Verenigde Oost-Indische Compagnie
大航海、宗教戦争、権力者は外国人
1600〜1700
<寒い時代(小氷期🧊) 図表についてはこちら>
1600 蘭・リーフデ号、大分臼杵に漂着
500tクラスの船、リーフデ号の元の名はエラスムス号 栃木の龍江院
マゼラン海峡、チリ、ハワイ周りで周航途中に漂流、14人生存
生存者(イングランド人三浦安針、オランダ人ヤン・ヨーステンら)が家康と面会、家康は処刑
すべきというイエズス会の言を聞かず、むしろ優遇(大量の武器積載、ポルトガルの対抗馬として)
「使徒〔パウロ〕は、異教徒と交わることは許したが、破門された者たちとは一緒に食事をする
ことさえも許さなかった」(ホッブズ『市民論』p.400)
1600 慶長5年・関ヶ原の戦い
徳川率いる東軍が西軍を破る
砲手としてオランダ人が参加したとの言い伝え
1600 バークレー『王国と王権』
William Barclay, De Regno et Regali Potestate
バークレーはスコットランド人
モナルコマキを批判 資料
ロックは『統治二論』p.572以降に引用してバークレーを批判
1600 イングランド東インド会社設立
初回航海へ出資したのは215人
15年間の独占貿易特許状をグレゴリウス暦1601年に受ける
24人の取締役会、株主に発言権がある(議決権株式)
ある種の組合・カルテル(高値で買い付け、安値で売るのを避ける)
季節風の影響で時期ものになる
1600 マリア・ド・メディチ、フランスに嫁ぐ
メディチ家の財産をあてにするフランス王室
マリー・ド・メディシスの生涯 資料
(フランス王アンリ2世に嫁いだカトリーヌ・ド・メディシスは遠縁)
1601 イングランド・救貧法
教区単位で失業者を労働力化する
1601 慶長6年・家康、フィリピン海域での安全をスペイン・フィリピン提督に依頼
1602 アンリ・ボゲ『魔女論』
サン・クロード大修道院領の大判事が、現在のフランス東部地域フランシュ・コンテで
魔女狩りをした経験を本にまとめる
1602 仏・貨幣単位の評価替え
アンリ4世の勅令は1577年のアンリ3世の評価替えを無効にする
リラ、ソルド、ダナーロが復活(ガリアーニ『貨幣論』p.115)
1602 蘭・東インド会社設立
アムステルダムを中心に、6地域合同の会社
圧倒的な資金力(当時の金融センターの面目躍如)
蘭の貨幣供給量はイングランドの2倍、フランスの3倍という大まかな推計
17人会(地域代表会)で経営方針を決定、その下に執行役員
株券不発行会社・優先株(帳簿で株主を管理:最先端の決済インフラ)
PBR4(プレミア価格)で取引(会計帳簿を開く年2回のみ→先物取引)
世界史上最大の会社 資料
ザーン地域の製材風車が木造船の素材を提供 資料
ホラント州債の利率は8.33%、買い戻し条件をつけて発行
分厚い中間層も投資(少額ではあったが)
宗教上の理由で浪費できない『富者の困惑』→投資へ
(ジェームズ・ステュアート『経済の原理』下, p.250)
(ウェーバー:供給側、シャーマ:需要側の視点)
後には内国債に税が課されたので外債投資が盛んに
名誉革命後(オレンジ公爵が王位)はイングランドへ投資
貿易の投資リターンはそれを凌ぐ(市場規模は公債の方が大きい)
1602〜1795年までに97万5千人がアジアへ出港、48万5千人が帰国
うち、47万5千人が移民で、帰国を果たしたのは22万人
男女比が歪み、人口抑制、国力停滞
アジアに対する貿易赤字が続き、正貨現送が5億7500万ギルダー に上った
バルト、ロシア、レヴァントへも大量の現送
1603 慶長8年・江戸幕府開府
1603 イングランド・ジェームズ1世即位
エリザベス女王が亡くなり、チューダー朝からスチュアート朝へ
メアリ・スチュアートの子、スコットランド王ジェームズ6世がイングランド王
ジェームズ1世として即位、スコットランドとイングランドは同君連合に
これまでのしきたり(コモン・ロー)が侵され、また国名をブリテンとされるのを嫌がり、
エドワード・コーク率いるイングランド=コモン・ロー派は反発を強める
フランシス・ベーコンは王の側近として国王大権を擁護
ジェームズ1世、この年の議会演説でコモンウェルス(commonwealth)という語を用いる
(ロック『統治二論』p.450, p.537)
ロンドンでペスト大流行
1603 土・アフメト1世が即位
領土北方の海を黒い海、エーゲ海を白い海として「白い海と黒い海との支配者」と
自らを称した(セルデン著, 本田訳『海洋閉鎖論』p.359)
1604 ホセ・デ・アコスタ『新大陸自然文化史』
Acosta, The Naturall and Morall Historie of the Indies(Grimestone訳)資料
ペルーに派遣されたスペイン・イエズス会宣教師アコスタによる
ロック『統治二論』p.412にて言及
1603 ベーコン『学問の進歩』✅
2巻構成、公表は1605年
1604 ジェームズ1世『反タバコ論』
A Counterblaste to Tobacco 資料1 資料2
ジェームズ1世はエリザベス女王の寵臣ウォルター・ローリーがひろめたタバコを断罪
ローリーは前年のメイン陰謀事件で、法務長官エドワード・コークによりロンドン塔
に幽閉されていた(親エリザベス派から親ジェームズ派へ、宮廷人の入れ替え)
1604 イングランド・魔女狩り強化令
フィルマー『フィルマー 著作集』pp.575-576に第12章の記述
魔女(witch)は馬のいななきが語源(サクソン人の古い占い法)
ヘブライ語では手品師の意味(フィルマー『フィルマー 著作集』p.601)
1736年に魔女の刑が死刑から禁固・罰金に軽減、1951年に法令廃止
1604 イングランド ・ぜいたく禁止法の廃止
イングランド・ルネサンス(人間復興)の現状追認
商業・啓蒙(ギリシャ・ローマの再評価)の時代に
1604 慶長9年・朱印船
豊臣時代に始まったとみられる朱印船貿易を制度化
長崎を拠点に、中国とは別のアジア貿易システムを構築
1604 仏・東インド会社設立
1604 仏・ポーレット法
官職の世襲化公認
1605 イングランド ・火薬陰謀事件
カトリックによるジェームズ1世暗殺計画
(ミルトン『イングランド国民のための第一弁護論』p.273)
以後、11月5日はガイ・フォークス・デイとされる
名誉革命時にウィリアムがイングランドへ上陸したのも11月5日
1605 慶長10年・家康、リーフデ号船長に朱印状を与える
日蘭貿易始まる
1606 西・フェリペ3世、外国人の東方貿易を禁ずる書簡を送る
デ・カストロ総督に宛てた手紙(グロティウス『海洋自由論』pp.143-146)で
イタリア人、フランス人、ドイツ人、ネーデルラント人の貿易排除を武力で行う
1606 イングランド・ジェームズ1世、ヴァージニア会社に特許状
アメリカ・ヴァージニア植民地の開発はじまる
1607 ケプラー、後にハレーが名付ける彗星を観測
トーマス・ハリオットも観測(たばこの効能を訴えたウォルター・ローリー卿の知人)
1608 慶長13年・スペイン船、浦賀に入港
スペイン・ポルトガル:中国寄り
オランダ・イギリス:日本寄り
この構図から、浦賀ルートは成就せず
1608 フランチェスコ・マリア・グアッツォ『悪行要論』
魔女の挿絵で知られる
1608 プロテスタント同盟の結成
プファルツ選帝侯フリードリヒ4世が呼びかけ同盟(ウニオン)結成
(シュミット『陸と海』p.197)
1609 カトリック連盟の結成
プロテスタント・ウニオンに対抗
ザクセン選帝侯(ルター派)は反カルヴァン、カトリックとの融和を目指す
ドイツはイエズス会でもカルヴァン派でもないが、三十年戦争で灰燼に帰す
1609 蘭・アムステルダム振替銀行設立
諸侯が発行していた800種類もの鋳貨は、支払いの難を極めた
雑多な鋳貨を預金させ、グルデン・バンコという帳簿上の貨幣(バンク・マネー)に
置き換え、その残高の振替で決済するという想像を絶するイノベーションを実現
陸海を通じた欧州貿易の集中決済所としての役割を担う
1609年当時は600グルデン、1643年以降は300グルデン以上の決済はこの銀行の振替
によることとされた(大口決済の集中)
口座数は1611年に708、1661年に2100以上、1721年に2918であった
1721年の決済額はオランダのGDPに匹敵した
ガリアーニ『貨幣論』p.339
金井雄一『中央銀行はお金を創造できるか』p.83, pp.109-117
1609 ケプラー『新天文学』
1609 グロティウス『海洋自由論 またはオランダ人に資格のあるインド通商に対する
権利についての論究』✅
Hugo Grotiusはラテン語名、オランダ語ではHugo de Groot(第一分冊解説, p.440)
ホラント州の検事総長、ロッテルダム市の主事などを歴任(同, p.444)
1606年に著した大著『捕獲法論』の第3部第12章に序をつけて刊行(同, pp.443-444)
『捕獲法論』全編は、政治的理由で1868年まで刊行されず
アムステルダムの弁護士グロティウスの親戚の船がポルトガル船を略取した裁判で
勝利、キリスト教に反するとして混乱が生じたことを契機に執筆(第13章参照)
スペイン・ポルトガルから、独立を認める代わりに、東インド(インドネシア)貿易
に関わらないことを求められ、それに対して独占貿易を批判、航海の自由を主張
この時代の東方貿易は、40倍から100倍もの利益をもたらす金の成る木(pp.80-82)
p.80に「大多数の人々が日本のことだと信じている「黄金の半島」へと向かう航海」
とローマ時代から日本と交易をしていたとの記述
第6章では、教皇子午線を、ローマ教皇にあるのは信仰に関する権限であり、利得に
関する権限はないとして、無効だと主張(第10章も参照)
第7章では、他ならぬスペイン人法学者バスケス(Fernando Vázquez de Menchaca)
の言によって航路の独占を批判
当時、デンマーク王やポーランド王がバルト海の通行税を増税
自由な海上通行を妨げるものとして、オランダはハンザ同盟と手を組み対抗
(セルデン著, 本田訳『海上閉鎖論』p.362)
1609 インカ・ガルシラーソ・デ・ラ・ベーガ『インカ皇統記』
ロック『統治二論』に数回引用される
1609 アムステルダム振替銀行の創設
アムステルダム市立の公的機関(ベネチアのリアルト銀行をモデルに)
振替、手形割引、国内流通貨幣と貿易貨幣の交換などを業務に
国内外の債権債務を集中決済(決済サービス利用のために商館も集中)
銀行への支払いは鋳貨で、銀行からの受け取りは帳簿の貸方で行わせることにより、
鋳貨が銀行に集中、留まる
これは、国内に鉱山を有さず、西・独から流入した不揃いの鋳貨を支払いに用いる工夫
詳細はジェームズ・スチュアート『経済の原理』下, p.387
同年、VOC株の先物取引が始まる(翌年に禁止令が出されるが…)
アムステルダム市、東インド会社の資金繰り融資もしていた
それが負担になり、1820年に終了
1609 慶長14年・蘭・3隻の船で平戸に到着 資料
1605年に帰国を許された2名が帰蘭、そのうちの1人サントフォールトが通訳として
再来日、オラニエ公の親書と生糸、鉛を家康に献上、平戸に商館設置 資料
生糸350斤:中国貿易の仲介をアピール
鉛3000斤:軍事物資の提供をアピール
(祝田秀全『銀の世界史』p.85)
徳川幕府は政教分離している蘭を選ぶ
迫害された亡命ユグノーたちは、宗教と政治が結びつく怖さを熟知
宗教を権力ではなく、心の問題として捉える
「ベニスの無神論者は、アムステルダムの分離派と手を結び得たのである。これは
民衆国家が自慢し得る自由であり、全ての人間は、どのような宗教を持つことも可能
であり、もしくは持たないことも可能だということだ」『フィルマー 著作集』p.469 資料
救いの確信を得るために働くという予定説は商業と調和
オランダ使節ポイクは幕府の重要人物の1人に後藤(山﨑)庄三郎光次を挙げている
家康の金融・財政・貿易の顧問として
後藤家は元々京の三長者といわれた法華宗の大旦那で、足利義政のもとで彫金をした
ところから身を起こし、江戸期には金座(日本橋本石町)の主として小判を製造した
蘭はポルトガル船を略奪して、日本へ輸入
(佐々木銀弥『日本商人の源流』p.146)
1609 蘭・スペインとの12年休戦条約締結
平和は経済発展とライデン大学における宗教論争をもたらす
(グロティウス『海洋自由論』/セルデン『海洋閉鎖論』第一分冊解説, pp.446-447)
アルミニウス派(予定説に寛容):ホラント州を中心に蘭を運営すべきだとする上流階級
オルデンバルネフェルトとその部下グロティウスは
商業重視で平和派
ホマルス派(予定説に厳格):ホラント州の主導権を嫌う6州、中央集権国家を志向する
マウリッツと亡命ユグノーや庶民層は主戦論に傾く
1609 イエズス会、パラグアイで集落形成
ヴォルテール『カンディード』の脚注50によれば、原始共産的な生活圏
1610 慶長15年・現存する最古の山田羽書
1610 西・ログローニョにて「死の祭典」
異端尋問、魔女狩りに遭った53人を中心に1000人の行列
啓蒙思想家ヴォルテールは「死の祭典」のエピソードを知り、静かな怒りに震える
(森島恒雄『魔女狩り』pp.134-137)
1610 仏・アンリ4世暗殺
「異端者を殺害せよ」という妄念に囚われ、数度ルーブル宮殿に乗り込むも追い返された
狂信的カトリックのフランソワ・ラヴァイヤックが、馬車に乗ったアンリ4世を刺殺
ヴォルテール著, 斉藤訳『寛容論』p.194、『カンディード』p.402、ベンサム著, 中山訳
『道徳および立法の諸原理序説』(p.195)に言及あり
安倍元総理は令和のアンリ4世か
1610 第2次ユーリヒ・クレーフェ継承戦争
現在の独ノルトライン・ヴェストファーレン州(蘭の隣)のあたりに位置していた
宗教に寛容な連合国(中道via media:エラスムスの思想)の王位継承問題
ルター派・ブランデンブルク選帝侯とカトリック・プファルツ・ノイブルク公が
連合国を分け合う(三十年戦争の前哨戦)
1610 イングランド・大契約の試み
スコットランドから来たジェームズ1世は、歓心を買うためにばらまき財政
後見権(土地没収)、徴発権(使役)の強化により、王に対する不信感が高まる
ソールスベリー伯は王に財源を与える代わりに議会の監視を受け入れるよう提案
政敵フランシス・ベーコンはこれに反発、提案は見送りに
1610〜 蘭・大規模干拓
16世紀、アントウェルペンの繁栄(北西ヨーロッパ最大の都市)
1000万ギルダー をつぎ込む
以後、水との戦いが続く(川からの堆積物により運河と港が浅くなる、
干拓により水質汚濁が進み疫病がひろまるなど)
1611 ルイ・ゴーフリディ、宗教裁判にて火刑に処せられる
「悪魔が取り憑いた」ウルスラ会修道女マドレーヌ・ドゥマンドア・ド・ラ・パリュ
の批判を真に受けたフランス・エクスの高等法院が処刑
(サルマン『魔女狩り』p.115)
1611 フェントン博士『利子論』
非合法とされたウスラ usura, usury と損害賠償保証金として容認された interest
フィルマーの『利子論』で論駁される(1620年代執筆と推定、1653年出版)
1612 ピエール・ド・ランクル『堕天使および悪魔の無節操の図』
ボルドー高等法院の評定官は、フランス・バスク地方で魔女狩り
1612 イングランド・ランカシャー・ペンドルにて魔女裁判 資料
史料から確認できる、サバト信仰が問題になったイングランド国内最古の事例
1613 アントニオ・セッラ『鉱山のない諸国に金銀を豊富ならしめる諸原因についての小論』
いわゆる貿易差額論(貿易黒字=国富)
列強の金銀獲得競争をもたらす
1613 慶長18年・イングランドの使節団が来日
三浦安針の噂が東インド会社経由で本国に伝わる 資料
東インド会社艦隊司令官セーリスと家康は、蝦夷地探検の話を咲かせる
家康に認められたセーリスは将軍家忠に拝謁
平戸に商館設置も、海賊行為を咎められ10年後に閉館
1613 慶長18年・禁教令
キリスト教の禁止
1614 アムステルダム市、公的質屋を設立
ロンバルト(Lombard)と呼ばれる少額の担保貸し
ロンバート街の語源?
