啓蒙
1700〜1800
1700 大北方戦争(〜1721)
1699年、スウェーデンに対抗するデンマークは、ロシア、ザクセンと北方同盟を結ぶ
1700年、これに対抗すべく、スウェーデンはイングランド、オランダと防御同盟を結ぶ
緒戦のナルバの戦いで兵隊王カール12世率いるスウェーデンが大勝も、人口大国ロシア
が兵力を増強すると押され、カール12世はオスマン・トルコのアフメト3世を頼る
ピョートル1世はオスマン・トルコを攻めるも、 1711年のプルート川の戦いで大敗を喫する
(プルート川はモルドバとルーマニアの国境を画する河川)
南方戦線はこれで落ち着き北方の細々とした紛争に移るが、 スウェーデンは北方でも敗北
1701 イングランド・王位継承法
カトリックによるイングランド王位継承を排す
ジェームズ老僭王の継承を排除、ハノーヴァー選帝侯妃ゾフィーの子孫だけが王位継承
ヒューム「王位継承について」『市民の国について』に言及あり
1701 プロイセン王国成立
1701 スペイン継承戦争(〜1714 )
8歳まで歩けなかったほど病弱な西王カルロス2世は、1700年に35歳で死去
カルロス2世をを最後に断絶したスペイン・ハプスブルクの跡を誰が継ぐか
仏:ブルボン家ルイ14世は孫であるフェリペ5世を推す
墺:ハプスブルク家レオポルド1世はカルロヴィッツ条約で得た力を示すべくカール6世を推す
フランスの王位継承権を保持したまま王となったフェリペ5世に対抗すべく、ハプスブルク家
は英蘭普と手を組む、1703年にポルトガルも加わる
アメリカ新大陸ではアン女王戦争
カルロヴィッツ条約で神聖ローマ帝国領となったハンガリーでは独立戦争勃発
ヒューム『市民の国について』下, p.38の注に「ヴァンドーム広場の碑文には44万人の兵が
動員されたと記されている」とある
イタリア半島も戦地に、次々墺に占領される
1701 クリスチャン・トマジウス『魔術の犯罪について』
魔女の存在は否定しないが、魔女信仰と魔女裁判における拷問を批判
フリードリッヒ2世に「彼のおかげで女性たちが平和のうちに老いて息を引き取る
ことができるようになった」と言わしめる(黒川正剛『図説 魔女狩り』p.111)
合理論者デカルトから影響を受ける
1703 デュボス師『英国の利害に関する謬見を排す』
Jean-Baptiste Dubos(l'Abbé Du Bos), Les Intéréts de l'Angleterre mal entendus
dans la guerre présente
ヒューム『市民の国について』下, p.99に言及あり(貿易収支の謬見を正す)
1703 スコットランド・安全保障法
カトリックの反乱により、自らの王を自らで決める法律が成立
イングランドは経済制裁で応じ、スコットランドは窮地に追い込まれる
1703 英と葡の永久同盟
5月16日に締結、スペイン継承戦争を契機に対仏大同盟の部品として
1703 メシュエン条約
12月27日に調印されたイングランドとポルトガルの通商条約
名誉革命以来続いてきた対仏の流れを追認する
同年結ばれた永久同盟の経済的側面
イングランド:ポルトガル産ワインの輸入関税をフランス産ワインの3分の1低くする
ボルドーワインからポートワインへ
糖度が高いポートワインの飲み過ぎで痛風が流行ったとの逸話も
ポルトガル:奢侈禁止令を廃し、イングランドの毛織物を輸入する
→リカード『経済学及び課税の原理』上巻第7章の比較優位説
ネッケル『穀物立法と穀物取引について』p.175
アダム・スミス『国富論』第4編第6章
ヒューム『市民の国について』下, p.101
販路であるイングランドを失ったフランス王ルイ15世は、葡萄畑を潰すよう命じた
ブラジル・ミナスジェイナスで発見された金鉱山で採掘された金はポルトガル経由で
イングランドへ集中、銀は東インド会社の貿易赤字によりアジアへ流出
これを受け、造幣局長官ニュートンは密かに金本位制に移行(1717年?)
亡命スコットランド人はフランスに拠点を持つ、ヒュームもアダム・スミスも
フランス寄りにみえるのも故なきとしない
1703 露・ピョートル1世、サンクトペテルブルクを建設
「聖ペテロの街」のドイツ語表記
1704 イングランド・約束手形法
約束手形の裏書譲渡を法制化
(金井雄一『中央銀行はお金を創造できるか』p.121)
1705 ジョン・ロー『貨幣および商業に関する考察』 資料
スコットランド出身のローは、その後渡仏して混沌をもたらす
1706 イングランド・6%の金利で政府借入
貨幣不足のため利子は割符で支払われ、イングランド銀行がそれを割り引いた
(ジェームズ・スチュアート『経済の原理』下, p.544)
1707 フリートウッド『貨幣の年代記』
固定バスケット方式の物価指数の原型を提案
(阿部修人『物価指数概論』pp.22-24)
1707 宝永4年・大震災と富士山の大噴火
10月28日、マグニチュード8.7の宝永東海・南海地震が発災
12月15日、今に残る宝永火口から富士山が大噴火(宝永の大噴火)
火山灰が江戸に積もる
https://www.cnh.shizuoka.ac.jp/research/barchive/mtfuji/003-2/
1707 イングランド/スコットランド・合同法
大英帝国成立
1707 墺・ナポリに入城
スペイン継承戦争中の出来事
ガリアーニ『貨幣論』p.321にドイツ人によって占領されたナポリから金が流出した
ことが記されている
1708 仏・信用の崩壊
デマレ氏
(ジェームズ・スチュアート『経済の原理』下, p.545)
1709 仏・改鋳
1マール=40リーブルに、23と1/3%の出目を得た
(ジェームズ・スチュアート『経済の原理』下, p.337, p.348)
1709 英・コークス製鉄法
A. ダービーによる発明
1710 仏・ポール・ロワイヤル修道院取り壊し
ジャンセニストの総本山はイエズス会の標的となる
(ヴォルテール著, 斉藤訳『寛容論』p.220)
ジャンセニスムの創始者イエンセンはイエズス会批判の「旧教内のカルヴァニスト」
パレート『エリートの周流 ―社会学の理論と応用―』訳注p.145
1711 サトマールの講和
スペイン継承戦争で神聖ローマ帝国側の勝勢が見え、ハンガリー独立の夢が霞む
決定的な敗北を避けるべく、首謀者のフェレンツ2世が不在中に講和を結ぶ
独立という名を捨て、広範な自治という実を勝ち取った
(テイラー『ハプスブルク帝国』p.25)
1711 英・南海会社設立
引き続く戦争の経費による債務を統合して南海会社に引き受けさせる
(ジェームズ・スチュアート『経済の原理』下, p.468)
1711 ペータース『44枚の地図で描かれスペイン語にて記される新旧世界の簡略地図帳』
当時としては驚くほど正確な世界地図、日本地図も所収
http://www.aobane.com/books/101
1712 クリスチャン・トマジウス『異端尋問訴訟の起源と継続に関する歴史的調査』
異端尋問という過去の過ちを集成し批判する
あまりに先進的であったため、無神論者だとの批判を受ける
1713 ユトレヒト条約
スペイン継承戦争の講和、フェリペ5世がスペイン王に(仏王との兼務は認めず)
英中心に普仏墺露の5大国による勢力均衡
英:仏からニューファンドランド島とハドソン湾を、西からジブラルタルを獲得
西からアシエント(奴隷の独占供給権)を獲得
仏:ジャコバイト(英スチュアート家)を追放→スコットランドへ
墺:西領ネーデルラント、ミラノ、ナポリ、サルディニア等を獲得、さらに
ザルツブルクからプロテスタントを追放→東プロイセンへ
ジェームズ・スチュアート『経済の原理』p.90で言及
ヒューム「勢力均衡について」『市民の国について』pp.28-29で言及
1713 国事詔勅(プラグマティコ・サンクティオ)
神聖ローマ帝国の一体性と長子相続を規定
(テイラー『ハプスブルク帝国』pp.26-27)
1713 仏・貨幣単位を変更する勅令
1マール=40リーブルであった8クラウン銀貨は1715年までに28リーブルに
(ジェームズ・スチュアート『経済の原理』下, p.337, p.348)
1714 英・ジョージ1世即位
ハノーヴァー朝のはじまり
英語を話せないドイツ人の王「君臨すれども統治せず」
1714 マンデヴィル『蜂の寓話』(1729年に続編)
蘭の医師マンデヴィルの先生は、蘭に渡ったフランス人ユグノーのピエール・ベール
ベールは奢侈を勤労と組み合わせて、奢侈を擁護
(ネッケル『穀物立法と穀物取引について』p.273の訳註2)
アダム・スミスは『道徳感情論』第7部第2篇第4章で批判
徳性の基準を上げることで、すべては悪だと主張するマンデヴィルは極端だとして
ケインズは『雇用、利子および貨幣の一般理論』第23章で称賛
有効需要の原理を知っていた賢人として
モンテスキューも『ペルシャ人の手紙』で言及
1545年から開催されたトリエント公会議では、神学者が教皇の首位権を証明するのに
蜂のたとえを用いた(ミルトン『イングランド国民のための第一弁護論』p.42)
1715 英・ジャコバイトの乱
1715 仏・最愛王ルイ15世、わずか5歳で即位
ポンパドール夫人など恋多き王だが、人道的な王でもあった
(ヴォルテール著, 斉藤訳『寛容論』p.226)
ルイ14世は20億リーブル(1.4億ポンド)の負債を残す
ルイ14世の下で財務長官を務めたデマレは、20億リーブルを返済する財源があるとしていた
(ジェームズ・スチュアート『経済の原理』下, p.445)
摂政オルレアン公がこの件に関し委員会を招集し、精査すると多くの不正な債務契約が判明
結局、借金20億ルーブルは4%利子の国の証券として再編成されたが、利払いは滞った
(ジェームズ・スチュアート『経済の原理』下, p.336)
ガリアーニ『貨幣論』p.270では、1708年までの負債総額を6億リラ(リーブル)としている
1715 フリーメーソン、英から仏へ広がる
市民的平等、宗教的寛容を掲げる 自由主義的色彩が強い団体、自然宗教的
ルイ16世の兄弟まで会員に
フランス革命の黒幕とも言われるが、フリーメーソン会員は第一・第二身分にも
第三身分のブルジョワジーにも分布していた
(ルフェーヴル『1789年』pp.99-100, p105, p.136)
反カトリック的であるため、カトリックから敵愾視された
18世紀後半、「啓蒙主義の影響を受けて、世界市民主義、合理主義、個人主義や自由主義を
提唱した。アメリカ革命とフランス革命で重要な役割を果たし、ナポレオン政権の主な支え
にもなった」(ヴルピッタ『ムッソリーニ』pp.115-116)
第1次大戦期にムッソリーニを中心にイタリアで結成された参戦のための革命的行動ファッ
ショにもフリーメーソンは参加した。1922年のローマ進軍前夜、ムッソリーニはフランス系
ロッジと面会(ヴルピッタ『ムッソリーニ』p.129, p.172, p.176)
イタリアの官界、軍部にも勢力を持ち、1925年のムッソリーニ暗殺未遂事件にも関与
(ヴルピッタ『ムッソリーニ』p.203, p.210)
1715 正徳新令
新井白石により、貿易の制限強化
銀銅の流出に歯止め、デフレ政策?
1716 仏・貨幣単位を再変更する勅令
1マール=40リーブルへ切り下げ、20億リーブル(1.4億ポンド)の負債は1億ポンドに目減り
旧20リーブルを16リーブルで受け取った造幣局は新20リーブル貨へ改鋳、4リーブルの損失を
蒙るのを嫌った銀貨はオランダへ流出(ジェームズ・スチュアート『経済の原理』下, p.338)
この混乱を収めるべくジョン・ローが建策、 16リーブルより高値で旧鋳貨を紙幣に換える
1716 仏・ロー・アンド・カンパニー設立
この会社の銀行(ゼネラル・バンク)が発行する紙幣は、鋳貨の単位ではなく重量で兌換した
ことから人気となり(恣意的な勅令によって価値変動が生じない紙幣)、1%のプレミアム付き
で流通(ジェームズ・スチュアート『経済の原理』下, p.343、ガリアーニ『貨幣論』p.339参照)
フランス銀行、ルイジアナ会社設立
1717 ムガール帝国・英に貿易の勅令
東インド会社のマグナ・カルタ
ムガール帝国の力が弱まると東インド会社は自衛を余儀なくされ、商館を要塞化
(祝田秀全 『銀の世界史』p.122)
1717 仏・第2期西方会社
カナダの毛皮貿易、ミシシッピ会社、たばこの徴税権の利権をジョン・ローに
1719年にはフランス東インド会社を吸収
1717 英・ニュートン造幣局長官、金貨と銀貨の交換比率を公定
1ギニー金貨(純金113グレイン)=21シリング銀貨(純銀1718.7グレイン)の複本位
銀貨の単位はエリザベス第43年の法令による(『経済の原理』下, p.204)
この後、銀に対する需要が高まり、交換比率は1:15.21から1:14.5(1638.5グレイン)へ
17世紀に、この比率は1:10.905から低下し続けてきた(『経済の原理』下, p.90)
銀価値が低下した17世紀は事実上の銀本位、金価値が低下した18世紀は金本位(下, p.100)
銀は東方(インド)貿易の支払い代金として、また銀食器の素材としてつかわれた
(ジェームズ・スチュアート『経済の原理』下, p.35, p.88)
価値の低い金貨は国内の支払いにつかわれ、価値の高い銀貨は鋳潰され輸出された
(ジェームズ・スチュアート『経済の原理』下, p.86)
その後、七年戦争を機に、戦費移送の手数料の安さから金の価値が高まり、交換比率は
1対15.2に戻った(ジェームズ・スチュアート『経済の原理』下, p.37, p.91)
1718 仏・高等法院、貨幣価値の低下(インフレ政策)に反対
ガリアーニ『貨幣論』第3編第4章
放漫財政のつけをインフレ課税で払うとき、それを批判しても詮ない
駐仏ナポリ大使を務めたガリアーニは、フランス王家に忖度したか
1719 デフォー『ロビンソン・クルーソー』
ジェヴォンズ『経済学の理論』p.164の訳者注によれば、クルーソーのモデルは、4年間
孤島に住んだとされるスコットランドの航海者Alexander Selkirk
1719 仏・ロー・アンド・カンパニー国有化
1月1日に実行「506日という短期間のあいだ浸った黄金の夢物語」「システム」
(ジェームズ・スチュアート『経済の原理』下, p.342)
国有化後、王立銀行券は鋳貨と連動するようになったが、ローはこの措置に激しく反対
デュトは口を極めて絶賛(ジェームズ・スチュアート『経済の原理』下, pp.340−341)
同年、西方会社が東インド会社を吸収し、大インド会社となる、さらに造幣局も吸収
加えて総徴税請負権をも取得、増資と紙幣乱発を繰り返す
ガリアーニ『貨幣論』pp.342-346)によれば、ルイ14世が戦費を浪費したため国庫が底を尽き、
やむなく乱発した王立銀行券は価値を失った。この隙間を埋めたのがローのシステムであった。
1719 英・ジョージ1世治世第6年の法律第4号
南海会社に国債の引き受けによる資本増強を認める
1720 仏・システム破綻
2月22日に王立銀行とインド会社が合併、インド会社に全経営権を譲渡も、王に16億リーブル
を超える貸付を約束(ジェームズ・スチュアート『経済の原理』下, p.345)
2月27日には500リーブル以上の鋳貨の保有禁止(→紙幣保有を奨励)
3月には1マールあたり60→80→70→65リーブルへ変更する複数の国務顧問会議採決(p.363)
5月21日に国務顧問会議の採決、紙幣の単位を1/2に引き下げる(13億リーブルの鋳貨に対し
26億リーブルの紙幣があった。紙幣の価値を鋳貨の価値まで引き下げた:p.365)
翌日22日に信用が崩落、27日に採決は取り消される(こうした操作がなければ問題は生じな
かったかもしれない。正貨の2倍の紙幣残高は、金本位制としては極端な状況ではない)
6月3日の採決により、オルレアン公所有の40万株は焼却(write-off?)された(p.367)
10月10日に国務顧問会議の採決、12月1日までに払い戻されない紙幣は無効に(p.350)
利払い用の減債基金を封鎖する不手際により、銀行券1.2億スターリング相当、東インド会社
株1.4万スターリング相当が消滅(ジェームズ・スチュアート『経済の原理』下, p.222)
債務の株式化に失敗(p.354)
想定されていた会社の収入を3%で割り引くのであれば、当時のフランスの全負債を超過
この点、純粋な悪だくみとも言えない(pp.354-355)
仏に集中していた投機資金が蘭に逃避、アムステルダム振替銀行の預金残高が3倍に
アムステルダム銀行の健全性については、ヒューム『市民の国について』下, p.55を参照
翌21年にかけて、マルセイユで最後のペスト大流行(10万人死亡)
ガリアーニ『貨幣論』pp.344-346にも、若干の数値に異動があるものの同様の記述がある
金融は破綻したが、農産物の価格は上がったため農業はむしろ恩恵を受けた
1720 英・泡沫会社禁止法
王の特許状なしに株式会社を設立できなくなる
ロー・システムの崩壊を受けて? 資金を南海会社に集中の意図?
