Senatus Populusque Romanus
六国史の時代
〜A.D. 1000
3900〜2200 三内丸山遺跡
https://sannaimaruyama.pref.aomori.jp/about/iseki/
2000〜1000 大湯環状列石
縄文時代の計算機「どばんくん」
https://oyustonecircles.explorekazuno.jp/#doban
https://oyustonecircles.explorekazuno.jp/#syoukai
16c エジプト・新王国の千年
第18王朝から第26王朝(BC6c)まで
776 古代オリュンピア競技会はじまる
660 神武天皇即位
2月11日は建国記念日(紀元節)
橿原宮:https://kashiharajingu.or.jp/about
歴代天皇:https://www.kunaicho.go.jp/about/kosei/keizu.html
586 バビロン捕囚
新バビロニア王国のネブカドネザル2世による
570〜480? ピュタゴラス
神秘的教団を率いて南イタリアの都市クロトンで原始共産的な生活を営む
パレート『一般社会学提要』p.141に肉食を禁じたとの記述がある
数学的知見を統治に活かす(AI社会、スマートシティ)
カルディアとエジプトからの影響
カルディア簿記:粘土板に刻まれた3年にわたる帳簿の記録
エジプト幾何:ナイル川の氾濫後に土地所有を確定させるための道具
正12面体を宇宙の象徴とみなす(→サッカーボール ⚽️)
調和を破る無理数(√2)の発見により、壊滅的打撃を被る
「宇宙も社会も割り切れない」
Lowry, S.T. 著, 武藤訳「ピタゴラス学派の数学的理想主義と経済・政治理論の構想」
√2を発見したピュタゴラス教団のヒッパソスは溺死させられたと伝えられる
538 アケメネス朝ペルシャ・キュロス大王、カルディアを滅ぼす
バビロン捕囚の終わり
522 アケメネス朝ペルシャ・ダレイオス1世即位
490〜420? プロタゴラス
授業料として100ムナ(銀100ポンド)という高額の授業料で富を築いたソフィスト
この授業料は無名のソフィストの20倍ほどであった(『メノン』p.119の注72)
484〜425? ヘロドトス
ヘロドトス『歴史』✅
480 テルモピュライの戦い
映画『300』のモデル
450 マラトンの戦い
アテナイの将軍ミルティアディスがペルシャの大群を撃破
伝令は「我勝てり」と言い遺して息絶える
マラソンの語源
470〜399? ソクラテス
クセノフォンとプラトンはともにソクラテスを師と仰ぐ
クセノフォン:写実的(ありのままに記述)
プラトン:文学的(自分色に脚色して記述)
431〜404 ペロポネソス戦争
ソクラテスは重装歩兵として従軍(『オイコノミコス』p.167訳注)
400 メノン、死す
ペルシャ王に反旗を翻したキュロスの援軍として戦地に赴くが、捉えられ死を賜る
399 ソクラテス、裁判の結果、死に追いやられる
ソクラテス70歳、プラトンは28歳
(『メノン』訳者まえがき, p.17)
クセノフォン『ソクラテスの思い出』
クセノフォン『オイコノミコス』✅
ソクラテスとの対話とソクラテス死後にクセノフォンが経験したことからなる対話篇
オイコノミコスとは「家を統べる法」という意味、エコノミクス(経済学)の語源とされる
家庭、軍隊、国家の統率の要諦は相似形(解説, p.178)
フィジオクラット(重農主義者)の先駆けか(解説, p.180)
p.16:財産とは「人が所有している善いものすべてのことであって、何も悪しき物のことを
財産だなんて絶対言いませんよ」
p.18:「財産とはそこから利益を得ることが出来るもの」
p.25:「ポリス《都市国家》は君に多大な貢献を要求してくるということも目に見えている、
つまり馬達の飼育や合唱団の費用や体育館長職や首長職といったようなことをね」
p.41:「楽園」の語、訳注にパラダイスはペルシャ語に由来し、後にキリスト教的な意味を
持つようになったとある
p.42:ペルシャのキュロス「王は褒美を与えるときにも、まず、戦争で勇敢だった者達を呼ぶ
とね。もし田畑を守る者達が居なければ、いくら耕しても無駄だから。そして次には、
よく耕して作物を作った人達を呼ぶ。もし耕作する人達がいなければ、勇士達だって
生きられないからと言ってね」
第5章、第6章は農業讃歌(豊穣と有事への備えを兼ねる、職人業は心身を蝕む)
→キリスト教の神なき、ギリシャの神々がいるフィジオクラット
p.47:「大地はまた、耕作者達に、武器をとって農地を守るように促す。果実を実らせながら、
最も強い者が、それらを摘みとるように」
p.53:「土地を耕す人達《農夫達》は投票によって土地を守ることを決め、一方、職人達は
戦わずに指示された通り、じっとしていることを決め、骨折りもせず、危険も冒さない」
pp.65-68:家事を取り仕切る主婦を女王蜂に例える
p.91:「神々というものは、自分が何をしなければならないのか分からず、事を成し遂げようと
努力しない者達を成功させようとはしないけれども、一方、分別があり、努力をする人々
には成功を与えるが、そうでない人々には拒むというものなのだと思います」
→プロテスタント的な精神
p.97:「真実を言ったほうが有利な時には、全く、そのようにします。でも、嘘をついたほうが
良い時には、ソクラテス、本当のところ、根拠の薄弱なものを強固なものとするという
ことは僕には出来ないのです」(イスコマコスからソクラテスへの言葉)
p.100:「『それなら、まず第一に、その男が君と君の所有物に対して善意を持っていなければ
ならないだろうね。君の代わりに彼が指図しなければならないんだから。もし善意が
なかったら、管理について何がしかの知識を持っていたとしても、どんな有益さが
生じるかね』