1614 慶長19年・高山右近、マニラへ追放
キリシタン国外追放令を受けて、長らく庇護を受けていた前田家からフィリピンへ
フィリピンで大歓迎を受けるも、ほどなく死去
有馬晴信の子直純は転封を申し入れ、延岡へ
1614 慶長19年・大阪冬の陣
方広寺鐘銘事件をきっかけに(「国家安康」「君臣豊楽」)
西国のカトリック大名が集う大阪城を攻略するため、蘭が大阪の陣に武器提供とも
蘭と徳川の特別な関係
1615 元和元年・大坂夏の陣
1615 元和元年・支倉常長、スペイン王フェリペ3世に拝謁
1615 ケプラーの母が魔女裁判にかけられる
70歳の老女を49項目の罪に問い、逮捕、投獄
(森島恒雄『魔女狩り』p.180)
1616 元和2年・キリシタン禁令
1618 セルデン 『十分の一税の歴史』
教会が徴収する十分の一税を批判、これを王権神授説批判と受け取った枢密院、高等法院
から批判され、ロンドン塔に投獄
私家版『海洋閉鎖論』がジェームズ1世の目に留まるも、国際情勢を鑑み、出版は1635年
までずれ込む(グロティウス『海洋自由論』/セルデン『海洋閉鎖論』第一分冊解説, p.464)
後に庶民院選出議員となり、ジョン・ピムと知り合う
1618 イングランド・ウォルター・ローリー卿、処刑
1603年のメイン陰謀事件に連座したとして長らく囚われの身であったローリーは
大法官フランシス・ベーコンの判決を受け処刑される
1618 三十年戦争
プラハ城を襲った民衆が王の使者5人を窓から投げ捨てた第2次プラハ窓外放擲事件から
プロテスタントに厳しいカトリック教徒のフェルディナンドがボヘミア王に就くことに
プロテスタントのボヘミア貴族が反発
スペイン・ハプスブルクとオーストリア・ハプスブルクに挟まれたフランスはカトリック
国であるが、戦略上プロテスタント側につく
1618 蘭・マウリッツ、全権を掌握するクーデターを決行
オルデンバルネフェルトは翌年処刑、グロティウスは全財産没収の上、投獄
同年秋にドルトレヒト会議を開催、アルミニウス派は会議に参加できず、退けられる
以後、TULIPの神学(ドルト信仰基準)・カルヴァン派(ホマルス派)が正統とされる
グロティウスはドイツ南部のリーフェステイン(リーベンシュタイン)城に幽閉
(グロティウス『海洋自由論』/セルデン『海洋閉鎖論』第一分冊解説, p.448)
三十年戦争中、オランダは戦争特需に沸く
1618 蘭・アムステルダム新報創刊
1619 蘭・バタビア(現ジャカルタ)に東インド会社の拠点を設ける
日本人が傭兵として雇われる
同年イングランドと蘭が防衛同盟を締結
東アジアの海からスペイン、ポルトガルを排除
1620 白山(ヴァイセンブルク)の戦い
プロテスタントのフリードリッヒ5世をボヘミア王に迎えフス派ボヘミア貴族が反乱
鎮圧後、27名を処刑したため反発が広がり、欧州全土に宗教戦争の火が付く
1620 メイフラワー号、プリマスへ到着
ピルグリム・ファーザーズ
1620 ベーコン『ノヴム・オルガヌム』✅
近代科学のはじまり
ベーコンは1617年に国璽尚書、1618年に大法官にまで登り詰める
1619-1623年、ベーコンの助手としてホッブズが働く(ホッブズ『市民論』p.448)
1620 平山常陳事件
マニラから日本に向かう朱印船がイングランド・蘭によって拿捕される
カトリック宣教師が乗船しているとして
1621 元和7年・徳川幕府、日本近海での海賊行為を禁ずる
イングランド・蘭と西・葡の争いに歯止め
1621 グロティウス、幽閉されていたルーフェステイン城から脱出
アントウェルペンを経てパリへ亡命
(グロティウス『海洋自由論』/セルデン『海洋閉鎖論』第一分冊解説, p.448)
1621 ベーコン、失脚して一時ロンドン塔に幽閉
エドワード・コーク(クック)率いるコモン・ロー派との政争に敗れる
フィルマー『フィルマー 著作集』p.238で言及
1621 トーマス・カルペパ『高利反対論』
A Tract against Vsvrie
利子を10%から8%へ引き下げる提案、トーマス・マンの貿易差額論の補完
1660年代後半にジョサイア・チャイルドとジョン・ロックの論争の際に引用された
(ロック『利子・貨幣論』の訳者解説を参照)
1622 仏・リシュリュー、枢機卿に任命
国内ではユグノーを弾圧、外交ではハプスブルクに対抗
1622 蘭・マカオ攻撃
対日貿易の拠点として奪取を目論むも失敗に終わる
1623 アンボイナ事件
蘭・東インド会社に破れたイングランドは平戸の商館を閉め、東南アジアから撤退
以後インドへ傾注
1623 イングランド・利子上限を10%から8%へ引き下げ
21 James 1, c.17 An act against usury
(ジェームズ・スチュアート『経済の原理』下, p.236)
1624 蘭・台湾にゼーランディア城を築城、貿易の拠点に
翌年には日台貿易に課税、日本の反発招く
1624 寛永元年・江戸幕府、スペインと断交
この頃から板木印刷が盛んになり、古事記、日本書紀、万葉集、伊勢物語、
源氏物語などが庶民にひろまる
(阿部謹也『「世間」とは何か』p.123)
1624 イングランド・専売条例
独占権を乱発して税源にしたジェームズ1世を止めるべく、議会が条例制定
14年間の特許(発明、新規事業のみ)
ダグラス・ノースはこれを産業革命の原因としたが、特許件数は少なかった
(100年で800件?)
1624 イングランド・上限利子を8%に設定
フィルマー『フィルマー 著作集』p.681 資料
1625 グロティウス『戦争と平和の法』 資料
フランス亡命中に執筆・出版も、パリ亡命以降のグロティウスは不遇のまま生涯を閉じる
邦訳への期待(グロティウス『海洋自由論』/セルデン『海洋閉鎖論』第一分冊解説, p.449)
「人は生まれながらにして平等であり、全ては共有されていた」という主張は、非キリスト
教的だとしてフィルマーに批判される(『フィルマー 著作集』p.388)
キリスト教では私有先にありき(神の恩寵)
1625 イングランド・チャールズ1世即位
外交巧者スペインにあしらわれ、仏になびくもユグノー弾圧に利用されるに及び蘭に付く
三十年戦争中に外交の不手際が重なる
ルイ13世の妹ヘンリエッタを妃に迎えるため、セント・ジェームズ宮殿にカトリック式
の教会(クイーンズ・チャペル)を建築、血のメアリを想起した大衆の怒りを買う
(『ビヒモス』pp.102-103, p.223)
王:王権神授説を信奉・国教会アルミニウス派(反カルヴァン・親カトリック)
妃:フランス・カトリック
議会:カルヴァン派
カンタベリー大主教:王権擁護
国全体の利益を考える王はアルミニウス的(みなが救われるが、救われたいかはそれぞれの
意志:自由意志論)、自らの栄達を考えるジェントリや新興商人はカルヴァン的(選ばれた
者が救われる:神の絶対意志論)
ジェームズ1世崩御はバッキンガム公ジョージ・ヴィリアーズによる毒殺とも
この疑いの審議を拒否するため、翌1926年6月に議会を解散
(ミルトン『イングランド国民のための第一弁護論』p.70とp.299の注57、p.179)
1626 寛永3年・オランダ東インド会社クラーメルが後水尾天皇の御幸を目撃
コメリン『東インド会社の起源と発展』1646の付録 資料
1627 ラ・ロシェル包囲戦
ラ・ロシェルはビスケー湾に面した港町でユグノーの拠点
紆余曲折の後、イングランドのチャールズ1世はユグノーに加担し仏に宣戦布告
大船団を率いたバッキンガム公はリシュリュー率いるフランス軍に撃退される
ラ・ロシェルの人口は、この戦いの後5分の1になった
ジャック・カロが描き、デュマ『三銃士』のモチーフとなり、デカルトが訪れた
シュミット『陸と海』p.90でも言及
1628 夏のない年
小氷期のピーク(冷夏で不作)、社会不安から魔女狩り頻発
(黒川正剛『図説 魔女狩り』p.98に南仏における天候不順の年表がある)
1628 寛永5年・タイオワン事件
蘭の平戸商館を一時閉館
マカオを拠点にできなかった蘭は台湾に陣取り関税を課す
これに反発した日本は台湾長官ヌイツ(ノイツ)を捕縛
1632年に貿易再開、1636年にオランダ灯籠寄贈を受けヌイツ開放
灯籠は日光東照宮に現存 資料
モンターヌス『東インド会社遣日使節紀行』
方広寺(国家安康・君臣豊楽の鐘で知られる)の大仏の記述あり
大仏は現存しないが…
1628 仏・貿易会社設立
枢機卿リシュリューによる
1628 イングンランド・権利の請願
王に対するコモン・ローの優越を主張するエドワード・コークが起草
ジョン・セルデンは議員として起草に参加
議会承認のない課税等の禁止、アイルランド軍・ドイツ軍の駐屯禁止
(ミルトン『イングランド国民のための第一弁護論』p.269)
背景にチャールズ1世を補佐したバッキンガム公爵ヴィリアーズの度重なる失敗
部下であったエリオットによる不正の暴露を受け、議会が混乱、チャールズ1世は
バッキンガム公爵を守るために閉会(議会承認を得られなくなり、課税できず)
結局バッキンガム公は滞在先のポーツマスにてフェルトンに暗殺される
(ベンサム著, 中山訳『道徳および立法の諸原理序説』pp.186-187)
1629 イングランド・議会の長期非召集(〜1640)
仏、西と関係改善、大陸の戦争から手を引く
国王大権を濫用して増税を乱発、コモン・ローに対する星室裁判所と高等宗務官
裁判所の優越、これらはピューリタンの弾圧機関と化す
1629 仏・アレー勅令
宰相リシュリューによりナントの勅令が一部無効に
1630 神聖ローマ帝国・魔女狩りによる財産没収を一時禁止
この年と翌年に魔女狩りが大幅減
(森島恒雄『魔女狩り』pp.162-163)
1631 フリードリッヒ・フォン・シュペー『裁判官への警告』
魔女狩り裁判があまりに欺瞞に満ちているとのイエズス会士による匿名告発
16版を数えるベストセラーに、この本の出版を契機に魔女狩りはピークを超える
「迷信、嫉妬、中傷、かげ口、あてこすり、そういう類のものがドイツ人、とくに
カトリック教徒の間で信じられないほど流行」(森島恒雄『魔女狩り』p.200)
この精神はやがてナチズムと共産主義に電気分解され、純化
欧米人が日本の自白中心の司法を猛批判するのは、魔女狩り、拷問による自白が
社会を席巻した苦い経験から
1631〜 蘭・658kmに及ぶ曳舟道付き運河の建設
500万ギルダー以上を投ずる
都市間移動の通行税の問題
1632 ガリレオ・ガリレイ『天文対話』
地動説を唱える本書をカトリック教会は発禁処分とする
1632 瑞・クリスティーナ女王即位
英雄グスタフ2世アドルフが三十年戦争で戦死、わずか6歳で即位、若くして退位、
カトリックに改宗、晩年はローマで過ごしアカデミーを創設
ラテン語をはじめ複数の言語を操る才媛の下にヨーロッパ有数の知識人が集う
グロティウス、デカルト、サルマシウスなど
ミルトンは「南国の女王」シバの女王に匹敵すると絶賛
(ミルトン『イングランド国民のための第二弁護論』p.462の注12と13, pp.385-389, p.431)
ヴォルテールも賞賛
デカルトは早朝5時からのクリスティーナ向け講義がこたえ、落命
1633 イングランド・チャールズ1世、スコットランド王として戴冠式
式典がカトリック調だとして非難を浴びる
同年、チャールズ1世はランカシャーの魔女狩りに参加
身体に針を刺して魔女を判別(魔女のマークを刺しても痛みを感じない)
針刺し師という "職業" があった(森島恒雄『魔女狩り』p.93)
1633 ガリレオ、第2回異端尋問で終身刑に(後に減刑)
1633 ジャック・カロ『戦争の惨禍』
三十年戦争の狂気を銅版画で表現
この戦争中に編み出された残虐行為はドイツの魔女狩りに "応用" される
(森島恒雄『魔女狩り』p.129に残虐な処刑行為に携わる刑吏の料金表がある)
1633 寛永10年・鎖国令
1633 寛永10年・オランダ商館長の日記スタート
1855年まで長きにわたり代々の商館長に受け継がれる
1634 寛永11年・長崎に出島建設
1634 イングランド・船舶税の復活と反発 資料
ハムデンはクロムウェルの従兄弟
1634 ユルバン・グランディエ、火刑に処せられる
集団ヒステリーの如き悪魔憑きを起こしたウルスラ会修道女たちは、グランディエが
この騒ぎを起こした魔法使いだとして告発、悪魔憑きを起こした修道女の中にはリシュ
リュー枢機卿の親族も
当時のフランスはリシュリュー枢機卿による中央集権化の過程にあった
それに異を唱えるルーダンの名士が謀略で亡き者にされたとの評価がひろまる
(サルマン『魔女狩り』p.116, pp.162-167)
1635 セルデン『海洋閉鎖論 または海の支配権について』✅
グロティウスを論駁すべく1618年に完成、周辺に回覧されたものを大幅改訂して出版
2巻組(訳本第1巻のp.234)
「海もまた大英国王陛下にお仕えする」(p.148)
教皇子午線を「私的に占有されるようになっている」(p.164)と好意的に評価
ジェームズ1世統治下の時代に着手も陽の目を見ず、チャールズ1世から下命を得て完成
スペイン人のバスケスとオランダ人のグロティウスによる、海は共有物であるという主張
を批判、旧約聖書にあるノアの方舟から降り立ったノアと3人の息子の私有が所有権の源
→フィルマー『パトリアーカ』へ
聖書の前の寓話時代の話(ユピテル、プルート、ネプチューンが世界を三分)と相似(第8章)
第10章では現在の東エーゲ海を支配した18の民族を逐次的に紹介、海上支配権を正当化
第15章では「前庭」としての領土近海の支配権を確認した東ローマ帝国レオン皇帝(6世?)