ミッドサマー・デイ(夏至祭)に、南海会社は10%の株式配当を出すと約束、これを機に
株価は10倍まで高騰(代金の10分の1を支払うある種の信用取引で購入、株価下落後は
その所有権を放棄)投機熱は、南海会社に投ずる資金により貨幣が不足し金利が上がるほど
(ジェームズ・スチュアート『経済の原理』下, pp.469-471)
破綻後1824年に至るまで、特許状会社は保険会社2社のみ
1721 ニスタット条約
大北方戦争の終結、北欧の覇権はスウェーデンからロシアへ
勝利したピョートルに皇帝の名が贈られ、ロシアは帝国となる
1721 英・ウォルポールの平和
ジェームズ・スチュアート『経済の原理』p.90に「ユトレヒト条約以後の26年間平和を
維持してきた」とある(ジェンキンズの耳戦争が勃発した1739年までの平和)
南海泡沫会社整理で頭角を現した大蔵卿ウォルポールは事実上の初代首相とされる
クラレンドン『反乱史』を編集したハイチャーチのアタベリーを追放
財政再建のため提案したたばこ税は一般消費税への拡大を導くものとして国民の反発を招く
財政拡大派を取り込む(ヒューム「公信用について」『市民の国について』下,p.275の註8)
20年に及ぶ国内外の平和は、産業革命の助走期間となる
1725 ド・モアヴル, Annuities upon lives, or, The valuation of annuities upon any number of lives,
as also, of reversions 資料
Abraham de Moivre
(ジェームズ・スチュアート『経済の原理』下, p.476)
1726 仏・貨幣改鋳
ロー・システム破綻後の混乱を収拾
金貨と銀貨の比を1:14.47に設定(デュトの著書に記述あり)
(ジェームズ・スチュアート『経済の原理』下, p.720, 注22、pp.188-190)
旧鋳貨の溶解と輸出を禁じ、造幣局が安く買い取り改鋳
この規制をかいくぐるべく、旧鋳貨の保有者は為替業者にオランダへの現送を秘密裡に依頼
為替がこのプレミアムを含んで高騰(ジェームズ・スチュアート『経済の原理』下, p.431)
フルーリ枢機卿はサミュエル・ベルナールに頼んでオランダ宛手形を平価で商人に与える
措置をとったが、鋳貨がオランダへ流出したためこれを停止した
(ジェームズ・スチュアート『経済の原理』下, pp.430-431)
1726 ヴォルテール、渡英
ヴォルテールはペンネーム、本名はフランソワ=マリー・アルエ
決闘の申し出を宮廷に咎められ、バスチーユに投獄されていたものを、亡命を条件に釈放
ロック、ニュートン、スウィフト、ポープ、シェイクスピア劇に触れる
(ヴォルテール『カンディード』解説p.521)
1726 スウィフト『ガリバー旅行記』
アレクサンダー・ポープとの親交
ラピュタの奇譚はマルサスの書簡にも登場
(ケインズ『人物評伝』p.133)
1727 スウィフト, A short view of the state of Ireland 資料
ジェームズ・スチュアート『経済の原理』p.393で言及
1728 スウィフト, An Answer To A Paper, Called A Memorial Of The Poor Inhabitants, Tradesmen,
And Labourers Of The Kingdom Of Ireland
ヒューム『市民の国について』下, p.115で言及
英国に対するアイルランドの貿易赤字を論評
1728 ジョン・ウェスレー、メソジスト派を創始
英国オックスフォードで信仰覚醒運動をはじめる
1729 ジョン・ロー、ヴェネチアで死す
1730 享保15年・米相場開始
大坂の堂島にて先物相場
"本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿様に"
本間家は戦後の農地解放で農地をほぼすべて失う
1733 ポーランド継承戦争
アウグスト2世死去後、仏はルイ15世の義父スタニスラス1世を即位させる
これに反発した墺と露が別の王を建て、混乱が生じる
1734 ヴォルテール『哲学書簡』✅
発行即発禁処分、逮捕状が出る(フルーリ枢機卿の庇護を受ける司教ポワイエによる攻撃)
シャトレ侯爵夫人の下に身を寄せ、ライプニッツ最善説を教えられる
(ヴォルテール『カンディード』解説, p.521)
ベーコン、ロック、デカルト、ニュートンへの言及あり
クエーカー教徒とジャンセニストの対比
1734 ムロン『商業に関する政治的考察』
ムロンはジョン・ローの秘書としてロー・システムに協力
(ジェームズ・スチュアート『経済の原理』下, p.770の注)
阿部修人『物価指数概論』pp.25-26によれば、ムロンはローの会計担当者であった
当時としては過激なほど奢侈を擁護
(ネッケル『穀物立法と穀物取引について』p.274の訳註2)
1735 英・コークス溶鉱炉の開発
1736 英・魔女狩り令の死刑廃止
禁錮・罰金刑に軽減
1738 デュト『金融問題に対する政治の対応とフランスの商業』 資料
デュトはムロンとともにジョン・ローの側近を務めた
物価上昇を肯定するムロンの1734年の著作に対して、反論を展開
翌1739年には英訳が出版される
(阿部修人『物価指数概論』pp.24-28、ガリアーニ『貨幣論』p.241の注3)
1738 ウィーン条約
ポーランド継承戦争の講和
露との直接対決を恐れた仏が妥協
ポーランドを追われたスタニスラス1世はロレーヌ公となり、学問芸術に貢献
ルソー『学問芸術論』への反論を書いたことでも知られる(「ポーランド王、
兼ロレーヌ公への、ジャン=ジャック=ロソーの回答」)
1739 仏・J. チュルゴーの父、パリの地図を作成 資料
1739 ジェンキンズの耳戦争
英国船長ジェンキンズの耳がスペイン海軍によって切り落とされたことをきっかけに
オーストリア継承戦争に拡大
1739 フリードリッヒ2世『反マキアヴェッリ論』
1740 プロイセン・フリードリッヒ2世即位
ヴォルテールと親交を結ぶ啓蒙専制君主、フリードリッヒ大王と称される
貴族の力が強い国では、王は国民(世論)を味方につけるしかないとのリアリズム
1740 オーストリア継承戦争(〜1748)
1713年の国事詔勅(プラグマティコ・サンクティオ)にもかかわらず、マリア・テレジア
の帝位相続に疑問が呈される
シュレージェンの領有をめぐる欧州各国の争い
アメリカ新大陸でも英仏の戦争
1740 スイス・道路網の整備はじまる
(ネッケル『穀物立法と穀物取引について』解説, p.327)
1740 蘭・植民地のバタフィアで華僑虐殺
(ヴォルテール『寛容論』p.77)
1740 英・鋳鋼の生産
1740 英・凶作
小麦を求める暴動
アダム・スミス『国富論』
1742 寛保2年・公事方御定書
将軍吉宗による法令
上巻は行政法、下巻は刑法
1743 伊・メッシーナでペスト蔓延
(ガリアーニ著, 黒須訳『貨幣論』p.xxxii)
1743 英・東インド会社、政府に貸付
1766年から14年間の特許継続の認可を得る代わりに
100万ポンドを年3%の利率、すなわち3万ポンドで認可を取得(3万/0.03=100万)
(ジェームズ・スチュアート『経済の原理』下, p.474)
1745 ドレスデン条約
オーストリア継承戦争の講和条約
条約6条は、税収を財源とした国民への支払いは契約書の提示によるべきだとした
(ジェームズ・スチュアート『経済の原理』下, p.517)
1745 ジャコバイトの乱
ジャコバン=名誉革命で追放されたジェームズ2世のフランス語読み
オーストリア継承戦争の混乱に乗じて反イングランド感情が根強いスコットランドに上陸も
失敗に終わる、もし乱が成就していれば、英国の金融システムに危機が生じていたとの指摘
(ジェームズ・スチュアート『経済の原理』下, p.280)
スコットランド人ジェームズ・スチュアートはこの乱に連座、18年に及ぶ亡命生活
(ジェームズ・スチュアート『経済の原理』監訳者まえがき)
1748 アーヘン(エクス・ラ・シャペル)の和約
オーストリア継承戦争は均衡維持に終わり、七年戦争へ
仏が英のハノーヴァー朝を認め、ジャコバン派(スチュアート朝)の命脈絶える
仏は借金返済のために富くじを発行する
(ジェームズ・スチュアート『経済の原理』下, p.489)
ヒューム「勢力均衡について」『市民の国について』pp.28-29で言及
帝国内の住民に支えられているという確信を失ったマリア・テレジアは
各地に官吏を派遣、中央集権化を進める(→地方貴族の没落)
1748 蘭・戦時経費を賄う重税に反対する暴動
畜牛の病気で酪農が壊滅的ダメージを受けていた
(1714〜20、1744〜45、1769、1798にも発生)
その他欧州各地で革命の機運
1748 ベネディクトゥス14世の教令
輸出品には課税せず、輸入品に課税する
ガリアーニ『貨幣論』p.255
1748 レオンハルト・オイラー『無限解析入門』
π/6を調和級数で表す
(松浦訳『不思議な数 π の伝記』pp.66-67)
1748 モンテスキュー『法の精神』✅
ケインズ『一般理論』のフランス語版への序に「Adam Smithと並び称されるフランス人
Montesquieuはフランス最高の経済学者であり、(経済学者が持ちあわせるべき)優秀
な頭脳と良識においてフィジオクラットを抜きんでた存在である」とある(訳は筆者)
賢人による大著
1749 カント『活力の真の測定に関する考察』
デカルトの力学(運動の速度を運動量とする)とライプニッツの力学(運動の速度を
仕事量とする)による活力論争
(カント著・中山元訳『永遠平和のために』年譜,pp.274-275)
1749 英・低利借換法 資料
George II, c.1:An act for reducing the several Annuities, which now carry an interest after the
rate of four pounds per centum per annum, to the several rates of interest therein mentioned
1748年末に7,800万ポンドを超えていた国債の整理計画
5,700万ポンドの元本を返済し、金利を4%から1757年12月までに段階的に3%に引き下げる
債務整理の計画は七年戦争によって変更を余儀なくされ、パリ条約の年までにほぼ倍増する
(ジェームズ・スチュアート『経済の原理』下, pp.96-97, pp.476-479)
1750 寛延3年・一揆禁止令の強化
簇生する全藩一揆の歯止めとして
1750 ルソー『学問芸術論』✅
ルソーのイメージを覆す本、モンテーニュからの強い影響
極端な啓蒙主義者と思われがちだが、非常に保守的な論を展開
学問芸術を批判する本にも関わらず、ディジョンのアカデミーから賞を授けられる
第1部:「無知の知」を標榜するソクラテス(『ソクラテスの弁明』)を参照して学問批判
学問や芸術は人々を怯懦にして、国を滅ぼすものであると(自然に帰れ=ソクラテスに帰れ)
p.19:「学問芸術の光が地平にのぼるにつれて、徳が逃げてゆくのがみられます。これと同じ
現象は、あらゆる時代、あらゆる場所においてみられます」
第2部:
p.31:人間を敵視する神が学問を創ったとの神話を紹介(プロメテウス)
p.34:「これらの生意気で、くだらぬ口やかましい連中は、有害な逆説を武器として、四方へ
出かけてゆき、信仰の基礎をくつがえし、徳を弱めているのです。彼らは、祖国とか、宗教
とかいう古い言葉をあざけり笑い、人間のうちにあるあらゆる神聖なものを打ちこわしたり、
卑しめたりするのに、自分たちの才能と哲学をささげています。本当は、彼らは徳も、われ
われの教義も憎んでいるのではありません。彼らが敵視しているのは世論なのです。だから、
彼らを祭壇のもとに再びつれもどすには、無神論者の中に追い込むだけで十分なのです。
おお、自分を目だったものにしたいという執念よ! お前にできないことがあるだろうか!」
p.37:「国家にとって、輝かしいが短命であるのと、有徳であるが永続的であるのと、どちら
が重要であるか」
p.40「人びとが、習俗について反省すれば、かならず原始時代の単純な姿を思いだして、楽しむ
ことでしょう。それは、自然の手だけによって飾られた美しい河岸であり、人びとが、たえず
それに眼をむけて、遠ざかるのを名残りおしく感じる、美しい河岸です」
p.43:「子供たちが学ぶのは、大人になったときになすべきことであって、大人になって忘れ
なければならないことではありません」
pp.45-46:『人間不平等起源論』への布石「才能の差別と徳の堕落とによって人間の中に導き
入れられた有害な不平等からでなければ、これらすべての悪習が、いったい、どこから生まれ
てくるのでしょうか。これこそ、われわれの学問研究の最も明白な成果であり、学問研究の
あらゆる結果の中で、最も危険なものです。人間に要求されるものは、もはや、誠実であるか
ないかではなくして、才能があるかないかです」
p.46:「われわれは、物理学者、幾何学者、化学者、天文学者、詩人、音楽家、画家はもって
いますが、もはや市民はもっていません。あるいは、まだ市民が残っているとしても、みすて
られた田園にちらばっていて、貧乏でさげすまれて死んでゆきます。これがわれわれにパンを
与え、われわれの子供に乳を与えてくれる人びとがおちいっている状況であり、彼らが、われ
われからうけとっている感情なのです」
本文に付された「ポーランド王への回答」は、学問・教育論として示唆に富む
ミル『自由論』p.107では、啓蒙主義が花開く時代の中で、浅知恵を振り回すのではではなく、
徳に帰れとの主張を展開したと積極的に評価(内心・出版の自由の例として)
「自然に帰れ」と直訳できる箇所はないが、趣旨は汲み取れる 資料
1751 ガリアーニ『貨幣論』(1750?)✅
在仏ナポリ王国外交官のガリアーニは匿名で刊行
「イタリアの叡智をフランスに」と評される
(丸山『ワルラスの肖像』pp.139-140)
ジョン・ロックとムロン『商業誌論』を高く評価
アダム・スミスのダイヤモンドのパラドックス(希少性)の原型も提唱
(丸山『ワルラスの肖像』p.139)
病がちであった伯父チェレスティーノ・ガリアーニを元気付けるために、22歳の若者が正体
を隠して執筆、「こんな立派な本を書いたのは一体誰だろう」訝しめ、「書いたの僕だよ」と
と驚かしたかったとの言い伝え
フランス社交界で幅広い人脈を築いた四尺五寸の小法師(1m35cmは比喩的表現とも思われる
が、p.108に兵士の身長を150cm(6パルモ:1パルモ=25cm)と描写していることから相対
的な身長差に違和感はない)
ある種の最善説(ライプニッツ→ルソー→フィジオクラット)を唱える、1750年の空気感
信用が貨幣を成り立たせる以前の貨幣論(フランスのシステム崩壊を受けての貨幣論)
1759-1769年に駐仏ナポリ大使を務めるも、時のショワズール政権から睨まれ国外退去処分に
その際、『小麦取引に関する対話』をディドロに託した
ディドロはこの書を読み感銘を受け、反フィジオクラットに転じたとのことだが
(ネッケル『穀物立法と穀物取引について』解説, p.334)
p.2:ジョン・ロックとフランソワ・ムロンの貨幣論を参照
p.4:「私は、他人の利益にならないのに、困難で訳の分からない研究に精進しているのだと
自認するよりむしろ、自嘲的に公共の福祉を守りたかったのだ」
p.8:「私がそれのみを必要とする至高の手の救いに不足はない」
第1章:3種類の金属が貨幣として流通してきたが、代表例である金銀について考える
リディア人が河川から砂金を取得し、鋳造し、打刻して貨幣とした(p.15)
金貨の価値、売買するモノの価値を牛の頭数で表現(pp.17-18)
ローマ帝国が没落し、戦乱の世となったため、貨幣は散逸した。そこで貨幣なしでも
成り立つ社会システムとして領主と教会の二重封建制が形成された(pp.22-23)
コロンブスにより大航海時代が幕を開けると金銀が欧州に流れ込み、金を奪い合う
戦乱から商業的成功を目指す平和へ移行した(pp.23-24)
アメリカ大陸からやってきた銀は、それを渇望していたインド地域に貿易の支払い代金
として流入した。結果として、欧州域内の銀の増分はわずかであった(p.26)
重金主義批判、豊さは金銀の量ではなく、手中にした商品の豊富さ(p.27)
重要なのは貨幣の金銀の含有量の変化ではなく、生活費(小麦、ワイン、労働者)の
変遷(p.31)
第2章:価値について
法律が貨幣価値を与えるというアリストテレスの言を引用(『ニコマコス倫理学』第5巻
第5章からの引用とされるが、その引用文が見つからない…)(p.33)
絶対価格ではなく、相対価格(価値):ワイン1瓶と小麦10スタイオ(18.27リットル)
(p.35)
日本の砂浜の砂を例に効用と希少性を説明(日本の砂浜の砂は欧州の人にとっては希少
だが、効用がなければ価値は低い)(p.36)→アダム・スミスの希少性(水、空気)
「効用は、真の快楽を生み出す、すなわち、熱情の刺激を叶えるすべてのものである」
(p.37)
基本的な衣食住を満たした後に人々が求めるのは他人からの敬意(p.39)
犬儒学派(cinici:皮肉屋)ディオゲネスはプラトンより贅沢をしていたとの注(p.39)
再度使用価値と交換価値の混乱を指摘(パンは黄金より価値があるという詭弁)(p.42)
「神の慈愛に満ちた手のおかげで恭順や感謝の念がつねに生まれ、いつでもそれが祝福
されねばならない」(p.43)
小理屈をこね回す哲学者には「哲学者ではなく普通の人に戻ってもらいたい」(p.44)
人間を完全にするものがあれば、それは哲学ではなく「天の恩寵」
「我々が、互いに食い合っている野獣生活から平和で取引して生きる市民生活まで窮乏
なしに移れなかったとしても、いまの英知の厳しさによって、野蛮生活に戻ることは
なかろう」(p.44-45)
「ある物の量となされた使用の間にある比率を〈希少性〉と呼ぶ。私は、ある人がそれを使用する
かぎり、この物が他の人の欲求満足を邪魔するある物の占有と同じ消費を〈使用〉と呼ぶ」(p.45)
労働の価値は生活費と能力取得にかけた費用による:アダム・スミス的(pp.46-48)
「価格を唯一管理するのは効用しかない。なぜなら、神は、第一の効用の職業に従事する人々が沢山
生まれ、これらの仕事はほとんど人々のパンやワイン作りで、その価値も高くならないようにしたから。
しかし、才能のうちでは宝石にあたる博識者や賢人は、当然ながらきわめて高い価格を得る」(p.49)
「大衆に真の効用も快楽も生み出せない表明を〈美徳〉や〈学識〉と呼んではならない」(p.50)
「流行の支配権は、万事美しさに関わっていて、少しも効用に関わっていない。なぜなら、何か非常
に有益で快適なものが流行していれば、私は、それを〈流行〉とは呼ばず、生活の技術やくつろぎの
改善と呼ぶから」(p.53)
「均衡は、たとえ人間の深慮とか美徳からではなく、浅ましい金銭的利得というきわめて低劣な刺激
から出ていても、生活の快適という公正な豊さと世俗の幸せに驚くほど調和している。すなわち、
限りない人類愛のために摂理を得て、しばしば我々の臆病な熱情が、ほとんど我々の腹いせに対して、
万人の幸福のために命じられたかのように万物の秩序を組み立てたのだ」(p.57)
ワインを飲まないマホメット教徒の戒律が変わり、ワインを飲めるようになると、多くのワインが輸入
され、また葡萄の木が植えられる。結果としてワインの価格は次第に下がり適正水準に落ち着く(p.58)
この立論はアダム・スミス『法学講義』(水田訳, p.383)にみられる価格観と同じ
経済の法則を物理法則に見立てる(p.58)
第3章:金属貨幣の内在価値について
「〈賢人〉の名をわが物にしている人々が、私をいらだたせる。彼らは、すべてが不正であり、起こること
すべてが混乱だと叫び、自分たちの不信心を隠すために〈運命〉、〈宿命〉、〈天命〉という名目を発明した
のだ。逆に、私は、すべてが我々の効用のためにつくられた秩序を沈思黙考するたびに、至高の手を祝福
する。その御業の中で、私が向かうどこででも、正義と平等以外には出会うことがない」(p.60)
アダム・スミスの「見えざる手」はこの表現に影響を受けたとの説
(中川辰洋『チュルゴーとアダム・スミス』p.29)
「個別の事どもについては、たった一人の賢人よりも多数の無学者の方が多くのことを知っている」(p.61)
1750年当時、「時計、かぎタバコケース、剣やステッキの握り、食器、カップ、銀の皿」などに銀が
使われていた。ナポリにある304の教会と110以上の礼拝堂などにも銀の装飾品が溢れていた(p.63)
「結局お金が多いか少ないかの外見は、金属の量ではなくお金の流通速度だから」(pp.64-65)
第4章:貨幣のために必要とされる貴金属
