Studia humanitatis
ルネサンスと宗教改革
1500〜1600
<人口増、価格革命(物価高騰)、領地の奪い合い>
1500 ペドロ・アルバレス・カブラル、ブラジル「発見」
(シュミット『陸と海』p.187)
1501 アラゴン王フェルナンド5世、マラノスを弾圧
マラノスとは、生活のためにイスラム教やユダヤ教からキリスト教に改宗した人たち
(マキアヴェリ『君主論』p.189の注3)
1503 ユリウス2世、ローマ教皇に就任
チューザレ・ボルジアを味方につけて就任も、就任するや捕縛
戦争・政治に口を出すが、ブラマンテ、ラファエロ、ミケランジェロなどを保護
ルネサンス芸術の守護神でもあった
1503 西・セビリャに西インド商館を設ける
東方貿易の船は全てセビリャから出港、セビリャへ帰港(貿易の独占体制)
(祝田秀全『銀の世界史』p.27)
1504 永正元年・永正の大飢饉
前年の文亀3年に旱魃が発生、改元するも飢饉が発生
藤木久志『日本中世災害史年表稿』を利用した気候変動と災害史料の関係の検討
―「大飢饉」の時期を中心に―
https://chikyu.repo.nii.ac.jp/records/2117
同年、京都で土一揆が起き、徳政令が出される
(井原今朝男『中世の借金事情』p.151)
1505 ユリウス2世、サン・ピエトロ大聖堂の改築を決定
ローマの聖堂を建てる名目で、ドイツ人に免罪符を売り集金
マインツ大司教の座を狙うアルブレヒトが裏金にしたといわれる
マキアヴェリ『君主論』p.101の注7によれば、ユリウス2世は聖職売買もしていた
ベンサム『道徳および立法の諸原理序説』上, pp.155-156とp.170の原注(17)参照
1507 マキアヴェリ、神聖ローマ帝国皇帝マクシミリアン1世へ使節に参じる
スイスやチロルで見聞したドイツ諸邦の統治を『君主論』第10章に著す
『君主論』p.95の脚注1
1507 マルティン・ヴァルトゼーミュラーの地図 資料
アメリカは「発見」されているが、日本はまだ…
1508 カンブレー同盟戦争(〜1516)
ヨーロッパ主要国を巻き込む当時の "世界大戦"
力を増すベネツィアに対抗すべく、教皇ユリウス2世はフランス、神聖ローマ帝国、
スペインに声をかけ、カンブレー同盟を結成
同盟の一翼であるフランスの力が強まると、教皇は一転してベネツィアと同盟、
不利とみるや神聖ローマ帝国、スペインにイングランドを加えて神聖同盟を結成
押されたフランスはベネツィアと同盟を結び、ミラノを取ることで一応の決着をみる
この戦争はマキアヴェリ『君主論』の題材となり、ガリアーニ『貨幣論』(pp.157-159)
でも言及される(富裕なベネツィアがその財力を活かせず国家全体を失ったという文脈)
1509 エラスムス『痴愚神礼讃』 ✅
人文主義者(ユマニスト):カトリック教会を介さない神との対話
イングランド国王ヘンリー8世の招きに応じてイングランドに来たエラスムスが
親友トマス・モア邸で執筆
「モア君、イタリアからイングランドへの道すがら、こんな話を思いついたんだ」
という奇譚形式で、ギリシャ・ローマの神々を賛美(ルネサンス的)
Thomas More→Morus→moros→moria→Moria(痴愚女神)沓掛訳, 解説, p.334
この言葉遊びはミルトン『イングランド国民のための第二弁護論』にもみられる
また、同書p.392にも登場
イタリアではヴェネツィアにあるアルドゥス・マヌーティウスの印刷工房に滞在して
『格言集』増補版を出版した(沓掛訳, p.279の注13)
人間の情念を肯定(p.47)
「犯した罪から、その実なんの効力もない赦免によって救われるというので悦に入り」
(p.104)として免罪符(贖宥状)を批判、p.178に免罪符についての言及あり
あたかも専制君主のように振る舞う教皇や司教を批判(教皇レオ10世も楽しく読んだ
とされるが… 沓掛訳, 解説, p.352 )
ルターに尊敬されていたが、その後ルターが過激化・政治化するのを見て距離を置く
この書はルター派の宣伝材料に利用されるが、エラスムス自身は融和的なカトリック
1510-1514年、ケンブリッジ大学でギリシャ語を教える
1509 イングランド・ヘンリー8世即位
17歳という若さで
1509 ディウ沖の海戦
地中海の香辛料貿易を守るためにエジプト・マムルーク朝がポルトガルに挑むも、敗北
1510 葡・ゴア占領
東方貿易の足がかりを着々と
陸路(インド、エジプト、イタリア)から海路(インド、希望峰、ポルトガル)へ
1511 神聖同盟
カンブレー同盟戦争で劣勢に立った教皇ユリウス2世が、スペイン、神聖ローマ帝国、
イングランドに声をかける(フランスを外し、イングランドを引き込む)
このとき中立を保ったことでフィレンツェ共和政は崩壊(「君主論』p.190の注14)
1513 レオ10世、ローマ教皇に就任
メディチ家からの教皇(『君主論』pp.99-100)
大赦により、反メディチの陰謀に巻き込まれ投獄されていたマキアヴェリは釈放される
ヴォルテールは、『寛容論』第3章で免罪符を販売した教皇として批判
1514 イングランド・耕地から牧地への転用禁止
H8世治世6年法律第5号
1517年、トマス・モアはハンプシャー州調査委員に任命される
(『ユートピア』p.269の注2)
1515 仏・フランソワ1世即位
ルイ12世の後継、フランス・ルネサンスの父となる
芸術重視の姿勢は、イタリア中心主義への対抗心(フランス愛国心の称揚)
神聖ローマ帝国皇帝カール5世への対抗心から、王権強化へ舵を切る
1516 ボローニャの政教協約
仏・フランソワ1世、ローマ教皇レオ10世とコンコルダートを結ぶ
国内の司教をフランス国王が指名し、教皇が叙階することに
教皇から独立していたフランス教会(ガリカニスム)の変質
フランス国内の教会勢力を抑えるため教皇と手を結び、王権を強化
→王のお気に入りが高位聖職者に就任、教会は退廃、宗教改革受容の土壌に
1516 エラスムス、ヒエロニュムスのラテン語版聖書を校訂、編纂
『痴愚神礼讃』脚注25を参照
1516 トマス・モア『ユートピア』✅
イングランドの大法官、厳格なカトリック
プラトン『国家』592abに登場するどこにもない(Never where)をラテン語にした
Nusquamaをタイトルにしようとしたが、エラスムスのアドバイスを得てギリシャ語の
ユートピアに(『痴愚神礼讃』解説p.325, 『ユートピア』p.257の注3)
アメリゴ・ベスプッチの航海に「同行した」ヒュトロダエウスにユートピアを語らせる
ヒュトロダエウスはエラスムスの痴愚女神に対応する(p.264の注3)
社会を痛めるものとして、私兵と羊(第1次囲い込み)を挙げる(p.74-)
16世紀の囲い込みはイングランドの3%ほど(村岡・川北編著, p.10)
