復興から繁栄、そして…
1945〜
1946 チャーチル「鉄のカーテン」演説
6月3日
1946 米・封じ込め政策
1947 モンペルラン・ソサエティ設立
ロビンズ、フリードマン、スティグラー、ハイエク、ミーゼス、ポパーらが集う
(木村雄一『LSE物語』p.131)
1948 マーシャル・プラン
1952 昭和27年・サンフランシスコ平和条約発行
4月28日、独立回復
1954 昭和29年・柳田國男編『日本人』
柳田他7名による
1 日本人とは(柳田)
リップマン『世論』と似た論調
日本人の人口は、明治初年の3千万人から3倍になった
机上の物書きである「大勢論者といういものを批判してみる必要があると思う」(p.16)
人口が増え民衆との紐帯が失われ、政治家は大勢を「利用というよりむしろ愛用」(p.17)
身の安全を保つためには、外国に従属することもいとわないという植民地根性は、かなり
強い力となって今日もなお指導者のあいだに共通しているのである」(p.19)
「思いがけない人口の増加というものは、国内の闘争を激しくするのみならず、ことによって
は、昔から持っていた愛他心、すなわち見ず知らずの人間でも心を動かせば助け導いてやりたい
という心持をそぐことになりはしないか、これはたいせつな目前の問題である」(p.19)
「最近流行のマス・コミュニケーションというような形で進んでいってよいものかどうかを、
筆者は危ぶまないではおれない。したがってそういうことをもっとも真面目に憂えている人たち
に対してすらも、なお非難せずにはおられないことは、彼らは外国人の書いた正確な論議をその
まま日本に当てはめようとすることで、それが筆者には大きな失敗のような気がしてならない
のである」(p.24)
2 伝承の見方、考え方(萩原龍夫)
日本人の歴史への向き合い方が皮相であるために、誇りと卑下のブレが激しい
民俗学は「日本人のこころ」に到達する最適な道、幸いなことに民俗資料が多く残る
これを日本人の民族性発見のために用いるべき(pp.32-33)
文化には表層文化と基層文化の二層がある(p.34)
普遍性を求める民族学、権力者の立場で異変を記す史料に依拠する史学を超えるのが
民俗学(民間伝承から仄見える「常民」から日本人とは何かを問い直す)(p.35)
青森五戸の「オボスナの斗掻棒」:産土神が村内の再分配を行うと信じられていた(p.44)
3 家の観念(柳田)
「法律というものは、必要に迫られた時の問題を解決する時の基準になるだけであって、
それが多数の、平和に過ごしており、また一度も法律のやっかいになったことのない人々の
生き方をも指導しうるものではないということをわれわれは知っている」(p.46)
「法律学者にだけまかせておけば、国の生活はよくも悪くもなるという考え方が強いのは、
少なくとも過去の経験をもたない、またもっていても、それを取り出して反省してみる心がけ
のない社会の人についてのみいえることである」(p.47)
左翼の家族解体論を痛烈批判、名声を得ようと汲々とする利己的な学者も痛烈批判
家:ヤとイヘ(p.61)
ヤ:屋根がかかっている建物(ミヤ、ナヤ、コヤ)
イへ:かまど(へっつい:火)を中心とした人の集まり
太郎次とは田主、本家筋の主人やオカミサンは分家や小作人を抑圧する専制者ではなく、
苦労を抱えた人たち
「少数のもっともすぐれた人とか、あるいはもっとも尊いといわれる方とかではなく、日本人
というのは、それは一つのかたまりであり、そしてそのかたまりの中には幸福の差異や階級の
序列も若干あったろうけれども、そういうものを超越した一団の日本人というものの歴史を
特に筆者は考えてみたかったのである」(pp.69-70)
4 郷土を愛する心(堀一郎)
「ふるさとの山にむかひて言ふことなし ふるさとのやまはありがたきかな」(石川啄木)
人格形成の4要素(自然環境、遺伝、社会的遺産、集団)
ふるさとの「ふる」は古、旧、昔、経という時間の概念
「都会は人間さばくである」(p.80)その都会に住んではじめて郷愁を覚える
仲間内と仲間そと(p.82)
村落で一生を過ごす植物性と都市へ出て暮らす動物性(p.89)
諏訪の御柱祭:15mのもみの木16本を引き出し奉る(p.94)
5 日本人の生活の秩序(直江広治)