「市民生活のうちにある非常に有益で見事な精度すべてについて、私は、何一つ我々の精神の英知に
帰すべきではなく、すべてが慈愛に満ち溢れた神意の純粋で絶対的な賜物であるとはっきり評価する」
(p.71)
貨幣価値は社会契約によるものではない「どんな時代に、どんな場所で、どんな代表者たちが、スペイン
人、中国人、ゴート人、アフリカ人が、諸国民がお互いの存在さえ知らないのに、何世紀たっても決して
考えを変えないほどしっかりと同意したのか」(p.72)
価値尺度としての想定貨幣、支払い手段としての現実貨幣(p.73)
「私が「一バレルのワインは、五〇リッブラのパンに値する」と言うなら、私は、小麦とワインの割合
しか知らないことになる。しかし、私が、そのバレルのワインが一ドゥカートに値することを知って
いれば、直ちに、私は、違った観念でそのワインと無限数の商品の間の割合を理解することになる。
どれほどわずかな努力で、この知識が得られることになるかは誰にでも分かる」(p.74)
「買い物で詐欺とかペテンに引っかからなければ、価格や契約は、想定貨幣で評価され現実貨幣で実行
される」(p.75)
硝酸カリウムが銀を溶かし、王水が金を溶かす(p.78)
1オンス(30g)の金を、彫金師は2万1千平方インチ(5万3千平方センチ)以上に引き伸ばす(p.80)
金銀は貨幣として使われるために神が創造したものという世界観(金本位制論者の本質)
第2編第1章:
「物と物との物々交換という旧来の、そして以前の慣習の不便ほど明らかなものはあるまい。なぜなら、
私にありすぎる物が足りない人を、あるいは、私にない物を持っている人を、私が見つけることはあまり
にも厄介だから」(p.96)
修道院のような小規模な心麗しい人の団体であれば共同生活がうまくゆくかもしれないが、一般の社会では
うまくゆかない。働くインセンティブが消え失せ、フリーライドが横行する社会になる(pp.96-97)
債権というキーワードを軸に、決済手段としての貨幣が豊かに論じられている( pp.97-99)
第2編第2章
理想貨幣:以前現実貨幣として使われたものが、流通しなくなり価値尺度となったもの(p.103)
トマス・アクィナスの月給は1オンスであった(これは1750年当時の60ドゥカートに相当)
4元素(空気、水、土、火)は豊富なために値段がつかない。3大尺度(時間、空間、運動)のような
尺度が商いに必要である。「その尺度は人間自身だろうと思う」(pp.109-110)
ギニア海岸では、奴隷商が30歳以下の健康な奴隷1人を305マクーテという貨幣単位にした
ただこれは、奴隷売買が行われない欧州大陸では適切な貨幣単位といえない(p.110)
「悪貨は良貨を駆逐する」(pp.111-112)
ある種の貨幣数量説(pp.113-114)
「豊富の中の貧困」の原型があるが、ガリアーニはこれを欲しがりな大衆のない物ねだりとする
(pp.119-120)
都市(ロンドンやパリ)の物価高は豊さの証である。高値で売れる商品を作り、その代金を受け取る
ので、必然的に物価は高くなる。ただ、災害の高値(コストプッシュインフレ)は、繁栄の高値
(デマンドプルインフレ)とは異なる。(pp.121-122)
需要不足によるデフレ不況(p.123)
ピグー税の原型(p.128)
「人間は唯一、真の富なのである」(p.130)
人的な移動より資本移動の方が速い(p.131)
第2編第3章
通貨の削り取りについて(p.143の注12)
貨幣が少しずつ打刻される理由(p.148)
第2編第4章
貨幣の流通速度(p.154)
「富とは〈持てる者より持たざる者がいっそう欲しがる何物かの所有〉である」(p.155)
富の中で最も有用なものから並べると人間、衣食住、ぜいたく品になる(p.156)
カルタゴ、ヴェネツィア、オランダは富裕な商業国家であるため戦闘力が落ち、外国人
傭兵を雇うようになる(p.160)
「国家体の中で血液としてきわめて有用な貨幣は、それが流れる血管に釣り合った一定
限度内に維持されねばならないことになる。限度を超えて増加したり減少したりすると、
貨幣が支える身体に死をもたらすことになる」(p.162)
「国家を維持するために住民を徐々に消耗させるほど誤った解決策はない。住民のいない
都市の壁は中身のない皮と違わないからだ」(p.163)
商業に対する農業の優越、重農主義の原型、ただし土地本位ではなく人本位
(pp.164-165)
第2編第5章
コインの語源について(象徴イコン→刻印→刻印された金属片)(p.166)
貨幣に刻印する手数料は2.5%とされる(銅の内在価値の1/3、銀の1/50、金の1/400)(p.167)
第3編の序文にも同様の記述がある(国庫納付金を含む)
コインの縁にある刻印は、削り取り対策(p.173)
第2編第6章
混ぜ物を含む貨幣は、混ぜ物を含まない貨幣と同じく悪貨ではなく良貨である
混ぜ物を含む貨幣が悪貨と呼ばれるのは、法がそれを重量分の正貨をあたかも含む
プレミアム額面で受け取るよう強制するから「貨幣を悪貨にするのは、混ぜ物では
なく法律である」(pp.181-182)
フランスのビロン、スペインのべジョンという貨幣は半分が卑金属で構成されている
が、プレミアムがつかないために広く流通している(p.182)
黒色貨幣:貨幣不足に対応するために純度を著しく下げた貨幣(p.184)
「悪貨は良貨を駆逐する」(p.186)
純度の高い金貨、銀貨が国外へ現送され、混ぜ物をしたビロンが残って流通するのは
国益にならない(p.186)
第3編第1章
「価値とは相対的なものであり、ある物の他の物との同等を表現することだ」。「貨幣の比較対象である無数の商品
のうちの、一つの他の商品との比率が決定されるだけだから。この他の商品とは貨幣自体である」(p.192)
「富は、効用とか快楽を他人に与える人にだけ報いるはずだというのが自然の法則」(p.195)
「行政官たちは、多数者の幸福と彼らの自由の維持を運命付けられた管理者であるし、君主自身は神によって
この任務に正当な人であると認められたのだ」(p.201)
ローマの時代に比べて、執筆当時は商業が発達しているので、金銀銅の比率のわずかな不手際が貨幣の
混乱を招く。よって比率は法定するより市場に任せるのがよい。(p.208)
王が優れた刻印機を導入し、縁にも刻印を施せば、削り取りはすぐに明るみに出て、詐欺を働く余地は
なくなる(p.215)
削り取りの被害を根絶するために、貨幣を全て回収し紙幣を発行することもできるが、当時の技術では
紙幣の偽造を避けがたかった(p.217)
悪貨を駆逐する策について(p.217)
品位を下げる貨幣改鋳は削り取りと同じ罪である(pp.224-225)
「悪貨は良貨を駆逐する」(p.226)
第3編第2章
摩耗した貨幣は鋳潰し再鋳造し、流通量を確保すべきである。これは道路の補修のようなものである(p.212)
貨幣の縁の削り取りは、小さな銀貨で横行した。これは金貨を削り取ると受け取りを拒まれる恐れがあり、
銅貨を削り取る利益はほぼないためである。(p.214)
第3編第3章
貨幣価値の変更は貨幣錯覚がある間、価格が週間に粘着する間にだけ効果を持つ(Sticky Prices)(pp.234-236)
貨幣価値を変更して名目上の数値だけ増やすのは、長身の兵士を欲する国家が、長さの単位を短く
変更するようなものだ。どのような小男であっても巨魁と評価換えできるが、これはおかしい(p.237)
「〈有益〉utile」という表現(p.238)
「公租を支持し、それが常に増加していくことも君主の利益であると考える人は、常に考え違いをしている。
君主の利益の尺度は彼の国民の利益だからだ」(p.241)
貨幣価値を上げる(貨幣価値を引き下げて物価を上げる)ことは債務の負担を軽くするが、国全体で見れば
債務者の利得と債権者の損失は相殺される(pp.243-244)
Sticky Priceと貨幣錯覚が次第に解消して貨幣数量説に近い経済になるまでのメカニズム
インフレ政策により通貨安が生じ、不動産価格が上がると、物価上昇に脆弱な賃金労働者の不平が高まる
これを鎮めるために君主は賃上げをする(pp.244-247)
多額の負債を負った国家は、「価値の引上げで得られる債務の完済によらずば、途方もない歳出で背負い
込んだ債務に悩まされるほかない」(p.253)
壁の建設費の応能負担(p.263)
財産の奪い合いをする訴訟沙汰に明け暮れるより、働いて富を生み出すべきである(p.264)
フランス財政を破綻させたジョン・ローのシステムよりインフレ課税の方がましである(p.265)
第4編序文
ミダス王の呪い(全てを黄金に変える力をえたミダス王は飢えたため、今度は全てをパンに変えるよう
ユピテルに頼んだ。全てがパンになった生活に耐えかね、ミダス王は狂死した。黄金だけ、パンだけで
では生きられない。他者のためにという「情愛」が国家に必要である。
第4編第1章
「貨幣流通は、富の原因ではなく結果である」(p.286)
「結果と原因を取り違え、貨幣量を増やすことを自分の君主に熱心に提案し、有益でもっぱら真の流通が発生する
農業、工業、住民を思い出しもせずに、流通増大を切望するかの著作者たちは、大いに非難されるべきである」(p.287)
当時のナポリには「一五〇万ドゥカート弱の銅貨、ほぼ六〇〇万ドゥカートの銀貨、さらに一、〇〇〇万ドゥカートの
金貨があると考えていい」(p.290)
「ナポリ王国の総消費が、その産物全体にほぼ等しいことは確かである。きわめて多くの商品が国外から入って来て
消費されても、国産品の多くもその分出てゆくので」(p.290)
「各人の消費が一ヶ月四ドゥカートにならして定められると」「ナポリ王国には三〇〇万人強の従民がいる。だから、
一ヶ月で一、二〇〇万ドゥカート、一年で一億四、四〇〇万ドゥカートの商品価値が消費されるのだ」(p.292)
生産物のうち自給自足の分と物々交換の分を除いて考えると、1,800万ドゥカートの貨幣が「一年間に八人の違った人
の手を通過すれば十分なのだ」(p.293)
「ナポリ王国では、利子は七%から九%の間にあり、ナポリ市では三%から五%の間にある」(p.295)
「一、〇〇〇人が一日だけで一〇〇万ドゥカート支払う必要があるとすれば」「一〇〇万ドゥカート必要になる」。
「しかし、もし六ヶ月でその都度五〇万ドゥカートずつ払えば」「一〇〇万ドゥカートの代わりができよう」(p.297)
「市と大規模市場。それらでは一箇所で大規模な流通が行われ、しばしば、全契約者が居合わせるので貨幣がまったく
なしでもすむ」(p.297)
「どっちみち、世界は奢侈に満ちている。諸国民全部と全時代が、野生人、野蛮人以外は、奢侈を手にしていた」(p.302)
「奢侈が、平和、善政、社会への有益な技芸の完成の息子であることは確かである」(p.302)
「以前より少数の人々で、あるいは(同じことであるが)短時間で製品が仕上がる新しい手段の発見に他ならない技術
改良がなされる時に。そうなれば、多くの人々が失業の憂き目を見るが、この連中が飢えて死なないためには、大して
必要でない仕事でそれらの人々の要求に応えてやる。それがまさに奢侈なのである」(pp.302-303)
第4編第2章
「人体と社会の混合体の間にはすばらしく賞賛すべき類似がある」(p.306)
「フランスを追放されたユグノーの大部分は、オランダがいっぱいになった後、生活できる保証がない場合には、
最も近いイングランドを避けて、ドイツに押し寄せた」(イングランドの高物価)(p.310)
転売屋と化した商人は有害である(p.317)
「酸っぱいブドウ」(p.318)
第4編第3章
金の輸出を禁止するのは、貿易や海外での支出が存在する限り、無理筋である(pp.320-324)
国内にとどめおくべきは金ではなく、国富の源である人(p.326)
共和国は「製造や航海」に向く(p.327)
「貨幣は(スコラ学派に言わせれば)〈現在のではなく、潜在的で将来の〉富だから、快適さをもたらさないので、
それほど望まれないだろう。そうなれば、共和国は、技術、製造業、商業を失うことになるだろう」(p.329)
第4編第4章
ドン・アントニオ・デ・ウリョーア『南米諸王国紀行』(本文では『南部アメリカ旅行の報告』)に、ペンシルヴァニア
植民地で紙幣が流通していたことが記されている。そこに住むクェーカー教徒はとても信心深く、神約を守るので紙幣
が安定的に流通している。これは一般のキリスト教徒には真似できない(pp.334-336)
「銀行が始まったのは、人々が経験によって、大規模取引や大帝国に足りるだけの三つの金属が存在しないことを知って
以来のことである」(p.336)
「オリエントでは、銀行もなく確かな商人もいないから、宝石が貨幣として使われ、わが国の銀行業者にあたる人々は、
そこでは宝石商である」(p.337)
「今日でも、商人が集まっている街は、ロンドンやパリではロンバード街と言われる」。「しかし、惨めな諸世紀に」人心
が荒廃したため、「ロンバード街の人々によって合法な取引と一緒に多くの非合法な取引も行われた。こうして、[金持ち
であるために悪党と同じだと考えられた被害者が]高利貸しといっしょくたにされた(p.338)
興味深いことに、これは日本の室町期の「悪党」に似ている。
p.349にマキアヴェッリ『フィレンツェ史』下巻, ちくま版, 355-356からの引用があり、p.351にモンテスキュー
『法の精神』中巻p.211からの引用がある。
共和政体の銀行と君主政体の銀行の特徴の違い(p.353)
オランダやイングランド、フランスのように商業を発展されるには、商いに出す農業を盛んにしなければならない。
農業を盛んにするためには人口が増えなければならないし、人口を増やすには自由がなければならない。自由は
公正な政府による(p.357)
第5編第1章
「偶然や運命のいたずら」は「たけり狂う馬」であったが、「真の科学の光り」が運命を飼い慣らす術を見つけた
その術はベルヌーイによって数式に落とし込まれた(p.364)
第5編大2章
公債の利益として、費用の時間的分割、安全な投資対象、教会や病院などの慈善団体の経営基盤が挙げられる
公債の害として、金持ちに与えられる無為な収益機会と、金持ちが土地を購入しないことから生じる土地の細分化
による非効率化、外国人投資家が保有することによる富の流出が挙げられる(pp.374-375)
返済を実質価値(金属の重量)でするという考え方はあるが、実行するのは難しい。100年も経てば、貴金属の
価値も変わるからである。名目貨幣価値での契約を勧めている(pp.377-378)
結語
「もう祖国を崇める時ではないが、それを愛し、擁護し、敬慕する時は常にある」 (p.386)
1751 ホガースの絵画『ジン横丁』
ロンドン・イーストエンドのありよう 参考
1752 ヒューム『市民の国について』✅
小松茂夫版は『市民の国について』、田中秀夫版は 『政治論集』
「勢力均衡について」:ローマ帝国を引き合いに、フランスの没落を予言
「法慣習三題」:ドイツ帝国の連邦制を「車の中に作られた車」(p.37)と表現
「原始契約について」:フィルマー的王権論(トーリー的)とロックの社会契約説(ウィッグ的)
の両方を批判し、中庸の道を説く
「一方の政党は『政府』の起源を求めて『神』にまでさかのぼり、それによって政府を極めて
神聖不可侵なものにしようとつとめます。そのため、政府がどんなに圧制的になっても、政府
にほんの少しでも手をふれたりその中へ押し入ったりすることは聖物冒涜と考えられなければ
ならないのです。もう一つの政党は、政府の基礎は『人民』の同意にあるとし、それによって
一種の原始契約の存在を勝手にきめこみます――この契約によると、一定の目的で被治者が
自発的に委託しているあの権力のために苦しい目にあわされたと感ずる場合にはいつでも、
被治者は、君主にたいする反抗権を、暗黙のうちに、保留していることになります」
(pp.126-127)
「政治上の人間関係の基礎はただ一つ、自発的な合意ないし相互的な約束しかないなんて説こ
うものなら世界の大半のところでは、あなたの友人が、そんなばかげたことを主張するのは気が
ふれた証拠だとして、あなたを一室にとじこめるか、それが間に合わなければ為政者が、煽動的
だとして服従義務軽視罪で投獄することでしょう」(p.132)
フィルマー的な力による権力奪取と統治が現実だと主張、選挙も群衆による無政府状態と批判
名誉革命もロックの理論に純粋に従うものではなく、1千万人の国民のうちの700人の合意に
過ぎないと指摘(万人の契約に基づく社会ではない)
「人間の制定したことはすべて、ある程度の革新が必ず含まれるものであり、時代の啓蒙的
天才がそれを理性、自由、正義の方向に導く場合には、このことは好都合でもあります。
しかし、暴力による革新を行う資格は個人には決してありません。立法機関によってそれが
試みられても危険であり、得るところより失うところが多いものです」(p.141)
ヒュームはロックよりベンサムに近い
「政府に対する服従義務の理由をもしも問われるならば、二つ返事で、わたくしは、そうしな
ければ、社会が存続できないからだと答えます」(p.146)
「ソクラテスは、脱獄を拒否する理由をのべて、なぜなら、法律にしたがうことを、わたくしは、
すでに、暗黙裡に、約束してしまったからだとしています。それゆえ、彼は、原始契約という
ウィッグ的基礎の上に、絶対服従というトーリー的帰結を打ち立てているわけです」(p.153)
「絶対服従について」:「人民の安全が最高の法」(p.156)
「党派の歩みよりについて」:市民的自由を求める激情の正体は「宗教的狂信」(p.169)
「王位継承について」:スチュアート朝とハノーヴァー朝の比較
「理想共和国についての一案」:プラトンのポリティア、トマス・モアのユートピアと比較
「政治を科学に高めるために」:システムか人徳か、「王様は外国人」問題、マキアヴェリ
『フィレンツェ史』を批判的に検証、ウォルポールの治世
を巡る党派的な争いを緩和すべきとの主張
「政府の第一原理について」:利害と権利(権力と財産)に関する輿論、漸進的改革の勧め
「政治社会について」:社会の理想と現実、万人の万人に対する戦い、右側通行(註2)
「商業について」:ジェームズ・スチュアートからアダム・スミスへ至る流れの源流
「技芸の洗練と進歩について」:ルソー的反文明主義の風潮を批判(豊かさは善)
ただ、マンデヴィル的な悪徳称賛のロジックとは一線を画す
「貨幣について」:New Keynesian的なsticky prices and wagesの理論
「利子について」:マネーの量だけでは決まらない、商いの繁閑にもよる
「貿易収支について」:貿易差額主義を批判、国富の源は金銀ではなく人口と生産力と喝破
「公信用について」:国家財政を家計のやりくりにたとえる、国債乱発による貨幣発行を批判
国債の償還は貨幣を右手から左手へ移すだけだという主張も批判
国債保有者が首都ロンドンに住むことは、革命を未然に防ぐ
(政情不安は国債の暴落を招くため、不穏な空気は即無力化される)
「政治的支配の起源について」:社会を成り立たせる権威と個人の自由について
「党派について」:利害、原理、愛着に基づく党派のうち、利害に基づくものが最も害が少ない
原理、とりわけキリスト教の宗派に基づくものが最も恐ろしい
「市民的自由について」:商業が盛んなヨーロッパ三大都市(ロンドン、アムステルダム、
ハンブルグ)はいずれも自由なプロテスタントの街である
ただ、フランスという例外はある
自由な国は重税により君主制に、君主制は利を求めて自由な国に
近づき、政体は似通ってくる
1754 英・セレクトソサエティ設立
画家アラン・ラムジーが提唱、アダム・スミス、ヒューム、ロバートソン、ブレア、
カーライルなどスコットランド一流の知識人が集い、経済社会について議論
(梅津順一『アダム・スミスとスコットランド教会』p.40)
1754 仏・デュプレクス、東インド会社総督を解任される
財政問題が背景に、インドは英の手に落ちる
1755 仏の租税の状況
塩税、煙草税、通関税、エードなどが徴税請負人に請け負われた
(ジェームズ・スチュアート『経済の原理』下, pp.571-572)
1755 イエズス会の神父・パラグアイにて王に推挙されたとの噂
ヴォルテール『カンディード』p.329
1609年の話が続いていた(原始共産的社会)
1755 ヴォルテール、ジュネーブに得た安住の地を楽園館と名付ける
『カンディード』終章のイメージか
(ヴォルテール『カンディード』解説p.524)
キリスト教の記念日である11月1日に発災、3万人が犠牲に
1755 ルソー『政治経済論』✅
大航海時代に世界に福音を説いたイエズス会は、中国で老子の思想(無為自然)に出会い、
それを持ち帰り、ヨーロッパでlaissez-faire・laissez passerを旨とするPhysiocratie
(économistes)に昇華、新時代の神学に?