「羊」は囲い込みと王の統治の両義性を有する(p.102)
ロック『統治二論』p.255で言及される
カンブレー同盟戦争を踏まえ、征服より経済を優先すべきと説く(pp.97-99)
この思想はアダム・スミスの『国富論』に受け継がれる
私有財産制の廃止が登場(p.112)するも、作中登場するモア自身が疑問視(p.113)
これに応える形でヒュトロダエウスがユートピアの国制を語るのが第2部
カンブレー同盟戦争の混乱を皮肉(pp.199-200)
実現しえぬ理想社会として、貨幣のない社会を夢想(p.242)
1517 ルター『95か条の論題』
ヴィッテンベルク大学教授マルティン・ルターは大学の門扉に論題を貼り付ける
贖宥状(免罪符)の販売を批判
印刷業者、出版社はこぞってルターの著作を発行(1518〜1520に出版された
1,680種の印刷物の半数前後がルターによるもの;黒川, p.47)
宗教改革はカトリック勢力を廃したいドイツ貴族等に利用され、またスペインが占有
する「世界」の切り取り合戦の正当化に用いられる
1518 エラスムス『対話集』
生活に身近な事例を題材にラテン語を学ぶ教科書
1518 ビュデ『君主教育論』
出版年は1518〜1519年と推定
Guillaume Budeによるこの書はフランソワ1世に献上するためにフランス語で執筆
王は高等法院や慣習法などの現行制度を超越した、より神に近い存在(王権神授)
ギリシャの哲人政治を理想として、超越者である王が父として、子供である国民を
慰撫すべきだとした(家父長制君主論の原型)
堕落した人間を教育によって高める
1519 クロード・ドゥ・セセル『フランス王国論』
ルイ12世に仕えたサヴォア公国のClaude de Seysselによるこの書は、この後のフランス
国家論に多大な影響を与える(佐々木毅『主権・抵抗権・寛容』p.5)
政治体制を民衆制(ローマ)、貴族制(ヴェネツィア)、王政(ルイ12世)に分け、
民衆制と貴族制は争いが絶えず、王政が安定していると
絶対王政ではなく、権力均衡による抑制の効いた統治がフランス政体の肝
王の大権を、キリスト教に基づく王の良心と、貴族の助言と終身の高等法院(パルルマン)
の抑止によって制御する
王、貴族、庶民層、聖職者それぞれの自由・特権・習慣を守り、社会の秩序を形成する
王は男系(サリカ法:外国からの介入を排除)、平民→富裕民、富裕民→貴族、そして
平民・富裕民・貴族→聖職者という社会階層の移動を許容
異端・セクトの排除、貴族による士官独占、弁神論(不幸も何も全ては神の思し召し)など
1519 マザラン、世界一周へ出港
1520 神聖ローマ帝国・カール5世即位
1521 コルテス、アステカ文明を蹂躙
1521 イングランド・ヘンリー8世、ローマ教皇レオ10世から「信仰の擁護者」と称賛される
『七秘蹟の擁護』を著し、反ルターの旗幟鮮明
1522 仏・利子を8と1/3%に定める
フランソワ1世は、パリ市の税収を現金化(現代のAsset Backed Security)
(ジェームズ・スチュアート『経済の原理』下,p.230)
1523 トマス・モア『反ルター論』
1523 寧波の乱
大内氏(博多商人)と細川氏(堺商人)の仲違いが貿易利権の奪い合いとして
明の港寧波で表面化、明側の公式窓口(市舶司)が廃止され密貿易が盛んに
1524 ミラノでペスト大流行
1524 エラスムス『自由意志論』
1525 ルター『奴隷意志論』
聖書至上主義に突き抜ける、自由意志を排したある種の運命論
「全ては神がお決めになったこと」
1525 プロイセン公国成立
1415年からブランデンブルク選帝侯領を統治してきたホーエンツォレルン家傍流の
アルブレヒト、ドイツ騎士団を公国へ転換
1618年には本家が傍流プロイセンを継承、ブランデンブルク=プロイセンに
1526 マドリード条約
イタリア戦争の途上で、フランスがスペインに敗れ結んだ条約
フランスはブルゴーニュ、ナポリ公国、ミラノ公国、フランドルなどを放棄、
王子2人を人質にすることで捕らえられていたフランソワ1世を釈放してもらう
翌1527年、フランソワ1世は条約不履行を宣言、再びハプスブルクに立ち向かう
1526 大内氏、博多商人神谷寿貞に石見銀山を採掘させる
銀は中国への主要輸出品に
1526 コペルニクス『貨幣鋳造の方法』資料
ドイツ騎士団による低品質の銀貨濫造を問題視(グレシャムの法則)
1527 イングランド・ヘンリー8世、ローマ教皇クレメンス7世に離婚を申し出る
ヘンリーの兄の妃であったキャサリン・オブ・アラゴンとの結婚は教皇の赦免に
よったが、その無効を訴える
1527 ローマ劫掠
ドイツ人傭兵ランツクネヒトがローマで狼藉を働く
背景に給与未払い、神聖ローマ帝国とフランスの対立など
板挟みの教皇クレメンス7世がフランスについたことをきっかけにルネサンス文化を破壊
→教皇は神聖ローマに和解を求める(神聖ローマ帝国カール5世はキャサリン・オブ・
アラゴンの甥、カール5世はヘンリー8世の離婚を拒絶するよう教皇に求める)
1529 ルター『教理問答』
「キリスト」は63回、「悪魔」は67回登場する(森島恒雄『魔女狩り』p.174)
1529 第1次ウィーン包囲
神聖ローマ帝国がオスマン帝国の脅威に晒される
1529 蘭・アムステルダム=ハールレム間の定期水上交通を整備
1632年には1時間おきに出発、17世紀後半には時刻表が整備される
アムステルダム=ハールレム間の年間旅客数は30万くらい
1700年にはアムステルダムを中心とするハブ交通と
地域間交通からななる重層的水上交通網が整備される
1529 サラゴサ条約
フィリピンはスペインの植民地に
1565年からはメキシコと貿易(アカプルコ貿易)
1530 神聖ローマ帝国・カール5世即位
1530 皇帝カール5世、聖ヨハネ騎士団にマルタ島を下賜
以後、マルタ騎士団と名乗る(病院騎士団→聖ヨハネ騎士団→マルタ騎士団)
シチリア島の南に位置するマルタ島は地中海貿易の要所(地中海のへそ)
1530 アグリッパ『学問と知識の不確かさと虚しさについて』
ハインリッヒ・コルネリウス・アグリッパ・フォン・ネッテスハイムは
ゲーテ『ファウスト』のモデルと伝わる(黒川正剛『図説 魔女狩り』p.45)
1531 エリオット『為政者の書』
勃興したジェントリ向けの教養書
「古典的教養をもって、血統の不足に代えようとした」(村岡・川北編著,p.115)
1531 マキアヴェリ『ディスコルシ』
1517年には完成、1527年没、刊行がこの年
ディスコルシとは政略論の意味
1532 マキャヴェリ『君主論』✅
再起を賭け、『ディスコルシ』執筆を中断して1513年7月から12月までに一気に書き上げ
るも、猟官運動は失敗に終わる(『君主論』訳者解説, p.234)刊行は死後
