁証法ではなく、唯物論こそ共産主義の支柱だと
また、ファシズムはブルジョアがプロレタリアートを攻撃する手段だとし、
社会民主主義もファシズムと同じ反革命だとした
ドイツの10月の責任を負わされたトロツキーは失速、新たにスターリンが委員に加わる
(佐々木太郎『コミンテルン』pp.102-106, p.154, p.158)
1924 第1次国共合作
1923年、孫文とソ連特命全権大使ヨッフェが共同宣言
1921年の中国共産党結党を陰で指揮したマーリンは、国民党の孫文に接近
ソ連の力を利用して割拠する軍閥を排除したかった孫文と、コミンテルンを
極東にひろめたいマーリンの利害が一致(いわゆる統一戦線方式)
(佐々木太郎『コミンテルン』p.129)
1924 ロンドン会議
ドイツに8億ドルの借款、経済立て直しによる賠償金の支払い継続を目指すドーズ案
が承認され、米による独への投資ブームが起きた(黄金の20年代)
ドーズ案締結をみて、フランスはルール占領を解き、撤退開始
シカゴの銀行家兼准将チャールズ G. ドーズの背後にはGE社長のオウエン・ヤング
1928年、分割払いの開始を前に負担軽減を提唱したのがFRB議長のストロング
(トゥーズ『ナチス 破壊の経済』上, pp.6-8)
ドーズ案成立後、1924年12月の総選挙では、ハイパーインフレから立ち直りを見せる
ドイツ経済を反映するように、ナチス党と共産党が議席を減らし、社会民主党の党勢が
回復した
(林健太郎『ワイマル共和国』p.118)
ミュンヘン一揆で捕えられたヒトラーは、裁判でも自己の主張を曲げず、支持を広げる
獄中で『我が闘争』を執筆し、1924年末には釈放される
首相、大統領として戦後ドイツを率いてきたエーベルトは、「匕首伝説(背後の一突き)
の首謀者の一人だと新聞に書き立てられた。エーベルトはこれに反論するも、訴訟の結果
国家反逆罪であったとされた。翌1925年2月28日、心労もあってか54歳で亡くなる。
1924 Hitler, Adolf『我が闘争』
1923年のミュンヘン一揆で捕えられ、獄中で口述筆記をはじめた
ヒトラーの父は公務員としてウィーンで働いた後、農場で働く
(トゥーズ『ナチス 破壊の経済』上, p.191)
1924 伊・ユーゴスラビアと友好条約
フィウメはイタリア領に
(ヴルピッタ『ムッソリーニ』p.195)
1924 大正13年・大日本報徳社設立
二宮尊徳の流れを汲む報徳社が政府の支援を受けて大日本報徳社に
1925 伊・ファシスト党、独裁色を強める
1924年の選挙後に社会党を連立に組み込もうとする混乱の中で、社会党過激派マッテオッティ
が殺害される。左派的な社会党出身のムッソリーニを民族右派的な諸派が支える政治状況
1月3日、混乱収拾のために党の力を強める。その後ムッソリーニ自身への暗殺未遂事件が続発
(ヴルピッタ『ムッソリーニ』pp.207-208)
1925 独・ヒンデンブルク大統領選出
エーベルト死去に伴う3月の選挙で、第2回投票の際に右派陣営はヒンデンブルクを候補
に立て、左派の統一候補であるマルクスを僅差で破る
1925 ロカルノ条約
英仏独によるラインライントの非武装化
英仏白伊と独が結んだライン協約と、仏、白、波、チェコスロバキアと個別に締結した
仲裁裁判条約の組み合わせ
(林健太郎『ワイマル共和国』p.124)
1925 大正14年・昭和元年・普通選挙法
25歳以上の男子に参政権
歳の瀬12月26日から昭和
1925 英・金本位制復帰
5月13日に成立
400オンスを含む純金の延べ棒のみが兌換の対象となった(金貨兌換は廃止)
金貨本位制から金地金本位への移行を意味していた
400オンスの純金の価値は、当時のアッパーミドルクラスの年収の10倍近く
(現代の感覚では1億円くらい?)に達する額であったため、貿易の大口決済
にのみ需要があったと思われる。
奇妙なことに、金井の図3-2と図3-3は、金本位制復帰後に米ドルの外貨準備が増えた
ことを示している。ポンド高を演出するにはドル売りポンド買いの介入が必要では?
(金井雄一『中央銀行はお金を創造できるか』pp.47-50)
1926 英・ゼネスト
1925年に英露労働組合委員会設立、ゼネストの背後にソ連の影
これに怒った英国は、翌1927年5月にソ連と断交、労働組合を通じた関係も消滅
1926 英・BBC創設
1926 波・クーデター
5月、ピウスツキが首相になると対ソ戦略が硬化
プロメテウス運動(ソ連領内の民族問題に火をつけて不安定化させる)を実施、
ソ連による同様の運動(コレニザーツィア)に対抗、西ウクライナ情勢は不安定化
スターリン対ピウスツキは今に続く角逐
(佐々木太郎『コミンテルン』pp.183-185)
1926 独・人民要求と人民投票
旧領主の財産を没収するという過激な提案をした共産党に社会民主党が乗り
人民投票が実施されるも否決、ただし有権者4,000万人のうち1,500万票を集める
これをみた右派は左派政権に対する警戒を一層強める
1926 第3次北伐
孫文の跡を継いだ蒋介石は武漢を占領
1926 独・国際連盟加盟
9月10日の総会にて、独は常任理事国に就任
独の国際社会復帰に尽力した米ドーズ、英チェンバレンは1925年に、仏ブリアン、独シュト
レーゼマンは1926年に、相次いでノーベル平和賞を受賞
背後に、独を引きずり込もうとするロシアの影(ドイツを西と東で引っ張り合う)
1926 独・IGファルベン社、水素技術を開発
石炭から水素を取り出す石炭水素化設備を建設
(トゥーズ『ナチス 破壊の経済』上, p.131)
1926 独・合同製鉄結成
テッセン社などの製鉄会社が合同したカルテル、原料の共同買い付け等を模索
1926 Tawney, Richard Henry著, 出口勇蔵・越智武臣訳『宗教と資本主義の興隆』
1927 昭和2年・金融恐慌
大蔵大臣片岡直温が「東京渡辺銀行は本日破綻しました」と国会で発言
未整理の震災手形を処理し切れず
枢密院は台湾銀行、鈴木商店を見捨てる
高橋是清、裏が白紙の紙幣を店頭に積み上げ、事態収拾
国のバランスシートに載り続ける
1927 第1次国共合作の失敗
上海に集結した共産主義者が自治政府を樹立も、蒋介石によって鎮圧される
反対する蒋介石を抑えて移転した武漢でも、共産党が武装蜂起、これを鎮圧
した武漢の国民党は蒋介石がいる南京へ合流
(佐々木太郎『コミンテルン』pp.161-163)
1927 ソ・ロシア共産党第15回大会
トロツキーとジェノヴィエフを追放
1928 昭和3年・第16回衆議院議員選挙
2月20日、普通選挙法施行後、はじめての選挙
総人口の20%が有権者に
(後藤新平「普選に備えよ」p.105『国難来』所収)
1928 独・総選挙
5月に実施、491議席中
ヒトラー率いるナチス党の得票率は2.5%、12議席獲得
シュトレーゼマン率いるドイツ人民党は45議席獲得
ドイツ国家人民党は103議席から減らして73議席獲得
ドイツ社会民主党は131議席から増やして153議席獲得
ドイツ社会民主党、ドイツ人民党、中央党の連立政権でシュトレーゼマンは外相に留任
(トゥーズ『ナチス 破壊の経済』上, p.15)
選挙に勝利した社会民主党に軍艦建造問題が持ち上がる。選挙のスローガンとして
「軍艦よりも子供への給食を」を掲げていたことから、軍艦建造の政府方針と党方針に
矛盾が生じる。首相ミュラーは自ら閣議に提出した軍艦建造の方針に、党の圧力を受けて
反対する。しかし、軍艦建造は賛成多数で承認、ミュラーは自ら反対した軍艦建造を担う。
こうしたでたらめな政権運営を良識派は嫌気、民主主義への信頼低下
(林健太郎『ワイマル共和国』p.138)
1928 Hitler, Adolf『第二の書』
総選挙でナチス党が敗北し、資金も人気も低迷したため出版されず
アメリカ国立公文書館に所蔵されていた口述筆記の資料
2004年、角川文庫から『続・我が闘争』というタイトルで邦訳
自動車産業に象徴されるアメリカの強大な生産力は規模の経済によるものと喝破
領土を東に拡張し、比肩しうる経済圏を作らない限り従属的地位から抜け出せない(生存圏)
やがてアメリカと対立する運命にある英国との同盟を夢想
これに対してシュトレーゼマンはアメリカと手を組み、経済的繁栄を模索(背景にハイパー
インフレ後の経済援助、賠償金軽減に対する感謝の念)
黄金の20年代に見えはじめた翳りに呼応するように
1928 昭和3年・満州某重大事件
6月4日に軍閥張作霖が暗殺されると、息子の張学良は国民党政府に接近
1928 第6回コミンテルン大会
7月17日から9月1日まで
ブハーリンの「第3期」への移行を意識(帝国主義戦争への危機感)
ネップが機能不全に陥り、スターリンは左派を志向
(佐々木太郎『コミンテルン』pp.189-191)
資本主義を延命させる社会民主主義を社会ファシズムと指弾、資本主義・民主主義を
終わらせる力としてのナチスを批判せず
(林健太郎『ワイマル共和国』pp.169-170)
1928 パリ不戦条約
8月27日に締結、20年代の理想と30年代の現実の間で
1928 ソ・スターリンが独裁色を強める
12月に開催されたコミンテルン執行委員会幹部会に出席したスターリンは
右派を厳しく指弾
1928 英・普通選挙法
21歳以上の婦人に参政権
1928 英・カレンシー・ノートの回収
第1次対戦中に発行していたカレンシー・ノート(政府紙幣)を回収し
1ポンドと10シリングのイングランド銀行券へ入れ替え
1928 伊・会津若松の飯盛山に記念碑を寄贈
詩人ダンヌンツィオの交流していた詩人下位春吉は、占領下のフィウメにおり、
ムッソリーニとも関わる。ムッソリーニは白虎隊の故事を聞き及ぶ
記念碑寄贈も下位の提案によるとのこと 資料
(ヴルピッタ『ムッソリーニ』p.311)
1929 伊・カトリック教会との和解協約
2月11日、ファシスト党による
独裁のファシスト・ドゥーチェと国王、教会という三権威の微妙な並立状態
(ヴルピッタ『ムッソリーニ』p.223)
1929 伊・ポンティーネ湿原の干拓
現ラッツィオ州ラティーナ県の干拓は1934年までに完成
(ヴルピッタ『ムッソリーニ』p.271)
1929 バチカン市国建国
イタリア王国建国時から続いた教皇と王国の問題を解消
1929 ヤング案
黄金の20年代が終わり、1928年頃から金利上昇、対独金融の減少および短期化
スムート=ホーレー法により欧州からの輸入品に高関税を課す
6月、ドーズ案の期限が間近に迫っていたため、米フーバー大統領とのすり合わせが十分に
できないまま、その後の対応をパリで協議、調印も、各国の承認は翌年1月までずれ込む
賠償金の大幅な減額とラインラントからの撤兵を決定
ドイツにとっては外交上の勝利にみられたが、国内情勢がこれを許さなかった
鉄兜団を率いるゼルテ、またこれと近い右派政治家フーゲンベルクがシュトレーゼマンを
猛批判、ヴァイマール体制の転覆を目論む
病を押して活動していたシュトレーゼマンは10月3日、失業保険の増額に反対する人民党
を説得した翌日、51歳の若さで力尽きる
国際社会から信頼されていた政治家を、ドイツは大恐慌の直前に失う
蔵相ヒルファディングと次期大統領の野心に燃えるライヒスバンク総裁シャハトの暗闘も勃発
アメリカ勢の公債引受がシャハトの妨害により頓挫、ヒルファディングは12月に辞任
12月に実施されたヤング案反対の人民投票は580万票の獲得にとどまる
頼みの債務削減が僅かにとどまったため、米に対する失望と敵意が芽生える
(トゥーズ『ナチス 破壊の経済』上, p.17)
1929 ニューヨーク証券取引所、株の暴落
10月24日(木)暗黒の木曜日
空売りで資産を築いたケネディ家
米国からの短資流入により潤っていたドイツ経済は崩落
米国からの短資は民間投資にではなく、公共施設の拡充などに使われたため
国際収支の赤字が続いていた、左派政権による社会保障関連費も膨れ上がっていた
1997年のアジア通貨危機、2010年代のギリシャ債務危機に類似
1929 クレマンソー死去
12月
1929 Remarque, Erich Maria著『西部戦線異常なし』
第1次大戦でドイツ兵として従軍し、重傷を負った経験を小説化
1929 Kelsen, Hans著, 長尾龍一・植田俊太郎訳『民主主義の本質と価値』✅
初版は1919年の講演をもとに1920年
ケルゼンの夫人の甥はピーター・ドラッカー、ドラッカー家はケルゼンに批判的
相対主義の立場から民主主義を擁護
民主的な議会と専制的な行政との調和を模索
分業の利益から議会制を擁護
パレートを「偽悪者」と批評、ルソー『社会契約論』、プラトン『国家論』に言及
フロイトと親しかった(心理学の影響)
1930 ゾルゲ、上海にて活動開始
上海にはコミンテルンのビューローが置かれていた
ドイツ人の父とソ連人の母の下、アゼルバイジャンのバクーに1895年に生まれた
1月10日、マルセイユから上海に到着、ドイツ穀物新聞の記者「ジョンソン博士」
としてドイツ人社会に溶け込む
2月23日に米国共産党員アグネス・スメドレーと会い、対米工作開始
5月にはスメドレーを介して中国人協力者方文とコンタクト
また、スメドレーを介して魯迅など中国の知識階級とも接していた
尾崎秀実との接触もスメドレー仲介か
留学先のアメリカで共産党に入党した鬼頭銀ー説も
日本の情報は尾崎秀実、河合貞吉、船越寿雄などから得ていた
この年の秋には支局長代行に
(名越越郎『ゾルゲ事件』pp.50-53, p.66, p.73)
1930 昭和5年・金解禁
1月11日、旧平価にて金本位制に復帰(金の国外持ち出し可能に)
国際決済銀行の出資国、国際連盟財政委員会の構成国となるために、国内経済を犠牲に
為替市場に大混乱を来たし、年末に緊急勅令にて金兌換停止
国民生活より国際公約を優先した悲劇
1930 国際決済銀行(BIS)の創設
1月20日設立
1930 独・失業手当の財源問題
2月、失業者が350万人にまで増えたことを受けて、労使の拠出金を4%に引き上げる提案
3月、労働組合を支持基盤とする社会民主党内に混乱が生じ、ミュラー内閣は瓦解
1930 英・産業開発金融会社の設立
4月に設立、イングランド銀行が資本の4分の1を所有、会長はイングランド銀行総裁
産業再生機構のようなもの?
