Senatus Populusque Romanus
ローマ帝国の盛衰
〜A.D. 1500
16c エジプト・新王国の千年
第18王朝から第26王朝(BC6c)まで
776 古代オリュンピア競技会はじまる
660 神武天皇即位
2月11日は建国記念日(紀元節)
橿原宮 資料
586 バビロン捕囚
新バビロニア王国のネブカドネザル2世による
570〜480? ピュタゴラス
神秘的教団を率いて南イタリアの都市クロトンを統治(原始共産制)
パレート『一般社会学提要』p.141に肉食を禁じたとの記述がある
数学的知見を統治に活かす(AI社会、スマートシティ)
カルディアとエジプトからの影響
カルディア簿記:粘土板に刻まれた3年にわたる帳簿の記録
エジプト幾何:ナイル川の氾濫後に土地所有を確定させるための道具
正12面体を宇宙の象徴とみなす(→サッカーボール ⚽️)
調和を破る無理数(√2)の発見により、壊滅的打撃を被る
「宇宙も社会も割り切れない」
Lowry, S.T. 著, 武藤訳「ピタゴラス学派の数学的理想主義と経済・政治理論の構想」
√2を発見したピュタゴラス教団のヒッパソスは溺死させられたと伝えられる
538 アケメネス朝ペルシャ・キュロス大王、カルディアを滅ぼす
バビロン捕囚の終わり
522 アケメネス朝ペルシャ・ダレイオス1世即位
490〜420? プロタゴラス
授業料として100ムナ(銀100ポンド)という高額の授業料で富を築いたソフィスト
この授業料は無名のソフィストの20倍ほどであった(『メノン』p.119の注72)
484〜425? ヘロドトス
ヘロドトス『歴史』✅
480 テルモピュライの戦い
映画『300』のモデル
450 マラトンの戦い
アテナイの将軍ミルティアディスがペルシャの大群を撃破
伝令は「我勝てり」と言い遺して息絶える
マラソンの語源
470〜399? ソクラテス
クセノフォンとプラトンはともにソクラテスを師と仰ぐ
クセノフォン:写実的(ありのままに記述)
プラトン:文学的(自分色に脚色して記述)
431〜404 ペロポネソス戦争
ソクラテスは重装歩兵として従軍(『オイコノミコス』p.167訳注)
400 メノン、死す
ペルシャ王に反旗を翻したキュロスの援軍として戦地に赴くが、捉えられ死を賜る
399 ソクラテス、裁判の結果、死に追いやられる
ソクラテス70歳、プラトンは28歳
(『メノン』訳者まえがき, p.17)
クセノフォン『ソクラテスの思い出』
クセノフォン『オイコノミコス』✅
ソクラテスとの対話とソクラテス死後にクセノフォンが経験したことからなる対話篇
オイコノミコスとは「家を統べる法」という意味、エコノミクス(経済学)の語源とされる
家庭、軍隊、国家の統率の要諦は相似形(解説, p.178)
フィジオクラット(重農主義者)の先駆けか(解説, p.180)
p.16:財産とは「人が所有している善いものすべてのことであって、何も悪しき物のことを
財産だなんて絶対言いませんよ」
p.18:「財産とはそこから利益を得ることが出来るもの」
p.25:「ポリス《都市国家》は君に多大な貢献を要求してくるということも目に見えている、
つまり馬達の飼育や合唱団の費用や体育館長職や首長職といったようなことをね」
p.41:「楽園」の語、訳注にパラダイスはペルシャ語に由来し、後にキリスト教的な意味を
持つようになったとある
p.42:ペルシャのキュロス「王は褒美を与えるときにも、まず、戦争で勇敢だった者達を呼ぶ
とね。もし田畑を守る者達が居なければ、いくら耕しても無駄だから。そして次には、
よく耕して作物を作った人達を呼ぶ。もし耕作する人達がいなければ、勇士達だって
生きられないからと言ってね」
第5章、第6章は農業讃歌(豊穣と有事への備えを兼ねる、職人業は心身を蝕む)
→キリスト教の神なき、ギリシャの神々がいるフィジオクラット
p.47:「大地はまた、耕作者達に、武器をとって農地を守るように促す。果実を実らせながら、
最も強い者が、それらを摘みとるように」
p.53:「土地を耕す人達《農夫達》は投票によって土地を守ることを決め、一方、職人達は
戦わずに指示された通り、じっとしていることを決め、骨折りもせず、危険も冒さない」
pp.65-68:家事を取り仕切る主婦を女王蜂に例える
p.91:「神々というものは、自分が何をしなければならないのか分からず、事を成し遂げようと
努力しない者達を成功させようとはしないけれども、一方、分別があり、努力をする人々
には成功を与えるが、そうでない人々には拒むというものなのだと思います」
→プロテスタント的な精神
p.97:「真実を言ったほうが有利な時には、全く、そのようにします。でも、嘘をついたほうが
良い時には、ソクラテス、本当のところ、根拠の薄弱なものを強固なものとするという
ことは僕には出来ないのです」(イスコマコスからソクラテスへの言葉)
p.100:「『それなら、まず第一に、その男が君と君の所有物に対して善意を持っていなければ
ならないだろうね。君の代わりに彼が指図しなければならないんだから。もし善意が
なかったら、管理について何がしかの知識を持っていたとしても、どんな有益さが
生じるかね』
イスコマコスは言った。
『全くないですね。だから僕と僕の財産に対して善意を持つということ、この事を第一に
僕は教えるつもりです」→この後、p.105までインセンティブとモニタリングの話
p.109:「ある者達は、他の人達が食物や飲物に飢えているのと同様に、生まれつき賞賛に飢えて
いるのです」→この後、成果報酬、信賞必罰の話
pp.117-118:農業者は技術を周りに伝えることを喜びとするが、職人は技術を秘匿しがちである
→農業は人を有徳にする
pp.152-153:大地は人を真面目な人とそうでない人を分ける試験官である
→家を豊かにするか貧しくするかは細やかな配慮と勤勉さ次第である
p.160:「兵士達の中に、時折、仕事への情熱が見出されるように、良い指揮官の下にある軍全体
にも、仕事に対する情熱と名誉心が見出されます。彼等は手柄を立てて、指揮官の目に
止まろうとするのです」
p.162:「このような全き善が人間業であるとは僕には到底思えないからです。それはむしろ
神のなせる業というべきなのです。自ら服従したいと望んでいる人々の主人になる
という事は、本当に思慮分別の秘儀を授けられた人々にだけ与えられるものなのです」
再びプロテスタント的な精神(ギリシャ精神が欧州に逆輸入されたものがプロ倫)
427〜347? プラトン
387 プラトン、アカデメイアを設立
アテナイ郊外の森アカデメイアに学舎(光文社版, 訳者まえがき, p.17)
プラトン『メノン』✅
成立はBC386〜385年、舞台設定は402年頃?(光文社版, 訳者まえがき, p.11, p.17)
JSミルはこの書を「宝石」と評した(光文社版, 訳者まえがき, p.9)
若干20歳の俊英メノンと66, 67歳のソクラテスの対話
「徳(アレテー)は教えられるか?」
第1章(章立ては訳者である渡辺氏の見立てによる)
p.27:注7にゴルギアスとソクラテスの弁論の対比がある
ゴルギアス:他人の意見を受け売りしてもよい(レートリケー)
ソクラテス:心からの意見を告白させ、対話に持ち込む(ディアレクティケー)
p.29:ソクラテスはミツバチを例に反論
p.34:徳とは、正義と節度
pp.42-45:ソクラテスは「形」とは「立体の限界である」との定義を例に挙げ
徳とは何か、メノンに見解を問う
p.49:注24に2月と9月に開催されるギリシャの祭りを(エレウシスの秘儀:ミュステーリア)
ということが記されている
p.53:注28は顕示選好の原型?
ついお酒を飲みすぎる人は、本当は深酒が悪いものと知らない
p.55までの対話の中で、これをメノンに悟らせる
p.62:徳の要素ではなく、徳そのものをずばり答えよ、というソクラテスの厳しい問いかけ
第2章
pp.63-64:メノンはソクラテスをシビレエイにたとえる
対話の相手を痺れさせ、困惑させるもののたとえとして(ソクラテスの死を暗示)
これに対してソクラテスは、「私も痺れてしまっている」と無知の知を主張
p.69:ある種の輪廻思想
p.71:注46に半神(hero)の説明、片親が神である子
注47に自然本性(phusis)の説明→物理学(physics)の語源
pp.74-90:アリストテレスによるシビレエイの効果説明
メノンの従者に1辺2の正方形の面積(4)の2倍の面積(8)となる正方形の1辺の長さを問う
答えは4であると考えた従者に繰り返し問いかけることでその誤りに気づかせ、探究に誘う
第3章
p.97:仮説を立てることについて
p.107:「富やそのたぐいの、魂に属するのではないような他のことがらも、時に応じてよいものに
なったり有害なものになったりする。知が知以外の魂を導くなら、この知が、魂に属する
ことがらを有益なものにしたのだし、愚かさが導けば、愚かさのゆえに魂のことがらは有害な
ものになった。これとおなじく、魂がこれら富などを正く使用し導くならば、そうしたものは
有益なものになるが、正く使用しなければ、有害なものになってしまう」
→F. ベーコン「知は力なり」
第4章
メノンを庇護するアニュトスとの対話
アニュトスはソフィストに対する強い嫌悪を表明
pp.127-130:テミストクレス、アリステイデス、ペリクレス、政治家のトゥキュディデスも、
彼らの息子に徳を十分に備えさせることはできなかった
p.132:偉人たちは息子に徳を備えさられなかったというソクラテスにアニュトスは警告を発する
「どうやらあなたは、平気で他人の悪口を言う人であろうに思える。もしわたしの言う
ことを聞くつもりがあるなら、わたしはあなたに、気をつけるよう、忠告したい」
→後にソクラテスを死に追いやった黒幕本人からの警告
第5章
pp.144-146:「知識を持つ者はつねに正答を出すのに対し、正しい考えを持つ者は、或る時には
正しく、或る時には間違える」というメノンの言葉は、現代の対話型AI(ダイダロスの彫像)
いつ消え去るかわからない儚い存在としての「想起」(ダイダロスの彫像)を縛って、
得られる結晶が知識
p.152:「もしも政治家が知識のゆえに統率できているのではないなら、残っている可能性はすぐれた
推測によって統率者になることである。政治家はそうしたすぐれた推測を利用して国家を正し
く治めているのであり、かれらは知の点では、託宣を述べる人々や神懸かりの予言者と何ら
異ならないのだ」
p.154:「女性たちも、優れた人々を「神のような方々」と呼んでいる」というソクラテスの言葉は、
現代日本の褒め言葉とつながる
p.154:「徳は生まれつき備わるものでもなく教えられるものでもなくて、備わる人々には何か神的な
運命のようなものによって、覚醒した知性などを抜きにして備わるものだろう」
p.156:「徳は、それが人に備わる場合にはいつも、神的な運命によってわれわれに備わる」
→哲人政治、王権神授説、天啓
プラトン『国家』
成立はBC375年頃?