フィレンツェを私物化するメディチ家排除の陰謀が露見したボスコリ事件に巻き込まれ
拷問を受けたマキアヴェリは、教皇レオ10世就任に伴う大赦で釈放された後に脱稿
にも関わらず、冒頭にメディチ家当主ロレンツォ・メディチへの献辞がある
15世紀末から16世紀初めのイタリア地政学の揺らぎ、とりわけ仏王ルイ12世の失策、
1455年に結んだローディの和にあぐらをかいて領地を失ったイタリア諸侯を題材に、
国家運営のリアリズムを説く
アダム・スミス『道徳感情論』の第6部第1篇の終わりにマキアヴェッリへの言及あり
(チューザレ・ボルジアの騙し討ちを称えていることを批判)
兵士 soldier の語源 soldato は、ソルドゥス金貨を支払われる者の意味(p.110の注2)
「君主は、戦いと軍事上の制度や訓練のこと以外に、いかなる目的も、いかなる関心事も
もってはいけないし、また、他の職務にも励んでもいけない」(p.125)
「いざ雲行きがあやしくなると、逃げることだけ考えて自国の防衛など思いもしなかった
のだ。ただただ、いつかは民衆が征服した為政者の横暴にたまらなくなって、自分自身を
呼び戻してくれると、一縷の望みをもったのだ」(p.200)と、ミラノ公、ナポリ王を批判
「われわれ人間の自由意志は奪われてはならないもので、かりに運命が人間活動の半分を、
思いのままに裁定しえたとしても、少なくともあとの半分か、半分近くは、運命がわれわれ
の支配にまかせてくれているとみるのが本当だと、わたしは考えている」(p.202)
自由意志を認めるルネサンスの香り
最後にメディチ家を支柱に据えたイタリア統一の夢を語る(実現は1870年だが…)
悪徳推奨とも取れる表現は批判を浴び、1559年にローマ教皇庁により禁書
刊行当初からマキアヴェリズムとの批判が絶えない
夜警国家論はアリストテレス、マキアヴェリ、アダム・スミスへと継承される
フランスは絶対王政を擁護するレトリックとして当初はマキアヴェッリを歓迎したが
聖バルテルミの大虐殺以降は、イタリアメディチ家のカトリーヌによる陰謀と結びつけられ
ユグノーの中で反マキアヴェッリの嵐が吹いた
1532 イングランド・上納禁止法
司教からローマ教皇に支払っていた「上納金」の禁止
1532 フランシスコ・デ・ビトリア『インディオについて』
スペイン人でありながら、中南米のインディオにも土地所有権があると自然法に基づき主張
(シュミット『陸と海』p.174)
1533 アグリッパ『神秘哲学』
錬金術などを新プラトン主義でまとめる
1533 ピサロ、インカ文明を蹂躙
1533 イングランド・上告禁止法
教会のもめ事をローマ教皇に訴えることの禁止
国民国家としてのイングランド成立
カンタベリー大司教がキャサリンとの結婚を無効に
結婚したアン・ブーリンとの女児がエリザベス1世
男子が誕生しないアン・ブーリンは1536年に処刑され、その後も世継ぎを求めて
4人と結婚を繰り返す
1534 ケントの修道女事件
19歳で病に臥したエリザベス・バートンが「神憑き」に
カトリックを汚すヘンリー8世に神の怒りが下ると予言し、処刑される
トマス・モアは共犯の濡れ衣を着せられ、ロンドン塔に幽閉される
1534 イエズス会、パリで結成
8月15日結成
イグナチウス・ロヨラは騎士出身 "教皇の親衛隊"
ロヨラ、フランシスコ・ザビエルら7人によるモンマルトルの誓い(サン・ドニ教会)
1540年にローマ教皇パウルス3世に認められ、カトリックの普及に邁進
新世界への伝道活動により振り子時計が伝わる
ヴォルテール『カンディード』p.333
上智大学、栄光学園はイエズス会系
1534 パウルス3世、ローマ教皇に就任
10月13日、クレメンス7世死去を受け開催されたコンクラーベにて選出
1534 仏・檄文事件
10月18日、ツゥイングリ派によるカトリック批判の檄文が、がフランソワ1世の寝室
の扉をはじめ、パリやオルレアンなど各地に貼られる
戦略的にプロテスタントに対する寛容政策を敷いていたフランスは、ボローニャの政教
協約以降一体化していた王政とカトリックに対する叛逆だとして、国を挙げてプロテス
タント排除に踏み出す、カルヴァンはスイス・バーゼルに亡命
1534 イングランド・国王至上法
イングランド国教会設立
教皇パウルス3世がヘンリー8世を破門したことに反発してヘンリー8世に重用され、
イングランド国教会成立に尽力したのは、オリバー・クロムウェルの先祖である
トマス・クロムウェル
教会税の納入先がローマ教皇からイングランド国王に変わり、広大な土地を含む
修道院の財産が国王のものになり、後にジェントリに払い下げられる
オックスブリッジからカトリック神学を分離する
興味深いことに、オックスフォード進学者に占める平民の比率は低下する
庶民が進学していた大学にジェントリの子息が進学(村岡・川北編著,p.119)
1535 イングランド・ユース法
利子の概念
1535 トマス・モア処刑
カトリックのモアは国王至上法に反対し、ヘンリー8世の逆鱗に触れる
アダム・スミス『道徳感情論』は、従容として死に就いたモアを称賛(第6部第3篇冒頭)
『フィルマー 著作集』p.231で言及される
1536 カルヴァン『キリスト教綱要』
王も国民も神にしたがうべきである
王の任務は神意を徹底することであり、従わない者の弾圧は聖なる行為
1541 カルヴァン、ジュネーブで神権政治
1536年からジュネーブで宗教改革に取り組むも、1538年に勢力拡大を恐れた市から
追放処分となる、アルザスのストラスブールに滞在後、市民の要請でジュネーブに帰還
30年にわたる「厳格な」統治は、鮮烈な光(信仰と商業)と漆黒の闇(密告と処刑)
毎日戸別訪問をして「信仰に励んでいますか?」という監視社会
プロテスタントは家にカーテンをしない→隠し事がないことの証明
プロテスタンティズムが商業界にひろまる
1542 教皇パウルス3世、異端尋問聖庁を設立
奇妙なことに、この聖庁は魔女狩りを抑制する役割を担う
地方地方で行われてきた因習めいた私刑的裁判を緩和
1543 コペルニクス、死去
天動説(太陽中心説)を唱えた『天球の回転について』の校正刷が届いた日に
シュミット『陸と海』p.158で言及
1543 種子島に銃が伝わる
鉄砲伝来じゅうごよみ
密貿易の首領、王直の船で? 資料
葡は中国から絹→日本から銀→東南アジアで香辛料→本国という世界貿易を営む
1543 ブルゴーニュ低地諸邦の成立
ヘルレ公国がハプスブルクの支配下に
1545 仏・メランドルとキャブリエールの住民6,000人虐殺
ヴァルド派という非正統的キリスト教徒だとして
(ヴォルテール『寛容論』p.38)
1545 西・ポトシ銀山の開発
ペルー副王領にて、ポトシは現在のボリビアに位置する
75人のスペイン人と3000人のインディオが採掘
水銀を使った精錬法が開発されると大量の銀がヨーロッパに流入