イスコマコスは言った。
『全くないですね。だから僕と僕の財産に対して善意を持つということ、この事を第一に
僕は教えるつもりです」→この後、p.105までインセンティブとモニタリングの話
p.109:「ある者達は、他の人達が食物や飲物に飢えているのと同様に、生まれつき賞賛に飢えて
いるのです」→この後、成果報酬、信賞必罰の話
pp.117-118:農業者は技術を周りに伝えることを喜びとするが、職人は技術を秘匿しがちである
→農業は人を有徳にする
pp.152-153:大地は人を真面目な人とそうでない人を分ける試験官である
→家を豊かにするか貧しくするかは細やかな配慮と勤勉さ次第である
p.160:「兵士達の中に、時折、仕事への情熱が見出されるように、良い指揮官の下にある軍全体
にも、仕事に対する情熱と名誉心が見出されます。彼等は手柄を立てて、指揮官の目に
止まろうとするのです」
p.162:「このような全き善が人間業であるとは僕には到底思えないからです。それはむしろ
神のなせる業というべきなのです。自ら服従したいと望んでいる人々の主人になる
という事は、本当に思慮分別の秘儀を授けられた人々にだけ与えられるものなのです」
再びプロテスタント的な精神(ギリシャ精神が欧州に逆輸入されたものがプロ倫)
427〜347? プラトン
387 プラトン、アカデメイアを設立
アテナイ郊外の森アカデメイアに学舎(光文社版, 訳者まえがき, p.17)
プラトン『メノン』✅
成立はBC386〜385年、舞台設定は402年頃?(光文社版, 訳者まえがき, p.11, p.17)
JSミルはこの書を「宝石」と評した(光文社版, 訳者まえがき, p.9)
若干20歳の俊英メノンと66, 67歳のソクラテスの対話
「徳(アレテー)は教えられるか?」
第1章(章立ては訳者である渡辺氏の見立てによる)
p.27:注7にゴルギアスとソクラテスの弁論の対比がある
ゴルギアス:他人の意見を受け売りしてもよい(レートリケー)
ソクラテス:心からの意見を告白させ、対話に持ち込む(ディアレクティケー)
p.29:ソクラテスはミツバチを例に反論
p.34:徳とは、正義と節度
pp.42-45:ソクラテスは「形」とは「立体の限界である」との定義を例に挙げ
徳とは何か、メノンに見解を問う
p.49:注24に2月と9月に開催されるギリシャの祭りを(エレウシスの秘儀:ミュステーリア)
ということが記されている
p.53:注28は顕示選好の原型?
ついお酒を飲みすぎる人は、本当は深酒が悪いものと知らない
p.55までの対話の中で、これをメノンに悟らせる
p.62:徳の要素ではなく、徳そのものをずばり答えよ、というソクラテスの厳しい問いかけ
第2章
pp.63-64:メノンはソクラテスをシビレエイにたとえる
対話の相手を痺れさせ、困惑させるもののたとえとして(ソクラテスの死を暗示)
これに対してソクラテスは、「私も痺れてしまっている」と無知の知を主張
p.69:ある種の輪廻思想
p.71:注46に半神(hero)の説明、片親が神である子
注47に自然本性(phusis)の説明→物理学(physics)の語源
pp.74-90:アリストテレスによるシビレエイの効果説明
メノンの従者に1辺2の正方形の面積(4)の2倍の面積(8)となる正方形の1辺の長さを問う
答えは4であると考えた従者に繰り返し問いかけることでその誤りに気づかせ、探究に誘う
第3章
p.97:仮説を立てることについて
p.107:「富やそのたぐいの、魂に属するのではないような他のことがらも、時に応じてよいものに
なったり有害なものになったりする。知が知以外の魂を導くなら、この知が、魂に属する
ことがらを有益なものにしたのだし、愚かさが導けば、愚かさのゆえに魂のことがらは有害な
ものになった。これとおなじく、魂がこれら富などを正く使用し導くならば、そうしたものは
有益なものになるが、正く使用しなければ、有害なものになってしまう」
→F. ベーコン「知は力なり」
第4章
メノンを庇護するアニュトスとの対話
アニュトスはソフィストに対する強い嫌悪を表明
pp.127-130:テミストクレス、アリステイデス、ペリクレス、政治家のトゥキュディデスも、
彼らの息子に徳を十分に備えさせることはできなかった
p.132:偉人たちは息子に徳を備えさられなかったというソクラテスにアニュトスは警告を発する
「どうやらあなたは、平気で他人の悪口を言う人であろうに思える。もしわたしの言う
ことを聞くつもりがあるなら、わたしはあなたに、気をつけるよう、忠告したい」
→後にソクラテスを死に追いやった黒幕本人からの警告
第5章
pp.144-146:「知識を持つ者はつねに正答を出すのに対し、正しい考えを持つ者は、或る時には
正しく、或る時には間違える」というメノンの言葉は、現代の対話型AI(ダイダロスの彫像)
いつ消え去るかわからない儚い存在としての「想起」(ダイダロスの彫像)を縛って、
得られる結晶が知識
p.152:「もしも政治家が知識のゆえに統率できているのではないなら、残っている可能性はすぐれた
推測によって統率者になることである。政治家はそうしたすぐれた推測を利用して国家を正し
く治めているのであり、かれらは知の点では、託宣を述べる人々や神懸かりの予言者と何ら
異ならないのだ」
p.154:「女性たちも、優れた人々を「神のような方々」と呼んでいる」というソクラテスの言葉は、
現代日本の褒め言葉とつながる
p.154:「徳は生まれつき備わるものでもなく教えられるものでもなくて、備わる人々には何か神的な
運命のようなものによって、覚醒した知性などを抜きにして備わるものだろう」
p.156:「徳は、それが人に備わる場合にはいつも、神的な運命によってわれわれに備わる」
→哲人政治、王権神授説、天啓
プラトン『国家』
成立はBC375年頃?