「国家を建設しようと思う者は、ちょうど国制の見本市へ出かけて行くように、民主制のもとに
ある国家へ行って、どれでも自分の気に入った型のものを選び出したうえで、その見本に従って
国家を建設しなければならないのかもしれない」(第8巻557D, p.228)
→『フィルマー 著作集』p.48で言及
384〜322? アリストテレス
アリストテレス『ニコマコス倫理学』✅
アリストテレス『政治学』✅
アリストテレスの著作はアラブ世界で保存、中世欧州に再輸入されルネサンスからユマニズムへ
Lowry, S.T. 著, 武藤訳「ピタゴラス学派の数学的理想主義と経済・政治理論の構想」p.34
336 マケドニア・アレクサンドロス大王即位
287?〜212 アルキメデス
第2次ポエニ戦争のとき、シラクサに攻めてきたローマ軍により殺害される
「図を踏むな」
円柱と球と円錐の体積比は3:2:1
(松浦訳『不思議な数 π の伝記』pp.50-57)
264 第1次ポエニ戦争
260 ミレーの海戦
219 第2次ポエニ戦争
ハンニバル戦争とも
206 漢建国
149 第3次ポエニ戦争
カルタゴ滅亡
25 後漢建国
77 大プリニウス『博物誌』
全37巻の大著は想像上の生き物を含む
ティトゥス帝に献上
193 ユリアヌス、ローマ帝国帝位を競り落とす
コモンドゥス帝、ペルティナクス帝死後の混乱を収めるために帝位が競りにかけられる
ユリアヌスが競り落とすも、帝位を買った悪評を拭えずわずか66日の在位で殺害される
セウェルスが帝位に就く
239 卑弥呼、魏に遣いを送る
『魏志倭人伝』
301 ローマ帝国・公定価格の設定
ディオクレチアヌス帝による勅令
313 ミラノ勅令
コンスタンチヌス帝がキリスト教に改宗
315 ローマ帝国・貨幣にキリスト教のシンボル刻印
323 ローマ帝国・貨幣から異教のシンボル廃止
(いずれも黒川正剛『図説魔女狩り』p.10)
325 ニケア公会議
公会議とは「審議と採決のために集まった人々」(ホッブズ『市民論』p.385)
三位一体説を唱えるアタナシウス派を正統に(ウェーバー『世界宗教と経済倫理』p.181)
379 ローマ帝国・テオドシウス1世即位
381 コンスタンチノープル公会議
390 テオドシウスの懺悔
テッサロニキでの暴動鎮圧のために7,000人を殺害したテオドシウス1世は
ミラノ司教アンブロシウスに懺悔
ジョン・ミルトンは、権力をほしいままにする者としてアンブロシウスを批判
(ミルトン『イングランド国民のための第一弁護論』p.101)
392 ローマ帝国・キリスト教を国教に
テオドシウス1世、異教を禁止
395 ローマ帝国の東西分裂
ホッブズ『市民論』pp.388-389にローマ・カトリックとローマ帝国に関する記述
400 倭という国名
高句麗好太王の碑文に400年頃の出来事が記されている
これを裏付ける中国の書物も
427 聖アウグスティヌス『神の国』
32歳でマニ教から改宗、キリスト教神学の礎を造る
マニ教=善悪二元論、ジャン・ボダンは二元論を批判
悪魔との対峙 ミヒャエル・パッハー『聖ヴォルフガングの生涯』 資料
丸山『ワルラスの肖像』p.121に生命の重みについての表がある
自然的序列と主観的序列の違い(主観効用学説の萌芽)
435 テオドシウス法典
456 安康天皇3年・雄略天皇即位
第21代天皇
476 西ローマ帝国滅亡
ゲルマン人の南下
多神教的ゲルマン人はキリスト教に帰依
481 フランク王国成立
529 ユスティニアヌス勅法集
533 『法学提要』
東ローマ帝国第2代皇帝ユスティヌアヌスの命により編纂
2世紀に活躍したローマの高名な法学者ガイウスの『法学提要』をベースに
自然法(万民法)の原型
ローマ法大全:『法学提要』『学説彙纂(いさん)』『勅法彙纂(いさん)』
ガリアーニ『貨幣論』p.180に、損傷した貨幣を補強して流通させた補強貨幣についての
言及がある
538 仏教伝来
581 隋建国
587 用明天皇2年・丁未の乱
「ていびのらん」と読む
用明天皇崩御の後、伝来の宗教である仏教を受け入れてもよいとする蘇我馬子と
伝統的な皇室にまつわる自然宗教を守るべきだとする物部守屋の争い
蘇我氏が勝利、爾来仏教が広まる
589 隋建国
文帝は科挙を導入し、律令を整備して官僚制の基盤を作った
煬帝は大規模造成に徴用したり、高句麗に繰り返し戦争を仕掛けたりと国を疲弊させる
各地で反乱を招き、煬帝は殺害される
592 崇峻5年・崇峻天皇暗殺される
献上猪を見た天皇のお言葉を聞き、恨まれていると思った馬子は最悪の所業に出る
593 推古天皇元年・聖徳太子が摂政に
飛鳥時代始まる
596 推古天皇4年・飛鳥寺完成
用明天皇2年(587年)に蘇我馬子が建立を提案
推古天皇14年(606年)に釈迦如来坐像を安置
600 遣隋使
中国との制度の違いを痛感
603 推古天皇11年・冠位十二階位
604 推古天皇12年・十七条憲法
607 推古天皇15年・法隆寺建立
同年、遣隋使として小野妹子が派遣される
609 推古天皇17年・太宰府
『日本書紀』に筑紫大宰との記述あり
614 推古天皇22年・最後の遣隋使
犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)が派遣される
618 隋滅亡、唐建国
622 推古天皇30年・聖徳太子薨御
蘇我氏の勢いが増す
626 推古天皇34年・蘇我馬子死去
明日香村の石舞台古墳に葬られたとの説がある 資料
蘇我蝦夷が官職に
628 推古天皇36年・推古天皇崩御
33代天皇は後継者を指名せず
舒明天皇が即位
630 唐が北方の騎馬民族である突厥を服従させる
630 舒明天皇2年・遣唐使
最後の遣隋使、犬上御田鍬が唐に派遣される
641 舒明天皇13年・舒明(じょめい)天皇崩御
第34代天皇は蘇我氏の力に押される
642 皇極(こうぎょく)天皇即位
蘇我入鹿が執り仕切る
645 皇極天皇4年・乙巳の変
「いっしのへん」と読む(乙巳とは干支の42番目)
6月13日、入鹿の父蘇我蝦夷が自害
6月14日(新暦7月10日)、中大兄皇子と中臣鎌足が宮中で蘇我入鹿を殺害
同日、事の重大性に鑑み皇極天皇は譲位、孝徳天皇が即位、大化を元号に
藤原不比等は中臣鎌足の次男、不比等は曽我氏と婚姻関係を結び力を得る
646 大化2年・改新の詔
諸国の有力者が私有していた土地(田荘)と住民(部曲)を中央集権化(公地公民)
公地公民は実像というより、中央集権と国税を制度化するレトリックか
天皇の土地で天皇の臣民が耕作して収穫した米は、天皇に納めるべき
20人ほどの一族で集落を形成していたものを一戸とし、構成員一覧を調査し(戸籍)
男子に多めの、女子には男子の3分の2の水田(口分田)を割当(班田収授法)
次の戸籍調査で構成員一覧に変動があった場合、再分配する口分田の広さを調整
収穫した稲の3〜10%を納める
(伊藤俊一『荘園』pp.3-6)
口分田(公田)の他に乗田(私田)もあった、畠は制度外であった
(畑は焼畑の意味、畠は水を引かずに耕す通常のはたけ)
水田は水耕のため用水路やため池という大規模設備が必要であるため共有の方が
効率が高い(現代の大企業)が、この時期の畑作には大規模設備は不要であった
650 大化6年・大化を白雉(はくち)に改元
653 白雉4年・遣唐使
緊迫する朝鮮半島情勢を探るため、翌白雉5年(654年)にも派遣
654 白雉5年・孝徳天皇崩御
655 斉明元年・譲位していた皇極天皇が斉明(さいめい)天皇として重祚
再即位を意味する重祚は「ちょうそ」と読む
660 百済滅亡
紊乱を極める百済の統治をみて、唐と新羅の連合軍が侵略
朝廷は大陸・半島からの圧力に危機感を高める
661 斉明天皇7年・斉明天皇崩御
662 天智天皇元年
皇太子であった中大兄皇子が即位したのは天智天皇7年(668年)
元年は逆算して記述
663 天智天皇2年・白村江の戦い
667 天智天皇3年・無文銀銭
文字の刻印がない謎多き銀貨、関西中心に15か所の遺跡で出土 資料
668 天智天皇7年・草薙剣の盗難事件
新羅の僧沙門道行が盗み新羅に持ち込もうとした
670 天智天皇9年・庚午年籍(こうごねんじゃく)
かのえうまの年に実施された戸籍調査
飛鳥の「富国強兵」のために課税ベースを確定
672 天武天皇元年・壬申の乱
前年末に崩御した天智天皇の後継者争い
天智天皇の弟の大海人皇子と息子の大友皇子
武勇に勝る大海人皇子が勝利、天武天皇として即位
683 天武天皇12年・富本銭の発行
『日本書紀』に「以後、必ず銅銭を用いよ。銀銭を用いること勿れ」とある
無文銀銭から富本銭への移行
689 持統天皇3年・飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)
22巻の令(社会のルール)
681 持統天皇4年・庚寅年籍(こういんねんじゃく)
かのえとらの年に実施された戸籍調査
以後6年ごとに戸籍を調査し、水田を再分配(班田収授)
6才以上の男女に一代限りの口分田を貸与、収穫高の3%を徴税
694 持統天皇8年・藤原京へ遷都
御代がわりから定住へ
698 カルタゴ敗北
ウマイヤ朝によるチュニス建設
(シュミット『陸と海』p.44)
701 大宝元年・大宝律令
律とは罰がある定め、令とは社会のルール
ほぼ散逸し、現代に伝わらず
遣隋使、遣唐使が学んだ中国式の行政運営を参考に
官僚制の雛形(元号、文書、印鑑、省庁、職位、戸籍、徴税、地方公共団体など)
702 大宝2年・大宝律令施行
遣唐使の派遣再開、長安の都市計画を見聞
708 和銅元年・和同開珎の発行
「わどうかいちん」または「わどうかいほう」と読む
10世紀終わりまで朝廷が発行する銭貨(皇朝十二銭)の1つめ
710 和銅3年・平城京へ遷都
奈良時代始まる
尽力した不比等の大邸宅は平城宮内の東に
「なんと大きな平城京」という語呂合わせは伊達ではなく、10万人規模の住民を擁する
上下水道、道路、食料、商業、法令、公衆衛生などの基盤なしに大規模都市は実現不可能
711 和銅4年・蓄銭叙位令
流通に滞りが見られた和同開珎をひろめるために、お金を集めた人に位を授けた
712 和銅5年『古事記』
和銅5年に稗田阿礼の口述を太安万侶が筆記し編纂、天明天皇に献上
現代読みでは「こじき」だが、大和読みでは「ふることふみ」
716 霊亀2年・第9次遣唐使
吉備真備、阿倍仲麻呂らを派遣
720 養老4年『日本書紀』
藤原不比等死去、正一位太政大臣を贈られる
記紀には藤原不比等の思いが込められている(権力の正当化に神話を利用?)
722 養老6年・百万町歩開墾計画
天智天皇と天武天皇の孫である長屋王は奇想天外な計画を立てるも画餅に終わる
当時の技術で百万町歩(1町歩=1.2haだから120万ヘクタール:新潟県と同じくらい)
を開発するのは不可能、当時の日本全土の耕地が86万町歩
(伊藤俊一『荘園』p.12)
723 養老7年・三世一身法
班田収授法では6年に一度の戸籍調査のたびに私有がリセットされたため、6年周期の
終わりにかけて農業への意欲低下がみられた
行基は1,000人を擁する行基集団を形成し、近畿で公共事業を盛んにして信者を増やした
三世一身の法では、既存の灌漑設備を利用して開墾した者に一代の、設備を新設して開墾
した者には三代の占有を許可したものの、占有期間が満期を迎えると公有化されてしまう
ため、十分なインセンティブにならなかった(当時の令の集成『聚楽三代格』15巻に記述)
724 神亀元年・聖武天皇即位
聖武天皇は藤原不比等の娘宮子と文武天皇との間の子
聖武天皇の皇后は藤原不比等の後妻県犬養橘三千代の娘安宿媛
皇室との縁戚関係を誇るべく、宮子を特別扱いしようとした藤原側の動きに
反藤原側の長屋王は待ったをかけた(辛巳事件)
726 ビザンツ帝国・皇帝レオン3世、聖像禁止令
偶像崇拝を厳禁するイスラム圏に近い東方正教会は、偶像を禁止に
東西カトリックの分裂深刻化
729 天平元年・長屋王の変
聖武天皇の男子基王はわずか1歳で夭逝
悲しみに暮れる聖武天皇のもとに「長屋王が呪い殺した」との密告が入る
藤原四兄弟の宇合が長屋王邸を包囲、長屋王は自害に追い込まれる
軍縮派の長屋王は軍拡派の藤原四兄弟との政争に敗れた
密告した中臣宮処東人は囲碁の対局中に殺害される
733 天平5年『出雲風土記』
和銅6年(713年)に風土記の編纂令が全国に 資料
今日まで伝わるのは出雲のほか常陸、播磨、豊後、肥前の5国のもの
736 天平8年・阿倍継麻呂を新羅に派遣
関係改善を目論むも失敗、継麻呂は帰国途上で病死
737 天平9年・藤原四兄弟死す
天平7年(735年)、冷害で人々の抵抗力が弱まっていたところに、太宰府から天然痘
(豌痘瘡)の流行が始まり、平城京にも伝わる。天平8年にはいったん落ち着いたが
太宰府に留め置かれていた新羅への遣いが天平9年に帰京すると、平城京で再流行、
藤原四兄弟はじめ高官3分の1の命を奪う。病は新羅から持ち込まれたとの噂が広まる
米どころの福岡や大阪では住民の半数ほどの命が奪われるなど、壊滅的な影響
(伊藤俊一『荘園』p.15)
天平7年は天然痘、天平9年は麻疹ともいわれる 資料
740 天平12年・藤原広嗣の乱
四兄弟の死後力を得た吉備真備らは国内の建て直しを優先して軍縮に政策転換
藤原四兄弟・宇合の息子広嗣は太宰府へ派遣されるがこれを不服とする
新羅に派遣した遣いが追い返されたことを機に吉備真備らの罷免を求め反乱
乱は鎮圧されるも、聖武天皇は恐怖から彷徨5年と言われる遷都を繰り返す
741 天平13年・国分寺建立の詔
聖武天皇は話題の人行基との会談を望まれ、実現
各地に国分寺・国分尼寺を建立し、仏教による世情安定を試みる
743 天平15年・墾田永年私財法
三世一身の法では開墾のインセンティブが不十分であること、天然痘による人口減で
耕作放棄地が増え税収が滞ったことから、私有を認めてインセンティブを強化
開発ブームが起きる
班田収授(貴族による中央集権)から荘園(武家による地方分権)へ
743 天平15年・大仏造立の詔
749 天平感宝元年・天平勝宝元年・寺院墾田許可令
大安寺、薬師寺、興福寺、国分寺に1,000町、東大寺には4,000町の開墾枠
(伊藤俊一『荘園』p.16)
752 天平勝宝4年・東大寺盧舎那仏の開眼供養会
天平15年(743年)、聖武天皇から大仏建立を求められた行基は全国を行脚し
資金を募る勧進を展開
開眼法要を見ることなく、行基は天平感宝元年・天平勝宝元年に没した
(網野善彦『無縁・公界・楽』p.157)
755 天平勝宝7年・孝謙天皇が杣山を東大寺に寄進
東大寺の後の修理のために、伊賀国黒田荘一帯の大木の産地(杣山)を寄進
今でも二月堂お水取り用の松明は黒田荘(伊賀一ノ井)から運ぶ
(伊藤俊一『荘園』p.52)
756 天平勝宝8年・正倉院
光明皇太后が聖武天皇の七回忌の折に遺品を東大寺に奉献したのが起こり
757 天平宝字元年・養老律令
原本は失われたが、833年の『令義解』に収録された令は今日に伝わる
官制大観に現代語訳(研究者ではない方とのことだが、壮観)