1.6万トンの銀がセビリャに流入(3分の2はポトシ、3分の1はメキシコから)
(祝田秀全『銀の世界史』pp.25-26)
1545 トリエント公会議
プロテスタントとの分裂回避を目指すも、ペストや戦乱により中断を余儀なくされる
断続的に3回開催され、1563年に終わる
モテット(ミサのときに多声で歌われるもので、聖なる歌に合わせて俗なる歌も歌われる)
を問題視(ウェーバー『世界宗教の経済倫理』) 資料
教皇の首位権を擁護するために蜂の例を用いる(蜂の群れには女王蜂がいると)
(ミルトン『イングランド国民のための第一弁護論』p.146)
1545 イングランド・利子上限を10%とする
ヘンリー8世(37 Henry8 c.9)
(ジェームズ・スチュアート『経済の原理』下,p.230)
1547 イングランド・エドワード6世即位
ヘンリー8世の嫡男唯一の生き残り、9歳で即位も15歳で夭折
1547 モスクワ大公国・雷帝イヴァン4世がツァーリとして戴冠
モノマモフの帽子を戴冠し、東ローマ帝国との継続性を誇示
戴冠直後のモスクワ大火により親政を開始
1549 フランシスコ・ザビエル来日
日本人キリスト教徒アンジローの手引きでインドのゴアから
ヴォルテール著, 斉藤訳『寛容論』p.178に『フランシスコ・ザヴィエルの生涯』
という本が紹介されている
イエズス会の聖者として、数々の奇跡を起こしたことが記されているようである
1549 イングランド・礼拝統一令
クランマー大主教編纂の『祈祷書』が用いられる
1550年代 イングランド・パブリックスクールの設立ブーム
ジェントリ子息の教育の場として(血統から教養へ)
大航海時代、産業革命時代とイングランドを帝国へ変貌させる優秀な人材を輩出
1550 神聖ローマ帝国カール5世、ベーケルソーンの墓地を訪れる
ニシンの塩漬けの考案者を讃えて
(岡崎久彦『繁栄と衰退と』pp.37-38)
1551 大寧寺の変
西国随一の周防大内氏が実質消滅、勘合貿易自然消滅
1551 ロレンソ了斎、フランシスコ・ザビエルから洗礼を受ける
山口にて
1551 イングランド・買占禁止法
エドワード6世第5/6年法律第14号
中世のオープン・マーケットの掟を破る者が多発したため
先買い、買占め、仲買などを規制
(アダム・スミス著, 山岡訳『国富論』下, p.109)
(竹本『『国富論』を読む ―ヴィジョンと現実―』pp.83-87)
1553 イングランド・メアリー1世が女王に
エドワード6世死後、カトリックであるもののヘンリー8世が指名したメアリーか
プロテスタントのジェーンかで内紛、大衆の人気を得たメアリーが王位継承者に
アイルランド女王を兼務
1553 イングランド ・モスコー会社設立
北極周りでアジアへのルートを探索も失敗、その後北欧貿易に従事
1583年にはデンマーク・ノルウェー王フレゼリク2世から北海、ノルウェー海の
一時的な使用を認められる(セルデン著, 本田訳『海洋閉鎖論』p.357)
1554 カルヴァン『正統信仰の弁明』
権力は信仰に完全に従属する
カルヴァン派が多数の国では異端を大逆罪として徹底排除、少数の国では抵抗権
神の眼から見れば寛容は優しさではないとして
キリスト教者から虐殺を止めるブレーキを外してしまった禁断の書
1554 カステリヨン『異端者を処罰すべからずを論ず』
Sebastien Castellionはマルティヌス・ベリウスという偽名で出版
(佐々木毅『主権・抵抗権・寛容』p.52)
カルヴァンとともにジュネーブに亡命した宗教改革の旗手かつ寛容の精神の持ち主
カルヴァンが作ったジュネーブ大学で教鞭を執るも、意見の相違から職を辞しバーゼル
へ移住、移住後はカルヴァン派からの誹謗中傷に悩まされる 資料 資料
ジュネーブを訪問したスペイン人医師セルベトを、1553年に捕らえて火炙りにした
カルヴァンの所業は暴虐極まり、虐殺を正義とするカルヴァンの論理より異教のほうが
穏やかだと論難
信仰と世俗は切り離すべきだと主張→ジョン・ロック
1554 カステリヨン『カルヴァン駁論』
「人間を殺すことは教義を守ることではない。それは人間を殺すことである」と
カルヴァンを真正面から全面否定
(佐々木毅『主権・抵抗権・寛容』p.54)
1554 イングランド・メアリー1世、フェリペ2世と結婚
ハプスブルク・カトリックの影響が強くなり、プロテスタント弾圧
名誉革命までの大混乱はメアリが原因と言って過言でない
大衆から望まれた女王は血のメアリへ豹変、クランマー大主教をはじめ300人が殉教
1555 アウグスブルクの和議
ドイツ系ルター派諸侯のとの戦いの末、カール5世はルター派を認める
この年、死期迫るカール5世はブリュッセルに諸侯を集めフェリペを後継指名
カール5世はネーデルラントの人、息子にはスペイン王朝が似合うようスペイン式の
「神聖な」教育を施す。これがプロテスタントの聖地オランダとの関係を難しくする
(岡崎久彦『繁栄と衰退と』pp.54-55)
1556 マルティン・デ・アスピルクエタ『徴利明解論』
Martín de Azpilcueta, Comentario Resolutorio de Usuras
貨幣数量説、購買力平価説の原型を提唱
1556 西・書類王フェリペ2世即位
各地に副王を置き中央集権化、自身は首都と定めたマドリッドで執務にあたる
スペイン・ハプスブルクとオーストリア・ハプスブルクに分かれる
カトリックの守護神として、カルヴァン派のオランダと対立
新大陸から流れ込む銀は税収の3分の1をも占める
(岡崎久彦『繁栄と衰退と』p.56)
1557 フランシスコ・デ・ビトリア『神学特別講義』
スペイン人ドミニコ会士でありながら、苛烈な中米植民地化を批判
グロティウスに流れ込む思想により、国際法の父と評される
ただし、セルデン著, 本田訳『海洋閉鎖論』p.366は、通商を拒んだインディオを
スペインが征服することを正当化したと非難(グロティウス『海洋自由論』p.19も参照)
1558 教皇ユリウス3世、エラスムスを「第1級の異端者」とする
エラスムス『痴愚神礼讃』解説p.333
1558 イングランド・エリザベス女王即位
メアリー1世の死去した日は、その後200年記念日とされる
エリザベス1世の下で大法官・庶民院議長・国事尚書を兼務したのが
ニコラス・ベーコン(フランシス・ベーコンの父)
1559 カトー・カンブレジ条約
長らく続いたイタリア戦争もこれで終結
相次ぐ戦乱で疲弊したハプスブルク、フランス、イングランドの和約
1618年にはじまる三十年戦争までの世界秩序を規定
ジャン・ボダン著, 平野訳『国家論』p.186にアンリ2世の使節団は交渉の経過を
1時間おきにアンリ2世に報告したという記述がある
シュミットは、これを歴史上2回目の線による世界分割と捉えた
新世界と旧世界を画す友誼線(アミティ・ライン)