1930 独・ナチス党の躍進
1月、世界恐慌に襲われたドイツの軍内部にナチス党の支持が広がるのをみたグレーナー
は、ナチスは共産主義者と同様の危険な団体であるため近づくなとの布告を出す
不首尾に終わったヤング案交渉、金本位制のゲームのルールの帰結として、
ブリューニング首相はヴァイマール憲法48条・緊急権を発動、デフレと増税を強行
大恐慌の最中に景気を冷やす政策を実施、資本逃避を防ぐために金利も上げる
1931年に仏から提案された長期借入の受入提案も拒絶、政治的失敗が積み重なる
(トゥーズ『ナチス 破壊の経済』上, pp.20-21)
大増税を目論むがこれが反発を生み、総選挙
9月14日、投票の結果、ナチスはわずか12名の小政党から107名の大政党へ変貌
(トゥーズ『ナチス 破壊の経済』上, p.20)
共産党も議席数を54から77へと増やした。ただし、増えた党員の多くは労働者ではなく
失業者であった。これは資本家の危機意識を高め、ナチス支持に傾く。
(佐々木太郎『コミンテルン』pp.196-197)
ナチス党も民主的手続きによる政権奪取のために資金を必要としていた
10月14日に召集された議会では、ナチス党は突撃隊(S.A.)の制服で国会に入場するなど
議事進行を著しく妨害する
不穏な情勢を察知した米国は資本逃避を加速させる
景気はさらに悪化、失業者は年末までに400万人を超える
1930 米・テキサスにて巨大油田を発見
10月、テキサス東部のブラック・ジャイアントを発見
原油価格が暴落、水素技術に賭けたIGファルベンは窮地に陥り、原油の輸入関税を求めて
後日ヒトラー政権に接近、1936年以降IGファルベン社の水素技術は収益をもたらした
(トゥーズ『ナチス 破壊の経済』上, pp.132-134)
1930 昭和5年・濱口雄幸首相暗殺未遂事件
11月14日、東京駅にて
この時の傷が祟り、翌1931年8月6日死去
「明日伸びんがために、今日は縮むのであります」は、大間違い
1930 ロンドン軍縮会議
1930 Keynes, John Maynard著, 小泉明・長澤惟恭訳『貨幣論』✅
1931 独墺関税同盟
3月23日
ハプスブルク帝国崩壊後に残されたオーストリアはドイツ民族の国家
これと協力することで、少なくとも政治的なポイントを得ようとした
英仏の協力を得ずに独断で進めたため、フランスから批判され同盟は頓挫
かえって外交上の失点となった
1931 独・金融危機
5月、フランス資本の引き上げにより、オーストリア最大のロスチャイルド(ロートシルト)系
銀行クレディット・アンシュタルトが破綻、ドイツ圏内の金融・経済情勢は一層厳しさを増す
6月6日、ブリューニング首相による賠償金の支払い拒絶宣言に市場は動揺
6月20日、米フーバー大統領は賠償金支払いを1年猶予するフーバー・モラトリアムを宣言
6月末、繊維コンツェルンである北ドイツ羊毛会社が破綻
7月13日、混乱の中で独ダナート銀行が破綻、取り付け騒ぎとなり、外貨の割当制実施
米→独→英仏→米という賠償金還流が止まる
巨額の外貨建て債務が重荷になり通貨切り下げできない独は、賃金、価格、金利を統制する
さらなるデフレ政策を強行、エコノミスト誌は「ソ連の支配域以外では前代未聞の自由経済」
への介入だと批判、失業者は600万人に膨れ上がり、銀行は相次いで国有化された
(トゥーズ『ナチス 破壊の経済』上, pp.23-25)
1931 ヌーラン事件
6月、英国警察はコミンテルン極東(極東ビューロー)代表のヤコブ・ルドニフ
(ヌーラン)を逮捕、コミンテルンの内部文書を大量押収
ヌーランはウクライナ系ユダヤ人、中国共産党に月2万5千ドルもの資金援助
汎太平洋労組(プロフィンテルン)の書記であったことから同情を買い
孫文夫人かつ蒋介石の義姉である宋慶齢、魯迅、ロマン・ロラン、アインシュタインら
による助命嘆願も(ミュンツェンベルクが主導したブリュッセルの反帝国主義・民族
独立支持同盟のつながりで)
狭まる包囲網をかいくぐり、ゾルゲは1932年11月12日に上海を去る
(名越越郎『ゾルゲ事件』p.84)
1931 国際連帯デー
ミュンツェンベルク率いる国際労働者救援会主催(第10回)
ベルリンのフィナーレは、当時あった1万5千人収容の「スポーツ宮殿」が満員になり
宮殿の外にも人が溢れかえるほど(後のナチスの大会を彷彿)
(佐々木太郎『コミンテルン』p.217)
星乃治彦『 赤いゲッベルス ミュンツェンベルクとその時代』岩波書店
https://www.iwanami.co.jp/book/b261712.html
1931 昭和6年・満洲事変
9月18日、柳条湖事件勃発
当時の新聞は、部数を伸ばす機縁として満州事変の成功を喧伝
蒋介石の動きは、ゾルゲ配下の中国人協力者によって筒抜けに
大学まで在米であった宋美齢の姉宋慶齢も、蒋介石周辺の貴重な情報源に
9月末、ゾルゲは周恩来との面会を果たす
「降る雪や 明治は遠く なりにけり」(中村草田男)
20年振りに青山学院に立ち戻り、45年続いた明治を懐かしむ
https://www.kitchoan.co.jp/column/2887/
1931 英・金本位制から離脱
9月20日、これが予測できていれば金解禁、満洲事変の愚を犯さずに済んだか
金井の図3-3によれば、金本位制を放棄した後も銀行券流通高はそれほど増えていない
図3-4によれば、金本位制放棄後に預金は急増している
(金井雄一『中央銀行はお金を創造できるか』p.54)
1931 ハルツブルク戦線
10月11日、右翼団体の集会
シャハトによる激烈な政府批判はヒトラーの目に留まり、ナチスと産業界との橋渡し役に
1932 ソ・ウクライナで人工的な大飢饉(ホロドモール)
250万〜1450万人の死者
1932 昭和7年・上海事変
1月、日中双方に多数の死者
時同じくして尾崎秀実は朝日新聞大阪本社へ異動となる
鬼頭銀ー、河合貞吉らも逮捕・取調の後帰国
ゾルゲは代わりに船越寿雄に接触
この頃、英国警察はすでにゾルゲをマークしていた。日本人の帰国と関係?