760 天平宝字4年・開基勝宝の発行
日本初の金貨とされる 資料
大仏建立にみられる高度な金属技術がすでにあった
金貨に記された字は吉備真備によるものとされる
764 天平宝字8年・藤原仲麻呂の乱
孝謙上皇が溺愛する弓削道鏡を排するため、淳仁天皇側の仲麻呂は兵を京へ集めようと
したが、密告され乱が発覚、孝謙天皇は仲麻呂の対抗勢力である吉備真備に討伐を命じ
仲麻呂は非業の死を遂げる
孝謙上皇は淳仁天皇を廃し、自ら称徳天皇として重祚した
765 天平神護元年・私田開墾の停止
官吏時代に目星をつけた土地に退官後に移住し土着化する前司浪人(ぜんじろうじん)
は私的荘園、武士の原型となる
宝亀3(772)年に私田開墾は再開される
769 神護景雲3年・弓削道鏡事件
「次の天皇は道鏡」という大分宇佐神宮の信託が出たと道鏡の弟が奏上
和気清麻呂が真偽を確かめに宇佐神宮へ赴くと、そうではないとの信託が降る
これを聞いた称徳天皇は、「後継は私が決める」と眼が覚める
偽りの信託を得て天皇になろうとしたことから、日本三大悪人の一人とされる
道鏡については本居宣長説など諸説ある
770 神護景雲4年・弓削道鏡、下野薬師寺別当を申しつけられる
道教は京を離れ、親族4人は土佐へ流刑
781 天応元年・桓武天皇即位
父の光仁天皇から譲位、久しぶりの天智天皇系の天皇
天武天皇系、東大寺系を排除したいとの思惑
784 延暦3年・長岡京に遷都
785 延暦4年・遷都の立役者藤原種嗣が暗殺される
背後に平城京派である東大寺や相良親王の影、相良親王は流刑の途上薨御
その後日照り、飢饉、疫病、皇后崩御、伊勢神宮の放火など不幸が続く
和気清麻呂の助言もあり、延暦12年(793年)に再遷都を決める
長岡は後に菅原道真の所領となる
794 延暦13年・平安京に遷都
平安時代始まる
797 延暦16年・坂上田村麻呂、征夷大将軍に任ぜられる
797 延暦16年・銭出挙
官符に「公私挙銭」との記述、銭での貸付け
挙とは「いらふ」、貸付けの意
(井原今朝男『中世の借金事情』p.80)
利息は元本の半倍までとされた(類聚三代格)
(井原今朝男『中世の借金事情』p.113)
797 延暦16年『続日本紀』
文武元年(697年)から延暦10年(791年)までの記録
42代・文武(もんむ)天皇、43代・元明(てんみょう)天皇、
44代・元正(げんしょう)天皇、45代・聖武(しょうむ)天皇、
46代・考謙(こうけん)天皇、47代・淳仁(じゅんにん)天皇、
48代・称徳天皇(46代が再即位)、49代・光仁(こうにん)天皇、
50代・桓武天皇の御代を記録
800 カールの戴冠
東方正教会への対抗心を燃やすローマ教皇レオ3世は、フランク王国のカール1世に
サン・ピエトロ大聖堂で戴冠、権威を高める
カール1世=シャルルマーニュ=大チャールズ
(ジェームズ・スチュアート『経済の原理』p.404)
819 弘仁10年・5月2日の格
利息は現金の半倍(50%)を超過してはならないとの定め
797年の官符を踏襲
(井原今朝男『中世の借金事情』p.167)
822? 弘仁13年『日本霊異記』
上中下巻合わせて116の説話
833 天長10年『令義解』
「りょうのぎげ」と読む
これにより大宝律令の一部、養老律令が伝わる
840 承和7年『日本後紀』
延暦11年(792年)から天長10年(833年)までの記録
50代・桓武天皇、51代・平城(へいぜい)天皇、52代・嵯峨(さが)天皇、
53代・淳和(じゅんな)天皇の御代を記録
843 ヴェルダン条約
フランク王国が3分割
861 貞観3年・平安京で赤痢流行
864 貞観6年・富士山の大噴火、阿蘇山の噴火
866 貞観8年・応天門の変
藤原良房は大伴氏、紀氏を朝廷から遠ざけ、初の摂政となる
868 貞観10年『令集解』
明治大学日本古代学研究所のサイトに詳しい
869 貞観11年『続日本後紀』
54代・仁明(にんみょう)天皇の御代(833〜850年)を記録
869 貞観11年・貞観地震
東北地域を大震災と大津波が襲う 資料
878 元慶2年・関東地震
879 元慶3年『日本文徳天皇実録』
55代・文徳(もんとく)天皇の御代(850〜858年)を記録
887 仁和3年・仁和地震
南海トラフ型の地震
富士山の大噴火からこの頃まで天変地異が続く
891 寛平3年・寛平の治
関白藤原基経逝去、その後関白を置かず
藤原家の血筋ではない宇多天皇は右大臣に菅原道真を登用
897 寛平9年・宇多天皇譲位
皇位を醍醐天皇に譲り、仁和寺を建立し法皇として入り隠然たる力を持つ
901 昌泰4年・昌泰の変
右大臣菅原道真は左大臣藤原時平の讒言により太宰府に左遷される
上皇となった宇多天皇の影響を醍醐天皇の周囲が排除する試み
反藤原の宇多上皇と親藤原の醍醐天皇
東風吹かば 匂いおこせよ梅の花 あるじなしとて春な忘れそ 資料
中世への移行は院政時代にずれ込む
901 延喜元年『日本三代実録』
56代・清和(せいわ)天皇、57代・陽成(ようぜい)天皇、
58代・光孝(こうこう)天皇の御代を記録
藤原時平が編纂
902 延喜2年・荘園整理令
厳しい生活環境の中、たくましく生き抜く富豪の輩(力田の輩)が現れた
富豪の輩と結ぶ朝廷は勅旨田を作り、庶民を酷使した
こうした横暴をやめさせ、庶民に田地を再分配(班田)
903 延喜3年・太宰府にて道真死去
906? レギノ『司教法令集』
927 延長5年『延喜式』
藤原時平が律令の施行規則を50巻にまとめる(現代の施行規則、施行令か)
公家の細かいしきたりを武家は嫌う、几帳面すぎることを延喜式とも
927 イングランド王国の成立
サクソン人の七王国が合同
930 延長8年・清涼殿落雷事件
雨乞いの儀式中、平安京内裏に落雷
藤原清貫が即死、平希世も死去、惨状を見た醍醐天皇もその後崩御
清貫は左遷された菅原道真の監視役であったことから、道真の怨念との話が広がる
930 延長8年・藤原時平が朱雀天皇の摂政に
以後、藤氏長者(藤原一門のトップ)が摂政関白の座を占める摂関政治に
10世紀は乾燥の世紀、村落の消滅も見られた
口分田も自然消滅、荘園の時代に(官僚制から権門政治へ)
939 天慶2年・承平天慶の乱
東国で乱を起こした平将門は天慶3年(940年)に討死
瀬戸内で乱を起こした藤原純友は天慶4年(941年)に捕えられ、獄中死
討伐に功あった武装勢力が朝廷に足掛かりを得る
945 天慶8年・志多羅神上洛事件
志多羅の神をいただく神輿3基を担いで、民衆が筑紫から京へ上洛
先頭の神輿は道真をいただくもの
(三枝暁子『日本中世の民衆世界』p.8)
957 天徳元年・北野天満宮の起こり
(三枝暁子『日本中世の民衆世界』p.7)
https://kitanotenmangu.or.jp/about/
960 北宋建国
962 神聖ローマ帝国の成立
イタリア王ベレンガリオ2世がローマ教皇領に侵入
ローマ教皇ヨハネス12世は東フランク王オットー1世に助けを求める
これを奇縁にオットー1世は神聖ローマ帝国皇帝として戴冠
後にヨハネスがベレンガリオと通じるとみるや両者を排除し、オットー自ら
イタリア王を兼務、東ローマ帝国から妃を迎え、東方文化を移入
987 仏・カペー朝の成立
フランク王国からフランス王国へ
ユーグ・カペー、フランス王に
(ジェームズ・スチュアート『経済の原理』p.222)
988 永延2年・尾張国の住民が国司藤原元命を国司苛政上訴
住民によるリコール活動が認められ、元命は罷免される
一般のイメージとは異なり、当時の住民は唯々諾々としていなかった
背景にあの手この手で税逃れをした免田の存在(皺寄せが百姓(ひゃくせい:庶民)に)
(伊藤俊一『荘園』pp.54-55)
1000 洪・アールパード朝の成立
イシュトーバーン1世がローマ教皇シルウェステル2世から王冠を戴く
ハンガリー国旗に描かれた王冠の傾く十字は、聖イシュトーバーンの王冠が
1440年に盗まれた故事に由来か
1001 長保3年・清少納言『枕草子』
この頃までにほぼ完成と伝わる
地方を統治するために派遣される受領(ずりょう)の悲喜交々も描く
(伊藤俊一『荘園』p.37)
1017 寛仁元年・藤原頼通が摂政に
治暦4(1068)年まで、摂政関白として権勢を誇る
1019 寛仁3年・ 刀伊(とい)の入寇
沿海州から南下した女真族系の海賊が隠岐、対馬、九州地域を荒らす
1039 長暦3年・内裏焼失
再建のために荘園整理令が出され国免荘(税を免れた荘園)が廃止される
(伊藤俊一『荘園』pp.63-64)
1049 永承4年・官省符荘として高野山金剛峯寺領開墾
太政官民部省の省令(符)として、不輸・不入の権が与えられた
(伊藤俊一『荘園』p.47, p.100)
1051 永承6年・前九年の役
1052 永承7年・宇治平等院鳳凰堂
藤原頼通によって開創
仏教において末法の初年とされ、浄土思想がひろまる
1052 永承7年・兼算が東大寺の荘園の復活を試みる
名(みょう)といわれる水田の区画を年ごとに割り当てていた
山古志村から20名ほどの農民を率いてやってきた古志得延が再建に当たるも
条件が折り合わず、天喜5年(1057年)に農民集団ごと逃げてしまう
自律的でダイナミック、移動自由な田堵(たと)の姿
大規模な名を割り当てられる請負人=大名田堵
(伊藤俊一『荘園』pp.42-44)
1053? 『新猿楽記』
成立年は不明、おそらくこの頃
習俗、風物を記す当時を伝える貴重な書
1054 キリスト教、東西教会が相互破門
コンスタンティヌープリ総主教に怒ったローマ教皇の使者が
アヤソフィアの宝座に破門状を叩きつける
2016年、ローマ教皇とロシア正教モスクワ総主教キリル1世が会談
https://www.nikkei.com/article/DGKKASGM13H2G_T10C16A2FF8000/
1056 叙任権闘争
ローマ教皇グレゴリウス7世は教皇権の至上を主張
神聖ローマ帝国皇帝ハインリッヒ4世はこれに反発
1062 康平5年・陸奥安倍氏滅亡
1066 イングランド・ノルマン朝の成立
世継ぎのないエドワード懺悔王(証聖王エドワード)死去後の混乱に乗じて
フランスからノルマンディー公ギヨーム2世が進軍
ヘイスティングズの戦いでノルマンディー公側が勝利
ウィリアム征服王、ウェストミンスター寺院にて即位
フランスの封建制度をイングランドに移入(各地にノルマン人を派遣)
ノルマン人によるサクソン人の統治(外国人統治)が王と議会の対立の源
この時武勲を上げたギヨーム・ド・カアーニュは、経済学者ケインズの祖先とされる
(スキデルスキー『ジョン・メイナード・ケインズ』上, pp.24-25)
1068 治暦4年・後三条天皇即位
宇多天皇以来、藤原家の流れでない天皇の即位
1069 延久元年・荘園整理令
大内裏の改装のため、新興の荘園、素性が明瞭でない免田を廃した
記録荘園券契所は権門にかかわらず大鉈を振るう
課税ベースを拡大し、財政を安定化させる目的
権門政治から官僚制への揺り戻し
1077 カノッサの屈辱
前年に破門されたハインリッヒ4世は降りしきる雪の中破門解除を求める
破門は解除される
1080 ローマ教皇グレゴリウス7世、デンマーク王への訓告
自然災害や疫病の罪を聖職者に着せてはならないと
1083 永保3年・白河天皇、京都法勝寺に九重塔を建立
高さ81mの木造建築物とされる
(伊藤俊一『荘園』p.82)
1083 永保3年・後三年の役
1085 イングランド・ドゥームズデイ・ブック
イングランドを征服したウィリアム王が行った財産調査(検地+財産)
最後の審判の日(Doomsday)と家(Dome)の語呂合わせ
(ジェームズ・スチュアート『経済の原理』下, p .626)
1086 応徳3年・白河天皇、譲位
後三条天皇の遺言を守らず幼い堀川天皇に譲位、院政を敷く
摂関政治から院政へ(父から子へという皇位継承の作法が固まる)
ここから中世(家制度の確立)
(呉座勇一『一揆の原理』p.209)
1090 寛治4年・白河上皇、上賀茂神社と下賀茂神社に不輸祖田を寄進
それぞれに600町もの広大な不輸・不入の土地を寄進
(伊藤俊一『荘園』p.84, p.102)
1095 嘉保2年・比叡山延暦寺の強訴
鎮圧の責任者であった関白藤原師道は、比叡さんにより呪詛され急死
天罰に怖れを抱いた朝廷は、山僧と日吉の神輿を攻撃した源頼治を処罰した
(呉座勇一『一揆の原理』p.58)
1096 永長元年・永長の大田楽
田楽がブームとなり、殿上人まで踊り出す
(伊藤俊一『荘園』p.81)
1096 第1回十字軍
1099 康和元年・初の質券文
絹80疋を借入れるときに土地の権利書を差し出せないので代わりに質券文を用意
(井原今朝男『中世の借金事情』p.116)
1100 イングランド・ウィリアム2世が事故死
鹿狩り中にサー・ウォルター・ティレルの放った矢が当たる
(ベンサム『道徳および立法の諸原理序説』p.203)
1100 イングランド・戴冠憲章
貴族とのバランスをとった碩学王ヘンリー1世(公正の獅子)
マグナ・カルタの元とされる(『フィルマー 著作集』pp.92-96)
1107 嘉承2年・堀川天皇崩御
白河上皇の院政は大治4年(1129年)まで続く
1108 天仁元年・浅間山の大噴火
1113 ヨハネ騎士団誕生
ロードス島を追われた際カール5世からマルタを下賜され、マルタ騎士団となる
1117 永久5年・最古の中世借用書
8斗の米を借り、利息をつけて返済する
公験(くげん:土地の所有権を公認した証書)を質券として付ける
土地の質入れが禁止されていたことを踏まえた工夫
(井原今朝男『中世の借金事情』p.117に写真掲載)
1119 ユーグ・ド・バイヤン、テンプル騎士団創設
聖ヨハネ病院修道会を参考に、テンプルはソロモン王の神殿のこと
(ジェームズ・スチュアート『経済の原理』下, p.819の注30)
黒と白の旗、白はキリスト教の友愛を、黒は異教徒に対する獰猛さを表す
(コーン『新版 魔女狩りの社会史』p.181)
1122 ウォルムスの協約
叙任権闘争の終結
1124 天治元年・中尊寺金色堂を建立
奥州藤原氏、藤原清衡による
「五月雨や 降り残してや 光堂」(芭蕉)
1128 トロワの教会会議
聖ベルナルドゥスにより、テンプル騎士団を修道会として認可
フランスを皮切りに各国が土地を寄進、大土地所有者となる
1129 大治4年・白河上皇崩御、鳥羽上皇が継ぐ
国土の半分ほどが荘園になる
1134 長承3年・天下飢饉
翌保延元年は雨が多く冷害に
藤木久志『日本中世災害史年表稿』を利用した気候変動と災害史料の関係の検討―
「大飢饉」の時期を中心に―
https://chikyu.repo.nii.ac.jp/records/2117
(井原今朝男『中世の借金事情』p.18)
1136 保延2年・大津神人の裁判
日吉社の大津神人は多くの地位ある人たちにお米を貸す大口債権者であった
借り手は当時の社会の柱であった国主、司官人、名主、百姓層(p.121の表)
鳥羽上皇は自らの所領内は自らで裁判し、他の地については崇徳天皇に委ねた
飢饉の中でなんとか勤務評定を上げようと上納米確保に奔走した結果では?