ハレ(特別、聖、文様)とケ(日常、俗、地)を峻別してきたのが日本人
ハレの食事として粉物(団子や餅)、ケの食事として穀類(米やヒエ)
ハレの日には髪の毛を隠す(手拭いや烏帽子、菅笠など)
執筆当時、徐々にハレとケの境が溶けてきていた(神罰の畏れの後退、都市化、商業化)
6 日本人の共同意識(最上孝敬)
江戸期にほぼ定常状態であった人口は明治以降に2倍以上になり、多くが都市に住んでいる
明治から終戦までに急拵えされた共同体意識とは異なる伝統的な意識が田舎にはある
村より小さな単位(一地区)では、昔から道普請や堰の水揚げ、害獣の捕獲、屋根の茅葺、
田植えなどで協力体制が取られてきた
この協力体制から外れると村八分(現在でいうシャドウバン)となる(p.144)
村の若者を集めてしつけや礼儀作法を仕込む場があった(p.149)
こうした村落の一地区の強い絆は、より大きな社会である都市生活をしにくくする面がある
来歴を互いによく知る「顔が見える間柄」の持ちつ持たれつは、社会を制御してやろうという
野心家に対して脆弱である(p.159)
7 日本人の表現力(大藤時彦)
日本人の生活表現は、自然環境より政治や経済といった社会条件が重要
言葉遣い、敬語は人々が村社会からより広い社会に出るようになって用いられるように
英語には敬語がないというのは誤解で、微妙な言い回しで相手に敬意を伝えている
われわれ、わたくしたちというのは新しい表現で、自分と自分を含む集団を表現する
機会は以前にはなかった
「させていただく」「会議が開かれた」などの受け身表現は「人に対するあたりが強く
なく、社交を円滑ならしめるという心持があるのだと思う」(p.173)
ことわざとは「口の技」、あだ名や悪口も直言ではなく、たとえて婉曲表現
和語を漢語で表記する困難は『古事記』の時代から
漢語による書き言葉(記録)が重視されるようになったのは明治期以降であり、
江戸期においては和語による話し言葉が主であった
「尊王攘夷」「文明開花」「一億一心」「八紘一宇」など4文字熟語の漢語偏重は
現代のコンサルタントが用いるカタカナと同様、伝わらない
学歴偏重も、学びの内実より「博士とか学士とかいう肩書きを過度に尊重」(p.184)
語頭に「お」、語尾に「ね」をつけるのは、七五調に調子を整えるため
日本語は論理的というより詩的
8 日本人の権威観(和歌森太郎)
平泉澄による時代区分:指導者の理念の変遷
美(奈良・平安)→聖(鎌倉・室町)→善(江戸)→真(明治)
庶民の権威観は属人的(エライ人の持ち物は立派なもの)
庶民層の権威観は接触率の高低による(マーケティング的な発想)
明治期に家系図が流行ったのは、血脈としての高貴さを権威と考えていたため
「旧家のエセ系図」に東京大学が印を押してお墨付きを与えるのは哀れを誘う
権威に対する抵抗は諷刺によってきた(落書、落首、狂言、狂歌、川柳など)
9 文化の受けとり方(萩原龍夫)
1955 昭和30年・55年体制
1960 昭和35年・池田勇人内閣
所得倍増計画
1964 昭和39年・東京オリンピック
1970 昭和45年・大阪万博
1972 昭和47年・横井庄一氏、グアムから帰還
「恥ずかしながら、生きながらえて帰って参りました」
https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0009030114_00000
1972 昭和47年・田中角栄内閣
日本列島改造論
1973 昭和48年・第1次オイルショック
第4次中東戦争
1975 昭和50年・高取正男『日本的思考の原型 民俗学の視角』✅
70年代は、高度成長が終わりバブルが始まる前、古き良き日本を穏やかに懐古
できた最初で最後の幸せな時代
昭和47(1972)年発表の『民俗のこころ』を助走として
第1章 エゴの本性
エゴは「身勝手」の意ではなく、「自我」の意で用いられている
日本人は湯呑みや茶碗を共有しないが家に個室があるのは希である
欧米人は食器類を共有しても気にしないが家に個室がある
これは家の構造(木造と石造)の違いによる
日本人は個が確立していないというのは「明治以来のインテリたちの愚痴」(p.20)
1890年代に始まり、1930年代に加速した工業化は、村人の横のつながりを消し
