2017年2月5日
礼拝説教
於 会津田島教会礼拝堂
午前10時30分~正午
心を満たすものはただ一つである
聖書 ルカによる福音書 10章38節~42節
説教者
石田 龍三
一同が旅を続けているうちに、イエスがある村に入ってゆかれた(38)。 それは城壁のない村(kōmē)であった。ルカはその村がどこにあったのかは語っていない。その村の住人であるマルタという名の女がイエスを喜んで家に迎えいれた(38)。彼女の持ち家であったのか借家であったのか、両親がいたのかいなかったのかそれもはっきりしない。ルカの関心はそこにはない。ルカの関心は、マルタがイエス一同の到来を大歓迎している(hypodechomai)ところにある。 したがってマルタはイエスと初対面ではなく以前からよく知っていたかあるいはイエスに関する情報がすでにはいっていて、迎えたいと熱望していたかのいずれかであろう。見ず知らずの人を歓待するとは思われない。 ともかくイエスはこの家の客人となったのである。
ルカの報告は続く。マルタには姉妹がいて、名前をマリアといった。彼女はイエスのそば近くに座して、イエスの言葉に聞きいっていた。聞いていた者は彼女だけではなかったであろう。ともかくマリアはイエスの口から発せられる言葉、ガリラヤ地方の人々に語られたと同様、人の心に突き刺さってくるような、力ある、そして感動を与え、喜びを満たすその言葉に耳を傾けていたのである(39)。
ところで、マルタはいろいろなもてなしのためにせわしく立ち働いていた(40 共同訳)。最後の部分はせわしく歩きまわっていたとも読むことができる。ともかく彼女はもてなし(diakonia)のために忙殺されていたのである。 そんな中で彼女の目にとまったのがマリアである。マルタは言う、「主よ、気にならないのですか、わたしの妹はわたしだけにもてなしをさせています。妹に言って下さい。私を手伝ってくれるように(40)。一生懸命、せわしなく動きまわっているマルタにすればその通りであろう。多分間違ってはいない。わたしたち多くの者もマルタと同じ判断をするであろう。
イエスは言われる、「マルタよ、マルタよ、あなたの心はずたずたに引き裂かれて、心がかき乱されている 。」(41)
マルタの思い患いは、現代に生きている真面目な人々が持つ不満の声でもある。一生懸命生きているのに報われない人生。残るものは満たされることのない飢えと渇き。42節のイエスの返答はこの出来事の中心であり、イエス到来の意味の中心である。「無くてはならないもの」(42 口語訳)、「必要なこと」(共同訳)という語は Cheia の訳語である。意味は困窮、欠乏、必要である。 英語の want 、need 、ドイツ語の Not もみな“満たされることのない心”にかかわる。いくつにも細分されたマルタの心がそれら一つ一つを満たせと騒ぎ立つ。思い出そう。荒野をさまよったイスラエルの民ですら、主が与えて下さったマナで満たされることはなかった。決して満たされることのない渇望は貪欲である。 マルタへの、イエスの返答はこの渇望へのただ一つの答である。 イエスのかたわらに座り、イエスからほとばしり出てくる恵みの言葉にひたすら耳を傾けるマリア。ルカはここに目をとどめるように語っているようである。イエスは言われる。マリアは良い方を選んだ。満たされることのない渇望を、飢えを、永遠に満たすもの、マリアはそれを選びとった。マリアは自分が受ける分、恵みあふれる分け前を選びとったのである 。
次の言葉こそ、イエスが命をかけて語られた力あることば、一歩もひくことなしに語られたことばである 。42節は、「マリアは恵みに満ち溢れたものを選びとった。私イエスは、それを誰にも彼女から取りあげさせはしない。」と理解することができる。
イエスのかたわらに来て、ひたすら、そのみ言葉に耳を傾ける者があるならば、イエスは体をはってそれを可能にして下さる。誰にも邪魔させはしない。マリアから、姉妹マルタでさえ、それを奪い取ることはできない。否、イエスがそうさせない。
貪欲なまでの、満たされることのない私達の渇きを満たすものは、主イエスの言葉(39)だけなのである。恐れずに言おう。それは主イエスからやってくる、力ある、恵みあふれる言葉だけなのである。