帝国の時代
1800〜1900
1800 仏・ナポレオン、アルプス越え
名誉回復したダヴィドはナポレオンを讃える絵を描く
https://www.tv-tokyo.co.jp/kyojin_old/data/060506/
1800 英・アイルランドを併合
1800 英・ワット蒸気機関の特許切れ
1801 英・アイルランドを加える
1803 米・仏よりルイジアナ購入
欧州はナポレオン戦争で内向きに
戦火に晒されなかったアメリカの大発展が始まる
1803 Say, Jean-Baptiste 『政治経済学提要』
参考文献等に J. -B. Sayと略記されるときのBの直前につく「-」はハイフン
https://oll.libertyfund.org/titles/biddle-a-treatise-on-political-economy
アダム・スミスを称揚
1814年には「新版」を出版、この時期、セイはリカードのもとを訪れ、連れ立って
ベンサム、ジェームズ・ミルと対面した(マルサス著, 小林訳『経済学原理』訳者解説, p.423)
1826年に出版した第5版において「生産という名に値いしないものは、余りに多く
生産しすぎることになる」と論を修正したが、翌1827年に出版された『経済学に
おける諸定義』でマルサスはこの修正を再批判した。これに対してセイは「わたし
の市場の理論は、不可侵の住家である」と開き直った
(マルサス著, 小林訳『経済学原理』訳者解説, pp.428-429)
1804 オーストリア帝国結成
中欧の権力空白を埋める形で、神聖ローマ帝国皇帝フランツ2世の所領
オーストリア大公国を中心に、旧神聖ローマ帝国諸領地が集う
フランツ2世はオーストリア帝国フランツ1世として即位
ドイツ語のÖsterreichの発音はオストライヒに近く、オーストリア語の
Östareich の発音はアストライヒに近い
Österはスウェーデン語で「東」、reichはドイツ語で「連合王国」
1804 仏・ナポレオンによる第1帝政
1804 英・穀物条例
1812年に向けて穀物価格は上昇(マルサス『穀物條例論』pp.33-34)
1805 トラファルガー沖海戦
英が制海権を握る
1805 アウステルリッツの戦い
11月にウィーンを攻め落とされた神聖ローマ帝国は、ロシアと組んでナポレオン
に対抗することを目論むも、知略に富む戦術に太刀打ちできず大敗(12月)
仏皇帝ナポレオン、神聖ローマ帝国皇帝フランツ2世、露皇帝アレクサンドル1世
の三帝会戦とも
1806 神聖ローマ帝国・滅亡
三帝会戦に敗れた神聖ローマ帝国皇帝フランツ2世は、仏皇帝ナポレオンに
奪われる前に有名無実化していた帝位を廃す
対仏大同盟の瓦解
1806 仏・大陸封鎖令(ベルリン勅令)
英、大陸貿易から締め出され、農地開発が進む
マルサス『穀物條例論』pp.55-56によれば、ダンツィッヒの輸出額は1802-5年
の平均227,047ラストから1806-13年の平均46,158ラストへ8割減となった
ラスト(last)は体積の単位で51.2パイント(パブのビールグラス1杯分)
1パイント=568mlであるから、1ラストはおおよそ29リットル
植民地から砂糖が入らなくなり、甜菜芋の栽培が盛んに
(八木『オーストリア経済思想史研究』p.77-81)
1808 Fichte, Johann Gottlieb著 『ドイツ国民に告ぐ』
フランスへの対抗意識
1808 Mill, James 著『商業擁護論』
1808 フェートン号事件
蘭が仏に吸収され消滅したことを受け、蘭の船を拿捕すべく英の船が長崎に入港
薪と食料を与えてことなきを得る
1809 ヴァグラムの戦い
仏墺の大軍が激突、フランスの勝利に終わる
オーストリア帝国は、フランス皇帝ナポレオンとロシア皇帝アレクサンドル、
2人の皇帝の間に挟まる緩衝地帯に
(テイラー著, 倉田訳『ハプスブルク帝国』pp.63-64)
1810 露・英との貿易再開
1811 墺・洪議会を解散
ハンガリーの通貨をオーストリアの通貨と同じ水準まで引き下げることに反発した
洪議会に、皇帝フランツが強行措置
この後、洪は墺の要求をことごとくかわす
(テイラー著, 倉田訳『ハプスブルク帝国』pp.84-85)
1811 マルサスとリカードの交友はじまる
6月、マルサスの申し出による(マルサス著, 小林訳『経済学原理』訳者解説, p.400)
1811 米・米国銀行の営業終了
アーロン・バーとアレクサンダー・ハミルトンの決闘でバーが勝利、米国初の
中央銀行は消滅
(辻村・辻村『マクロ経済統計と構造分析』p.69)
1812 米英戦争(米国国歌)
1812 ナポレオンのロシア遠征失敗(冬将軍)
1813 英・インド貿易独占廃止法
清の支配地域を除く東インド会社の貿易独占権を廃止
1813 ライプツィッヒの戦い
ナポレオン軍敗れる、フランスの力に翳り
1814 パリ陥落、ナポレオンはセント・ヘレナへ追放
1814〜1815 ウィーン会議
オーストリア宰相メッテルニッヒが主導(多民族帝国領内の紛争を恐れる)
敗戦国フランスの代表タレーランはナポレオンに全ての罪をかぶせ、ブルボン朝
復活を目論む(第二次大戦後のドイツと相似形)
会議は踊る、されど進まず→ナポレオンの復活
1814 北部イタリア、オーストリア帝国に吸収
ロンバルド=ヴェネト王国として加盟
その後、この地域を巡り英露はオーストリア側、仏は反オーストリア側で介入
仏が火をつけた伊の民族意識はオーストリア帝国に遠心力を与える
1814 Malthus, Thomas Robert著, 楠井隆三・東嘉生訳『穀物條例論 ―地代論―』✅
Observations on the Effects of the Corn Laws, and of a Rise or Fall in the Price of Corn
on the Agriculture and General Wealth of the Country, 1814
The Grounds of an Opinion on the Policy of Restricting the Importation of Foreign Corn;
intended as an Appendix to Observations on the Corn Laws, 1815
An Inquiry into the Nature and Progress of Rent, and the Principle by which it is regulated, 1815
穀物法が国会で議論されている最中に出された小論 資料
ジェヴォンズは『経済学の理論』第2版への序文p.xxviに、1815年発売のこの著の第3版
p.32から引用している(経済学の問題は、微分学の最大最小問題として定式化できる)
訳者序文に、昭和14年6月15日 台北とあるように台北帝国大学所蔵の原著を翻訳
『諸考察』
pp.9-11:アダム・スミス『国富論』の自由貿易論は予期せぬ結果を招く恐れがある
p.12:スミスの穀物輸出の奨励金批判は、奨励が真実価格(real price)の上昇をもたら
さない限り、生産の拡大を後押ししないという主張である
p.17:穀物の輸出奨励と輸入制限が穀物価格を引き上げる程度は、数年来の凶作、人口増加、
経済成長などが穀物価格を引き上げる程度と変わりないほどの影響である
p.18:穀物価格は労賃の甚だしく不正確な尺度(スミスは穀物価格→労賃→物価という
フリードマン的な垂直の供給曲線を考えていた。そして、穀物価格騰貴による農業へ
の新規参入を想定していない)
p.21:マルサスの穀物をマネーに変えると、ケインズの『一般理論』になる
p.22:穀物価格の騰貴は穀物農業への投資を喚起するという前提で考えるべき
輸出奨励金は長らく空文化しているから、輸入制限について主に考えるべき
p.23:農業の国際分業(有効需要という言葉も用いられている)
p.27:重農主義者(エコノミスト)は、増加する人口をどう養うかは考えていない
いわゆる定常状態の永劫回帰だけ考えている
p.28:この点輸入を奨励することには意味がある(増加する人口に安い輸入穀物で対応)
p.33:「200万人の我が国民」という表現があるが、19世紀はじめの英国の人口は1千万人
ほど(5分の1の比率に何らかの意味があるか…)
p.35:中産階級の勃興(資本主義を讃える名文、何処かに引用したい)
p.38:止めていた輸入を急に解放するときに生じる混乱はスミスも指摘していた
(『国富論』第4巻第2章, 原文p.202)
pp.40-44:輸入制限撤廃にも維持にもプラスとマイナスの面があることは理解すべき
pp.44-45:英国の穀物価格は1クォーター90シリングであるのに対して、フランスの
穀物価格は1クォーター32シリングと、大きな内外価格差がある
これは英国の人口増の影響が大きいが、賃金の差となって現れている
現在は輸入関税でこの差を埋めているが、今後大陸ヨーロッパが技術の
キャッチアップをしたときに、英国の弱みとなる
1815 英・穀物法
地主の利益を守るため、穀物価格を高く維持
1815 仏・ナポレオン、百日天下
ワーテルローの戦いに敗れる
この戦いの帰趨をめぐりロスチャイルドは巨万の富を得たとの伝承
1815 ドイツ連邦の成立(ウィーン議定書)
オーストリアを議長として、プロイセン等ドイツ地域の領邦と自由都市が集結
各領邦・都市は、あらかじめ定められた人数の代表をフランクフルトの議会に送る
ドイツ領邦の名を借りた対仏・ヨーロッパの勢力均衡(今のEUに近い?)
1815 パリ条約、神聖同盟(墺・普・露)
1816 仏・リシュリュー首相
ルイ18世の下で(この辺りの経緯は細かすぎるので割愛)
1817 Ricardo, David著, 羽鳥卓也・吉沢芳樹訳『経済学および課税の原理』✅
「経済学の原理」および「課税」か、「経済学の原理」および「課税の原理」か
https://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/hermes/ir/re/5437/koten0001900020.pdf
第7章(pp.191-192)に有名なポルトガルの葡萄酒とイングランドの毛織物の例
この例は、1703年に結ばれたメシュエン条約がモチーフであるが、メシュエン条約は
自由貿易というよりスペイン継承戦争下で結ばれたフランス排除のための選択貿易
第7章は、2×2の表を用いた比較生産費ではなく、国境を越える資本移動の難しさが
貿易をもたらすという立論
p.190:ともに英国国内であるヨークシャーの利潤がロンドンの利潤を上回るとき、
資本はより多くの利潤を求めてヨークシャーに移動する。しかし、言語、文化、
商慣行が異なる外国へは簡単に移動しない。資本が移動しないので、外国とは
利潤の差が温存される。これが貿易利益の源泉である。言い換えると、国内外
で異なる相対価格が温存されていることが貿易利益の源泉である。
財は国境を越えるが、資本と人は国境を越えない時代の話(現代には適応不可)
他にも仮定や考慮すべきことが様々ある
https://www.jstage.jst.go.jp/article/amsjj/15/0/15_KJ00009927321/_pdf/-char/ja
https://jshet.net/docs/conference/82nd/hisamatsu.pdf
フランスの経済学者たちと交流があったヒュームの方が自由貿易的
リカードが『原理』で終始問題にしているのは資本の利潤の問題であって貿易は
ある種添え物の議論
利潤=差額地代論を資本に拡張したもの(→右上がりの資金供給曲線へ)
1818 ドイツ関税同盟
プロイセン主導
1819 英・ピール条例
戦争の時代が終わりを告げたことを受け、紙幣の乱発に歯止めをかけるべく
金本位制への復帰を定める
1820 Malthus, Thomas Robert著, 小林時三郎訳注『経済学原理』✅
1818年11月10日付発行のMonthly Literary Advertiser誌にに印刷中との表記があるものの、
1819年9月になっても、マルサスは修正を加えていた。また出版社も最適な出版のタイミング
をうかがっていた(小林訳, 訳者解説, p.403)
リカードは本書が出版されるや通読し、批判的検証をした後に評注を付している。この評注は
リカードの曾孫フランクによって1919年に「発見」され、大英博物館に報告された。1928年
にホランダア教授の序文付きで印刷された(小林訳, 訳者解説, pp.415-416)
小林版は初版、第2版はマルサスの死後1836年、友人オッターによる(小林訳, 訳者解説, p.412)
エコノミスト(フランスのフィジオクラット:重農主義者)、アダム・スミス『国富論』、
リカード『経済学及び課税の原理』を批判的に検討
マルサス:人口増=より痩せた土地の耕作、賃金低下で経済停滞(人口論):陰鬱な学問
リカード:人口増=より痩せた土地を工作しても利益が出る→賃金・利潤の上昇:明るい
p.25:「事実と経験とによって発見された真理の殿堂のまえでは、もっともはなやかな
理論も、もっとも美しい分類も瓦解し去らねばならない」
pp,27-29:有効需要をめぐるマルサスとリカードの見解の相違
pp.33-35:自由放任の原則には政府介入の例外があるべきとの指摘
pp.38-40:アダム・スミスは不干渉を提唱したが、公共サービス、法令、税は現実に存在
することから「政府にとって、事物をそのなりゆきにまったく放任しておくこと
は、明らかに不可能である」(p.40)
p.41:豊かな国の穀物価格は低いというアダム・スミスの主張は、ここ25年ほどに起きた
ことを説明できない。イングランドの輸入量は当時国内生産の571(517)分の1で
あったが、今や10分の1ほどになり、国内の小麦農家を圧迫している。
p.47:国富の定義について、エコノミストは「土地からえられる純生産物」と狭く定義し、
ローダーデール卿は「有用でかつ快適なものとして、欲求するいっさいのもの」と
広く定義している。マルサスは「人類に必要で、有用な、または心よい物質物」
(p.49)と定義した。この定義には当時の状況を反映してサービスは含まれていない
が、アダム・スミスの定義に近く、リカードも賛成している。
pp.51-61:生産的労働=財貨の生産、非生産的労働=サービスの提供
農業を最も生産的だとするマルサスの見解に、リカードは農業を特別視する理由はない
と反対している。また、その論行の中で、コブ・ダグラス型の生産関数を想定している。
(労働と資本の完全代替)
生産性は、より多くの資本蓄積を促すものほど高いと想定されている
pp.63-64:GNIの生産側(3次の産業分類)と分配側(賃金、利潤、地代)の等価
pp.69-71: 在庫と資本財が富であることの説明、また民間の労働は付加価値の一部を構成
することの説明(政府の労働は不生産的労働)
pp.72-73:ニュートン、シェイクスピア、ミルトンがもたらした叡智や1688年の名誉革命に
によって実現したよりよい統治体制も価値ではあるが計測し難い(よって、これらは
