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エニシキは縁世(エンゼ)なる言語内的世界を創出し、それを現実世界に衝突、干渉、融和させることで現実世界に介入させる。

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エニシキ は呪文であるが、縁に対する最適なアプローチの結果、言語としての記述力が要求されて、然々の形になっている。縁に干渉する、つまり、縁に対して世界の差異を提案するためには、現在の世界の様子をできる限り精緻に記述しないといけない。喩えるなら、縁の操作というのは、人工的な可能世界の現実への移植なので、あまり強引にすると拒絶反応が起こる。そのために、人工的な可能世界(これを縁世と呼ぶ)はできる限り、変えたい部分以外については精巧に現実であるようにして、干渉への抵抗レベルを下げなければならない。つまり、縁それ自身に限りなく近づけることが、縁操作に不可欠である。一方で、同時期に縁に対する「語りかけの法」が提案された。これは「縁がエニシキによって操作できているのは、エニシキによって我々が縁と対話できているから」という着想から発した。この、現実への記述力と、縁との対話力の双方を組み込むと、エニシキは自然に言語らしい形に仕上がった。

# 格の多色化

格の多色化。すなわち、格の不定化。絶対格は変わらずして、それ以降にくる格辞無標の項は関与原理に従う。

# 相の拡張案

日本語で「いまだに」には「未だに」と「今だに」の2つの書き分けがなされているが、実のところ、この「いまだに」はかなり類似したニュアンスを持っている。

状態遷移が起こりうるべきところで、すなわち、もう既にそうであってもよいところでそうではない状況、「逆接的維持」のニュアンスを示している。

「未だに」は「それがもう既に始まっていてもよい(つまり、mu相であってよい)ところで、依然として始まっていない(lena相)」ということを、

「今だに」は「それがもう既に終わっていてもよい(つまり、cesa相であってよい)ところで、依然として終わっていない(mu相)」ということを表すと取れる。

さらに、「既に」は「いまだに」のように書き分けがされてこそいないが、これは「いまだに」の対として理解できる。

つまり、「それが始まる/終わる頃よりも先に、始まって/終わってしまっている」というようなギャップのニュアンスがある。

もちろん、「未だに」と「既に」には必ずこのギャップのニュアンスがあるわけではないことに注意されたい。

# 象徴項辞 k-

k- はその内容語の絶対格を象徴するようなものを表す。

# エンの起源

エンの初源はウィト・フェルミ(Wit Fermi)の『世界を繋ぎ、そして世界たるもの』にあるとされる。

『世界を繋げ、そして世界たるもの』では、エンは c'ila ezno と呼ばれており、直訳すれば「矛盾する原子」である。

ウィト・フェルミはこう述べている: 「本書で述べる仮想的な、現実味のある虚実体は、この世界を構成するとともに、この世界をなしている。それは一であり、それがゆえに全である。後世に受け継がれることを願って、この虚ろで確かな実体に「矛盾する原子」と呼ぼう。」

「本音を言えば、矛盾する世界原子としたいが、冗長な名称は一般に消え去るのみであるからして、「世界」をその名に取り入れないこととする。この原子は一であり、それがゆえに全であるとともに、全であり、それがゆえに一たりうる。」

「我々の意識やそこに沸き立つ諸感情、それの備える肉体、それを取り巻く空間、それを受け流す時間というものは、究極に言えば、この矛盾する原子に終結する。」

「我々があるものについて、それが生じ、発展し、やがて朽ちるにつれ、滅するという印象を抱くのは、間違いではないが、間違いであるとしか言いようがない。それは元々そこに無かったし、実は永劫そこに在るからである。我々の印象は世界を色付けるが、ただそれだけである。一方で、我々には非常に優秀な見えざる感覚器官があるという他はない。それは比喩付けであったり、関連付けであったり、連想付けであったりを担う器官であり、恐らく世界を捉えうる唯一の器官である。」

「私はこれから、この器官と矛盾する原子に、細い一本の糸を以って繋ぎとめよう。この矛盾する原子は、おそらく世界の本質であるし、世界そのものであり、この感覚器官を以ってそれが完全に理解されることはなくとも、何かしらを感じ取ることができるかもしれない。」

「c'ila ezno なる概念は、ある意味それ自体が c'ila ezno であったという他はない」と、後世のエン学者であるディン・トポリ(Din Topoli)は述べる。

「瞬く間にその概念は世界を包括し、世界の一つとなった。そして、洗練されていった。」

彼によれば、c'ila ezno のことを極めて短く cena といったのは、エスゲルの学者、シム・ファイン(Sim Fain)である。

「我々は、ezna よりも ila に強く印象を受けており、ezna の中については、阻害音である z に印象を抱く。であれば、実際に、c'ila ezno が c'ila ezno として意味を持つのは、その補である “e” や “no” でなかろうか。私はこのことから、最も c'ila ezno を正確に表す単語として、短く、そして力強く、cena と名付けたい。」

ディン・トポリは、たとえシム・ファインがこの世にいなくとも、ほぼ必然的に ena になっていただろうと述べる。結局のところ、ファインの推論は正しかった。「c'ila ezno は、その魂を ena に宿してから一層強く、この世界を支配した。」

言語学者 ウォロフ・ソシエ(Wolof Socie)は、「エンには物理法則がそうであるように、何らかの慣性や力動性がある」と主張した。

このウォロフの仮説はまだ実証されていない。

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適切な命題は、半ば自発的に真に向かおうとするポテンシャルを有する。

縁技師の一般業務の手順は簡単に言って、

① 問題の箇所の修繕のために ② エニシキによってエネルギーを生成し ③ そのエネルギーを引き出し ④ 修繕を行う

修繕のための小道具は縁孔の空いた針

縁孔は縁エネルギー(エネギッケ)の保持に重要。あと、一箇所に滞在することをかなり嫌うので、常に流しておかないといけない。 縁技師の修繕の姿はそのために半ば舞っているようにさえ見える。簡単な指標として、縁技師としての実力と舞の滑らかさは比例する。

一般的に、縁語自体から取り出せるエネギッケの量はそこまで大きくない。 しかし、よく知られた現象に、発話者の感情とのリンクがある。すなわち、話者の感情が強く発露するとき、 縁語によるエネギッケ抽出がその感情のエネルギーも引っ張ってくることがある。

厳密には、強い感情を介して話者自身のエネギッケを奪う。縁技師(たまに一般人も)の中には、この現象無しに自身のエネギッケを使えるものや 逆に自発的に周りのエネギッケを自身に取り込むような性質をもつものもいる。特に後者は厄介であり、よく修繕対象となる。