工業生産に適した「タテ社会」への移行を余儀なくされた。これは明治政府が巧み
に作り出した「擬似共同体」であった。
第2章 裏街道の話
宮本常一の対馬での体験談(pp.51-57)を例に、身分と寄り合いが渾然一体と
なった日本の社会を紹介
知識人にありがちな「閉ざされた暗黒の村社会」は誤解で、「生活の知恵」としての
村落共同体を「独特の平衡感覚のあらわれ」と評価(p.60)
ことわざやことによせて説くというのは、共同体に支えられたレトリックであり、
共同体が解体されつつある今、力を失いむしろ警戒されるように
p.67に能登珠州市の塩田の写真がある
明治以降積み上げてきた商いのネットワークが破壊され、一時的に昔ながらの商い
が闇市などを舞台に復活した
西国三十三箇所巡り https://saikoku33.gr.jp/place/
四国のけったい道の伝承は、宮崎駿の『もののけ姫』に通ずる
道には官道(馬が通る高低差がない道)と間道(人と牛が通る道)がある
明治35(1902)年、高知県土佐郡本川町(現いの町北部)にはじめて牛が来た
「村落のすべては、新しい交通網によって物資も情報も厳重に梱包され、集積されて
いる都市に従属することが要求される。とくにそのルートから遠くはなれた村々は、
最後はいわゆる過疎地となり、住民は先祖伝来の地を捨てて退転せざるをえなくなる」
(p.97)→悲しいことに、この予言はぴたりと的中した
第3章 土着との回路
農地は明治20(1877)年から第2次大戦までに35%増加した
村の3分の2から4分の3は室町中期以降に成立した(p.108)
土浦藩が水戸の殿様を迎えるとき、街道沿いに塩を三尺(90cmほど) 盛った
馬が塩を舐めるところから客寄せの意と、穢れを払う意があった
「近代以前の社会では、新しく能率のよいもの、かならずしも絶対的な力はなく、
社会上下をあげての信望を担うということもなかった。相対的な優越だけにとど
まり、社会文化の表層を形成するだけにとどまっていたから、旧来のものはその
背後に消滅することなく、十分な生活力と生命力をたもって生残ってきた 」
(pp.117-118)
唄は商いの流れに乗って全国にひろまり、三味線と尺八の伴奏がついて、その土地
の民謡になった (旅路や農耕の際に思わず口ずさむ唄からよそよそしい民謡へ)
唄は作業の体勢や呼吸のしかたによって変わる(農耕と寒天造り:pp.125-127)
鮎売りの歩き方、金魚売りの歩き方(ナンバ歩き:p.132)
右足を出すとき左手を前に出す歩き方は、明治以降、軍の教練で教えられた
半身の構えと爪先立ち(半足ワラジ)は、行商、相撲、踊り、農耕に共通(p.137)
「生活文化の重層構造というのは、漠然と一般的なかたちで存在しているのではない。
つねにここの事物に即して具体的に存在し、私たちの個々の肉体のなかにも歴然とその
跡が刻まれている。そのうちもっとも大きなものは、近代化をなしとげ、近代社会に適応
するため否応なしにみずから刻みつけた苦痛の跡といえるだろう。その断層は軍隊に入った
とき、教官から二言目にひかがみをのばせと叱咤されたにがい経験とか、都会に出て、
思わず口にした郷里の言葉が同僚に通じなかった記憶など、人さまざまである。が、その
表層をとりのぞいたあとに残るのは、この国土に住み、その自然に即して生きてきた祖先の
生活誌、その生き様の残影である」(p.143)
第4章 マレビト論再考
柳田國男と折口信夫の対談「日本人の神と霊魂の観念そのほか」
流浪する人を柳田國男は「うかれ人」と言っている
忽然と姿を消す「蒸発」は、自らと村社会を守る免疫作用
横井庄一氏の帰還(p.171)
「民衆宗教とよばれるものが、いつの時代にもくりかえし行ってきたことのなかにも、
通じるものがあると思う。眼前にすばらしい奇蹟を生じ、人々を窮迫から解放してくれ
る救世主の出現とか、超能力保持者の実在を信ずるのも、ことの本質はおなじだろう。
そこで説かれることがどれほど途方もない幻想であっても、人々が真剣になって耳を傾け、
信じないではいられなくするものは、単なる生産のゆきづまりや窮乏ではない。そのため
に生じた現実生活の亀裂と解体、共同体の崩壊感覚がさまざまな幻想をうむ。この世に
よるべを失い、みずからの主観をことよせる対象を失ったものから、まるで夢遊病者のよう