生産的労働から除外する)
pp.75-76:使用価値と交換価値について
使用価値:空気、水(泉)
交換価値:「もし自然が、そのいっさいの財貨(goods)を、消費に先だって、終局的
にそれが分配される状態に分配するものとすれば、交換とか交換価値の問題
は起こらないであろう」(p.76)
p.77:パンと鹿肉の物々交換(欲求の二重の一致、交換比率は各人の相対的評価を反映)
pp.77-78:均衡価格に至る調整過程をチュルゴーを引用しつつ説明
p.78:価値尺度財の説明(鹿肉、ぶどう酒、任意の財が価値尺度となる)
p.79:競争均衡は価格を生産費(pivot)まで押し下げるというリカードの評注
pp.85-92:名目主義・相対価値のマルサスと実質主義・真実価値(=原価)のリカード
pp.102-103:需要と供給で考えるマルサスと生産費で考えるリカード
p.105:リカードは消費量(とそれに対応する価格)と支払意思額を混同しているとする
マルサスの批判
pp.108-109:需要と供給から価格が導かれるとするマルサスと生産費説のリカード
p.116:労働の価格に影響を与える希少性
p.119:「人生の富くじで土地という賞品をひきあてなかった労働者」(いわゆるガチャ)
pp.119-120:必要価格=労働者の賃金+起業家の利潤+地主の地代
p.126:アダム・スミス、チュルゴー、リカードによる交換価値=投下労働量は誤り
p.127:オーストリア学派の「迂回生産方式」の原型
pp.136-138:固定資本と流動資本の定義(流動資本は1年以内というリカードの定義)
pp.137-138:リカードは名目値ではなく実質値での経済分析をすべきだと主張
p.148:独占への言及
p.150:固定資本と流動資本への言及
p.154:「ほかの事情がひとしいかぎり(other things being equal)」
pp.162-163:インドの銀価値は英国のそれの6-8倍、あるいはそれ以上
ロシア、ポーランド、ドイツ、フランス、フランダースなど、欧州域内でも
銀価値は大きく異なる
166-168:金属貨幣の価値は、それを採掘するために要した労働量とは無関係
→ビットコインの価値源泉も同様の誤り(電気代)
p.174:「貨物の労働を支配する能力は、遠く離れたときおよびちがった国において、生活の
第一の必需品――穀物――を支配するその能力のもっともよい基準であろう」
p.176:労働は「真実交換価値の正確でかつ標準的な尺度とは考えることができない」
p.180:小麦と労働の複本位制(2つの価格の平均が価値基準)
リカードはこれを「完全な誤りが含まれている」と批評
p.192:ブキャナン版の『国富論』に言及
p.193:リカードの評注に『経済学』の語がある。経済学|及び課税の原理という二本建て
pp.197-200:有効需要の原理、セー法則、労働需要を喚起する有効需要など重要概念のスケッチ
pp.199-200:帽子の例(マーシャル『経済学原理』に登場、p.243のリカードのコメントも)
pp.202-204:有効需要の原理
p.205:奢侈品(フランス産シャンパン)と必需品
pp.206-207:マルサスの有効需要の原理とリカードのセー法則再び
pp.209-212:マルサスが差額地代論を批判するのは、彼が地主側の立場に立っているから
マルサスは地代を神の恩寵と捉えている
差額地代は地主による消費者の搾取であるとの批判を、リカードはマルサスの誤解
だとしている
pp.213-217:『人口論』との裏表(人口が増えると食糧の交換価値は高まり、賃金は低下)
p.226:農産物の収穫増が人口を増やすが、低賃金のままに置かれる(これも『人口論』)
pp.239-240:リカードによるセー法則(供給が「それみずからの需要をつくりだす」)
小麦の生産増→それを食する働き手の増加=需要増
pp.246-248:1793年から1813年までのナポレオン戦争期に小麦の価格は貨幣表示で3倍、
金表示で2倍になった。これを機縁として農業生産が拡大した。
pp.261-263:耕作地が増えるにしたがい地代が増えるとするリカードと減るとするマルサス
リカード…より生産性の低い土地が耕されると、生産性の高い土地の地代は上がる
マルサス…第3章第4節参照
p.264:リカードの評注はペティ=クラークの法則の原型(p.288も参照)
p.265:ナポレオン戦争後のデフレ不況(第1次大戦後のデフレ不況の雛形)
p.266:リカードの評注は貨幣中立説
p.267:マルサスとリカードの経済観の違い
マルサス:経済衰退期には資本が余剰となり利潤は低くなる(総余剰減少の影響)
リカード:賃金と差額地代が低下するため利潤は増える(総余剰一定で分配先が変わる)
p.269:政府による価格規制(低価格)は供給を減らす
p.275:オーストリア学派・メンガーの希少性概念の原型
p.286:穀物価格は常に必要価格(費用をちょうど償う価格)で売られる
この見解はフランス・エコノミストやアダム・スミスと異なる
pp.293-294:金と穀物の価値について、マルサスとアダム・スミスの見解の相違
p.300:地主は多くの税を負担してる(マルサスによる地主擁護)
第3章第8節:アダム・スミスの主張通り、地主と国家の利益は一致する
pp.306-307:スコットランドでは、農地で働く人が少なくなり地代が増えた
アイルランドでも、農地で半雇用状態にある人が都市に移動すれば、同様の
地代の増加が起きるであろう
pp.322-323:穀物の自由貿易によって地主が蒙る損失は、自由貿易の利益で埋め合わせ
できない。自由貿易が地主と農家の利益を損なわないというアダム・スミスを批判
p.328:1798年から1814年にかけての穀物価格の高騰は、穀物法ではなく、戦争と天候不順
による。この間に耕作地が増えたのは、商工業よりも良いリターンによる。
p.334:剰余は「神の恵み深い賜物(bountiful gift of Providence)」
p.335:「もし生活必需品が無制限に獲得されかつ人口が二十五年ごとに倍加されうるならば」
人類は地球のみならず宇宙を埋め尽くすであろう。(陰鬱な『人口論』)
これに対してリカードには生産力に限界なしという明るさがある
p.349:賃下げ競争によって得られた富に対する批判「こんな富は消え去ってしまえ!」
p.350:商工業を中心とする国の国民による節約は「その国を滅ぼすであろう」
p.352:リカードの自由貿易論は、経済的なフロンティアに直面する国家がその周縁を広げる
利点に着目したもの(外国からより安い食料を輸入できれば、フロンティアは先へ
引き伸ばされる)
p.353:国民に「品のある閑暇」(otium cum dignitate by キケロ)を与えるのは地代
p.353:地主であるリカードが地代を批判し、地主でないマルサスが地代を擁護するおかしみ
下巻
p.9:名目賃金と実質賃金(真実賃金)、労働の需要と供給
p.10:ピグーによる賃金財の原型
pp.10-11:マルサスは需要が価格を決める、リカードは供給が価格を決める
p.14:「ほかの事情にしてひとしいかぎり(cæteris paribus)」
p.17:リカードによる労働の自然価格は不自然な価格である(平均的な価格が自然である)
pp.20-21:人口増+低賃金=専制、圧制下の無知で短視眼的な市民
人口停滞+高賃金=市民的・政治的自由がある教育された長期的視点を持つ市民
pp.23-24:アイルランド農民=貧しき大家族(ワーキング・プア)の原因は安価なジャガイモ
イングランド市民=小麦価格が下がり、名目賃金が上昇したため、贅沢が可能に
pp.25-27:チャールズ2世の買い占めに関する法律は小麦、大麦、燕麦の価格が低いときに
買い占めを許可した。これが燕麦から小麦への需要の移動を促した
p.30:豊作貧乏
p.35:労働の需要を喚起するのは流動資本と思われているが、固定資本の増加によって労働の
需要が減れば固定資本の生産物への需要が減り、固定資本の増加も止まる。したがって
労働の需要は固定資本への投資と関係があるとみてもよい(pp.37-38も参照)
p.46:「富の増大と労働にたいする需要とが最大となる、好都合な中点」は、穏やかな物価
上昇が生じているときに見出される
pp.55-56:アダム・スミス『国富論』の「最近四世紀間における銀の価値の変動にかんする余論」
にたいする批判
pp.63-64:16世紀に生じた実質賃金(真実賃金)の下落は、その前に生じていた高い実質賃金
の反動であり、金鉱脈からもたらされた豊富な金によるものではない(穀物価格が下がり、
賃金が上がったことを説明できない:貨幣数量説批判)
p.66:フランス革命前、フランスでは実質賃金が低下していた
pp.69-70:1800年代はじめのイングランド南部の賃金は、貧困層を低賃金で雇うことを制度化
した救貧法のためにそれほど上昇しなかった。このため実質賃金は低下した。
p.74:賃金(名目と実質)は、労働者の生活水準、人口増加の度合い、貨幣価値を説明する
p.77:「資本とは、このような所有物またはこの蓄積された富のうち、利潤をうる目的で使用
される特殊な部分である」
p.78:利潤率(rate of profit)について
pp.81-84:資本蓄積にともなう利潤の低下(人口が増えすぎると食糧価格が騰貴して買えなく
なり、それ以上の人口を養えなくなる。停止的人口に達すると需要が停滞し、利潤低下)
p.85:農業は収穫逓減、商工業は収穫逓増がありうる
p.90:「国民生産物(national produce)」という語が用いられている
p.92:「供給および需要の必然的法則(inevitable laws of supply and demand)」という語
p.98:「全体のうち一方の比例が増大するにつれて他方は減少しなければならない。マルサス氏
は、価値は比例によっては測定されないで、分量によって測定される」というリカードの
コメント
p.100:「価値はそれが費やした労働によっては決められない」これは「ほんのわずかばかり
かつ短期間だけ」反するのではなく、「長期間にわたって」反する
pp.111-112:1727年のジョージ2世即位から1739年のジェンキンズの耳戦争勃発まで、貨幣
利子率は3%ほどであった。この低利は1750年頃まで続いた。この低利は投資先の乏しさ
を反映するものである。その後の20年ほどは利子率が5%ほどまで上がったが、これは
技術革新による。
p.115:賃金は食料価格に比例するというアダム・スミスの主張は、アーサー・ヤング氏が作成
した統計から観察されない
pp.121-123:マルサスには珍しい、未来に対する明るい展望(マルサスが生きた19世紀はじめ
の20年より、20世紀はじめの20年のほうが利潤率は高いであろう)
p.130:「独占(monopoly)」の語が用いられている
p.131:ポルトガルから葡萄酒を輸入し、イングランドから鉄器輸出する例をリカードが用いて
いる(イングランドの生産性が向上すれば、イングランドはこの貿易から利潤を得る)
p.136:製造業の競争の激しさは、綿製品がカムチャッカで採算割れ価格で販売されるほど
p.139:利潤は需要と供給に支配されている(労働者の生計費ではない)
p.146:支払意思額(それを手にするために犠牲にしてもよいと思う財や労働)が富を決める
「貨物の市場価格は富の生産における社会のあらゆる大きな運動の直接原因であり、
そしてこの市場価格は、貨物の交換がおこなわれるときおよびところにおけるその交換
価値を明々白々に示し、そしてまたある特定物品にかんする需要および供給の実情が
その普通のかつ平均の状態とちがっているゆえにのみ、自然価格および必要価格と
ちがっているにすぎない」
pp.160-161:リカードによるセー法則の説明
pp.162-165:マルサスによるセー法則とワルラス法則の批判的説明、加えてジェームズ・ミル
への批判。ミクロ経済学全般への批判(相対価格なるものは「算術上の記号」に過ぎず
需要が減退すれば、価格は下がる。よって何らかの意味での労働価値説は成立しない。
pp.166-167:マルサスとリカードの「有効需要」に対する見解(節約により需要は消えるか)
pp.186-187にも類似の議論
pp.168-171:資本の蓄積速度が人口の増加速度を上回ること、そして奢侈品の消費より怠惰を
選ぶ人が多いことから供給過剰が起きる
p.175:注1に経済分析に貨幣を含める重要性
p.177:注2にセー法則に対する激しい批判「もしパンと水とを除いたいっさいの消費がつぎ
の半年間中止されたならば、貨物に対する需要はどうなるだろうか? なんという貨物
の蓄積! なんという販路! このことはなんという膨大な市場をもたらすことであろ
うか!」
pp.180-181:マルサスによるOwen氏への言及(ロバート・オウエン?による有効需要の論を
肯定的に評価)
p.192:戦争中に有効需要が拡大する
p.193:資本が増えるほどに利潤が低下するのは、人口が増えるほどに生存が難しくなるのに
似ている(人口論から類推した有効需要論)
p.196:「土壌が富んでいるから、かれはおそらく、十家族を使って五十家族の食物を獲得し
うるであろう。しかしかれは、この追加食物にたいしてそれに比例した市場を発見し
えないであろうし、そしてまもなく、かれは、かれの時間と注意とをそんなに多くの
人間の労働の監督に浪費したことに気づくであろう。それゆえに、かれはもっと少ない
人数を使ってみようという気になろうであろう」
p.201:ある種のペティ=クラークの法則
Sussmilch氏の調査によれば、農業とその他の産業の労働人口比率は7:3であるが、
イングランドにおいては2:3である
pp.203-204:安価な食料品は奢侈品の生産を抑制する(頑張って働かなくても生活できる)
というマルサスの論は、「だから安価な穀物を輸入するのはよくない」という政策論
と結びついていて、独善的だとするリカードの批判
pp.204-209:ノーヴェル・エスパーニャ(南米植民地)のバナナ園はあまりに肥沃で生産的
(小麦生産の25倍以上)である。「恵み深き手」という表現もある。アンデス山麓の
とうもろこし畑は種の150倍ほどの実をつけるほど肥沃である。 メキシコシティの
貧民層が週1日か2日の労働でテキーラを飲んで過ごせるほどである。
p.217:「肥沃な国の富の不足は、資本の不足よりは需要の不足により多くよるものであろう」
p.218:アイルランドの状況はノーヴェル・エスパーニャと似ている(安価かつ大量に収穫できる
ジャガイモにより、貧しい多くの人々が生活している
p.230:機械の導入は生産物当たりの生産を安価にし、より多くの人がそれを買えるようになる
マンチェスターの綿業は以前よりはるかに多くの綿製品を生産しているが、より多くの
人を雇っている
pp.231-238:機械の導入による経済の変化について
マルサス…商品の価格が安くなり、総需要は停滞するので不完全雇用
リカード…生産効率が上がることで余った資本と労働は他の商品に向かうので完全雇用
p.239:会計係の労働時間は1日6時間ないし8時間(?)