(シュミット『陸と海』訳者あとがき, pp.272-273)
このとき、スペイン側の使いを担ったオラニエ公ウェレムはアンリ2世から
フェリペ2世がプロテスタントを虐殺する計画であることを聞かされ、戦慄する
(岡崎久彦『繁栄と衰退と』pp.61-62)
1559 仏・アンリ2世、事故死
イタリア戦争終結を祝う式典の際の、馬上槍試合にて
15歳のフランソワ2世が即位、カトリックであるギーズ家が権力掌握
1559 スイス・ジュネーブ大学創立
カルヴァンにより神学校としてスタート
1559 西・パルマ公妃マルゲリータをネーデルラント総督に任命
1559 教皇パウルス3世、初の禁書目録作成
1559 ロレンソ了斎、松永久秀の前で仏教の僧と論争
この場に居合わせた高山友照は感心、後に右近を含め一族で洗礼を受ける
1560 スコットランド・長老派創設
カルヴァンの下で研鑽したジョン・ノックスによる
ミルトン『イングランド国民のための第二弁護論』p.436は、モナルコマキ(暴君放伐論)
を擁護する宗教者としてルターらとともに列挙
1560 仏・アンボワーズの陰謀
3月、トゥール近郊のアンボアーズ城に滞在していたフランソワ2世誘拐計画が露見
11月、ブルボン家復興を目指す黒幕コンデ公ルイは投獄、カルヴァン派はユグノー
という蔑称で呼ばれるように
1か月をかけて1,200人を処刑、処刑者は城のフックに吊るされた、これを見た大法官
フランソワ・オリビエはショック死したと伝えられる
1560 仏・シャルル9世が即位
フランソワ2世が17歳で急死、10歳のシャルルが即位
カトリーヌ・ド・メディシスが摂政を務める
フランソワの急死によりカトリックのギーズ公フランソワの力が弱まり、ユグノーの
ブルボン家アントワーヌの力が高まる(ブルボン家:ユグノーの力を借りてお家再興)
カトリックへの狼藉にユグノーに対する反発広がる
1562 仏・サン・ジェルマン寛容令
摂政カトリーヌ・ド・メディシスは、城の外でのユグノーの礼拝を認める
カトリック側は反発
1562 仏・ユグノー戦争(〜1598)
3月1日、サン・ジェルマン寛容令に反する集会をヴァシーで開いていたユグノーを
ギーズ公フランソワの一団が発見、虐殺に発展
1563年、ギーズ公フランソワは暗殺され、一旦休戦も断続的に16世紀終わりまで続く
カルヴァン派の抵抗権(ホッブズ『法の原理』p.324の脚注109参照)
プロテスタント vs カトリック
イングランド vs スペインの代理戦争
イングランドの侵攻により仏カトリックとユグノーがコンデ公の下で大同団結
1562 トゥールーズの暴動
ユグノー4,000人が虐殺される
ヴォルテール『寛容論』で扱われたトゥールーズのジャン・カラス事件は、この200年後
1563 イングランド・魔術取締法、魔女狩り強化令
1563 ヤン・ヴィーア『悪魔の欺瞞』
ヨーハン・ヴァイアー『悪魔の幻惑について』とも表記
魔女狩り盛んなりしとき、反対論陣をはったヴィルヘルム5世の侍医
魔女はメランコリーだから処刑してはならぬと(黒川正剛『図説 魔女狩り』p.104)
ただし、悪魔の存在は否定せず、その法手続きを批判
740万5926人もの悪魔の手下がいるとの主張(森島恒雄『魔女狩り』p.195)
さすがにこれだけの人数を処刑できないだろうと
1563 イングランド・職人規制法(徒弟条例)
7年の徒弟を終えないと職人になれない
当時は人口の都市部への過剰流入を防ぐ役割を果たしたが
アダム・スミスの時代には既得権ギルドとして批判される
1563 ルイス・フロイスの報告書
大村純忠が領内の神社仏閣を破壊したとの記述
1563 高山右近、10歳でカトリックの洗礼を受ける
高山の親が一族ぐるみで盲目の琵琶法師ロレンソ了斎から洗礼を受ける
同年、ロレンソはイエズス会に入会する
1564 イングランド・宗教統一令
国教会に従わない人たちを中世のカタリ派にちなんでピューリタンと呼ぶように
カタリ=ピューリタンの意味
1566 蘭・偶像打ち壊し
バルレーモン伯シャルルは反スペイン貴族連合のことを、パルマ公妃マルゲリータに
「たかがこじき(ゴイセン、ゼーゴイゼン、ワーテルへーゼン)ども」と言い捨てる
ルソー『学問芸術論』p.37では「鰊漁夫」と評される
この名は、強大な軍事力を背景に圧政を強いるハプスブルク家に対する請願が、宮廷人
にはこびへつらいにみえたことに由来
(岡崎久彦『繁栄と衰退と』p.64)
耐えかねたオランダ人たちが暴徒化したのをみて、フェリペ2世が介入
西が仏経由でオランダに介入したことは、フランスユグノーに脅威を与える
オランダ・ゴイセン、フランス・ユグノー、イングランド・ピューリタンは、結託して
強大なスペイン・カトリックに対する海のゲリラ戦を展開、これがいわゆる海賊
(シュミット『陸と海』p.104)
1567 仏・聖デニスの戦い
ユグノー勢力のコンデ公ルイは、パリの北サン・ドニに陣を張り、カトリック側の援軍
を叩き、ユグノーに有利な和約を結ぶ
カトリックとユグノーの対立激化
1567 スコットランド・メアリ・スチュアート廃位
現在のエディンバラ大学内で、ダーンリー卿が殺害される
その直後に、この事件はメアリ・スチュアートと結婚したボスウェル伯によるものだと
して国民が反発、廃位となる→イングランドへ亡命
(ミルトン『イングランド国民のための第一弁護論』p.69)
1567 信長、楽市楽座を敷く
1568 ジャン・ボダン『物価騰貴及びそれに対する対策に関するマルトロワ氏の逆説的意見
に対する返答』
フランス王室財務官マルトロワの逆説的意見(佐々木, pp.131-134、
阿部修人『物価指数概論』pp.20-21)
物価騰貴に対する国民の不満にもかかわらず、物価は騰貴していなかった
→物価騰貴は貨幣改鋳によるとの見解
加えて、改鋳による物価騰貴により貨幣所得階級(固定地代を得る貴族や俸給受給者)
の生活は苦しくなったとする見解
これらのマルトロワの見解に対して、ボダンは物価騰貴の原因を5つ挙げた
金銀の量の増加、独占による価格吊り上げ、物不足、王や貴族の奢侈、貨幣改鋳
経済発展に伴う金銀の流入は受け入れ、副作用が出ないように気を配る
→ジェームズ・スチュアート『経済の原理』の原型(貨幣論、貿易関税論など)
1568 露土戦争
1568 蘭・80年戦争
ネーデルラントを統治する知将アルバ公は、2月16日、全ネーデルラント住民を異端
と認定、処刑すると布告、6年のうちに1万8千人もの犠牲を出す
異端に対する苛烈な仕打ちは、わずか4歳にしてムーア人(北アフリカのイスラム教徒)
に父を殺害された経験から
(岡崎久彦『繁栄と衰退と』p.66, p.72)
スペイン国王フェリペ2世の異端尋問にカルヴァン派ネーデルラント諸州が対抗
沈黙王ウィレム1世が立ち上がる(ネーデルラント国歌:世界最古?)