の勅諚を引用
ギリシャ、ローマ帝国、ポルトガル・スペイン、フランス、デンマーク・ノルウェー、
スウェーデン、ポーランド、トルコなど、各国の法令を根拠に海上支配権を主張
ホッブズとの交流、ミルトンからの称賛
1635 寛永12年・徳川幕府、海外への渡航と帰国を禁ずる
日本町の衰退、日本がしていた役割を蘭が代行
1635 仏・アカデミー・フランセーズ設立
フランス語の統一(地域間の意思疎通、識字率向上を目指す)
王権強化の方策でもあった(貴族の群雄割拠から王の中央集権へ)
1636 寛永13年・出島完成
ポルトガル人の居住を出島に限る 資料
新旧教徒の争いが貿易を閉ざす
1636 カロン、蘭・東インド会社バタビア支社に報告書
『日本大王国志』のもとになる
1637 デカルト『方法序説』
1637 フェルマーの最終定理
「この余白はそれを書くには狭すぎる」
1637 蘭・チューリップバブル
現物引き渡しを伴わない先物取引が盛んに
Semper Augustusの球根が5500ギルダー
5ヘクタールの土地と引き換え(500×100m、東京ドームの敷地くらい) 資料
オランダの富とマネー供給の増加と(ビットコインのよう)
ペストの流行により、世紀末的パニック状態に
1637 寛永14年・島原の乱
旧有馬晴信領地に起きた(有馬は大村純忠の甥)
有馬直純は乱の討伐に加わる(宮本武蔵も)
蘭は江戸幕府を援助(平戸の貿易が利益の7割を稼ぎ出していた)
ヴォルテール『寛容論』p.50に「日本人は、全人類でもっとも寛容な国民であった。その
帝国では、十二の穏和な宗教が定着していた。そこへイエズス会士が来て十三番目の宗派
を形成した。その結果はみなさんご存知のとおり」と島原の乱に言及
純宗教的なものではなく、キリシタン風土の下に当時の不満分子が集う一揆の様相
(呉座『一揆の原理』pp.44-46)
1637 イングランド・スコットランドへ共通祈祷書(ロードの祈祷書)の強制
国教会(共通祈祷書・自由意志)と長老派(予定説・神の絶対意志)の対立
長老派と社会契約説は相性がよい(契約神学)
明治学院大学、ICUは長老派系
前者は明治初期ヘボンにより、後者は戦後日米肝煎で開学
青山学院大学、関西学院大学はアルミニウス的国教会分派(メソジスト)
前者は米北部系、後者は米南部系(南北戦争を契機に別れた)
メソジスト→メソッド(規律正しい生活)→禁酒禁煙(嫌煙派のジェームズ1世)
同志社大学は会衆派(三位一体、教会の自治重視)
ハーヴァードはユニテリアン(三位一体の否定、合理主義、革新左翼)
→福澤諭吉(慶應)以外の先生を「さん付け」で呼ぶならわし
マタイによる福音書23章8節(ホッブズ『法の原理』p.248)
1638 スコットランド・国民盟約
旧約(神との古い契約:ホッブズ『市民論』第16章を参照)
新約(神との新しい契約:ホッブズ『市民論』第17章を参照)…聖書の区分
ホッブズは、「全能の神と信約を結ぶことはいかなる人間にとっても不可能」だとして
契約神学に基づくこの盟約を批判(『法の原理』p.128、『ビヒモス』、『リヴァイアサン』)
1638 サルマシウス『利子論』
ラテン語で出版、利子を擁護
1639 寛永16年・ポルトガル人追放、出島は無人に
1639 イングランド・東インド会社、マドラスに拠点
インドに注力
1639 イングランド・第1次主教戦争
ジェイムズ・ハミルトン率いるイングランド軍の士気は低く、戦わずして敗北
ベリックの和議を結ぶ
1639 クロード・ド・ソメーズ『自由高利論』
ガリアーニ『貨幣論』p.362で言及
1640 イングランド・11年ぶりの短期議会
久々の議会招集が対スコットランドの主教戦争再戦に向けた戦費調達だとの批判
ジョン・ピムによる苦情のカタログ(『法の原理』p.217)
4月に招集、5月に解散、わずか3週間の議会で戦費は得られずに閉会
1640 イングランド・ロンドン塔閉鎖
チャールズ1世はロンドン塔に預託されていた金(ゴールド)を没収
これに驚いた商人たちは、ゴールドスミスに金を預けるようになる
(辻村・辻村『マクロ経済統計と構造分析』p.65)
(金井雄一『中央銀行はお金を創造できるか』p.121)
1640 ホッブズ『法の原理』✅
献辞の日付は1640年5月9日(短期議会閉会は5月5日)1640年には手書きのコピーが
友人の間で流通(手稿の重要性については『フィルマー 著作集』p.557)
印刷版は1650年頃に出版された海賊版が "初版" とされる(ホッブズ『ホッブズの弁明/
異端』pp.12-13の脚注2)によれば『法の原理』はもともと2冊であったものを、ホッブズ
研究者のテニエスが1冊に合本)
「統治する人の利益のための統治と統治される人々の利益のための統治とがあり、前者
は専制的(つまり主人的(lordly))で、後者が自由人の統治であるという統治の区別は
存在しない」(p.216)とジェームズ1世を擁護(ジャン・ボダン的)
エラスムス、トマス・モアから風刺の精神、囲い込みの社会現実→自然状態と戯画的に表現
メルセンヌ、ガリレオなどから科学の精神→科学的政治分析を模索
コンスタンチヌス帝が開いたニケア公会議をモチーフに?
(『ホッブズの弁明/異端』p.76前後)
王党派の論戦指南書として出回る(特に第2巻)が、王党派からは「王権神授説を否定する
のか」と、議会派からは「金を無心するときにしか議会を開かない王を擁護するのか」と
批判され、身の危険を感じたホッブズはパリへ亡命
(1630-1637年、ホッブズは貴族の講師としてパリへ遊学、その間、1936年にはフィレン
ツェにて幽閉中のガリレオに面会:ガリレオについてはpp.62-63、メルセンヌ数で有名な
メルセンヌ主宰の哲学討論会にも参加)
法曹ギルドの談合の帰結だとしてコモン・ローを批判(国王大権を擁護し、コモン・ロー派
と対立したベーコンの下でホッブズは働いていた)
通常大権(コモン・ローなど)と絶対大権 資料 『哲学者と法学徒との対話』も参照
第1巻第18章をみるかぎり、ホッブズが無神論者(唯物論者)との批判は当たらないのでは
ないか、p.230においてアリウス(アリオス)派を批判してはいるが
1640年代、フィルマーとの討論
ヒューム『人間本性論』に影響を与えた
p.119:「戦争でない期間が平和(PEACE)である」
p.120:「生まれながらにして平等で、相互に抹殺することが可能な人間のあいだの争い」
p.123:「平和が獲得可能なところでは平和のさまざまな道を、平和が獲得不能なところでは
防衛の諸方法をわれわれに宣言する諸格率が自然法(NATURAL LAW)であって、
その他に自然法の格率は存在しない」
p.123:「すべての人はみずからが生まれながらにすべてのものに対して有している権利を
みずから捨て去るべきである」(p.133も参照)
p.161:「相互に対して自然法を守るための保障が人間のあいだに存在するにいたるまでは、
人間は依然として戦争の状態にいるのであり、みずからの安全と便益に資すること
はすべていかなる人にとっても不法ではない」
p.217:臣民の二つの苦情「一つには自由の喪失であり、もう一つは、私のもの(meum)
と君のもの(tuum)とが不確かになることである」
・社会契約を結んだ後、それに束縛される。自由を投げ捨て、安全を確保する
・権力がなければ、所有権の対抗要件の主張が虚しいものになる
貴族政と君主政
pp.220-223:貴族政は集団であるが故に扇情、情念、激情に左右されやすい。また、養う
べき近親縁者が多いために富の収奪もひどくなるので劣っている。加えて法の下の
平等もなくなるし、法の安定性もなくなる、社会も分断されるとの評価
ホッブズは抵抗権を認めない→ピューリタン革命前の人
ジョン・ロックは抵抗権を認める→名誉革命後の人
プロテスタントはアナキズム的(『法の原理』p.316脚注87)
p.226:心の問題は宗教、行為の問題は法律
p.239:救済の問題はキリスト教、服従の問題は自然法
p.242:多数決について
1640 イングランド・第2次主教戦争
7月、ストラトフォード伯を立ててスコットランドに戦いを挑むも、短期議会で轟々たる
非難を浴びたチャールズ1世率いる軍の士気は低く、スコットランド軍のニューカースル
進攻を止められず10月に停戦、リポン条約が結ばれ、5万ポンドの賠償金を課される
イングランドはスコットランド軍の駐留経費を負担することに
1640 ポルトガル、スペインから独立
この年、マカオから来日したポルトガル人を処刑、日葡関係が修復不能に
1640 寛永17年・寛永の大飢饉
北海道函館・駒ヶ岳で山体崩壊の大噴火 資料
冷害による凶作と寛永通宝造りすぎによる物価騰貴、大名の負担増が領民にのしかかる
以後、領民の負担を軽くする改革(百姓撫育)
1641 寛永18年・遠見番所の設置
密入国の監視を強める
1641 寛永18年・蘭・長崎出島に入る
5月11日、オランダ商館長マキシミリアン・ル=メールが将軍家光に拝謁
長崎のみに寄港を許すこと、カトリック教徒についての情報を提供せよとの下命を受ける
(松方『オランダ風説書』p.38)
安政6(1859)年まで唯一の公認貿易港に
1641 寛永18年・オランダ風説書
1857年(安政4年)まで続く、オランダ東インド会社・商館長からの聞書
初回には東アジア貿易のライバルである鄭氏を追い落とすため、中国船にポルトガルの宣教師が
潜んでいると記した。幕府は海外情勢を知り、蘭は莫大な利益をもたらす貿易を独占するという
思惑が一致したため、長く続いた(松方『オランダ風説書』p.11, p.42)
1641 イングランド・長期議会(〜1653)
第2次主教戦争で背負うことになったスコットランド軍の駐留経費調達のために開催
トン税、ポンド税など各種税が撤廃され、星室裁判所と高等宗務官裁判所は廃止
3年議会法(議会閉会後3年以内に新たな議会を開く)制定
議会の大諫奏(国王大権の制限、イングランド国教会の事実上の根絶など)は議会を
王党派と議会派に分裂させ、民兵条例は統帥権問題を引き起こす
1641 愛・カトリック同盟の蜂起
イングランドの混乱に乗じ、アルスター(現在の北アイルランドを含む地域)で蜂起
ローマやスペインからカトリックの聖職者が入り込み、同盟にも混乱が生じる
ミルトンは50万人のイングランド系プロテスタントが殺害されたと書いたが、実際
には数千人?とのこと(ミルトン『イングランド国民のための第一弁護論』p.270)
1642 ヘンリー・パーカー『この度の陛下の御回答と御表明のいくつかへの拝察』
この書のpp.13-15がフィルマー『著作集』pp.301-304に引用されている 資料
1642 ホッブズ『市民論』✅
献辞には「1641年11月1日 パリ」と記されている
『法の原理』の改訂版といったおももち(章立て、内容が重複)
無神論者に対して十分厳しくないとして非難される(pp.285-288)
ホッブズは国教会を正当化する議論を展開しており(pp.317-318, pp.405-407)
無神論は大逆罪だと指摘しているが(pp.324-325)
ローマカトリック、フランスカトリック、スコットランド長老派などを、宗教を介した
内政干渉だとして批判(p.404)
p.16:「当時の人々は単純素朴であり、現在のような頭でっかちな愚昧さを容れる余地は
なかった。こうして平和が、そして黄金時代が存在していた」
p.19:「万人が万人に対して互いに疑惑を抱きあっている」
p.21, p.44, p.45, p.160, p.180:「万人の万人に対する戦争」
p.34:「あらゆる社会は、利便か満悦かいずれかのために、ということは自愛のために
結び付けられて成立しているのであって、仲間への愛によってではない」
p.39:「多数の人々が同時に同じものを欲しがるのに、そういうものは非常に多くの場合、
共同で利用することも分け合うこともできない」
p.43:「万物に対する万人の権利は用をなさない」(所有権が未確定のところでは、自己
保存の本能から、自己保存のために有用な万物を巡る争いが生じる)
p.159:「私的な剣」
p.161:民主制は議会の合間に権力行使の空白期間がある、王制にはそれがないので