「国家を建設しようと思う者は、ちょうど国制の見本市へ出かけて行くように、民主制のもとに
ある国家へ行って、どれでも自分の気に入った型のものを選び出したうえで、その見本に従って
国家を建設しなければならないのかもしれない」(第8巻557D, p.228)
→『フィルマー 著作集』p.48で言及
384〜322? アリストテレス
アリストテレス『ニコマコス倫理学』✅
アリストテレス『政治学』✅
アリストテレスの著作はアラブ世界で保存、中世欧州に再輸入されルネサンスからユマニズムへ
Lowry, S.T. 著, 武藤訳「ピタゴラス学派の数学的理想主義と経済・政治理論の構想」p.34
336 マケドニア・アレクサンドロス大王即位
300〜 吉野ヶ里遺跡
https://www.yoshinogari.jp/introduction/remains/
287?〜212 アルキメデス
第2次ポエニ戦争のとき、シラクサに攻めてきたローマ軍により殺害される
「図を踏むな」
円柱と球と円錐の体積比は3:2:1
(松浦訳『不思議な数 π の伝記』pp.50-57)
264 第1次ポエニ戦争
260 ミレーの海戦
219 第2次ポエニ戦争
ハンニバル戦争とも
149 第3次ポエニ戦争
カルタゴ滅亡
71 景行天皇即位
日本武尊(やまとたけるのみこと)の活躍
77 大プリニウス『博物誌』
全37巻の大著は想像上の生き物を含む
ティトゥス帝に献上
193 ユリアヌス、ローマ帝国帝位を競り落とす
コモンドゥス帝、ペルティナクス帝死後の混乱を収めるために帝位が競りにかけられる
ユリアヌスが競り落とすも、帝位を買った悪評を拭えずわずか66日の在位で殺害される
セウェルスが帝位に就く
201 神功皇后の治世
仲哀天皇崩御に際し、神功皇后が後を継ぐ
大己貴(おおなむち)神社の縁起
https://www.oonamuchi-jinja.or.jp/
239 神功皇后39年・卑弥呼、魏に遣いを送る
『魏志倭人伝』
『日本書紀』は神功皇后と卑弥呼を同一人物とみなす工夫
3c前半? 纏向遺跡
邪馬台国畿内説の遺跡
http://www.makimukugaku.jp/info/iseki.html
301 ローマ帝国・公定価格の設定
ディオクレチアヌス帝による勅令
313 ミラノ勅令
コンスタンチヌス帝がキリスト教に改宗
313 仁徳天皇元年・仁徳天皇即位
第16代天皇
「民の竈」
315 ローマ帝国・貨幣にキリスト教のシンボル刻印
323 ローマ帝国・貨幣から異教のシンボル廃止
(いずれも黒川正剛『図説魔女狩り』p.10)
325 ニケア公会議
公会議とは「審議と採決のために集まった人々」(ホッブズ『市民論』p.385)
三位一体説を唱えるアタナシウス派を正統に(ウェーバー『世界宗教と経済倫理』p.181)
379 ローマ帝国・テオドシウス1世即位
381 コンスタンチノープル公会議
390 テオドシウスの懺悔
テッサロニキでの暴動鎮圧のために7,000人を殺害したテオドシウス1世は
ミラノ司教アンブロシウスに懺悔
ジョン・ミルトンは、権力をほしいままにする者としてアンブロシウスを批判
(ミルトン『イングランド国民のための第一弁護論』p.101)
392 ローマ帝国・キリスト教を国教に
テオドシウス1世、異教を禁止
395 ローマ帝国の東西分裂
ホッブズ『市民論』pp.388-389にローマ・カトリックとローマ帝国に関する記述
397 倭国と百済の同盟
414 倭という国名
高句麗好太王の碑文に、399年に百済と戦ったことが記されている
碑文には百済と同盟を組んでいた倭国の記述も
https://archives.pref.yamaguchi.lg.jp/user_data/upload/File/ags/1-1-4-010.pdf
427 聖アウグスティヌス『神の国』
32歳でマニ教から改宗、キリスト教神学の礎を造る
マニ教=善悪二元論、ジャン・ボダンは二元論を批判
悪魔との対峙 ミヒャエル・パッハー『聖ヴォルフガングの生涯』 資料
丸山『ワルラスの肖像』p.121に生命の重みについての表がある
自然的序列と主観的序列の違い(主観効用学説の萌芽)
435 テオドシウス法典
456 安康天皇3年・雄略天皇即位
第21代天皇
『日本書紀』 雄略天皇22(478)年7月に浦島太郎の伝説
476 西ローマ帝国滅亡
ゲルマン人の南下
多神教的ゲルマン人はキリスト教に帰依
481 フランク王国成立
529 ユスティニアヌス勅法集
533 『法学提要』
東ローマ帝国第2代皇帝ユスティヌアヌスの命により編纂
2世紀に活躍したローマの高名な法学者ガイウスの『法学提要』をベースに
自然法(万民法)の原型
ローマ法大全:『法学提要』『学説彙纂』『勅法彙纂』 彙纂(いさん)
ガリアーニ『貨幣論』p.180に、損傷した貨幣を補強して流通させた補強貨幣についての
言及がある
538 宣化天皇3・仏教伝来
内村鑑三『代表的日本人』p.143では、欽明天皇13(551)年としている
587 用明天皇2年・丁未の乱
「ていびのらん」と読む
用明天皇崩御の後、伝来の宗教である仏教を受け入れてもよいとする蘇我馬子と
伝統的な皇室にまつわる自然宗教を守るべきだとする物部守屋の争い
蘇我氏が勝利、爾来仏教がひろまる
589 隋、統一王朝へ
文帝は科挙を導入し、律令を整備して官僚制の基盤を作った
煬帝は大規模造成に徴用したり、高句麗に戦争を仕掛けたりと国を疲弊させる
各地で反乱を招き、煬帝は殺害される
592 崇峻天皇5年・崇峻天皇暗殺される
献上猪を見た天皇のお言葉を聞き、恨まれていると思った馬子は最悪の所業に出る