(井原今朝男『中世の借金事情』p.119-122)
1142 永治2年・祇園四条橋の造成
勧進による資金調達
(網野善彦『無縁・公界・楽』p.158)
1147 第2回十字軍
奪われたエデッサ伯領を奪還する試み
仏王ルイ7世は戦争協力への見返りとして、テンプル騎士団にパリの土地を寄進
テンプル騎士団は寄進地に塔を立て、また治外法権的特権を得る
これをきっかけに、テンプル騎士団は財産管理人としての役割も担うようになる
膨大な財産を背景に為替業も営むようになり、地代名目で利子も徴収
(コーン『新版 魔女狩りの社会史』p.183)
1153 イングランド・プランタジネット朝はじまる
プランタジネットとはエニシダ(金雀枝)というマメ科の植物、これが紋章
フランス・アンジュー伯アンリがヘンリー2世として即位、フランス西半分と
グレートブリテン島南部を所領とする大きな王国(アンジュー帝国)となる
Rex Angliae→アングレ→イングランド
1155 久寿2年・大蔵合戦
源義平が大蔵館(現在の埼玉県比企郡嵐山町大蔵)の源義賢と秩父重隆を討つ
このとき木曽に逃げ落ちたのが後の木曽義仲であり、義平は源頼朝の兄弟
一族内のいざこざは保元の乱、鎌倉幕府の開幕にまで発展
(呉座勇一『一揆の原理』p.204)
1156 保元元年・保元の乱
この年崩御した鳥羽上皇は崇徳天皇の嫡子ではない近衛、後白河を次々と天皇にした
これに反感を抱いていた崇徳上皇側を後白河天皇側が急襲し勝利した
1159 平治元年・平治の乱
後白河天皇側の内紛を平清盛が収め、平家の力が揺るぎないものに
知行国の半数を支配下におき、経済力と政治力を我が物に
(伊藤俊一『荘園』p.110)
1161 応保元年・後白河上皇の院政停止
後白河上皇に七番目の男子が生まれ、これを立太子にするという動きを察知した
二条天皇は院政を廃止、平清盛は御所の警備にあたる
1163 ローマ教皇アレクサンデル3世、教皇勅書「オムネ・ダトゥム・オプティムム」
教皇の座を得るのに力となったテンプル騎士団への感謝状
ローマ教皇から特権的な地位を与えられる
既存の教会権力、商いのライバル、税を課された業者から妬まれ、恨まれる
1164 長寛2年・三十三間堂建立
平清盛が後白河上皇の居場所として建立
現在の三十三間堂は後嵯峨上皇による再建 資料
1166 仁安元年・平清盛、後白河上皇に寄進
後白河上皇、二条天皇の双方に睨まれない全方位外交
(伊藤俊一『荘園』p.110)
1167 仁安2年・平清盛、太政大臣に
わずか3か月で職を辞し、病もあって引退
1168 仁安3年・平清盛、厳島神社の整備
安芸守となった清盛が寝殿造の社殿を造成 資料
1170? フィボナッチ誕生
数列で知られる "ピサのレオナルド"
会計事務所に勤務、アルジェリアから古い数学の知識をイタリアに持ち帰る
アラビア数字、簿記の原理も持ち帰る(ローマ数字では勘定記録の見た目が煩雑)
Lowry, S.T. 著, 武藤訳「ピタゴラス学派の数学的理想主義と経済・政治理論の構想」p.34
1173 キリスト教異端ヴァルド派はじまる
リヨンの商人ヴァルドによる清貧・禁欲のすすめ
1170 嘉応2年・宋船が大輪田泊に入港
日宋貿易の本格化、大輪田泊(おおわだのとまり)は今の神戸港
1177 安元3年・鹿々谷(ししがたに)の陰謀
比叡山延暦寺領内の白山寺を、後白河法皇側近西光の子藤原師高の目代が焼き討ち
これに怒った僧たちが師高の処分を求め平安京へ押しかける
その後平安京内で起きた大火の罪を、後白河側は比叡山天台宗座主明雲にかぶせる
流刑の途上、僧たちは明雲を奪い返し、比叡山に立て篭もる
これを聞いた後白河法皇は平重盛らに延暦寺攻撃の命を下すが、不審に思った重盛は
清盛に相談、攻撃の直前に清盛に密告があり、これが謀略と悟り思いとどまる
清盛は西光を殺害するが、白を切る後白河上皇は不問に付す
1178 治承2年・公家新制
7条に利倍法の規定
古代法に倣い、複利を禁じ、元利の総額制を採用
利息は青天井ではないという一定の歯止めを設ける
(井原今朝男『中世の借金事情』pp.165)
1179 治承3年・銭の病
日宋貿易で流入した大量の宋銭は皇朝十二銭を押しのけ国内で流通
これを病だとして問題視する後白河上皇を平清盛は幽閉
宋銭の流通ととき同じくして伝染病も広まったという見方、インフレを病とする見方
などもあるが、非貨幣経済(後白河側)と貨幣経済(清盛側)の対立と見るのが自然
平家から天皇家、摂関家に嫁いだ女性たちが次々と亡くなり、清盛に危機感
清盛は軍勢を率いて平安京に入り、反平家の高官を軒並み排除(治承3年の政変)
院政を停止された後白河上皇の子以仁王は兵を集めるも、鎮圧される
(伊藤俊一『荘園』pp.114-115) 資料
中世期に貨幣経済が発達しなかったのは、主な消費者である荘園領主たちが保有する
全国の荘園から、季節に応じて海山の幸、服飾、日用品、人手などを調達できたから
毎月送られてくる旬のものギフトのようなもの
「買う」ではなく「納める」、よって金融業者より問や問丸などの物流業者が栄えた
(伊藤俊一『荘園』pp.153-155)
1180? ウォルター・マップ『宮廷人の慰みごと』
カタリ派の悪魔崇拝に関する記述
1180 治承4年・源頼朝、挙兵
石橋山の戦いで敗れるものの、その後東国有力者の力を結集、富士川の戦いでは
水鳥が飛び立つ音を夜襲と勘違いした平家軍が敗走
1180 治承4年・福原へ遷都
1181 治承5年・東大寺の再建勧進
平氏に焼かれた東大寺と大仏の再建のため、僧重源は宣旨を与えられる
(網野善彦『無縁・公界・楽』p.157-158, p.181)
1181 養和元年・養和の大飢饉
冷害による凶作
『方丈記』に記述あり
この年に平清盛逝去
藤木久志『日本中世災害史年表稿』を利用した気候変動と災害史料の関係の検討―
「大飢饉」の時期を中心に―
https://chikyu.repo.nii.ac.jp/records/2117
1183 寿永2年・木曾(源)義仲、挙兵
倶利伽羅峠の戦いで勝利も、京都で狼藉を働く
これに対して朝廷は寿永二年十月宣旨を下す
頼朝が朝廷に無断で東国の地領を再分配したことを不問に付す代わりに反朝廷の者
を討伐するよう促し、また朝廷への年貢や公事物が滞らないようにさせた
義仲は頼朝に討ち取られる
1184 元暦元年・後鳥羽天皇即位
後鳥羽天皇は三種の神器がないまま即位、安徳天皇と天皇が2人の事態に
この年、一ノ谷の合戦で敗れた平家は安徳天皇とともに西へ逃れる
1184 ヴェローナ教会会議
異端を法廷に引き渡すことを決める
ヴァルド派は異端とされるが、大陸ヨーロッパ中にひろまる
1185 元暦2年・神護寺の45か条
貴族を僧として迎える仏門内が階級分化してゆくのを再統合する試み
文覚は形骸化した一味和合の代わりに一味同心という概念を打ち出す
一味和合:釈迦の教えに従う(来世的)
一味同心:日本の神々に対する宣誓(現世的)
一揆は現世的なふるまいなので、一味同心
神仏習合、本地垂迹説(仏が日本の神の姿で現れる)
(呉座勇一『一揆の原理』pp.84-92)
1185 元暦2年・壇ノ浦の戦い
平家滅亡、このとき8歳の安徳天皇も崩御
これを快く思わない頼朝と義経の間に争いが生じる
1187 文治3年・宋銭停止令
背景に宋による信じられないほど多くの貨幣鋳造
11世紀後半には、年60億枚もの濫造があったとのこと(俄かには信じられないが…)
もし本当にこれだけの枚数が鋳造され流通していたら、価値はほぼ0であったはず
日宋貿易船のバラストとして宋銭が使われたいたことはその傍証
(伊藤俊一『荘園』p.182)
1187 文治3年・善光寺の再建のための勧進
源平合戦で焼失した善光寺を再建するための資金を募る
協力しない荘園は没収との御触れを頼朝が出す
(井原今朝男『中世の借金事情』p.66)
1187 エルサレム王国滅亡
エジプト王国サラディンによる
1189 イングランド・獅子心王リチャード1世即位
「買い手がいればロンドンも売る」と言い、あらゆる手を尽くして資金を集め
教皇グレゴリウス8世の要請に応じて第3回十字軍に馳せ参じる
(『フィルマー 著作集』p.150)
1189 文治5年・源頼朝、奥州藤原氏を滅ぼす
義経を無断で殺害したとして
1191 建久2年・銭貨出挙を公認
利息分を米で払うという銭直法
(井原今朝男『中世の借金事情』pp.166-167)
1192 建久3年・源頼朝、征夷大将軍に
鎌倉幕府開幕
1193 建久4年・宋銭停止令
1195 東ローマ帝国・クーデター
兄である皇帝イサキオスを弟のアレクシオスが幽閉、帝位につく
神聖ローマ帝国に膨大なお金を献上、友好的な貿易相手国ベネチアと仲違いするなど、
政策の失敗が重なる
1198 インノケンチウス3世、ローマ教皇就任
テンプル騎士団出身(コーン『新版 魔女狩りの社会史』p.187)
9人の教皇を輩出した名門コンティ家出身、37歳で就任「最も偉大な法皇」
異端に寛容な南フランスに聖ドミニクスを派遣も、異端を改心させられず
4人がドイツ王を選ぶしきたりを作る(世俗の諸侯はライン宮中伯(プファルツ伯)
だけで、残りはマインツ、ケルン、トリーアの大司教)
宮中伯とは宮廷の書記、プファルツとは宮殿の意味
プファルツ伯はバイエルン公と交代で選帝の任にあたる
権力を確立したことはウェーバー『世界宗教と経済倫理』p.94で言及
1199 イングランド・リチャード1世がフランスにて戦死、急遽失地王ジョンが即位
1199 南宋・宋銭の持ち出し禁止令
1200 イングランド・ジョン王、再婚
カトリック国フランスの王フィリップ2世に呼び出されたが、拒否
1201 第4回十字軍
ローマ教皇インノケンチウス3世が召集、ベネチアに兵が集結
クーデターで追われた東ローマ帝国皇帝の皇嗣アレクシオスは、皇位奪還を目指して
教皇に泣きつき、インノケンチウスはこれに応える(司令官シモン・ド・モンフォール)
十字軍は「戦費調達」のためカトリックのザラ市を攻撃、インノケンチウスは激怒し
一時破門するも、財政難の事情を聞き赦してしまう
1202 フィボナッチ『算盤の書』
イタリア人レオナルド・ピサーノは中東を旅してアラビア数字に接し、欧州に紹介
(松浦訳『不思議な数 π の伝記』p.60)
1203 イングランド・アーサー殺害
フランスが傀儡を目論んだ世継ぎが殺害され、イングランドと戦闘状態に
ジョン王はフランスの領土の大半を失う
1204 東ローマ帝国・コンスタンティノポリス陥落
第4回十字軍が東ローマ帝国の首都を占領、アレクシオスは父とともに即位するが
父子ともに殺害される、その後再びコンスタンティノポリスは陥落、略奪の限りが
尽くされる(ベネチアの財宝の多くはこの時略奪されたもの)
東ローマ帝国の継承国はこの後も細々と続くが、帝国の栄光はこのとき潰える
1207 建永2年・裁判至要抄
公家の裁判基準を示す
「質地は永領の法なし」:質流れした土地を永久に保有することはできない
(井原今朝男『中世の借金事情』p.131)
https://www.digital.archives.go.jp/img/742887
1209 イングランド・ジョン王破門
カンタベリー大司教の任命をめぐり教皇インノケンチウス3世と対立
1209 インノケンチウス3世、アルビジョア十字軍を派遣(〜1229)
前年、異端を改心させるために派遣した使節が殺害されていた
南仏トゥールーズなどに住む異端を "根絶" する目的でシモン・ド・モンフォール
を派遣(イングランドに議会の礎を築いた同名の人はこのモンフォールの実子)