フィジオクラット(自然の力というギリシャ語):神の摂理に従う学派による自由放任
(エピクロス派のアタラクシア:隠棲/ストア派のアパティア:自然に従う
→ヘレニズム思想への回帰) 資料
老子:無為自然、上善如水、柔弱謙下、無為の治、小国寡民
ふわっとした東洋思想をガチガチの西洋ロジックに閉じ込めるのは無理がある…
https://www.jstor.org/stable/40325935
ウェーバー『世界宗教と経済倫理』p.116では、現世内的な瞑想に分類される老子は
現世的な禁欲に分類され、プロテスタントと対置されている
1755 ルソー『人間不平等起源論』✅
竹本『『国富論』を読む ―ヴィジョンと現実―』p.2によれば、アダム・スミスが批判的に
検討したとある
1755 カンティロン『商業試論』
アイルランド生まれ、フランスへ移住し、ロー・システム下のバブルで巨富を得る
ロー・システムの破綻後はオランダに逃れ、やがて英国ロンドンへ移るも、放火され落命
草稿は長らく大ミラボー(フランス革命で知られるミラボーの父)の手にあったが、
グルネーの説得によりフランス語訳され匿名で出版、チュルゴーは出版に関わる
(ジェームズ・スチュアート『経済の原理』訳者解説の注、中川辰洋『チュルゴーとアダム・
スミス』p.4の脚注4)
ジェームズ・スチュアート『経済の原理』下, p.136に言及
ジェヴォンズはRichard Cantillon and the Nationality of Political Economyという本の中で、
アダム・スミスが『国富論』の中でカンティロンを引用していると指摘
企業者が需要に応じて供給を調整する「企業者の見える手」
企業は利益を企業自身に再投資するという再帰過程を描写
1756 シャルル・ド・ブロス『南方の地航海史』
Australasia(オーストララシア、オーストラレイシア)の表記
アジアの南の地域(オーストラリア、ニュージーランド、メラニシア)
1756 英・凶作
30の州で100件以上の暴動
リスボン大震災の影響?
イングランドの穀物輸入は平均的な年の7倍ほどに達したが、それでも年間消費量の4日分
(ジェームズ・スチュアート『経済の原理』p.444)
1756 仏墺同盟(外交革命)
新興の強国普が英と同盟を結んだ対抗策として
1756 七年戦争(〜1763)
英は同盟を組んだ普に多額の資金援助をして欧州の戦争を任せ、新大陸のフレンチ・インディ
アン戦争に注力、北アメリカ植民地は仏から英へ売却される(大ピットの活躍)
(ジェームズ・スチュアート『経済の原理』下, p.463)
英はこの機に1,200万ポンドの公債を発行して借入(ジェームズ・スチュアート『経済の原理』
下, p.207)
これにより英の財政悪化、植民地への課税、それへの反発(財政問題についてはヒューム
『市民の国について』下巻に詳しい)
戦時中、英国は貨幣価値を引き下げて借金の負担を目減りさせ、戦後に債務整理の目処がつく
と貨幣価値を引き上げた(ジェームズ・スチュアート『経済の原理』下, p.183)
戦争終結後、アムステルダムで金融危機発生
ヴォルテール『カンディード』第23章で言及
1757 プラッシーの戦い
英軍のクライブは敵方を混乱に陥れ、その後のベンガル支配を確実なものに
フランスは七年戦争後の財政難がたたり撤退
歴史の if(もしフランスが撤退していなかったら)
1757 ケルン大司教区、魔女狩り裁判に携わる刑吏の料金表を布告
ボンにて(森島恒雄『魔女狩り』p.133)
1757 ハリス, An essay upon money and coins 資料
ジェームズ・スチュアート『経済の原理』下, p.53の改鋳の説明の際に引用
1757 ブランケンリッジ, An Answer to Dr. William Brankenridge's letter concerning the number
of inhabitants, within the London bills of mortality
ロンドン近郊の人口減少は、飲酒、独身生活、交易の増大による
(ジェームズ・スチュアート『経済の原理』p.515の第15章への注2))
1757 百科全書第7巻発刊
ジュネーブの項目の記述をめぐり、ジュネーヴ牧師会とルソーの批判を招く
ダランベールの黒幕はヴォルテールだとして
これが「カンディード」の主人公を見出す契機となる
(ヴォルテール『カンディード』解説pp.541-542)
1758 ド・カヴェラック『サン=バルテルミの事件の弁明』
ヴォルテール『寛容論』p.202に不寛容なド・マルヴォーの師が著した書として言及
1758 ケネー『経済表』✅
ある種の土地本位制(純収益、純生産物は土地所有者に帰属する)
→フランスの風土、フランスの宗教(カトリック)にあった理論
フランスに比べて土地が痩せており、140年前に市民革命が起き、またプロテスタントの
倫理が広まっていたイングランド・英国では土地所有者ではなく、勤労が富を生み出す力
を重視(ジョン・ロック、ジェームズ・スチュアート、アダム・スミス)
貨幣の流通を血液循環にたとえるのはケネーではなく、チュルゴーがはじめ?
(中川辰洋『チュルゴーとアダム・スミス』p.50の脚注5)
ネッケルは、経済循環に関わるすべての人が利得を得るという「社会利得」の概念は
現実離れしているとして批判(ネッケル『穀物立法と穀物取引について』p.229)
フィジオクラット:神の摂理に従う、王権神授説用語、大地の恵みが価値の根源、最善説
→ルソー、ライプニッツの哲学との親和性
1759 ウェッジウッド創業 資料
デルフト陶器の衰退
ウエッジウッドの末裔はイングランド銀行理事となり、ケインズと交流
1759 仏・減債基金(ケエス・ダモルティスマン)を閉鎖
信用が崩壊
150万スターリングの資金調達のために公債保有者の信頼を失う(詳細は不明)
5%の利率で7,200万リーブルの借入れ
シルエット氏により、制限的徴税請負制度が実施される
(ジェームズ・スチュアート『経済の原理』下, p.489, p.514, p.547, p.641)
1759 チュルゴー『ヴァンサン・ド・グルネー讃辞』✅
47歳の若さで亡くなった自由主義者グルネーの足跡を称賛
グルネーを中心とするグループは、エコノミスト(フィジオクラット)と呼ばれた
グルネー追悼に、チュルゴー自らの思想をこめる
(ジョサイア・チャイルド→グルネー→チュルゴー)
自由貿易、税と規制の軽減・撤廃、商業の奨励
ダランベールはじめ一流の知識人と幅広く交流
(永田清訳註『富に関する省察』解題)
チュルゴーはヴェルサイユ宮殿中二階にて催されたケネー主催のサロンに出入りするも
党派的フィジオクラットではなかった
(中川辰洋『チュルゴーとアダム・スミス』p.25, p.176の脚注34)
いかさま本を集成した「空想の本棚」なる56冊の蔵書の中にホッブズ『リヴァイアサン』、
シモン・ランゲ『市民法理論』などがあった(ランゲは由らむべし、知らしむべからず)
(ネッケル『穀物立法と穀物取引について』解説, p.341)
チュルゴーの一族はスコットランドに起源があるノルマンディーの貴族
1759 ヴォルテール『カンディード』✅
第1章:ミルトン『失楽園』のパロディとのこと(脚注8)
第3章:欧州における七年戦争(プロイセン対フランス、脚注15)
p.283:「人間は決して狼に生まれついてはいないのに、狼になってしまった」
ホッブズのHomo homini lupusをふまえて(脚注25)
「個々の不幸は全体の幸福をつくり出す。それゆえに、個々の不幸が多ければ
多いほど、すべては善なのだ」とライプニッツの最善説を皮肉る
第5章、第6章:リスボン大震災への言及 エステーのCM
p.286に踏み絵の場面
p.306にホッブズ『市民論』をふまえた箇所(脚注48)
p.339に百科全書派に近いヴォルテールとイエズス会の対立(脚注79)
p.372に三位一体を否定するソッツィーニ派に言及(ユニテリアン、啓蒙への影響)
pp.423-424にミルトンの批判
p.446にライプニッツの予定調和に対する批判
第30章にはジョン・ロックの影響が見られる(労働)
ケインズ『一般理論』の第1篇の最後にも登場
1759 スミス『道徳感情論』✅
ロシュフコー公爵の企図の下フランス語訳される
スミスは第2版をチュルゴーに献本
(中川『チュルゴーとアダム・スミス』pp.43-44)
本書の仏訳はいくつか出ているが、1860年代に、コンドルセ夫人による翻訳第2版が刊行
(中川『チュルゴーとアダム・スミス』p.90の脚注15)
ルソーの不平等の投げかけに対し、資本蓄積による不平等な富は、土地所有者を消費に誘う
「見えざる手」をとおして再分配されるとした
(竹本『『国富論』を読む ―ヴィジョンと現実―』p.)
1760 英・ジョージ3世即位
ハノーヴァー朝初の英国生まれの王、親政を志向
エイブラハム・リカード(経済学者リカードの父)、拠点をアムステルダムからロンドンへ移す
名誉革命で大きく制限された王権を、官職、位階、年金などを議員にちらつかせることで取り戻す
こうしたパトロネージ(影響力工作)になびくコート派と半目するカントリ派の対立を生む
(小畑『ベンサムとイングランド国制』pp.131-133)
1761 ヒューム『イングランド史』
全6巻の大著(1754、1756、1759、1761年に逐次発刊)
2015年段階で翻訳が進行中とのこと 資料
1762 ド・マルヴォー『信仰と人道の一致』
ヴォルテール『寛容論』p.199で『信仰と非人道の一致』がタイトルとしてふさわしいと批判
1762 ルソー『社会契約論』✅
1762〜1763 スミス『法学講義』
1763 ミラボー『農業哲学』
重商主義システムという用語が初出
マグヌソン著, 大倉訳「国際経済的秩序としての重商主義 ―神話と現実―」p.95
1763 ヴォルテール『寛容論』✅
ジャン・カラス事件を契機に執筆
トゥールーズのジャン・カラスはプロテスタント
トゥールーズ市民は1762年のトゥールーズ暴動を祝う祭を開くほどのカトリック派
息子のマルク=アントワーヌはプロテスタントからカトリックに改宗する前日に自死
プロテスタントであるジャンは改宗しようとする息子を殺害したとの嫌疑をかけられる
白色苦行会はアントワーヌを殉教者として聖人化し、白色苦行会の会員が裁判員に名を
連ねる裁判で判事8人から死刑宣告を受け、処刑される
その後一家離散の危機をパリの法律家が弁護し、救う
p.50に「日本人は、全人類で最も寛容な国民」 との表記、コルベールが舌を巻く様子
(ヴォルテールの視野は世界規模)
p.242以降の原注にエジプトのピラミッドの話が登場→ケインズ『一般理論』
『ガルガンチュア物語』への言及あり
「私は、口にするのもおぞましいことだが、これを真実として語らねばならない。
すなわち、迫害者、死刑執行人、人殺し、それはわれわれである」(p.99)と、殉教者
の存在を口実に他宗派・他宗教の人々の殺害を繰り返してきたフランスの歴史を振り返る
「教会が繁栄し始めた時代から一七〇七年まで、およそ十四世紀のあいだに、神学がもと
で五千万人以上の人間が虐殺されている」(p.162)と宗教の怖さを指摘
第19章の話は不寛容のお伽噺として秀逸
1763 船舶捕獲条例
1763 パリ条約
アメリカ新大陸の大半を英が植民地とする
英の国債残高は1.4億ポンドを超えていた
戦時中、フランスから逃避した資金で賑わっていた国債市場は、終戦後に現金化する動きが
活発になり、低落した。また、獲得した新植民地の土地購入のためにも多額の資金が海外へ
流出した。結果として、貿易黒字の額を超える資本流出が起き、金利は高止まりした
(ジェームズ・スチュアート『経済の原理』下, pp.478-483)
1763 仏・穀物自由化法
5月27日の国王布告による、1764年7月19日にはパリとその近郊を除くフランス全土で
穀物取引が自由化された、また穀物の輸出も条件付きで認めた
1スティエあたり30リーブルを超えるとき輸出が禁止されたが、国内の穀物価格は
30リーブルを超え、40リーブル、50リーブルまで値上がりした
(ネッケル『穀物立法と穀物取引について』p.284の第13章への巻末訳註、 pp.165-166)
ネッケルは、これに対して、穀物の価格が20リーブルを下回るときに輸出を許可する
制度のほうがよいと主張した:30リーブルまで値上がりしたとき得するのは「持てる者」
20リーブルまで値下がりしたときに得するのは「持たざる庶民」だとして
(ネッケル『穀物立法と穀物取引について』p.227)
「当時の経済理論家は、この不幸は神の摂理によるものと考えており、社会進歩は貧民
を犠牲にしてのみ実現が可能であると、率直に認めていた」(ルフェーヴル『1789年』p.185)
1764 仏・東インド会社再建
七年戦争で植民地と船を失った会社を、筆頭理事となったネッケルが無給で再建
(ネッケル『穀物立法と穀物取引について』p.332)
1764 仏・イエズス会追放の勅令
ヴォルテール『寛容論』p.220、ジェームズ・スチュアート『経済の原理』p.434
サトウキビプランテーションの負債問題?
ガリカン(←ガリア):教会に対する国王の優越
1764 スイス・ジュネーブで革命の機運高まる
ルソー『山からの手紙』の影響を受けて
特権階級と、税を納めながらも政治的権限を持てないナティフ階級との軋轢
神権政治の伝統があるジュネーブは、納税は慈恵という神聖な行為であった
(ネッケル『穀物立法と穀物取引について』解説, p.328)
1764 米・通貨条例
アメリカの紙幣発行を禁止
1765 ダランベール『フランスでのイエズス会士による破壊行為』
ヴォルテール著, 斉藤訳『寛容論』p.221に言及あり
1765〜1769 ブラックストーン『イングランド法釈義』
2018年時点で、大内孝氏(東北大学)による翻訳作業が進んでいるとのこと 資料
大変素晴らしい大著、期待が膨らむ
1765 米・印紙条例
ジョナサン・メイヒュー「代表なくして課税なし」→翌年廃止される
1765 英・ムガール帝国から徴税権を獲得
ベンガル、ビハール、オリッサの3地域の徴税権
以後、アジアの産物を税で買い付ける
1765 英・ルナー・ソサエティ設立
バーミンガムにて月に1度、満月の夜に催される知識人の集い
エッジワースの祖父、ダーウィンの祖父、ワット、ウェッジウッドなどが参加と伝わる
世間からは急進左派の集いとの認識
エッジワースは亡命ユグノーのアイルランド人
1765 アダム・スミス、スイスとフランスに滞在(〜1766)
バックルー侯爵ヘンリー・スコットの遊学に家庭教師として従い、複数のサロンに出入り
ケネー、ヴォルテール、チュルゴーらと交友を結ぶ(チュルゴーとの出会いは1766年7月、
ヒュームの手引きによる:中川辰洋『チュルゴーとアダム・スミス』p.37)
チュルゴーとは「ルソー=ヒューム事件」について意見交換(p.99)
1766 仏・ブルージュで暴動
1763年の穀物自由化法は、高値転売にお墨付きを与えた「飢餓協約」だとして
パリの穀物備蓄をある会社に任せたために、人民を犠牲に国庫を潤した
(ルフェーヴル『1789年』p.185)
法律批准時から批判的であった高等法院は、これを機にフィジオクラットを批判
1767年には小麦が不作となり、批判はますます高まる
(ネッケル『穀物立法と穀物取引について』p.284の第13章への巻末訳註)
1766 チュルゴー『二人のシナ人あて、シナにかんする質問』✅
イエズス会経由で渡仏した2人の中国人が帰中した
その2人に宛てた手紙(52項目にわたる質問)
永田清訳註『富に関する省察』小序には、1761年8月にチュルゴーからヴォルテールに
宛てた手紙が紹介されている(孔子について:当時のフランスの中国趣味を反映)
中国の土地所有、所得分布、紙の製法、地質、茶、景徳鎮などに強い関心
1766 チュルゴー『富に関する省察』✅
永田清訳註『富に関する省察』解題には、1762年から2年間、知事の仕事の傍ら執筆
にあたったとあり、帰国する2人の中国人留学生に経済学の体系を示すために、1766年
11月にまとめられたと記されている
大津真作他訳『穀物立法と穀物取引について』p.275の訳註によれば、新訳準備中とのこと
『市民日誌』編集者デュポン・ド・ヌムール(ピエール=サミュエル・デュポン)は
神の摂理に従うことを旨とするフィジオクラットの意にそうよう、チュルゴーの原稿を
改竄して1769年11月、12月、1770年1月の3回に分けて掲載(アダム・スミスは『市民日誌』
を定期購読していた)
フィジオクラット:自由放任は神の摂理によってあらかじめ最善である
チュルゴー:利己的な個人の自由放任が自然的秩序を生み出す
デュポンの改竄をよしとしない実務経験が豊富なチュルゴーは、原稿どおりに直すか正誤表
を挿入する対応を要求しつつ、自らの原稿を100-150部ほど刊行し、ケネー、モルレ神父、
大ミラボー、アンヴィル公爵夫人、ロシュフーコー公爵などへ贈った
少部数のチュルゴー版が絶版の後、再び陽の目を見るのは1889年
(永田清訳註『富に関する省察』解題、中川辰洋『チュルゴーとアダム・スミス』
p.1の脚注1, pp.26-27, pp.94-95)
デュポンの子息エルテール=イレネー・デュポンはフランス革命の際にアメリカへ渡り、
財閥デュポンの創業者となる。商工業に批判的な重農主義者が財閥を形成する歴史の皮肉
(中川辰洋『チュルゴーとアダム・スミス』pp.80-81, p.176の脚注34)
シュンペーター『経済学史』は、デュポン版をもとにチュルゴーを論じている点で
チュルゴー理解に揺らぎがある
アダム・スミス『国富論』に大きな影響(中川辰洋『チュルゴーとアダム・スミス』pp.73-75,
p.104は、スミスは1793年にこの著作を匿名の訳者として英訳したと推測
ヴォルテールはチュルゴーを「運命は彼を世の中に現すであろう」(ウェルギリウス
『アエネーイス』第6篇より)と絶賛、この言葉はスミスの手によると思われる訳本の
はじめにも記されている(中川辰洋『チュルゴーとアダム・スミス』p.105の脚注30)
経済分析のプロトタイプを提供(100項目)
ローのシステムに対する反感から金融経済の分析は不十分だが、1770年の「貨幣貸付に
関する覚書」では積極的に論じている(中川辰洋『チュルゴーとアダム・スミス』pp.67-68)
1766 田沼時代
1766 英・富くじ付き国債の発行
3%の利率の普通国債60ポンドと、10ポンド富くじ4枚の組み合わせで発行
(ジェームズ・スチュアート『経済の原理』下, p.482)