に行動をはじめたといえるだろう」(pp.173-174)
能登鳳至郡穴水町中居は、塩を炊くための釜を作る鋳物師が住んでいた
煮炊き用の鍋釜も作り、一人100以上の鍋釜を貸し、リース代を得ていた
暇になる夏期は江戸に上り佐官をしたことからカベヤ地区と呼ばれた
農村への定住は、農村で代々生活できるようになった近世以降の桃源郷的幻影
解説 阿満利麿氏による
日本の自我(ワタシ)は関係性として立ち現れる
欧米のデカルト的自我は、まず自分がいて、それを認識する世界がある
定住しない流浪の民は、魂の共同体を持っていた
1976 昭和51・宮本常一『生きていく民俗 生業の推移』✅
1965年2月刊行の『生業の推移』の改訂新装版、2012年に河出書房より文庫化
第1章 暮らしのたて方
豊かな自然に恵まれた鹿児島県宝島の自給自足と、厳しい自然にさらされた
青森県下北半島北部の村々の交易を対比
石川県の白山牛首も交易の村、時代に合わせて鍬の棒、生糸、炭などを生産
食べられなくなる冬期には、山から降りて物乞いをした(御師(神人)の名残)
箕、蓑、篩などの行商も、祈祷や歌芸などの門付も、事実上のお布施(神仏に
使える者の乞食)であった
https://ushikubi.co.jp/ https://www.shirayama.or.jp/hakusan/index.html
瀬戸内の回遊漁師とテグリ仲間:延縄用の小魚を獲るテグリは農村へ魚の行商
(物々交換)もした。「いつかまた魚のとれたとき沢山持ってきますけに」(p.51)
谷あいに寺社があるのは、峠越えの荷物運びも一因(運送、警備業者が詰めていた)
長野県塩尻とは、塩の道の終着点(p.67)
鎌倉期、金売吉次(かねうりきちじ)は奥羽の金や鉄を京まで行商した(p.68)
第2章 職業の起こり
明治初年、人口3,400万人のうち、2,400万人ほどは農村で自給自足をしていた(p.90)
「お客をするときの膳椀などもその一つで、これをそろいで持っている家は少なかった。
だから吉凶の際には持っている家へ借りにいったものである。しかし親方の家などで借りる
ということは、それが気持の上での負担になる。そして返礼の意味で親方の家へも手伝いに
ゆかねばならぬ。大勢の客を招くことはよいが、膳椀を借りることが一つの苦痛であった
ことは椀貸し穴の伝説がこれを物語ってくれる」(p.93)
村の生活を成り立たせるために、村の外から鍛冶屋、紺屋、渡守、僧、書き役(村人に
代わって文字の読み書きをする)などを招き入れた(pp.98-100)
福俵ころがし、上がり万歳、門万歳、節季候、祭文語り、瞽女などの門付(門おとない)
が村にやって来た
「金といっても現金で取引されることは少ない。もとはたいてい盆と暮の勘定であった。
お互いに文字を知っているわけではなかったが、記憶一つを頼りにしてどの家へ何回売った
か、何を売ったかを覚えていて、その金を要求すれば相手も払ってくれたという」(p.124)
仕入れた農作物を売るかつぎ屋は、次第に自家栽培した農作物を販売するようになる
江戸百万石の胃袋を満たすには、5, 6千人の米搗き(こめつき)が必要であった
第3章 都会と職業
「行商はその初めは生活をたてかねた者が、物乞の一つの形式として発達したものと
見られるけれども、市は対等に品物が交換されたことが特色である。そしてそこには
選択の自由もあった」 (p.183)
「同業者でつくった仲間を中世では座といっていたが、近世に入ると、組仲間とか株仲間
というようになった。しかしそういうものは表向きのもので外に向かって自分たちの権利
を主張したり守ったりするだけのもので、内側でお互いの結束をはかることにはならない。
内側の結束をはかるために親睦を目的とした講が組まれた。大工や左官に太子講があるよう
に、商人仲間では恵比寿講が組まれた」(p.197)
「ほんとの社会保障は個々の小さな力の結集だけではどうしようもなくて、より大きな力
に頼らざるをえなかったのである」(p.198)
富者への憧れ(p.221)
技術者軽視(p.226)
1976 昭和51年・ロッキード事件
1980 昭和55年・第2次オイルショック
1982 昭和57年・中曽根内閣
1985 昭和60年・プラザ合意
1985 昭和60年・前川レポート