南北フランスの凄惨な戦いの結果、南仏独自の文化が絶える
(森島恒雄『魔女狩り』p.28)
フランスの異端アルビ派はカタリ派(カタリ=清浄者、猫)
(黒川正剛『図説 魔女狩り』p.23)
1210 インノケンチウス3世、ローマ王オットー4世を破門
代わりにフリードリッヒ2世を立てる
1212 建暦2年・鴨長明『方丈記』
鴨長明(1155?〜1216)
1215 金・銅銭の流通を禁止
対モンゴルの戦費調達のため、紙幣を乱発
インフレを防ぐために銅銭の流通を禁じた
行き場を失った銅銭は、南宋や日本に流れ込む
(伊藤俊一『荘園』p.182)
1215 第4回ラテラン会議
インノケンチウス3世「教皇は太陽、皇帝は月」
聖体変化は実体変化であるとの宣言(聖餐式における葡萄とパンは、イエスの血と肉に
化体する;黒川正剛『図説 魔女狩り』p.29)
異端尋問の手続きが定められる
ユダヤ教徒とイスラム教徒の衣服に異教徒である印をつける
1215 イングランド・大憲章(マグナ・カルタ)
対仏戦争の資金を税で調達したジョン王に対する不満から内戦に
徴税権の制限、教会・都市の自由、不当逮捕の禁止等を王に認めさせた63箇条(資料)
国王大権と臣民の自由の両立(『フィルマー 著作集』p.106)
その後インノケンチウス3世の力を得て大憲章を無力化、再び重税を課す
これも諸侯の反発を招き、ジョン王は失意の中死す
1216 イングランド・ヘンリー3世即位
フランスがロンドン占領中にジョン王が死去、わずか9歳で即位
1227年に親政を開始、イングランド諸侯の圧力を嫌いフランス人を側近に登用
1216 聖ドミニクス、フランスにてドミニコ修道会を設立
1220 神聖ローマ帝国・教会諸侯との協約
皇帝となったフリードリッヒ2世は、シチリア王位確保に尽力したインノケンチウス3世
に報いるために、領内の教会に特権を付与(関税徴収、通貨発行、裁判等の権利)
1220 承久2年・慈圓『愚管抄』
貴族社会から武家社会への移り変わりを神武天皇以来の皇統記としてまとめる
1221 承久3年・承久の乱
大内裏の整備費用を全国に課そうとする後鳥羽上皇と、東国でそれを拒否する執権北条義時
北条方の機敏な動きにより墨俣で上皇側は敗北、後鳥羽上皇は隠岐に流刑
京都にとどまる北条泰時・時房は六波羅探題となり、西国の動きに眼を光らせ調停役に
西国御家人から奪った地領は東国御家人へ分配、御家人たちは西国へ移住
毛利、小早川、大友などは西遷御家人、鶴岡八幡宮には毛利と島津が整備した墓がある
西遷御家人たちは東国のならわしを西国に持ち込んだため、もめごとも起きた
西国になじむよう、鎌倉幕府は西遷御家人に促した
(伊藤俊一『荘園』pp.130-131)
1223 貞応2年・廻船式目
伊勢大湊の「諸廻船法令条々」は後堀河天皇の綸旨の形をとっている
(網野善彦『無縁・公界・楽』p.129)
1226 嘉禄2年・半倍法の復活
利息は元金の半倍までとする古代法を復活させる
宋銭の流通を事実上黙認する
(井原今朝男『中世の借金事情』p.169)
1226 仏・ルイ9世即位
わずか12歳で即位、イングランドに対するフランスの圧力は緩和される
1227 グレゴリウス9世、ローマ教皇就任
十字軍出兵を渋る神聖ローマ皇帝フリードリッヒ2世を破門猶予とし、異端尋問を制度化
1229 神聖ローマ帝国・フリードリッヒ2世、エルサレムに入る
ドイツ系のチュートン騎士団は祝福も、フランス系の聖ヨハネ騎士団とテンプル騎士団は
快しとせず
1229 安貞3年・講米の起こり
普賢丸という人が唐招提寺の晦米を三石三斗借り、弁済できないまま死去した
担保の畠地を質流れとした
(井原今朝男『中世の借金事情』p.59)
1230 寛喜2年・寛喜の飢饉
6月9日(新暦7月29日)に雪が降る、藤原定家も綿付きの服を羽織る
凶作のため寛喜3年(1231年)には餓死者が出るほど、貞永元年(1232年)には
疫病も流行
藤木久志『日本中世災害史年表稿』を利用した気候変動と災害史料の関係の検討
―「大飢饉」の時期を中心に―
https://chikyu.repo.nii.ac.jp/records/2117
1232 貞永元年・公家新制42か条、御成敗式目51か条
朝廷と御家人のルールを定める
https://www.tamagawa.ac.jp/SISETU/kyouken/kamakura/goseibaishikimoku/index.html
1232 神聖ローマ帝国・諸侯の利益のための協定
イタリア征服によるローマ帝国再興の野望に燃えるフリードリッヒ2世は、不在にする
ドイツの諸侯に特権を与えた(関税徴収、通貨発行、裁判等の権利)→領邦国家
ローマ教皇との確執が先鋭化
1233 天福元年・借金の利息軽減
寛喜2(1230)年の飢饉により窮地に陥った債務者を救うために幕府追加法が出され
元金と同額を上限とする利息を元金の5割に軽減
(井原今朝男『中世の借金事情』p.171)
1233 グレゴリウス9世、教皇直属の異端尋問裁判所を設立
ドミニコ会士を異端尋問官(教皇直属の "親衛隊")に任命
(森島恒雄『魔女狩り』pp.32-35、黒川正剛『図説 魔女狩り』p.26)
1234 金滅亡
モンゴル帝国の勃興
1235 イングランド・マートン布告
ヘンリー3世によって制定されたイングランド王国初の制定法
入会地を私有化する「囲い込み」を認める
(『フィルマー 著作集』p.103)
1240 仁治元年・酒麹賦役課が申請される
朝廷の雑費を賄うための酒税、麹税
実際に税が認められたのは10年ほど後、貞治年間
(三枝暁子『日本中世の民衆世界』p.30)
1248 宝治2年・桑名供御人の活動
朝廷に牡蠣を貢める
戦国期に禁裏御料所の桑名衆へ発展
(網野善彦『増補 無縁・公界・楽』p.102, p.180)
1249 アルフォンソ3世、ポルトガルのレ・コンキスタ完了
地中海の航行権を回復
1250 神聖ローマ帝国・フリードリッヒ2世死去
イタリア征服の野望は、3度の破門と廃位(1245年)により潰える
イスラムとも近かった皇帝の死を、教皇インノケンチウス4世は「天地が喜ぶ」と
1254 神聖ローマ帝国・大空位時代
フリードリッヒ2世の跡を次いだコンラート4世が亡くなりシュタウフェン朝断絶
選挙で選ばれた皇帝ホラント伯ウィレムは、権威づけのために国名を神聖ローマ帝国とした
1255 葡・リスボンを首都に
1255 建長7年・無尽の起こり
幕府追加法305条
銭貨出挙を、担保を取って利子付きで貸す
(井原今朝男『中世の借金事情』p.60)
幕府追加法306条
私出挙、挙銭の利息は元金の1倍までとする
(井原今朝男『中世の借金事情』p.172)
1256 建長8年・明石泊での勧進
港の利用料を勧進の形で徴収、現代の公共事業や港湾整備の原型に
交通網の整備費用を、関所を立てて徴収する通行料で賄う方式にも発展
(網野善彦『無縁・公界・楽』p.161)
1258 正嘉2年・正嘉の飢饉
1257年、インドネシアのサマラス山が大噴火
1257年の収穫期には暴風雨にも見舞われた
正元元年(1259年)には冷害の不作により、飢饉に
(井原今朝男『中世の借金事情』p.21)
藤木久志『日本中世災害史年表稿』を利用した気候変動と災害史料の関係の検討
―「大飢饉」の時期を中心に―
https://chikyu.repo.nii.ac.jp/records/2117
1258 イングランド・オックスフォード条款
シモン・ド・モンフォールらは、15人からなる国王評議会の設置と議会の開催を含む
条款をヘンリー3世に認めさせる
その後、ヘンリー3世は諸侯の混乱に乗じ、ローマ教皇アレクサンデル4世の許しを得て
条款を反故に
1260 文応元年・日蓮『立正安国論』
正嘉の飢饉をみた宗教家が、執権北条時頼にその惨状を報告
他の鎌倉仏教を敵視したため、浄土宗等他宗派からの反発を招く
1261 イングランド・第2次諸侯戦争
ヘンリー3世に重用されていたシモン・ド・モンフォールは失政で遠のけられる
これに反発したモンフォールがヘンリー3世に勝利、支持を広げるため議会招集
1260 弘長元年・関東新制条々
61か条
1263 弘長3年・広田社18か条
神祇官(じんぎかん)から兵庫西宮の広田社に送られた刑事法令
夜田を刈る行為を窃盗罪として処罰
「私の想像にすぎないが、広田社の「田舎の習」は、捕まえた「夜田刈り」犯を
生かしておくようなことはなかったであろう」という実力行使から法の支配(撫民)へ
法の対象が公家・武家から庶民層に広がるも、文亀年間(1501-1504)にもまだ私刑は
残存していた
(笠松宏至『徳政令 中世の法と慣習』p.194, p.201)
1263 弘長3年・麻布の年貢を銅銭で納めよとの幕府の命
代銭納は市のひろまりとともに(納めるものから市場で買えるものへ)
問、問丸という物流業者は次第に金融的役割も担うようになる
市の成立は職の一円化(本家→領家→荘官という縦社会がフラット化)による
政府による集権的分配から価格メカニズムによる分散的分配へ
1264 文永元年・二毛作の麦への課税禁止令
御成敗式目の『新編追加』(現代の改正法か)
飢饉対策として、稲刈り取り後の麦には年貢を課さず
1265 イングランド・シモン・ド・モンフォールの議会
大憲章とオックスフォード条款をヘンリー3世に認めさせる
(ミルトン『イングランド国民のための第一弁護論』p.237)
1266 イングランド・シモン・ド・モンフォールの失脚
権力が強くなりすぎたモンフォールに対する反発が広がり、ケニルワース包囲戦で
ヘンリー3世側が勝利、王権を取り戻す
1267 文永4年・徳政令
12月には、鎌倉幕府法追加法435条にて、御家人の所領を非御家人の女子、傀儡子、
白拍子に譲ることを禁止
制度に組み込まれていない人たちが浸透してくることへの怖れ
(網野善彦『無縁・公界・楽』pp.140-141)
1271 元建国
1272 イングランド・エドワード1世即位
十字軍遠征の帰路、アルプスにて
アクトン・バーネル制定法(1283年)、商人制定法(1285年)により羊毛貿易を推奨
取引の自由、度量衡、債権債務の商事法などを含む
1273 神聖ローマ帝国・ルドルフ1世が即位
諸侯の勢力争いの果て、スイス小領邦ハプスブルク家の当主を皇帝に
1273 文永10年・一味神水の儀式
遠江国那賀荘(現在の静岡県湖西市)の農民たちが集まり、山王権現の牛王宝印 資料
に起請文を書き、署名・血判を押してから焼き、その灰を入れた神水を飲み、鐘を突いた
領主の高野山から連絡を受けた幕府は、首謀者の逮捕を命じた
(呉座勇一『一揆の原理』p.118)
1274 文永11年・文永の役
1275頃 健治元年・金沢文庫
金沢(北条)実時が自らの邸宅を書庫に
鎌倉幕府滅亡後は菩提寺である称名寺に受け継がれて伝わる
兼好法師は称名寺を訪れていた
https://www.pen-kanagawa.ed.jp/kanazawabunko/gaiyou/bunkogaiyou.html
1275 健治元年・頼母子(憑支)の起こり
荘官と百姓が共同で出資した懸銭を無担保・無利子で融資する助け合いの仕組み
荘官が出資せず問題になることも
(井原今朝男『中世の借金事情』p.60)
1275 建治元年・両統迭立
皇位継承問題を幕府が仲介、交互に即位する襷掛けとした
後深草天皇(持明院統)と亀山天皇(大覚寺統)とが交互に即位
1278 弘安元年
『一遍上人絵伝』に、この年備前福岡に立った荘園市の様子が描かれている