1767 米・タウンゼント諸法(輸入関税)
大英帝国による植民地の「主権」の侵害への反発
1767 ジェームズ・スチュアート『経済の原理』✅ 資料 資料
副題として、「―自由な諸国民の国内政策の科学にかんする試論― そのなかで特に、
人口、農業、商業、工業、貨幣、鋳貨、利子、流通、銀行、為替、公信用ならびに
租税について考察する」が付されている
ジャコバイトの乱に連座の後、長年諸国を流浪して書き留めたものを集成
「1763年にイングランドへ帰還をはたしたおりに」(下, p.109)
とりわけ、第1編から第3編までは外国でまとめられた(序文, pp.vii-viii)
「みっちり18年にわたるこころよい精励の所産である」(下, p.699)
モンテスキュー『法の精神』、アダム・スミスの各種著作からの影響
また、ミラボー『人間の友』を介してカンティロン『商業試論』の影響を受ける
ケインズ『貨幣論』の原型にもみえる
金地金論争が起きた1810年に匿名で第3編、第4編の抜粋が再版されるなど、数奇な運命を
たどる(下巻・p.705の注7)参照)
小樽商科大学のサイトに原文全文? / 大阪経大論集, 1988-1989年に第3章の邦訳
第1編第3-5章はマルサス人口論の原型(モンテスキュー、ヒューム、ウォーレスの論争)
第1編第15章にも人口論(戦で失われた人口は自然増殖により償われ、出生/死亡はバランス)
p.25:原始共産制=奴隷制と喝破
p.29:奢侈を肯定的に評価(道徳的色彩を持たない、純経済概念として)
p.30:貨幣の定義(価値尺度、交換の媒体、価値貯蔵)、貨幣に対する欲望についても言及
貨幣は富者→フリー・ハンズ(商工業者:p.238)→農民
奢侈品はフリー・ハンズ→富者、農作物は農民→フリー・ハンズ
p.32:貨幣の流通速度の原型
p.39:GDPの原型(ウィリアム・ペティ『政治算術』に言及しつつ)
第8章では、労働集約型の穀物生産より資本(土地)集約型の牧畜の比率が高いイングランド
ではレントが多く、農耕のレントに向けた商品を提供する商工業が盛んであると指摘
p.47:フランスの第3階級(第三身分)への言及
p.53:貨幣数量説ではなく、需給バランスの変化によるデマンドプルインフレへの言及
貨幣数量説をとるヒュームへの批判
p.61:コルベール、ロー、ウォルポールを肯定的に評価
p.62、p.111:モンテスキューに言及
p.69:ハレー彗星の発見者ハレーに言及(人口統計学者として)
p.76:社会契約説の原型「一種の一般的な黙約」
pp.76-77:分業の効果
pp.82-83:奴隷制、勤労、慈善を増殖の3原理(人口維持の原理)とする
p.94:イングランドの囲い込みはフランスよりオオカミが少なかったことによる
p.107:「増殖が農業の有効な原因」有効需要の原型
p.111:機械の導入について(ラッダイト運動の原型、補償原理の原型:p.269も参照)
p.112:社会契約
pp.116-117:共産主義的主張のフランス啓蒙への反論(p.522にモンテスキュー『法の精神』)
p.120:防衛、輸出、商工業の発展、食物の増産の4つを国家目標とする
pp.125-127:戦乱の時代にあって常備軍の必要性を訴える(それを可能にする農業生産性
を獲得すべきとの主張:p.295も参照)
p.128:ミシシッピ計画と南海計画に言及(失敗した投機の例として)
第21章は第1編のまとめ
p.157:勤労は自由意志に発するものだが、労働は強制されることもある
pp.157-158:自由人の勤労は奴隷労働に対抗しえない
アメリカ植民地に奴隷制を導入することで、アメリカを英国からの輸出品の
一大消費地とする
p.167:欲望を消費者、勤労を製造業者、貨幣を商人と読み替える
p.169:交易をピンの例えで説明(アダム・スミス『国富論』との関係)
pp.198-201:オランダの繁栄の源は国民の勤勉さと、それを原動力とした食品の安さ
p.200:エンゲル係数の原型
p.207:仕事・勤労=供給、需要・交易=需要
第2編第12章は平成期の日本に思え、身につまされる
pp.221-222:ホッブズ「国王とその人民との黙約」への批判
第2編第14章はスパルタを例に、全体主義国家の恐ろしさを記述
第2編第15章は国家を富ませる貿易政策(輸出補助金を含む)を提案
p.250:モンテスキューへの言及
p.256:飲酒から節酒への流行の転換(→ホガース『ジン横丁』)
p.262:フランスのブランド品が、やがて競争に巻き込まれることについて
pp.266-267:非弾力的な需要に接する穀物価格の急変動について
p.273:貨幣があってもそれを借りて産業を起こす人がいないスペインの事例
p.273:1763年のパリ条約は英国に繁栄をもたらす
第2編第20章は、広義と狭義の奢侈(フリー・ハンズに仕事を与えるための贅沢)
p.288:同職組合が生計費を高めているとの批判(→アダム・スミス)
p.297:さらには第23章は、重商主義(貿易差額主義)の説明
p.303:オーストリア領ネーデルラント(現ベルギー・ルクセンブルク)は組合が
価格を吊り上げたために繁栄が陰ったとの指摘
pp.304-305:代表無くして課税なしの原型
p.306:ケインズ『貨幣論』の「基本方程式」の原型
pp.313-314:貿易論(ぶどう酒の例→リカード)
p.322:「最初に倒れた者がほかの者をつまずかせて、やがては全部がひっくり返る。
つまり貧窮が、国民の半数以上を占めている下層の階級を襲うのである」
p.344:利付貸付の宗教上の問題(流動性選好の原型)p.401も参照
p.345:信用創造の原型
p.349:後見人制度の原型(マケドニアの元老院令)
第2編第28章:貨幣数量説(モンテスキュー『法の精神』第27編第2-8章、ヒューム
『貨幣について』、ロック『利子・貨幣論』p.60等)に対する批判
p.479も参照
p.363:一物一価の原型
第2編第29章:ヒューム『貿易差額論』(貿易収支の自動調整機能)の批判
幼稚産業の保護や適切な関税、輸入制限などの必要性を指摘
第2編第30章:貿易差額は正貨の流出入と必ずしもリンクしないとの主張
所得収支や移転収支も見るべき
p.411:ピラミッドの喩え(→ケインズ『一般理論』)
アイデアの源はクセノフォン(pp.417-419)
ピラミッドの価格は建設作業員が消費した蕪、玉ねぎ、にんにくなどの数で表された
(p.420:ヘロドトス『歴史』を参照)
p.422:公共投資の例としてのオランダ堤防大工事
p.425:パドヴァのアントニオ(フランシスコ会の聖人でパドヴァで没し、教会が建てられた)
p.428-437:会社(東インド会社のような特権を持つ貿易会社)について
pp.438-440:1765-1768年のスコットランドとイングランド、フランスの賃金と生計費
1767年に問題になっていた生計費の高騰は、エンゲル係数50%のデータを
みれば政治運動(フランス人のいう芝居の筋書き)
p.443:スペインに商業が勃興しなかったのはカトリック思想に基づく慈善のため
第2編31章:第2編のまとめ
p.467:見栄の消費
p.481:君主が浪費した富を取り戻す手段としての略奪(官僚独裁国家にしても然り)
第3編は2部形式
p.9:計算貨幣の例としてオランダのグルデンとアンゴラ海岸のマクートを紹介
p.14:貨幣としてつかわれる金と銀の比率を14対1としている
p.18:君主に貨幣鋳造権があることを指摘
p.22:銀貨は袋詰めで流通させるべきとの指摘(摩耗を防ぐ:日本の銀貨流通の原型)
p.22:君主の借入は改鋳の恣意性を防ぐ(改鋳する君主には誰も貸さない)
p.26:金銀複本位制の利点
p.29:貨幣改鋳
p.31:1695年改鋳にまつわるロック・ラウンズ論争(ラウンズは改鋳の提唱者)
p.75:政府は貨幣を受け取ることで貨幣の通用力を担保できるが、貨幣価値は担保できない
p.85:悪貨を地金にして、貨幣価値を高めるというオランダ連邦議会の命令について
p.120:交易国民の鋳貨は、額面=重量かつ刻印=純度を特徴とすべき
p.120:金貨の補助貨幣としての銀貨は1ギニーを超えない範囲で流通させるべき
p.125:他の事情が同じならば
p.128:価格の調整機能は不完全「摩擦や社会的抵抗にさらされ」sticky price
価格の下方硬直性:超過利潤は「商品価値に合体」
p.130:外国との競争にさらされる製造業の勤労者は低賃金で働かざるを得ない
彼らに補償するために、外国人から鋳造料を取るべきである(輸出補助金)
p.153:金本位制のカンティロン、銀本位制のハリスに対して複本位制を唱える
p.154:貿易収支と所得収支(金塊の対外貸付が貿易赤字であるとの誤解)
p.170:商品価格は金または銀の地金の重量に結びついている(国際貿易による一物一価)
鋳貨に含まれる金または銀の量の変更はこの一物一価を一時的に撹乱する
p.174:通貨価値を一般物価で測るアムステルダム銀行
p.175:金属貨幣より銀行貨幣(紙幣)が優れている理由
p.184:貨幣価値の下落は債権者にとって、貨幣価値の上昇は債務者にとって不利
p.185:英国のペニー鋳貨には十字架が刻印されており、4つに砕けることがあった
これが1ペニー=4ファージングの由来
p.188:24金(当時の英仏では、金の純度をカラットという)
pp.191-192:金匠は8の貨幣鋳造料から利益を得る(金塊を安く入手し加工販売)
p.193:フランスでは紙幣に公的保証がないため、鋳貨が支払いにつかわれる
p.194:オランダ人は「世界一巧智に富んだ国民」だが、複雑な貨幣制度を持つ
p.212:袋詰めの銀貨は、摩耗や削り取りによる価値減少を防ぐ
pp.227-228:利子の徴収はキリスト教のタブー
p.235:高利禁止法について(ジョサイア・チャイルド『新交易論』に言及)
p.237:低利は交易にも公信用にもプラスになる
p.238:公債利回りが金利の基準となる
p.244:土地銀行(レンテンマルクの原型?)
p.249:商業金融(資金繰り)
p.259:ジョン・ローのシステムを「脅威的な成果」と評価
p.267:イングランドは「全紙券の価値の3分の1を鋳貨で保有」
貿易逆調による鋳貨流出、良貨溶解・輸出という投機行為がなければこの比率で十分
p.269:紙券は社会の貨幣、鋳貨は世界貨幣
p.269:貿易差額(貿易収支)と支払差額(経常収支)の違い
p.271:信用は短期貸付、貸付とは返済期限を定めない貸付
p.272:引出権(現代のSDRのようなもの)
p.274:貿易収支と経常収支の違いがわからないために銀行は為替業者を非難する
p.283:善良な市民全員の義務は、鋳貨ではなく紙券を保有すること
p.297:エディンバラの諸銀行の奢侈への支払いを制限する試みは勤労と交易を破壊すると批判
p.299-300:為替裁定はできない(no-arbitrage)
p.304:イングランド銀行は、戦時中に私掠船から持ち込まれた鋳貨と引き換えに紙券を発行
この紙券はほどなくイングランド銀行に還流して再び鋳貨が流出した
p.305:経常収支赤字の際には返済繰延べで利子を払い、黒字の際には元本返済することで
国際金融を安定させるべき
pp.307-308:下級銀行どうしの足の引っ張り合い(お互いの銀行券を大量に鋳貨に替える
操作を行うことで、他行に取り付け騒ぎを起こす)
このためにイングランド宛、あるいはスコットランド域内の為替割引率が
高くなっている
p.311:通貨の自由発行に対する批判(イングランド銀行のような国民的銀行を作るべき)
p.313:政府によるイングランド銀行の帳簿の検査
p.315:信用が破壊されると、全紙幣は消滅する
「すべての債務は、その成立方法と同様の方法によって解消される」
p.325:当座預金に利子がつかないこと
p.328:短期国債(政府保証証券)発行によるキャッシュ・マネジメント
p.333:経常収支黒字国としてのスイス
p.335:イングランド銀行券が乏しいスコットランドは、納税のために鋳貨を現送せざるを
えない(これがスコットランドの銀行に取り付け騒ぎを引き起こす)
第4編第2部第23章:ロー・システムについて
p.345:銀行は君主制と両立しないというモンテスキューの主張(銀行への無理解)
p.358:カンカンポア(Rue Quincampoix)では当時株の仲買が行われていた 資料 資料
pp.359-360:流通鋳貨も紙幣の担保に換算するという無理解がシステムを崩壊させた
p.361:「常識が時として通用しなくなるのは、決してフランスに特有なことではなく、
まったく人間に固有なことである」
pp.373-377:P=c/r の原則に従えば、ミシシッピ計画の元本価値は存在していた
紙幣が人気になり、rが低下したことによりP(会社の資産価値)が増え、
rが2%から2.825%に上昇したことによりPが下落した(p.377)
pp.395-397:オランダのアムステルダムでは、王宮前のダム(Dam)広場に10-11時に
為替業者、両替商などが集まり取引をする
これにより預金者は間接的に鋳貨を得る(このことにより信用膨張を防ぐ)
p.402:大震災への言及(リスボン大震災のような震災がオランダに起きるリスク)
p.402:公信用、資産の流動化を中心とするイングランド銀行と、貨幣価値安定を主眼とする
アムステルダム、ハンブルグ、ヴェネツィア、ジェノヴァ等の銀行の相違
p.412:外国為替相場は英仏の標準金の価格比によって決まる(為替レートの変動は8.9%の範囲)
pp.415-416:英仏蘭独の重量衡(オンスはカール大帝の旧ローマ・ポンドを起源とする)
賢明な国家を自認するのであれば、重さの単位を欧州で統一すべき
統一度量衡の草案が彼の死後出版される
A plan for introducing an uniformity of weights and measures within the limits
of the British Empire 資料
p.418:スペインとポルトガルは商品貿易ではなく有り余る金銀を輸入の支払いにつかい、また
キリスト教の慈善に基づく貧者救済があったために、下級層の勤労意欲が高まらなかった
p.419:ヘンリー7世(在位1485−1509)は使用条例を発布し、鋳貨の輸出を禁じた(輸入品の
代わりにイングランドの羊毛と穀物を輸出することを義務づけ、国内産業を保護した)
p.440:「国家の富と力は、しまい込まれている金銀によって評価されるのではなくて、流通の
中に見いだされるものによって、すなわち国民の勤労によって、当然のことながら評価
されはじめた」
p.448:消費税は価格を押し下げる効果を持つ
p.483:年の終わりに徴税請負人が帳簿を焼き捨てる習慣を、フルーリ枢機卿は止めさせた
pp.493-497:1759年に就任した仏・蔵相ドゥ・シルエット(de Silhouette)による歳出削減案
豪華な肖像画を簡素な横顔(シルエット)に変えさせた
シルエット氏の増税案を高等法院が拒絶、流通貨幣を増やし、景気回復による自然増収
を主張した。スチュアートは、これがイングランド内戦のようなものをフランスにもた
らすと危惧(フランス革命を予言)
pp.499-511:七年戦争の臨時費は総額11億リーブル(5千万ポンド)
p.511:フランスのように紙券流通が一般化していない国では戦時に鋳貨不足となる
戦費支払いのために鋳貨が海外へ流出する
戦後は流出が止まり、鋳貨が国内へ回帰するため、徴税の負担感も和らぐ
p.522:他の事情が等しければ
pp.525-526:国債の効果(8項目)
p.532:「交易の親であり勤労の母でもある信頼」
p.537:ロンドンシティを経由する貿易額は税収を超えるので、国家は戦略的債務
不履行をおこしてはならない
p.549:貨幣階級(国債保有者)は地主より質素に暮らす
p.557:元本の賦課は租税ではなく貢納
p.573:賃金を決めるのは生活費ではなく、労働と製品の価格
p.574:「自然の手」(不作)と「人間の手」(税)が人を勤勉にする(p.576も)
p.600:ある種の課税乗数(貨幣が繰り返し購買に支払われることで得られる税額)
納税が繰り返されることにより流通貨幣は枯渇する
p.611:ドイツのプロテスタント貴族の没落
p.612:「優れた内科医は決して手荒な処方によって病気を攻めることはしない」
p.615:ジョージ・ウェイドによるスコットランドの公共事業
p.617:「有能な為政者の手」
第5編第11章:タイユを払うことを拒絶するフランス貴族に税を支払わせる手段としての
10分の1税はうまく機能しない(地代にではなく生産額に課されるため)
第5編第12章:理想的な税としての消費税
p.663:国内信用を安定させるものは銀行が支払い義務を負う鋳貨、その鋳貨を確保する
ための経常収支の差額
p.670:イングランド銀行の銀行券はロンドン周辺でのみ流通している
勤労を促進するために、イングランド銀行のような銀行を地方にも設立すべき
p.671:ローのシステムは短期間であったものの、退蔵されていた鋳貨を流通に引き戻し
景気の回復に役立った
p.672:利払いが滞り安くなっていたフランス国債を株式に交換したローの会社は奇跡とされ
ローは救世主、手品師と評された
1768 Young, Arthur, The farmer's Letters to the People of England 資料
当時の労働者の給与と生活費を比べ、物価が必ずしも高くないことを指摘
実質賃金の原型
(ジェームズ・スチュアート『経済の原理』p.520, 第17章への注 22))
1768 Young, Arthur, A Six Weeks Tour, through the Southern Counties of England and Wales
当時の賃金や生計費を伝える旅行記 資料
(ジェームズ・スチュアート『経済の原理』p.439)
1768 ウィザースプーン、渡米
スコットランド教会民衆派のウィザースプーンは、カレッジ・オブ・ニュージャージー
(現プリンストン大学)の学長としてジェームズ・マディソンら黎明期の知識人を育成
ウィザースプーンはアメリカ独立宣言署名者の1人
(梅津順一『アダム・スミスとスコットランド教会』p.41)
1768 波・バール連合結成
露・エカテリーナ2世と普・フリードリッヒ2世の傀儡として王位についたスタニスワフ・
アウグスト・ポニャトフスキーに反発した反露・カトリック派が結成
内乱状態に陥り、周辺国の介入を招く(近年のウクライナ情勢に類似?)