(名越越郎『ゾルゲ事件』pp.80-81, p.86)
1932 昭和7年・満州国建国
3月、清朝最後の皇帝溥儀を傀儡に立てる
1932 昭和7年・血盟団事件、五・一五事件
昭和維新を掲げる日蓮宗の井上日召
その下に東京帝大関係者などが集う血盟団による政財界大物へのテロ
2月9日、大恐慌の最中に金解禁を断行するという大失策を演じた井上準之助を暗殺
3月5日、金解禁の際、「三井のドル売り」を仕掛けたとされる三井合名の團琢磨を暗殺 資料
5月15日、大川周明、血盟団グループ、共産党とも関係していたテロ集団は、チャールズ・
チャップリンの歓迎会が首相官邸で催されることを新聞で知る
居所が明確な首相犬養毅を暗殺「問答無用」「話せばわかる」
襲撃者はチャップリンも亡き者にして、日米関係を破壊しようと目論むも
チャップリンは奇妙なことに犬養健と大相撲観戦に出かけていて難を逃れる
1932 独・総選挙
3月13日、4月10日の2回の選挙により、84歳のヒンデンブルク大統領再選
これはヒトラーの大統領誕生を阻止するため(ヒトラーはこの時ドイツ国籍を取得)
ヒトラーは選挙資金を得るために、ルールの起業家たちに再軍備を約束していた
4月13日、突撃隊と親衛隊を禁止する緊急令を発布
5月10日、国防大臣と内務大臣を兼務するグレーナーは、国防次官シュライヒャーの策謀に
より辞任に追い込まれる
5月29日、反ユンカー的な政策(東方地域への農業植民)を提唱するブリューニング内閣
が総辞職(シュライヒャーは老齢のヒンデンブルクを意のままに操る)
ブリューニング「がそのためにとった方法は徹底的なデフレーション政策であって、それは、
もっぱら緊縮と増税によってそれを切り抜けようとするものであった。しかしそれはただでさえ
貧窮化した国民生活に多大の負担を課するものであったから、彼が決然たる態度をとれば取る
ほど、国民の不評を招かざるを得なかった」
(林健太郎『ワイマル共和国』p.180)
失業者は600万人を超える
6月1日、パーペンによる男爵内閣が成立(国防大臣となったシュライヒャーの傀儡政権)
7月20日、4月の選挙でナチスが躍進していたプロイセン州の混乱に乗じて地方政府を廃止、
パーペンがプロイセン総督となる
7月31日の総選挙でヒトラー率いるナチス党は230議席、共産党も89議席を獲得
パーペン内閣の不信任が通り、再度総選挙
選挙期間中、ベルリンの市電と地下鉄でストライキ騒動が持ち上がり、奇妙なことに
ナチスは共産党とともにピケを張る。これが右派と資本家の失望を招き資金ショート
11月6日の総選挙では196議席へと減らし、共産党は100議席へと拡大
12月、傀儡のパーペンに意思が芽生え、自ら新国家構想を打ち出したが、
ヴァイマール憲法を破棄するものであったためシュライヒャーらに潰される
12月3日、シュライヒャー自身が首相に就任する
1932 ローザンヌ賠償会議
1月に予定されていた会議は半年延期に、この間にドイツで政変が起き、ブリューニングは
退陣、選挙期間中にパーペン首相が参加
(林健太郎『ワイマル共和国』p.168, p.184)
7月、英仏は独の賠償金を事実上放棄、連動して欧州各国から米への支払いも終了
米国の44%にも上る高関税は、支払い不能を正当化する政治的根拠になった
(トゥーズ『ナチス 破壊の経済』上, pp.31-32)
1932 昭和7年・尾崎秀実再び中国へ
12月末、尾崎は北京を訪れスメドレーと再開、ゾルゲ機関が再び不気味に動き出す
(名越越郎『ゾルゲ事件』p.91)
1932 Robbins, Lionel Charles著, 小峯敦・大槻忠史訳『経済学の本質と意義』✅
1932 Berle, Adolf A., and Gardiner C. Means著, 森杲訳『近代株式会社と私有財産』✅
「黄金の20年代」に米国で勃興した公開株式会社に関する包括的な研究
現代日本の会社法の原型
1933 独・ナチス政権樹立
1月30日
国家社会主義ドイツ労働者党(国民社会主義ドイツ労働者党)
社会主義とは民族共同体の理論であるとヒトラーは認識していた
(小野寺・田野『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?』p.16)
1月4日、ケルンのシュレーダー邸でパーペン=ヒトラー会談
反共産主義、反農業ボルシェヴィズムの旗を立て、資本家とユンカーからの信頼を回復
1月18日、今度はリッベントロップ邸でパーペン=ヒトラー会談
1月23日、シュライヒャー首相は議会解散の暴挙を要請、ヒンデンブルク大統領はこれを拒否
1月28日、シュライヒャー首相辞任
1月30日、ヒンデンブルク大統領はヒトラーを首相に任命
暗躍したパーペンは副首相に収まり、経済大臣・食糧大臣にフーゲンベルク、
労働大臣ゼルテという「厳つい」内閣
1月31日、政権発足
2月1日、ヒトラーによる初のラジオ演説
大恐慌によって販売先を失った農家はヒンデンブルク大統領に圧力をかけ、ナチス党の
政権奪取を後押し
2月20日、ゲーリング邸にて産業界と会談、選挙資金の拠出を要請
2月27日、ドイツ国会が放火される(元オランダ共産党員ファン・デア・ルッベによる)
これを機に緊急令を発し、左翼政党を弾圧、後にルッベは無罪となる
このとき逮捕された者の中にミュンツェンベルク排除の命を受けたディミトロフも
3月5日、総選挙でナチス党は43.9%の得票率にとどまったものの、
東部と北部では多くの農業票を獲得、指揮をとったリヒャルト・ヴァルター・ダレ
の力が強まり、食糧農業大臣となる
ダレは豚の品種改良で農業修士号を取得していたこともあり、ゲルマン民族の生存と
血統保全に強い関心を持っていた。後にダレを引き継いだバッケは親衛隊ヒムラーと
結びつき選民思想を先鋭化させ、悲劇を生む(バッケは1926年に博士を請求した論文
でソ連入植による土地問題の「解決」を主張、博士号の授与を拒否される)
3月13日、ヨーゼフ・ゲッべルス(Goebbels)が国民啓蒙・宣伝相に就任
3月16日、ヤルマール・シャハトがライヒスバンク総裁に再任(背景に外貨準備の急減)
3月23日、カトリック中央党の協力により全権委任法成立
4月1日、ユダヤ企業のボイコット
4月19日、アメリカ金本位制離脱、ドルは対マルクで30%減価
ドイツは外貨建ての対外債務の負担を重くする通貨切り下げができず窮地に
シャハトは海外市場で暴落したドイツ債券を輸出業者に買わせ、それを額面で
買い取る形式の輸出補助金を出すことで通貨切り下げの代わりにした
5月1日、労働の記念日(メーデー)としたが、翌日労働組合は解体
5月10日、ローベルト・ライを指導者とするナチス肝煎のドイツ労働戦線設立
6月1日、雇用創出のために10億ライヒスマルクを支出するラインハルト計画を発表
6月8日、長期対外債務返済停止を月末以降に開始と発表、再軍備計画も閣議決定か
6月12日、ロンドンにて世界経済会議
各国、とりわけ経済の苦境に喘いでいた米の協力が得られず
7月、外国からの批判を受けて反ユダヤ企業のキャンペーンを中止
裕福なユダヤ人を追放は、外貨準備の減少となるジレンマ
7月、経済省はカルテルを強制する権限を得る
1936年までに1,600件ほどの自主カルテルを監督、カルテル企業の利益を投資に回す
賃金抑制と相まって企業収益は急速に回復した
7月16日、ポーランド回廊で隔絶した東プロイセンに集中的に財政支出が投下され、
失業者13万人が職を得た。各地で同様の施策が実施され、600万人の失業者は
秋までに400万人、1934年はじめには300万人、1937年には100万人を下回った。
8月25日、ハーヴァラ協定
1,000ポンドをドイツ政府に入金すれば資産証明書を手にすることができるように
英委任統治下のハノテア・オレンジ農園がドイツ製品を輸入することで、外貨準備
の流出を抑えると同時に、ユダヤ人は有利な条件で海外へ資産逃避
9月、アウトバーンの起工式
10月1日、ハーメルンにて第1回帝国収穫祭
ヒトラーは各地から押し寄せた無数の農民に歓迎されるが、後日ダレによって
提出された世襲農地法は反発を招く
10月14日、ヒトラーはジュネーブ軍縮会議と国際連盟からの脱退を宣言
10月17日、航空機製造会社ユンカースのユンカース博士が反逆罪で逮捕、航空省が収用
11月22日、ナチス党とその推薦者のみが立候補した「選挙」で92.11%の得票を得て
全議席「獲得」、同日実施の国連脱退の国民投票でも95.1%が支持
11月27日、ドイツ労働戦線の下部組織として歓喜力行団設立
余暇・レジャーの推進、フェルディナント・ポルシェが設計した歓喜力行団の車
(フォルクス・ワーゲン)など←フォーディズムへの憧れ
12月18日、軍備増強と対外債務の支払いを50%から30%に減額するとシャハトが宣言、
ヤング案を事実上破棄したことで英米との亀裂が深まる
1933年末で従来の雇用創出プログラムは終了、軍備中心の経済へ
1933年の国勢調査では、労働人口の29%(934.2万人)が農業に従事しており、56.8%が
人口2万人以下の町や村落に住んでいた
(トゥーズ『ナチス 破壊の経済』上, p.34, pp.46-54, p.55の図1, p.60, pp.64-66, p.70,
p.83の図2, pp.85-89, p.102, p.123, p.143, p.190, p.193, p.204, p.210)
1933 昭和8年・国際連盟脱退
2月24日 資料
リットン調査団の報告に基づく投票で、満州地域における主権が中国のものである
との議題が賛成42、反対1(日本)、棄権1(シャム:現タイ王国)で採決される
1933 昭和8年『明治天皇紀』
1933 伊・産業復興公社設立
ファシスト党が提起した欧州型混合経済の雛形
無政府主義的サンディカリズムから、大恐慌を経て統制経済へ転換
(ヴルピッタ『ムッソリーニ』p.216)
1933 ゾルゲ、来日
5月にソ連を出発、ドイツで記者の身分を得て渡米し、ワシントンの日本大使館を訪れる
その後、カナダ・バンクーバーから船で日本へ向かい、9月6日横浜港上陸
日本でナチス党に入党した
翌1934年6月に尾崎秀実と再開、スパイ活動への協力を取り付ける
(名越越郎『ゾルゲ事件』p.96, p.99)
1933 アカデミック・アシスタンス・カウンシルの創設
オーストリアを訪れていたロビンズは当地で偶然べヴァリッジと出会う
そこへ会食予定であったミーゼスが来て、ナチスによる学者追放の報に接する
学術版シンドラーのリストか
ただし、マルクス派の拠点であったフランクフルト社会研究所の吸収合併には
ロビンズとハイエクが反対、すんでのところで契約を回避
独裁的なべヴァリッジに対する学内の批判が高まる
(木村雄一『LSE物語』pp.69-75)
1934 独波不可侵条約
1月26日、両国国境を画定
1934 独・財政より軍事優先へ
3月7日、ヒトラーは帝国国際モーターショーで1,000マルクの国民車を作ると発表
当時の所得水準では、これでも高すぎる価格設定
採算の目処が立たないため自動車産業は手を引き、フェルディナンド・ポルシェが
ビートルを設計し、ビートル専用の工場をも建設、製造
結局終戦まで民間には1台も納車されず、前金として国民が積み立てたお金は戦後
インフレで消える。補償は1960年代になってから
ラジオや住宅も、低い所得と高い製造費の板挟みとなり、思うように普及しなかった
コリン・クラークによれば、ドイツ経済は英米から大幅に遅れていた
(トゥーズ『ナチス 破壊の経済』上, pp.177-178)
3月23日の閣議決定で軍事費優先を決定
枯渇する外貨準備を有効活用すべく、輸入割り当ての品目増加
経済統制を強める政府とそれに反発する北ドイツハンザ同盟
法の抜け穴を求める貿易業者が現れ混乱
輸入代金の枯渇により、重工業を重視、繊維産業を軽視
(トゥーズ『ナチス 破壊の経済』上, p.173, p.108, 図5)
1934 独・メフォ手形の大規模発行
メフォとは、有限会社冶金研究協会のこと
1933年秋に少額発行の後、1934年4月から発行大規模化
6月14日、シャハトは対外債務の支払い停止を宣言、英との関係が著しく悪化
8月2日、シャハトはヒトラーのサポートを得て経済相代行となり、官僚統制を強める