カール5世、フェリペ2世に忠臣として仕えつつ、プロテスタントへの共感も持つ
大名に挟まれた家康的な生い立ち、人柄(岡崎久彦『繁栄と衰退と』p.62)
散発的にウェストファリア条約まで続く
カトリック教会から没収した土地、南部カトリック州から逃げてきた人たちの
労働力(商工業、金融)を力に、成長の足掛かりを得る
1569 蘭・ウィレム1世、私掠船に認可状を出す
ゲリラ戦を展開し、オランダ海軍の原型に
1569 ルブリン合同
ポーランド・リトアニア共和国の成立
1571 元亀2年・信長、朝廷の運営を貸付け利益で賄う
畿内諸国の屋敷などから1升ずつ米を出させ、それを運用して得た利益を
朝廷に献上、朝廷の運営費に充てる
(井原今朝男『中世の借金事情』p.102)
1571 レパントの海戦
スペインとヴェネチアの神聖同盟がオスマントルコに勝利
(シュミット『陸と海』pp.61-62)
1571 イングランド・39箇条を議会承認
自由意志の肯定(エラスムス・後のアルミニウス的) 資料、特に第17条
救いの手は皆に差し伸べられているが、それを信ずるかどうかはその人次第
1571 イングランド・ロイヤルエクスチェンジ設立
グレシャムの尽力による(悪貨は良貨を駆逐する)
16世紀中頃に悪貨の整理
1572 蘭・デン・ブリル海戦
フェリペ2世から圧力を受けたエリザベス女王は蘭の私掠船の寄港を断る
行き場を失ったルーメイ・ウィレム・ファン・デル・マルク伯爵率いる24隻の艦隊は
オランダのロッテルダムに程近いデン・ブリルに流れ、スペイン軍と戦闘、私掠船の
勝利をみたオランダ全土にスペイン何するものぞとの思いが広がる
(岡崎久彦『繁栄と衰退と』pp.74-76)
1572 仏・聖バルテルミの虐殺
ユグノー側のコリニー提督がオランダの80年戦争に介入のため、ユグノー軍勢をパリに集結
カトリックであるカトリーヌ・ド・メディシスは、娘をユグノーであるブルボン家のアンリ
(後のアンリ4世)と結婚させ、和解の演出を目論む
祝賀会の帰途コリニー提督が銃撃されるも、一命を取り止める
パリは一触即発の緊張に包まれる
王家とパリ市民はユグノー諸侯の暗殺を計画、コリニー提督は暗殺され、他のユグノーも虐殺
恐怖により暴徒と化したパリ市民はユグノーを数千人虐殺、地方にも虐殺の波が広がる
アンリは一時幽閉される
黒幕メディシスはマキアヴェリ『国家論』に毒されたとの批判も
教皇グレゴリウス13世は「レパントの勝利の50倍にも勝る大勝利」と狂喜
(森島恒雄『魔女狩り』p.192)
フランスの力を得てモンス市(現ベルギー)を占領していたオランダ反乱軍のルイは撤退、
その後モンス市はスペイン軍による狂気の蛮行が尽くされる
(岡崎久彦『繁栄と衰退と』pp.77-78)
1573 蘭・スペインの猛攻を食い止める
ハールレムを失ったオランダはライデンに籠城、海からの援軍を得て辛くも勝利
水の恐怖を植え付けられたスペイン軍はこの後オランダに進軍しなくなる
これを記念してホラント、ゼーラントの両州がライデンにした多額の寄付がライデン大学
の起こり
その後のカトリック狩りの急先鋒であったファン・デル・マルクは追放される
狂犬に噛まれ不慮の死去
(岡崎久彦『繁栄と衰退と』pp.85-90, pp.92-93)
1573 オトマン『フランコ・ガリア』
Fracois Hotmanはオマンとも表記(佐々木毅『主権・抵抗権・寛容』p.33)
立憲民主主義により王権を制限するのがゲルマン人の伝統だとする主張
絶対王政に対する抵抗権(モナルコマキ:暴君放伐論)の萌芽
(ミルトン『イングランド国民のための第二弁護論』p.476の注220)
教皇のアヴィニョン捕囚後フランスに法律が流れ込み、売官制と相まってパルルマン
(高等法院)の権力が肥大化し、身分制議会の権威が低落した
議会(貴族制)の力を取り戻すべき
王と王国は別物(王は国民のために存在)
(佐々木毅『主権・抵抗権・寛容』pp.33-36)
1573 明・マカオにポルトガルの居留を認める
南蛮貿易(日本とマカオからの中国産品の貿易)盛んに
日明の貿易は南蛮貿易か、アジア海域の出会い貿易か
アユタヤやマニラに日本町形成
1575 ヴェネツィアでペスト大流行(〜1577)
1576 蘭・ヘントの和約(ガンの和約)
11月4日、給与支払いの遅れに起こったスペイン兵がアントウェルペンで暴動を起こす
8千人を超える死者を出し、1万8千人を超える避難者がホラント州にやってくる
オランダの中心がアントウェルペンからアムステルダムへ
この和約は、ネーデルラントの南部と北部がカトリック・プロテスタントの垣根を超えて
スペインに対抗することを約束
この後ホラント州は軍事活動に晒されなくなる、国境紛争化
(岡崎久彦『繁栄と衰退と』pp.93-94)
1576 仏・ボーリューの王令
5月6日、王宮、パリなどを除く地域でユグノーに礼拝の自由を与え、裁判官にもなれる
ようにした(ムッシュの平和)
あまりに寛容なこの王令に反発が広まり、ギーズ公アンリを中心にカトリック同盟(リーグ)
が結成された
ユグノーの論理『フランコ・ガリア』をカトリック側が吸収して転用(ルイ・ドレルアン)
ユグノー(に寛容な)王の排除をローマ教皇に求めるジャン・ブッシュ、イエズス会関係者
ローマ教皇から独立していたフランス教会に緊張関係が生まれる
(佐々木毅『主権・抵抗権・寛容』pp.45-50)
1576 ジャン・ボダン『国家論』(全6巻、〜1577?)
知る限り、邦訳は高橋薫氏による第1巻の訳 資料、資料1、資料2、資料3と
『フランス・ルネサンス文学集 1 学問と信仰と』(白水社, 2015年)所収の平野隆文氏に
よる抄訳のみ
「16世紀のモンテスキュー」(平野訳, p.170)と称されるフランスを代表する知識人
「真の宗教」を掲げる(ユダヤ教的、ユマニスム的、神秘主義的で、かつ三位一体説の否定
などキリスト教的特徴もおしなべて否定;佐々木, p.83)
自由意志肯定、原罪否定(人間は善にも悪にもなりうる不安定な存在)⇄カルヴァン予定説
不安定な人間を束ねて良い国を作るには、絶対権力者としての王の自由意志で、その他の
構成員を抑え込む強烈な力が必要とされる
欧州の伝統であった抵抗権の論理を否定、コミュニケーションの不在(佐々木, pp.105-106)
ポリティーク(特定宗派による神権政治では、主流宗派の交代に伴い国家の混乱は不可避、
それを乗り越えるべく、宗派を超越した王が統治する):政教分離の原型、寛容の統治論
ローマ・カトリック、フランス・カトリック、カルヴァン派、その他宗派の信者が混在し
殺し合っていたフランスを統治する理屈はこれしかない、とのリアリズム
アナーキー(無政府状態)よりティラニィ(圧政)佐々木, p.113, p.127
市民革命的な抵抗権(アナーキー)より、マキアヴェッリ的な権謀術数(ティラニィ)、
ティラニィよりも正しい統治(佐々木, p.128)
「プラトンや英国の大法官トマス・モア卿が想像したような、実体なき「観念としての国家」
を描きたいとは思わない」(平野訳, p.175)とあるように、幸福より統治の安定性を重視
神聖ローマ帝国内の公爵たちは主権者でない、主権者は唯一無二の存在であると主張
「われわれが神の似姿として把握している君主」(平野訳, p.181)
能動的な暴君放伐は王位が簒奪された場合にのみ可とし、王位が正当に継承された場合には
ユグノー戦争を当事者として体験したボダンの「tranquility を得たければ、圧倒的に強くあれ」
という強烈なメッセージ、ただし、この強制は外面的なもの(しぐさ)にとどまり、内心の
