ルカ15:11~32
このたとえの“次男”は、地の面に散っていった世界中の人々をも意味する。“地の果てなるもろもろの人よ、わたしを仰ぎのぞめ”(イザヤ45:22)。あなたは、わが目に尊く、重んぜられるもの(イザヤ43:4)
とことんまで落ちぶれてしまった息子、豚のえさをさえ食べたくなるような状況の中で、恥も外聞もなく、“彼は本心に立ちかえった”(ルカ15:17)。この語は、ヘブル語の背景からすれば、“悔い改める”ことであり、“存在の故郷に帰る”(シューブ)ことである。それゆえ17~19節は、信仰告白に他ならないのである。遠く離れていたのに彼を認めたのは、父であり、走りよっていったのも父である。イエスの中に、私たちもまた父の憐れみを知るのである。
(文・石田 龍三)