この夏は昨年と比べて不作となり、枯渇する外貨準備の使途を巡り、食糧農業大臣ダレ
との対立が深まる。シャハトはフリーメーソンの工作員だと非難された
(トゥーズ『ナチス 破壊の経済』上, p.215)
農工業の成長と枯渇する外貨準備、購買力を高める都市生活者と供給力に乏しい農業
という重層的な矛盾は、生存圏思想を正当化
1934 ヴェネチアにてムッソリーニ・ヒトラー会談
ヴェルサイユ体制に反感を持つ独伊首脳の初会談
ムッソリーニはドイツ語を話せたため、ヒトラーと通訳なしで会談
6月14, 15日の2日にわたり、ヒトラーはムッソリーニにオーストリア併合の了解を求めたが
不首尾に終わる、その後暴力の度を強めるヒトラーにムッソリーニは憤慨
ヒトラーはムッソリーニの写真を外交ルートを通じて求めるほどムッソリーニを慕っていた
(ヴルピッタ『ムッソリーニ』pp.278-280)
1934 独・長いナイフの夜
ヒンデンブルク大統領から「跳ね返り」への対応を迫られたヒトラー政権は
6月30日、バート・ウィーゼにて突撃隊幹部を拘束、処刑
同時にパーペン副首相は拘束、シュライヒャー前首相は殺害される
(トゥーズ『ナチス 破壊の経済』上, p.78)
1934 墺・ドルフース首相殺害
2月、社会民主党を解散させたドルフースはオーストロファシズム体制を確立
7月25日、墺内のナチス勢力によりドルフース首相は暗殺される
このクーデターは鎮圧されるが独墺間の緊張が高まる
英仏米でもナチス勢力の伸長が見られた(映像の世紀 第4集)
1934 ソ・国際連盟に加盟
9月
1934 独・英米を分断
10月、米との貿易有効協定を解消
11月1日、英独支払協定を締結
自給自足圏を東欧と南米に求めた独は米との対立を深める
(トゥーズ『ナチス 破壊の経済』上, pp.99-100)
1934 Commons, John Rogers著, 中原隆幸他訳『制度経済学』
1934 Elis, Howard S., German Monetary Theory, 1905-1933
https://dspace.gipe.ac.in/xmlui/handle/10973/23582
1935 独・輸出補助金の財源として売上税を課す
5月以降、売上の2-4%を課税、30%近くの輸出補助金の財源となった
(トゥーズ『ナチス 破壊の経済』上, pp.105-106)
1935 独・帝国自然保護法
1935 仏・人民戦線
革命記念日の7月14日に発足
1935 コミンテルン第7回大会
7月25日から8月20日にかけて
ナチズムに対抗すべく、これまで敵視していた「ブルジョア民主主義」と手を組む
対独包囲網にコミンテルンを利用する(仏ソ相互援助条約を揺るぎないものにする)
「フランスでは党員数が爆発的に増加し、労働組合に対する影響力も大幅に強まった。
また英米の大学などで学生のあいだに共産主義への関心が急速に広まっていった」
(佐々木太郎『コミンテルン』p.228)
ナチス・ドイツにソ連が蹂躙されるという絶体絶命の危機感を持つスターリンは、利用
できるものはなんでも利用し、また肥大・官僚化したコミンテルンを大規模リストラした
大会はこれが最後となる(国家存亡の危機にあたり、共産主義などどうでもよくなる)
(佐々木太郎『コミンテルン』p.232)
1935 伊・エチオピア侵攻
残存する奴隷商という旧弊を排除するとの名目で10月2日に侵攻、翌年5月9日までに
全土掌握、国威を大いに発揚した
ソロモン王の末裔を皇帝にいただくエチオピアに対する同情がユダヤ人から集まる
その反作用として、反ユダヤ感情、ユダヤ陰謀論がイタリアで高まる
西欧の根雪である反ユダヤ感情が露出した形
イタリア軍が毒ガスを使った攻撃をしたとして、それまでムッソリーニの手腕を評価
していた諸外国は批判的立場に変わった
孤立する伊に独は近づき、伊は独によるオーストリア併合を承認した
(ヴルピッタ『ムッソリーニ』p.273, p.282, p.286)
1935 米・中立法
アメリカの伝統を貫き、大陸の戦争には不介入をもって望む
1935 英・ペンギンブックス刊行
1937にはペリカンブックスが刊行され、読書の習慣が大衆化
(村岡・川北編著,p.254)
1936 Keynes, John Maynard, General Theory of Employment, Interest and Money ✅
1936 Japanese Trade And Industry
https://archive.org/details/in.ernet.dli.2015.77826/page/n4
1936 独・ダレの演説
「東はウラル山脈まで、南はコーカサス、カスピ海、黒海、そして地中海沿岸とバルト海、
北海を分ける分水嶺まで」 ドイツ民族が解放し、開拓すべきと主張
(トゥーズ『ナチス 破壊の経済』上, p.224)
1936 昭和11年・二・二六事件
大恐慌の惨状を目の当たりにした若い将校たちが昭和維新を掲げて決起
28日、馬奈木敬信参謀本部ドイツ班長がドイツ大使館に説明に入る
リヒャルト・ゾルゲは、来日した1933年に知己を得て食い込んでいた駐日ドイツ武官
ユーゲン・オットーの秘書として一部始終を聞いていた
(オットーは1938年4月に駐日ドイツ大使となるが、接触当時は陸軍連絡将校)
また、有楽町の朝日新聞東京本社に詰めた尾崎秀実や画家の宮城からも情報を得ていた
ドイツ大使館は当時国会議事堂の隣、現在の国立国会図書館の場所にあった(大使専用
の電話番号は銀座2317番)
反乱鎮圧後、カメラを下げて街に出たゾルゲは一時拘束された
盗聴されていた電話の声はまだ子ども、胸が塞がれる思い
電話のやり取りを傍受していたのは? 資料
皇道派は力を失い統制派が主導権
(名越越郎『ゾルゲ事件』p.98, p.103)
1936 独・ラインラント進駐
3月7日(土)、冬季演習の名目で兵を集め、フランス公務の休日に進駐
批判の中、夏にはベルリンオリンピックを開催
英仏との奇妙な融和ムード醸成
1936 仏・レオン・ブルム人民戦線内閣成立
1935年7月14日に誕生した人民戦線は、この選挙で共同綱領を掲げて戦う
6月4日成立、金本位制離脱、週40時間労働・2週間のバカンスなど左派的政策を打ち出す
翌1937年に控えたパリ万博景気を追い風にするが、ユダヤ系であるブルムには非難も
また、選挙直後に発生した大規模ストは、この選挙で伸長した共産党への疑念を深めた
(佐々木太郎『コミンテルン』p.234)
1936 独米貿易危機
6月11日、米は独にこれ以上の輸出補助金とダンピング輸出には報復関税で応じると通告
外交努力はコーデル・ハル国務長官に拒絶される
1936 西・内戦
2月の総選挙で人民戦線が勝利するも、その後政局は不安定に
7月17日、フランコ将軍が突如共和国樹立を宣言、独伊が支援(ドイツ空軍コンドル軍団)
9月末、コミンテルンは義勇兵募集、53か国から3万人を派遣(国際旅団)
義勇軍には雑多な過激派が入り込み、義勇軍内での争いも絶えなかった
共産主義者として知られるスペイン人ピカソは、ビスケー湾に面するゲルニカへの空爆を
題材に大作を描く(ロックフェラー家所蔵のレプリカ・タペストリーは国際連合に再貸与、
2022年2月5日に安全保障理事会の入り口に再掲)
ヘミングウェイ『誰がために鐘は鳴る』 は1940年発表、1943年映画化
第2次大戦中、フランコはコウモリ外交を展開、敗戦国の汚名を免れる
(日本もこうすべきであったか…)
1936 独・ヒトラーの4カ年計画覚書
8月9日、このままではボルシェビキに押しつぶされ、ドイツは失われるという危機感の下
ドイツ民族の生存圏問題の「解決」を目指し、闘争の最終準備を主張
通貨切り下げによる自由貿易圏復帰により平和の道を模索したライプツッヒ市長カール・
ゲルデラー、英米仏との協調的通貨切り下げを探るシャハトらの主張を退ける
「4カ年」は戦争準備完了までの期間、戦争準備に反対して経済相を辞任したシャハトの後
を継いだ ヘルマン・ゲーリングが主導
IGファルベンの若手技術者たちは、自らの技術発揮の場と捉え、積極的に政権に協力した
(トゥーズ『ナチス 破壊の経済』上, p.259)
1936 第6回太平洋問題調査会(ヨセミテ会議)
8月15日から8月29日にかけて
船便で参加した尾崎秀実は同船の西園寺公一らに近づき、政治勢力への足がかりを得る
以降、朝飯会(朝食会)や昭和研究会に顔を出す
1936 昭和11年・日独防共協定
駐独大使館武官の大島浩と軍縮全権代表のリッベントロップとの交渉を経て
11月に調印も、交渉の過程と結果はゾルゲからスターリンへ伝えられていた
(名越越郎『ゾルゲ事件』p.108)
1936 ソ・スターリン憲法
12月5日制定
1936 西安事件
蒋介石の手腕に疑問を持つ張学良は密かに中国共産党と接触
12月12日、西安を訪れた蒋介石を拘束するも、コミンテルンは対日で協調せよと指令
急遽西安に周恩来が駆けつけ、第2次国共合作が成る(東洋の人民戦線)
日本の関東軍と中国国民党の軍がぶつかる間に中国共産党軍が力をつける
1937 独・物価統制
外貨準備が枯渇する中、通貨切り下げなき内需拡大という矛盾に満ちた4ヵ年計画により
限られた外貨で獲得した鉄鋼と食糧の配給を余儀なくされた。価格メカニズムは放棄された。
一般陸軍局の長、フリードリッヒ・フロム少将は月間27万500トンの鉄鋼を要求したが、
1937年2月の配給は19万5000トンにとどまった。空軍に至っては、生産計画から25%削減
を余儀なくされた。
(トゥーズ『ナチス 破壊の経済』上, p.262)
夏から秋にかけて、既存設備の国有化と新規の鉄工所建設による生産拡大を求めるゲーリング
とそれに反対する産業界を味方につけたシャハトの対立が鮮明となるが、シャハトは敗れ、
11月に経済相を辞職した。
(トゥーズ『ナチス 破壊の経済』上, p.269)
11月5日、独軍最高幹部向けの会合(ホスバッハ会議)で、ヒトラーはチェコスロバキアへの
侵攻を告げた
(トゥーズ『ナチス 破壊の経済』上, p.271)
1937 ソ・大粛清
スターリンの不信感は頂点に達し、コミンテルン内部で破局的とも言える殺戮
ゾルゲから連絡を受けていた者たちも処刑され、機能不全に陥る
翌1938年の後半、粛清対象がNKVDにまで及ぶに至り沈静化(蛸足喰い…)
1937 昭和12年・第1次近衛内閣
6月4日成立
大衆的人気を博した五摂家筆頭
尾崎秀実は朝日新聞を退職、参与となる
ドイツ大使館に陣取るゾルゲと政権中枢に食い込む尾崎
https://x.com/Hiro32531/status/1842010697812869198
1937 昭和12年・日支事変
7月7日、盧溝橋にて銃弾が飛び交う
1937 パリ万博
5月25日から11月25日まで
ドイツのパビリオンは人気に
6月、ブルムの人民戦線内閣は崩壊(スペインへの介入失敗などの責任を取る)
ブルム内閣崩壊、日支事変、日独伊防共協定をみたスターリンは、スペインから手を引く
1937 昭和12年・日独伊防共協定
11月、前年の日独防共協定にイタリアを加える
同月、大本営が設置される
1937 ソ・スターリンの大粛清
ゾルゲを勧誘したベルジン、ゾルゲを教育したメリニコフ、ゾルゲに勲章を与えた
ウリツキー、ゾルゲの後任リムの4人も銃殺、ゾルゲにも帰国命令が出るが、黙殺
(名越越郎『ゾルゲ事件』p.111)
1938 Hobson, John Atkinson著, 高橋哲雄訳『異端の経済学者の告白[ホブスン自伝]』✅
1938 独・国防外交のトップ入れ替え
2月初めに発覚した国防軍トップ、ブロンベルクとフリッチュを巡る醜聞を契機に
ヒトラーが三軍を束ねる軍のトップに、ゲーリングを元帥に、リッベントロップを外相
に据えた。ヒトラーに直言できる口うるさい部下が周囲から消えた。
(トゥーズ『ナチス 破壊の経済』上, p.274)
1938 独・オーストリア併合(アンシュルス)
シュシュニック墺首相は、国家独立維持を問う国民投票を3月11日に実施するとしたが
これに反発する墺内のナチス勢力と手を組む独軍がなだれ込み、3月12日に完遂
この間、オーストリア各地で反ユダヤ暴動が起きた