593 推古天皇元年・聖徳太子が摂政に
飛鳥時代始まる
596 推古天皇4年・飛鳥寺完成
用明天皇2年(587年)に蘇我馬子が建立を提案
推古天皇14年(606年)に釈迦如来坐像を安置
600 遣隋使
中国との制度の違いを痛感
603 推古天皇11年・冠位十二階位
604 推古天皇12年・十七条憲法
607 推古天皇15年・法隆寺建立
同年、遣隋使として小野妹子が派遣される
609 推古天皇17年・太宰府
『日本書紀』に筑紫大宰との記述あり
614 推古天皇22年・最後の遣隋使
犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)が派遣される
618 隋滅亡、唐建国
622 推古天皇30年・聖徳太子薨御
蘇我氏の勢い増す
626 推古天皇34年・蘇我馬子死去
明日香村の石舞台古墳に葬られたとの言い伝え 資料
蘇我蝦夷が官職に
628 推古天皇36年・推古天皇崩御
第33代天皇は後継者を指名せず
蘇我氏と血縁関係のない舒明(じょめい)天皇が即位
皇室から蘇我氏を排除、天武天皇、天智天皇へ
630 唐が北方の騎馬民族である突厥を服従させる
630 舒明天皇2年・遣唐使
最後の遣隋使、犬上御田鍬が唐に派遣される
641 舒明天皇13年・舒明天皇崩御
蘇我氏の力に押される
642 皇極(こうぎょく)天皇即位
蘇我入鹿が執り仕切る
645 皇極天皇4年・乙巳の変
「いっしのへん」と読む(乙巳とは干支の42番目)
6月13日、入鹿の父蘇我蝦夷が自害
このとき、蝦夷が自宅に火を放ったため、『天皇記』『国記』が失われる
(遠藤慶太『六国史』p.59)
6月14日(新暦7月10日)、中大兄皇子と中臣鎌足が宮中で蘇我入鹿を殺害
同日、事の重大性に鑑み皇極天皇は譲位、孝徳天皇が即位、元号を大化に
藤原不比等は中臣鎌足の次男、不比等は曽我氏と婚姻関係を結び力を得る
646 大化2年・改新の詔
京を難波に遷す
諸国の有力者が私有していた土地(田荘)と住民(部曲)を中央集権化(公地公民)
公地公民は実像というより、権力を示し課税ベースを確定するレトリックか
天皇の土地で臣民が耕作して収穫した米は、天皇に納めるべき
集落を形成する20人ほどの一族を一戸として構成員を調査(戸籍)
男子に多めの、女子には男子の3分の2の水田(口分田)を割当(班田収授法)
次の戸籍調査で構成員一覧に変化があった場合、再分配する口分田の広さを調整
収穫した稲の3〜10%を納める
(伊藤俊一『荘園』pp.3-6)
口分田(公田)の他に乗田(私田)もあった、畠は制度外であった
畑は焼畑の意味(火を放って作る田という国字)、畠は水を引かずに耕す通常のはたけ
(網野善彦・石井進『米・百姓・天皇』pp.90-91)
水田には用水路やため池という大規模施設が必要であるため、共有の方が効率がよい
一方、この時期の畠に大規模施設は不要であった
研究では、口分田だけでは生活ができない(一人1日1,100キロカロリーでは厳しい)
そもそも全人口に割り当てられるほどの水田が存在しない
(網野善彦・石井進『米・百姓・天皇』p.55)
650 大化6年・大化を白雉(はくち)に改元
653 白雉4年・遣唐使
緊迫する朝鮮半島情勢を探るため、翌白雉5年(654年)にも派遣
654 白雉5年・孝徳天皇崩御
655 斉明天皇元年・譲位していた皇極天皇が重祚
斉明(さいめい)天皇として
再即位を意味する重祚は「ちょうそ」と読む
660 斉明天皇5年・遣唐使
渡来系の伊吉連博徳(いきのむらじはかとこ)、難波吉士男人(なにわのきしおひと)が
派遣されるも、百済征伐が近いとして抑留される
660 百済滅亡
紊乱を極める百済の統治をみて、唐と新羅の連合軍が正月に侵略、8月に滅亡
大陸・半島からの圧力に危機感を高める
661 斉明天皇7年・斉明天皇崩御
662 天智天皇元年・天智天皇即位
天智(てんじ)天皇
京を近江に遷す
皇太子であった中大兄皇子が即位したのは天智天皇7年(668年)
元年は逆算して記述
663 天智天皇2年・白村江の戦い
667 天智天皇3年・無文銀銭
文字の刻印がない謎多き銀貨、関西中心に15か所の遺跡で出土 資料
668 天智天皇7年・草薙剣の盗難事件
新羅の僧沙門道行が盗み新羅に持ち出そうとした
668 天智天皇7年・油の献上
燃える水と燃える土が献上されたと『日本書紀』にある
670 天智天皇9年・庚午年籍(こうごねんじゃく)
かのえうまの年に実施された戸籍調査
飛鳥の「富国強兵」のために課税ベースを確定
671 弘文天皇
水戸藩の『大日本史』編纂者は、『日本書紀』が天武天皇を称揚し過ぎだとして
明治3(1870)年7月24日の太政官布告にて、大友皇子に弘文天皇という諡を贈る
宮内庁も第39代天皇として記録
(遠藤慶太『六国史』p.52)
672 天武天皇元年・壬申の乱
天武(てんむ)天皇
前年末に崩御した天智天皇の後継者争い
天智天皇の弟の大海人皇子と息子の大友皇子
武勇に勝る大海人皇子が勝利、翌673年に天武天皇として即位
680 天武天皇9年・薬師寺建立
天武天皇が皇后(後の持統天皇)の病平癒を願って建立
https://yakushiji.or.jp/guide/
(遠藤慶太『六国史』p.48)
683 天武天皇12年・富本銭の発行
『日本書紀』に「以後、必ず銅銭を用いよ。銀銭を用いること勿れ」とある
無文銀銭から富本銭への移行
689 持統天皇3年・飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)
22巻の令(社会のルール)、大宝律令への助走