p.239:ヒュームによる国の繁栄の説明
pp.240-241:輸入するためには応分の輸出が必要(輸入代金を払うための輸出)
リカードは、マルサスのこの主張に自由貿易と比較優位の立場から賛成する
p.249:「需要は供給にのみ依存する」というリカードの考え
p.250:資本の蓄積、土地の肥沃度、労働を節約する諸発明は供給に作用するが需要には
作用しない
p.257:リカードによる葡萄酒の例
p.260:有効需要に対するマルサスとリカードの鮮やかな違い
p.266:富の定義に労働者の給与所得も含めるべきである(フランス・エコノミストやリカード
のように労働の給与所得を含まない純生産ではなく、それを含む総生産で計測すべき)
p.272:土地の売却と分割を容易にする制度は、人口増加に資する(増加した人口が住む場所を
得られる)
p.273:貿易の利益は「国内で生産するより少ない労働で同じ物を外国から買えるか」だと
するリカードの主張
pp.274-276:極少数の富豪によって形成される有効需要より、ほどよく再分配された多数の
消費者によって形成される有効需要の方が大きい「少数の過剰な富は、有効需要に
ついては、多数者のほどよい富とけっしてひとしく作用するものでない」(p.276)
p.278:フランスにおける極端な土地の再分配(相続法規による極端な土地の平等分割)は、
有効需要を減ずるであろう
pp.281-283:長子相続がある英国では、次男以下の息子たちは富と名誉を求める競争に駆り立て
られる。これが英国の生産・支出両面における活力をもたらしてる。フランスのように
性急な大変革を行うことは、英国が育んできた繁栄の制度を破壊することになる。過度な
所得の再分配は軍事独裁という暴政と暴徒を招き、国富を破壊する
p.287:「もしあるロンドンの財貨がグラスゴウではロンドン以上には評価されず、そしてある
グラスゴウの財貨がロンドンではグラスゴウ以上には評価されないならば、これらの都市
が取引する物品を交換する商人は、自分自身にもまたほかのなんびとにたいしてもなんら
の利益を与えることはないであろう 」
pp.288-293:「与えられた分量にたいして通常普通の需要があろうとまたはその十倍量にたいして
であろうと、ほんのわずかの期間の後には、鉄器の価格はその点に決まるであろう。マル
サス氏は、このわずかの期間はきわめて重要なものであって、もし貨物にたいして需要が
あるならば、製造業者はこの期間に大きな利潤をえ、そして価値の高い貯蓄をなしうるで
あろう、というであろう」(pp.288-289)というリカードのコメント(調整期間の長短)
値上がり分は消費者が負担している(同じ物を購入するのに、より多く自らの生産物を
手放さなければならなくなる)とのリカードの指摘
リカードの比較優位は利潤の増加ではなく、同一投入量における生産額の増加 を意味する
(利潤増ではなく、生産フロンティアの拡大)
pp.295-297:対仏戦争が終わった1815年の収穫期から1816年に、潤沢な生産物にもかかわらず
大不況が起きた。軍需が消滅したことによるこの不況は「潤沢な必要品のまっただなかに
おいて、社会のこれら二つの階級は実際にその雇用能力を減少している」という結果を
招いた
p.298:リカードによるピグー効果(価格が下がれば実質所得が増える)の原型
p.299:マルサスによるデフレ不況のメカニズム
p.302:リカードの比較優位説は労働価値説に基づき、また生産したものが全て売れるという
前提に立っている。実際にはそのようなことはないので、彼の論は「役に立たない」
pp.310-311:自由貿易は財貨の価格が下がるので消費者利益に資する(ただし、生産者は価格が
下がるので苦しくなる)というリカードの論(←需要を気にしない比較優位説の論者が
消費者利益を主張するというのは論理の混濁だが)
pp.313-314:インフレ時には完全雇用を達成しやすく、デフレ時には不況が長引く
pp.320-324:マルサスも自由貿易の利益を認めている。違いは
マルサス…貿易業者のもうけ(付加価値に注目)
リカード…数量の増加(生産フロンティアの拡大に注目)
p.328:「一日七時間ないし八時間事務所(countinghouse)に出勤せざるをえない」との記述
一般の想像より労働時間は長くなかったかもしれない
p.330:「リカアドウ氏は、しばしば、貯蓄は手段でなく目的であるかのように述べている。
しかしこの主題にかんするこの見解が真理にもっとも近い個人の場合でさえ、貯蓄の
最終目的が支出と享楽であることを認めなければならない」(→一般理論へ)
p.332:「総体の生産者および消費者についての国民的貯蓄、すなわち消費を越える生産物の
差額は、必然的に、生産物にたいする需要を満たすのに有利に使用使用されうる額に
よって制限されなければならない。そしてこの需要を創造するためには、生産者自身
かほかの消費者階級のあいだに、適当な消費がなければならない 」
p.333:「資本も人口も、同時にかつかなり長期にわたって、生産物にたいする有効需要と比較
して過剰であろうということは、理論的にまったく明らかなことであり、また経験に
よってあまねく確証されているようにわたしには思われる」
p.334:富は欲求を生み出し、欲求は富を生み出すが重要なのは後者である
p.335:産業家が1日8時間も働くのは、社会的地位を地主に比肩するところまで高めたいという
名誉欲から
pp.338-340:問題は過少消費と過剰貯蓄、人口増のスピードを落とす教育的配慮がなければ
それほど増えない総需要の下では失業問題は不可避となる
pp.341-342:18世紀中頃に起きた国債利回りの4%→3.5%→3%への低下は、資本の過剰と
消費の過少を示唆する。1685年にイタリアでも金利が3%への低下した。
p.343:「この問題の解決は明らかに、第一に、一国の資本は過剰でありうるかいなか、すな
わち、蓄積の誘因は、労働者の生活資料獲得の困難によって妨げられるはるか以前に、
有効需要の欠乏によって妨げられまたは破壊されるかどうか、というおもな実際問題
の解決に依存している」
pp.345-346:重税は国家を荒廃させるが、適度な再分配(軍隊や公務員、医師や教育者の雇用)
は有効需要を増やす
pp.349-351:国債の発行は購買力を補う利点と、増税と「国債は重荷である」という大衆の印象
という欠点がある。加えて、インフレにより年金生活者の実質所得が目減りするという
問題もある。為替レートの金価格への復帰(デフレ政策による金本位制への復帰)は
やむをえない措置であり、それを成し遂げたリカードは賞賛に値する。
pp.354-355:生産的階級(農工業者)が消費に充てられる十分な所得を得ていたとしても、その
意志がない。ギャップを埋めるのは非生産的階級(軍事、公務、法曹、教育)である。
農工業とサービス業の比率は、その国の国民の嗜好に合う水準が望ましい。
p.360:1815年に欧州大陸の戦争が終わると、軍需が冷え込み有効需要が減少した。同時に
軍務を解かれた多くの人が帰国し、平和産業に職を求めたがそれは得られなかった。
p.361:「資本にたいする有効需要が国内にはないことを明らかに証明するとすれば、貯蓄を
奨励し、またより多くの収入を資本に転化することを奨励するのは、経済学の一般的
諸原理に反し、すべてのその諸原理のなかの第一の、最大の、かつもっとも普遍的な
原理すなわち需要および供給の原理にたいする、むだでかつ無益な反対ではなかろう
か?」
p.363:セエ氏の誤りを指摘(消費は需要の減少であるから、貯蓄を奨励という説)
p.364:豊穣の大地を擁する米国でも、1815年以降不況が襲った
p.367:戦時に特需を得た英米では、戦後になり苦しい経済運営が続いている。戦時に生産設備
を破壊された国々では、戦後になり復興特需に沸いている
p.368:アダム・スミスとヒュームは、1770年台から1816年までに起きた英国の経済発展を
知ることができなかったので、国債の害悪を説いたが、現実には経済発展によって
国債発行によりようやく経済規模に見合う有効需要を確保できる
pp.375-376:長らく保護してきた産業に自由貿易を導入する際には慎重に、段階を経てすべき
だというアダム・スミスの論を紹介(英国にとっての絹製品)
p.377:「現在のような時期に労働階級に助力を与えようとわれわれがつとめるさいに、かれら
を不生産的労働に、または少なくとも道路または公共事業というようなその成果が市場
に売りにだされない労働に、使用することが望ましい」
p.384:「経済学は数学よりも倫理学および政治学により類似するものである」
pp.389-390:労働者階級は商業階級よりも景気の波に対して脆弱である。よってできる限り
景気に激しい波をもたらさない平和と、所得のほどよい分配が必要である。
1821 英・経済学クラブ設立
リカード、マルサス、ジェームズ・ミル、トゥックなど錚々たるメンバーが集う
1821 英・ポンドの金兌換を再開
トゥック『物価史』第1巻, 序文p.46によれば、1819年から1921年にかけて、
物価指数は136から117に下落した。1824年には106となった
1821 墺・メッテルニッヒ、宰相に
帝国の統一と民族問題の矛盾である「オーストリア問題」に悩まされ続ける
「空腹の男に静物画を与えた」と評される帝国の誤魔化しが続く
(テイラー著, 倉田訳『ハプスブルク帝国』pp.77-78)
1822 ヴェローナ会議
スペイン王を革命から救うための五大国の会議(英仏露墺普)
思惑の違いから勢力均衡にヒビが入る
1823 ジョセフ・ロー『イングランドにおける農業、商業、金融の現状:英仏の比較を通して』
5年おきに商品バスケットを変更して物価指数を作成することを提案
(阿部修人『物価指数概論』pp.31-32)
1823 英・London Mechanics' Institute設立
医師で篤志家のJohn Birkbeck にベンサムらの賛同者が集い、労働者のための学び舎を設立
1824年、Birkbeckは初代校長に就任
社会人教育に力を入れるBirkbeck College, University of Londonになる
1823 米・モンロー宣言
英の外相キャニングと手を組み、大陸ヨーロッパのアメリカ大陸への政治介入を排除
→南米の西領植民地の独立
マハン『二〇世紀への展望』p.142で言及
シュミットはこれを第3回目の線による世界分割と捉えた
この線より東がヨーロッパ、西がアメリカ
(シュミット『陸と海』訳者あとがき, pp.273-274)
1824 英・浮浪者取締法
ディケンズ『オリバー・ツイスト』p.65
1825 露・デカブリストの乱
12月に起きた反乱であることから、ジカビ=12月、十二月党
1825 文政8年・異国船打払令
1825 英・鉄道の敷設
ストックトンとダーリントンを結ぶ
1825 英・恐慌
これを契機に、銀行がイングランド銀行への準備預金を増やした
1826 英・銀行業法
ロンドンから65マイル以遠(105kmほど)の地域に株式銀行の設立を許可
同時に、イングランド銀行に支店の設立も許可
当時は、イングランド銀行は民間銀行と競合関係にあった
(金井雄一『中央銀行はお金を創造できるか』p.153)
1827 Malthus, Thomas Robert著, 玉野井芳郎訳『経済学における諸定義』✅
1828 英・審査法廃止
カトリックに公職に就く道が開かれる
1830 仏・七月革命
革命の老将ラ・ファイエットがシャルル10世のアルジェリア遠征を止めるべく挙兵
パリ市街戦での勝利は「栄光の3日間」と呼ばれる
ルイ・フィリップが王位に
ドラクロワの『民衆を導く自由の女神』
この絵はアメリカの自由の女神像のモチーフとなる
1830 ロンドン条約
希・土から独立
詩人バイロンの活躍
ゲーテは『ファウスト』の一節で追悼
(丸山徹『ワルラスの肖像』pp.293-294の注5)
メッテルニッヒの威光衰える
1830 英・鉄道の営業開始
港町リバプールと商業都市マンチェスターを結ぶ
1830 洪・議会開催
貴族主導で民族主義の機運が高まる
(テイラー著, 倉田訳『ハプスブルク帝国』pp.85-87)
1830 米・モルモン教創設
ニューヨークにてジョセフ・スミスによる
アメリカの古代人に伝わったとされる『モルモン書』を聖書と並ぶ聖典に
ユタ州ソルトレークシティに一大拠点
19世紀半ば「文明化遠征軍」を派遣し討伐せよという世論が英国に巻き起こった
ミルはこれを「他の社会に文明化を強いる権利を持つ社会はない」として批判
(ミル『自由論』pp.202-206)
1831 仏・リヨンにて賃上げ紛争
カジミール・ペリエ「労働者たちが知るべきことは、彼らに対する救済策は、
忍耐とあきらめ以外にないということだ」(丸山徹『ワルラスの肖像』p.15)
1831 ベルギー・蘭から独立
1831 英・コレラの大流行
1831 Walras, A.A. 著『富の性質と価値の起源について』
「価値は希少性より派生する」(ジェヴォンズ『経済学の理論』p.xxxv)
条件の平等(丸山『ワルラスの肖像』p.32)
1832 サン・シモン派、解散
一時4000名を集めたものの、裁判所より解散命令
(丸山『ワルラスの肖像』p.31)
1832 英・第1次選挙法改正
1832 英・腐敗選挙区の廃止
補償金を払わずに廃止(Pigou著, 本郷訳『財政学』p.33)
1832 英・ジャーディン・マセソン設立
東インド会社なきあと、アジア利権を引き受ける
HSBC(香港上海銀行)を使い、アジア利権を帝国に還流
1833 英・児童労働法
9歳未満の子供の雇用を禁ずる
13歳までの児童には労働時間の制限を設ける
1825年当時、綿工業の従業員の61%が女性と13歳以下の児童(村岡・川北編著,p.172)
1833 英・イングランド銀行法
勅許状の期限切れに際し、それを更新
発券しない銀行は、ロンドン地域に設立できるようになった
当時は200を超える地方銀行が発券をしていたようである
(金井雄一『中央銀行はお金を創造できるか』pp.152-153)
1833 英・手形交換所を設立
ロンドン・ロンバード街10番地に個人銀行(出資者5人まで)が集い、1日2回の清算
株式銀行(出資者6人以上)の加盟は1854年、地方銀行(ロンドンから65マイル以遠)
の加盟は1858年、イングランド銀行は1864年に加盟
(金井雄一『中央銀行はお金を創造できるか』第8章)
1833 英・東インド会社の独占貿易廃止
東インド会社は中国支配地域の貿易独占権も失い、以後は印の支配に注力
茶の輸入拡大→貿易赤字の拡大→インド産のアヘンを中国へ輸出
(ジャーディン・マセソン)
同年、奴隷制の廃止
1833 天保4年・天保の大飢饉
夏期に30日も雨が降るなど、異例の例外に見舞われる
二宮尊徳はナスの味がおかしいとして冷害を察知、村人に稗(ひえ)を撒くよう命じる
翌年の飢饉時に、この稗で飢えることがなかった
(内村鑑三『代表的日本人』p.94)
1833 ムニホヴォ・フラディシュテの協定
墺露がトルコに対する不介入を確認、反革命・現状追認の協定
「行政が政府に取り代わった」(テイラー著, 倉田訳『ハプスブルク帝国』p.74)
1834 ドイツ連邦・関税同盟
35の領邦、4の自由都市の関税を撤廃し、ドイツ地域の産業を活性化を目論む
注意深く墺は排除され、普中心のドイツ圏の足場となる
1834 英・ピール内閣
トーリー党党首として1834〜1835、1841〜1846と2次にわたり内閣を率いる
救貧法改正
スピーナムランド制度を廃止、貧困層を救貧院での労働力にする
救貧院での生活水準は通常の働き手以下に抑える
1834 英・駐清貿易官ネイピア、広州上陸
艦隊を率いて上陸、商館を建てるも清国により閉鎖される
清が輸入するアヘンは、金額ベースで他の輸入品の和を超えていた
輸出元のインドに清の銀貨が流れ込み、英国からの輸出品を購入する原資に
1835 Tocqueville, Alexis-Charles-Henri Clérel de著『アメリカのデモクラシー』
第1巻刊行(第2巻は1840年)
その政治思想はJS ミルに影響を与える
1835 墺・フランツ1世死去
手腕に疑問符がつくフェルディナントが即位
1836 墺・関税同盟に関する揉め事
墺の主導権を維持するために関税同盟への加入を主張するメッテルニッヒは
関税障壁が低くなれば甜菜栽培の収入が減るという貴族の心配を代弁する
ヨハン大公に封じ込められる
(テイラー著, 倉田訳『ハプスブルク帝国』pp.91-94)
1836〜1839 英・恐慌
1836 天保7年・大飢饉
「そのかわり、今から殿様直筆の許可状が到着するまでの間に、多くの植えた領民の餓死
を招くことになります。領民を忠実に守るべき身の我々は、領民が食物を断たれているよう
に食を断ち、使者の帰るまで、この役所のなかで当然断食をして待たなくてはなりません。
そうすることで人々の苦しみが、多少なりともわかるでありましょう」
(内村鑑三『代表的日本人』p.102)
1837 天保8年・大塩平八郎の乱
1837 英・ヴィクトリア女王即位
同年、ウェイクフィールドによりニュージーランド協会設立、移民促進
1837 Chalmers, Thomas, On the Christian and Economic Policy of a Nation 資料
ジェヴォンズ『経済学の理論』pp.110-114に、p.240前後が引用されている
代替性、非代替性、準線形選好の原型
1838 Tooke, Thomas, A History of Prices, and of the State of the Circulation. from 1793 to 1856
トゥックによる『物価史』は20年に及ぶ一大叙事詩(2000ページ!)