王制のほうが優れている(議会と行政が未分化の時代)
p.201:「平等な状態とは戦争状態であり、だからこそ不平等が全員の合意によって導入
された」
p.241:野心による反乱
p.250:人民の安全は最高の法である
p.251:安全とは利益一般
1642 イングランド・チャールズ1世はジョン・ピムら5人の拘束を試みる
民兵条例は国王統帥権の干犯だとして
失敗に終わり、王党派と議会派の亀裂が決定的に
ヒューム『市民の国について』上, p.159は、チャールズ1世は制限王制を絶対王制と
取り違えたために、非常に強い反発を招いたと評価
1642 民兵条例
3月5日に長期議会で成立
1642 イングランド・マリア王妃(カトリック)とオレンジ王女、オランダへ一時退避
議会はチャールズ1世の軍隊、立法権、徴税権をなし崩し的に剥奪
1642 イングランド内戦
3王国戦争とも称される
ヒューム『市民の国について』下, p.185では「大叛乱」
ホッブズ『ビヒモス』p.162によれば10万人の死者
ミルトン『イングランド国民のための第一弁護論』p.150によれば、アルスター地域
だけで20万人の死者(p.310の注14によれば、これは誇張で8千人ほどの死者とのこと)
新天地アメリカへの移住
1643 イングランド・厳粛な同盟と契約
イングランド議会派(カルヴァン派)とスコットランド(長老派)の同盟
王党派に対する劣勢を挽回すべく、議会派はスコットランドに助けを求める
(ミルトン『イングランド国民のための第一弁護論』p.258)
1643 仏・太陽王ルイ14世即位
ルイ13世急逝によりわずか4歳で即位、スペインから来た太后アンヌ・ドートリッシュが
摂政に、イタリアから来た素性不明なマザラン枢機卿は、三十年戦争の戦費確保のため、
高等法院を無視して増税断行、高等法院(お金で貴族位を得ている法服貴族)は反発
1644 寛永21(正保元)年・ブレスケンス号事件
オランダ船が陸奥国南部領山田浦に入港、乗員はオランダ商館に引き渡される
(松方『オランダ風説書』p.59)
1644 明滅亡、清建国
中国陶器の代替としてデルフト陶器隆盛
アジア商品のヨーロッパ流入により、嗜好品に対する需要が高まる
明滅亡により、これを国産化しようとする動きが産業革命に結実
1644 スコットランド軍、イングランドへ侵入
1644 イングランド・マシュー・ホプキンスの魔女狩り
針刺し師が「魔女狩り将軍」を自称、数百人を殺害して巨利を得る
地方を回り「魔女狩り費用」を徴収しつつ、執行
内戦で巡回裁判官が不在の隙をついて魔女狩り乱発(黒川正剛『図説 魔女狩り』p.64)
1645 イングランド・カンタベリー大主教(国教会)ウィリアム・ロード、処刑される
1645 イングランド・後のチャールズ2世、フランスへ亡命
共通祈祷書が廃止される
ホッブズ、一時期チャールズの数学教師になる
ただし、チャールズより先に亡命し、強い主張を持つホッブズは危険視され疎まれる
三十年戦争で疲弊している各国にチャールズ一行を匿う余裕はなく、傭兵として大陸
を流浪(『弁明』p.29)
1646 スコットランド・チャールズ1世と交渉
長老派の教会統治と祈祷規則書の確立を受け入れるという条件で
(ミルトン『イングランド国民のための第一弁護論』p.305の注43)
1646 イングランド・治安判事が消極的拷問を禁止
マシュー・ホプキンスによる魔女狩りの嵐が止む
(森島恒雄『魔女狩り』p.109)
1647 正保4年・ポルトガル、長崎来航
ポルトガルの独立を伝えるためという名目で貿易再開を目論む
ポルトガル来航の情報を事前に幕府に伝えるか難しい判断が求められ、結局通詞は黙殺
後にこれが問題に
(松方『オランダ風説書』pp.53-60)
1647 トマ・ブーレ、火刑に処せられる
上司として仕えた主任司祭マチュラン・ピカールの遺体とともに
(サルマン『魔女狩り』p.120)
1647 西・マザニエッロの乱
スペイン王の果物税に対抗して、ナポリの魚商人であったマザニエッロ(マッサネロ)
が立ち上がりナポリ人民の総司令官に任命されるも、わずか5日後に暗殺される
(ジョン・ロック『統治二論』p.157)
ガリアーニ『貨幣論』p.125は「一六四七年の凶暴な反乱」と記している
1647 イングランド・チャールズ1世、20万ポンドでスコットランド軍から議会へ
(ミルトン『イングランド国民のための第二弁護論』p.416)
クロムウェル、王を確保 「自分のポケットに議会がある」発言
ロンドンへ進軍(ホッブズ『ビヒモス』p.226)
1647 イングランド・チャールズ1世、ワイト島に逃亡
ワイト島総督ハモンド伯を頼るも、カリスブルック城に監禁される
(ミルトン『イングランド国民のための第二弁護論』p.439)
1647 マシュー・ホプキンス『魔女の発見』
魔女狩り批判に対する弁明「魔女を生かしておいてはならぬ」
1648 フィルマー『今上陛下と彼の議会に関する自由土地保有者の大陪審』✅
匿名で出版、1644年の執筆とされる(『フィルマー 著作集』p.714)
「エドワード六世、メアリー女王、エリザベス女王、ジェームズ王、そして今上陛下の
制定法」(『フィルマー 著作集』p.195)から執筆時期が推定可
生まれながらに平等という自然法に反する貴族院の優越は、王の恩寵から生ずるとの立論
(『フィルマー 著作集』pp.186-187)
「法は議会の権威によって作られるということは、王が定め、議会が助言し、庶民院が
同意したことを意味するより以前の法令において詳細に説明される」
(『フィルマー 著作集』pp.188-189)
1648 フィルマー『制限王政、もしくは、混合王政の無政府状態について ✅
ヘンリー・パーカー『直近の国王陛下の回答と表明への所見』、ハントン 『君主政論考』
への反論
「世界全人類の共有された同意がなければ、どのような事物も、いずれかの人の固有の
ものとはなされ得ず、全ての他の者達の共有の権利への侵害と横領となるだろう」(p.261)
と世界市民的な社会契約説を批判
「生まれて一時間の幼児が、この世で最大で、最高に賢い人間に顔をきかせることが
できる」(p.264)と、生まれながらの平等という概念に疑問を呈する
1648 フランソワ・カロン『日本大王国史』
日本に長期滞在していた蘭のカロンが1636年、東インド会社バタフィア副総督の問いに
答えたものを編纂、当時の欧州の日本観に大きな影響を与える
「バタビア」とは、ローマ人がオランダ地域の人を呼んだ名
(岡崎久彦『繁栄と衰退と』p.31)
1648 ウェストファリア条約
三十年戦争終結、カルヴァン派のスイス・オランダの独立承認
ハプスブルク(独・墺・洪・伊・西・葡)の支配に揺ぎ 「神聖ローマ帝国の死亡診断書」
ハンザ同盟は自然消滅へ
新大陸の銀の75%がオランダに蓄積される
(祝田秀全『銀の世界史』p.67)
1648 仏・フロンドの乱(〜1653)
フロンドとは、子供が遊びに使う投石のおもちゃ
高等法院評定官ブルーセルが拘束されるとパリ市民が反発、手製の武器で立ち上がる
三十年戦争の英雄コンデ公は1万5千の兵を率いてパリの混乱を鎮圧
1649年1月にイングランドのチャールズ1世が処刑されるという大事件に接し
お互いに軟化、休戦(リュエイユの和:高等法院のフロンド終焉)
パリ鎮圧で勢いを増したコンデ公はマザランの不興を買い拘束される
これが各地での蜂起を誘発、1651年にコンデ公は釈放、マザランはドイツに亡命
その後反乱側の内部分裂、マザランの帰国など混乱を極めるが、反乱軍とマザラン
ともに力を失い、ルイ14世はパリに帰還、貴族が没落し王権が固まった
コンデ公側にラ・ロシュフコー、王側にイングランドから亡命してきたジェームズが従軍
王、貴族、高等法院、市民という構図はフランス大革命の序章
デュマ『三銃士』はフロンドの乱をモチーフにした小説
1648 イングランド・反長老派を粛清
処刑されたカンタベリー大主教が学長を務めたオックスフォード大学の紊乱を糺す
1648 イングランド・地方からの請願者たちが議会へ侵入
5月16日にエセックス州、サリー州からきた請願者たちが議会の入り口に集まり騒乱状態に
(ミルトン『イングランド国民のための第二弁護論』pp.410-411)
1648 イングランド・プライド大佐の粛清
8月2日、下士官ロバート・ハンティントンが裏切り、上院においてクロムウェルを反逆罪
で告発、これに呼応した民衆が議会を包囲、クロムウェルはロンドンに帰りこの騒ぎを鎮圧
(ミルトン『イングランド国民のための第二弁護論』p.440)
8月17日、王党派のハミルトン公爵ジェイムズ・ハミルトン率いるスコットランド軍が
イングランドへ侵攻するも、プレストンの戦いで敗れる
チャールズ1世処刑への世論が高まり、クロムウェルと議会派の交渉が困難に
(ミルトン『イングランド国民のための第二弁護論』p.409)
12月、チャールズ1世のロンドンへの帰還を決議した王党派(長老派)140名を議会から追放
(ミルトン『イングランド国民のための第一弁護論』p.27とp.293の注14、p.187, p.256)
1649 ピューリタン革命
イングランド・チャールズ1世、処刑
特設法廷のジョン・ブラッドショー裁判長が死刑宣告、1月30日に処刑「過酷な必然」
(ミルトン『イングランド国民のための第二弁護論』pp.412-414)
2月5日、チャールズ(後のチャールズ2世)はスコットランドで即位
ランプ議会(独立派ブライド大佐のパージによって王に近い長老派を一掃した後に残った
非長老派、独立派による「残部」議会)は共和国樹立を宣言「自由な国」
1649 ジョン・ゴードン『王の像』 資料
処刑されたチャールズ1世が語る形式の本書は、チャールズその人が埋葬された2月8日の
翌日2月9日に匿名で刊行され、ベストセラーに
ジョン・ゴードンはチャールズ1世の礼拝堂付き牧師
(ミルトン『イングランド国民のための第一弁護論』解説, p.482)
1649 イングランド・チャールズ(後のチャールズ2世)、即位宣言
オランダ亡命中のチャールズがハーグにて独自に即位宣言、スコットランドとアイルランド
はこれを認める
1649 ミルトン『国王と為政者の在任権』
メアリー・スチュアートがカトリック勢力に加担し処刑された事件を克明に記述
政治体制を選ぶ権力と自由が人民にあるとして、クーデターとチャールズ1世処刑を正当化
クロムウェルに認められ、3月13日に共和国ラテン語担当秘書官に任命
(ミルトン『イングランド国民のための第二弁護論』p.403)
1649 イングランド・クロムウェル、8月15日にアイルランド上陸
チャールズ1世は、デンマーク国王クリスチャン4世に武器・軍馬・兵を頼んでいた
加えて、カトリックのアイルランド人トマス・ディロンにも声をかけていた
(ミルトン『イングランド国民のための第一弁護論』pp.269-270)
1641年カトリック同盟の反乱が誇大に伝わっていたことから暴虐を極める
1649 ミルトン『偶像破壊者』
共和国政府から依頼を受けて『王の像』の反論を10月6日に発表
ラテン語ではなく、英語で執筆
(ミルトン『イングランド国民のための第一弁護論』p.331の注15、解説, p.483)
1649 サルマシウス『チャールズ1世弁護論』
Salmasius:名声のある文法学者、オランダ・ライデン大学教授、プロテスタント
副題は「偉大なる子息、正当なる相続人にして後継者たる、いと気高き大イングランド
国王チャールズ2世のために。国王の費用で」(チャールズ(2世)からの依頼を受けて)
ミルトンは、キリストを裏切ったユダと同じだとして「ヤコブス金貨100枚で買収された」
サルマシウスを非難(ミルトン『イングランド国民のための第一弁護論』p.8, p.147,
pp.224-225, p.247, p.250, p.284、『第二弁護論』p.348, p.384)
蘭在住フランス人のサルマシウスは、王権神授説の立場からチャールズ1世を擁護
(フィルマー『パトリアーカ』は1632年頃に王党派内で回覧されていた)
イングランド王室に対するフランス・カトリックの影響が絶えることを恐れて?