4月26日、5000ライヒスマルク以上を保有するユダヤ人に財産登録を義務付け、これを
軍備拡張に使えるようにした
併合により、オーストリア領内40万人の失業者という労働力と7億8200万ライヒスマルク
の外貨を得た(7月14日の労働省報告では、ドイツ内の失業者は30万人、うち労働可能な人
は3万人を下回っていた。ベルリンで働ける失業者は芸術関係者くらいであった)
これを見て英米仏は再軍備に舵を切った
2014年3月18日の露によるクリミア併合を想起
(トゥーズ『ナチス 破壊の経済』上, pp.278-279, p.294)
1938 独・ズデーテン(チェコの一部)併合
5月20日、独軍がチェコに侵攻するとの噂が流れ、英仏などもパニックに陥る
騒ぎが治ると、「これはヒトラーが譲歩したためだ」という言説が飛び交い、これに激怒
したヒトラーはチェコ侵攻準備を指示、民族自決の標語の下に外交圧力も高める
ドイツ帝国銀行総裁シャハトと財務大臣クロージクはメフォ手形の乱発を止める代わりに
短期国債の増発で資金繰りをした
6月2日、国防軍国防経済局とドイツ帝国銀行との共催で経済会議開催
軍備増強の奔流が民間経済を著しく圧迫し、不均衡は避け難いであろうと
6月17日、ヒトラーはゲーリングと協議し、国防軍への鉄鋼配分を32.5万トンから50万トン、
さらに数か月後には65万トン超まで引き上げた(ドイツ鉄鋼生産の4割が軍需へ)
この夏のゲーリングの陸軍代表者たちに向けた話は「無理が通れば道理が引っ込む」
p.285の表7を見る限り、軍拡競争に遅れをとった独軍に勝ち目はないが…
ここが分水嶺だったか
(トゥーズ『ナチス 破壊の経済』上, pp.286-289)
6月22日、国家特別重要目的労働確保法を制定、国家に徴用権限が付与された
皮肉なことに、法の抜け穴を通る高賃金で、軍需産業は急速に労働力を吸収した
また、ジークフリート線を急ピッチで造成するためにも多くの労働者が手当された
その反動として、農村部の労働力が急減した。これを補う女性労働は子供の「削減」による
(トゥーズ『ナチス 破壊の経済』上, pp.297-298, 表8)
7月6日、フランスのエヴィアンにて政治難民受け入れのための国際会議
大恐慌の傷が十分に癒えていない各国は、根雪のような反ユダヤ感情も相まって受け入れに
手を挙げず、暗礁に乗り上げた
9月21日、ドイツ系住民が多いズデーテン地域の割譲の交渉を開始、ハンガリーとポーランド
も失地回復を主張したため混乱が生じた
戦機にはやるヒトラーに対し、ゲーリング、クロージク、シャハトら中枢は時期尚早の判断
ヒトラーを確保するクーデター計画も蠢く極限状態、ムッソリーニも説得にあたる
ミュンヘンの妥協は独伊と英仏がともに望んだもので、ヒトラーはこれを飲むことで延命
(トゥーズ『ナチス 破壊の経済』上, p.309)
9月29日、ミュンヘンに英チェンバレン、仏ダラディエ、伊ムッソリーニ、独ヒトラーが集う
多国語を話せたムッソリーニが仲介役となった(ヴルピッタ『ムッソリーニ』p.288)
独によるズデーデン(チェコスロバキアのドイツ人が多く住む地域)割譲を認める
国防経済局トーマス少将はこの日、1942年までに軍備を揃え、対英戦に備えよとの司令受領
10月10日、ズデーテン併合
厭戦気分が蔓延していた当時の英国では称賛されたが、現代ではチェンバレンの大失策との評
その後もポーランドとハンガリーから領土割譲を求められたチェコスロバキアは、こともあろう
にドイツを頼るも、1939年春には解体、消滅
これを機にドイツ帝国銀行総裁シャハトと財務大臣クロージクは、軍事拡張から平和主義への
転換を訴えた(拡張的財政・金融がともに限界を迎えていた、10月3日のメモ草稿など)
しかし、三軍は西部戦線での大規模戦争に備える軍備拡張を加速させた
11月2日、英米貿易協定調印
戦時に米から英への軍備提供を約したものではないかとの疑心暗鬼が独に広まる
11月7日、パリにて駐仏ドイツ大使館員エルンスト・フォム・ラートがユダヤ人ヘルシェルに
よって暗殺された。これはポーランド系ユダヤ人である親がドイツから追放されたことに対する
復讐であった。この報がもたらされた直後から、反ユダヤ暴動の火の手が上がった。11月9日
はミュンヘン一揆15周年の式典が催された日であった。その深夜、暴動と虐殺はピークを迎えた
(水晶の夜)
11月12日、国外退去するユダヤ人に対して資本税、資本逃避税を課したが、これによる税収は
全税収の5%に過ぎなかった。同日、シャハトはゲーリングに「ユダヤ金融資本の拠出を得て
ドイツ域内のユダヤ人を出国させる」提案をしたが、そのような拠出に応じるユダヤ団体は
現れるはずもなかった
各国で押し付け合いに遭うユダヤ人の唯一の希望が世界大戦だとする、陰謀論も勃興
(ドイツ域内の暴動が反ドイツ感情を高めていた事実を陰謀論で隠蔽)
11月18日、帝国国防評議会の初会合
ゲーリングは、全国民を国民カード目録に登録すると発表、また財産税も示唆
三軍向け大増産の計画は、画餅に終わる(民間経済との両立の問題、労働力・原材料の配分
問題、たとえ建造できたとしても戦艦・戦闘機の燃料の問題、外貨準備・インフレの問題、
財政の資金繰りの問題、…)
1938 昭和13年・張鼓峰事件
6月、スターリンの大粛清から亡命したNKVDの極東方面司令官リュシコフは東京で会見
を開いた、リュシュコフの取り調べに当たったドイツの情報将校ショル武官は、なんと
ゾルゲと通じていた。聴取記録はソ連にそのまま伝えられた。リシュコフは果たして本当
に純粋な亡命であったのか…
7月、満州とソ連の国境に位置する張鼓峰で小競り合い
この後、ソ連の危機感は高まり、ゾルゲへの要求が一段と厳しくなる
1939 米・一般教書演説
1月4日、ローズヴェルト大統領による演説は、ドイツの反ユダヤ主義はアメリカの政治と
宗教を根底から覆すものだという主張を含んでいた、ユダヤ問題は米国のスイッチを押す
ドイツ側は「ローズヴェルトは ユダヤ資本の手先」だとするプロパガンダで応じた
昨今保守言論人が「行き過ぎた」イスラエル擁護をしているのは、この教訓か
1939 独・ドイツ帝国銀行総裁シャハト解任
1月7日、これ以上の軍備拡張にドイツ経済は耐えられないとの訴えをヒトラーに提出
これに対してヒトラーは総裁シャハトと副総裁、局長を解任することで応じた
総裁の後任にはヴァルター・フンクが任命された
1月30日、ヒトラーは演説の中で「輸出か、さもなくば死か」と叫び、ドイツ国民総動員に
よる外貨獲得を訴えた
6月、帝国銀行の約款が改定され、金本位制は事実上破棄された
それにもかかわらず、夏以降、軍備計画の縮小、軍備会社の人員削減などが相次いだ
(トゥーズ『ナチス 破壊の経済』上, pp.337-339, p.341)
1939 独・プラハ進駐
3月15日、ポーランドの反発を招き、ポーランドはソ、英との関係を強化
英仏とソの関係も近づく
これをヒトラーは英・ユダヤ、ボリシェヴィキ、コミンテルンの陰謀と主張
1939 独・原材料確保のための条約攻勢
3月23日、ルーマニアとの貿易協定
産油国ルーマニアとの協定は英仏を刺激、東欧とトルコを英仏側に追いやる結果に
外交巧者ルーマニアは石油をドイツに輸出する見返りに軍用機メッサーシュミットを輸入
4月15日、ブラウヒッチュは鉄鋼生産の惨状(軍需に全く対応不能)を報告
4月15日、独元帥ゲーリングと伊外相チャーノの会談
5月22日、イタリアとの鋼鉄条約
戦争準備に数年を要するとされていたが…
(ヴルピッタ『ムッソリーニ』p.289)
5月24日、トーマス少将は、マクロ経済統計を用いてドイツの劣勢を外務省職員にレクチャー
想定軍備の10分の1ほどの生産力しかないドイツが世界に戦争を仕掛ける愚
5月31日、イタリアはドイツに対して、戦争準備は1943年まで整わないと通告
7月18日、米・中立法改定は暗礁に乗り上げる
8月13日、アバス通信(現AFP通信)のギランが独ソ不可侵条約を嗅ぎつけ、パリに打電
一大スクープになる
8月23日、独ソ不可侵条約締結
日本との同盟の当てが外れたドイツは、直前に迫るポーランド侵攻の保証を求めて
ソ連と接近、ポーランド解体を含意する条約を締結、軍需物資の輸入も進んだ
独は二正面作戦を避け、軍備パリティ直前に開戦する準備を整えた
ソは独と英仏の相討ちを演出することで、漁夫の利を目論んだ
これまで「反ナチス」の旗を掲げてきたコミンテルンと人民戦線に動揺が広がる
スターリンにとってコミンテルンは、ソ連に矛先が向かないように非ソ連圏を
混乱に陥れるための道具にすぎない(国家存亡の危機を間近に見据えていた)
8月26日、8月27日、トーマス少将はカイテル総長、ヒトラー総統と直談判、思いとどまる
よう説得を試みるも、「蹴り出された」
8月27日、ナチス党首脳に対してヒトラーは「自分の戦争決意がドイツへの愛によるもの
ではないと思う者がいれば、自分を射殺していい」と述べた
8月30日、独ソ不可侵条約締結を受け日独同盟は頓挫、「欧州情勢複雑怪奇」として
平沼内閣総辞職
(名越越郎『ゾルゲ事件』p.134)
1939 ノモンハン事件
ソ連軍の強さを測る腕試しとして、関東軍が独断で火蓋を切る
前年7月の張鼓峰事件でリュシコフが日独にもたらした情報を、ソ連は逆手に取り備える
5月に戦闘に入り当初は日本が押すも、次第にソ連が押し返して9月15日に停戦
後に公表された資料によれば日本軍の成果となるが、当時は情勢が掴めず、北進の難しさ
を悟る機会となった。戦功を立てたジューコフはこの後西部戦線でも活躍
兵器の近代化を急ぎたい日本は、米国の経済制裁が足枷に
(名越越郎『ゾルゲ事件』p.128)
1939 第2次大戦
ポーランドは英波相互援助条約を結ぶも、9月1日、独の侵攻を許す
最後まで伊仲介による英仏との会談を模索するも、止められず
わずか3週間でワルシャワは降伏
9月25日のタイム誌はヴァルター・フォン・ブラウヒッチュ上級大将を表紙に掲げる
この夏から1940年初夏まで、ドイツ工業の輸入は実質値で5分の1に激減
(トゥーズ『ナチス 破壊の経済』上, p.377, 図12)
9月、10月、バルト海沿岸やチロル地域からドイツ領内に「帰国」したドイツ系住民に
土地を与えるため、旧ポーランド領内のポーランド人とユダヤ人に立ち退きを迫る
その空白地にドイツ系を入植させることで、アメリカの西部開拓を凌ぐ経済圏を樹立する
(トゥーズ『ナチス 破壊の経済』下, p.524, p.531)
11月3日、米は現金自国船(cash and carry)法を成立させ、連合国への武器提供へ道をひらく
11月12日、ドイツによるフランスへの全面攻撃は延期に
12月12日、ヒトラーは弾薬の大増産を命じる
ドイツ帝国鉄道は輸送能力を越える輸送を求められた(石炭移送、戦員移送)
(トゥーズ『ナチス 破壊の経済』上, p.390, 図13)
1939 冬戦争
11月、ソ連赤軍の大攻勢をフィンランド軍は領土の一部を失うもなんとか持ち堪える
12月10日、ソ連は国際連盟から除名
1939 Carr, Edward Hallett著, 原彬久訳『危機の二十年』✅
1939 Hicks, John Richard著, 安井琢磨・熊谷尚夫訳『価値と資本』
ヒックスは1926年、LSEに赴任するまで経済学との関係は深くなかった
イタリア語の素養があったヒックスにLSEのドルトンはパレートを紹介、パレートを通じて
ワルラスにも触れ、経済学の才能が開花(木村雄一『LSE物語』pp.84-85)
1939 Lefebvre, Georges, 高橋幸八郎・柴田三千雄・遅塚忠躬訳『1789年』✅
フランス大革命150周年を記念して7月に刊行、ナチス・ドイツのフランス侵攻を控えて
1789年5月の三部会招集から10月5日のヴェルサイユ行進までのフランス大革命を克明に描く
「人権宣言によって自治の権利を付与された市民たちが、もしも、互いにその機能を濫用しあう
ならば、とりわけ、個人的エゴイズムに駆られて国民共同体の福祉を守ることを拒否するならば、
そのとき、国民共同体は亡び、、それとともに市民たちの自由もまた亡び、あとには彼らのむな
しき形骸のみが残ることになるであろう」(pp.369-370)
最後の数ページはドーデ『最後の授業』を彷彿(Viva France!と国民万歳!)
