石敷きの大規模な堀跡(7世紀中頃)が見つかった奈良県明日香村の小山田遺跡(明日香養護学校の敷地内)を調査している同県立橿原考古学研究所は、三月一日、横穴式石室の入り口部(羨道)の遺構を発見したと発表した。羨道の位置などから、一辺が七十メートルに達する巨大方墳と判明。蘇我馬子の墓と考えられる石舞台古墳(一辺50m)を上回る最大級の方墳という。今回の発見により、遺跡名を「小山田古墳」に改め、発掘を継続する(日経新聞より)。★同研究所は滑谷岡に葬られた(642年12月)のち、押坂陵に改装された(643年9月)舒明天皇の遺構、滑谷岡の陵とみているが、蘇我蝦夷の墓とする説もある。 舒明天皇は641年10月9日(旧暦)に崩じているので、陵墓の築造には一年少しをかけていることになる。これくらい立派なものができても不思議はない。 蘇我蝦夷は「皇極元年(642)、人民を大量動員してあらかじめ双墓を今木に作った。一つを大陵といい蝦夷の墓、もう一つは小陵といって入鹿の墓とした」とされている。 現在の今木は御所市の山中にあり明日香からそうとう離れている。橿原考古学研究所が舒明天皇の滑谷岡の改装前の墓とするのは日本書紀の記述に一致しないからであろう。しかし、蘇我氏の墓所は石舞台古墳が馬子の墓であると思われるし、都塚古墳が稲目の墓と目されるように明日香村内に作られている。 小山田古墳の隣に菖蒲池古墳があり双墓と呼べるような位置にあるし、蘇我氏は甘樫丘に家を並べて建てたとされていて、古墳は甘樫丘の外れといった位置にある。小山田古墳と菖蒲池古墳を蝦夷、入鹿の墓とする見解にも根拠がある。日本書紀の記述が正確なのかどうか。今木という地名がどこを指すのかははっきりしていない。菖蒲池古墳がどういう古墳なのか発掘調査が待たれるところである。
2017/08/24
県立橿原考古学研究所は、小山田古墳で横穴式石室の入り口部分の遺構と通路(羨道)が見つかったと発表した。羨道は前年度調査の延長部分で、長さは8.7m以上あることがわかった。
日本最大級の規模を持つ石舞台古墳の羨道は11.7mで研究所は石舞台に並ぶ大型の石室だった可能性が高いとしている。羨道はさらに北へ続くとみられる。今回調査では、棺を安置する玄室に通ずる羨道の両側に壁として積まれた巨石を抜き取った穴を左右四ヶ所ずつ、計八ヶ所を確認した。羨道は石舞台古墳と同じ幅の約2.6mで、中央には排水溝もある。