多くのページを占める第5巻、第6巻は、ニューマーチが主導
1856年に完成を見届けたトゥックは、翌1867年に息を引き取る
1838 Cournot, Antoine Augustin著, 中山伊知郎訳『富の理論の数学的原理に関する研究』✅
数学が花開いた当時のフランス(丸山『ワルラスの肖像』p.101に代表的数学者の年表)
の環境の中で育つ(友人にG.P.L. ディリクレ)
非業の死を遂げるモンジュ、コーシー、ガロア、アーベルらと比べ、ポアソンに引き立て
られて文部総視学官にまで上り詰める生涯(丸山『ワルラスの肖像』pp.112-113)
ナポレオンはラプラスやラグランジュを庇護
(丸山『ワルラスの肖像』pp.99-100にスタンダール『アンリ・ブリュラールの生涯』
の一節が紹介されている。ラプラスやルジャンドルのナポレオンへの追従を風刺)
独占から完全競争へという流れるような立論
当時の経済学者と比べて、飛び抜けた数学的知識の持ち主
いわゆるクールノー均衡を提示、その正しさは20世紀半ばにナッシュによって確認
ワルラス均衡の原型も提示
クールノーの業績はフランスでも広まらなかった(ギョウマン『経済学辞典』という
フランス語文献でも言及されず;ジェヴォンズ『経済学の方法』p.xxix)
1838 Dickens, Charles John Huffam著, 加賀山卓朗訳『オリバー・ツイスト』
1838 英・チャーチスト運動
普通選挙を求める『人民憲章』
ロバート・オーウェン運動の退潮に代わり、10年ほど継続
1838 英・反穀物法同盟
コブデンとブライトを中心とする運動
1839 英・電信網の整備はじまる
パディントンとウエスト・ドレイトンを結ぶ
1840 天保11年・オランダ別段風説書
1857年(安政4年)まで作成された
1859年(安政6年)に作成された風説書は通常と別段の折衷
松方『オランダ風説書』p.11
1840 アヘン戦争
中華思想を持つ清は、輸出を施しと捉えていた
貿易を経済的利益と捉えていた英と全く反りが合わない
三跪九叩頭の礼の強制(朝貢)に対して、砲艦外交(自由貿易)で応じる
ミル『自由論』p.211では、中国によるアヘン禁輸は購入者の自由の侵害だと批判
(ミルは10代半ばから東インド会社に勤務していた、ミルの親ジェームズも東インド
会社勤務:ミル『自由論』解説, pp.278-279)
1840 仏・ギゾー内閣
国会議員460人のうち、200人が官僚を兼務する「超然内閣」
普通選挙を求める国民と対立→1848年革命へ
1840 アンドリアン『オーストリアとその未来』
ティロル州議会の議員による過激な自由主義「皇帝が無で、州がすべて」
(テイラー著, 倉田訳『ハプスブルク帝国』p.96)
1840 プルードン『所有とは何か』
マルクスとエンゲルスに影響を与える
無政府主義者が共産主義者に影響を与えるというのは奇妙だが
1841 英・第2次ピール内閣
初の保守党内閣
保守党という名称は、トーリーという名を嫌う議員によって1832年くらいから使用
1842 南京条約
香港割譲、南部5港(広州、福州、厦門、寧波、上海)の開港
1842 天保13年・利根川分水路工事
御普請役格として二宮尊徳が計画に関わる
1841 カーライル『英雄と英雄崇拝』
1841 List, Friedrich著, 小林昇訳『政治経済学の国民的体系』
1842 List, Friedrich著, 小林昇訳『農地制度論』
1844 シュレージェン織工一揆
ハイネの詩 →マルクス
1844 洪・言語法
マジャール語を統一言語に
大貴族と都市生活者に基盤を置くセイチェニイではなく、小貴族(ジェントリ)
に基盤を置く民族派コッシュートの流れが強まる
これを機に官職をジェントリが占めるように
(テイラー著, 倉田訳『ハプスブルク帝国』p.101-102)
1844 ピール銀行条例
恐慌を乗り越えるための準備金がイングランド銀行に集まる
これにともない、発券業務の緩やかにイングランド銀行に集中
(当時287行の発券銀行があった)
インフレの反省から銀行券発行を1400万ポンド+金準備に制限
いわゆる通貨論争
通貨学派:トレンズ、ノーマン、オーヴァーストーン
金本位制のゲームのルール(国境を越えるゴールドの流出入によって
国際収支と国内物価の不均衡は、自動修正される)
銀行学派:トゥック、フラートン、ウィルソン
ゴールドの流出入によって国際収支と国内物価の不均衡は調整されない
銀行条例は通貨学派の思想にもとづく
(金井雄一『中央銀行はお金を創造できるか』pp.18-21, pp.152-153の表8-3, p.157の図8-2)
1844〜1853 Dupuit, Ars`ene Jules Emile Juv´enal著, 栗田啓子訳『公共事業と経済学』✅ 資料
ジェヴォンズ『経済学の理論』第2版への序文p.xxviiで言及される
「効用理論を最初に完全に理解したと認められてしかるべき人は、フランスの技師
デュピュイ(Dupuit)である」
1845 仏・愛・ジャガイモ飢饉(資料)
アメリカ大陸から来たジャガイモの伝染病で凶作となり、経済恐慌へ発展
(丸山『ワルラスの肖像』pp.15-16)
アイルランド人口800万人のうち、150万人が死亡、160万人がアメリカへ移民
1846 英・穀物法廃止
ヴィクトリア女王の夫アルバート公子は自由貿易論者
同じトーリー党の野心家ディズレーリは議会で猛烈な反対演説
保守党の過半が造反するも、野党ホイッグと急進派の賛成で可決
これを機に農業の近代化が進む(村岡・川北編著,pp.150-151)
この後ヨーロッパは不作に見舞われ穀物価格は高騰、1848年革命のきっかけに
ジェヴォンズ『経済学の理論』p.140では、穀物法廃止によって英国内の小麦生産は
「減退した」とされる
来英したアイルランド代表団を不介入主義を唱えた『国富論』第4篇第5章で迎える
(竹本『『国富論』を読む ―ヴィジョンと現実―』pp.48-49)
1846 墺・ボヘミア州議会
ハンガリーを参考に、権利拡大を帝国に要求
1846 ポーランド・クラクフ蜂起 資料
ポーランド共和国国民政府を成立させ、地主層が立ち上がる
民族的反乱は鎮圧されたが、1848年の大規模な革命の前触れ
1846 弘化3年・日光神領の再建計画
二宮尊徳が立案、提出
1847 アイルランド救貧法
JS ミルはアイルランドの「農地解放」を主張したが聞き入れられず
『ミル自伝』p.205
1847 英・女性と18歳以下の労働時間を1日10時間以内に
1847 クロアチア・クロアチア語を用いることを決議
洪支配下にありながら、マジャール語の使用を拒否
1847 欧州で恐慌
英・10月23日にピール銀行条例を事実上の停止に
銀行券の量をゴールドの量とリンクさせようとした虚しい試みの破綻
高利で無制限に銀行券を供給する書簡を出す
この後、市場利率より若干高い利率で貸し出すいわゆる公定歩合制度が浸透
(金井雄一『中央銀行はお金を創造できるか』pp.18-21)
1847 Disraeli, Benjamin『タンクレッド』
19世紀の大立者ディズレーリはヴィクトリア女王陛下の居住地をインドに移すべきだと提言
陸の覇権国家ではなく、海の覇権国家であることの象徴として
シュミットはディズレーリをシオンの賢者、スペイン王国大蔵大臣アヴラヴァネルと評した
(シュミット『陸と海』pp.227-229)
1847 Daumer, Georg Friedrich『キリスト教古代史の秘密』
Die Geheimnisse des christlichen Altertums
古代キリスト教に対する陰謀論(コーン『新版 魔女狩りの社会史』p.46)
マルクスは同年、この本を賞賛する講演
「1847年11月30日の在ロンドン・ドイツ人労働者教育協会でのマルクスの演説の議事録」
(『マルクス=エンゲルス全集』補巻1, 補論A, pp.521-523)
カトリックも、それを批判したプロテスタントも批判
このダウマーが通ったギムナジウムを率いていたのはヘーゲル
1847 共産主義者同盟の結成
亡命ドイツ人活動家たちがロンドンに集う
「万国の労働者よ、団結せよ」とのスローガンも、実際的な力に乏しかった
1848 Marx, Karl・Engels, Friedrich著, 森田成也訳『共産党宣言』✅
社会主義は上からの改革、共産主義は下からの革命との主張
光文社版はエンゲルスからFriedrich Adolf Sorgeに宛てた手紙を収録(p.191、
pp.193-194、pp.198-202、p.206、pp.215-216、pp.225-229、p.235、p.237)
マルクスの秘書であったこのSorgeは、ゾルゲ事件のRichard Sorgeの大叔父
名越越郎『ゾルゲ事件』p.247にこの説を掲げているが、未確認とのことだが…
沓掛訳『痴愚神礼讃』p.276の注9によれば、古代の数学者ピュタゴラスには
共産主義的思想があった
1848 Mill, John Stuart著, 末永茂喜訳『経済学原理』
1848 ウィーン体制の崩壊、諸国民の春
仏・2月革命
ギゾー首相「選挙権が欲しければ金持ちになれ」に反発した民衆がパリに集結、
国王ルイ・フィリップはギゾー解任後、英国へ亡命。その後の選挙で穏健保守
が議席獲得、6月蜂起は失敗に終わる。ルイ・ナポレオンが大統領に(第2共和制)
墺・3月革命、メッテルニッヒ失脚
ハンガリーではコッシュートが憲法・自由・民族を柱とする三月法案を提示した
議会が設立され、支配下のクロアチアとトランシルバニアはこれに従った
農地開放も行われ、地主には補償金が支払われた
4月に三月法が憲法として承認され、ハンガリーは帝国内国家としての地位を得た
当時の40万都市ウィーンでも浮浪的労働者が革命に身を投じた(離陸が遅れた
ウィーンは労働者を吸収しきれない)
メッテルニッヒの辞任要求の声が高まり、辞任を余儀なくされる
メッテルニッヒ失脚の報に接したイタリア地域は独立の機運を高めたが、
ラデツキー将軍率いるオーストリア軍に抑えられた(ヴェネチアは共和国に)
6月、聖霊降臨節の反乱が鎮圧されると、プラハ急進主義は衰え、オーストリア
スラブ穏健主義が台頭した
この間の経緯は、一時宮廷がインスブルックに移されるなどあまりに複雑
(テイラー著, 倉田訳『ハプスブルク帝国』pp.115-135)
9月に出された農民開放令は、土地を失った農民が都市に流れ込む契機に
10月に勃発した革命騒ぎは鎮圧された
フランツ・ヨーゼフ、わずか18歳で皇帝に「さらば、わが青春よ」
普・3月革命、大ドイツ主義と小ドイツ主義の対立
デンマークとドイツの間にあるシュレスヴィヒ・ホルシュタインではドイツ系住民
による分離独立運動
オーストリアを含む大ドイツ主義を掲げるプロイセン
領内に非ドイツ民族ハンガリーを抱えるオーストリアは小ドイツ主義
ドイツ連邦は実質的に崩壊
1848 英・公衆衛生法
コレラの大流行
ベンサムの思想の影響
1849 英・航海条例廃止
自由貿易の妨げになるだけだとして
1849 ヴィラーゴシュの戦い
墺はロシア帝国の力を借りてハンガリーを鎮圧、中央集権国家を構築
コッシュートはトルコに亡命
1851 英・世界初の万国博覧会
この年、国内の鉄道総距離が1万kmを超える
整備された鉄道を利用した博覧会のパック旅行を企画した
トーマス・クック社の勃興(2019年9月23日破産…)
1851 ドレスデン会議
墺がドイツ関税同盟に入り、主導権を握ろうとするもドイツ諸侯の反発で断念
(テイラー著, 倉田訳『ハプスブルク帝国』p.165)
1851 英仏間が海底ケーブルで結ばれる
1851 清・太平天国の乱
1851 仏・クーデター
12月にナポレオン3世が権力を握る(第2帝政)
1851 墺・ジルヴェスター勅令
ナポレオン3世に倣い、フランツ・ヨーゼフもある種の親政を樹立
立憲君主から、1852年にシュヴァルツェンベルク首相死去後に絶対君主へ
1852 Marx, Karl著, 丘沢静也訳『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』
1852 ストー夫人『アンクル・トムの小屋』 資料
1852 Spencer, Herbert著『進化の憶説』
Development Hypothesis
ダーウィンの進化論より早い時期に社会進化論を唱える
1853 英・コレラの大流行
1853 英・連合王国同盟
植民地やアメリカのメーン州で導入されていた禁酒法(メーン法)を英国にも導入すべき
だとしてマンチェスターで結成、飲酒によって社会の落伍者となる者の面倒を見たくないと
ミルは、禁酒法は行き過ぎた規制だとして批判(ミル『自由論』p.197, p.211)
1853 英・ノースコート・トレヴェリアン報告
官僚の採用を縁故制から試験制に(ミル『自由論』p.275の訳注15)
1853 クリミア戦争(〜1856)
露の南下政策に英の世論が反発、英は仏とともにセヴァストポリ攻略
ナイチンゲールの活躍
1853 ペリー来航
インド回りで
1853 嘉永6年・ロシア艦隊来航
7月18日(新暦8月22日)、海軍中将プチャーチンが4隻の艦隊で長崎に来航
1854 Gossen, Hermann Heinrich著, 池田幸弘訳『人間交易論』
ジェヴォンズ『経済学の理論』p.xxxに、友人のアダムソン教授が、1878年にドイツの
書肆情報からこの書を探し当て、購入して内容を教えてくれたと記している
大英博物館の図書館に1冊所蔵があるとのこと(ジェヴォンズ『経済学の理論』p.xxxiv)
1854 安政元年・日米和親条約、日露和親条約
1855 安政2年・安政江戸地震
10月2日(現在の11月11日)
マグインチューど7クラスの大地震が襲い、死者は1万人規模に
小石川の水戸藩邸に詰めていた碩学藤田東湖は被災し、50歳にして亡くなる
(内村鑑三『代表的日本人』西郷隆盛の項, p.21)
1855 英・パーマストン内閣
クリミア戦争の象徴的政治家として政権に就く
1855〜1858、1859〜1865と2次にわたり内閣を率いる
パクス・ブリタニカの象徴的人物
1855 墺・カトリック教会に教育権を付与
絶対君主と教会教育という「古き良き時代」への回帰は、ドイツの主導権を
プロイセンに譲渡する帝国の落日となる
1856 Tocqueville, Alexis-Charles-Henri Clérel de著『旧体制と大革命』
1856 パリ条約
クリミア戦争終結、ウィーン体制の終焉