ドーデの話が国語の教科書から消えたのは、ドイツ贔屓なある種の人たちのゴリ押しか
1940 Clark, Colin, The Conditions of Economic Progress
https://archive.org/details/in.ernet.dli.2015.223779
1940 独・農民と弾薬の不足問題
1月25日、ゲーリングはポーランド総督府(ドイツに併合されていないポーランド)に
100万人もの季節農民の提供を求めた(ポーランド人排除の建前は、生産事情という現実に
押しのけられた)。4月、14-25歳の全住民を強制的に徴発した。
配給を1日あたりのカロリーで測るとドイツ人2600キロカロリー、ポーランド人609キロ
カロリー、ユダヤ人503キロカロリーであった。空腹のため作業中に気絶する労働者も出始めた。
4月8日、弾薬調達の遅れの責任を取り、陸軍平気曲調ベッカー大将は自殺
アウトバーン建設に大いに貢献したフリッツ・トートを後任に据え、党直轄とした
その後の大増産を支えたのは、民間消費を切り詰める(配給制)ことで生じた過剰貯蓄
(トゥーズ『ナチス 破壊の経済』上, p.401, 図15, p.414)
1940 英・チャーチル保守党政権誕生
5月10日に首相就任、白蘭仏が次々と蹂躙され、英の孤軍奮闘がはじまる
1940 独・フランスに侵攻、占領
5月10日早朝5時35分、電撃戦開始、フランスとベルギーの境にあるマース川を急襲
仏軍が北部に集結する裏をかき南進、戦力に劣る独軍が瞬く間に連合軍を圧倒
このギャンブル的進軍(マインシュタイン作戦)は、2月にフランス領空で撃墜された飛行機に
あった作戦書が連合国側に渡ったことにより浮上した作戦変更
集中した戦車と装甲車両は4本の道に集中した。オートバイと軽飛行機による牧歌的な誘導
場所場所での燃料補給、戦車チョコレートという愛称のアンフェタミン覚醒剤による寝ずの行軍
独は勝利を祝う記録映画の中で兵士を英雄視、物量に精神が勝利したとのプロパガンダを展開
奇跡的な勝利は、その後の戦局見積もりを甘くする
(トゥーズ『ナチス 破壊の経済』下, pp.423-424)
5月16日、米ローズヴェルト大統領は世界最大規模の軍産複合体の立ち上げを提案
その後両洋艦隊法、平和時徴兵など戦争準備を加速させる
5月27日、独軍有利の報に接していたルーマニアは独と石油協定を結び、対英輸出を止めた
6月17日、コンピエーニュの森にて停戦協定
1940 伊・参戦
6月10日、敗戦目前のフランスに対して宣戦、6月24日に停戦もその間伊軍は押される
10月28日にはギリシャに侵攻も反撃に遭う、またエジプトからリビアも攻撃され守勢に回る
11月11日には、英空軍の爆撃により戦艦、巡洋艦を失った(真珠湾攻撃のモチーフとも)
翌1941年1月19日、ベテルヒスガルテンの会談で、ムッソリーニはヒトラーの支援を仰ぐ
(ヴルピッタ『ムッソリーニ』pp.299-301)
1940 独・フランス占領
6月22日、ヴィシー政権と独仏休戦協定
7月、永世中立国スイスは地政学の地殻変動に接し、英から遠ざかり独に接近
7月31日、ヒトラーは早くも対ソ戦の準備を指示
1939年以降のデータを見る限り、この間に労働生産性が大幅に低下したとは考えづらい
(トゥーズ『ナチス 破壊の経済』下, p.496,図17)
8月、グスタフ・シュロッタラーによる西欧諸国の中央決済システムへの編入
フランスやオランダの業者がドイツへ輸出するとフランスやオランダの中央銀行から
代金を受け取る。各国中央銀行はドイツ帝国銀行に対する債権を持つことになるが
これは精算されず積み上がったままにされた(占領された側が債権を持つ奇妙さ)
この債務は、「占領費用」という名目で占領各国から徴収された
(トゥーズ『ナチス 破壊の経済』下, pp.439-440, p.445,表10)
1940 昭和15年・第2次近衛内閣
三国同盟に否定的な米内内閣は、陸軍大臣の辞任により崩壊
陸軍大臣に東條英機、外務大臣に松岡洋右という布陣で臨む
1940 昭和15年・コックス事件
7月27日にロイター通信社のコックス他11人が英国のスパイとして逮捕される
29日にコックスは自殺、篠崎スパイ事件へ
1940 独・ザ・ブリッツ(英国空爆)
9月7日から翌年5月10日まで
独空軍パイロットが「敵を恐れはしないが、ユンカース88は恐れていた」というほど
投入した爆撃機ユンカース88の性能は低く、十分な成果が得られなかった
(トゥーズ『ナチス 破壊の経済』下, p.505)
1940 昭和15年・篠崎スパイ事件
9月11日、シンガポールで活動していた篠崎護に英国は逮捕許可を与え、21日に逮捕
これを機に日英関係は修復不能に
1940 昭和15年・日独伊三国同盟
9月27日調印
1940 独ソの会談
11月3日、ベルリンを訪れたソ外相モロトフに独向け穀物輸出を倍にするよう要請
ソがこれに応じたため、「付け入る隙がある」と解釈された
1940 昭和15年・紀元2600年祭
神武天皇から数えて2600年
https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0009180102_00000
1941 米・レンドリース法
1940年12月17日発表、1941年3月11日成立、連合国向け武器の貸与・売却が可能に
1941 昭和16年・日ソ中立条約
3月10日、ゾルゲがモスクワに打電した情報では、ドイツから日本に送る軍事物資を
シベリア鉄道で送れないか、ソ連に希望するとのこと(なんと呑気な…)
ドイツ、イタリアを訪問した松岡洋右は下にも置かない歓待を受ける
https://www.youtube.com/watch?v=_IMlOnY2bSE
4月13日、モスクワを訪れた松岡洋右は5年を期限とする条約に署名
「独はソを攻撃する」というチャーチルの忠告を聞かず、あるいは聞いたからこそ、
保険としての中立条約(条約に前向きな松岡と親ナチ派の大島浩駐独武官の対立)
近衛首相が松岡からの打電を受けたそのとき、尾崎秀実は同室していた
開戦前からほぼすべての情報が筒抜けになっていた
この春、ヒトラーは独日で対米宣戦布告を持ちかけるが、日本側はこれに応じず
(名越越郎『ゾルゲ事件』pp.153-154)
1941 昭和16年・日米交渉
4月16日から50回にわたり、最後の機会としての交渉
米側は、中国と南方から軍を撤退させることを要求、また三国同盟離脱も要求
それと引き換えに、中国と南方の権益を認めるという硬軟織り交ぜた提案をする
対独・対ソ交渉中の松岡、オットー駐日ドイツ大使は不満
松岡はハル長官に対して「ドイツは勝利する」と打電(あの歓待で目が眩んだか)
昭和天皇は「ドイツから帰国後、松岡は人が変わった」とのご推察
「松岡が合祀された靖国には行かない」と1975年11月21日を最後に親拝なされず
(名越越郎『ゾルゲ事件』p.157)
1941 昭和16年・国防安保法
5月に成立、アメリカ共産党人脈の逮捕準備
各国に張り巡らされたスパイ網が相次いで摘発された
ゾルゲらスパイを摘発する機縁に
1941 独・バルバロッサ作戦
1940年、バルト3国を併合し、北欧に浸透するソ連軍に独は警戒を高める
5月、戦艦ビスマルクが撃沈される
6月22日に不可侵条約を破棄、305万人が1000キロに及ぶ戦線を構築
スターリンは茫然自失、一時別荘に引きこもるほど
北欧の工業地帯とウクライナの穀倉地帯を急襲することで物量の不安解消を狙う
ソ連が北ドヴィナ川・ドニプロ川より東に下がる前に電撃的に叩き、壊滅させる作戦
1940年12月17日のこうしたヒトラー指針は、戦力を分散させるとしてハルダー大将は疑問視
1941年春には、駐ソドイツ大使館、国防経済局、トーマス大将らも否定的な見解を持つも
ヒトラーの権力には逆らえず、ウクライナ侵攻を主張する農業省次官バッケに話を合わせる
1940年冬にはドイツ占領地域における食糧不足が深刻化していた
ソ連向けの食料を全てドイツ向けに振り替えることで、ソ連人2000万〜3000万人が餓死する
との予想
中長期的には、無尽蔵の資源を持つソ連に独は従属せざるを得なくなるという危機感
6月22日早朝、ヒトラーはムッソリーニ宛に親書を送っていた
(トゥーズ『ナチス 破壊の経済』下, p.489, pp.516-518, p.541, p.549)
無限の物量を誇る米の参戦前にコーカサスに達し、膨大な石油を確保しようという誇大妄想
現代からは信じられないが、進軍の4分の3は馬(60万〜75万騎とも)と徒歩
それでも1940年のドイツの一人当たりGDP は、ソ連の2.5倍と推計される
(トゥーズ『ナチス 破壊の経済』下, pp.510-514)
7月3日、ハルダー参謀総長は勝利宣言をしたが、7月末までに攻勢限界に当たり、ソ連軍の
反撃が始まる。8月上旬、600師団のソ連軍をみくびっていたとハルダーは記している。
ヒトラーは自軍の不利をいち早く察知、早くも8月18日にソ連との講和を議論しゲッべルスを
失望させた。戦況は一進一退となり、8月下旬にはキエフ、レンングラードを包囲、9月6日には
モスクワへ進軍した。10月になると泥濘に囚われ、10月26日にはルバルト少尉が戦死した。
9月17日のドイツ帝国銀行は、民需品の供給減と通貨供給増によりインフレが生じると警告
増税で民間資金を吸い上げ、価格統制で軍需産業の利益を削りはしたが、原材料の不足という
根本原因の除去はできず
結局、1941年6月から44年5月までに毎月平均6万人、ピークの1944年8月には28万人が戦死
戦時の生産体制も、捕虜と占領地からの徴用から成り立っていた。1944年秋には800万人弱、
軍需品向け労働者の3分の1以上が外国人労働者であった。彼らの大半はいわゆる使い捨てに
され、480万人ほどの外国人労働者が亡くなったとされる。 徴用が「うまく」いったため、
「余った非生産的な」ユダヤ人は虐殺された。食糧、原料、生産量、労働力、収容所や居室の
不均衡の皺寄せをユダヤ人は背負った。ドイツ人より外国人労働者が食料配給で優遇され、
反発を招くこともあった。SS(親衛隊)に払う手数料込みの外国人労働者の生産性(費用対
生産)はドイツ人労働者を超えることもあった。
(トゥーズ『ナチス 破壊の経済』下, p.582の図19, p.586, p.593, p.606の表16)
ゾルゲは前年末から何度かモスクワに警告打電をした。開戦直後、6月27日に駐日ソ連大使館
関係者と面会するよう指令を受けた。ただ、ミトロヒン文書によれば、モスクワに届いた
ドイツの情報は100を超えていた。
長引く日支事変に疲れ、日本には厭戦気分が蔓延していた
(名越越郎『ゾルゲ事件』p.168, p.172)1941 大西洋憲章
1941 昭和16年・第3次近衛内閣
7月2日、第5回御前会議にて南部仏印進駐が裁可
名越『ゾルゲ事件』に、南進か北進かで揺れる松岡洋右が描写されている
サイゴンはこの月に日本の手中に
7月7日、満州にて70万の兵力を動かし関特演実施
7月18日、抑えが効かなくなった松岡を罷免して第3次近衛内閣発足
対ソ開戦を辞さない松岡から海軍出身の豊田貞治郎へ
松岡は、親ナチス駐独武官大島浩と参謀の間で板挟みなっていたのか…
8月、独ソ戦が泥沼化、戦況を見通せなくなり北進論はしぼむ
8月23日、動員兵40万人に半ズボンが支給されたとゾルゲが打電
9月5日、昭和天皇は杉山元参謀総長を叱責
9月6日、第6回会議にて原枢密院議長が反対するも、英米との開戦を覚悟
https://www.youtube.com/watch?v=GC5C1Px_lxM
関東軍は終戦間際まで満州に凍結
日本が在外公館との連絡に用いていた暗号は、1940年に米国が、1941年秋にソ連が
解読していた
(名越越郎『ゾルゲ事件』pp.183-187)
1941 昭和16年・ABCD包囲網
米国の忠告を聞かず、インドシナに進駐した日本への報復措置
1941 大西洋憲章
8月、米国の欧州大戦へのコミットメント
1941 レニングラード包囲戦
9月8日から1944年1月27日まで
100万人に届こうかという餓死者を出す
1941 独・収容所の増設
9月27日、ビルケナウ、ルブリン=マイダネクに新設、ソ連捕虜の収容では埋まらず、
行き先を失ったユダヤ人が収容され、東部開発の強制労働に就かせる
(トゥーズ『ナチス 破壊の経済』下, pp.535-536)
1941年12月、ソ連軍335万人の捕虜は満足な収容施設、食料も与えられず大量に餓死した
