2003年12月28日
礼拝説教
於 会津田島教会礼拝堂
午前10時30分~正午
この目が救いを見た
聖書 ルカによる福音書 2章22節~32節
説教者
石田龍三
「信仰とは何か」キリスト者にとって、それはイエス・キリストに信頼する、それも生きる時も死ぬ時も唯一の慰め主(参考:ハイデルベルグ・カテキズムス 竹森先生 訳)として信頼するということであります。日曜日(聖日)の礼拝のときだけとか、自分に都合のいいところ、すなわち”良いとこ取り”をするとかではなくて、あの十字架への道を歩まれたイエスの中に、人間の救いを見ること、そのイエスを信頼することなのであります。
ところで、私たちが常にしなければならない事が一つあります。それは、旧約聖書の中で言われ続けてきたように、主の声に聞き従うことです。人々を引きつけるものが、この世界には数多くあります。それらは、私たちの心をとらえます。そのような中で私たちの全存在の慰め主としてイエスに信頼し、耳をかたむけ続けるのです。これが信仰であります。
老人シメオンは、イスラエルが慰められるのを待ち望んでいました。この点において、彼はまさしく”正しい信仰深い人”であります。待ち望む、しかも世に毒されることなく老齢になるまで待ち望む、ただひたすら待ち望む、この姿は、心の奥底にまで届いてくる確かな声に耳をかたむけ続けた、聞こうと心を傾け続けた信仰の人を示しているのであります。旧約聖書の中で、サムエルは、「僕(しもべ)は聞きます。主よ、お話しください。」と言いました。同様にシメオンの中にもひたすら聴こうとする姿があるのであります。
シメオンが待ち望んだ慰めは、神から来る慰めであります。”これが慰めだ” ”これが慰めだ” と切り売りをするようなものではなく、人間存在の悲惨と栄光を同時に知らせ、そして力を与え、強め、生きる勇気を与える、本心に立ちかえらせ、悔いあらためさせる慰め、「生きるときも死ぬときも唯一の慰めである」慰めであります。慰めは、その慰めを与えるかたが私たちを呼び出し、力を与え、生きる希望を与える、私たちの全存在をその方の守りの中に入れて下さるという事です。シメオンは、そのような慰めの到来を待ち続けました。
彼は、自分の心に語りかけてくる言葉(聖霊)にうながされ、宮に入っていきました。聖書には御霊(聖霊)に”感じて”とあります。この言葉を私たちは情緒的にまた主観的に受けとるべきではありません。なぜなら、シメオンが宮に入ったのは、彼の心が高揚して、飛びはねるような状態になったからではありません。聖霊が導いたからであります。”御霊に感じて”と訳されている言葉のどこにも、原語では”感じて”という語はありません。原語では”en”(エン)”~の中に”という言葉です。文字通りには、御霊の中で、御霊においてということであります。他の箇所で、これを”御霊に感じて”と訳しているのかどうか私は調べておりませんけれども、シメオンが宮に入っていったのは、御霊の支配の領域の中で、御霊の守りの中で、御霊という砦の中にあってということであります。意訳すれば”御霊が導いたので”ということであります。ですから、シメオンが宮に入ったのは、御霊が導いたからにほかなりません。シメオンが感じたか、感じなかったかの問題ではないのです。導く主体は神、神の霊なのだと、語っているのであります。
神の導きの中で、羊飼いの次にイエスに出会ったのは、このシメオンだったのです。され、シメオンが神をほめたたえて言った言葉はあまりにも有名でありますが、不思議な言葉でもあります。”私の目が今あなたの救いを見た。”しかし、十字架の死と復活は、ここにはないのです。ですが確かにシメオンは、この幼な子の中に神の救いの完成を確かに見たと語っているのであります。ルカはそう伝えているのであります。しかも、この出会いのあとにあるものは安らかなとありますが、死であります。真の救いを待ちのぞみつづけた僕(しもべ)(神様の奴隷)に与えられる賞与、それが安らかな死であります。更に長く生きてイエスの人生をみとどけることではないのであります。彼は、あたかも旧約の預言者が未だ事が起こらない先に”神の出来事を見た(起こった)”と語るように、この幼な子の中に、神の、イスラエルだけでなく万民に対する救済の歴史の完成を見たのであります。この救いは神自らが万民の顔のまえに、置いたのであります。
シメオンは、この幼な子だけがすべての民を悔い改めに導くことを信じたのであります。超人として存在しているのでもない、王さまの子供として生れたのでもない幼な子、この貧しい夫婦の子供の中に、彼はすべての人の救いを見たのであります。強情な人々が、人間中心的な人々が、悔い改めることの出来る救いが、慰めが、この子供の中に実現していることを、シメオンは見たのであります。
シメオンにこの事が実現したのは、彼が人々ではなく、権力でも、富でもなく、ただ神の僕(しもべ)として神からの言葉に耳を傾け通したからであります。まことに信仰は、聴くところから始まり、聴くことで完成するのであります。
おわりに、シメオンという名について語りましょう。これは、旧約聖書が語り続けた”聴く”という言葉に由来しており、それは、耳を傾ける、傾聴する、聴従するという意味の言葉なのであります。名前が示すとおり、彼は、ひたすら神の声に対して、耳を傾け続け、幼な子の中に万民の救いの完成を見ることを許された人物だったのであります。