ヴォルテール:「弟子」であるエカテリーナとフリードリッヒを擁護
ダランベール:フランスの国益に反すると反対
A. スミス:国際政治の現実と冷徹に受け止め、「平和」が英波貿易拡大に資したと評価
(竹本『『国富論』を読む ―ヴィジョンと現実―』pp.54-56, pp.68-70)
1768 露土戦争(〜1774)
ポーランドはロシアからの強烈な圧力をかわすためにトルコとフランスに支援を求める
ロシアはこれに反発、トルコとの戦端を開く
ヴォルテール:専制国のトルコを啓蒙君主エカテリーナ率いるロシアが潰すべきだ
ルソー:ポーランドは小麦を増産して欧州における独占的供給者の地位を確保すべきだ
『ポーランド王への回答』→1771『ポーランド統治論』→1775『コルシカ統治論』
(竹本『『国富論』を読む ―ヴィジョンと現実―』pp.70-75) 資料
1768 仏・飢饉
ガリアーニは、経済学説がどのような場合にも通用するとした重農主義者を批判
1769 仏・東インド会社解散
ネッケルの再建虚しく、国の計画どおりに廃止
1769 英・ワットが蒸気機関を考案
1769 ブラックストン『イングランド法注釈』
https://avalon.law.yale.edu/subject_menus/blackstone.asp
1765年から全4巻を発刊
それまで法曹学院に封印されていた法学をひろく世間(オックスフォード大学)に
貴族とジェントルマンに向けて講義された、国家を保守するための法
わずか12歳でオックスフォード大学に入学したベンサムはブラックストンから
直接教えを受けるも、コモンローの複雑さと保守的な思想に反発
フィルマーに近い(法は神意にしたがう)
これはノルマンの征服により裁判所が民事と宗教に分離されたことに対する反感からか
英国でコモン・ローと財産権が強調されるのは、培ってきた法体系がノルマンの征服に
より破壊されたためか(タタールのくびきならぬ、ノルマンのくびき)
ヘンリー8世のイングランド国教会設立により宗教的自由が、革命後のチャールズ2世から
名誉革命に至る時代に市民的・政治的自由を取り戻すことができた
ロック的な社会契約説には批判的、モンテスキュー的な三権分立の流れ
英国の国制は君主制(力)、貴族制(英知)、民主制(中庸)を兼ね備えたよいもの
独立した意思は財産権が確立した人に存在するという意味での制限選挙
(小畑『ベンサムとイングランド国制』p.9, p.11, p.12, p.25, p.27, p.31, pp.32-33, p.36, p.39)
1769? チュルゴー『価値と貨幣』(未完)✅
適性、卓越性、希少性にもとづく効用で順位決め 資料
機会費用、限界代替率についても言及あり
現実貨幣(金銀銅)と計算貨幣が共存する複雑な貨幣制度を描写
→ケインズ『貨幣論』へ流れ込む
1770 コンドルセ、ヴォルテールとチュルゴーに出会う
ダランベールのイタリア旅行に随行の途上、ジュネーヴを眼前に臨む小村にて
ヴォルテールが終の住処としたこの地は、フェルネー・ヴォルテールと名付けられる
(丸山『ワルラスの肖像』pp.102-103)
これを機に中央政界に進出したコンドルセは社会数学を志す
数学者には共産主義の香りがする
1770 仏・穀物自由化法の取り止め
12月23日、財務総監テレー師による
チュルゴーは自由化法の維持をテレー師に訴えるが…
(ネッケル『穀物立法と穀物取引について』p.159)
穀物自由化法にはアクセルとブレーキを同時に踏むようなちぐはぐさがある
(ネッケル『穀物立法と穀物取引について』第3部第8章)
前年、フランスで穀物が不作に陥り、それに伴う買いだめ、売り渋りから社会不安が
生じた、その経験を踏まえ、無秩序な自由化に待ったをかけた
「神の御手」を信じていたガリアーニは現実をみて、エコノミストに批判的になる
ディドロも転向したガリアーニを擁護する
(竹本『『国富論』を読む ―ヴィジョンと現実―』pp.45-47)
財務総監テレー師、宰相モープー、外務卿デギュイヨン公による三頭政治
この政治体制がガリアーニ『小麦取引関する対話』の出版を奇跡的に可能にした
(ネッケル『穀物立法と穀物取引について』解説, p.335)
1770 英・紡績機の開発
1770 米・ボストン虐殺事件
1770 印・ベンガル大飢饉
ベンガル人口の3分の1が死亡と伝えられる
穀物の買い占め、売り惜しみが横行したのも死者を増やした理由、その背景に
東インド会社の独占体制があるとしてアダム・スミスは批判する
(竹本『『国富論』を読む ―ヴィジョンと現実―』p.51)
1771 ピント『流通と信用に関する概論』
蘭の余剰資金を公共が活用することで経済を活性化
豊かな国の経済学(ケインズ経済学)の原型
1771〜1774 オルテス『国民経済学』 資料
1772 第1回ポーランド分割
普フリードリッヒ2世、露エカテリーナ2世、墺ヨーゼフ2世による
ポーランド=ザクセン同盟の命脈絶える
ポーランド産小麦の輸出が急減、北欧中心に小麦不足が生じる
(竹本『『国富論』を読む ―ヴィジョンと現実―』p.54)
1772 スコットランド・エア銀行の破綻
ジェームズ・スチュアート『経済の原理』下, p.257によれば、1760年代にすでに
スコットランドの金融システムは傷んでいた
スミス『国富論』の出版遅れる
スミス、ヒュームは信用貨幣(ジェームズ・スチュアート)への不信を抱く 資料
同年、英・東インド会社の株が暴落
蘭領南米スリナム植民地の債務不履行をきっかけとして
臨時に、蘭・信用維持基金を設立(短期貸しの準備銀行)
蘭に中央銀行がなかったのは致命的(⇄イングランド銀行)
オランダ中央銀行の設立は1814年、遅きに失した
構造的に今の日本に似ている(国内投資先に乏しく、海外投資)
1772 英・買占禁止法の撤廃
ジョージ3世第12年法律71号
バークによる提案で先買い、買占め、仲買の規制撤廃
ただし、コモン・ローでは規制が残る
アダム・スミスは集中市場による取引の効率より、営業の自由と分業の効率を重視して、
また引き続く内乱化する小麦騒動を憂いてこの法律を支持した
(アダム・スミス著, 山岡訳『国富論』下, pp.114-116)
(竹本『『国富論』を読む ―ヴィジョンと現実―』pp.83-87)
1772 英・金貨流出の混乱
イングランド銀行理事は、鋳貨の国外流出を禁止する法律を施行するように圧力をかける
国外流出の原因は、輸入超過ではなく量目未満の含有量によって生じる投機機会だとして
申し出は却下される。その後、鋳貨贋造の罪で処刑される者が多く出た(ジェームズ・
スチュアート『経済の原理』下, p.112)
1772 ジェームズ・スチュアート『ベンガルの鋳貨の現状に適用された貨幣の諸原理』
英・東インド会社の不手際により混乱していた印・ベンガル地域の鋳貨問題に取り組む
『インドの通貨と金融』が処女作であったケインズと相似形
1773 露・プガチョフの乱
プガチョフ、ピョートル3世を自称し蜂起
露土戦争で疲弊した民衆の心を一時捉える
エカテリーナ2世の啓蒙路線、挫折
1773 英・東インド会社にアヘンの独占販売権
中国茶とインドアヘンの交換で貿易赤字削減
アヘン戦争の導火線に
1773 英・鋳貨法
ジョージ3世の法令 資料
An act for the better preventing the counterfeiting, clipping, and other diminishing the gold coin
of this Kingdom
摩耗で重さが減った鋳貨は各自鋳潰すことを命じたものだが、「どの程度の摩耗」を問題に
すべきかで混乱が広がった。それを収集すべく、イングランド銀行が鋳造年と摩耗の度合いに
応じた受取拒否基準を公表するも、その度合いの加減まで故意に鋳貨が削られるなど、混乱に
拍車がかかった。摩耗した金貨の信用が急落し、紙幣流通のきっかけとなった。紙幣への交換
には5%の出目がつき、イングランド銀行は125,000ポンドの利益を得た。
悪貨を排除した後は、為替相場がポンド高に振れた。(為替レートは、鋳貨に内在する金属の
重量比で決まる)
(ジェームズ・スチュアート『経済の原理』下, pp.36-38, pp.112-117)
1773 米・ボストン茶会事件
茶の対米輸出独占権を定めた茶法に反発したボストン市民は、東インド会社の船に積まれて
いた茶葉を海に投げ捨てる
大英帝国はボストン港閉鎖、ボストン市民1万5千人が飢餓状態に
1773 ネッケル『コルベール讚』
庶民目線で重農主義批判、アカデミー・フランセーズからメダルを授与される
フィジオクラットに対して「現実を見て、常識で判断せよ」と
意識高い系と現実主義者
(ネッケル『穀物立法と穀物取引について』解説, p.339)
1774 杉田玄白他『解体新書』
1774 蘭・アムステルダムで投資信託販売
欧州諸国の国債とプランテーションへの貸付→失敗
1774 米・アメリカ植民地で第1回大陸会議開催
大英帝国との通商を断絶
1774 ルイ16世即位
財務総監は47歳のジャック・チュルゴー
ヴォルテールはチュルゴーに対して賞賛と来るべき不幸の予言
(中川辰洋『チュルゴーとアダム・スミス』p.70の脚注43)
チュルゴーは不評のため取り止められた穀物自由化法を再度持ち出し、
民衆の気持ちを逆撫でしたため暴動に発展→1775年の小麦粉戦争を参照
(ネッケル『穀物立法と穀物取引について』p.284の第13章への巻末訳註)
これをみたアダム・スミスはフィジオクラットを批判(『国富論』第4編第9章)
1775 米・レキシントンの戦い
「世界にこだまする銃声」(エマソン)
第2回大陸会議でワシントンが司令官に選出
パトリック・ヘンリー「我に自由を与えよ、しからずんば死を」
トマス・ペイン、独立戦争に従軍
仏・大陸介入により財政悪化
1775 ネッケル『穀物立法と穀物取引について』✅
スイス・ジュネーブ出身のネッケルは、テュルソン・ネッケル銀行を24歳で設立、七年戦争
のフランス敗北のニュースやカナダ植民地の手形の安値買い占めなどでフランス最大規模の
銀行に押し上げる、その後、チュルゴーの後44歳でフランス財務長官に(プロテスタンの
外国人であったために国務顧問会議には出席できず)
夫人は聖域という名のサロンを主催、ディドロ、グリム、ヒューム、ギボン、ガリアーニ
らが集う(解説,p.362)
フランス国内に政治基盤がなく、自ら第三身分であったため、世論(第三身分の声)を
力とする政治姿勢(ポピュリスト:pp.275-276巻末訳註3)、また中庸を貫く常識人
スイスの暴力的直接民主制を目の当たりにした経験から、イギリス間接民主制を理解
当時のフランスでは小麦の偏在が起きており、過剰な地域では値崩れ、不足の地域では
餓死者が出ていた(ランゲ『パンと小麦について』)→解説, p.342
小麦輸出の自由化を主張するチュルゴーに対し、ネッケルは小麦の輸出禁止を主張
小麦の禁輸→国内の小麦価格低落→生計費とリンクした賃金抑制→商工業の奨励
輸出すべきは、小麦生産のための土地を占有しなくて済む工業製品
人口増加をもたらす食料品価格の抑制には、十分な広さの小麦畑を確保する必要
p.3「穀物ほど深遠で幅広い熟考の対象を知性に提供するような問題はない」
p.16:社会が対立に満ちているからといって、未開生活に戻ることはできない
p.20:10年前から、毎年5,000万リーブルの金属がフランスに蓄積されてきた
p.24:国の富は金属ではなく、国民の満足度で測られるべき
第1部第6章:マルサス『人口論』の原型
p.33:ここでのフランスの人口推計は、山岡訳『国富論』下, p.500に引用されている
第1部第9章:ジェームズ・スチュアート『経済の原理』を踏襲(国内農業と国内商工業の
スパイラル的拡大を奨励、小麦の輸出は非推奨⇄フィジオクラット)
第1部第11章:巻末訳註に、ネッケルは『コルベール讚』でアカデミー・フランセーズから
メダルを授与された、とある
第1部第12章:多くの国が小麦の輸出を禁止あるいは制限している
p.52:小麦のわずかな輸出が品薄感を演出し、価格暴騰
p.64:実質賃金低下による投資喚起
pp.70-71:消費者物価上昇による「意外のもうけ」と固定給労働者の実質賃金低下
のメカニズム
p.84:「運搬可能な製品ではなく、労働者がその場にいることを求める用役」サービス
p.89:輸入自由化は消費者の利益だとする推論には根拠がないと批判
p.95:ルイ16世を擁護(社会を調和させるためのさまざまな取り組みをしているとして)
p.107:ケネーの「明証性」(フィジオクラット的啓蒙)を批判
p.109:英国より休暇が多いフランスでは、生活費に対する賃金の比率は高くあるべき
「三日分の労働で四日分の食物を埋め合わせなければならない」
p.109:フランスの人口密度(1平方リューあたり900人弱):高知県室戸市くらい
p.110:政治参加できる英国の庶民の関心はひろいが、政治参加の道が事実上閉ざされ
ているフランスの庶民はパンの価格にしか関心が向かない
p.111:「国王は臣民に対して生計の義務を負わないということ」
トゥールーズ高等法院の特別決裁前文
p.127:「自由は商業の魂」もほどほどに、富者の奢侈は大勢に影響ないので
レッセ・フェール
p.136:商人の役割(安値で買い、高値で売ることで需給をバランスさせる)
p.139:第二部第三章以降、商人の中間マージンが小売価格を引き上げる
p.153:独占商人は「慈悲深い市民」か「危険な投機家」か
pp.159-160:不十分な情報に基づく推論の危うさ
pp.174-175:イングランドは貿易特権、輸入関税、制海権、植民地、貨幣制度で仏を凌駕
p.177:人口(蘭100万人、英600万人、仏2,400万人)が異なるため、英国のような
輸出奨励金はフランスでは機能しない:人口が少ない英蘭は困ったときに輸入で
まかなえるし、英は植民地から小麦の輸入ができる。しかし、人口大国のフランス
には頼る先がない。よって日頃から短期的なもうけではなく、食料の安定確保に
努めるべきだとして
pp.183-184:1,000人が農場に穀物を買いに出向くより、農家が1,000人分の穀物を市場に
売りに行くほうが輸送費用が安く済む
p.198:フランスのインド会社は国益に資した(貿易商人の自由参入は、輸入品の値段を
高くし、輸出品の値段を引き下げる⇄ディドロらの自由貿易論)
p.201:輸入奨励金は穀物のループ(穀物を繰り返し持ち込むたびに奨励金を得る)に悪用
されるとして批判
p.215:極端な思想に基づく政策ではなく、中庸を目指すべき
「すべての学問とすべての計画のなかに山師がいる」
フィジオクラットのケネーには批判的
pp.232-233:小麦は7月に収穫、よって小麦不足は2月から6月にかけて生じる
対策として、小麦が安値で売られる2月1日付で、パン屋に備蓄を勧める
これにより季節要因による小麦の価格変動が抑えられる
安い1月末までにパン屋が購入することで値段が上がり
高くなる2月以降はパン屋が多く買わなくて済むので価格の高騰を抑えられる
収穫1か月前の6月から、備蓄小麦の解放を進めれば在庫費用も抑えられる
p.236:「不確実性と偶然」が商取引の原動力だが、別の方策で不確実性と偶然という
社会の不安要素を和らげられるのであればそれに越したことはない
商業至上主義は、医者を大切にするあまり食事療法で医者いらずを否定するようなもの
p.238:「商業の自由がすべての大商人の特別な祈願であれば、そこから経済教が作られる」
p.246:社会の規則は自然科学の「保存則」ではない、社会科学と自然科学の違い⇄ケネー
訳者によれば、ケネーは「マールブランシュ主義者」と言われる
1775 仏・小麦粉戦争
小麦の凶作と穀物問屋の売り惜しみによって価格急騰、各地で暴動
ネッケル『穀物立法と穀物取引について』刊行の数日後、4月28日から小麦自由化実施に
よって小麦市場は大混乱に陥り、暴動が起きた
チュルゴーは廃止したばかりの市場巡察隊を復活させてパリの治安維持にあたらせた
これによりチュルゴーの名声は地に堕ち、ネッケルの名声が上がった
(ネッケル「穀物立法と穀物取引について』解説, p.346)
5月にはヴェルサイユ宮殿に暴徒がなだれ込んだが、財務総監チュルゴーは強権を発動し
これを鎮圧するも、強権と特権廃止が反発を生み、翌年失脚
(永田清訳註『富に関する省察』解題)
1776 仏・チュルゴー失脚
「なぜ変える。われわれはこんなにうまくいっているのに!」
シィエス『第三身分とは何か』pp.83-84
同業組合を廃止も、失脚後に組合復活(ルフェーヴル『1789年』p.92)
5月11日に辞任、後任のオジエ・ド・クリュニーは10月18日に病没、その後にはチュルゴー
の自由化政策に批判的なネッケルが1776年10月22日に国庫総督官に、翌1777年6月29日に
財務総監督官に就任 (ネッケル『穀物立法と穀物取引について』解説, p.347)
財務総監の役職だが、カトリック教国フランスでプロテスタントが役職に就いたため長官
アメリカ独立戦争の支援金調達に奔走、また負担であった徴税請負人制度にメスを入れる
1781年2月には、初の財政報告書を公表
1776 Anderson, James, An Inquiry into the Nature of the Corn Laws, with a view to the Corn Bill
proposed for Scotland
ジェヴォンズ『経済学の理論』第6章によれば、この書がはじめて地代論に言及
1776 アダム・スミス『国富論』✅
スミスの後見人バックルー公爵のメインバンクであるエア銀行が破綻、出版が遅れる
(中川辰洋『チュルゴーとアダム・スミス』p.63)
Ayr Bankは、スコットランドのAyrを拠点とする銀行
ある種の連鎖倒産
https://www.jstor.org/stable/2598492
https://www.cato.org/blog/lessons-ayr-bank-failure
https://www.research.ed.ac.uk/en/publications/the-winding-up-of-the-ayr-bank-1772-1827
9年前に刊行されたジェームズ・スチュアート『経済の原理』に燃やす密かな対抗心
(ジェームズ・スチュアート『経済の原理』訳者解説p.621)
ジェームズ・スチュアートは勤労を、アダム・スミスは節約を重視(第2編第3章)
1776 ペイン『コモン・センス』✅
王政を擁護したホッブズとの対比(p.25)
英国王に無許可で米法を制定できなかった
1776 プライス『市民的自由の本質』
議会派としてアメリカ独立戦争を擁護、王を批判
メソジスト派のウェズリはこれに反論
1776 イルミナティ結成
南ドイツのバイエルンにてヴァイスハウプトが結成
ディドロ、ルソーらの啓蒙思想の影響を受けて
無政府主義的ユートピアを目指す主張は危険視され1785年に禁止
ミネルヴァのフクロウ(知恵の象徴)
1776 米・独立宣言 資料
ジェファソンらが起草(ジョン・ロックの思想)
あまりに英国仕込みな独立記念日のお祝い
https://twitter.com/BritishArmy/status/1279400254065053697
1778 仏・地方議会創設の動き
ベリー州(現シェール県)ブルージュを皮切りに、オート・ギュイエンヌ、
ムーラン徴税区に地方議会創設(それまで地方議会はなかった?)
(ネッケル『穀物立法と穀物取引について』p.356)
1778 仏米同盟
フランス軍もアメリカ独立戦争に参加
ヴァンデ戦争の旗手、シャレットも従軍
(森山『ヴァンデ戦争』p.136)
1780 第4次英蘭戦争
蘭が米側についたことをきっかけ(英は孤立)
蘭は米債務の多くを引き受けるが、これが蘭没落の原因に
1781 ネッケル『財政報告書』
2月19日、3リーブルで発売、初日に3,000部を売り、毎週1万部の増刷がかかるベスト
セラーに、印税は病院建設などの慈善事業に充てられるとの噂
フランス財政状況を公衆に周知することで、財政民主主義の機運を高める
(ネッケル『穀物立法と穀物取引について』解説, pp.362-366)
1781 墺・農奴解放令
啓蒙君主・ヨーゼフ2世
1782 愛・グラタン議会が自治獲得
アメリカ独立戦争で弱る英に自治権を認めさせる
(小畑『ベンサムとイングランド国制』p.143)
1783 浅間山の大噴火 天明の大飢饉に
『市誌研究ながの』の6号を参照
https://www.city.nagano.nagano.jp/kobunsho/p004889.html
https://adeac.jp/nagano-city/text-list/d100040/ht002440
1783 アイスランド・ラキ火山、グリムスヴォトン火山の噴火
アイスランド国民の2割ほどが死亡したと伝えられる
英でも降灰が観測されたとのこと(sand summer)
火山性のガスにより多数の死者
冷害が世界的な不況をもたらす?