自由は担保する、神に対する畏敬の念が皆無な無神論は最悪の迷信にも劣ると嫌悪
(佐々木, pp.148-149)
こうした理想的世界が実現しているのがヴェネチア(佐々木, p.150『七賢人の対話』参照)
国内の臣民は王に絶対服従だが、王が圧政を敷いた場合には、他国の王がこれを放伐できる
(佐々木, pp.139-144)
平野の抄訳に暴君放伐論へ言及する箇所は見当たらず
民衆政は衆愚政治、もしくは独裁政治に陥ることから批判(佐々木, pp.159-160)
後年は神秘主義的に(アンリ3世は63代の王、7×9=63という数字は不吉だ、など)
「主権者の権利が、君主と臣民との間で分割されているところでは、ある一人の者が、
もしくは極少数の者たちが、もしくは、皆が主権を持つまで、国家の混乱において、
優越性に関する止むことのない騒動や口論が存在する」(p.194)
(フィルマー『著作集』p.300)
セルデン著, 本田訳『海洋閉鎖論』p.366で言及される
ボダンは貨幣論の権威としても名高い
1576 イノサン・ジャンティユの反マキアヴェッリ論
本のタイルはとても長い(佐々木毅『主権・抵抗権・寛容』p.201の註83)
ユグノーのInnocent Gentilletは、聖バルテルミの大虐殺の黒幕カトリーヌの考えは
マキアヴェッリに毒されているとして批判、「獅子と狐」に象徴されるローマ的権謀術数
は神を恐れぬ無神論だと切り捨てる
フランスはセセルの助言、敬虔、ポリスという統治の基本に立ちかえるべきだとした
(佐々木毅『主権・抵抗権・寛容』p.31)
1577 ヤン・ヴィーア『魔女論』
1577 仏・貨幣単位の評価替え
アンリ3世による、旧来のリラ、ソルド、ダナーロという貨幣単位を廃し、スクード(エキュ)
という単位に切り替え
インフレにより貨幣単位で契約していた王の収入が激減したため(ガリアーニ著『貨幣論』p.113)
1579 蘭・ユトレヒト同盟、アラス同盟の結成
ガリアーニ『貨幣論』p.161の訳註4を参照
レパントの海戦の英雄オーストリア公ドン・ファンがオランダ総督に就任
南部カトリック地域で分離工作、これが功を奏す
ユトレヒト同盟は反スペイン(カルヴァン派・北部7州)→ 蘭
アラス同盟は親スペイン(カトリック・南部10州)→ ベルギー、ルクセンブルク
オスマントルコの伸長により地中海貿易が衰退、東ヨーロッパの穀物は北海経由で
ヨーロッパの南西へ(オランダ中継貿易)
ユトレヒト同盟の通貨単位はギルダー、しかし金貨鋳造は複数の都市
計算貨幣と流通貨幣の分離、軍事費の共同出資、財政基盤は州にある
多様な商品に消費税→逆進性、庶民の負担増→累進課税へ
1580 ジャン・ボダン『魔女の悪魔狂について』 資料 資料 資料
4か国語に訳され、23もの版を重ねるベストセラーに
16世紀に禁書目録入りをしたようである(佐々木毅『主権・抵抗権・寛容』p.80)
知る限り、邦訳は『フランス・ルネサンス文学集 1 学問と信仰と』(白水社, 2015年)
所収の平野隆文氏による抄訳のみ
訳者の平野氏は「大知識人ジャン・ボダンが、その晩年に著した『魔女論』は、言わば
晩節を汚す「狂気の書」として、無数の歴史家に断罪されてきた」と紹介
「魔女とは意図的に悪魔的手段を用いて何事かを実現しようと目論む者である」という
第1の書第1章の冒頭文は、『フィルマー著作集』p.720に引用されている
マニ教的な善悪二元論を批判(平野訳, p.211)し、「神は、さらに大きな善が生起する
場合を除いては、いかなる悪であれそれが生じるのを許すはずがない」(平野訳, p.215)
と指摘
ボダンの思想を貫く自由意志の不安定性(善にも悪にもなる)を基に、自発的に悪魔と交渉
し、契約した魔女は救いようがないとした(佐々木, p.87)
密告やインディクト(目安箱)、警告書など、悪魔的な魔女告発手段を紹介(平野訳, p.223)
"効果的な" 拷問のやり方も例示
証拠の成立または強度の推定をもって死刑となす、魔女を無罪放免とする裁判官も死刑となす
この猛烈な主張は、神を中心とした社会秩序を破壊する恐れのある者の徹底排除という点で
キリスト教異端に対する寛容政策と矛盾しない、むしろ魔女という共通の敵を猛烈に叩くこと
でキリスト教内の秩序を維持するという究極の選択(佐々木, pp.152-153)
フランソワ1世、アンリ2世、シャルル9世は魔術愛好者(佐々木, p.287の註53)
ボダンはヤン・ヴィーア『魔女論』を読んで激昂し、『ヤン・ヴィーアへの駁論』30ページ
を加筆(森島恒雄『魔女狩り』p.194)
1580 モンテーニュ『エセー(随想録)』
関根秀雄氏による訳は2,100ページほどの決定版とされる
ルソー『学問芸術論』に多大な影響
1580 イングランド・魔女狩り強化令
1580 イングランド・ドレークが世界周航から帰還
利回り4,700%を達成、イングランド国庫を救う
イングランド・東インド会社設立の原資となる
1580 大村純忠、長崎の統治権をイエズス会に譲る
貿易を独占したい大村と、布教・奴隷商の思惑一致
1580 西・イベリア連合を成立させる
ポルトガルを併合
1581 西・フェリペ2世、ポルトガル王フェリペ1世として即位
スペイン、ポルトガル、オランダ、イタリア地域、フィリピン、マラッカ、ブラジル
などを版図に太陽の沈まぬ大帝国
1581 蘭・忠誠廃棄宣言
フェリペ2世の統治を拒絶、以後カルヴァン派の聖地に
フェリペ2世の妨害を避けて東方貿易をしたいというニーズ
→ロシア沿岸経由ルートの模索、失敗→VOC
銀を満載したスペイン戦を襲う私掠船
(岡崎久彦『繁栄と衰退と』p.99)
1581 イングランド・レヴァント会社設立
エリザベス女王から貿易独占の特許状を得て、トルコとの貿易に従事
1582 本能寺の変
1584 イングランド・ローリーのアメリカ探検
エリザベス女王の寵臣ウォルター・ローリーが探検の末、現在のノース・カロライナ州
ロアノーク島に植民、タバコをイングランドに持ち込むも、莫大な利益は得られず
しかし、この後アルマダの海戦に備えて女王は補給船を植民地に出港させる許可を与えず、
1590年に訪ねてみると入植者は消えていた
本格的なバージニア植民は17世紀から
ベンサム『道徳および立法の諸原理序説』上, pp.75-76の原注(5)
1584 スコットランド・暗黒法
教会に王と議会の批判を禁ずる
1584 天正遣欧少年使節、フェリペ2世に拝謁
1584 蘭・沈黙公ウィレム1世、暗殺される
若年のマウリッツをオルデンバルネフェルトが補佐
「私は死ぬ。神よわが魂に恵みを垂れ給え。わが哀しき民を救い給え」
(岡崎久彦『繁栄と衰退と』p.100)
1585 西・アントウェルペン占領
ウィレム1世暗殺前後からスペインが大攻勢をかけ圧倒、アントウェルペンは降伏
1576年のヘントの和約同様、商人の多くがアムステルダムへ
1585 長崎の要塞化をフェリペ2世へ進言
1585 仏・ヌムール王令
ギーズ公の圧力によりユグノーのナバラ公アンリ(後のアンリ4世)の王位継承権を剥奪
ジャン・ボダンは書簡においてナバラ公を強く批判(佐々木, p.174)
1587 豊臣秀吉、九州平定、バテレン追放令、長崎を直轄地に
神社仏閣を破壊、日本人を東南アジアへ奴隷や傭兵として輸出したポルトガルを追放
高山右近を通じて、小西行長、黒田官兵衛、蒲生氏郷、前田利家、細川忠興など、錚々たる
戦国大名がカトリックに感化あるいは黙認(細川ガラシャ:明智→細川、堺=イエズス会)
高山右近は大名の座を捨て、小西行長、前田利家に庇護される
16世紀内に兵農分離(刀狩り)、徴税基盤(検地)を確立した手腕は天才的