いわゆる網野史観からは、日本の歴史をできるだけ短くみたい、中国から認定された
歴史だけが日本史だという中国式共産主義の地金が露出(網野は暴力革命の闘士であった)
中国がどう思おうが、日本は日本としてずっとあり続けてきたというのが網野が重視した
良識的日本人の感覚であるというのは皮肉、網野自身、倭から日本への転換に確固とした
根拠を示していない(網野史観を適用すると、中国の歴史は80年に満たない…)
中学校、高校の日本史は網野史観にまみれている(英国の中学校、高校で「英国は北欧の
海賊とフランスの侵略者が作った国です。王様はドイツ人です。英国なんてものはどこにも
ないんですよ」などと教えるだろうか。むしろ Rule Britannica ののような「誇り高き詩」
を教えているのではないだろうか。世界のどこでもそうである。)
日本に恨みつらみがある者は、日本史を語るべきではない。ましてその恨みつらみを未来
ある子どもたちになすりつけるべきではない
(網野善彦・石井進『米・百姓・天皇』p.160, pp.174-176)
690 持統天皇4年・庚寅年籍(こういんねんじゃく)
かのえとらの年に実施された戸籍調査
以後6年ごとに戸籍を調査し、水田を再分配(班田収授)
6才以上の男女に一代限りの口分田を貸与、収穫高の3%を徴税
694 持統天皇8年・藤原京へ遷都
御代がわりから定住へ
697 文武天皇即位
この年に暦を元嘉暦から儀鳳暦に換える
『日本書紀』は、編纂時に新しい暦を用いて、遡って暦付けをしている
(遠藤慶太『六国史』p.35)
698 カルタゴ敗北
ウマイヤ朝によるチュニス建設
(シュミット『陸と海』p.44)
701 大宝元年・大宝律令
翌大宝2(702)年施行
律とは罰がある定め、令とは社会のルール
ほぼ散逸し、現代に伝わらず
遣隋使、遣唐使が学んだ中国式の行政運営を参考に、こういう国にするぞ! という
意気込みを示した工程表、中期経営計画
官僚制の雛形(元号、文書、印鑑、省庁、職位、戸籍、徴税、地方公共団体など)
707 景雲4年・文武天皇崩御
元明(げんめい)天皇即位
708 和銅元年・和同開珎の発行
「わどうかいちん」または「わどうかいほう」と読む
10世紀終わりまで朝廷が発行する銭貨(皇朝十二銭)の1つめ
https://www.imes.boj.or.jp/cm/history/content/
708 和銅元年・催鋳銭司(さいずせんし)
河内丹比(たじひ)郡の多治比真人は銭を鋳造する役に就く
鎌倉室町期には職人が全国に分散、能登中居や越後三条などに分布
(宮本常一『生きていく民俗』pp.169-170)
710 和銅3年・平城京へ遷都
奈良時代始まる
尽力した不比等の大邸宅は平城宮内の東に
「なんと大きな平城京」という語呂合わせは伊達ではなく、10万人規模の住民を擁する
上下水道、道路、食料、商業、法令、公衆衛生などの基盤なしに大規模都市は実現不可能
711 和銅4年・蓄銭叙位令
流通に滞りが見られた和同開珎をひろめるために、お金を集めた人に位を授けた
712 和銅5年『古事記』
稗田阿礼の口述を太安万侶が筆記し編纂、元明天皇に献上
現代読みでは「こじき」だが、大和読みでは「ふることふみ」
716 霊亀2年・第9次遣唐使
吉備真備、阿倍仲麻呂らを派遣
720 養老4年『日本書紀』
六国史第1、30巻・系図1巻、5月提出(系図は現存しない)
上代から41代持統天皇までを記録、推古天皇以前の年は幅を持って解釈
681年に編纂作業開始、おおよそ40年の時を経て完成
藤原不比等死去、正一位太政大臣を贈られる
記紀には藤原不比等の思いが込められている(権力の正当化に神話を利用?)
翌721年には、日本紀講(日本書紀の講義)で、編纂資料の提供者に向けて
読み方(漢語から和語への置き換え)が示される
大宝律令、養老律令も同様の講義形式でひろめられた
(遠藤慶太『六国史』pp.55-56)
722 養老6年・百万町歩開墾計画
天智天皇と天武天皇の孫である長屋王は奇想天外な計画を立てるも画餅に終わる
当時の技術で百万町歩(1町歩=1.2haだから120万ヘクタール:新潟県と同じくらい)
を開発するのは不可能、当時の日本全土の耕地が86万町歩
(伊藤俊一『荘園』p.12)
班田収授をまじめにやると、百万町歩必要だという逆算
課税ベースを拡大する意味と、平城京の威光を東国に知らしめる意図も?
長屋王の後もこの政策方針は堅持され、板挟みになった役人が自ら命を絶つほど
「日本は米食願望民族」
(網野善彦・石井進『米・百姓・天皇』pp.76-83, p.93, p.148)
723 養老7年・三世一身法
班田収授法では6年に一度の戸籍調査のたびに私有がリセットされたため、6年周期の
終わりにかけて農業への意欲低下がみられた
行基は1,000人を擁する行基集団を形成し、近畿で公共事業を盛んにして信者を増やした
三世一身の法では、既存の灌漑設備を利用して開墾した者に一代の、設備を新設して開墾
した者には三代の占有を許可したものの、占有期間が満期を迎えると公有化されてしまう
ため、十分なインセンティブにならなかった(当時の令の集成『類聚三代格』15巻に記述)
724 神亀元年・聖武天皇即位
聖武天皇は藤原不比等の娘宮子と文武天皇との間の子
聖武天皇の皇后は藤原不比等の後妻県犬養橘三千代(あがたのいぬかいのみちよ)
の娘安宿媛
皇室との縁戚関係を誇るべく、宮子を特別扱いしようとした藤原側の動きに
反藤原側の長屋王は待ったをかけた(辛巳事件)
726 ビザンツ帝国・皇帝レオン3世、聖像禁止令