https://www.kyoiku-shuppan.co.jp/textbook/chuu/shakai/files/donyu_rekishi.pdf
1279 南宋滅亡
1281 弘安4年・弘安の役
前回の来襲を教訓に防御を固めていたため、再度の勝利を得た
1282 イングランド・ウェールズを併合
ウェールズを統治していたサウェリンの死を機に
1284 弘安7年・幕府法幻の100か条
執権の時宗が死去し、貞時が14歳で執権に
法の執行根拠としての理論と事実
公家法:理屈(朝廷の意にそう結論を正当化)
武家法:事実(証言と証拠に基づく客観的な判断)
弘安の役を教訓に、九州の神社への徳政を強力に推し進める
甲乙人の人物→神社の神物→幕府と所領を直轄化し、来るべき外患に備える
安達泰盛の徳政は翌年の霜月騒動により本人共々葬られる
(笠松宏至『徳政令 中世の法と慣習』pp.124-127, pp.130-133, p.140)
1285 弘安8年・霜月騒動
元寇により権力が集中した北条得宗家とそれ以外の御家人との争い
亀山上皇が11月13日に発した20か条の法令は、より多くの事実(土風、時宜)を踏まえ
自社領であった土地を元の持ち主に返還する求める条文がある(公家弘安徳政令)
同日、岩清水八幡宮に向けた17か条も発布
12月には「書札礼」「院中礼」「路頭礼」という礼式も発布
(笠松宏至『徳政令 中世の法と慣習』p.150, p.160, pp.176-177)
11月17日、御内人(みうちびと)側の平頼綱は御家人側の安達泰盛との戦いに勝利、
得宗専制が強まる
安達泰盛は元寇のときの恩賞奉行であり、金沢実時とも親交
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/540745
1285 仏・淡麗王フィリップ4世即位
フィリップ3世は、戦費調達による多額の借金を残したままアラゴン十字軍の帰途に死去
1291 十字軍の終焉
現イスラエルのアッコ(Acre)が陥落、キリスト教聖地への足がかりを失う
役割を失ったテンプル騎士団の没落がはじまる
教皇の権威とそれに基づく神聖ローマ帝国皇帝の権力にも翳り
1291 正応4年・勧進の課役化
信仰に基づく自発な拠出であるはずの勧進が、いつの間にか強制力を伴う課役に
「みんな払っているのだから、あなたも払いますよね」が制度化
(井原今朝男『中世の借金事情』p.68)
1293 正応6年・平禅門の乱
死者2万人とも伝わる4月12日の鎌倉大地震に乗じて、得宗専制に功あった平頼綱と
その一族を北条貞時は討ち取る。霜月騒動は無かったことに
貞時の独裁色が強まる
1294 ボニファティウス8世、ローマ教皇に就任
前任のケレスティヌス5世を、執拗な嫌がらせにより生前退位に追い込み教皇位に
1294 仏・フィリップ4世、教会に10分の1税を課す
1295 イングランド・模範議会
度重なる戦争の資金調達のため、ひろく意見を聴く
1295 永仁3年・『野守鏡』
聞書形式は大鏡に類似
当時台頭してきた踊り念仏や商業者など、いわゆる「悪人」を批判
(網野善彦『無縁・公界・楽』p.151)
1296 永仁4年・『天狗草子』
仏教界の堕落を「天狗に堕ちた」ことに見立て、時宗や禅宗を厳しく批判 資料
(網野善彦『無縁・公界・楽』p.151)
1296 仏・フィリップ4世、再度教会に10分の1税を課し、金の輸出を禁止
1297 永仁5年・永仁の徳政令
2月19日、後にハレー彗星と名付けられる彗星が現れる(6月?)凶兆
3月6日に東国で制定された「関東の御徳政」は7月23日に関西の六波羅に伝わり、
さらに鎮西探題へ届く
質に出された土地を元の持ち主である御家人に返却することと、土地売買の一時停止、
越訴(土地返却の異議申立)の廃止を定めた(土地の売買は翌永仁6年に再開される)
当時の土地「売買」の実態は、信託受益権の売買ではないかと思われる
動産質(米や酒の付け払い)については徳政の適用除外とした
2度にわたる元寇、度重なる乱で疲弊した御家人、相続や売却によって細切れ化した
知行を元の御家人に再結集させる事実上のリストラ断行、得宗専制に遠心力が働く
徳政を受けるため御家人であることを証明する裁判を起こす者、御家人ではない者で
土地の返還を求める者なども現れた
開幕100年もすると、4代5代の入れ替わりがあるため、御家人の範囲が曖昧に
「沙汰に及ばず」「沙汰の限りにあらず」との文言は、幕府自ら法の支配を廃す宣言か
実力行使の戦乱の世への扉を開いてしまう
一般大衆が土倉や酒屋に雪崩れ込み、借用証書を取り戻し略奪するというイメージは
脚色があり、大衆は借りるだけの信用がなかった。むしろ寺社の炊き出しの列に並ぶ
都市浮浪者の風情、乱暴狼藉は力による再分配か
(井原今朝男『中世の借金事情』p.184)
(笠松宏至『徳政令 中世の法と慣習』p.13, pp.40-41, pp.48-50, p.202, 214)
(呉座勇一『一揆の原理』pp.104-105)
1300頃 『吾妻鏡』
頼朝以来の6代記
今に伝わる当時の法令等と付き合わせると、(意図的な?)誤記も目立つ
偽書も含めて集めた文書類をそのまま記録しているようにもみえる
成立年の推定は、永仁の徳政令を受けた御家人証明裁判の偽書が、ほぼそのまま
吾妻鏡に記されていることから
(笠松宏至『徳政令』pp.19-21)
1301 仏・フィリップ4世、三部会を認める
教皇ボニファティウス8世に対抗するために、国内基盤を固める
(ジェームズ・スチュアート『経済の原理』下, p.442)
僧侶、貴族、第三身分(ティーエル・エタ)が集う三部会は1302年にノートルダム大聖堂
で開催、投票権を与える代わりに徴税を認めさせる
1302 羅針盤、イタリアのアマルフィで使われる
(シュミット『陸と海』p.59)
1302 ボニファティウス8世、教皇勅書
フランドル戦争の戦費調達のために教会領への課税を目論むフィリップ4世に、教会に背く
者は救われないと警告
1303 アナーニ事件
ルーブルの立法会議が教皇ボニファティウス8世を異端として告発
(森島恒雄『魔女狩り』p.49)
教皇ボニファティウス8世はギョーム・ド・ノガレに捕縛されるも、混乱に乗じてローマ
に戻るが、憤死
フランス王の権力が教皇の権威を上回る時代に→アビニョン捕囚
1303 嘉元元年『一遍上人絵伝』
原本は伝わらず、この頃の作とされる
全巻120mもの大部な巻物 資料
1305 クレメンス5世、ローマ教皇就任
南仏リヨンで戴冠式、フィリップ4世の傀儡として
病弱なフランス人教皇は王に対抗できず
1306 嘉元4年・粟津橋本供御人
京都六角橋に四宇(4軒)の売買屋を持ち、鮮魚を販売
販売員は「皆女商人也」
(網野善彦『無縁・公界・楽』pp.190-191)
1306 仏・フィリップ4世、パリのテンプルに3日間身を潜める
度重なる課税に加え、この年に実施された改鋳による平価切り下げはパリ市民を怒らせた
加えて、ユダヤ人の財産を没収し、追放
さらに、テンプル騎士団とヨハネ病院騎士団の合併を画策するも、テンプル騎士団総長
ジャック・ド・モレーに拒絶される
1307 仏・フィリップ4世、テンプル騎士団を一斉検挙
10月12日、フィリップ4世の弟の妻の葬儀にジャック・ド・モレーを招く
翌日10月13日の金曜日、テンプル騎士団員を一斉検挙
テンプル騎士団はフランスの最大債権者
テンプル騎士団は十字軍の軍功により免税特権を取得
従軍者の財産預かり証が紙幣の起源とも言われる
中世最大のタブー、金利の徴収
フィリップ4世は騎士団の莫大な富の没収を目論む
(コーン『新版 魔女狩りの社会史』第5章)
騎士団の根絶は、団に関わる仕事をしていた人の職を奪った
(ジェームズ・スチュアート『経済の原理』下, p.611)
1307 仏・ドミニコ会士ベルナール・ギーによる異端尋問
"慈悲深い" ギーは南仏トゥールーズで15年にわたりアルビ派1,000人を断罪
1308 仏・三部会、テンプル騎士団の処刑に賛成
アラゴンやカスティーリアにはテンプル騎士団の迫害広がらず
拷問で自白を強要された騎士団員が次々自白を撤回、迫害への疑問が広がる
1308 クレメンス5世、アヴィニョン捕囚
教皇庁をフランス・アヴィニョンに移す
1311 ヴィエンヌ公会議
拷問で自白を強要されたテンプル騎士団の処遇を巡り、疑問を呈されるも
フィリップ4世の強権で押し潰し、騎士団の解散命令を出させる
1313 イングランド・貿易商人による組合(マーチャント・ステイプラーズ)結成
イングランドの主要産物の輸出を担う
国王エドワード2世が取引する海外市場を選定
北海沿岸→ブリュージュ(1344年)→カレー(1354年)
マグヌソン著, 大倉訳「国際経済的秩序としての重商主義 ―神話と現実―」p.98の脚注3
1314 テンプル騎士団総長ジャック・ド・モレー、処刑される
異端尋問の末にフィリップ4世とクレメンス5世を呪って
フィリップ4世、クレメンス5世は相次いで急逝
ナポレオンが教皇庁から押収した尋問関係の資料は3,239箱に及ぶ
(森島恒雄『魔女狩り』p.55)
1315 スイス独立
ハプスブルク家はオーストリアを拠点に
1317 葡・テンプル騎士団をキリスト騎士団へ改名
仏王の横暴は各国の反発を招く
イタリア地域との地中海貿易、技術と金融を手中に
1318 ローマ教皇ヨハネス22世、魔女狩り解禁令
オッカムのウィリアムなど、神学者を異端尋問する
異端尋問だけでは "財源不足" に陥ったため
同年、教皇はイングランドのケンブリッジ大学の学位をキリスト教国に通用する
ものとして承認する
1323 元亨3年・貿易船沈没
新安沈船と呼ばれる、昭和50年(1975年)に朝鮮半島南端の海で発見
800万枚もの銅銭を積載
(伊藤俊一『荘園』p.185)
1323 ベルナール・ギー『異端尋問の実務』
異端尋問の "教科書"、魔女についても言及
尋問の能率と効率を高める拷問の効果を指摘、その後の尋問のやり方を規定
(森島恒雄『魔女狩り』pp.39-40)
1325 正中2年・伊勢神宮の頼母子
禰宜がお金を出し合い、担保をとってお金を貸した
(井原今朝男『中世の借金事情』p.62)
1328 仏・シャルル4世死去、カペー朝断絶
1330 元徳2年・飢饉
1331 元・現在の河北省にあたる地域でペスト大流行
モンゴル帝国の貿易路を通じて世界的なパンデミックに
1331 元弘元年・元弘の乱
笠置山に立て籠もる後醍醐天皇のもとに楠木正成が馳せ参じるも陥落
後醍醐天皇は捕えられ隠岐へ流刑
1333 元弘3年・鎌倉幕府滅亡
隠岐から脱出した後醍醐天皇の下、楠木正成らが挙兵
数十万の幕府軍を天然の要害千早城に立て篭もるわずか一千名の楠木軍が翻弄
このとき、幕府軍は葬送担当の二百名の時衆を従えていたが…
(網野善彦『無縁・公界・楽』p.150)
討伐に向かっていた足利尊氏は心を変え、六波羅探題を攻め落とす
これに呼応して大友、少弐らも鎮西探題を攻め落とす
関東では新田義貞が鎌倉に攻め入り、北条高時は自害
1333 建武の新政
摂関政治も武家政治も排し、天皇親政を志向
あまりに性急な改革は反発も多く、挫折に終わる
1334 建武元年・徳政令
質として取られた土地を、元金の半額の利息を払うことで取り戻せるように
1335 建武2年・中先代の乱
足利尊氏は鎌倉を攻め落とした北条時行を排除するが、逆賊扱いされ新田義貞を送られる
尊氏は新田軍も破るが、上洛の途上で北畠顕家軍に敗れ九州に落ちのびた後、再上洛
1336 建武3年・足利尊氏、建武式目を発布
吉野に逃れた後醍醐天皇が正統性を主張したため、朝廷は分裂状態に
南北朝時代始まる(室町時代はここから?)