刀狩りは「方広寺の建設のために金属を徴収」との触れ込み
実際には、刃傷沙汰をやめさせるための象徴的な御触れとも
今最も活躍すべき政治家像
1587 イングランド・メアリ・スチュアートを処刑
国内外のカトリック勢力から担がれるメアリ・スチュアートを王位継承者から排除
1588 ダヴァンツアーティ『貨幣論講義』
フィレンツェ学士院での講演録
1588 アルマダの海戦
メアリ・スチュアートの処刑を受けて、カトリックの王フェリペ2世がイングランド
と対戦するも無敵艦隊アルマダが敗北、ドレークの海賊作戦がスペインを蹴散らす
長期化する蘭との対立により、イングランドの財政赤字が急拡大
植民地から得た銀の倍額ブリュッセルに投入
1588 ホッブズ、フィルマー誕生
共に王権を擁護しつつも論敵となる
ホッブズは、アルマダ海戦の報を聞いた母が早産した子という伝説、父は国教会の牧師
1588 仏・統一王令
5月12日、カトリック派のギーズ公をアンリ3世が殺害しようとしているとの噂が広がり
カトリック同盟(リーグ)がパリにバリケードを築く(バリケードの日)
アンリ3世はパリから退去せざるを得なくなり、ナバラ公アンリと接近
王太后カトリーヌが仲介に入り、統一王令が発布され、カトリック同盟の言い分が通る
カトリック教徒が王になることを王と三部会の協約とした
異端の排除、トリエント宗教会議の結論を受け入れること
(佐々木毅『主権・抵抗権・寛容』p. 47, p.214の註10)
12月23日、ブロワ城に誘き出されたギーズ公は殺害される
1588 仏・高等法院、魔術の有罪判決の全てを再審査する方針
国境地域で多発する魔女狩りを食い止めるべく、中央政府は監視を強める
(黒川正剛『図説 魔女狩り』p.65)
1589 仏・アンリ3世暗殺
8月1日、ドミニコ会士ジャック・クレマンに殺害される
ユグノーとカトリックの争いを鎮められず、ヴァロア朝断絶
死の床でナバラ公アンリを後継指名、アンリ4世が即位してブルボン朝成立
カトリック陣営はローマ教皇から破門されていたアンリ4世を受け入れられず、混迷
1589 ロシア正教会、独立正教会として承認される
2018、コンスタンチノープル総主教が新生ウクライナ正教会を承認
ロシア正教会はコンスタンチノープル総主教庁と断交
ウクライナの正教会は大変複雑な歴史を持つ
2019、ギリシャ正教会、アレクサンドリア総主教庁と断交
2020、キプロス正教会と断交
1589 スコットランド・ノース・バーウィック魔女裁判
ジェームズ6世搭乗の船が嵐に遭遇したのは魔女の仕業だとして
エディンバラ東の港町、ノース・バーウィックの住民が魔女狩りに遭う
ジェームズの次の王位継承権を持つボズウェル伯も魔女だとして
(黒川正剛『図説 魔女狩り』p.63)
ジェームズ6世は1590-1592にも魔女狩り(森島恒雄『魔女狩り』p.107)
1590 天正18年・キリシタンによって日本に活版印刷が輸入される
資料:https://www.jfpi.or.jp/printpia/topics_detail21/id=3563
1590 ジャン・ボダン、家宅捜索される
1588年にすでに聖職者が思想調査をしていた
カトリック同盟(リーグ)の力が強くなり、禁書や悪魔関係の書物を多く所蔵する
ボダンを捕らえ、禁書を焼き、検閲した(佐々木, p.283の註15)
1591 イングランド・チープサイドにて、ウィリアム・ハケットが荷車の上から
「我は神である」と演説、処刑される (ホッブズ『法の原理』p.88)
1592 文禄の役
1592 スコットランド・黄金法
1584年暗黒法の引き締めに対する批判が高まり、集会の自由を保証
1592 蘭・神父コルネリウス・ルース、監禁される
自説19項目で悪魔と魔女の存在を否定(森島恒雄『魔女狩り』p.196)
1593 仏・ナバラ公アンリ、改宗
サン・ドニ大聖堂にてカトリックに改宗
カトリック同盟(リーグ)のブッシュらは、これを偽善だとして猛然と批判
同年、リーグの三部会開催
1594 仏・アンリ4世、戴冠式を実施
同年、19歳の布商人の息子ジャン・シャテルに襲われるが、一命をとりとめる
背後にイエズス会の影
フランスでは多数派のカトリックがプロテスタント弾圧、プロテスタントは抵抗権主張
ヒューム「政治を科学に高めるために」『市民の国について』pp.208-209はアンリ3世
を暗君、アンリ4世を名君として描く
1594 フッカー『教会統治の法』
Hooker, Richard, The Laws of Ecclesiastical Polity 資料
1595 ニコラ・レミ『悪魔崇拝』
ロレーヌ地方の検事総長は、15年間に900人の魔女狩りをしたと吹聴
ニコラの子息も魔女狩り、2,000人を処刑したと伝えられる
1595 イングランド・ウォルター・ローリー、ギアナ探検
1595 フランス・スペイン戦争
フランスはイングランド、ネーデルラントと同盟を組んでスペインに対抗
1596 サン・フェリペ号事件
土佐に漂着したスペイン船の乗員が長崎で処刑される
1596〜 ペスト大流行
30歳の時の作とされる
ノース・バーウィックの悪夢から魔女への恐怖未だ癒えず
水責めの記述も(右手親指と左足親指、左手親指と右足親指をロープで結び川へ
沈めば無罪だが溺死、浮かべば魔女裁判で処刑)
pythonは「占いの霊に取り付かれている女」の意味(『フィルマー 著作集』p.603)
この著作がシェイクスピア『マクベス』をもたらしたとも
1597 スコットランド・魔女告発の権限を地方から取り上げる
地方で激化する魔女狩りを抑制するため、枢密院、議会の許可制に
1215年の第4回ラテラン会議で禁止された水責めの拷問で自白を迫る
(黒川正剛『図説 魔女狩り』p.64)
1598 慶長の役
1598 ジャガイモが日本に伝わる
アンデス山脈→アカプルコ貿易→ジャカトラ(現ジャカルタ)から
馬鈴薯はマレー薯から
(祝田秀全『銀の世界史』p.95)
1598 ジェームズ6世『君主国の真の法』 資料 資料 資料
王権神授説(王は悪を為さず)
1598 仏・ナントの王令
一つの信仰、一つの法、一人の国王(une foi, une loi, un roi)の伝統を破り、
ユグノーに一定の信仰の自由を認める(良王アンリ、大アンリ)
内乱が収束し、旧勢力のカトリックと新興商人のユグノーによるフランス発展の礎に
公共投資、徴税請負制度、芸術振興(ルーブルの大ギャラリー)など、国富増進に邁進
1598 蘭・ファン・ネック、希望峰周りでアジアへ到達
東インド会社設立の1602年までに65隻が往来、過当競争で香辛料が値崩れ
→共同会社設立の構想
(ジェームズ・スチュアート『経済の原理』pp.175-176)
識字率の高さ(聖書を読むプロテスタント)が商売を支えた
当時の情報網、流通網、金融構造を考えると、最適な大きさの国
沓掛訳『痴愚神礼讃』p.126の一節はホラティウス『書簡詩』1.1.45-46行にある
「地の果てインドまで駆け巡る」をふまえているとの指摘(p.275の注4)
1598 蘭・オルデンバルネフェルトの使節団、仏王アンリ4世に謁見
アンリ4世はグロティウスを「ホラントの奇跡」と称える(グロティウス『海洋自由論』
/セルデン『海洋閉鎖論』第一分冊解説, p.442)
1599 蘭・新型帆船を建造
横帆をつけて推進力を高めた
スペインもこの新型帆船を借りなければならないほど
(シュミット『陸と海』p.84)
1599 マルタン・デル・リオ『魔術研究』
ルーベンにてイエズス会士が出版した魔女狩りの手引き書
(サルマン『魔女狩り』p.44)