偶像崇拝を厳禁するイスラム圏に近い東方正教会は、偶像を禁止に
東西カトリックの分裂深刻化
729 天平元年・長屋王の変
聖武天皇の男子基王はわずか1歳で夭逝
悲しみに暮れる聖武天皇のもとに「長屋王が呪い殺した」との讒言が入る
藤原四兄弟の宇合が長屋王邸を包囲、長屋王は自害に追い込まれる
軍縮派の長屋王は軍拡派の藤原四兄弟との政争に敗れた
誣告(ぶこく)した中臣宮処東人(なかとみのみやこ)は、囲碁の対局中に
大伴子虫(おおとものこむし)に殺害される
『続日本紀』天平10年7月10日条
733 天平5年『出雲風土記』
和銅6年(713年)に風土記の編纂令が全国に 資料
完全な形で今日まで伝わるのは出雲風土記
常陸、播磨、豊後、肥前は一部欠落あり
736 天平8年・阿倍継麻呂を新羅に派遣
関係改善を目論むも失敗、継麻呂は帰国途上で病死
737 天平9年・藤原四兄弟死す
天平7(735)年の冷害で人々の抵抗力が弱まっていたところに、太宰府から天然痘
(豌痘瘡)の流行が始まり、平城京にも伝わる。天平8年にはいったん落ち着くが
天平9年に太宰府に留め置かれていた新羅への遣いが帰京すると平城京で再流行、
藤原四兄弟はじめ高官3分の1の命を奪う。病は新羅から持ち込まれたとの噂が広まる
米どころの福岡や大阪では住民の半数ほどの命が奪われるなど、壊滅的な影響
(伊藤俊一『荘園』p.15)
天平7年は天然痘、天平9年は麻疹ともいわれる 資料
740 天平12年・藤原広嗣の乱
四兄弟の死後力を得た吉備真備らは国内の建て直しを優先して軍縮に政策転換
藤原四兄弟・宇合の息子広嗣は太宰府へ派遣されるがこれを不服とする
新羅に派遣した遣いが追い返されたことを機に吉備真備らの罷免を求め反乱
乱は鎮圧されるも、聖武天皇は恐怖から彷徨5年と言われる遷都を繰り返す
741 天平13年・国分寺建立の詔
聖武天皇は話題の人行基との会談を望まれ、実現
各地に国分寺・国分尼寺を建立し、仏教による世情安定を試みる
743 天平15年・墾田永年私財法
三世一身の法では開墾のインセンティブが不十分であること、天然痘による人口減
で耕作放棄地が増え税収が滞ったことから、私有を認めてインセンティブを強化
開発ブームが起きる
班田収授(貴族による中央集権)から荘園(武家による地方分権)へ
743 天平15年・大仏造立の詔
749 天平感宝元年・天平勝宝元年・寺院墾田許可令
大安寺、薬師寺、興福寺、国分寺に1,000町、東大寺には4,000町の開墾枠
(伊藤俊一『荘園』p.16)
752 天平勝宝4年・東大寺盧舎那仏の開眼供養会
天平15年(743年)、聖武天皇から大仏建立を求められた行基は全国を行脚し
資金を募る勧進を展開
開眼法要を見ることなく、行基は天平感宝元年・天平勝宝元年に没した
(網野善彦『無縁・公界・楽』p.157)
755 天平勝宝7年・孝謙天皇が杣山を東大寺に寄進
東大寺の後の修理のために、伊賀国黒田荘一帯の大木の産地(杣山)を寄進
今でも二月堂お水取り用の松明は黒田荘(伊賀一ノ井)から運ぶ
(伊藤俊一『荘園』p.52)
756 天平勝宝8年・正倉院
光明皇太后が聖武天皇の七回忌の折に遺品を東大寺に奉献したのが起こり
https://shosoin.kunaicho.go.jp/
757 天平宝字元年・養老律令
原本は失われたが、833年の『令義解』に収録された令は今日に伝わる
官制大観に現代語訳(研究者ではない方とのことだが、壮観)
織員令(しきいんりょう)に監修国史や修撰国史という公文書管理の役職名がある
(遠藤慶太『六国史』p.9)
760 天平宝字4年・開基勝宝の発行
日本初の金貨とされる 資料
大仏建立にみられる高度な金属技術がすでにあった
金貨に記された字は吉備真備によるものとされる
760 天平宝字4年『藤氏家伝』
764 天平宝字8年・藤原仲麻呂の乱
孝謙上皇が溺愛する弓削道鏡を排するため、淳仁天皇側の仲麻呂は兵を京へ集めようと
したが、密告され乱が発覚、孝謙天皇は仲麻呂の対抗勢力である吉備真備に討伐を命じ
仲麻呂は非業の死を遂げる
孝謙上皇は淳仁天皇を廃し、自ら称徳天皇として重祚した
765 天平神護元年・私田開墾の停止
官吏時代に目星をつけた土地に退官後に移住し土着化する前司浪人(ぜんじろうじん)
は私的荘園、武士の原型となる
宝亀3(772)年に私田開墾は再開される
769 神護景雲3年・弓削道鏡事件
「次の天皇は道鏡」という大分宇佐神宮の信託が出たと道鏡の弟が奏上
和気清麻呂が真偽を確かめに宇佐神宮へ赴くと、そうではないとの信託が降る
これを聞いた称徳天皇は、「後継は私が決める」と眼が覚める
偽りの信託を得て天皇になろうとしたことから、日本三大悪人の一人とされる
道鏡については本居宣長説など諸説ある
770 神護景雲4年・弓削道鏡、下野薬師寺別当を申しつけられる
道教は京を離れ、親族4人は土佐へ流刑
781 天応元年・桓武天皇即位
父の光仁天皇から譲位、久しぶりの天智天皇系の天皇
天武天皇系、東大寺系を排除したいとの思惑
784 延暦3年・長岡京に遷都
785 延暦4年・遷都の立役者藤原種嗣が暗殺される
9月23日
背後に平城京派である東大寺や皇太子相良親王の影、親王は淡路流刑の途上薨去
歌人大伴家持はこれに連座したとして、死後官位を剥奪される
『続日本紀』延暦4年8月条は従三位の家持の死をあえて「死」と表記している
(遠藤慶太『六国史』p.11)
その後日照り、飢饉、疫病、皇后崩御、伊勢神宮の放火など不幸が続く
和気清麻呂の助言もあり、延暦12年(793年)に再遷都を決める
長岡は後に菅原道真の所領となる
788 延暦7年・比叡山開山