アイルランドはじめ各国に挙兵を促す檄文の面持ち、イングランド国民を攻撃的な
マスティフ犬や盗賊にたとえる
1649年11月に出版も、1650年1月1日、オランダは出版差し止めの勅令を出す
(ミルトン『イングランドの国民のための第一弁護論および第二弁護論』p.290の注19)
ミルトンは、『教皇首位権反駁論』でイエズス会を中心とするカトリックを猛批判しつつ、
本書でチャールズ1世を擁護するサルマシウスの矛盾を、『イングランド国民のための第一
弁護論』で痛烈批判
1649 フォックスによりクエーカー創設
1650〜 蘭・地価下落
多くの農地所有者が手放し、農地が集約化される
1650 蘭・総督ウィリアム2世、24歳で死去
チャールズ1世の娘婿ウィリアム2世はイングランド・スチュアート朝の復活に手を尽くすも
オランダの中心ホラント州の反対に遭い、天然痘のため道半ばで倒れる
(ミルトン『イングランドの国民のための第一弁護論』p.290の注20)
1650 スコットランド・チャールズ、宣誓書に署名
自らの両親(チャールズ1世)に過ちがあったと宣誓させられる
(ミルトン『イングランドの国民のための第一弁護論』p.298の注55)
1650 イングランド・クロムウェル、スコットランドに侵攻
9月3日、ダンバーの戦いでスコットランド軍は敗れる
(ミルトン『イングランドの国民のための第二弁護論』p.427)
1651 慶安4年・家光死去、数え11歳の家綱が第4代将軍に
オランダとの関係修復
1651 チャールズ2世、スコットランド王として即位
イングランド・エクスチェンジにあったチャールズ1世像を破壊
「最後の専制君主は潰えたり」
1651 イングランド・チャールズ亡命
ウスターの戦いでクロムウェルはチャールズを破る
チャールズはフランスに亡命、ドイツ、オランダを流浪
(ミルトン『イングランド国民のための第二弁護論』p.444)
「万人の万人に対する闘争」を解決するための王政を主張
宗教が戦乱を引き起こしていた時代に、宗教に頼らない社会を構想(ポリティーク)
『法の原理』『市民論』では王権を擁護していたが、亡命先で後のチャールズ2世と
折り合いが合わず、イングランドに戻るため議会派におもねる
チャールズ2世による王政復古後は、再び王権を擁護
こうしたカメレオン的生き方は王党派、議会派、キリスト教各宗派の批判にさらされる
プーフェンドルフ、アダム・スミス、JSミルなど後の思想家は、これに懲りて表立った
教会批判を避ける(アダム・スミスは『道徳感情論』の第7部第3篇でホッブズ の説を
是認の原理を利己心に求めていると批判)
リヴァイアサンへの言及は、ジャン・ボダン『魔女の悪魔狂について』p.207にもある
リヴァイアサンは鰐との表現が詩篇にある(cf. ジョンソン元首相がロシアを評して)
国家を身体に見立てるレトリックはリウィウス『ローマ建国史』(2.32)に見られる
(沓掛訳『痴愚神礼讃』pp.254-255注4)
大衆を獣とみなすレトリックは沓掛訳『痴愚神礼讃』p.67、ホラティウス『書簡詩』
(1.1.76行)、プラトン『国家』第6巻(493a-d)にもみられる(沓掛訳,p.256,注11)
1651 ジョン・ミルトン『イングランド国民のための第一弁護論』 ✅ 資料
ロンドン生まれ、ケンブリッジ大学修士号取得
イタリア遊学の途上、スライゴー子爵トマス・スカダモアの紹介によりパリでグロティウス
と出会う(『第二弁護論』p.396)
1650年1月8日に共和国国会議の命を受け、サルマシウスの「誇大妄想的な書物」である
『チャールズ1世弁護論』を論駁すべく執筆、1651年2月24日に出版、ヨーロッパのベスト
セラーに(解説, p.485) 資料
執筆前すでに左眼の光を失い、執筆により右眼の光も失う(『第二弁護論』p.368)
舌鋒のあまりの鋭さに、6月7日にトゥールーズで、6月26日にパリで焚書、販売禁止に
(解説, p.486、『第二弁護論』p.428)
ジョン・ロックの1667年以降の蔵書目録に登場→抵抗権の理念へ発展
「人の矩を超えて高上がりする高慢で不法の国王どもを打ち倒す」(p.4)と、
王を国民と同じ位置に、神を人間を超越したものとし、ピューリタン革命を神の御業とする
p.23:「国民に父親を与えたのは〈自然〉でありますが、国王を与えたのは国民自身」だと
して、国王家父長論(フィルマー)を批判
p.42:共和制を蜂の群れにたとえる「王はいるが害は及ぼさない」(p.146にも)
p.75:税金について
p.76:「われわれの自由はカエサルのものではなく、生まれながらにして神より賜った」
p.79:「キリスト教国の国王は国民に仕えるものである」(ジョン・クック)
p.89, p.107, p.185:抵抗権の原型→ジョン・ロック
p.195:ファスケス(枝を束ねたものに斧を巻きつけた杖「権威の標章」→イタリアファシスト)
p.204:「国王は、国民ひとり、ふたり、三人、十人、百人、千人、一万人をあわせた以上の
権力を保持する」というサルマシウスの言葉を引用(リヴァイアサン)
ホッブズの契約はあくまで国民どうし、ミルトンの契約は国民と王の間
p.235:「下院こそが国王を裁く権限を有し」
p.239:「議会は国家の最高の議決機関であり、完全に自由な国民により創設され、全権を付与
され、国民にとって最重要の問題を共に審議するという目的を持っているのであります。
それにたいして、国王は議会両院の意志と決定に従って、法令を遵守し、施行するため
に創り出されたのであります」
p.277:「聖書に手をかけてなされる、この上なく神聖な誓約」(イングランド王の戴冠式宣誓)
p.278:チャールズ1世はこの誓約から「一般の国民が選択する」法に基づいて統治するという
文言を外した
p.285:暴政と迷信から自由になった人としてイングランド人を描く
p.286:本書という「この記念碑は容易くは朽ち果てぬ」
改訂版を出した1658年にはミルトンはすでに失明しており、また『失楽園』の口述筆記を
はじめていた
1651 イングランド・利子上限を8%から6%へ
Act, 8 August 1651
(ジェームズ・スチュアート『経済の原理』下, p.236)
1651 イングランド・航海条例
イングランド船籍と貿易当事国以外の船の、イングランドとその植民地の入港禁止
貿易から蘭を排除→蘭の造船業衰退
(ジェームズ・スチュアート『経済の原理』pp.311-312)
1652 第1次英蘭戦争(〜1654)
ランプ議会解散、蘭の敗北に終わる
(ミルトン『イングランド国民のための第二弁護論』p.373)
1652 ムラン『王の血の叫び』
9月にハーグで匿名出版、ミルトンはアレグサンダー・モアによるものと考え第二弁護論
を執筆(ミルトン『イングランド国民のための第二弁護論』p.461の注)
モアのギリシャ語モールスは愚か者を意味する→痴愚神礼讃の女神モルス
(ミルトン『イングランド国民のための第二弁護論』p.349とその注21)
1652 フィルマー『ホッブズ氏の「リヴァイアサン」、ミルトン氏の「反サルマシウス」、
H. グロティウスの「戦争の法」における統治の起源に対する考察』✅
アダムとイヴの創世記をベースにホッブズの自然権概念を批判
「人々がいかなる相互関係もなしに全て同時に創造されており、そしてその最初の時点での
人々の交際を想像することなしに、この「自然権」が、どのようにして心にいだかれたのか
理解することができない」(『フィルマー 著作集』p.344)
→ホッブズ『市民論』p.175(キノコのような具合に)
自然状態は戦争ではなく平和、よって自然権と自然法は矛盾しない(pp.346-347)
抵抗権があるホッブズ的世界ではリヴァイアサンと自然状態は紙一重(pp.358-360)
ミルトンに対しては、その著作『イングランド国民のための第一弁護論』を批判 資料
「「極端な法」は、「極端な不正義」である」「最大の暴君は法に従った王」(p.380)
「ギリシア人とローマ人は、多神教、もしくは、支配者としての多数の神を持つことで
有名であった。そして、地上のように、天上においても貴族政や民主政を創造すること
で有名であった」(p.383)
グロティウスに対しては、ほぼホッブズに対するのと同様の批判を展開
グロティウスによる人民の意志、条件付抵抗権(p.408)も批判
「生まれながらの自由と全ての事物の共有という学説に伴う絶望的な不自由」(p.414)
1653 フィルマー『イングランドの陪審員に対する魔女に関しての警告』✅
吹き荒れた魔女狩りの嵐を収めるべく、これまでの論者を批判
少なくとも殺してはならないと 資料
1653 イングランド・長期議会を解散
4月20日にいわゆるランプ議会解散、その後招集したベアボーズ議会も12月12日に解散
12月16日に統治章典を公布、同時にクロムウェルは護国卿になり、独裁色が強まる
(総司令官フェアファックスが引退し、クロムウェルは孤独な独裁者に…)
1653〜1672 蘭・ヤン・デ・ヴィットの治世
国務長官として商業を奨励
ロック『利子・貨幣論』p.104に、ヴィットが国債整理のために、利回りの低い国債への
乗り換えとコール(満期前償還)を実施したことが記されている
1654 ミルトン『イングランド国民のための第二弁護論』✅
『王の血の叫び』への反論として5月30日に発表
ミルトン批判をとおして共和国批判をしたこの書への意趣返し
後に著者がアレグサンダー・モアでないことが発覚、ミルトンは『自己弁護論』を執筆
p.341:「〈自由〉という種籾を全世界に搬出している」capitalの語源?
p.345:「名をなのれ。人間なのか人でなしか。名ももたぬとは、奴隷以下の、人間のうち
でも卑しさきわまる者に相違あるまい」
p.348:「どこかのほったて小屋から「叫び」声をあげようと、見つけだし、その正体を暴いて
やる所存。どこに隠れ家を求めてみたとて、所詮は無駄なあがきというもの」
p.349:「このミルトンは盲目にあらず」
p.352:オレンジ党(オランダの王党派)
p.365:「われをしてそれに耐えさしめよ。不幸のもとは盲目そのものではない! 盲目に耐え
ないことこそ不幸のもとである」と失明はチャールズ1世を侮辱した神罰だという批判
に応える
p.368:人生は選択であることを自らの『第一弁護論』執筆と『イリアス』からの引用で示す
p.375:論敵をカエルにたとえる(アリストパネス『カエル』)p.384にはイソップ物語
p.401:セルデンに言及
p.415:十分の一税に言及、p.425では十分の一税を課そうとした長老派を批判
p.433:常識の命ずるところ(暴君を討伐すること)→フィルマーによる批判
p.435:π は呪われたギリシャ文字か(イスカリオテのユダ)
p.441:クロムウェルの生い立ち
p.446:護国卿(国父)となったクロムウェルに「雅量」を求める
p.454:奢侈を批判、勤勉を評価→ジェームズ・スチュアートは両方を評価
最後の10ページほど(p.450以降)は読み応え十分、かつクロムウェルの行く末を暗示
1654 イングランド・ポルトガル条約
イングランド商人のポルトガル国内での活動を保証
イングランドはポルトガルの頭越しにポルトガル植民地であるブラジルとの交易を始める
イングランドはマカオとの通商権も得る 資料
1655 イングランド・ジャマイカ獲得
クロムウェルによる
(シュミット『陸と海』p.126)
1655 北方戦争(〜1660)
コサックの反乱が生じたポーランド・リトアニア共和国の混乱に乗じてスウェーデン帝国が
戦争、これに対抗していたデンマーク・ノルウェーはポーランド・リトアニア側につく
イングランドは同盟国スウェーデン側につき、蘭はそれに対抗してポーランド・リトアニア
側についた
1655 ピエモンテのワルド派、迫害されドイツへ
1685年にも同様の事件(ミルトン『イングランド国民のための第二弁護論』p.476の注215)
1656 イングランド・キリストを名乗る者現る
(『ビヒモス』p.304)
1657 明暦3年・明暦の大火
江戸城(天守閣、大名屋敷など)ほぼすべてが灰燼に帰す
1657 イングランド・謙虚な請願と助言
クロムウェル、実権を握る
1657 イングランド・クロムウェル、東インド会社に特許状を出す
1658 イングランド・クロムウェル死去
ベンサム『道徳および立法の諸原理序説』上, p.144に、クロムウェルは冷酷にみえて
涙もろい人物であったとある(ベンサムはヒューム『イングランド史』を参照)
1658 蘭・セイロン島を葡から獲得
1659 ピレネー条約
ヴェストファーレン条約後も対立が続いていた仏西の戦争終結
イングランドのクロムウェルと同盟を組んだ仏の勝利に終わる
1660 イングランド・ブレダ宣言
王政復古、チャールズ2世即位
1660 イングランド・王立学会(ロイヤル・ソサエティ)設立
初代総裁ウィリアム・ブランカーはジョン・ウォリスが発見したπ/2に収束する式
を元に、4/π を連分数表記した
(松浦訳『不思議な数 π の伝記』p.63)
グレシャムの法則で有名なグレシャム邸に科学者が出入り
「悪貨は良貨を駆逐する」についてはジェームズ・スチュアートが『経済の原理』
下, p.110などで詳説
グレシャム・カレッジ→グレシャムの死後、会に発展
ボイル、フック、ニュートン、ウィリアム・ペティなどが集う
ホッブズは実験の評価を巡りボイルと対立、創立メンバーから外れる
(『弁明』p.46脚注16))
ボイル「見えざる大学 "Invisible College"」が、1662年に王の勅許状を得る
初期はベーコンの思想が実現した楽しい実験会であったが、後日ニュートン
が会長になると権威主義的に
1660年代 アルマナック、チャップブックの発行
アルマナック:年間手帳のようなもの
チャップブック:物語の小冊子
1660年代に累計40万部との記述(村岡・川北編著,p.112)
一定の識字率
1661 鈴木正三『萬民徳用』
出家した旗本は、臨済宗の立場から勤勉を説く
日本版の「プロテスタンティズムの倫理」という評価(これに対する反論も)
参考:https://www.jstage.jst.go.jp/article/rsjars/90/2/90_209/_article/-char/ja/
ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』にも懐疑論あり
参考:https://nagoya.repo.nii.ac.jp/records/11490
1661 寛文元年・越前福井藩が藩札を発行
1661 仏・マザラン死去、ルイ14世の親政はじまる
1661 イングランド・チャールズ2世、東インド会社に特許状を出す
1662 蘭・台湾から退去
鄭成功とその一族が勢力を伸ばす
鄭の勢力と蘭の争いが絶えず、日本は蘭を抑え、中国は遷界令を出し内陸部へ強制移住させた
(松方『オランダ風説書』pp.62-63)
1662 蘭・フェルメール、聖ルカ組合(芸術家ギルド)の理事に
VOC拠点の1つ、デルフトにて
1663 蘭・ペスト流行
1663 イングランド・金貨の流通始まる
ギニー貨(guinea)が流通し始めると銀貨は鋳潰され、国外へ流出
