2019年12月1日
会津田島教会
石田 龍三
イエス活動の中心はガリラヤ地方であり、その拠点となるのがカファルナウムです。マタイ4:13には次のように記されています。「ナザレを去って彼は湖のほとりのカファルナウムに住まわれた。」また、マルコ2:1には、「家におられる。」とあります。ここで彼は力強い説教をし、癒しの業を行っています。
ところで、洗礼者ヨハネへの返答は、イエス活動の核心です。この点において、イエスがこの村を活動の拠点にされたのは意義深いのです。なぜなら、この村の名がカファルナウムだからです。カファルナウムは、カファル(村)とナフム(男性の名前)から出来ています。ナフムという人物がこの村の創始者だという記録はありません。「ナフムの村」のもうひとつの意味は、ナフム:「慰め」です。病人が癒され、力ある言葉がこの村の会堂で語られているのです。
ですから、このように言うことができるのです。「イエスが居られるが故に今や、カファルナウムは言葉本来の意味を獲得したのだ」と。カファルナウムにイエスが住んでおられる。その故に「慰めの村」なのであると言えましょう。「生きる時も死ぬ時も、ただひとつの慰め」が、ここにあるのです。(ハイデルベルクカテキスム問1)。この慰めは、ただ神にのみ依拠するのです。旧約聖書を貫いて見出される”決して変更されることのない神からの慰め”なのです。次のベテスダの池の出来事でもわたしたちはこの事に出会うことになるのです。
福音書記者ヨハネによれば、イエスは数回に渡りエルサレムに上京しておられます。今日のテキストは、エルサレムでの、ある祭りの時のことです。イエスはベテスダの池と呼ばれている場所に立ち寄られました。
ベテスダとは、ベート(家)・ヘセド(恵み、愛)からなる語です。ですから、これは「恵みの家」ということになるのです。先に「慰めの村」でみましたように、このヘセドも、神からの決して変更されることのない恵み、愛を意味するのです。ただ神のみが与えることができるヘセド。それゆえ、ここは「神の恵みあふれる家」と言うことができるのです。
もうひとつ、この家については、別の読みがあるのです。ベト・ザタです。その意味は「オリブの家」。旧約聖書のノア(慰めの意)のことを知っていますならば、よく解ると思います。「希望の家」とでも言ったらいいのでしょうか。ともかく、この家の名は神のみが与えて下さる恵みと希望に満ちた家であると言えましょう。
この家の池には回廊があり、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人など、が大勢横たわっていたのです。“決して変更されることのない恵み”に与るために。
3bー4は、ここにある伝承を知らない人々のための註釈です。こう記されています。「彼らは、水が動くのを待っていた。それは、主の使いがときどき池に降りて来て水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。」
いやされる者がいるのです。その時、ただひとりの人が癒されるのです。何という恵み。何という愛。「今回はだめだった。けれど、いつかこのわたしも。」横たわっていた多くの者を支えているこの希望。「いつかわたしも癒される。」何という希望。
決して変更されることのない神の恵みが現実となる家での、たった一つの可能性にかける弱者の、捨て置かれた者たちの生への闘争。これが恵みの家で繰り返されてきた何ともやりきれない現実なのです。
さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がおりました。いざという時、他の人に運んでもらうしか癒される方法はなかったのです。助かるためには手助けがいるのです。しかし、みな自分の事で必死でした。イエスがこの男に語ったのは「よくなりたいか」(共同訳)でも「治りたいか」(口語訳)でもありません。「元気な体にされることを、おまえは望むか」(直訳)とのイエスの問いだったのです。救いの到来の瞬間、隣人は助け手とはなりませんでした。この男の前に立つイエスは、今、神の変わることのない恵みを与えるただ一人の方として、しかも、それを必要とする人に対し、この問いを発することができるのです。この問いは今も「恵みの家」に横たわっている人々すべてに均しく、実現可能な希望となったのです。
イエスが居られるが故に、そして声をかけて下さるが故に、多くの望み得ない実現不可能の、この惨めな、あわれな人々の家(ただ一人の人にとってはなお恵みの家)は、今、イエスにおいて、真の「恵みの家」となったのです。カファルナウムが、イエスが居られるが故に「慰めの家」の内実を取り戻したように。
イエスがあなたの所に来られる。イエスがあなたと共に居られる。それゆえ、あなた自身が今や「慰めの村」あなた自身が「恵みの家」なのです。主の慰めが、恵みが、あふれる希望が満ちている家なのです。横たわる者にとって”惨めな家”は、イエスが居られるが故に、ひたすら治していただきたいと心の底から願う者にとって、真の意味で「恵みの家」へと変えられたのでした。