1337 英仏百年戦争
教皇ヴェネディクトゥス12世の仲裁を聞き入れず、イングランド王エドワード3世は
仏・カペー朝断絶の機に乗じてフランス王を宣言、ヴァロア朝に挑戦状を叩きつける
(ジェームズ・スチュアート『経済の原理』p.405)
1338 暦応元年・足利尊氏、征夷大将軍に任命
室町時代の始まり
1343 興国4年・北畠親房『神皇正統記』
1343 コラ・ディ・リエンツィ、ローマで革命を起こす
その後護民官になるも、専制化したため追放、殺害される
(ミルトン『イングランド国民のための第二弁護論』p.480の注260)
1347 ペストが欧州に上陸
欧州は人口の3分の1を失ったと伝えられる
イングランド、フランス、イタリアは人口の多くを失う
ペスト流行の地(スイス・ドイツのアルプス地方)はヴァルド派やユダヤ教徒が
多く住む地域と重なったことから、ペストの罪を負わせて魔女狩り、迫害
1349 正平4年・吉田兼好『徒然草』
1349 正平4年・関東管領
足利尊氏が鎌倉の代官として長男と交代に次男を送り出したことに始まる
当時は関東執事といわれていた、次第に上杉家が担当するようになる
1300年代中頃 蘭・ニシン漁が盛んに
ベーケルソーンという漁師がニシンの樽漬けを考案
カトリックの教えで週2回、イースター前の40日は肉食が禁じられていたためブームに
ニシンの生息地も北欧から英蘭の海峡あたりに南下
(岡崎久彦『繁栄と衰退と』pp.37-38)
1350 正平5年・観応元年・観応の擾乱
足利家の内輪揉めに南北朝問題が重なる
1351年末に年号を南朝方の正平に統一する(正平一統)も、翌1352年には北朝方の元号
観応を復活させた
1352 文和元年・半済令(はんぜいれい)
守護による寺社領地の不法占拠を追認
南朝方の攻勢に対抗する北朝方の苦肉の策
世が乱れてくると、実力行使ができるその場にいる勢力の力が増す
不在地主は年貢も受け取れない(強制力(遵行)がない)
1353 文和2年・小早川貞平の禁制
安芸国沼田の市庭(いちば)に関する3箇条の禁令
小早川の家臣団は市庭と関わるなかれと(無縁と有縁の境を明確に)
(網野善彦『無縁・公界・楽』pp.132-133)
1355 文和4年・東大寺による借米を農民が断る
30貫文もの借米は負担が重すぎるとして
1352年にも借米があり、そのとき農民は借金をして調達したため大変な苦労をした
これ以上はもう勘弁してほしいとして
(井原今朝男『中世の借金事情』pp.70-71)
1356 仏・善良王ジャン2世、三部会に軍費5万リーブルを払うよう求める
1/30の消費税で徴収も税収不足(5万リーブル=9,165ポンド・スターリング)
(ジェームズ・スチュアート『経済の原理』下, p.443)
1356 神聖ローマ帝国・カール4世、金印勅書を発布
その後数世紀にわたり、帝国を規定
フランクフルトで皇帝選出選挙を行いアーヘンで戴冠することで、教皇の介入を排除
七選帝侯を決める(ハプスブルク家は七選帝侯に入らず)
マインツ・ケルン・トリーアの大司教、ライン宮中伯(プファルツ選帝侯)の4人に
ザクセン公、ブランデンブルク辺境公、ボヘミア王の3人が加わる
1368 応安元年・応安の半済令
南北朝が再統一されたことを受け、戦時の不法占拠を平時に戻す
天皇家、摂関家の所領はもとに戻す、他の所領も折半して戻す
1368 明建国
1372 明・海禁令(洪武帝)
1374 康暦元年・康暦の政変
大名が義満の住まいである花の御所に押し寄せた(御所巻き)
義満はこの圧力に屈し、管領細川頼之を追放
1376 ニコラス・エイメリコ『異端尋問官指針』
ドミニコ会士
その後200年ほどの間、異端尋問の標準的テキストとなる
(森島恒雄『魔女狩り』pp.41-42)
1378 シスマ(教会大分裂)
フランスの傀儡クレメンス7世とローマのウルバヌス6世が並び立つ
1379 康暦元年・康暦の政変
京都の大名たちが足利義満の下で管領職にあった細川頼之の罷免を求める
頼之は300の兵とともに京を離れ四国へ落ちのびる(呉座『一揆の原理』pp.52-53)
1381 イングランド・ワット・タイラーの乱
百年戦争の戦費のための重税と、ペストによる人手不足防止のための農奴制
1384 永徳4年・一揆契状
藤原盛綱一揆契状に、「契約起請文」との言葉がある
契約:人と取り交わす形式(私的な証拠)
起請文:神に奉る形式(裁判の証拠になりうるもの)
(呉座勇一『一揆の原理』p.201, p.220)
1386 明・日本と断交
倭寇の影響
1390 イングランド・使用条例
外国商人が貿易で得た貨幣は国内でつかうよう要求
マグヌソン著, 大倉訳「国際経済的秩序としての重商主義 ―神話と現実―」p.98の脚注4
1390 仏・最高法院、魔女裁判の審理権を教会から剥奪
魔女を異端者としてではなく、刑法犯として裁く
(ジャン・ボダン著, 平野訳「魔女の悪魔狂について」p.221)
1392 明徳3年・明徳の和約
南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に三種の神器(八咫鏡、草薙の剣、八尺瓊勾玉)
を渡し、南北朝は再統一
1394 応永元年・足利義満の借財
日吉社参詣の費用80貫文をを富有の輩に借りる
(井原今朝男『中世の借金事情』p.71)
1397 応永4年・足利義満、金閣寺に居を移す
首相官邸的な機能を持たせ、執務を執る
1401 応永8年・勘合貿易開始
足利義満による日明貿易
1404 応永11年・寄せ沙汰(債権の取り立て)
法涌上人が僧英昭に貸付けた債権は、法涌上人の死後東寺に寄進される
英昭がなかなか返済しないので、東寺は取り立てを山城国守護に依頼する
(桜井英治『破産者たちの中世』pp.71-72)
1407 ジェノヴァ・サン・ジョルジョ銀行設立
キオッジャの戦争の資金を貸し付けた市民への返済を証券化して分割払い
にしたことを起源とする銀行(ガリアーニ『貨幣論』p.348)
マキアヴェッリ『フィレンツェ史』岩波文庫, 下, p.449-452も参照
オランダ東インド会社のモチーフに
1408 応永15年・小浜湊にインドネシアからの南蛮船が入港
スマトラ島バレンパンから黒象、孔雀、オウムなどの朝貢品を載せて
(伊藤俊一『荘園』p.69)
1415 コンスタンツ公会議
大分裂(シスマ)終結、ヤン・フスはコンスタンツにて処刑
事態を収集すべく、ボヘミアの教会をローマ教会の下へ
フス派はローマ派の参事7人を窓から投げ捨て殺害(第1次プラハ窓外放擲事件)
1416 応永23年・上杉禅秀(氏憲)の乱
義満の跡を継いだ4代将軍足利義持は、何かと父の事績を否定する
また、跡を継ぐはずであった足利義嗣とその周辺は不満を持つ
関東管領を務めてきた上杉家内の争い(山内上杉家と犬懸上杉家)
関東政治の主導権を握ろうとした犬懸上杉家の禅秀は、鎌倉公方足利持氏と対立し
応永22年(1415年)に失脚、関東管領の座は山内上杉家の上杉憲基が継ぐことに
これを不満とする禅秀は、鎌倉公方足利持氏の館を襲撃、その後一時鎌倉一帯を
抑えるが次第に押し返され、応永24年(1417年)に追い詰められ自害
足利義嗣とその周辺にこれに呼応する動きがあったことが発覚、義嗣も自害
義持は、義満の面影が残る北山山荘を取り壊す
この時代には宴会が好まれ、「二日酔い」という言葉が生まれた
三枝,p.24に南北朝・室町期の酒屋の分布図があるが、京都中に立地している
(三枝暁子『日本中世の民衆世界』p.31)
1417 応永24年・起請文による契約
和泉国日根野荘(現在の大阪府泉佐野市付近)の農民は、荘園領主である九条家と起請文で
定額年貢制の契約を結ぶ(地下請)
(呉座勇一『一揆の原理』p.198)
1419 応永26年・義持が麹業を西京神人に独占させる
9月、新規参入者が増えたため神人の生活基盤が揺らぎ、北野天満宮の神人
としての役割を果たせなくなったとして
この命は、義持が北野天満宮に滞在時に出された
義持と北野社の公文所を務める松梅院とは昵懇
西京の外で麹業を営む業者に、捏造した比叡山のお墨付きを示して従わせる
比叡山と北野社および幕府との関係が微妙に
(三枝暁子『日本中世の民衆世界』p.41)
(桜井英治『破産者たちの中世』p.37, p.39)
1420 応永27年・応永の飢饉
相国寺で雨乞いが行われ、祇園祭が中止になるほどの少雨
その後一転して多雨となり、京の町で炊き出しが行われるほどの凶作に
京都五条河原には炊き出しに並ぶ長蛇の列が
(伊藤俊一『荘園』pp.235-237)
藤木久志『日本中世災害史年表稿』を利用した気候変動と災害史料の関係の検討
―「大飢饉」の時期を中心に―
https://chikyu.repo.nii.ac.jp/records/2117
1420 西・エンリケ航海王、キリスト騎士団の指導者に
1421 応永28年・禁酒令
義持の後継である義量(よしかず)は病弱であるにも関わらず酒好き
義持は、義量と酒宴をともにしてはならないと周囲の者に命じた
史実として大酒していたかは疑問も
1421 聖エリザベートの大洪水
「一夜に七十二の村落が壊滅し、十万人の生命が失われた」
(岡崎久彦「繁栄と衰退と』pp.31-32)
堤防はプリニウスの時代からあった
"人は神が造り賜うたが、オランダはオランダ人が造った"
1423 応永30年・義量が5代将軍に
1425 応永32年・義量死去
元来病弱であった義量は19歳で夭折、世継ぎが耐えたため義持が執務に戻る
1426 応永33年・馬借の京都乱入事件
米価暴落は麹業を独占した北野社・松梅院のせいであるとして
近江坂本の馬借は比叡山配下
(桜井英治『破産者たちの中世』p.38)
1427 応永34年・長雨
5月の長雨で京都の四条橋、五条橋、百軒ほどの家も流される
京都北野社の管理人であった松梅院は、足利義満・義持の2代にわたり寵愛を
受け、知行を25か所を持つ勢力に
とりわけ義持は北野社をよく訪れ、昵懇の仲であった
長雨被害で松梅院が苦境に陥ると義持が救いの手を差しのべる
現在の貨幣価値で1億円にも上る借金(1000貫文)の支払い猶予
知行の管理費が重くのしかかり、また北野社に足繁く参詣していた義持の
滞在費用の負担も少なくなかったか
松梅院は将軍家御師(将軍家を北野社に迎える際の担当)
(桜井英治『破産者たちの中世』pp.31-34)
1428 正長元年・正長の土一揆
この年、義持の弟義教が石清水八幡宮に奉納されたくじで6代将軍に
ハプスブルク家のような軽い神輿を望む守護大名と権力集中を望む義教
1420年代の天候不順により、農作物の値段が乱高下していた
収穫期の8月、困窮していた庶民は消費者金融を営んでいた酒倉、土倉、寺院などを
襲い、質入品を奪い返す私徳政を起こした
春日社領の神戸四箇郷では、独自に徳政令を出した 資料
徳政への動きの黒幕は松梅院禅能との噂も。以後、松梅院一族は徳政を繰り返す
(伊藤俊一『荘園』pp.239-241)
(桜井英治『破産者たちの中世』pp.96-97)
1429 仏・ジャンヌダルク、オルレアン包囲戦に活躍
1430頃 蘭・コステル、活版印刷
文字が読めるオランダ人のニーズに応える
聖書の値段が500クラウンから5クラウンへ100分の1になる
(岡崎久彦「繁栄と衰退と』p.40)
1430 永享2年・南朝再興の企て失敗
赤松満祐は小倉宮を担ぐ北畠家と交渉し、小倉宮を取り返し、北畠も恭順を示す
1430 永享2年・松梅院禅能の裁判記録
1428(正長元)年、足利義教は北野院に赴き、その後松梅院に対する訴訟が増えた
6月、松梅院は将軍家御師を解任される
12月の裁判記録には借金508貫400文(現在の貨幣価値で5000万円超)の存在を巡り
借金は存在しているとの裁決を義教が下し、所領の年貢から支払いを命じた
(桜井英治『破産者たちの中世』p.7)
1431 永享3年・土倉の蔵預の裁判
土倉の本主である祐言はから叔父円憲に蔵預(土倉の運営)を任せていたところ
2000貫文(現在の貨幣価値で2億円?)を円憲自らが営む土倉の設立資金に流用
していたことが発覚、将軍義教は専門家に諮問し、その結果祐言の主張を認めた
円憲に2000貫文の返済と、残余があれば円憲の土倉の合銭の輩(共同出資者?)