金銀比価の問題か、盛んになった東インド会社の貿易赤字による代金支払いか
銀貨の縁の削り取りが横行するようになり、王立造幣局は縁に模様を入れた縁刻
貨幣を鋳造するようにしたが、重量がある縁刻印貨幣は良貨として溶解され輸出
され、悪貨である削り取り貨幣が流通しつづけた
(ジョン・ロック『利子・貨幣論』訳者解説, pp.369-370)
1663 イングランド・カロライナ植民地
チャールズ2世は、王政復古に功のあった8名に褒美として植民地を与える
カロライナはチャールズ1世のラテン語読み、タバコの産地となる
そのうちの1人シャフツベリ伯は膨大な利権を所有することになり、その庇護を
受けたジョン・ロックはカロライナ憲法の草案作成に関わる
1664 フランソワ・ド・ラ・ロシュフコー『箴言(しんげん)集』✅
フランス貴族であるロシュフコーはフロンドの乱に加わり勇敢に闘う
戦後はサロンに出入りしエスプリを競い合う、本書はその中から出たもの
海賊版が出回りはじめたため、慌てて刊行
ジャンセニストと近い関係
末裔のルイ=アレクサンドル・ド・ラ・ロシュフコーはチュルゴーやアダム・スミスと
交友を結ぶ
1664 トマス・マン『外国貿易によるイングランドの財宝』
執筆は1630年代、トマス・マンは1641年に亡くなる
出版は子息のジョン・マンによる
重商主義の先駆的著作の1つ
貿易、中でも加工貿易、中継貿易を重視した貿易差額論を展開
イングランドには金鉱山がないので、ゴールドを獲得するためには貿易黒字が必要
ただし、金銀財宝を貯め込むのではなく、それを未来に投資をすることで、一層
貿易を拡大することを奨励(再投資による複利運用、種まきをする農夫は富を投げ捨て
ているように見えるが、秋に豊な収穫を得る。再投資も同じ原理である。)
また、ゴールドを貿易の支払いのみに用い、国内では手形(紙幣の原型)を流通させて
いるイタリアに言及
販路を妨げるライバルとして蘭を敵視
Dutch proverb, Live and let others liveというオランダの諺と逆をしていないか、と
一般的に言われている重商主義=金銀財宝の貯め込み、とは異なる論を展開
ケインズ『一般理論』で言及される
https://quod.lib.umich.edu/e/eebo/A51598.0001.001?view=toc
1664 仏・コルベール、財務総監に登用
西インド会社、東インド会社設立(ジェームズ・スチュアート『経済の原理』下, p.346)
西方会社は10年後に解散、民間貿易を喚起(第2期西方会社は1717年、ローによる)
小麦の価格低下を誘導し、賃金を抑えることで輸出増を目論む重商主義政策
国家主導の産業育成
1664 イングランド・蘭からニューアムステルダムを奪取
第2次英蘭戦争の後、チャールズ2世の弟ヨーク公にちなみニューヨークと改名
1665 第2次英蘭戦争、ペスト流行
1665 ジョサイア・チャイルド『交易と貨幣利子とに関する簡単な考察』
Brief Observations concerning Trade and Interest of Money
https://avalon.law.yale.edu/17th_century/trade.asp
数年の手稿回覧を経て、1621年に刊行されたカルペパの『高利反対論』を付して
1668年に印刷
6%の利子を4%に引き下げる提案
低金利政策の原型(チャイルドは引下・原因論、ロックは放任・結果論)
ロック『利子・貨幣論』の訳者解説を参照
1666 イングランド・ロンドンの大火
ロンドンのペスト流行終結(7万人の死者と伝えられる)
これを機に石造りの街並みに(フックの活躍)
疎開したニュートンが思索を深める(万有引力、微分積分)
ジョン・ロックはシャフツベリ伯アシュリー・クーパーの知己を得て、
私設秘書兼主治医となる
この大火はカトリックの陰謀だとする文が大火塔に刻まれる 資料
(ヴォルテール『寛容論』p.236の注では、チャールズ2世の仕業と)
第2次英蘭戦争後はCABAL(陰謀の5人:クリフォード男爵、アーリントン伯、
バッキンガム公、シャフツベリ伯アシュリー・クーパー、ローダーデイル公)が権力を握る
親仏、カトリック化へ舵を切る
1666 イングランド・貨幣の自由鋳造法
チャールズ2世法律第18号
手数料なしで造幣局に貨幣の鋳造を依頼できるように
ロック『利子・貨幣論』p.208の注146
1667 蘭・テムズ川に艦隊を進撃
1667 ジョン・ミルトン『楽園の喪失』
グロティウスが18歳で著した「楽園を追われたアダム」という悲劇詩から影響を受ける
(グロティウス『海洋自由論』/セルデン『海洋閉鎖論』第一分冊解説, p.442)
1668 ロック『利子の4%への引き下げに伴っておこりやすい若干の結果』
Some of the Consequences that are like to follow upon Lessening of Interest to 4 percent
三上隆三, ジョン・ロックの初期利子論について, 経済理論, 78, 和歌山大学 に訳文あり
何度も修正され、後の『利子・貨幣論』へ
英蘭戦争、ペストパンデミック、ロンドン大火の復興など、財政を圧迫する出来事が
重なっていた
ロックは医師としてシャフツベリ伯アシュリー・クーパーの知己を得て、1667年から
秘書として住み込みで働く
参考:https://barrel.repo.nii.ac.jp/records/2791
1668 蘭・イングランド・スウェーデンの三国同盟
仏の圧力を一時かわす
後にイングランドとスウェーデンが切り崩され、戦争に
1668 寛文8年・徳川幕府、銀の輸出禁止 資料
日蘭の貿易決済は銅貨で行われるようになり、オランダはアジアの国際通貨である
銀不足に悩まされる(祝田秀全『銀の世界史』p.88)
1669 仏・河川、森林に関する王令
森林から農民が追い出される(ルフェーヴル『1789年』p.236)
1669 仏・ルーアンの魔女事件
9人が525人を密告(森島恒雄『魔女狩り』p.121)
太陽王ルイ14世が宰相コルベールの助言を得て減刑指示を出すも、ノルマンディー高等法院は
真っ向からこれに抗する
1669 モンターヌス『東インド会社遣日使節紀行』
日本に滞在経験のない人が資料を編纂した 資料
1670 パスカル『パンセ』
ジャンセニストとの関わり
ディケンズ『二都物語』にジャンセニストの記述
1670 ドーヴァーの密約
イングランドのカトリック化を仏が援助する代わりに蘭と戦うという
ルイ14世とチャールズ2世の密約
ジェームズ公はカトリックを公言、物議を醸す
1671 ジャック・ドートン『魔術師と魔法使いについての学者の不信と無知の者の軽信』
カプチン修道会の神父による魔女の迷信批判
1672 イングランド・王立アフリカ会社設立
アフリカ西海岸の貿易と土地を独占
1672 イングランド・チャールズ2世、国庫支払い停止
1677年に公式には再開も、実際にはこの間も支払いはなされていたようである
(ジョン・ロック『利子・貨幣論』p.190の注8)
1674年12月には、1672年から1674年12月の利子分だけ払うこととした
支払い先の大半は金匠ゴールドスミスであった
(金井雄一『中央銀行はお金を創造できるか』p.123)
1672 第3次英蘭戦争、仏蘭戦争
チャールズ2世は信仰自由宣言を発し、非国教会信者にも戦争協力を求める
シャフツベリ伯は「カルタゴは滅ぼさねばならぬ」 と蘭を非難
サンドウィッチ伯爵エドワード・モンテギュー戦死
(軽食サンドウィッチの語源となったのは4代目)
海からイングランド、陸から仏が進攻するも、蘭は生き延び仏に対抗
岡崎久彦『反映と衰退と』p.21に言及あり
ガリアーニ『貨幣論』p.161の注5も参照
1672 ウィリアム・テンプル卿『ネーデルラント諸州考察』 資料 資料
Observations upon the United Provinces of the Netherlands
1667-1671年に駐蘭イングランド大使を務めた経験を考察に活かす
岡崎久彦『繁栄と衰退と』p.34に言及あり
1673 仏・商事王令
近代商法の原型をサヴァリが編纂(サヴァリ法典)→簿記の制度化
1673 プーフェンドルフ『自然法にもとづく人間と市民の義務』✅
前年に発表された大著『自然法と万民法』の一般向けダイジェスト版
『自然法と万民法』のもとになる the Elementa jurisprudentiae universalis
は1660年、北方戦争中に獄中で著されたとの言い伝え
自然法という概念はモア『ユートピア』等にもみられる
北方戦争後、1670年にスウェーデンのルンド大学へ赴任後に発表
ホッブスの考えを踏襲・発展(無神論と受け取られないように)
章立てはホッブズ『法の原理』に類似
「人類が衝突し合うたいていの戦争は、野獣が知らない原因から生じる」(p.53)
人間には社会性と悪意の二面がある。よい面が現れるような社会にすべき(ジャン・ボダン的)
「人間社会にふさわしい成員となるために、人がどのように振る舞うべきかを教えるものが、
自然法 leges naturales と呼ばれるのである」(pp.54-55)
自然法は「神が公布した法として遵守するよう神が人類に命じたもうた」(p.55)
この著作は欧州の多くの大学でテキストとして使われた。グラスゴー大学でも使われ、
スコットランド啓蒙に影響を与える(神は自然法と価格を与えたもうた)
ヴァストファーレン条約を機に融解しつつあった神聖ローマ帝国の一体性をドイツ連邦
へ移行することで維持したいとの構想 資料
ライプニッツはプーフェンドルフの名声を妬み誹謗中傷
1673 イングランド・改正審査法
批判が噴出した信仰自由宣言を廃し、官僚になる者に国教会形式の宣誓を義務づける
チャールズ2世の弟ジェームズ公がカトリックであることを察知して、即位を阻む法律
ジェームズ公は海軍総司令官を辞任
長老派プロテスタントのシャフツベリ伯はモンマス公を王位継承者にしようと動くも
ジェームズに阻まれ、権力の座から転落、 CABALも空中分解
1673 延宝元年・リターン号事件
日本、イングランドとの貿易再開を拒絶、蘭による貿易独占
国内が混乱状態のイングランドは日本まで手が回らない
幕府は英蘭戦争の情報を事前に掴んでいた
1674 蘭・ザーン地域でホランダー開発
1674 仏・コルベール、タイユ(税)の引き上げ
国産品の購入を奨励し、輸入品の参入を阻むために税を課した
ガリアーニ『貨幣論』p.227の注17
同年、4ソル貨が発行された
ロック『利子・貨幣論』p.135
1675 バークレー『クエーカー弁護論』
アダム・スミスは『道徳感情論』第3部の終わりでクエーカー教徒に言及
1677 スピノザ『エチカ』
1677 イングランド王女メアリ、オランダ総督ウィリアムと結婚
1678 イングランド・カトリック陰謀事件
チャールズ2世には正室の世継ぎがおらず、弟ジェームズ公に注目が集まる
しかし、 ジェームズがカトリックであることは公然の秘密
これをテコに「すべての悪事はイエズス会の陰謀だ」との怪文書が出回る
治安判事が暗殺されるなど、不穏な空気が漂う
背後に反カトリック・反ジェームズの急先鋒シャフツベリ伯の影
1679 フィルマー 『著作集』✅
王党派の主張を権威づけるために、上掲のフィルマーの諸著作をまとめて出版
フィルマーは1653年没
1679 イングランド・王位継承権剥奪問題
シャフツベリ伯を中心に、カトリック信者を王位継承から排除する法案提出
庶民院通過後、チャールズ2世は議会を解散
地方派・親スコットランドのシャフツベリ伯と宮廷派・親オランダのダンビー伯
地方派(ローチャーチ・請願派・オランダ、庶民院で多数)→ホイッグ(謀反人)→自由党
宮廷派(ハイチャーチ・嫌悪派・フランス、貴族院で多数)→トーリー(ならず者)→保守党
ロック『統治二論』p.238にトーリーの記述あり
ヒューム『市民の国について』下, p.189では、ホイッグの源流を髪野郎(Round-Head)、
トーリーの源流をから威張り野郎(Cavalier)と表現、明治維新期の「散切り頭」の源流?
陰謀論が席巻した総選挙でホイッグが圧勝、ダンビー伯はロンドン塔に幽閉
チャールズ2世はジェームズ公を亡命させる(ブリュッセル、次いでスコットランドへ)
チャールズ2世はシャフツベリ伯を懐柔しようと試みるも失敗
1680 ウィリアム・ペン、ペンシルバニア建設
チャールズ2世は、ペンの父から多額の借金をしていた
借金返済の代わりに現在のペンシルバニア一帯の土地を与える
チャールズ2世自らペン・シルバニア(ペンに与えた森の国)と命名
社会を混乱させていたクエーカーはじめ少数派をペンシルバニアに「厄介払い」
ペンはイングランドをはじめ、当時のヨーロッパの政治的・宗教的少数派を移住させた
(クエーカー:ヴォルテール『寛容論』p.52、ヴェーバー『世界宗教と経済倫理』p.177)
アーミッシュ(ツィングリ派・ドイツ系)もペンシルバニア在住
ペンシルバニアの州都フィラデルフィアは兄弟と愛というギリシャ語が語源
1680 ウィリアム・テンプル卿 "An essay upon the original and nature of government" 資料 資料
外交官として名を馳せたテンプル卿による社会契約説
晩年居を構えたムア・パークに若きジョナサン・スウィフトが寄宿
社会契約の概念は16世紀には存在していた(『パトリアーカ』第1章)
源流はローマ法にある(『パトリアーカ』p.112)
1680 フィルマー『パトリアーカ』✅ patriarch:家父長
執筆は1630-1640頃とされる(『フィルマー 著作集』p.707)
フィルマー自身は1653年没、王党派が王権神授説を正当化すべく出版
「ロックに完膚なきまでに論破された人」というイメージとは異なる大学者
ジェームズ6世『君主国の真の法』の解説本のおももち
p.6:社会契約説の源流は、中世カトリック系の大学にみられる
この説を王権打倒に利用しようとするイエズス会とカルヴァン派を批判
p.9:「人類の生まれながらの自由というこの第一条がもたらす反逆的な帰結」
p.46:民主政の「ローマは自らの力によって崩壊した」
p.56:「民衆的専制政治に匹敵する専制政治はないのである」→フランス革命を予感
p.58:民主政は「病気よりもはるかに悪い治療法」
p.56:三身分制、pp.124-127にフランスの庶民、聖職者、貴族の三身分による議会の説明
(庶民は庶民院、聖職者と貴族は貴族院)→シィエス『第三身分とは何か』
三身分制の難しさはハントンも指摘(p.290)
p.60: エドワード2世とリチャード2世の故事を繰り返してはならないと王政を擁護
1680 ホッブズ『弁明』✅
オックスフォードとケンブリッジで数学教師を務めたジョン・ウォリスの批判
にこたえる小論
ジョン・ウォリスは1655年に著した『無限算術』にて無限大の記号(∞)を考案した
暗算の天才
π/2に収束する式も発見(松浦俊輔訳『不思議な数 π の伝記』pp.22-23)
"square a circle" が政治論争に飛び火した形
この問題は、古代のピタゴラス学派を破滅させた議論
ホッブズはある種ピタゴラス・プラトン流のギリシャ哲学の再興者?