1783 印・大飢饉
時のヴェンガル総督ヘイスティングスは小麦取引に規制をかけることで飢饉を
防ごうとしたが、バークはアダム・スミスの『国富論』を根拠に不介入主義を貫く
べきだとして弾劾を試みる
1783 パリ条約・ヴェルサイユ条約
パリ条約:アメリカ独立承認
ヴェルサイユ条約:英が植民地を失う
1783 仏・ベンジャミン・フランクリンのためのメダル
アメリカ独立を記念してパリ造幣局で鋳造 資料
フランスの象徴自由の女神とアメリカの象徴ヘラクレスをモチーフに
後のフランス彫刻師長オギュスト・デュプレがデザイン
サラトガの戦い(1777年10月17日)とヨークタウンの戦い(1781年10月19日)
の日付が刻まれる
カタジロワシを象ったアメリカのマークは神聖ローマ帝国カール5世の象徴
(ハント『フランス革命の政治文化』pp.180-181)
1784 カント『啓蒙とは何か』✅
この論考を著した9月30日、9月13日付『ビュッシング週報』にメンデルスゾーン氏の
「啓蒙とは何か」という論考の存在を知ったとカントは記している。訳者によれば、
『ベルリン月報』9月号にメンデルスゾーン氏の論考が、11月号にカントの論考が掲載
された。(モーゼス・メンデルスゾーンはライプニッの哲学の影響を受けている)
p.10:「啓蒙とは何か。それは人間が、みずから招いた未成年の状態から抜けでることだ。
未成年の状態とは、他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことができないという
ことである。人間が未成年の状態にあるのは、理性がないからではなく、他人の指示を
仰がないと、自分の理性を使う決意も勇気ももてないからなのだ」
p.11:「後見人とやらは、飼っている家畜たちを愚かな者にする。そして家畜たちを歩行器の
うちにとじこめておき、この穏やかな家畜たちが外にでることなど考えもしないよう
に、細心に配慮しておく。そして家畜がひとりでに外にでようとしたら、とても危険な
ことになると脅かしておくのだ」
p.12:「未成年状態はあまりに楽なので、自分で理性を行使することなど、とてもできない
のだ。それに人々は、理性を使う訓練すら、うけていない。そして人々をつねにこう
した未成年の状態においておくために、さまざまな法規や決まりごとが設けられている」
p.14:「革命を起こしても、ほんとうの意味で公衆の考え方を革新することはできないのだ。
新たな先入観が生まれて、これが古い先入観ともども、大衆をひきまわす手綱として使
われることになるだけなのだ」
p.15:「理性の公的な利用」をする学者と「理性の私的な利用」が厳しく禁じられている
実務家
p.19:「人間性の根本的な規定は、啓蒙を進めることにあるのである」
p.21:「臣民がみずからの魂の救済のために必要と考えていることは、君主にはまったく
かかわりのないことであり、これは臣民に委ねておけばよいのである」
p.23:「この時代は啓蒙の時代であり、フリードリヒ大王の世紀なのである」
p.25:「好きなだけ、何ごとについてでも議論せよ、ただし服従せよ」
p.26:「統治者は、もはや機械ではなくなった人間を、その威厳にふさわしく処遇すること
こそが、みずからにも有益であることを理解するようになるのである」
1785 コンドルセ『多数決に基づく決定の蓋然性へ解析学を適用する試み』
1786 イーデン条約
英仏の通商条約、発効は1788年
アダム・スミスに感化された小ピット
フランスの製造業は打撃を受ける
1786 英・自動織機の開発
1787 米・合衆国憲法制定
1787 墺土戦争
1787 蘭・革命の機運
プロイセンの支援を得て騒動を鎮圧
1787 仏・全国地方議会の創設
1787 仏・ヴェルサイユ勅令
11月、フォンテーヌブローの勅令を廃止
信教の自由が復活
1787 仏・名士会の開催とその挫折
高位聖職者14名、大領主36名、高等法院メンバー33名、地方総監と国務顧問官13名、
州三部会、都市自治体のメンバー37名から構成
2月22日に1627年以来の開催も、増税を含む「構造の改革」に対する反発が強く、
4月8日に財務総監カロンヌは罷免、その後ブリエンヌが引き継ぐも5月25日に解散
4月17日、ルイ14世はこのままではオルレアン公の下の官僚独裁になってしまうと
意見表明(名士会で何を議論しようとも、高等法院が拒否権を発動してしまう)
カロンヌは8月、英国へ亡命
5月8日、国璽尚書ラモワニョンは高等法院と州の権限を大幅に制限する王令を登録
6月、これに反発する各地で騒乱発生
7月5日、全国三部会の招集を約束
8月8日、招集日を1789年5月1日とした
8月24日、ブリエンヌは辞任、その後をネッケルが継ぐ
10月13日、年金の支払いを一部停止(ルフェーヴル『1789年』 p.60)
事実上の財政破綻を受けて、ラ・ファイエットは1614年以来の全国三部会開催要求
11月19日、ルイ16世の下で親臨会議を開いて公債発行の決議を目論むも、高等法院
とオルレアン公の反対に遭う、オルレアン公は追放される
(ルフェーヴル『1789年』 pp.66-73)
1788 仏・ネッケル、財務総監に
7月5日、ルイ16世は全国三部会の開催を約束
これを受けて開催方法についての議論が巻き起こり、出版は事実上の自由化
(ルフェーヴル『1789年』 p.108)
7月13日にフランスで雹が降り、小麦の凶作が予想されたため輸出を禁止
外国から小麦の大量買い付けを断行も、パンの価格は高騰
これに対し、葡萄は豊作が続き値崩れしていた(ルフェーヴル『1789年』p.182)
多くの葡萄農家は収入が減り、生活費が増えた
王室に倹約を訴えるなど大胆な改革の反動で1781年に罷免されたネッケルは
国家破産を受けて8月25日に再登板、国務顧問会議への出席権を得る
ブリエンヌ宰相辞任後に自ら宰相となり、私財240万リーブルを国庫投入
全国三部会の招集推進
9月23日、高等法院は翌年開催予定の三部会の議決方式を身分別とすると定めると
高等法院に対する批判が殺到(第一・第二身分で2票、第三身分で1票なら、第三身分
に勝ち目はない)→ブルジョアジーは愛国派・国民派を形成
11月6日、名士会が開催されるも、第三身分の定数倍増は否決
12月27日、国務顧問会議にて、第三身分の定数を第一・第二身分の定数の合計と等しくする
旨決議(第三身分の議員倍増が決議されるも、議決方式を身分別にするか頭数制にするか
には触れない)→議決方式は全国三部会の紛糾要因に
(ルフェーヴル『1789年』 pp.115-116)
1788 カント『実践理性批判』
1788 ベンサム、フランス三部会に関する複数のパンフレット執筆
「1788年に名士会に提出された案件についての、イングランド人からミラボー伯爵への手紙」
『フランス』に所収のほか、『三部会構成についてのイングランド人の考察』、
『「ブルターニュ貴族の決定」と題する文書に関するイングランド人の考察』などを執筆
貴族を重視するモンテスキューを批判、三部会招集を後押し、このほかにもミラボーやモルレ
に書簡を送るなど精力的に活動、成人の10%ほどを有権者とする制限選挙を提案
革命の年1789年にも『権力の分割』『フランス憲法典草案』を著す
『草案』では女性参政権を含む事実上の普通選挙を提唱
1791年には、書簡の中でバークに対する賛否両論の心中を吐露
(小畑『ベンサムとイングランド国制』pp.96-101, p.113, p.124, p.127, p.140)
1789 ベンサム『道徳および立法の諸原理序説』✅
訳書の冒頭に1780年と印字された扉の写真が掲げられているが、訳者解説には1780年頃執筆、
1789年初版とのこと(アメリカ独立宣言後からフランス革命へという時代の空気を反映)
小畑『ベンサムとイングランド国制』p.49にも執筆年と刊行年に関する同様の指摘
序説であり、また未完の書でもある
功利主義はプラトン『対話篇 プルタゴラス』の快楽計算を源流とする
社会厚生の「メートル法」ともいえる功利を提唱、1792年に革命フランス政府から名誉市民
の称号を得る
ヒューム『イングランド史』から歴史的事実を多く引用
p.27:「自然は人間を苦痛と快という二人の至高の主人(原理)によって支配させている」
p.30:「共同体全般に関して、功利性の原理に適う(これを簡略に「功利性に適う」と呼ぼう)
と言われる行為とは、共同体の幸福を減少させるのではなく、増大させる傾向を持つ
行為のことである」
p.40:「最大多数の最大幸福」
王やその寵臣たちの幸福ではなく、"最大多数の"最大幸福が功利性の原理
庶民(第三身分)の幸せもmatter
第2章:期待にもとづく哲学的禁欲主義、恐怖にもとづく宗教的禁欲主義、感情にもとづく
共感主義をともに批判、功利主義が参照すべき規範であると主張
第3章:快と苦痛の4つの源泉とは物理的、政治的、道徳的、そして宗教的源泉である
これらの源泉が行為に影響を与えるとき、それをサンクションという
第4章:快とは善、利益、利便、便宜、恩恵、報酬であり、苦痛とは悪、害悪、迷惑、不利益、
損失、不幸のことである(p.95)
第5章:「期待の快」とは、将来の時点についての確信(p.106)
第6章:政府の役割は国民に「希望と恐怖の方向を示すこと」(p.155)
イデオシンクラシーの語源について(p.168の原注(13))
第8章:意図について、功利主義は帰結主義だというのはあまりに短絡的
刑法を論じたベンサムが意図について触れないはずはない
1789 シィエス『第三身分とは何か』✅
ラ・ロシュフーコー・リアンクール公、ラ・ファイエット、コンドルセ侯爵、ミラボー、
タレーランとともに三十人委員会のメンバー、オルレアン公フィリップと近かった
(ルフェーヴル『1789年』p.107)
シィエスはアダム・スミスの『国富論』を通読
貴族の免税特権を批判、それを手放すという貴族の「気高い」申し出も批判
(特権温存につながるとして)
英国に範を取ることに批判的(三身分が分離しているとして)
モンテスキューが擁護した中間団体としての貴族制にも反対
世論を重視(立法の基盤として)
第一身分:聖職者(領主のような大貴族と、庶民的な司祭)
第二身分:長兄以外は特権の実質がなく没落傾向、潜在的不満層
第三身分:大半は農民だが、商工業で財を成したいわゆるブルジョアも含む
それぞれの身分内でも立場や考え方が大きく異なった
(ルフェーヴル『1789年』pp.37-50)
州の三部会は第一・第二身分主導で機能しており高等法院と呉越同舟、王権に対抗
(ルフェーヴル『1789年』p.57)
1789年7月14日のバスティーユ監獄襲撃以降は、過激化する民衆と距離を置く
やがて、ブリュメール18日のクーデターの黒幕に
(ルフェーヴル『1789年』p.131)
1789 仏・大革命(〜1799)
「上からの改革」が民衆に火をつけた激動の10年
パレート『エリートの周流 ―社会学の理論と応用―』pp.64-66には、廷臣がルイ16世
の「恩寵」に群がり、王もそれを気前よく恩寵を与えていた様子が描かれている
(pp.134-135の原注も参照)
「暴動か?」「いえ、暴動ではなく革命です」ルイ16世と側近のやりとり
「特権階級がはじめて、平民が仕上げた」(by シャトーブリアン)
ブレーキの壊れたダンプカーが下り坂を暴走するような状況
ソ連のペレストロイカ(ゴルバチョフ)を想起
この時期、出版物、演劇などのコミュニケーションが爆発的に増えた
(ハント『フランス革命の政治文化』p.63)
「新しい秩序は基礎において合理的であり、範囲において国民的であるべきだ」
(ハント『フランス革命の政治文化』p.339)
ハンチントン『変革期社会における政治秩序』にフランス革命の分析がある
経済社会の発展に政治体制が一挙に追いつくジャンプとしての革命
啓蒙思想家と地に足のついた地域住民の温度差については森山『ヴァンデ戦争』pp.58-59
ピューリタン革命(1649年)から140年遅れたのは、フロンドの乱で法服貴族が王側につい
たことと、フランスが欧州随一の豊かな強国であったからか
推定人口2,300万人のうち、聖職者10万人、貴族40万人以下、パリの人口は50-60万人
全人口の半数近い1,000万人が貧困層、300万人は物乞いに落ちていた
全人口の75%以上が農民、教会への十分の一税、国王への納税、領主への使役、物納、金納
など、多くの負担を引き受けていた(ルフェーブル『1789年』第4部)
塩税、内国関税、汚職も社会を著しく混乱させていた(森山『ヴァンデ戦争』pp.47-54)
1726-41年と1785-89年を比べると、物価は65%上昇したが、賃金は22%しか上昇せず、
小作料は98上昇した(第三身分に降りた資源再配分)
(ルフェーブル『1789年』p.37, p.174, p.188, p.219)
1月24日、選挙規則の公布、さまざまな例外を含む規則(ルフェーブル『1789年』p.119)
現在のアメリカ大統領選挙の選挙人制度に近い規則
2月-3月、各地で選挙実施、当選者は比較的穏健な主張をするも、ネッケルは第三身分の
象徴として、宮廷と第一・第二身分から警戒される
5月5日、ヴェルサイユ宮殿大ホールにて三部会開催、ネッケルが開催演説
ネッケルは途中で演説を補佐官に任せ、失望が広がる
6月4日、ルイ16世、長男を亡くす
6月10日、シィエスはネッケルの妥協案が無効になったと主張
6月17日、第三身分を中心とした議会の名称を国民議会とする議決
6月19日、第一身分(聖職者)議員の大半が国民議会合流へ賛意を示したが10名が保留
議長ラ・ロシュフーコー枢機卿は、これを否決と宣言し閉会
6月20日、第三身分の会議場サール・デ・ムニュが閉鎖されたことを受け、場所をベルサイユ
宮殿の球戯場に変え、憲法制定まで議会を解散しないと宣言(球戯場の誓い)
球戯とは、テニスの原型になった屋内スポーツ(現在のスカッシュに類似)
(ルフェーブル『1789年』p.153)
6月23日、親臨会議
ルイ16世は立憲君主制への移行を述べつつも、第一身分、第二身分の特権を温存
する税制を認めるよう求める
ネッケルはこの会議を欠席、辞任の噂が庶民に広がり騒ぎになる
6月26日、ルイ16世は兵をパリとヴェルサイユに展開
7月8日、国民会議は憲法制定国民議会に
第二身分の多くが欠席、出席者も投票拒否
外国からの傭兵がヴェルサイユで行進し、議会を威嚇
国王と第二身分は融和でなく、第三身分の排除を選ぶ
英国の国制を参考にする意見と、ゼロベースで憲法を作ろうとするルソー主義者と
7月11日、顧問会議にて財務総監ネッケル解任
ネッケルは会議に招かれず、ブルトゥイユが後を継ぐ
マリー・アントワネット派の策謀、3時に国王の使者が到着、6時にパリ脱出
7月13日にブリュッセル到着
(ハント『フランス革命の政治文化』p.91)
7月14日、ネッケル解任に怒った民衆は、まず市庁舎の兵器廠で強引に武器を手にした
これだけでは不十分な武器を補充すべく、兵器庫となっていた廃兵院、バス
ティーユを立て続けに襲う、シィエスは過激化する民衆と距離を置く
7月15日、国民衛兵の指揮をラ・ファイエットが執る(トリコロールの徽章)
7月16日、ネッケル復職、ルイ16世もトリコロールの徽章を帽子につける
7月20日、ネッケル排除に抗議する民衆を鎮圧すべく、竜騎兵がナントに派遣されたとの噂
は、アリストクラートの陰謀、野盗の恐怖に怯えていた地域民衆をパニック状態
に陥れた(大恐怖)
7月29日、ネッケルは王の説得を受け入れ、ヴェルサイユに戻り国民会議に出席
8月5-11日、十分の一税廃止など「封建制度を完全に廃棄する」国民議会の一連の議決
シィエス、ミラボーはあまりに急進的な動きに反対(ルフェーヴル, p.278)
8月7日、ネッケルは宰相となるが、実質的な権力は国民議会に移行していたため実権を握れず
8月8に決議された3千万リーブルの起債は不調に終わる(4.5%の利息では投資家を
集められなかった、その後27日に8千万リーブルの借入を承認したが、起債はネッケル
に一任した)
8月26日、17条の人権宣言が国民議会で暫定採択
ラ・ファイエット草案は1789年1月に駐仏アメリカ大使ジェファソンとの交流による
「最高存在の面前で」、神前で=カトリックであった時代に宗教的寛容を表す
ルソーの思想を反映して、かなり急進的な条文
この宣言はある種信仰の対象となる(マチエ, p.31)
「アンシァン・レジームの死亡証書」(ルフェーヴル, p.297)過去との決別
未来の構築は、1791年からの憲法に委ねられる
8月5-11日になされた国民議会の一連の議決に対して、ルイ16世は態度を明確にせず
議会は国王に拒否権を与えることでルイ16世を懐柔しようとし、また英国のように上院を
設けることで第一・第二身分を糾合しようとしたが、民衆はこれもアリストクラートの陰謀
だと捉え、実力行使が不可避だという気運が高まる(オルレアン派のシィエス、ミラボー)
トリコロール柄の花形帽章(帽子に付ける飾り)をルイ16世が侮辱したという噂が広がる
(ハント『フランス革命の政治文化』pp.117-118)
10月5日、パリ・バスティーユ付近からセーヴル経由でヴェルサイユ宮殿まで22kmほどの
道のりを、降りしきる雨の中7,000人の女性たちが「パンを寄越せ」と行進
(ヴェルサイユ行進)その後を国民衛兵と群衆2万人が続く、夜中遅れて到着した
ラ・ファイエットはルイ16世に謁見、パリへの移動を要求
10月6日、早朝から王妃マリー・アントワネットの控室まで民衆が押し寄せたため、ルイ
16世は駆けつけたラ・ファイエットと共に大衆の前に現れた。大衆は「パリへ!」
と叫んだ。午後、雨の中ヴェルサイユからパリへの行進、王一行は空き家であった
テュイルリ宮殿へ(リボンをつけた小枝をかざす=ファスケス→ファシスト)
旧体制はここに終焉
11月2日、教会財産の国有化法が可決
(森山『ヴァンデ戦争』p.88)
12月22日、立法議会の議員資格を定める法令可決
自然権を享受する受動的市民と自然権の保全のために議員となる能動的市民を
区別するシィエスの思想を取り込み、「少なくとも三労働日分の税を納めてい
ない市民に選挙権を与えなかった(→ギゾー「選挙権が欲しければ金持ちになれ」)
1789 米・ワシントン、初代大統領に就任(4月30日)
1790 仏・市民洗礼
カトリックの司祭やプロテスタントの牧師がフリーメイソンの剣の下での誓いに変わる
それほどまでに宗教が形骸化していたか(マチエ, p.56)
1790 仏・聖職者民事化法の可決(7月12日)
革命政府は1789年、パレ・ロワイヤルに掲げられていた教皇ピウス6世の肖像を焼き、
カトリックではない「普遍教会」の設立を目論む、それを実効なならしむる法律
6月21日は教皇領のアヴィニョンがフランスに併合される
ジャンセニストのアルマン=ガストン・カミュが法案に関わる
1516年にフランソワ1世が教皇レオ10世と結んだコンコルダ(ガリカニスム)も破棄
司祭を議員のように選挙で選び、国家の管理下に置いて、中世以来の共同体を破壊
11月27日には新憲法遵守の「宣誓」強要、翌年には非宣誓者を取り締まる法律成立
これに憤激したローマ教皇ピウス6世は、宣誓した聖職者を破門にするとの姿勢をみせ、
信仰厚い地域に混乱が広がる→ヴァンデ戦争の引き金
(森山『ヴァンデ戦争』pp.90-94)
1790 仏・ナンシー事件(8月31日)
スイス人傭兵に対する賃金未払い問題
業を煮やした傭兵が反乱を起こすも鎮圧された
後に賃金未払いの原因が汚職だと判明し、鎮圧を命じたラ・ファイエットは批判される
(マチエ, p.67)
1790 仏・ネッケルの国外退去が国民議会で議論される(9月4日)
7月14日、バスチーユ1周年を祝う連盟祭が盛大に催されるも、その1か月半後には
バスチーユ襲撃の直接の原因となったネッケルの国外退去を議論するという急激な変化
ネッケルはスイスのコペに落ち着くや『ネッケル氏の行政について』を著す
1790 仏・愛国者税の制定(10月6日)
全国民に400リーブル以上の課税
1790 バーク『フランス革命の省察』✅
フランスの革命家へ宛てる手紙の形式で革命の未来に警鐘
「バークは目立とうとして話しているのではない。彼の精神が
満ちあふれているから話すのだ」by サミュエル・ジョンソン
1791 トマス・ペイン『人間の権利』
ルイ16世がいかに賢君であろうとも、君主制は専制であるという主張
征服者が作ったイングランド(英国)は憲法を持たないとの過激な主張はベンサムから
批判を浴びる(小畑『ベンサムとイングランド国制』p.103, pp.150-151)
1791 波・5月3日憲法の制定
フランス革命が欧州に広がることを懸念した露・エカテリーナ2世の介入を招く
1791 仏・ヴァレンヌ事件(6月20日)
ルイ16世とマリー・アントワネットはオーストリアに逃亡を企てるも、捕らえられ
パリへ引き戻される(裏にスウェーデン王グスタフ3世?)