に配分するよう命じた
(桜井英治『破産者たちの中世』pp.64-66)
1431 ジャンヌダルク、魔女狩り的異端尋問にて処刑
イングランドとイングランド寄りのパリ大学の影
1433 永享5年・永享の山門騒乱
7月19日付の根本中堂閉籠衆衆議事書にて、比叡山山徒の光聚院猷秀の公金横領と
賄賂、山徒への高利貸しと滞納者への苛烈な取り立てを指摘、嗷訴(ごうそ)に及ぶ
光聚院猷秀は正長元(1428)年の嗷訴の際にも指弾され比叡山を追放され、永享3
(1431)年に帰山を許されていた
光聚院猷秀は形ばかりの流罪にしたものの、1435年まで騒動は収まらず、多くの
僧侶が自害して果てるという悲劇的な結末を迎える
(桜井英治『破産者たちの中世』pp.44-50)
1437 蘭・ハンザ同盟に勝利
ドイツ地域、北欧、ロシアに通ずる貿易路を確保
(岡崎久彦「繁栄と衰退と』p.39)
1438 仏・ブルジュの国事詔書
シャルル7世はローマ教皇の力が国内に浸透するのを防ぐために聖職者を選挙で選ぶ
法令を発布も、これは論争を呼ぶ
ルイ11世が廃止を目論むも高等法院に拒絶され、廃止は1516年のボローニャ政教協約
1437 永享9年・赤松満祐の所領が召し上げられるとの噂
足利義教は火消しのため、赤松邸でともに猿楽を鑑賞
1438 神聖ローマ帝国・アルブレヒト2世即位
以後ハプスブルク家が皇帝に
1438 永享10年・永享の乱
足利義教と対立していた鎌倉公方足利持氏は乱を起こすも鎮圧、関東管領上杉憲実
が止めたものの、義教は持氏を殺害させた。憲実はこれを悔やみ関東管領を辞任
永享11年(1440年)には持氏系による結城合戦が起きたが、これも鎮圧される
1440 永享12年・赤松満祐が主君押込に遭う
足利義教が赤松満祐を討つとの噂が広まり、それに先手を打つ形で対応
表舞台から姿を消すことで風当たりを弱める試み
1441 嘉吉元年・嘉吉の変
6月24日、永享の乱、結城合戦の戦勝祝賀として、赤松邸で猿楽が催される
赤松義雅の所領没収という憂き目にあっていた赤松家は義教に恨みがあった
猿楽の場に来席していた万人畏怖の将軍義教は暗殺される
足利家と北畠家、赤松家、一色家、土岐家などの有力大名との亀裂が広がる
山名は軍資金徴収という名目で土倉に押し入る乱暴狼藉、これを止めに入った細川持之
を無視、怒った細川が山名を討つという段になり、ようやく山名持豊(宗全)は謝る
権力の空白が生んだ混乱に乗じて土一揆が拡大、これを収めるために徳政令が出された
義教の死後、松梅院禅能は北野社に戻るもほどなく死去
その後、宝徳元年(1449年)に足利義政が将軍に就くまで混乱が続いた
当時は国庫がなく、幕府御用金は土倉など民間の金融業者に預けられていた
収穫期の8月、徳政一揆が勃発
(桜井英治『破産者たちの中世』pp.54-55, pp.94-96)
(呉座勇一『一揆の原理』p.149)
1442 アラゴン・アルフォンソ5世
旧来の税を廃し炉税に統一、かまど1つあたり15カルリーノに減額された
寛大王(ルネサンス王)と呼ばれた
(ガリアーニ『貨幣論』p.125)
1443 仏・ソーミュールの勅令
シャルル7世は、百年戦争の戦費を賄うためにタイユ(ある種の人頭税)を家臣に課す
(ジェームズ・スチュアート『経済の原理』p.400)
1444 文安元年・麹騒動
麹業の独占を死守すべく、神人が北野社に立てこもるも、幕府からの攻撃を受け
自ら北野社に火を放つ。社殿とともに特権も灰燼に帰す
1449 文安6年・義政が8代将軍に
義教の子義政はわずか14歳で元服、そのまま征夷大将軍に任命される
1453 英仏百年戦争終結
英仏ともに諸侯が没落、王権強化
1453 東ローマ帝国滅亡
オスマントルコのメフメト2世が占領
東ローマ帝国が滅亡し、百年戦争が終結したこの年は「中世の終わり」
1454 享徳3年・郡中土一揆
1456 康正2年・遠江国引間で土一揆
1457 長禄元年・合銭の徳政令
土倉、酒屋、日銭屋は借金の担保をとっているので、返済無用とのお触れ
(井原今朝男『中世の借金事情』p.64)
1454 ローディの和
ローディはミラノ公国の都市の名前
オスマントルコの脅威に怯えるイタリア5大国の協調
ローマ教皇国、フィレンツェ共和国、ミラノ公国、ベネツィア共和国、ナポリ王国
15世紀末までイタリアに平和な時代が続き、ルネサンスをもたらす
(マキアヴェリ『君主論』p.176)
1455 イングランド・薔薇戦争
白薔薇(ヨーク)と赤薔薇(ランカスター)の戦い
1455 グーテンベルク聖書
活版印刷をヨーロッパで根付かせる
その後印刷物が爆発的に広まる 資料
1459 長禄3年・室町幕府法追加法260条、261条
質物の種類に応じて利息を定める
5文の利子→年60%
(井原今朝男『中世の借金事情』p.149)
1459 長禄3年・寛正の飢饉
この年から寛正2年(1461年)にかけて冷害と風水害が続き、大凶作に
文明12年(1480年)頃まで20年も天候不順が続く
(伊藤俊一『荘園』pp.244-246)
困難な状況に対応できない荘園は形骸化し、惣という互助組織が生まれた
足利将軍家の威光が弱まり、自立の道を探る形
(伊藤俊一『荘園』pp.253-254)
藤木久志『日本中世災害史年表稿』を利用した気候変動と災害史料の関係の検討
―「大飢饉」の時期を中心に―
https://chikyu.repo.nii.ac.jp/records/2117
1460 仏・ブルゴーニュ・アラスにてヴァルド派弾圧
ドミニコ会異端尋問官によるが、貴族バイヤン・ド・ボーフォールは無罪を主張
フィリップ善良公は訴追をやめさせる(サルマン『魔女狩り』p.26)
無罪となり、判事ジャック・デュボアは狂死(サルマン『魔女狩り』p.24)
1462 寛正3年・債務の譲渡先への支払い
興福寺大乗院門主の尋尊は、自らの借書の譲渡を受けた津越に借入金を支払う
裏書譲渡された手形の所有者に支払う現在の金融そのもの
(桜井英治『破産者たちの中世』pp.72-74)
1466 文正元年・土一揆
土倉が襲われる騒ぎとなり、徳政令が出される
(井原今朝男『中世の借金事情』p.64)
1467 応仁元年・応仁の乱
人世虚しき…
畠山家の家督争いが諸大名の戦争に発展、京が荒廃
将軍家の権力は色褪せ、大名は所領に戻る(守護在京の終焉)
1469 スペインの原型が成立
アラゴン王フェルナンド2世とカスティーリャ王国イザベルが結婚
フェルナンド2世は「最もカトリック的な王」と評される
1473 文明5年・徳政令
195貫文という多額の買掛金の支払いに窮した代官は徳政を申し出たが
裁判によって無利子であるため支払いを免れないとされた
(井原今朝男『中世の借金事情』p.191)
1476 グランソンの戦い、モラの戦い
スイス軍がブルゴーニュ公シャルル・ル・テメレールを破る
シャルル大胆公は領土拡大の野望を果たせず、戦死
ルソー『学問芸術論』p.37で言及
1477 ネーデルラント17州、ハプスブルク家へ
ブリュゴーニュ公国は滅亡、低地地域だけ女公マリーが引き継ぐ
このとき、交渉によりホランドとゼーランド両州は大幅な自治権を獲得(大権利)
(岡崎久彦「繁栄と衰退と』p p.42-45)
このマリーが後の神聖ローマ帝国皇帝マクシミリアンと結婚してハプスブルク家所領に
ネーデルラント諸地域は大国の辺境に位置し海が近い
貿易、商業が盛んで自由の気風
1477 文明9年・応仁の乱終結
日野富子の貸付け
畠山義統に1000貫文を貸しつけたのを皮切りに、富子の歓心を買いたい大名小名が
競って借りる
(井原今朝男『中世の借金事情』p.100)
1478 文明10年・神人の転職を禁止
合力銭という拠出金が重くのしかかる日吉社神人から、岩清水八幡宮神人への転身
が相次いだ。これをみかねた幕府は転身を禁じ、日吉社に戻るよう命ずる
(井原今朝男『中世の借金事情』p.65)
1478 西・フェルナンド2世、領内独自の異端尋問を教皇シクトゥス4世に認めさせる
この実現に "尽力" した枢機卿ボルハは、後に教皇アレクサンデル6世となる
モリスコ(イスラム教からカトリックへの改宗者)と
コンベルソ(ユダヤ教からカトリックへの改宗者)がターゲット
inquisitio pravitatis hereticae
1479 スペイン王国建国
1480 文明12年・徳政と徳政禁令が共存
土一揆勢は徳政を強行するが、幕府はこれに対して徳政禁制を出す
(井原今朝男『中世の借金事情』p.211)
1482 文明14年・足利義政、東山荘(銀閣寺)造築
応仁の乱に疲れた義政は文明17年(1485年)、禅室の完成をみて出家 資料
1483 西・全スペイン異端尋問中央本部発足
初代長官にトマス・デ・トルケマダが任命される
トルケマダは、在任18年間に9万人を終身刑、8千人を火刑に処す
(森島恒雄『魔女狩り』p.36)
ケインズ『一般理論』第3章の終わりに異端尋問への言及がある
ミラノ公国では異端尋問の嵐が吹き荒れるが、ベネツィアは教皇の横暴だとして断固拒絶
→ジャン・ボダン『七賢人の対話』でベネツィア賞賛
1484 教皇インノケンチウス8世、回勅「限りなき願いを持って」
南ドイツの異端尋問がうまくいかず "苦労" していたクラーメル(クラーマー)は
最強教皇に魔女狩りの勅書を求め、それを得る
翌年、これを笠に着て魔女狩りをするも、地元当局者の批判に遭い全員を釈放 "する羽目に"
異端尋問に魔女狩りの権限を付与
(サルマン『魔女狩り』pp.144-147に抄訳あり)
1485 文明17年・山城の国一揆
宇治平等院に終結した南山城の国人がいつ終わるともなく続く畠山家の骨肉の争いを非難、
撤兵を要求、明応2(1493)年までの8年間自治権を得る
(呉座勇一『一揆の原理』pp.154-156)
1485 イングランド・ボズワースの戦い
ヘンリー7世、ランカスター派のリチャード3世を破る
ウェールズ王家の血を引くヘンリーに加勢
1486 ヤーコプ・シュプレンゲル/ハインリッヒ・クラーメル『魔女の槌』
ドミニコ会士による魔女狩りの "理論と実務" 『魔女に与える鉄槌』とも
1485年の魔女狩り失敗の怒りをぶつける
魔女狩りに手を染めていないケルン大学神学教授シュプレンゲルの名を借り、
巻頭にインノケンチウス8世の『法皇教書』を付すことで、クラーメルは自説の
権威を高めようとした(シュプレンゲルはクラーメルを追い出したが:黒川正剛, p.37)
以後、悪魔と手を結ぶ魔女と認定された者はみな処刑される
女性(femina)は信仰が薄いの意、信仰薄く迷信深い女が魔女となる
アウグスティヌス『神の国』→トマス・アクィナス『神学大全』→『魔女の槌』
アウグスティヌスはマニ教からの改宗、トマス・アクィナスはドミニコ会士
(ジャン・ボダン著, 平野訳「魔女の悪魔狂について」p.226)
1486 イングランド・チューダー朝の成立
ヨーク家とランカスター家の統合 チューダーローズ
ヘンリー7世、エリザベス・オブ・ヨークと結婚
1487 イングランド・星室評議会
後の星室庁(裁判所):コモン・ローでは裁けない事案の処理
1488 バーソロミュ・ディアス、希望峰発見
1848 トルケマダ『異端尋問教程』
異端尋問官 "必携" (森島恒雄『魔女狩り』p.45)
1489 ウルリヒ・モリトール『魔女と女予言者について』
ドイツ・コンスタンツで出版された法学者の書
クラーメルが魔女を調査したチロル伯領インスブルックで、調査対象となったチロル伯
ジギスムントから、身を守るような著作を依頼される
魔女に力はなく、魔女を唆す悪魔に悪を行う力がある
ギリシャ神話に登場するラミアが魔女のモチーフ
複数回版を重ね、皮肉なことに魔女の挿絵が大衆にひろまる
1492 グラナダ陥落
スペインのレ・コンキスタ完了
カール・シュミット『陸と海』p.41の注8に大蔵大臣を務めていたイサーク・アブラヴァネル
の話がある
1492 アレクサンデル6世、ローマ教皇就任
息子チューザレ・ボルジアに権力を持たせるべく精力的に動いたバレンシア(スペイン)
出身の教皇は、イタリアの勢力図を一変させる
マキアヴェリ『君主論』はリアリズムとして捉え、ヴォルテール『寛容論』第3章は批判
1492 西・異端尋問を開始
フェルナンド2世はユダヤ人を国外追放処分とした(ユダヤ系金融業者に多額の借金)が
ユダヤ人はダカット金貨3万枚で処分撤回を申し出る
その場にいたトルケマダが「ユダは銀貨30枚で主を売った」と猛批判、フェルナンド2世
を思いとどまらせる(森島恒雄『魔女狩り』p.44)
教会側はこれを批判も、スペインの軍事力で安全を確保していた(オスマン帝国の圧力を
かわしていた)弱みがあった
1492 コロンブス、新大陸「発見」
ドイツの地理学者マルティン・ヴァルトゼーミュラーが探検家アメリゴ・ベスプッチにちなみ
新大陸をアメリカと命名
ベーコン『学問の進歩』p.63に言及あり
シュミット『陸と海』p.162では、コロンブス以前のアメリカ大陸到達は空間革命を起こさな
かったが、コロンブスのそれは革命を起こした。これが「発見」といわれる所以であるとした
1493 明応2年・明応の政変
細川政元が足利義材を追放し、義澄を将軍に立てる
1493 神聖ローマ帝国・マクシミリアン1世即位
ローマ教皇の戴冠式を経ずに皇帝の座についた
これ以降、ハプスブルク家の世襲化、政教分離が進む
1943 教皇子午線の設定
ローマ教皇アレクサンデル6世の教皇勅書(インテル・カエテラ)により
ヴェルデ岬の西に引かれた西・葡の勢力境界
グロティウス『海洋自由論』第3章、シュミット『陸と海』p.185に言及あり
1494 トルデシリャス条約
西・葡で地球を二分
教皇子午線を若干西へ移し、リオ・デ・ジャネイロはポルトガル側に
1494 チョーク戦争
仏・シャルル8世、ミラノ公国、フィレンツェ共和国を通過し、ナポリ王国へ
教皇インノケンチウス8世の「ナポリ王に」という空手形に不満を持っていた大軍勢
を率いるシャルル8世を妨げる者なし(チョーク戦争)
ヒューム『市民の国について』下, p.37には2万の兵力とある(フランス財政を圧迫)
この際、フィレンツェはロレンツォ・デ・メディチを追放
メディチ家の腐敗を糾弾していたドミニコ会修道士ジローラモ・サヴォナローラは
フランス進軍の予言的中により信望を集め、フィレンツェで神権政治
1495 仏・反撃を受け潰走
イタリア諸侯はスペイン、神聖ローマ帝国とヴェネチア同盟を結び、仏追い出しに成功
1495 葡・幸運王マヌエル1世即位
1497 虚栄の焼却
サヴォナローラの支持者が化粧品、ドレス、トランプといった虚栄品のみならず、
ルネサンス期の芸術作品、虚栄品を篝火にくべる(『君主論』訳者解説, pp.224-225)
フランス革命時を想起
1497 ヴァスコ・ダ・ガマ、インドへ出港
1498 ヴァスコ・ダ・ガマ、インドカリカットに到着
1498 サヴォナローラ、処刑
1498 仏・ルイ12世即位
息子を若くして失い、シャルル8世は失意のうちに亡くなる
1499 仏・ルイ12世、ブルターニュ女公アンヌと結婚
前妻との結婚を教皇アレクサンデル6世に無効にしてもらう