「割り切れない社会を割り切る権力」
p.41にガリレオについての記述
1680 ティレル『家父長制は君主政にあらず』
James Tyrrell, Patriarcha non Monarcha
スコットランド人ティレルはロックの友人
ロック『統治二論』p.220、ロック『キリスト教の合理性』訳者解説p.369
1681 ホッブズ『ビヒモス』✅
チャールズ2世により出版を止められたため死後公刊
大学とアリストテレスによる長老派の正当化を批判(ペイン『コモン・センス』)
混合君主制を批判(絶対君主制の正当化)
イングランド内戦の叙事詩は、紐帯を失った国家の悲劇を活写
1681 仏・徴税請負人制度
煩雑な税制をコルベールが簡素化、徴税の実を高める
1681 蘭・貨幣鋳造を統一
1682 ハレー彗星到来
ハレー(Edmund Halley)はニュートンの友人
ジェームズ・スチュアート『経済の原理』第1編第13章p.69で言及
1682 仏・ヴェルサイユ宮殿完成
1682 イングランド・シャフツベリ伯の陰謀露見
プロテスタントのモンマス公を王位継承者にしようと動くも失敗
モンマス公は蘭に亡命、シャフツベリ伯は反逆罪に問われ、ロンドン塔に幽閉
1683 関孝和『解伏題三法』
行列式の原型を描く(砂田利一『行列と行列式1』岩波書店p.93)
1683 第2次ウィーン包囲
オスマントルコが敗北、ポーランド軍の活躍
1683 イングランド・ライハウス陰謀事件
チャールズ2世とヨーク公の暗殺計画が露呈、ホイッグ過激派の首謀者たちは処刑される
1683 ロック、蘭へ亡命
後ろ盾であったシャフツベリ伯は、亡命するアムステルダムへ向かうも命潰える
1684 イェール、イングランド東インド会社の総督に
マドラスのセント・ジョージ要塞の主に
イェール大学の元となる機関に多額の寄付
https://www.bbc.com/news/world-asia-india-68444807
1685 仏・フォンテーヌブローの勅令
ナントの勅令廃止、太陽王ルイ14世の強大化
カルヴァン派(ユグノー)はイングランド、オランダなどへ
ヴォルテール著, 斉藤訳『寛容論』p.206は、ユグノー主導のフランス産業界がこぞって
オランダへ移住し、国内産業がダメージを受けたというダヴォー伯の手紙を紹介 資料
ロック『寛容についての手紙』執筆の契機に(解説, p.154)
ロックの著作を読んでいたガリアーニの著作でも言及された(『貨幣論』p.310とp.311の注4)
1685 イングランド・スコットランド・アイルランド、ジェームズ2世即位
チャールズ2世は死の直前にカトリックの信仰を告白
審査法を有名無実化し、ローマ教皇大使、イエズス会士を宮廷に
国教会のハイド兄弟を公職追放、オックスフォード大学からも国教会信者を追放するなどして
強い反発を受ける
1685 イングランド・モンマス公の反乱
モンマス公が王位継承を主張して蘭から侵入
プロテスタントのモンマス公をホイッグは支持、トーリーは不支持
ジョン・チャーチル(ウィストン・チャーチル、プリンセスダイアナの祖先)が撃退
鎮圧後、大法官ジェフリーズによる「血の裁判」の苛烈さをみて、民衆はジェームズ2世に
反感強める(ロック『統治二論』p.228)
王位継承の複雑な状況については、ロック『統治二論』pp.219-220を参照
1687 ニュートン『プリンピキア』
1687 イングランド・信仰自由宣言
ウィリアム・ペンはこれを擁護
カトリックを国教化するという宣言に7主教は反発
1688 名誉革命
7主教が宗教政策の再考を促す請願を提出
カトリックのジェームズ2世に世継ぎ誕生(後のジェームズ老僭王)、
強大な仏の圧力に英蘭同盟で対抗すべく、ホイッグとトーリーの両党が協力して
プロテスタントの守護神ウィリアム (ジェームズ2世の甥)を蘭から招聘
ジェームズ2世は仏へ亡命、ジェフリーズは処刑される
ヒューム『市民の国について』下巻所収の「グレート・ブリテンの党派」についてp.198
では、スコットランドの党派は長老派のウィッグ派と監督派のジャコバイトに綺麗に別れて
いたと記されている
1689 イングランド・オレンジ公爵、ウィリアム3世として即位
ウィリアム3世はジェームズ1世の娘の子
『権利の章典』により、立憲君主制が確立
同年、寛容法が成立、カトリックとユニテリアンを除く宗派を認める
ハイチャーチは反発して職を辞す、その後ローチャーチ系が聖職を占める
ハイチャーチ:宗教的不寛容、王党派、トーリー、ジャコバン、オックスフォード
ローチャーチ:宗教的寛容、議会派、ホイッグ、ウィリアム、ケンブリッジ
ヒューム『市民の国について』下巻所収の「グレート・ブリテンの党派について」p.191では
スチュアート家の継承を願うトーリーはウィリアム3世の王権を制限しようとし、自由を
願うホイッグは寛容法を成立させた自由の守護神としてウィリアム3世の王権を擁護した
1689 アウグスブルク同盟戦争
プファルツ継承戦争、大同盟戦争、九年戦争とも
オーストリアが対トルコに注力している隙をフランスがつく
1689 ウィリアム王戦争
フランス対欧州主要国という構図
新大陸でイングランド植民地に迫害されていたネイティブアメリカンがフランスと手を組む
イングランドは戦費を借入で調達、金利が高騰したことを受けて、ジョサイア・チャイルド、
ジョン・ロックらが金利について論争
1689 コトン・メーザー『妖術と悪魔つきに関する注目すべき神慮』
アメリカから初選出のロンドン王立学会会員
(森島恒雄『魔女狩り』p.185)
1689 ヴェガ『混乱の混乱』
蘭の取引所において、デリバティブを駆使した投機手法を解説
→取引規制から徴税への方向転換を導く
1689 ロック『人間知性論』
人間の理性で道徳を正当化しようと試みるも、友人からは不評
1689 ロック『寛容についての手紙』✅
名誉革命後、イングランドに戻ったロック
ラテン語版の書名の下に「T.A.R.P.T.O.L.A. P.A.P.O.I.L.A.」という暗号が記されている
友人のクレールが「アムステルダム在住のレモンストラント派神学者P. リンボルク宛」
という意味であると、ロックの死後1705年に解読(解説, p.152)
亡命中のロックを匿ったリンボルクの要請に応え、オランダ人が読めるラテン語で執筆
発表は『手紙』が先で『二論』が後だが、執筆は『二論』が先で『手紙』が後(1685年)
とのこと(p.138の脚注147、脚注186、解説, p.154を参照)
ロックは一連の著作を匿名で出版、遺言で著者であることを明かす(解説, pp.154-155)
寛容とは「プロテスタント内他宗派の人を殺さない、排除しない」こと
「カエサルのものはカエサルへ」という政教分離論を展開
1690 ロック『統治二論』✅
ロック『利子・貨幣論』の訳者解説には、1689年10月公刊とある
時間がない人は後篇第11章から第13章を読む(議院内閣制はpp.475-476)
訳者解説によれば、二論目一論目の順に、1670年代終わりから1683年の亡命前までに執筆
出版直前に一部加筆され、二論の間に収まるべき論考は亡命中に紛失? 資料
「ここに残されたものよりも分量の多かったものが、どのような運命によって異なった道を
辿るようになったかは、とりたてて述べるに値するほどのことではない」と
(緒言のはじめ:『統治二論』緒言の訳注、『フィルマー著作集』解説を参照)
1690年、1694年、1698年に匿名で出版、ロックの名がはじめて記されたのは、1713年に
John Churchill社から出版された第4版
ロックは、カロライナ植民地の領主であるシャフツベリ伯のために、カロライナ憲法を
起草したとされる(『統治二論』p.250:ジョン・ロック基金 資料 資料、ヴォルテール
『寛容論』p.51に言及あり)
王権神授説を唱えるフィルマー『パトリアーカ』を「すべての統治は絶対王政であること」
そして「いかなる人間も自由には生まれついていないこと」(p.29)を前提とした暴論だと
して11章にわたり徹底批判「私は、〔神による〕アダムの創造を信じているにもかかわらず、
人類の自由を想定することに何の困難をも感じない」(p.51)として契約説を主張、また
父権的絶対主義は女王を戴くイングランドに相応しくない(p.101)、父権が主権の源なら
父の数だけ主権があることになる(第6章)と批判
加えて、王権が長子相続されることも批判し、ウィリアム3世の即位を正当化(第9章)
参照すべき聖書の箇所はアダムの創造ではなく、自由民が協力して都市を作ったバベルの話
(創世記第11章)だと主張(pp.251-253)
王党派がフィルマー を持ち出したことに対する批判はp.399を参照
チャールズ2世と王党派、そしてその選挙基盤であった腐敗選挙区を批判(p.483)
江戸時代の論を明治時代の知識人が批判する風情(生きた時代の違い)
国民は「固有権の保全」という神の意志に政治が背いていないか、常に確認する権利を持つ
(抵抗権)
「自然状態においては各人が自然法の執行権をもつ」(pp.305-306)
これを奇妙な教説とロック自ら自覚するものの、王政よりはましだとする
所有権の根拠を労働に求める(p.326)→古典派の労働価値説
生産効率が荒地の10倍、100倍になることから囲い込みを擁護(pp.336-338)
人が自然の恵みに労働を加えるのは、価値が保存できる貨幣があるからだと
貨幣を価値創造の原動力と位置付ける(p.336, p.346, pp.347-352)
「どこにおいても、法が終わるところ、暴政が始まる」(p.539)
ヒューム『市民の国について』下巻所収の「グレート・ブリテンの党派について」
p.196にロックのこの著作の後、政治家はトーリー派とみなされることに恥じるように
なったと記されている
1690 ウィリアム・ペティ『政治算術』✅
当時の超大国フランスに対抗する術を、小国でありながら世界の海洋国家となったオランダに学ぶ
多くのデータに基づいた緻密な国力比較
ガリアーニ著, 黒須訳『貨幣論』p.67の注5に、1686年にペティが著したTwo essays in political arithmetick
の示したデータに何人から疑問が呈され、それに応えて1690年に本書を出版したことが記されている
ガリアーニ著, 黒須訳『貨幣論』pp.65-66では、ペティの出したデータは英国の有利を説く手段としている
「かの国民の真実ではなく栄光を最終目標として予め決めたので、自らの計算で楽々と証明した。だが
しかし、その計算の威信は、奇怪な推計によって笑わざるを得ないほど膨らまざるを得なかった」(p.66)
後に駐仏大使になるガリアーニには、イングランドに対する歪んだ感情があったのかもしれない
1690 ジョサイア・チャイルド『新交易論』
イングランド東インド会社総裁を務めた実務家による書
ジェームズ・スチュアート『経済の原理』下, p.235で言及
1690 葡・エレセイラ伯爵死去
毛織物産業の保護育成に尽力した伯爵の死去により、産業は遂に立ち上がらなかった
→メシュエン条約
1690 ライプツィヒ協定
ドイツ圏内の通貨価値を金銀比1:15にほどに定める
(ジェームズ・スチュアート『経済の原理』下, p.77)
1691 バルタザール・ベッカー『魔術をかけられた世界』
残存する中世的妄執を排除し、自然科学的世界観を提示
神を冒涜する者として牧師職を解かれるが、ベストセラーに
(黒川正剛『図説 魔女狩り』p.114)
1692 セーレムの魔女事件
新大陸植民地・ニューイングランドで起きた魔女狩り
首謀者のコトン・メーザーは、ボストン北部教会の牧師
黒人奴隷のブードゥー教に感化された女性に端を発する
200名ほどを容疑者に仕立て上げ、20名を処刑
ボストンの商人ロバート・カレフの抗議をきっかけに生き残った「容疑者」は無罪
魔女狩りに「辣腕」をふるったパリス牧師は追放
(森島恒雄『魔女狩り』pp.184-186)
1692 元禄5年・利息の制限
100文につき、年利37.5%まで
金2両以下は、年利28%まで
金10両以下は、年利24%まで
(井原今朝男『中世の借金事情』pp.142-143)
1692 ロック『利子の引き下げおよび貨幣の価値の引き上げの諸結果に関する若干の考察』✅
ロック『利子・貨幣論』の訳者解説(p.383)によれば、1691年11月末出版
貿易差額論、貨幣ヴェール観、貨幣の代替物としての手形、貨幣の流通速度、貨幣数量説
高利禁止の法令は意味をなさい。貸借を難しくするし、寡婦や孤児の収入を減らすし、
いずれにせよ金融技術に長けた人たちは事実上の高利を得るからである。(pp.3-4)
利子生活者を強者とみるケインズと弱者とみるジョン・ロックの違い(時代の違い)
「法律の規定と厳格さとが巧みに回避されるように思われる。その上、人々の間には秘密の同盟
や共謀が生まれるであろうが、それらは疑うことはできても、自白されない限り、決して証明する
ことができない」(p.5)
利息上限の規制は、商品価格の規制と同じく難しい(p.7)
利息上限の規制は金融仲介業者の貨幣退蔵を招く(利鞘が少ないため、仲介業者は資金調達も
貸付もしなくなる)(p.8)
「法定利子が自然利子にきわめて近い点に維持されるならば(私の意味する自然利子というのは、
貨幣が平等に配分される場合に、現在の貨幣の欠乏が自然に到達させる金利のことである)、
おそらくは借手にとって金利が引下げられ、貨幣は確実に国のトレードにいっそう役立つように
なるであろう」(pp.9-10)
「〔貨幣以外の〕任意の商品が、市場で半数の顧客にしか供給されず、したがって一人の売手に二人
の買手がある場合と同じことである」(p.12)
「危険が大で利得が小である場合(イングランドで定理しで貸付ける場合にそうであるように)、
多くの人々は、そのような条件で貨幣を貸出して危険にさらすより、むしろ退蔵する方を選ぶで
あろう」(p.15)
「隣邦諸国間の逆貿易差額は不可避的にわが国の貨幣を流出させ、急速にわれわれを貧乏にし、
危機にさらすに違いない。金とぎんは〔それ自体としては〕ほとんど役に立たないけれども、
それは生活のあらゆる便宜品を支配する。したがって富は金銀の豊富さに存するのである」(pp.15-16)
「商業は、それゆえ富裕になるためにも、はたまた生存の維持のためにも、われわれに残された
唯一の道である」 (p.17)
「貨幣〔利子〕率を四パーセントに引下げて貸付けに水をさすことは、トレードの車輪を回転
させる貨幣の流通を著しく停止させる点で、王国に損失となるであろう」(p.19)
スペインは法律で「貨幣の国外持ち出しを死罪にしている」(p.26)
「貨幣ないし貨幣代替物以外には負債を弁済するものはなく、紙に三、四行書いただけでは
この弁済は不可能」(p.29)
「貨幣はこれらすべての人々にとって計算用具および保証物の両方に役立つものとして必要