オーストリア軍を率いてパリに進軍するのではという話は、ルイ16世の立場を決定的に
悪くした(囚われの王から叛逆の王へ)
王を懐柔することを目論むフィヤン派が議会を掌握
1791 英・バーミンガム暴動(7月14日)
バスチーユ監獄襲撃2周年を祝うルナー・ソサエティの集いが、バーミンガムの瀟洒な
ロイヤル・ホテルで開かれた
フランス革命が英国へ波及することを恐れた保守派はこのホテルやソサエティ・メンバー
を標的にし、非国教徒・ユニテリアンのプリーストリーの家は焼き討ちに遭う
1791 仏・シャン・ド・マルスの虐殺(7月17日)
国民衛兵がパリ市民に発砲
コンドルセ夫人などが参加していた(夫人はアダム・スミス『道徳感情論』のフランス語訳
を監修する才人)
1791 ピルニッツ宣言
オーストリア皇帝、プロイセン王がルイ16世の身の安全をフランスに求める
1791 仏・憲法制定(9月3日)
立憲君主制、一院制の議会、制限・間接選挙、前文に人権宣言
「公民宣誓」をした人がフランス国民=ルソー『社会契約論』の神秘的実践(マチエ, p.33)
9月18日にはパリにて大々的なセレモニー挙行(マチエ, p.66)
1791 仏・教会財産の競売進む
聖職者民事化法で標的とされた司祭たちの財産が競売にかけられる
地域住民の信仰と生活の基盤が奪われ、社会に不穏な空気が満ちる
奪った教会財産を担保にアッシニア紙幣が発行されたが、ほどなく価値が暴落し
サン・キュロットなど、庶民層に不安が広がる
1791 仏・メートル法を定める
1792 コンドルセ『公教育の全般的組織にかんする報告書と法令案』
ハント『フランス革命の政治文化』pp.77-78
1792 仏・オーストリアに宣戦布告(4月20日)
マリー・アントワネットの故郷、オーストリアハプスブルクがフランスへ侵攻するとの
恐れが招いた膨張策、仏はプロイセンにも宣戦布告
ルイ16世と貴族は、革命軍が敗れ、権力奪還の機会となることを望む
1792 仏・自由の木の設置(〜5月)
もとは春祭り(5月祭:メイ・ディ)に建てられた五月柱(マチエ, p.226)
フランス全土で6万もの木が設置された(ハント『フランス革命の政治文化』p.120)
花形帽章は7月5日以降、着用を義務付けられた(同上, p.120)
女神(自由、理性)→アメリカに贈られた自由の女神像
水準器:フリーメイソン(平等)
握手:フリーメイソン(友愛)
ファスケス:ローマ(団結)
月桂樹:ローマ、ガリア(美徳)
目:エジプト(警戒)
これらも革命のシンボルとして活用された(ハント『フランス革命の政治文化』p.122)
1792 仏・8月蜂起(8月10日)
8月10日、民衆がテュイルリー宮殿に押し寄せるルイ16世を拘束
宮廷内での流血の惨事は王側の敗北に終わり、10日夜にラ・マルセイエーズが響きわたる
立憲君主制は終わりを告げ、議会も解散、ロベスピエールが国民公会の招集を提案
混乱に乗じてブレシュイールでは国民衛兵が100人以上を虐殺(森山『ヴァンデ戦争』p.155)
1792 仏・国民公会(9月20日)
8月蜂起で崩壊した秩序を立て直すべく、男子普通選挙による代表選出
9月21日に王政廃止、共和国を宣言、ある種の人民独裁へと移行
「自由の木」やローマ式敬礼の像を各地に立てる 資料
議場の右に王党派、左に共和派が陣取る、議場奥に座るのは山岳派、それに対抗する
議員の中心的メンバーはジロンド県出身であったためジロンド派、中間的な派閥は
平原派あるいは沼沢派と呼ばれた、トゥールーズはジャコバン派の拠点となった
(ハント『フランス革命の政治文化』p.218:選出議員の社会的特徴は第5章参照)
選挙といっても、共和派でない選出人は無効とされることもあった(ハント, p.258)
都市部においては商工業者、地方においては知識層(法律家、医者等)の存在感が大きい
地方議会においては頻繁に選挙が繰り返され、多くの人が政治に関わった
(アミアンでは9年で15回の選挙)
政治参加の幅は広がったが、フランス全土に共通する基準を見出すことは難しい
地理的、地位的周辺にいた多様な人たちが政治に関わるきっかけとなった
1792 仏・国民公会、ベンサムに名誉市民の称号を与える(10月10日)
8月にルイ16世を拘束、9月に王党派虐殺の後、ベンサムが批判に転じた10月10日に授与
ベンサムは迫り来る仏の対英宣戦布告を止めさせるべく『あなたがたの植民地を解放せよ!』
を著したが、国民公会から黙殺され、仏の擁護を完全にやめた
(小畑『ベンサムとイングランド国制』pp.141-145)
1793 仏・ルイ16世の処刑(1月21日)
王の処刑を受けて対仏大同盟が結成(英国ピットを中心に、蘭西葡墺普露サルディニア)
1793 第2回ポーランド分割
1月、露軍がポーランド議会を包囲し、領土割譲を迫る
露:ウクライナ、ベラルーシの多くを獲得
普:ダンツィッヒ、ポーゼンを獲得
事実上、ポーランドは消える
1793 ベンサム『ジェレミ・ベンサムのフランス国民公会宛て書簡』
フランス名誉市民となったベンサムが、市民権を持つ英仏の戦争を回避しようと
国民公会に向けて著述、フランス所有の植民地を手放すことが正義だと説くも
宣戦布告のためフランス側に送ることができず仕舞いに
(永井『ベンサム』pp.214-215)
1793 仏・英蘭西に宣戦布告
2月1日、英蘭に対して宣戦布告
2月24日、30万人の募兵令(富裕層には代理募兵を、権力層には徴兵免除を許す)
(森山『ヴァンデ戦争』pp.103-105)
3月7日、西に対して宣戦布告
1793 仏・ヴァンデ戦争(3月〜)
対仏大同盟に対抗すべく徴兵を実施、それに反発したフランス西部ヴァンデ地方の住民
との武力衝突、3月4日の小競り合いを契機に、ヴァンデ地方(ナント周辺地域)の場所
場所で地域の有力者が立ち上がる
革命後の選挙で選ばれた代表者たちは行政手腕に乏しく、いきおい国民公会の代弁者となる
選挙によって民主的な行政が実現すると期待していた人々の失望を招く、税金も倍になる
革命政府の圧政を農業や商業で発展していた街がはね除ける試み
奇妙なことに、ヴァンデは一貫して左派の議員を選出していた(戦争は院外の抗議)
ジャコバン派とフリーメーソンは思想や社会目標が近い集団だが、同一のものではない
第3身分の異業種交流会のようなものがフリーメーソン
(ハント『フランス革命の政治文化』p.221の地図1:この図に見られる地方別の党派性は
現代にも残ると筆者は指摘している、フリーメーソンについてはp.242)
18世紀に入り人口3倍、牛の市で賑わい、織機1万2千台、4万人の従業員、年5回の定期市
を擁するショレの街(森山『ヴァンデ戦争』pp.60-63)
4月の段階ではデルベ、ラ・ジョックランらの活躍によりショレ周辺の戦いで勝利を収める
(森山『ヴァンデ戦争』第5章)
5月、テンプル塔に病弱なプチ・カペ(ルイ17世に当たる)を幽閉
テンプル塔はテンプル騎士団の拠点、ナポレオンにより取り壊された
1793 英・額面印刷済み紙幣の発行
4月5日に5ポンド紙幣が発行されたのを皮切りに、200、100、300、500、1、2、1000
ポンドの額面紙幣(ランニング・キャッシュ手形)が1802年までに順次発行される
(金井雄一『中央銀行はお金を創造できるか』p.138)
1793 コンドルセに死刑と財産没収宣告(10月3日)
政争に敗れたコンドルセは『新憲法について フランス市民たちへ』という書を匿名で
著したが、それが露見した(丸山『ワルラスの肖像』p.107)
コンドルセは逃亡の後捕縛、1794年4月7日に獄中自殺
1793 仏・理性の祭典(11月10日〜)
エベールによるCult of Reason がフランス・カトリックの殿堂、ノートル・ダム大聖堂
にて催される
女性が自由の女神に扮する(偶像崇拝を排すためとのことだが…)
丸山『ワルラスの肖像』pp.295-296の注15には1900年の大晦日に慶應義塾で催された
林毅陸による、理性の祭典ばりの独演会の様子が描写されている
1793 仏・革命暦の採用(11月24日)
王政が廃止された1792年9月21日にさかのぼって採用
第1共和制はこれまでの暦をカトリック的だとして廃止、10進法に基づく暦を採用
7日に1日の休みが10日に1日の休みとなり、民衆の不興を買う
1973 仏・自由の専制(12月4日〜)
公安委員会に強権付与
粛清の嵐を呼ぶ
1794 カント『万物の終焉』✅
1788年、フリードリッヒ=ヴィルヘルム2世の治世で出された宗教勅令(フランスで蠢く
不穏な空気を察知したプロイセン政府による宗教の締め付け)と検閲令は、カントの言論
を封殺、これに対して能動的な信仰こそが真の信仰だとするカントによる反論 資料
p.113:最後の審判に続く永遠は自然的な思索からではなく、道徳的な思索から生まれる
p.114:救いの体系には、すべての人が救われるというユニテリアン的なものと、救われる
人と救われない人がいる二元論的なものがある
p.118:実践的、道徳的な観点から採用すべきは二元論(救いの安心感に陥らない)
pp.118-119:人々が恐怖とともに終末を待つのは、「人類の堕落はすさまじいものであり、
もはや希望をもてなくなっているという考えにもとづくものである」
p.122:「欲望を満たす手段よりも、欲望の力がはるかに大きいからだ。こうして人間の道徳
的な素質は、ホラティウスが「よろめき歩きの罰」と述べたように、欲望のあとを、
よろめきながら追うのである」
p.125:ヨハネの黙示録を引いて「これからはもはや変化というものがなくなることを言おう
としたに違いない」と万物の終焉を解釈
pp.127-128:「すべての変化が停止し、それとともに時間そのものが停止するような時が
訪れると考えるのは、想像力にとっても困難な営みである。そのような時になった
ならば、すべての市zねんがもはや動かず、石のようになるのである。人間の最後の
思考と感情が、思考する主体のうちにとどまり、変化することなく、そのままの
状態を維持することになる。みずからの存在と、その持続としての大きさを時間の
うちで意識することしかできない存在者にとっては、このような生は(それがたとえ
彼岸での生と呼ばれるとしても)、無にひとしいものだろう」
p.130:「虚無を最高善とみなす老子の奇怪な体系」と「スピノザの哲学」
1794 仏・革命の空中分解
1月21日、ヘラクレス像を用いた祭典がグルノーブルで開かれる
象徴が女神からヘラクレス(実力行使を伴う民衆の力)に代わる
1793年11月、ある種ナチス的、共産主義革命的なサン=キュロットの象徴に
ダヴィドはヘラクレス像を持ち出す(像に光、自然、真理、力、勇気、労働
という語を刻み込むべきだと国民公会議員に演説)
ヘラクレスは大衆の自画像ではなく、大衆を政治的「てこ」として使いたい
革命家の願望を象徴
(ハント『フランス革命の政治文化』pp.183-184, p.186, pp.200-201)
画家ダヴィドは革命の趣旨に合う洋服をデザインするも、実現せず
1789年の三部会では身分により服装が異なったが、これを統一するデザインを求めた
その後庶民と議員、公務員を分ける洋服のデザインに取って代わられた
スタンダール『赤と黒』の赤は公務員の洋服の赤、黒は黒マリア像の黒?
パリコレに見られる服飾への熱意はこの頃から
(ハント『フランス革命の政治文化』pp.142-143)
2月5日、ロベス・ピエールの演説「恐怖、それなくしては徳は無力である恐怖」
6月8日、ロベス・ピエールによる「最高存在の祭典」
昨秋催された理性の祭典は無神論的だとして批判、革命の理念を神格化した祭典
ロベス・ピエール「圧政にたいする自由の専制」「透明と公開と警戒」
(ハント『フランス革命の政治文化』p.99, p.101, pp.192-193)
東インド会社解散にからむ汚職事件→エベールの処刑(3月24日)
テルミドールの反動→ロベス・ピエールの処刑(7月28日)
1795 ベンサム『大げさなナンセンス』
フランス革命政府による一連の人権宣言を無政府主義の元凶として断罪
「私のつるはしはナンセンスの構造を解明するために一端打ち下ろされるや、もはや
一つの残骸も残っていないと確信するまで、一瞬たりとも止まることはありませんでした」
「権利はすべて、自由を犠牲にして作られる」
(小畑『ベンサムとイングランド国制』pp.145-146, p.149)
執筆は1796年とも、当時はフランス革命の熱狂の渦の中にあったため、刊行は1816年、
デュモンによるフランス語訳がはじめとのこと
ベンサムの立論は社会契約説を批判するフィルマーに近い
(永井『ベンサム』pp.215-219)
1795 バーゼル条約
フランスとプロイセンの講和条約
条約の条文とは真逆の秘密協定を含む
1795 カント『永遠平和のために』✅
オランダの宿屋の絵に描かれた墓碑銘『永遠平和のために』とは皮肉と理想のないまぜに
なった表現
「朕は国家第一の下僕」という啓蒙専制君主フリードリッヒ2世を戴くプロイセン人
であったために、専制を理想の政治形態とし、民主制を混乱の政体とした
確かにフリードリッヒ2世は賢君であったかもしれないが…
p.154 :軍事国債の禁止
p.162:「永遠平和は自然状態ではない。自然状態とはむしろ戦争状態なのである」
p.169:共和制の国家では、戦争という「割に合わない〈ばくち〉を始めることに慎重になる
のは、ごく当然のことである」。「ところが臣民が国家の市民ではない体制、すなわち
共和国的ではない体制では、戦争は世界の日常茶飯事の一つとなる」
p.176:「原初的な状態にとどまろうとする人々は、法のない自由にこだわり、みずから法を
定めてその法の強制にしたがうよりも、むしろ殴り合いで解決することを好み、理性
的な自由よりも愚かしい自由を好むものである」
p.178:グロティウス、プーフェンドルフ、ヴァッテルたちの国際法には実効性がない
p.180:次の戦争までの休戦に過ぎない「和平条約」ではなく、永遠平和のための「平和連盟」
を作り、主権国家の自由な状態を相互保証すべきだ
p.187:西洋人を一度受け入れた中国と日本は、東インド会社の交易のためというお題目とは
裏腹に乱暴狼藉の限りを尽くすこの者たちを追放した
p.199:「狩猟生活、漁労生活、遊牧生活を経験して農耕生活にまで進歩していたのである。
そして塩と鉄が発見されると、これがさまざまな民族の間の交易において、広く、
そして遠くまで求められる最初の商品となったのである。この商品のおかげでさま
ざまな民族は初めて平和な関係を構築するようになり、遠く離れた他の民族とも
和合して交際し、平和な関係を結ぶようになったのである」
pp.209-210:「自然は、たがいの利己心を通じて、諸民族を結合させているのであり、これ
なしで世界市民法の概念だけでは、民族の間の暴力と戦争を防止することはできな
かっただろう。これが商業の精神であり、これは戦争とは両立できない者であり、
遅かれ早かれすべての民族はこの精神に支配されるようになるのである」
p.238:「いかなる弁神論によっても正当化できない」腐敗した人の存在を指摘するのは
高みからの判断である(カントはライプニッツ流の弁神論から、神を人間の理性で
判断することは許されていないとする立場に変わった。p.271, 注48を参照。)
1795 ネーデルランド共和国、仏に占領される
蘭の州と東西インド会社は7億6千万ギルダーの負債を抱えていた
ヴァタビア共和国→ホラント王国→仏領→オランダ王国(1814〜)
財政破綻の経路は、今日の日本と重なるか?
1795 英・スピーナムランド制度
生活費の不足を補う手当の支給
1797 英・正貨の支払い制限
兌換が停止された紙幣の乱発はナポレオン戦争終結までインフレの火種に
トゥック『物価史』第1巻の序文p.36, 脚注5によれば、1790年を100とした物価指数
は、地金委員会が報告書を出した1810年頃には150を超えていた
これについてトゥックは、紙幣乱発より天候不順による不作、戦争による貿易の困難
(輸送費と保険料の高騰)など実物面の影響を強調している。紙幣発行は通常の経済
成長に見合うものだとして
トゥック『物価史』第1巻の序文pp.32-45を参照
Silberling, Norman J. (1924, QJE):https://www.jstor.org/stable/1882330?seq=1
1797 第3回ポーランド分割
第2回ポーランド分割に対する反抗が挫折
ポーランドの復活はドイツが敗れ、ロシア帝国が崩壊した第1次大戦後(国歌)
1797 ベネツィア共和国、滅亡
ネーデルラントを手放す見返りとして神聖ローマ帝国が獲得
手漕ぎのガレー船は外洋に出られる帆船に敵わず
(シュミット『陸と海』p.58)
1798 マルサス『人口論』✅
マルサス誕生の際、ルソーとデイヴィッド・ヒュームが訪れたという伝説
(ケインズ『人物評伝』p.99)
1803年、1806年、1807年、1817年、1826年と版を重ねる
1824年に『大英百科辞典補遺』に『人口論綱要』を書き、1830年に再版
(小林時三郎訳『経済学原理』訳者解説, p.394)
1798 シャックバーグ=イブリン『ウエイトと測度の標準を究明するためのささやかな試み』 資料
英国の天文学者による物価指数構築の試み
(阿部修人『物価指数概論』pp.29-30)
1799 蘭・東インド会社解散
1799 仏・ブリュメール18日のクーデター
暴走する革命を一歩引いてみていた革命の闘士シィエスはクーデターの黒幕に
エジプトから大返しをしたナポレオンはフランス革命終結を宣言
ナポレオン、シィエス、デュコが臨時執政に就任