伝教大師最澄による、延暦年間に開かれた寺として延暦寺と称する
https://www.hieizan.or.jp/about/history
789 延暦8年・三関の廃止
7月14日の勅により、3か所の関はむしろ交通の滞りになるとして
伊勢国鈴鹿、美濃国不破、越前国愛発の三関を廃止
794 延暦13年・平安京に遷都
平安時代始まる
797 延暦16年・坂上田村麻呂、征夷大将軍に任ぜられる
797 延暦16年・銭出挙
官符に「公私挙銭」との記述、銭での貸付け
挙とは「いらふ」、貸付けの意
(井原今朝男『中世の借金事情』p.80)
利息は元本の半倍までとされた(類聚三代格)
(井原今朝男『中世の借金事情』p.113)
797 延暦16年『続日本紀』
しょくにほんぎ
六国史第2、40巻
文武元(697)年から延暦10(791)年までの記録
42代・文武(もんむ)天皇、43代・元明(げんめい)天皇、
44代・元正(げんしょう)天皇、45代・聖武(しょうむ)天皇、
46代・考謙(こうけん)天皇、47代・淳仁(じゅんにん)天皇、
48代・称徳天皇(46代が再即位)、49代・光仁(こうにん)天皇、
50代・桓武(かんむ)天皇の御代を記録
編纂は前期と後期に分かれていた。前期(天平宝字2(758)年7月まで)は
天平宝字8(764)年に乱を起こした藤原仲麻呂の影響が強く、編纂し直しに
後期(天平宝字2(758)年8月から)が先に仕上がる
桓武天皇は在任中に自らの歴史的評価を固めたいという意向を持っていた
(遠藤慶太『六国史』p.87, p.97)
関西には1953年から続く続日本紀研究会
http://www.historia-osaka.on.arena.ne.jp/bukai.html
関東には1978年発足の続日本紀註解編纂会
800 延暦19年・崇道天皇
祟りを恐れる桓武天皇は、相良親王に崇道天皇の名を贈る(代々天皇には入らず)
桓武天皇は延暦25(806)年に崩御するまで祟りを恐れていた
800 カールの戴冠
東方正教会への対抗心を燃やすローマ教皇レオ3世は、フランク王国のカール1世に
サン・ピエトロ大聖堂で戴冠、権威を高める
カール1世=シャルルマーニュ=大チャールズ
(ジェームズ・スチュアート『経済の原理』p.404)
810 大同5年・薬子の変
前年の大同4(809)年、病に伏せた平城天皇は相良親王の祟りとして譲位を決意し
平城京へ、代わって即位した弟の嵯峨天皇が政策を変更したため争いに
争いに敗れた平城太上天皇(上皇)は出家する
背後に平城期に権勢をほしいままにしていた藤原薬子
816 弘仁7年・高野山開山
弘法大師空海による
金剛峯寺の名のとおり、標高1,000mの高野山
https://www.koyasan.or.jp/kongobuji/
819 弘仁10年・5月2日の格
格は「きゃく」と読む
利息は現金の半倍(50%)を超過してはならないとの定め
797年の官符を踏襲
(井原今朝男『中世の借金事情』p.167)
822? 弘仁13年『日本霊異記』
上中下巻合わせて116の説話
833 天長10年『令義解』
「りょうのぎげ」と読む
これにより大宝律令の一部と養老律令が伝わる
840 承和7年『日本後紀』
六国史第3、12月9日奏上、40巻のうち10巻が現存
『類聚国史』と『日本紀略』により空白部分の復元を試みている
延暦11(792)年から天長10(833)年までの記録
50代・桓武天皇、51代・平城(へいぜい)天皇、52代・嵯峨(さが)天皇、
53代・淳和(じゅんな)天皇の御代を記録
編纂は嵯峨、淳和、仁明天皇の3代にわたって続けられた
第1期の筆頭編者を務めた藤原冬嗣は、娘順子を仁明天皇に嫁がせ
摂関家への足がかりを得る
3期通じて編者を務めた藤原緒嗣は桓武天皇に礼を尽くさなかった平城天皇と
その時代の人物に辛口評伝を付す
(遠藤慶太『六国史』pp.101-111)
842 承和9年・承和の変
843 ヴェルダン条約
フランク王国が3分割
850 嘉祥3年・文徳天皇即位
仁明天皇譲位のため、践祚
文徳天皇は病弱のため政務から足が遠のく(わずか32歳で崩御)
藤原冬嗣の息子良房の力が増し、惟仁親王(後の清和天皇)が皇太子に
体調不良なのか、体調を口実に良房が幽閉したのか?
摂関政治へ
(遠藤慶太『六国史』p.147)
859 貞観元年・大山崎の離宮八幡宮
清和天皇は、夢の中で大分宇佐神宮から八幡伸を御遷座せよとのお告げを受ける
八幡神を奉じて帰京途上の行教は、淀川の港山崎にて神降山に霊光をみる
そこを掘ると湧き水が出たことから岩清水八幡宮として御神体を鎮座奉る
この地は嵯峨天皇の離宮跡であったことから、後に離宮八幡宮へ改称
社司が長木で荏胡麻を絞り、禁裏、岩清水八幡宮、離宮八幡宮の灯油として奉納
大山崎の油神人と呼ばれるように
(佐々木銀弥『日本商人の源流』p.185)
https://www.abura.gr.jp/history2016/edo-akari_pt00.pdf
https://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyotosyui/page7t/km_01_663.html
861 貞観3年・平安京で赤痢流行
864 貞観6年・富士山の大噴火、阿蘇山の噴火
866 貞観8年・応天門の変
閏3月10日、応天門が焼失
8月、嫌疑をかけられた伴善男(大伴氏)は伊豆へ流刑に
藤原良房は大伴氏、紀氏を朝廷から遠ざけ、初の摂政となる
866 貞観8年・鹿島神宮の植樹
神宮の近くに5,700本の栗を植え、遷宮に備える
『日本三代実録』に記録?