うまく立ち回れなかった墺は孤立を深める
ここから19世紀末まで、ヴィクトリア朝・大英帝国の絶頂期
「同時代の実証的な立場の人々も、目も前で凄まじい勢いで増大していく富の大きさに幻惑
されていた。こうした富は今後もますます増大しつづけ、地上に千年王国的な天国が実現する
と信じ込んでいたのである」とシュミットが評するほど(シュミット『陸と海』pp.234-235)
1856 清・アロー号事件
アヘン戦争でも英の対清貿易赤字は解消せず
上海領事ラザフォード・オルコックの進言による
コブデンらによる批判を解散総選挙で踏み潰して開戦
仏も参戦
1857 米・恐慌
1857 英・恐慌
1857 墺・恐慌
絶対君主制を守るための強大な軍隊の維持費で財政赤字が続く
民間に流れるべき資本が軍事費に浪費される
この恐慌によって民間部門が壊滅、経済的遅れが決定的に
(テイラー著, 倉田訳『ハプスブルク帝国』p.290)
1857 印・インド大反乱(セポイの乱)
英の植民地支配に対する積年の恨みが爆発
ミル『自由論』p.73で言及
1858 印・ムガール帝国滅亡
セポイの乱で担ぎ出されたムガール皇帝バハードゥル・シャー2世は、
東インド会社によるデリー攻勢に降伏
英は東インド会社を解散させ、インドの直接統治に乗り出す
JS Millは東インド会社を追われ、病で伴侶を失うが、それを乗り越え
『自由論』を刊行(『ミル自伝』pp.217-219)
1858 安政5年・安政の五カ国条約、安政の大獄
日米修好通商条約、日英修好通商条約など、英蘭仏米露との不平等条約
アロー号事件を目の当たりにした日本
これに反発した攘夷派を投獄(安政の大獄)
1858 安政5年・日本国内でコレラ流行
1858 仏・皇帝ルイ・ボナパルトの暗殺未遂事件
1859 英・長崎にグラバー商会設立
1859 ソルフェリーノの戦い
仏・サルデーニャ連合軍に敗れ、墺はロンバルディア地方を失う
従軍したアンリ・デュナンは赤十字を提唱
(テイラー著, 倉田訳『ハプスブルク帝国』pp.179-181)
1859 Mill, John Stuart『自由論』
ミルはこの本をトクヴィルに贈った(トクヴィルはこの年に死去)
p.17:「多数者の専制」トクヴィル『アメリカのデモクラシー』第1巻(下)第2部第8章
のタイトルに「多数の暴政」とある(p.166)
pp.20-23:スコットランド啓蒙風の「道徳感情」を批判
p.24:「人々が本気になっている物事の場合、それが何であれ、不寛容はごく自然なこと」
p.27:法的(刑罰)・社会的(世論の批判)制裁は、自己防衛の場合にのみ正当化できる
p.33:自由とは、内心の自由・出版の自由、趣味の自由、交友の自由
これらがない社会は自由な社会とは言えない(例:ラケダイモン(スパルタ))
ネオ・ラケダイモン論者であるコントへの批判
p.45:自らの意見に自信がない人は自らの党派の意見に従い、異論を受け付けない
p.49:社会が破綻していないのは「誤りを正すことができるという資質」による
p.57:「無謬性の想定とは、反対の立場から言えることに他の人々が耳を傾けるのを
許さないまま、その人々に代わって問題の決定を引き受けること」
p.64:無謬を主張するあなたはマルクス・アウレリウスを超える賢人か
p.67:宗教改革で倒れた人たち(サヴォナローラ、アルビ派、ヴァルド派、フス派)
などの弾圧について
p.83:数学と自然科学および社会科学との違いについて
数学には意見がないが、その他の学問には意見や見方の相違は不可避
ゆえに多様な意見を戦わせ、陶冶する必要がある
p.104:議論の必要性(誤っている可能性、正しいが理解が浅い場合、対立する見解の
いずれも一片の真実を含んでいる場合)
跳ねっ返りや天邪鬼も使いよう、という高みからの見解
p.107:ルソー『学問芸術論』への言及(内心の自由、出版の自由の例として)
p.108:保守政党と革新政党の建設的な議論が社会を前進させる
p.113:キリスト教の道徳は「肉欲を恐れるあまりに禁欲主義を祭り上げてしまい、
その禁欲主義が徐々に変質して、規則至上主義のようなものになっている」
p.138:義務か罪かというカルヴァン主義では、人間性が萎縮してしまう
p.140:「キリスト教的な自己否定」と「異教徒的な自己主張」(ギリシャ的)
pp.144-145:独創性が社会を維持し、前に進める
「天才が自由に呼吸できるのは、自由な空気の中だけである」
p.148:世論とは、凡庸な集団(大衆)の意見→優れた少数者による統治について
は、ミル『代議制統治論』参照
p.157:活力のはけ口は、今や実業くらい→ケインズのアニマル・スピリッツ
p.162:個性を潰す近年の欧州は、ややもすれば昔日の大国中国になってしまう
p.166:トクヴィル、オルテガ、リップマン、ハイエクのような論調
p.167:社会契約説は「作り話」
p.185:「ピューリタンの狂信的な道徳的不寛容」の後に来た放縦(pp.193 -195も参照)
p.191:「東洋では、習慣は一つの宗教」
pp.195-196:社会主義者による極端な平等の主張
p.199:「社会的権利」の理論「すべての点で本人がすべきであるのとまったく同じように
本人以外の人も全員すべきだ、というのがあらゆる個人の絶対的な社会的権利であり、
誰であれ、どれほど細かな点であっても、なすべきことを怠れば私の社会的権利を
侵害しているから、これをやめさせるように立法部に要求する権利が私に与えられる」
→当然のことながら、ミルは批判
p.202:安息日遵守法(ユダヤ教の安息日である日曜日には何もしてはならないという法律)
日曜日にレジャーをしたい人がいれば、そのサービスを提供するために働く人が必要
法令で強制すべきではない(日曜に鉄道旅行を禁止させるなど)
p.208:自由と正義の原理(p.272訳注の1参照)
pp.209-211:交易の自由(生産者の自由は規制しうるが、消費者の自由は最大限守るべき)
この書は経済的自由を論じたものではないとのことだが(p.272訳注の2)
pp.244-245:官僚制の弊害(ロシアのツァーも官僚制の前には無力)
p.246:アメリカ人は自治を得意としており、国民の嫌うことを官僚が行うことは不可能
p.247:中国の官僚やイエズス会の一介の会士は、いわば組織の奴隷である
p.252:「国家がすべてを犠牲にして求める機構の完全さなどというものは、機構をもっと
円滑に動かそうとして国家が取り去ってしまった活力の欠如のために、結局のところ
は、何の役にも立たないのである」
1859 Marx, Karl『経済学批判』
1859 Marx, Karl『資本論』第1部
第2部、第3部は没後、エンゲルスにより1894年までに刊行
1859 Darwin, Charles Robert『種の起源』
オーストラリアのダーウィンは、1839年に入植した船長ウィッカムの友人が
ダーウィンであったことに因む
伝統の信仰が揺らぎ、学問的成果が重視されるように
これが牧師の輩出元であった大学を知の拠点へと変貌させる
オックスフォード・ケンブリッジが非国教徒へ門戸を開く
ネビル・ケインズはこの恩恵に浴する
1859 Smiles, Samuel『自助論』
1859 英・自由党結成
ホイッグ、ピール派(保守党から分裂)、急進派が合同して結成
初代党首は第3代パーマストン子爵ヘンリー・ジョン・テンプル
1860 コブデン・シュヴァリエ条約
英仏の自由貿易協定
1860 ワルラス、ローザンヌの租税国際会議で発表
スイス官僚ルイ・ルショネーの目に留まり、後のローザンヌ大学行きのきっかけに
(丸山『ワルラスの肖像』p.35)
1860 北京条約
アロー戦争の終結条約であった天津条約を、英仏露側により有利に
英:賠償金、九龍半島南部、キリスト教の布教権を獲得
露:沿海州を獲得してウラジオストックを建設
1860 安政7年・桜田門外の変
3月3日(現在の3月24日)
安政の大獄の反動として
安政江戸地震で壊滅的な被害を蒙った水戸藩は統制が効かなくなっていた
1860 三帝がワルシャワにて会議
メッテルニッヒの平和の再興を目論むフランツ・ヨーゼフの試みは
露皇帝・アレクサンドル2世と普皇帝・ヴィルヘルム4世には届かず
これをふまえ、墺は領内の分断を抑えるため、各地の貴族に権限委譲を試みる
10月の特許状を無力化し、中央集権派のシュメアリングが国家大臣(首相)に就く
1860 伊・各地へ移民
1920年までに1800万人(伊の人口の4分の1ほど)が移民、中でもブラジルへの移民は
悲惨を極める(ヴルピッタ『ムッソリーニ』p.57)
1861 墺・2月勅令
上下2院制を定めた憲法
前年10月の特許状は空文化し、地方議会は地方行政機関的色彩を強める
地方議会は地域の有力者によって構成(都市、財産、ドイツ人の意見が反映されやすい)
地方で権力を与えらえた見返りに、ドイツ人はシュメアリングを支持する "奇妙な中央集権"
他民族、とりわけハンガリーの反発を招き、帝国に遠心力がかかりはじめる
絶対主義を装いつつ、皇帝の権力は少しずつ剥ぎ取られてゆく
(テイラー著, 倉田訳『ハプスブルク帝国』pp.202-206)
1861 文久元年・対馬事件
ロシアのポサドニック号が対馬を急襲、島の一部を不法占拠
駐日英国公使ウォルコックは東インド艦隊を対馬に派遣、ロシアを追い払う
ロシアの南下政策に対抗する大英帝国の思惑
1861 露・農奴解放令
アレクサンドル2世による
これに対する懐疑は、ナロードニキ運動勃興の要因に
1861 イタリア王国成立
サルジニア国王ビットーリオ・エマニュエーレ2世がイタリアを再統合
ガリバルジ率いる赤シャツ隊が南シチリア王国を制服
時のローマ教皇ピウス9世は王国を承認せず、また南北の経済格差や低い識字率、
選挙買収などが頻発、難しい国家運営が続く
1861 プロイセン・ヴィルヘルム1世即位
鉄血宰相オットー・フォン・ビスマルクを宰相を擁してドイツ統一を目指す
1861〜1865 米・南北戦争
北軍はアメリカ東岸を海上封鎖、綿花がアメリカからイギリスに渡らなくなる
ランカシャーは綿花飢饉に襲われる→インド綿、エジプト綿への転換
1861 Mill, John Stuart著『代議制統治論』
1862 Ruskin, John著『この最後の者にも』
ラスキンは『不思議の国のアリス』の著者Lewis Carrollと親交
この書を読んだガンジーはインド独立の父となる
1862 文久2年・日本国内でコレラ流行
1862 文久2年・生麦事件
1863 文久3年・薩英戦争
1863 ドイツ諸侯・フランクフルトで会議
普のヴィルヘルム1世は不参加、成果を得られず
墺のシュメアリングはハンガリー、チェコ、クロアチアの議会不参加を招く
ドイツ主義を掲げてドイツの盟主の座を狙うも、挫折
普にドイツ関税同盟への加盟を拒絶され、打つ手がなくなる
同年のポーランド反乱においても、普露の同盟に屈して孤立を深める
(テイラー著, 倉田訳『ハプスブルク帝国』pp.223-225)
1863 Mill, John Stuart著, 関口正司訳『功利主義』✅
訳の底本は1871年版
「満足した豚であるよりも、満足していない人間がよい。満足した愚者よりも、
満足していないソクラテスがよい」(p.31)の原型は、プーフェンドルフの
『自然法にもとづく人間と市民の義務』pp.97-98にみられる
「満足した豚」は、「柔弱で快楽に耽る」(沓掛訳『痴愚神礼讃』p.241脚注3)
アカルナニアの豚(『痴愚神礼讃』p.41:アリストパネス『アカルナイの人々』)
ベンサム:国の「豊かさ」に王や貴族、資産家だけでなく、庶民の気持ちもカウント
しよう(たとえ庶民の楽しみが高貴でなくとも)
ミル:質も考慮に入れよう(庶民層の底上げができてきた時代)
社会主義者、共産主義者からの資本主義批判に応える意味も
1864 元治元年・第1次長州征伐
1864 デンマーク戦争
シュレスヴィヒ・ホルシュタイン問題をきっかけに
シェーンブルン(レヒベルク=ビスマルク)協定にてデンマークから2州を割譲
ビスマルクは戦後共同管理を提案していた墺を裏切り、普墺戦争の火種に
1864 第1インターナショナル結成
1863年にポーランドで起きた反乱を契機に、ロンドンにて結成
国際的な同時革命から国別の労働者運動へという時流に乗るべく、方針転換を試みる
(佐々木太郎『コミンテルン』p.9)
1865 人民アソシアシオン割引金庫の設立
レオン・セー(J.-B. セーの孫)が会長、L. ワルラスが専務理事を務めたが
早くも3年後の1868年に破綻、ワルラスは財を失う
この後2人の関係は悪化し、ワルラスはセーの妨害によりフランスの大学で地位を
得ることができなかった(御崎・山下訳『社会経済学研究』訳者解説, p.xvii)
1865 Jevons, William Stanley, The Coal Question
石炭の枯渇が経済成長を阻むという論旨(ジェヴォンズ『経済学の理論』p.270
の訳者解説によれば、この書はマルサス『人口論』と相似形)
国会でも取り上げられ、ジェヴォンズが大学に職を得るきっかけともなる
しかし、その後の現実はこの論を完全に否定した
1866 Jevons, William Stanley, Brief Account of a General Mathematical Theory of Political Economy
https://socialsciences.mcmaster.ca/~econ/ugcm/3ll3/jevons/mathem.txt
ジェヴォンズが生まれた1835年はマルサスが死去した1834年の翌年
ジェヴォンズは、1875年にJM ケインズの父JN ケインズの道徳学の優等卒業試験を担当
(ケインズ『人物評伝』p.146)
1866 英・コレラの大流行
1866 英・恐慌
1866 第1回インターナショナル開催
マルクスはじめ共産主義者がジュネーブに集う
8時間労働などを宣言
1866 普墺戦争
シュレスビッヒ・ホルンシュタイン問題がこじれたことを口実に
普が墺に戦争を仕掛け勝利、ドイツ統合の主導権を普が握る
墺は仏にヴェネチア割譲やラインラントの保護権を与えると主張するも実らず
戦後、プラハの講和によりヴェネツィアは墺から伊へ割譲
仏普露という大国の緩衝地帯として脆弱な帝国であるように運命付けられる
第1次大戦後、帝国の消滅を埋めたのはドイツ第三帝国とソ連であった
(テイラー著, 倉田訳『ハプスブルク帝国』pp.246-251)
1866 慶応2年・第2次長州征伐