である。すなわち、それでむらのない均一の計算をおこない、また貨幣を受け取る者に、彼が
そうしたい時にはいつでも、その貨幣と交換に彼の欲する同一の価値の他の物を再び手に入れ
させるという保証を付与するものとして必要である。これらのうち前者は、刻印と呼称によって
なされ、後者はその内在的価値、すなわち貨幣の分量によってなされる」(p.31)
「一般的交易品(common Barter)」(p.31):ニューメレール
「人類の普遍的同意が銀と金に賦与したかの内在的価値を手形に与えることはできない」(p.32)
「すべての人間は彼に生活ないしトレードの必需品を供給する債権者に即座に、または短期間
内に支払うのに少くとも足りるだけの、貨幣または適当な代替物(Recruits)を持っていな
ければならない。。なぜなら何人も、金のある間か、しばらく経てば金となる保証にほかなら
ない信用のある間しか、これらの必需品を入手しえないからである」(p.33)
一定量の貨幣で支払いをやりくりするには、貨幣の流通速度が速い方がよい。この点週雇いの
労働者は1年に52回も貨幣を回転させるので効率がよい。反対に小売業者は効率が悪い。また、
退蔵されず貸付けに回りやすくなる高金利も望ましい。
「商品の価格は購買者数と販売者数の比率によって騰落する。この法則は、ある特定の人が
もっているその時々のばか高い嗜好品を除外すれば、売買されるべきあらゆる物品に普遍的
に妥当する」(p.45)
土地の収益や貨幣の利息を法定することは賢明ではなく、市場に委ねるべき(p.50)
「貨幣は、人々が計算を行うさいの普遍的尺度であり、すべての物の価値をはかるにあたって
あらゆる人々によって使用されるからである」(p.52)
割引率と土地の価格との関係:1/割引率(5%なら20年分割で購入される土地)(pp.56-57)
有用な性質と価格は無関係(価格は需要と供給の関係による。空気は有用だが無限の供給がある
ため価格がつかない。水については時としてワインより高価なことがある)(p.62)
「ある物の一定量を常に他の物の一定量と等価値にさせるような固定的な内在的自然的価値は
どんな物にも存在しない」(p.64)
「貨幣は少ししか消耗も増加もしない」。「したがって貨幣は、」「通常あらゆる物品の価値を判定する
不変の尺度とみなされている」(p.67)
金は天下の回りものであるから、退蔵や輸出による流通からの除去を避けるべきである
低金利も退蔵(貸し渋り)により流通量を減らすので避けるべきである
ヘンリー7世(15世紀後半)の時代に比べて、現在(17世紀の終わり)には銀が10倍存在する
よって、銀の価値は10分の1になった。ただ、短期的には貨幣は価値基準となりうる。小麦には
毎年豊作、不作の波がある(pp.71-72)
貨幣不足による不況(pp.74-75)
「もしありふれた、しかもわずかなお金で所持しうる自国の製造品や産出物であったら、軽蔑され
無視されるのに、それらが「日本や中国から来た高価な物だということで、どれだけ多数の物をわれ
われは尊び、あがなっていることか」。「フランス産ぶどう酒はわが国では流行の飲物となっており、
それなしに友人をもてなしたり、自分自身それを飲まずに食事をすることさえ、恥ずかしがるほどである」
(pp.90-91)
「スペインでは貨幣を輸出すると死刑になる。にもかかわらず、世界中に金銀を供給する彼らは、
国内にはほどんど金銀を残していない」(p.112)
「われわれ自身の商品で支払うよりもいっそう少く消費することが、国が富裕になる確実で唯一の
方法である」(p.113):勤勉なイングランドと怠惰なスペインの対比
貨幣が不足しているとき金利を下げても借りることのできない人は残る。たとえると「二〇足の靴を
三〇人に配分する場合」10人は裸足のままにならざるをえない。(p.122)
pp.125-128は1690年に刊行されたカルペパー親子(Thomas Culpeper Senior & Junior)の手紙
(1つは1621年の手紙、もう1つは1668年)への批判
pp.129-139は改鋳について。金属の価値を超える額面価値で流通させようとしてもうまくゆかない。
むしろ差額分が海外へ流出してしまう。国内においては、プレミアム分だけ商品の価格が値上がり
するので改鋳の意味はない。ただ、短期間人々は貨幣錯覚に陥るので効果があるかもしれない。
鋳貨の鋳潰し(溶解)は、ぶどう酒税によって賄われているため無料である(p.143)
「貨幣の削り取り業者」:銀貨の縁を削り取り、それを売ることを生業にしている業者
これを避けるために、縁に刻印をした縁刻貨幣が鋳造された(p.150)
金貨と銀貨が流通しているときに金貨の価値を引き上げる(金属価値を超える貨幣価値を持たせる)
と、安い金貨は高い銀貨に換えられ、銀貨は国外へ流出する(pp.156-157)
「貨幣は商業の尺度であり、またすべての物の価格の尺度である。それゆえ(他のすべての尺度の
ように)、できるだけ安定的で不変的であるようにしておくべきである」(p.161)
1693 フランス・大飢饉(〜1694)
200万人が死亡
1694 イングランド・Million Lottery Act
総額100万ポンドのくじ付き国債を発行
毎年14万ポンドを抽選で償還、利率4%
(ロック『利子・貨幣論』p.236と脚注9)
1694 イングランド・銀行条例
イングランド銀行設立
出資者1268人中123人は、フォンテーヌブローの勅令と大飢饉によりフランスから逃げて
きたユグノー 資料
120万ポンドを政府に提供(出資)するのと引き換えに、8%の利息、13年間の排他的特権、
年間4,000ポンドの運営費を得る(ジェームズ・スチュアート『経済の原理』下, p.323)
年10万ポンドずつ無税で償還(ロック『利子・貨幣論』p.236と脚注10)
貨幣の流通(手形割引による貨幣供給)、国庫の取扱、公債の利払、 金銀の取引の4業務を営む
国王個人の借金が政府議会の借金に(財政革命)
貨幣不足の解消策としてイングランド銀行券は乱発された
(ロック『利子・貨幣論』訳者解説, p.373)
(金井雄一『中央銀行はお金を創造できるか』第7章)
1695 イングランド・旧平価にて銀貨改鋳 資料
摩耗の激しい貨幣のみがつかわれ、摩耗のない銀貨は溶解され地金として売られた
鋳貨の価値は削り取りなどにより半減していた
(ジェームズ・スチュアート『経済の原理』下, p.461)
縁を削り取られた銀貨は全銀貨の6分の4に上り、銀貨の重量は半減していた
(ジョン・ロック『利子・貨幣論』の訳者解説, p.369)
この混乱を収めるための改鋳(ジェームズ・スチュアート『経済の原理』下, p.27)
ロック=ラウンズ論争
ラウンズは平価を20%切り下げることを主張し、ロックはエリザベス女王時代の旧平価
への復帰を主張した(ジェームズ・スチュアート『経済の原理』下, p.55)
ロックの案が採用され、債権者は潤い、国庫も潤った
その代わり、削取貨幣は流通し続け、銀の流出が続き、イングランド国内はデフレ不況
に陥った
「突然の強制デフレ」という「社会的犯罪」を犯したとの評価
(ジョン・ロック『利子・貨幣論』の訳者解説, pp.378-379)
1695 ラウンズ, A further essay for the amendments of silver coins 資料
4月刊行
著者はラウンズだとされているが未確定?(ジェームズ・スチュアート『経済の原理』下, p.706)
ロック『再考察』序言からは明らかにラウンズの書であるように読めるが…
1965 ロック『貨幣の価値の引き上げに関する再考察』✅
Further considerations concerning raising the value of money 資料
田中・竹本訳『利子・貨幣論』に収録(pp.225-340)
(ジェームズ・スチュアート『経済の原理』下, p.31)
ラウンズ氏の論考を草稿段階から読む機会を得たロックは、縁を削り取られた貨幣価値に
合わせ、また、イングランドが保有する銀の総量がもはや発展してきた経済規模をまかなえ
ないとして、価値を5分の1引き下げる貨幣改鋳を提案したラウンズを批判すべく筆を取る
(p.247, p.255)
ロックの署名入りで出版、他の著作もロックのものであることを認める
wikipediaの大改鋳の説明に出てくるロックの主張は、本書の内容と異なる(間違い)
p.225:「銀は、世界のあらゆる文明化され後衛機を営んでいる地域における、商業の道具
であり尺度である」
p.226:「ある量の銀は、等量の銀に対してつねに等しい価値があることは明らかである」
p.228:「銀は、商業の尺度あると同時に交換手段(Instrument)であり、取引される物と
交換に与えられるものであることが想起されなければならない」
p.230:「わが国の造幣局の標準は、今日では公権力によって決められ、慣習によって確定
されていて、国の内外でよく知られており、また分析試験の規定と方法もそれを確かめるのに
適合するようにされ、イングランドの鋳貨はもちろんすべての銀細工品も同様の標準によって
造られている」
p.239:「自国の鉱山が銀を供給しない諸国では、貢物またはトレード以外には何も銀をもたら
しえない。貢物は征服の結果であるが、トレードは技能と勤労の結果である」(トマス・マン的
な重金主義から古典派経済学的な労働価値説へ:勤労が原因、銀の蓄積が結果)
p.242:「需要の増大は、必然的に価格を上昇させる」
p.245:「商品は、共通の尺度である貨幣によって評価することができる動産である」
pp.246-247に、ロックが考えた10項目に及ぶ貨幣の特徴が列挙されている
p.254:「打歩が一オンスにつき二ペンス以上になることはめったにないし、また、一ペニー
あるいは半ペニー以上になることも稀である」
鋳貨の価値は含まれる純銀の量で決まり、政府が布告する名目値では決まらない
改鋳をしても、純銀の含有量が減れば、その鋳貨は名目値ではなく純銀の含有量から示唆
される価値で流通する
p.282:「銀塊に投入れた労働の価値が他のそれより大きいことが、それらの価値の差異を
生み出し、したがって細工された銀器は同じ銀の重量以上に高く売れる」→労働価値説
貨幣ヴェール観の原型(貨幣単位を変えても、人々は結局銀の重量を基準に取引をするの
だから意味はない。意味があるのは銀の総重量と取引量と関係だけである:pp.287-290)
pp.301-302に、エドワード1世第28年(1300年?)からエリザベス第43年(1601年?)
までに鋳造された銀貨1シリングに含まれる純銀の重さが示されている。徐々に重量が
減っている
pp.305-306に、改鋳による「貨幣鋳造税」への言及がある
p.316:「国王がそれを税金として受け取り、また地主が地代として受け取る限り、借地農や
小作人が彼の商品と交換にそれを受け取るのは何ら不思議ではない」→租税貨幣論の原型
(p.319にも租税貨幣論)
p.317に、オランダ・リンネルを例に英蘭での一物一価の議論(Big Mac Index)
p.327に、改鋳作業がロンドン塔で行われていたとの記述(当時はロンドン塔の側に立地)
1965 P.D., A letter from an English merchant at Amsterdam, to his friend at London, concerning
the trade and coin of England 資料
金銀比価についての短い論考(ジェームズ・スチュアート『経済の原理』下, p.77)
P.D.というのは匿名の著者
1695 ロック『キリスト教の合理性』✅
『人間知性論』において理性で道徳を論証する試みに挫折したロックは、神の啓示から
道徳を導こうとした(背景に「ロックは無神論者、理神論者ではないか」との非難)
100ページにわたる第9章は、『マタイによる福音書』『ルカによる福音書』を引用して
当時のユダヤ社会に軋轢を生まないよう細心の注意を払っていたにもかかわらず、祭司長、
律法学者、ファリサイ派の人たちの嫉妬によって、あまりに理不尽な形で訪れるイエスの
最期を描写している
使徒は小賢しい「智者や賢者」(p.187)ではない
1695 ダヴェナント, An essay upon ways and means supplying the war 資料
Charles. Davenant
(ジェームズ・スチュアート『経済の原理』下, p.444)
1695 元禄の改鋳
荻原重秀の提案による
1695 仏・トンチン式年金
1653年にマザラン枢機卿に提案され、この年に実現
投資信託のようなもの
ガリアーニ『貨幣論』pp.347-348
1696 イングランド・ニュートンが造幣局長官に任命される
いわゆる大改鋳を実施、1697年夏ごろまでに銀貨を切り替え
1696 露・オスマントルコからアゾフを獲得
ヴォルテール『カンディード』p.319に言及あり
1697 ライスワイク条約
アウグスブルグ同盟戦争の講和、ルイ14世の野望はくじかれる
イングランドが海外から調達した戦費は、この頃までに海外へ流出して鋳貨不足が発生
木の割符を発行することで鋳貨不足をしのいだ
(ジェームズ・スチュアート『経済の原理』下, p.451)
1697 仏・人頭税(カピタシオン)導入
1月の布告で
戦争に明け暮れたルイ14世は財政逼迫をもたらす
(ネッケル『穀物立法と穀物取引について』p.64)
1697 オスト『海戦術、あるいは海戦の際の隊形変更術』
イエズス会士ポール・オストは仏蘭戦争の海戦を分析
1698 長崎会所(税関)を徳川が一元管理 資料
1698 イングランド・キャスティング、ロンドンで株式などの価格を公表
コーヒーハウスにて、The course of the exchange and other things 資料
1698 イングランド・造幣所をワイン税により運営
ガリアーニ『貨幣論』p.171は、これを批判(受益者負担になっていないとして)
1698 ダヴェナント, Discourses on the publik revenues, and the trade of England 資料
自由貿易主義者であるダヴェナントの著作
(ジェームズ・スチュアート『経済の原理』下, p.444)
1699 カルロヴィッツ条約
第2次ウィーン包囲失敗後も、オスマントルコはオーストリアに手を出すが撃退される
オスマントルコ、ハンガリーの大半を失う
東欧の占領地失地により国力減退の兆し
欧州が東欧を奪還(19世紀のハプスブルク帝国構成国がこのときオーストリア側に)
1699 ダヴェナント, An essay upon the probable methods of making a people gainers in the balance
of trade
ジェームズ・スチュアート『経済の原理』第8章で言及