(網野善彦・石井進『米・百姓・天皇』p.141)
868 貞観10年『令集解』
明治大学日本古代学研究所のサイトに詳しい
869 貞観11年『続日本後紀』
六国史第4、20巻
編纂委員のうち、太政大臣藤原良房の弟良相、応天門の変で流刑となった伴善男
は完成を見ることができなかった(立ち会えたのは藤原良房と春澄善縄の2人)
天長10(833)年から嘉祥3(850)年までの記録
54代・仁明(にんみょう)天皇の御代
病弱な仁明天皇は薬に対する並々ならぬ関心
869 貞観11年・貞観地震
東北地域を大震災と大津波が襲う 資料
878 元慶2年・関東地震
879 元慶3年『日本文徳天皇実録』
六国史第5、11月13日上奏、10巻
序文は文章博士菅原道真による
嘉祥3(850)年から天安2(858)年までの記録
55代・文徳(もんとく)天皇の御代
883 元慶7年・源益、撲殺される
陽成天皇は退位、藤原基経らが光孝天皇を立てる
光孝天皇は基経に配慮して名誉職の太政大臣に実権を付与する
さらには「臣籍降下」も勅した(後の宇多天皇は源氏として降下)
基経の横暴の度がわかる(基経は光孝天皇の親戚)
887 仁和3年・仁和地震
南海トラフ型の地震
富士山の大噴火からこの頃まで天変地異が続く
887 仁和3年・宇多天皇即位
21歳で即位(陽成太上天皇は1歳下)
宇多天皇は藤原基経を関白に起用(関白のはじまり)
(遠藤慶太『六国史』p.158)
891 寛平3年・寛平の治
関白藤原基経死去、その後関白を置かず、橘広相も死去
藤原家の血筋ではない宇多天皇は右大臣に菅原道真を登用
892 寛平4年『類聚国史』
宇多天皇が菅原道真に編纂を御下命
六国史を内容別に編纂し直したもの
200巻のうち62巻が伝わる
897 寛平9年・宇多天皇譲位
皇位を醍醐天皇に譲り、仁和寺を建立し法皇として入り隠然たる力を持つ
901 昌泰4年・昌泰の変
正月、右大臣菅原道真は左大臣藤原時平の讒言により太宰府に左遷される
上皇となった宇多天皇の影響を醍醐天皇の周囲が排除する試み
反藤原の宇多上皇と親藤原の醍醐天皇
東風吹かば 匂いおこせよ梅の花 あるじなしとて春な忘れそ 資料
院政が確立せず、中世への移行は後にずれ込む
901 延喜元年『日本三代実録』
六国史第6、序文の日付は8月2日、50巻
天安2(858)年から仁和3(887)年までを記録
56代・清和(せいわ)天皇、57代・陽成(ようぜい)天皇、
58代・光孝(こうこう)天皇の御代
寛平4(892)年、宇多天皇は源氏の源能有、菅原道真らに編纂に当たらせる
寛平9(897)年、宇多天皇が譲位し、醍醐天皇が践祚すると藤原時平が編纂の中心に
編纂に加わっていた道真は、完成を間近に控えたこの年の正月、時平によって太宰府
に左遷される
902 延喜2年・荘園整理令
厳しい生活環境の中、たくましく生き抜く富豪の輩(力田の輩)が現れた
富豪の輩と結ぶ朝廷は勅旨田を作り、庶民を酷使した
こうした横暴をやめさせ、庶民に田地を再分配(班田)
903 延喜3年・太宰府にて道真死去
905 延喜5年『古今和歌集』
醍醐天皇が紀貫之らに編纂を御下命
906? レギノ『司教法令集』
927 延長5年『延喜式』
藤原時平が律令の施行規則を50巻にまとめる(現代の施行規則、施行令か)
公家の細かいしきたりを武家は嫌う、几帳面すぎることを延喜式とも
京の東西に市が立ち、「市庭の肆(いちくち)に品物を並べて売り」
(宮本常一『生きていく民俗』p.189)
927 イングランド王国の成立
サクソン人の七王国が合同
930 延長8年・清涼殿落雷事件
雨乞いの儀式中、平安京内裏に落雷
藤原清貫が即死、平希世も死去、惨状を見た醍醐天皇もその後崩御
清貫は左遷された菅原道真の監視役であったことから、道真の怨念との話が広がる
930 延長8年・藤原時平が朱雀天皇の摂政に
以後、藤氏長者(藤原一門のトップ)が摂政関白の座を占める摂関政治に
10世紀は乾燥の世紀、村落の消滅も見られた
口分田も自然消滅、荘園の時代に(官僚制から権門政治へ)
939 天慶2年・承平天慶の乱
東国で乱を起こした平将門は天慶3年(940年)に討死
瀬戸内で乱を起こした藤原純友は天慶4年(941年)に捕えられ、獄中死
討伐に功あった武装勢力が朝廷に足掛かりを得る
945 天慶8年・志多羅神上洛事件
志多羅の神をいただく神輿3基を担いで、民衆が筑紫から京へ上洛
先頭の神輿は道真をいただくもの
(三枝暁子『日本中世の民衆世界』p.8)
954 天暦8年・大江朝綱が国史編纂を命じられる
『新国史』『続三代実録』とも称される書物は未定稿で終わるも、後に参照される
これを最後に国史の編纂は事実上なくなる
利害関係者が多くなりすぎて、正史を作るのは困難に
957 天徳元年・北野天満宮の起こり
(三枝暁子『日本中世の民衆世界』p.7)
https://kitanotenmangu.or.jp/about/
960 北宋建国
962 神聖ローマ帝国の成立
イタリア王ベレンガリオ2世がローマ教皇領に侵入
ローマ教皇ヨハネス12世は東フランク王オットー1世に助けを求める
これを奇縁にオットー1世は神聖ローマ帝国皇帝として戴冠
後にヨハネスがベレンガリオと通じるとみるや両者を排除し、オットー自ら
イタリア王を兼務、東ローマ帝国から妃を迎え、東方文化を移入
987 仏・カペー朝の成立
フランク王国からフランス王国へ
ユーグ・カペー、フランス王に
(ジェームズ・スチュアート『経済の原理』p.222)
988 永延2年・尾張国の住民が国司藤原元命を国司苛政上訴
住民によるリコール活動が認められ、元命は罷免される
一般のイメージとは異なり、当時の住民は唯々諾々としていなかった
背景にあの手この手で税逃れをした免田の存在(皺寄せが百姓(ひゃくせい:庶民)に)
(伊藤俊一『荘園』pp.54-55)