1866 Walras, Marie Esprit Léon著, 御崎加代子・山下博訳『社会主義と自由主義』
御崎・山下訳『社会経済学研究』所収の書簡
経験論的・自由主義的なシェレ氏と観念論的・社会主義的なゲルー氏
改善可能性と完全可能性
ワルラスは不完全な現実を認めつつ、理念型としての完成された理論はありうるとの立場
1867 Mill, John Stuart著, 竹内一誠訳『大学教育について』✅
セント・アンドルーズ大学の名誉学長記念講演
1867 ドイツ連邦崩壊
普:北ドイツ連邦
墺:Ausgleich(アウスグライヒ:オーストリア・ハンガリー二重帝国)
妥協、補償、協定などの意味(ライヒと読むが、reichとは綴りが異なる)
ザクセン首相のボイストはオーストリア帝国の外相となり、ハンガリー貴族の
アンドラーシと対普で協働
ハンガリーはマジャール人が、その他の帝国領はドイツ系が統治
両者に共通するのは皇帝、宮廷、外相、軍事大臣、蔵相
オーストリアとハンガリーの関係は、イングランドとスコットランドの関係より
英国とスコットランドの関係に近い
(テイラー著, 倉田訳『ハプスブルク帝国』p.271原注2)
オーストリア地域の法令は法の下の平等、表現の自由、転居の自由など自由主義的
1867 ザークビー(ライヒシュタット)協定
露はベッサラビア(現モルドバ)を取得
1867 パリ万博
日本初参加(幕府、薩摩藩、佐賀藩) 渋沢栄一が随行
1867 カナダ、自治領に
英の足かせである植民地を自治領に転換(支配から市場へ)
1867 英・第2次選挙法改正
米南北戦争が北部の勝利に終わったことを受けて、選挙権拡大の機運
(破れた南部の地主が英国の地主階級と重なる)
バジョット、J.S. ミルら論客の批判をかわす意味も
すべての戸主に投票権を付与(労働者にも投票権を)
1869年1月に完全施行、成長の果実をより多くの人に
1867 慶応3年・ええじゃないか
1867 慶応3年・政権移譲
10月14日(現在の11月9日)大政奉還
12月9日(現在の1868年1月3日)王政復古の大号令
1868 明治元年・明治維新
1月3日、鳥羽伏見の戦い
4月4日、江戸城の無血開城
マハンはこの年横浜に滞在(『二〇世紀への展望』p.147)
ハワイへ移送される日本人苦力、アメリカ南部に黒人の代わりに移送される中国人苦力
の言及あり(『二〇世紀への展望』pp.147-148)
1868 英・第1次グラッドストン自由党内閣
ピール内閣にて複数の大臣を歴任したグラッドストンは、1868〜1874、
1880〜1885、1886、1892〜1894と4次にわたり内閣を率いる
1868 西・革命
女王イザベラ2世は亡命
その後の王位を誰にするかで普仏が対立
1869 英・アイルランド国教会の廃止
国教会が徴収していた十分の一税などの批判を受けて、カトリックである
アイルランドに配慮
1869 独・ドイツ社会民主労働者党結成
1869 スエズ運河開通
1859年に建設開始、10年越しの悲願成就
1870 第1回バチカン公会議
教皇の無謬性(制度としての教会全体の不可謬性)の確認
(ウェーバー『世界宗教の経済倫理』p.87の注26)
1870 伊・ローマ併合
これに反発した教皇はバチカンを根城にイタリア人カトリックに向けて反抗を促す
教皇の策謀に背を向けたイタリア人は無神論的に(ヴルピッタ『ムッソリーニ』p.40)
1870 英・初等教育法成立
公立学校で、普通選挙に耐えうる教育を
1870 エムス電報事件
普仏による西の革命収拾に向けた平和的話し合いを、陰謀めいた電報でビスマルクが壊す
普に不信感を抱いた仏は宣戦を布告
1870 普仏戦争
7月19日、エムス電報事件を機に戦争勃発
1871 Menger, Carl著, 安井琢磨・八木紀一郎訳『国民経済学原理』✅
ウィーン大学、プラハ大学で学び、経済ジャーナリストの経験をもとに執筆
この書が認められ、1872年にウィーン大学の私講師の座を得る
メンガー没後、子息が遺稿をまとめて発表→『一般理論経済学』
この子息とは、メンガーのスポンジで高名な数学者Karl Menger
メンガーは保守主義の父E. バークに言及、知識層より経済を営む普通の人々を重視
(ある種の反エリート主義)
プーフェンドルフ『自然法にもとづく人間と市民の義務』から影響を受けている?
ウィクセルは本書をリカード 『経済学及び課税の原理』以来の本と絶賛
1871 Jevons, William Stanley著, 小泉信三訳『経済学の理論』✅
裕福な鉄商人の家庭に生まれるも、1847年恐慌で破産、経済的苦渋をなめる
ジェヴォンズの父は蒸気船を発明したスチーブンソンの友人
1854年、19歳でオーストラリアシドニーの造幣局分析官の職を得る
南半球の星空を眺める経験が後の黒点説の遠因とも
1859年に帰英し、University College of London(UCL)で学ぶ
経済学のみならず、統計学、自然科学、人間工学など多才
1870年の冬からの数か月で書き上げる
ワルラスとの32通の書簡が残る
47歳の若さで不慮の事故に遭い、落命
1879年発行の第2版はこちら
https://archive.org/details/theoryofpolitica00jevo/page/n6 資料
大正2年(1913)に神田で大火災が発生 資料
同文館が類焼し、小泉による本文の訳は危うく難を逃れるも序文は焼失
その後小泉はロンドン大学遊学で不在、代わりに師である福田徳三が序文を執筆
ロンドン大学(University College of London)はジェヴォンズが教壇に立った大学
4版のうち第2版を訳出(戦前の表記ではジェヺンス)、戦後に寺尾が第4版をふまえて
大幅改訳、関連文献一覧なども巻末に収録
「経済学の真の体系に到達する唯一の希望は、リカード学派の混濁不遜な仮設を永久に
廃棄するということである。われわれイギリス経済学者は愚者の楽園に住んでいたので
ある」(p.xxxix)、「かの有能であるが、思想の間違った男デヴィド・リカードが経済
科学の車輌を誤った軌道に外らした」(p.xliv)とリカードを批判、マルサスを擁護
後にクールノーの『富の理論の数学的原理に関する研究』に出会い、需要関数を賞賛
第1章:ベンサム『道徳および立法の諸原理序説』を引用して功利主義→効用理論を示す
農業を重視した(黒点説など)のは、データが存在する珍しい産業だったからか
第2章:将来の予想「文明の状態においては、将来に対する朧気ながら力強い感覚が
勤勉と節約とに対する主な刺激となっている」(p.27)
第3章:社会活動のメートル法としての効用は経済分析の基礎(pp.47-48)
需要がなければ、生産は存在しようがない
1ポンドめのパンと2ポンドめのパンはありがたみが違う→労働価値説の破綻
数量単位を「貨物」「増量」と表記(1貨物、2貨物、…)
効用度はdu/dxという微係数で表される
効用度のうち「最後の付加量」を最終効用度、積分したものを全部効用という
全部効用を知ることは難しいが、最終効用度を知ることはできそう
最終効用度は減少する(p.41)
反貨物(discommodities)と反効用(disutility)(pp.44-45)
供給を単位時間当たりの率でみる(pp.49-50)
現実的効用、予想的効用、潜在的効用(pp.53-54)
期待効用(p.55)
第4章:「交換は効用を極大にし労働を節約する」(p.58)
「価値法則の中に究め尽くされていないものはない」というJSミルを批判
価値とは交換比率である:金1トンと鉄1トンの交換を例に
使用価値は全部効用、欲求の強度は最終効用度、購買力は交換比率(pp.62-65)
一物一価を「無差別の法則」と表現(p.70)
ただし、価格は刻々変わる:ニューヨーク証券取引所を例に(p.70)
加重限界効用均等の法則をてこの原理にたとえる(p.80)
英国式/オランダ式オークション(p.82)
indivisible goodsの例として1875年の千島樺太交換条約(p.91)
金銀価格比(pp.100-103)
貿易の利点を図で説明、関税には反対の立場(pp.107-109)
気象学と経済学の厳密さの競争(p.110)
穀物の非代替性とラム酒の代替性(p.111)
穀物の不作が価格の急騰を招く、穀物価格は供給量の2乗に反比例(pp.115-118)
期待効用理論の原型:ベルヌーイやラプラスを引用して(pp.118-119)
生産費→供給→最終効用→価値(p.123)
第5章:「労働とは、部分的にまたは全面的に将来の利益を目的として行う精神または肉体の
あらゆる苦痛な努力である」(p.126)
消費の最終効用度と労働の最終的な苦痛が等しくなる点で生産量が決まる(pp.129-130)
交換される貨物の量は同一労働によって生産される量に比例し、価値、価格、生産費、
最終効用度に反比例する(p.143)
売上で生産費が賄えない「浪費的産業部門」は輸入に頼る(p.145)
副産物の生産:結合生産について(pp.149-150)
第6章:差額地代論
第7章:資本理論
アレキサンダー・セルカーク(ロビンソン・クルーソーのモデル)の例(p.164)
たとえ交換がなくとも資本は必要だと
バヴェルクによる迂回生産方式の原型のような論述「貨物供給におけるあらゆる改善
は労働の行使された瞬間とその最終結果すなわち完遂された目的との間の平均間隔を
延長させるが、このような改善は資本の使用に基づくものである」(p.169)
複利計算される資本コストを上回る収益が得られるか(p.176)
リカードによって引かれた流動資本と固定資本の境界線はあいまい(p.178)
「鉄道は固定資本とは言わずに、資本は鉄道に固定されていると言いたい」(p.179)
資本利回りについても一物一価が成り立つ:自由資本という名の生活必需品が生み出す
利益は一定→no free lunch(p.180)
資本蓄積が進むと利潤率は低下する(pp.185-186)
最終効用度のアナロジーとしての資本の限界効率(pp.187-189)
持ち家の帰属家賃の原型(pp.191-194)
第8章:結論
「もし一大家の崇拝者が、進んで研究と批判に精進する代わりにこの著述を権威として
受け入れるならば、真理を傷つけることこれに過ぎたるはない。哲学および科学の問題
において、権威は常に真理の大敵である。専制的静寂は常に誤謬の勝利である。科学の
世界においては騒乱、否、無政府さえも、結局において最大多数の最大幸福のために
有利なのである」(p.201)
付録2:教育の機会費用(p.220)
付録3:効用係数(p.225)、限界代替率の原型(pp.226-227)
1871 ドイツ帝国建国
1月18日、普仏戦争に勝利したドイツはヴェルサイユ宮殿にて建国を祝う 資料
これはフランスを激怒させ、第1次大戦後、多額の賠償金を課される遠因に
アルザス・ロレーヌ割譲(ドーデ『最後の授業』)
ワルラスは戦火を逃れフランスからスイス・ローザンヌへ渡る
1869年にローザンヌ大学は改組、経済学の講座を開く
(丸山徹『ワルラスの肖像』p.3, pp.28-29, p.35)
ローマが仏から伊へ、伊の首都がフィレンツェからローマへ
1871 パリ・コミューン
普仏戦争敗北の混乱、鎮圧後、1875年以降は保守的な政治(第3共和制)
体制内革命を志向する第1インターナショナルの方針とは相容れず
コミューンが短命に終わったことで、むしろ方針に対する信頼感は高まる
(佐々木太郎『コミンテルン』p.12)
1871 長崎・上海間を結ぶ海底ケーブル完成
グレート・ノーザン・テレグラフ(現GN)による
1871 明治4年・廃藩置県
1871 英・大学審査法
非国教会信者もオックスブリッジへの進学が可能に
1872 英・手形交換所の地方拡大
1872年にマンチェスター、1886年にリバプールとバーミンガムに設置
(金井雄一『中央銀行はお金を創造できるか』p.146)
1872 独・社会政策学会
「講壇社会主義者」との批判に応えて、シュモラーらが結成
右派から左派までの論客が集い議論を戦わせる
1872 明治5年・太陽暦の採用
1872 明治5年・壬申戸籍
いわゆる四民平等の戸籍
農村部に住む商人や大工や鍛冶屋も「農民」として一括りにしたことには批判も
農78%、工4%、商7%はあまりに偏りすぎだとして、農の大半は兼業農家で農閑期には
手工業や養蚕、製塩や魚労、炭焼きや商いをしていたはずだと
江戸期を封建的・家父長的で、農業中心の前近代的な「幕府によって封じ込められた時代」
として描くことで、明治政府の正当性を主張(課税ベースの農と実態としての農の乖離)
ここまでの網野節は面白いが、戦争に負ければよかった、植民地になったほうがよかった
というのは、敗戦革命という陰謀論
網野氏は10代で終戦を迎え、共産主義活動にのめり込み、1955年の六全協で活動から
離れた経緯がある。「無縁」という分析対象に自らを投影していたのかもしれない。
(網野善彦・石井進『米・百姓・天皇』p.19, p.25, p.59, pp.70-71, p.106, pp.131-135, pp.246-248)
https://cir.nii.ac.jp/crid/1390572174724473472
小山・五島論文は貢納分を考慮していないのではないか(網野・石井,p.46)
https://minpaku.repo.nii.ac.jp/records/4501
1872 明治5年・学制
全国を8つの大区(学区)に分け、それぞれに1つずつ小学校、中学校、大学を設置
https://www.archives.go.jp/ayumi/kobetsu/m05_1872_02.html
1873 明治6年・徴兵制
1873 墺・ウィーンにて万国博覧会
5月1日から10月31日まで開催
岩倉使節団も観覧
名古屋城の金の鯱が展示
1873 明治6年・朝鮮使節の派遣中止
11月28日、1871年から足掛け3年欧州を視察して意気揚々と帰国した岩倉使節団は、
朝鮮出兵の準備をする政府の動向を見て仰天、手を尽くしてこれを止める
征韓論を主導する西郷隆盛の居場所が新政府になくなる
文明開花と武士道の軋轢
( 内村鑑三『代表的日本人』pp.28-32) 資料 資料2
1873〜 世界的な恐慌
自由放任(レッセ・フェール)の終わり
独・貨幣鋳造法(銀本位から金本位へ)→銀相場の下落
墺・ウィーンの財政破綻
株式市場が暴落、175の銀行が取り付け騒ぎに