生き残ったのは110万人、健康を保ったのはそのうち40万人と伝わる
(トゥーズ『ナチス 破壊の経済』下, p.545)
1941 昭和16年・東條内閣
10月2日、日米トップ会談ではなく、まずは事務方の調整からと米国から連絡を受ける
10月16日、電撃的な会談により軍部を説き伏せようとした近衛には誤算となり、政権を投げ出す
10月18日、陸軍大臣であった東條が後を継ぐ
1941 昭和16年・ゾルゲ事件
昭和8(1933)年に新聞記者として東京に着任したゾルゲは尾崎秀実らと再会し情報網
を構築、特攻警察にも人脈
ソ連は対日戦に備えて別のスパイ網も用意し始めており、またゾルゲは二重スパイとの
疑いも持たれていた (コミンテルンという革命ごっこから国家の存亡を賭けた諜報機関
へ設備も人材もテイク・オーバー、思想に基づく活動家はもはや不要に)
1940年6月には摘発が始まり、包囲網はゆっくりと、しかし確実に狭まっていた
9月末には満鉄調査部の伊藤律が逮捕される。戦後伊藤は中国に渡り、幽閉される
9月に逮捕した北林トモが宮城はスパイだと自供、10月10日に宮城与徳を逮捕
宮城は2階から飛び降り自殺を試みるも失敗、12日には堰を切ったように供述
10月15日は尾崎が、18日にはゾルゲら3人が逮捕される
西園寺公一、犬養健ら名門一族出も含め35人が次々と検挙
戦後、公一は中国で20年ほど暮らし文化大革命を礼賛、健はあろうことか吉田内閣で
法務大臣を務めた(お公家さんは元祖意識高い系か…)
日本の情報は開戦前から筒抜けで、一人アメリカン(インディアン)・ポーカー状態
事件の公表は1942年5月16日、死刑の判決を得て、1944年11月7日、ソ連の革命記念日
にゾルゲと尾崎は処刑される
8月7日、スイス在住のスパイ、シャンドル・ラドから駐スイス日本公使三谷隆信の言
として日本はソ連に攻めない旨情報が届けられていた
ゾルゲはそれに遅れること1月、9月14日に対ソ不参戦を確信
(名越越郎『ゾルゲ事件』p.20, pp.29-33, p.198, p.230)
1941 ハルノート
11月27日
起草者はコーデル・ハルではなく、共産主義者ハリー・デクスター・ホワイト
5月、ソ連の工作員「パブロフ」がホワイトと接触
ホワイトは1944年のブレトン・ウッズ会議でケインズと対峙
1941 ソ・反転攻勢
12月5日、意を決してモスクワ北部から押し返す
伸び切った兵站、零下30度にもなる冬将軍にさらされていた独軍は手痛い敗北を喫する
この年末でアウトバーン計画の全計画が中止となる
(小野寺・田野『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?』p.45)
1941 昭和16年・真珠湾攻撃
12月8日、ニイタカヤマノボレ
ソに苦戦する独ヒトラーは英米と事を構えたくないことから日本に批判的、伊ムッソリーニは
地中海・アフリカ戦線でぶつかる英に対抗する日本を歓迎(背景に独伊の主導権争いも)
(ヴルピッタ『ムッソリーニ』p.309)
1951年5月17日付の米国デイリー・ニューズに、ローズヴェルト大統領が真珠湾攻撃を事前に
察知し、あえて日本に奇襲させることで米国世論に火をつけたという主張が掲載されたが、
このジョン・オドンネルの主張を裏付ける資料がない
(名越越郎『ゾルゲ事件』p.202)
1941 昭和16年・日独伊3国同盟
12月11日
1941 独・禁煙運動
ヒトラーは酒もたばこも嗜まず
1933年には、未成年向けのアルコール飲料広告を禁止
1941年には、イェーナ大学にタバコ害毒研究所を設立
がん研究にも注力
ドイツ民族を一つの身体と捉え、民族の一部の不調は「ドイツ民族の健康」を損なうと
タバコ害悪研究所所長カール・アステルはチューリンゲンの人種問題局長を兼務
(小野寺・田野『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?』p.100)
「ナチスほど数を数え、分類・選別するということに熱心だった政権はない」という
プロクター(『健康帝国ナチス』の著者)の言葉を紹介している
(小野寺・田野『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?』p.104)
1942 Lange, Oscar, Studies In Mathematical Economics And Econometrics
https://archive.org/details/StudiesInMathematicalEconomicsAndEconometrics/page/n39
1942 Schmitt, Carl著, 中山元訳『陸と海』✅
訳は1954年の第2版と2011年の第7版をもとに(訳にはところどころ誤植?…)
古来、自然を構成する4原素と考えられてきた地、水、火、空気のうち陸と海に注目
pp.32-33:人間は環境に完全に規定されてしまうものではない。それを乗り越える力を持つ
pp.37-38:フランスのラウル・カステクス提督は『海と陸の対立』という書を著した
p.38:英露の対立を海の鯨(リヴァイアサン)と陸の熊(ビヒモス)に投影
リヴァイアサンとビヒモスは旧約聖書ヨブ記第40、41章
p.41:注7にリヴァイアサンとビヒモスの争いをユダヤ人は傍観し、漁夫の利を得たとある
注8にハインリッヒ・ハイネの詩『ロマンツェロ』にもリヴァイアサンが登場するとある
pp.69-70:ミシュレ『海』、メルヴィル『白鯨』への言及(→鯨としてのリヴァイアサン)
p.136:「クリストファー・コロンブスが[アメリカ大陸を発見するために]コペルニクスの
[地動説の]出現を待ってはいなかったように、歴史的な力は学問を待ってはいない」
pp.160-161:ヴォルテールをはじめとした啓蒙思想家は真空恐怖を一笑に付したが、これは
ニヒリズムへの恐れであった
pp.174-175:「一八世紀や一九世紀になると、キリスト教を布教せよという命令は、文明化
されていない民族に、ヨーロッパ文明を伝播せよという命令に変わった。このような
自己正当化という理由から、キリスト教的でヨーロッパ的な国際法が生まれた。この
国際法は、ヨーロッパのキリスト教的な民族の共同体を、ヨーロッパ以外の全世界と
対立させるものだった」
p.176:「「ヨーロッパのキリスト教的な民族の共同体」というものを、何か温和な子羊の
群れのようなものと考えてはならない。彼らは仲間どうしでも、血まなぐさい戦争を
戦ったのである」
pp.179-180:「すべてにおいて戦いは行われる。正義は争いである」というヘラクレイトス
の言葉を紹介
第15章:国の対立を超えた宗教の対立(イエズス会 vs カルヴァン派)
pp.200-201:「予定説という信仰は、自分たちは滅びに定められた堕落した世界とは別の世界
に属しているという意識が、極端なまでに高揚したものにすぎない。現代的な社会学
の用語で表現すれば、自分の地位と歴史的な時代性に確信をいだいているエリートの
自己意識の極限的な表現である」
p.209:「あらゆる世界貿易は自由貿易である」というウォルター・ローリー卿の言葉を紹介
p.210では「これらの言葉はどれも間違いであると、簡単に言ってはならない。ただし
これらの言葉は特定の時代と特定の世界状況と結びついたものであって、絶対的で
永遠の真理と見なすことはできない」と批評
p.214:「偉大な経済学者、法学者、哲学者たちがこうした体系を構築したのであり、わたしたち
の父祖の多くもまた、こうした体系を自明なものとうけいれたのだった。彼らはもはや
これと異なる経済学も、これと異なる国際法も考えだすことができなくなっていた」と
海のエレメント(リヴァイアサン)の支配権を評価
p.225:「スペインとは、ヨーロッパの海岸に打ち上げられた鯨のような存在にすぎない」との
エドモンド・バークの言葉を引用、この言葉はメルヴィル『白鯨』の冒頭にも登場
pp.245-246:英国と米国を海の支配者として再統合しようというマハンの説を批判的に検討
p.257:20世紀には陸と海に加え、空(巨鳥)という第3のエレメントが登場(航空、電波)
これは古代の4原素のうち火と空気にあたる
p.259:「空間のうちに世界があるのではない。世界のうちに空間があるのだ」というハイデガー
の言葉を紹介
1942 独・キーマンの退場
1月4日、ボフマー・フェアアイン社のボルベットが拳銃自殺
2月7日、長らく側近としてナチスを支えてきたトートが飛行機墜落事故で死亡
ヒトラーは後任にアルベルト・シュペーアを指名
シュペーアは産業に249の委員会等を設置し、自己責任の原則の下、調整に当たらせた
価格を統制し、その価格を下回る費用で作るよう合理化のインセンティブを与えた
シュペーアは長期的な提案として原子爆弾の構想をヴェルナー・ハイゼンベルクから聞く
(トゥーズ『ナチス 破壊の経済』下, p.640)
1942 昭和17年・シンガポール占領
2月、篠崎護はこの時解放される
1942 独・配給削減
3月23日、食糧配給削減が各地で騒ぎを引き起こしたと親衛隊が報告
中年男性の体脂肪率が著しく低下し力仕事ができない者、機械の前で失神するウクライナ人
なども報告される。穀倉地帯ウクライナを確保しても、十分な食糧は確保できなかった。
4月の配給削減の後、ダレが退任、バッケが農業省大臣職務代理に昇進、遮二無二食糧確保に
走った。5月以降は、国防軍の食糧は「現地調達」とされ、領内ではドイツ人に重点配分と
なった(ドイツ人の食糧がポーランドから運ばれ、ポーランド人の食糧はゲットーのユダヤ人
を犠牲にして確保された)。
(トゥーズ『ナチス 破壊の経済』下, pp.613-615)
1942 英・ドイツ領内空爆
3月28日リューベック、4月23日ロストク、5月30日ケルン、6月1日エッセン
(トゥーズ『ナチス 破壊の経済』下, p.677)
1942 独・中央計画委員会
4月27日の初会合を皮切りに敗戦まで62回開催
1942 昭和17年・ミッドウェー海戦
6月5日、日本は大艦隊を失う
1942 独・押し返し
6月21日、ロンメル将軍はリビア地中海沿岸の都市トブルク制圧
7月23日、陸軍参謀総長ハルダーは「敵の能力を過小に見積もるという慢性的な傾向が、
ますますグロテスクなほどの規模に達しつつあり、文句なしの危機へと発展している」と記した
(トゥーズ『ナチス 破壊の経済』下, p.666)
7月下旬、独軍はロストフに侵入
8月9日、ソチの北にあるマイコープに到達
8月30日、チェチェン共和国の北を流れるテレク川到達
9月末、フロム大将がヒトラーに終戦協議を提案するものの、却下され力を失う
ハルダー参謀総長も更迭
昨冬の敗戦を忘れるかの如き奇妙な楽観論と生産余力を醒めた目で見る悲観論の間を
行き来するジェットコースター
10月23日、エジプト・アレクサンドリアの西100kmほどのところにあるエル・アラメイン
の第二会戦にて圧倒的な物量に屈し、リビアの西ブレガまで退却を余儀なくされる
11月19日、スターリングラード(現ヴォルゴグラード)にてソ連軍が大攻勢、独軍は壊走
シュペーアの兄、戦死
1942 独・石炭問題の会合
8月11日、ヒトラーは「プライガー君、もしコークス不足により鋼鉄産業が計画通り増産
できねば、この戦争には負けるぞ」と発言、無理が通り、道理が引っ込む
10月23日、中央計画委員会会合では、鉄鋼生産の4割減を提案せざるを得なかった
民需向け生産を絞り、軍備の代替わりを避け、旧式の軍備生産の効率化で見かけの生産量を
確保するより他なかった。対してソ連は国家の存立を賭けドイツの何倍もの生産力を駆使した。
(トゥーズ『ナチス 破壊の経済』下, pp.650-662, p.667)
1942 ドイツ人スパイによる原水爆の情報取得
ドイツ人女性スパイウルズラ・クチンスキーは、英国の物理学者クラウス・フックスを懐柔
1943年にアメリカに渡ってマンハッタン計画に参加したフックスから原水爆の開発情報を得る
戦後、戦中の暗号解読プロジェクト「ヴェノナ計画」によってフックスの裏切りが露見し
1949年に逮捕、14年の刑を終えた後は東独ドレスデンに移住、中国に核技術を漏洩した
(名越越郎『ゾルゲ事件』pp.71-72)
1942 英・べヴァリッジ報告
11月公表、戦後の「ゆりかごから墓場まで」の原型 資料
1942 コモド・コントロール(緩衝在庫)案
ケインズが提案するも実現されず
精神は戦後の復興計画に結実?