(丸山『ワルラスの肖像』p.250、テイラー著, 倉田訳『ハプスブルク帝国』p.291)
米・利上げ→ジェイ・クックの破綻→鉄道ブームの崩壊
英・デフレ不況
英は供給縮小で、独は需要拡大で対応→独が英を凌駕する機縁に
保護関税で自国産業を守ることもせず、自由放任
(リーマンショックに対する日中の対応の違いを想起)
1873 米・貨幣法
金銀複本位制から金本位制へ(オズの魔法使い)
1873 Bagehot, Walter著, 久保恵美子訳『ロンバード街』✅
1874 フィレンツェ・アダム・スミス協会設立
イタリア王国建国時の自由主義に翳りが出たことに抗うために設立
設立メンバーの一人にパレート(松島『経済から社会へ』p.23)
1874 ボローニャ・武装蜂起
無政府主義的極左バクーニンの指導により蜂起も鎮圧、バクーニンはスイスへ逃亡
これに連座し検挙されたのがムッソリーニの父アレッサンドロ
(ヴルピッタ『ムッソリーニ』p.45)
1874 ジェヴォンズとワルラスの往復書簡
限界効用学説の優先権について
第三者であるゴッセンを祖に立てることで争いは収束
1874 英・ディズレーリ保守党内閣
シュミットによるとユダヤ系(シュミット『陸と海』p.246)
1868年、1874〜1880年と2次にわたり内閣を率いる
社会政策に軸足を置き、産業革命・自由貿易の副作用を抑える
バーミンガム市長として住宅政策に辣腕をふるったのがジョセフ・チェンバレン
1874 英・東インド会社解散
1874 明治8年・民撰議院設立建白書の起草
板垣退助、副島種臣、江藤新平らによる
1874 Sidgwick, Henry 『倫理学の方法』
イギリスの平田篤胤、あるいは西田幾多郎のような人
「アラビア語から心霊現象まで、あてどもない研究に突き進む」
(スキデルスキー『ジョン・メイナード・ケインズ』上, p.56)
1874-1877 Walras, Marie Esprit Léon著, 久武雅夫訳『純粋経済学要論』✅
ローザンヌ学士院長、採用の段階で以前の社会主義運動が危険視され、当初1年契約
父とクールノーから影響を受ける(父A. Walrasは高等師範学校でクールノーと同級生
御崎・山下訳『社会経済学研究』訳者解説, p.xiii)
雑誌記者や鉄道会社書記など職を転々とし、また普仏戦争で祖国を離れた苦労人
1883年以降、数通の書簡がマーシャルとの間でやり取りされるが、数学モデルを重視しない
マーシャルとは意見が合わずに終わる
(丸山『ワルラスの肖像』p.34, pp.74-78)
J.-B. セーに代表される当時のフランス経済学会からも数学の使用を反自由主義的だとして
厳しく批判され、また第2版の人的資本論が奴隷制を肯定しているとして非難された
(御崎・山下訳『社会経済学研究』訳者解説, p.xviii)
ワルラスの友人、ベルリン大学教授ラディスラフ・フォン・ボルトキエヴィッチは、産業
連関表を考案したレオンティエフの指導教官
(辻村・辻村『マクロ経済統計と構造分析』p.94)
1875 英・スエズ運河を買収
財政難にあったエジプトのイスマイルは持ち株を手放す
1875 独・ドイツ社会主義労働者党結成
1875 明治9年・千島樺太交換条約
ジェヴォンズ『経済学の理論』p.91で言及
1875 明治8年・江華島事件
朝鮮半島西岸、ソウルに近い江華島付近で、日本の軍艦雲揚号が発砲
1876 明治9年・日朝修交条規
事大主義(主人たる清国に事える)は消えず
朝鮮の中国重視は昔から
1876 明治9年・サミュエル商会(後のロイヤル・ダッチ・シェル)が横浜に支店を出す
日本の海岸で収集した珍しい貝を売って儲けたというシェルの伝説
後に日本の外債を多額引き受け
1876 英・Political Economy Clubで『国富論』刊行100周年記念(10月)
ハーバート・スペンサーの社会進化論に基づく社会学からの経済学批判が強かった時代
ジェヴォンズは The future of political economy で経済学の暗い未来を予想
(ジェヴォンズ著, 小泉他訳『経済学の理論』p.16)
バジョット、クリフ・レスリーらも寄稿 資料
(馬場『マーシャル』p.15, pp.49-50)
1876 Walras, Marie Esprit Léon著, 柏崎利之輔訳『社会的富の数学的理論』✅
1877 明治10年・太政官布告で利息制限
10万円未満は、年20%まで
100万円未満は、年18%まで
100万円以上は、年11%まで
(井原今朝男『中世の借金事情』p.143)
1877 明治10年・西南戦争
9月24日、西郷は侍として死す
1877 明治10年・西周、societyを社会と訳す
以前からあった社会という言葉に、西は確立した個人の集まりという意味を持たせる
一般に流布していた世間という語は訳語にならなかった
(阿部謹也『「世間」とは何か』pp.175-176)
1877 英・ヴィクトリア女王、インド皇帝を兼務
1876年3月、ディズレーリは自由党の反対を無視して国王称号法を制定した
1877年1月、インド女帝を宣言、インド帝国と名を改める
(シュミット『陸と海』p.227)
1877 露土戦争
土に勝利した露がバルカン半島に手を伸ばす
1878年のベルリン条約で欧州側は独墺露の三国同盟を破棄
露はボスニア・ヘルツェゴヴィナの統治を墺に任せようとするが
これはトルコ分割の罠だとして慎重に振る舞う
結果として、ボスニア・ヘルツェゴヴィナは墺管理のトルコ領という歪な統治に
英はキプロスの管理権を得る
抑え込まれた露は独を恨む
1878 露・ザスーリチ、政治犯に厳しいペテルブルク市総督トレポフ将軍を狙撃
これを機にナロードニキが過激化(人民の意志)
1878 独・社会主義者鎮圧法
ドイツ社会主義労働者党が非合法に
1878 墺・洪・国民銀行設立
(テイラー著, 倉田訳『ハプスブルク帝国』p.263)
1879 普墺同盟
ビスマルクは墺・洪を英仏から引き離すために同盟に引き込む
対露で結成した同盟は第1次大戦終結まで続く
1879 墺・洪・ターフェ首相誕生
チロル地域に基盤を持つアイルランド出身の貴族、かつ皇帝の学友
(テイラー著, 倉田訳『ハプスブルク帝国』p.302の注9)
1879 Geroge, Henry著, 山嵜義三郎訳『進歩と貧困』 資料
光文社版『共産党宣言』p.201に、ジョージがこの本をマルクスに贈ったとする手紙を収録
マーシャルはブリストルのユニヴァーシティ・カレッジでこの本に関する講義をした
ケインズ『一般理論』第23章でも言及されている
1880 英・初等教育の義務化
1881 露・皇帝アレクサンドル2世暗殺
農奴解放に尽力した皇帝を「人民の意志」という名のテロ組織が暗殺
マルクスは『共産党宣言』のロシア語版への序文で、これを「成果」と誇る
1881〜1882? von Böhm-Bawerk, Eugen著, 塘茂樹訳『国民経済学』✅
Böhm-Bawerkの発音は「ベーム」より「ブーン」に近い 資料
Böhmには滑降風(吹きおろし:katabatic wind)の意味がある
指揮者のKarl Böhmをカール・ベームと表記するように、ベームと表記することが多い
一橋大学メンガー文庫所蔵のバヴェルク講義録を訳したもの
講義がなされた年は訳者解題を参照
バヴェルクは繰り返し大蔵大臣を務めた実務派だが緊縮派
1881 明治13年・国会開設の勅諭
1881 独墺露の三国協定
ビスマルクは露仏の接近を恐れていた
1882 独墺伊の三国同盟
仏のアルジェリア侵攻に反発して
1882 英・エジプト占領
1882 明治15年・日本銀行設立
同1882年6月に日本銀行条例公布、10月10日設立
https://www.boj.or.jp/about/education/oshiete/history/j01.htm
1883 Menger, Carl著, 福井孝治・吉田昇三訳・吉田昇三改訳『経済学の方法』✅
シュモラーとの「方法論争」を収録(プロイセン vs オーストリア)
シュモラーは、メンガーの説を先進的なプロイセン(プロテスタント)から
遅れたオーストリア(カトリック)と見下し、オーストリア学派と名付けた
バヴェルク『国民経済学』p.104には、1880年当時の国民1人あたり貨幣量が
ドイツ61マルク、オーストリア33マルク、フランス100マルクとある
普墺戦争、普仏戦争と「坂の上の雲」であった意気軒昂のドイツ精神を反映
無論メンガーは反発、16通もの怒りの書簡で反論
1883 メンガーとワルラスの書簡
メンガーによる「本質」(価値、地代、利潤等の本質に迫るべき)という問いかけ
総合的(経験によって真偽を確かめるべきもの)かつア・プリオリな命題はあるか
総合的ア・プリオリを否定:イギリス経験論
総合的ア・プリオリを肯定:ドイツ観念論
(丸山『ワルラスの肖像』pp.256-262)
1883 英・社会民主連盟発足
ハインドマンによるマルクス主義の団体
1883 ベルトラン『ジュルナール・デ・サヴァン』誌にベルトラン均衡の論文発表
1883 伊・ムッソリーニ生まれる
ファーストネームのべニートはハプスブルク一族でメキシコ皇帝になったマクシミリアン
を暗殺した革命家べニート・ファレスからとった。1882年にミラノで労働者社会党を設立した
アンドレア・コスタのアンドレアも名前に加えた。ムッソリーニの父は無神論者で友人のアン
ドレア・コスタが設立した労働者社会党の党員、母はカトリックで小学校教師、ムッソリーニ
自身は師範学校出身。ある種当時のイタリア社会を象徴する家族)
(ヴルピッタ『ムッソリーニ』p.39, p.45)
「ナポレオンは革命を片付けたが、自分は革命を始めたのだ」(ヴルピッタ『ムッソリーニ』p.42)
父のアレッサンドロは革新的政治活動に身を投じ、1902年投獄される。革命家の家族としての辛酸
をなめた病弱の母は1905年に他界、それを悔やむ父も1910年に他界(『ムッソリーニ』p.46, p.51)
1884 Jevons, William Stanley, Investigations in Currency and Finance 資料
1884 英・フェビアン協会発足
協会の名称はローマの将軍ファビウスに由来(木村雄一『LSE物語』p.7)
『マイ・フェア・レディ』の原作者ジョージ・バーナード・ショーや『タイム・マシン』
の著者ハーバート・ジョージ・ウェルズらがエリートによる社会主義を標榜
シドニー・ウェブは1885年に入会、妻となるビアトリス・ポターは1891年に入会
(『ピーターラビット』の作者ビアトリクス・ポターとは別人のよう)
リカードの超過利潤を社会に還元
1884 国際子午線会議でグリニッジ標準時を採用
1884 英・第3次選挙法改正
農業労働者に選挙権を与える
1885 天津条約
日本と清が睨み合う中、露と英が朝鮮に浸透を図るも、李鴻章の仲介で両者手を引く
1886 トランスヴァール共和国で金鉱脈発見
大統領クリューガーはゴールドラッシュに引き寄せられた新参者を嫌う
1887 Nietzsche, Friedrich Wilhelm著『道徳の系譜学』
ルサンチマン概念の提出
1887 伊・新関税法
植民地エチオピアのドガリで惨敗した伊軍強化のための増税
伊仏通商協定破棄に至り、フランスとの関係悪化
小麦の輸入関税の段階的引き上げにより、貧困層の生活水準が低下
パレートはこれを傾国の悪法と批判(松島『経済から社会へ』pp.23-33)
1887 独・露再保険条約
1881年の独墺露三国協定の後継条約
仏への牽制
1888 独・ウィルヘルム2世即位
社会政策を打ち出し、社会主義者鎮圧法を主導するビスマルクと対立
ウィルヘルム2世はヴィクトリア女王の孫
1888 オックスフォード辞典に「失業」の項目がはじめて登場
(スキデルスキー『ジョン・メイナード・ケインズ』上, p.58)
1889 墺・ルドルフ皇太子、早すぎた自由主義者、失意の自死
1873年からカール・メンガーが教育係を務める
1876年にメンガーから政治経済学と統計学を学ぶ
1877年末から翌年はじめにかけて、メンガーを伴い欧州を回る
1879年、メンガーはウィーン大学教授となる
帝国の没落を予感させるこの事件を契機に、メンガーは失意に沈む
八木『オーストリア経済思想史研究 ―中欧帝国と経済学者―』p.64の注55
丸山『ワルラスの肖像』p.250, pp.253-254
1889 明治22年・大日本帝国憲法発布
1889 パリ万博 エッフェル塔、自由の女神像を米へ寄贈
1889 Booth, Charles著『ロンドンの生活と労働に関する研究』 資料
リバプールの造船業者による17巻の大著は1903年に完結、ロンドンの家族の3分の1が
週に1ポンド以下の生活をしていると指摘(村岡・川北編著,p.215)
1889 第2インターナショナル結成
世界に先駆けて8時間労働を実現した米国をお手本に、これをひろめる要求を受け
7月14日、フランス革命100周年を期に、多種多様な左派勢力がパリに集う
米国代表ゴンパースは、メーデー開催を要請
1890 第1回国際メーデー
1890 独・選挙に敗れたビスマルク失脚
ウィルヘルム2世と台頭する社会主義勢力への対応をめぐる対立
ドイツ社会主義労働者党が再び合法に
1890 Booth, William著, 山室武甫訳『最暗黒の英国とその出路』
Boothはキリスト教救世軍の創始者、ケインズ『一般理論』第23章に登場
1890 Marshall, Alfred著, 永澤越郎訳『経済学原理』✅
マーシャルの父はイングランド銀行出納係
1890 Mahan, Alfred Thayer『海上権力史論』
米国の戦略家マハンは1867年、蒸気船イロクォイで来日、1年ほど滞在する
この著は、金子堅太郎、秋山真之などに高く評価される
また、ドイツ海軍の創設者フォン・ティルピッツ海軍元帥、海軍大臣に高く評価される
(シュミット『陸と海』p.244)
1891 Economic Journal 創刊
エッジワースが初代編集長に
https://academic.oup.com/ej/issue/135/666
1891 Pareto, Vilfredo Frederico Damaso著『社会主義と自由』
統制主義者(国家による再分配)と自由主義者(市場による資源配分)を対比
貧困層への再分配を国家の力でなそうとするマルクス主義者を批判
(松島『経済から社会へ』p.35)
1891 Keynes, John Neville著, 上宮正一郎訳『経済学の領域と方法』✅ 資料
1891 Böhm-Bawerk, Eugen von著, Smart, William訳, The Positive Theory of Capital
英訳p.26:チュルゴーが capital 概念(貸借対照表貸方の資本)を経済学へ導入したとの記述
1891 明治24年・不敬事件
内村鑑三は第一高等中学校を退職
1891 ローマ教皇レオ13世の回勅
富の正当な分配、労使協調(庶民層を社会主義に取られてしまうとの恐れから)
この後、社会主義系の団体に対抗するカトリック系の労働団体が簇生
(ヴィルピッタ『ムッソリーニ』p.50)
1891 独・エルフルト綱領
ドイツ社会民主党エルフルト党大会で採択された綱領
資本主義から社会主義への転換は歴史の必然であるから、過激な革命は見せかけでよい
民主化を妨げるサボタージュだとしてウェーバーはこれを批判(『社会主義』解説, p.101)
1892 墺・事実上の金本位制へ移行
銀の価格下落により、プレミアムが付いた通貨グルデンに価値を再付与する試み
プレミア通貨の流通を理論的に位置付けようとしたのがクナップ
いわゆる金貨本位制ではなく、金の価格に貨幣価値をリンク
1892 露仏同盟
ビスマルク失脚後、独露の対立が深まる
1892 明治25年・久米邦武筆禍事件
1891年に久米が発表した論文を、田口卯吉は自らの雑誌『史海』に転載、神道関係者
を挑発する序文を付す。久米論文は「三種の神器を神聖視するのは誤りである」という
問題のある内容であったため、神道関係者から厳しい非難を浴びる
騒ぎが拡大したため久米は論文を撤回、東京帝国大学を免職となる
当該論文が掲載された雑誌は発禁処分に
1893 明治26年・史誌編纂掛を廃止
久米をよく思わない文部大臣井上毅は廃止を提案、明治以来の努力が水泡に帰す
(遠藤慶太『六国史』p.216)
1893 伊・シチリア暴動
貧しさに耐えかねた農民や鉱夫からなるシチリア・ファッショが立ち上がる
(ヴルピッタ『ムッソリーニ』pp.61-62)
1893 明治26年・貨幣制度調査会
金本位制の導入が検討される
1893 パレート、ローザンヌ大学経済学教授に就任
1891年頃には体調を崩していたワルラスは退任を望んでいた
ワルラスはこの年にパリにて刊行されたマルクス『資本論』の抜粋に序文を書いた
(松島『経済から社会へ』p.203)
パンタレオーニの紹介でパレートに白羽の矢が立つ
イタリアでの自由主義を守る闘争に疲れて(松島『経済から社会へ』p.31)
ジュネーブ大学の言語学者ソシュールにも影響を与える(松島『経済から社会へ』p.50)
ワルラスはパレートのあまりに極端な自由放任主義に批判的
(松島『経済から社会へ』p.175)
20代前半の多感な時期にローザンヌ大学で学んだムッソリーニは、パレート、ソレルなど当時
一流の学者から影響を受け、独自の思想(ファシズム)を組み上げてゆく
(ブルピッタ『ムッソリーニ』pp.16-18)
1893 Wicksell, Johan Gustaf Knut著, 『価値・資本および地代』
ジェヴォンズの理論は裁定取引の機会を考慮していないとの指摘(p.167)
一般均衡は無裁定条件を満たす
(丸山『ワルラスの肖像』p.88)
ウィクセルはケインズのとの交流があった。1916年3月26日のケインズから母宛の手紙
にウィクセルを歓待したとの記述がある。
(ハロッド『ケインズ伝』上, p.243)
1894 Wicksteed, Phillip Henry著, 川俣雅弘訳『分配法則の統合』
1894 英・セシル・ローズ、ケープ植民地首相に
オレンジ共和国のダイヤモンド(デビアス)を独占、トランスヴァール共和国の
ゴールドを独占、クリューガーと対立
1894 仏・ドレフュス事件
ユダヤ人大尉ドレフュスがスパイ容疑で逮捕される
反ユダヤ主義と反・反ユダヤ主義
Pareto著, 川崎訳『エリートの周流 ―社会学の理論と応用―』のモチーフに
(Paretoは新旧エリートの闘争の例として捉えていた。勃興する社会主義という「宗教」
に対抗するカトリック、民族主義、反ユダヤ主義、国家主義)
1894 露仏協商
独の3B(ベルリン、ビザンチウム、バグダッド)と
英の3C(カイロ、ケープタウン、カルカッタ)の対立
1894 明治27年・日清戦争
英仏独露米伊が艦隊を派遣する、衆人環視の中で戦われた
1895 明治28年・下関条約
台湾・澎湖諸島・遼東半島、賠償金2億両を獲得、威海衛を占領
ロンドン・ポンド受け取りとした賠償金は金本位制の礎に
遼東半島は日本大陸進出の足がかりだとして、露のウィッテが反発
協商を結んだフランスと黄禍論に毒されたドイツに声をかけて三国干渉
ウィルヘルム2世は黄禍論を唱え、ニコライ2世はそれに感化されていた
1895 英・セシル・ローズ、中央アフリカを占領
ローデシア(現在のザンビア、ジンバブエ)と名付ける
同年のジェイムスン侵入事件の責任を取り、ローズは辞任
1895 英・LSE(London School of Economics and Political Science)設立
フェビアン協会メンバーであったハチンソン氏の遺産1万ポンドをシドニー・ウェッブが活用
当時、協会の主要メンバーが次々に去り、ウェッブの権限が大きくなっていた
ハチンソン氏の遺産の他にもイギリス文芸協会やロンドン商工会議所なども出資
(木村雄一『LSE物語』pp.15-16)
初代学長ヒュインズの伝手でオックスフォード歴史派が集う(ケンブリッジへの対抗)
(木村雄一『LSE物語』pp.25-30)
ケンブリッジ大学の若き講師、ゴールズワーシー・ロウズ・ディッキンソンも尽力
(ハロッド『ケインズ伝』p.75)
1873年恐慌を契機に米独に追いつかれた英国産業界の危機感の表れ
(木村雄一『LSE物語』p.6)
1919年、ケインズに第4代学長を打診したが、断られたためベヴァリッジが就任した
べヴァレッジ学長時代に、ロックフェラー財団から多額の寄付金を得る
運営費の1割強が財団からの寄付金で賄われた
(木村雄一『LSE物語』p.57, pp.60-61)
1895 英・ナショナル・トラスト創設
女性社会活動家オクタヴィア・ヒルらによる
1895 Le Bon著, 櫻井成夫訳『群集心理』
Pareto『エリートの周流 ―社会学の理論と応用―』への影響
1896 Böhm-Bawerk, Eugen von著, 木本幸造訳『マルクス体系の終結』✅
労働価値説(『資本論』第1巻)と平均利潤説(第3巻)の矛盾を突く
労働価値→(競争、転化)→生産価格としつつ、労働価値説を堅持するマルクス説
を、労働量だけでなく、労働の価格(給与水準)や資本の貢献分も商品の交換価値
を決める要素であると批判。また、労働が投入されていない土地や天然資源の価値
がどうなるかも説明できないと批判。加えてマルクスは第1巻にて「使用価値のない
物に投入された労働も無価値である」と述べているとして議論の混乱を指摘。
「資本家と地主とが一人も存在しなかったおとぎの国」(pp.132-133)の話だと一蹴
1896 Walras, Marie Esprit Léon著, 御崎加代子・山下博訳『社会経済学研究』
訳は最終版となった第2版(1936年版)
1867年と1868年に人民アソシオン貯蓄金庫の顧客と雑誌『労働』の読者に向けた講演録
であるため、臨場感がある(訳者解説, p.xv)
第3の道を目指すワルラスの論は、自由主義者と社会主義者の双方から疎まれる(p.xxi)
社会契約説、功利主義、方法論的個人主義に批判的、独特の立論(p.xxii)
経済学を真理を探求する純粋経済学、利益を追求する応用経済学、正義を追求する
社会経済学に分ける
p.30:所有の主体となる道徳的人間
p.34:社会的富の定義について(社会主義者は労働のみを基礎とするが承服できない)
p.42:なすにまかせよ(laisser fair, laisser passer)への懐疑の広がり
pp.49-50:道徳的唯心論と功利的唯物論のどちらも、すべての所有を個人に帰すことで
国家を否定する行き過ぎである
pp.57-58:自発的な相互保険や協同組合は道徳的唯心論が主張する個人主義の問題を補う
pp.64-65:急進的な社会主義に対する批判、科学が完成した後の経験論批判
p.67:物質(自然)、道徳(人間)、形而上学(神)が知識の対象であり、それぞれの
対象は外的な経験、内的な経験、合理的抽象化であり、それらを把握するのが感覚、
意識、理性。理性を行使するのが観念論であり、感覚に基づく唯物論と意識に基づく
唯心論は経験論。
pp.80-81:社会を海にたとえる(人間を海を構成する水滴にたとえる)
p.82:道徳的な共産主義と経済的な共産主義
p.85:科学の進歩の一例としての地動説(コペルニクス、ガリレオ、ケプラー)
p.89:分業の能力と道徳的人格という2つの原理
pp.90-91:欲求が個人の能力を超えている人類にとって分業は必然
p.94:人間は動物と異なり、利己的な情動だけでなく非利己的な情動も持つ
pp.104-105:技芸の原理である美、科学の原理である真、労働と産業の原理である
有用性と利益、社会道徳の原理である善と正義
1896 ワルラスと英国経済学者との行き違い
ウィックステードが著書の中でワルラスの業績に言及されていないことをきっかけに
ワルラス門下のバローネの論文がEconomic Journalから掲載拒絶されることに及び
ワルラスの怒りが表面化、バローネは問題の拡大を恐れてワルラスの激した文章を公表
しないようワルラスに懇願、この後、ウィックステード、エッジワース、マーシャル
に対するワルラスの感情は硬化(丸山『ワルラスの肖像』pp.194-211)
1896 第1回近代オリンピック
ギリシャのアテネにて
1896 英・デイリー・メール創刊
識字率の高まりを反映、発行部数が50万を超える
1896 伊・エチオピアで敗北
アドゥワにて伊軍6000名以上が全滅
強権でならした首相クリスピは辞任
1896-1897 Pareto, Vilfredo Frederico Damaso『経済学講義』
1897 英・ダイヤモンドジュビリー
マーク・トゥエインは「イギリスのことは聖書に書かれてある――『幸いなるかな、
柔和なる者は。彼らは地を受け継ぐなればなり』とね」(ホブソン『異端の経済学者
の告白[ホブスン自伝]』p.53)と批評
1897 墺・バデーニ言語令
ポーランド出身の首相バデーニは、チェコ人入植者が増えたベーメン、メーレン地域の
官吏にドイツ語とチェコ語を要求、ドイツ系住民の不興を買う(チュートン人の憤激)
バデーニは罷免され、自由主義的融和を諦めた帝国は非常時の官僚政治へ移行
アウスグライヒ以来強まる帝国の遠心力が加速、知識人の悲観が強まる
1897 貨幣法
日清戦争の賠償金を元手に金本位制へ移行
同年、日本勧業銀行も設立(→第一勧業銀行→みずほ銀行)
金本位制への移行の際には1892年のオーストリア貨幣制度委員会の速記録が
回覧されたとのこと(八木『オーストリア経済思想史研究』p.187の脚注4)
1897 Mahan, Alfred Thayer『二〇世紀への展望』✅
あまりに平和を信用しすぎている当代への警告、帝国主義の復活を予言
p.143:「生産の拡大―経済学者の崇拝する偶像―は、新しい市場の追求をうながした。生活
水準の向上、富の増大、人口の増加にともなう国内消費の増大も、蒸気機関によって
もたらされた生産の拡大と運輸・流通の便益には追いつかなかった」
p.143, p.144, p.155, p.158,p.171で新たな市場としての日本、中国への言及
p.160:「これら先人たちは、純経済的な観念がマンチェスター学派の政治家のもとで優位を
占めるようになる前に青年に達していたので、その悪影響によって政治感覚を麻痺
されることはなかった。しかし、当時その支配的影響のもとに育った青年がいまなお
生きながらえているため、時代遅れの経済思想が依然として横行しているのである」
p.163:「教化されたキリスト教世界に課せられた偉大な任務―この使命は達成されねばならず、
さもなくば滅亡の道しかないのだが―とは、それを取り囲んで圧倒的に人口の大きい
種々の古来文明、とりわけ中国、インド、日本の文明を懐柔し、それらをキリスト教
文明の理想にまで高めることなのである」
p.173:「ヨーロッパ世界の文明は、広大な領土と人口をもつ外部の世界と対照させると、
あたかも砂漠のなかのオアシスのような存在なのである。ヨーロッパは世界で最も
崇高な文化、最高の知的活動の中心地であり舞台でもある」
p.179, p.184でパナマ運河(地峡運河)への言及
pp.185-186:「われわれの文明から精神的な要素を差し引くと、残るのは野蛮状態のみである。
そして野蛮状態とは、わが文明に内在する精神を吸収することなく、その物質的進歩
のみを摂取するのに汲々たる人びとの文明のことなのである」
1898 Marshall, Alfred, Mechanical and Biological Analogous in Economics, Economic Journal
1898 Wicksell, Johan Gustaf Knut著, 北野熊喜男訳『利子と物価』✅
1898 ファショダ事件
アフリカを南下する英と東征するフランスがスーダンのファショダでぶつかる
ファショダは現在の南スーダン北部のコドク
1898 伊・ミラノ暴動
前年の凶作によって社会が不安定化
クリスピ首相後の権力の空白を埋めるべく、各種政治団体への圧力が高まる
1899 独・バグダッド鉄道の敷設権を得る
前年、ヴィルフェルム2世はオスマントルコ皇帝との会談で要求していた
独の3B政策に英は反発
1899 Veblen, Thorstein著, 小原敬士訳『有閑階級の理論』
1899 パレート、ローザンヌ大学を辞する手紙を州当局に送る
叔父から多額の遺産相続を得たパレートの大胆な申し出
1911年まで辞職は認められないが展開講義は減少
パレートは後に蔵書の全て6千冊を学部に寄贈して恩に報いる
(松島『経済から社会へ』pp.50-51, p.120の註(28))
1899 ボーア戦争
英の植民地支配に世界から非難
チャーチルの活劇
1899 義和団の乱
宣教師の横暴に嫌気がさしていた清の義和団は「扶清滅洋」を旗印に抗議の声を上げる
全国に飛び火した騒乱を取り込む形で、清は列強に戦いを挑む
英、米、独、仏、伊、墺洪、露、日の8か国連合に押さえ込まれ、清の威信は地に堕ちる