日本などへ物資を大量供給し、過剰在庫を解消
1943 独・総動員
1月13日、カイテル、ラマース、ボルマンの3頭体制
北アフリカ、スターリングラードの大敗北を受けて
非効率的なUボート生産プロセスを大幅に合理化するためにシュペーアは消火設備の工場の
合理化に功あったオットー・メルケルを抜擢した。ルドルフ・ブロームはこれに激怒した。
生産効率を上げる試みは1944年4月19日のヒトラー誕生日にUボートの進水式を行えるほど
であったが、急拵えの生産プロセスには綻びが目立ち、実用に耐えなかった。
(トゥーズ『ナチス 破壊の経済』下, p.698)
1943 独・Uボートを大西洋から退却
3月には戦果を挙げるものの、アメリカの生産力・復元力には勝てず、5月24日に撤退
1943 ルールの戦い
3月から7月上旬まで英空軍の激しい空爆に晒される
戦略物資であるコークスの生産が滞り、サプライチェーンが寸断される
これを機にシュペーアの「奇跡」は終わり、生産高は横ばいに
(トゥーズ『ナチス 破壊の経済』下, p.681, 図22)
1943 独・アフリカ戦線で敗北
5月13日、1942年に進軍と退却を経験した独軍は、チュニジアで降伏
1943 スターリン・ローズヴェルト会談
5月、事前にコミンテルンの解散が議題になることを掴んだソ連は、
自ら先手を打って5月21日、コミンテルンを解散する
米国の力なしに、国家は生き延びられないとのリアリズム
この後コミンテルンの残骸は地下化して戦後の工作機関に引き継がれる
(佐々木太郎『コミンテルン』p.266, pp.269-270)
1943 独・軍需大臣シュペーアの講演
6月5日、1万人の聴衆を前にドイツ国民を慰撫し、諸国を驚嘆せしめるべく生産力を誇示
「奇跡」と言われた生産力回復は実を伴わず、連合国に対峙できる力はなかった
1943 クルスク攻防戦
7月5日、ウクライナ国境にほど近いクルスクにて激しい戦闘
独軍は5万人を失いドニエプル川まで後退、この頃からソ連はアメリカから軍備を得る
1943 ハンブルク空襲
7月24日から27日にかけて
強風も相まってハンブルクが焼け野原に
独軍は帝国防衛計画(空軍計画224)を作成、軍用機の大増産を始めた
1943 伊・降伏
7月10日、連合軍がシチリア島上陸(ハスキー作戦)
独軍は連合国軍がギリシャから進軍するとの偽情報を流す陽動作戦に踊らされ
戦力が分散していた(ミンスミート作戦)
7月25日、本土上陸を許した責任を問われムッソリーニ逮捕
同日、英空軍爆撃によりエッセンは火の海となり、4万人が死亡した。
9月3日、降伏調印
9月4日、全土を連合国とドイツ軍が抑える、国王はじめ中枢は逃亡。イタリアは事実上消滅
9月12日、ムッソリーニは軟禁先からナチスによって救出される
9月14日と15日、ムッソリーニはヒトラーと面会する。この際、対ソ講和の話が出る
9月18日、ムッソリーニはラジオ演説、イタリア社会共和国の樹立を宣言
イタリアはナチス占領下の北部イタリア社会共和国と連合国占領下の南の王国に分裂
(ヴルピッタ『ムッソリーニ』p.332, pp.343-350)
1943 昭和18年・国史編纂準備委員会
8月、このタイミングで東條内閣が閣議決定
明治天皇御下命の『大日本史料』がすでにあり、また編纂を軽く見ているとして平泉澄が批判
(遠藤慶太『六国史』pp.219-220)
1943 独・親衛隊ヒムラーが内務省を支配下に
8月24日、敗色が濃くなるにつれて吹き出す不満を強権で抑える
10月5日、シュペーアと協力関係を結び、密告者ネットワークを構築
大戦を生き延びたシュペーアは、10月6日に行われたヒムラーによるユダヤ人虐殺演説の
場に立ち会った記憶がないと戦後に主張
1943 独・M作戦
占領下のフランスからユダヤ人の家財を2万4千両もの鉄道車両でドイツに移送
(大野寺・田野『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?』p.54)
1943 独・アウシュビッツにてエタノール生産
英空軍の爆撃を避けるため、ポーランド南部、チェコとスロバキアの国境に近いこの地を
生産拠点とする。この生産拠点は今日まで伝わり、合成ゴム世界消費の5%を担うとも。
(トゥーズ『ナチス 破壊の経済』下, p.503)
1943 ソ連軍の侵攻
12月24日、ジトームィル=キエフ軸への猛攻開始
1944年2月には、独軍はウクライナの鉱山地帯から撤退
1944年春までに、ソ連軍はドニエプル川からドニエストル川まで進む
1944 Friedrich August von Hayek『隷属への道』
1944 ビッグ・ウィーク
2月20日(日)から25日(金)に、米空軍による大規模爆撃が独の戦略拠点を襲う
これを機に独空軍は壊滅に向かうが、それを回避するための努力も凄まじいものに
「我々はこの分野では狂信者なのだ」(トゥーズ『ナチス 破壊の経済』下, p.715)
「ここでは国際法など遵守できない」(トゥーズ『ナチス 破壊の経済』下, p.717)
1944 独・ハンガリー占領
3月19日、ソ連軍の侵攻に備えてハンガリーを接収
4月、ルーマニアからの石油供給が止まる
5月26日、病から復活したシュペーアが議長として出席した会議にて、ユダヤ人の「活用」
が議論される。ただ、ユダヤ人のうち「生産的な」働き手はハンガリーで陣地造成にあたり、
アウシュビッツへ移送されてくるのは「非生産的な」女性や子供が多かった。アイヒマンは
「生産的な」ユダヤ人の移送に腐心し、徐々に状況は「改善」した。
50万9千人のうち、12万人は「生産」に貢献し生き延びた
(トゥーズ『ナチス 破壊の経済』下, p.718)
1944 D-Day
6月4日、ローマ陥落
6月6日、D-Day
独空軍275機に対して、連合国空軍1万4千機
6月22日、バグラチオン作戦
ソ連の大攻勢、名称はナポレオン戦争の英雄ピョートル・バグラチオン将軍から
6週間でベラルーシのミンスクからポーランドのワルシャワ郊外へ進軍
6月24日、リンツにてシュペーアによる大演説会
6月26日、ヒトラーの最後の公式演説
シュペーアとヒトラーは生産に全力を傾注すると言ったが、連合国の圧倒的な
物量には歯がたたない現実(トゥーズ『ナチス 破壊の経済』下, p.730, 表17)
7月、ハンス・ケルルは「ドイツ経済は、無政府状態に転落しかけており」とハイパー
インフレに対する怯えをメモ書きにする。占領下の東欧では1942年後半からインフレ進行
7月20日、ヒトラー暗殺未遂事件の直後、ムッソリーニはヒトラーと最期の面会を果たす
8月25日、パリ陥落「パリは燃えているか?」
9月22日、ヒトラーは大増税によるインフレ抑制案を却下
代わりのインフレ税、無謀な戦争の辻褄合わせもここまで
連合国は6月から10月にかけて50万トンの爆弾を独領域に投下
1944 ブレトン・ウッズ会議
7月1日から22日までニュー・ハンプシャー州のリゾート地にて、戦後の国際通貨体制
が話し合われる。ケインズの国際清算同盟案は棄却され、ハリー・デクスター・ホワイト
の金兌換ドル体制が採用される
1944 独・ルール地方からの石炭運び出しが困難に
11月11日、シュペーアがヒトラーへ報告
この後、ドイツ領内の生産力は著しく低下
1944 アルデンヌの戦い
12月16日、独軍は戦車1800台でアントウェルペンに突入、最後の反抗を試みる
12月25日、ミューズ川手前で進軍が止まる
1945 連合国軍、ドイツ領内を空爆
2月3日のベルリン爆撃を皮切りに各地を猛爆、都市は灰燼に帰す
1945 ヤルタ会談
2月4日から11日
1945 エルベ川の邂逅
4月25日、東からのソ連軍と西からの米軍がドイツ・ザクセン州シュトレーラで出会う
その日の午後、45km離れたトルガウにて公式会合
1945 伊・ムッソリーニ、殺害される
4月27日に捕えられ、29日朝にミラノのロレート広場で発見される
(ヴルピッタ『ムッソリーニ』p.385)
戦後、民衆の支持を受けた殉教者として、草の根で語り継がれるムッソリーニ
「一般民衆の間では、ムッソリーニに対する反感はそれほどではなかった。イタリア人は
相変わらず、ファシズムとムッソリーニを区別し、戦争さえしなければよい為政者であった
と考えていた」(ヴルピッタ『ムッソリーニ』pp.403-404)
1945 独・降伏
4月30日、ヒトラー自殺
5月7日、無条件降伏
1945 ポツダム会談
7月17日から8月2日
1945 昭和20年・原爆投下
8月6日に広島、8月9日に長崎
ソ連大使館員2人は、8月16日に広島、17日に長崎を訪れ、被害状況を観察した
2014年、D-Day70周年にプーチン大統領が十字を切ったのは、当時の生々しい状況が
ソ連に報告されていたためか
1945 昭和20年・終戦
8月15日