2017年1月22日
礼拝説教
於 会津田島教会礼拝堂
午前10時30分~正午
“まっすぐ”という名の路地に行け
聖書 使徒行伝 9章1節~19節a
説教者
石田 龍三
主なる神の全人類に対する救済の意思は誰も押しとどめることはできない。それは人間の思いを越えて実現されていくのである。今日の本文でも主人公はサウロでも、アナニアでもなく、主・イエスである。
イエスの名のもとに集合した群に対する迫害者サウロ、ユダヤ教パリサイ派の若者。彼の名が初めて出てくるのはステパノ殺害においてである(7:58)。彼がいかにこの迫害・弾圧に力を注いでいたかは、「なおも主の弟子たちに対する脅迫・殺害の息をはずませながら…」(9:1)からも見てとれよう。ユダヤ教の伝統に生きるサウロにとって、このイエスの群は、あってはならない存在だったのである。彼はステパノの殺害に賛成し(8:1)、弾圧は熾烈であった(8:1b~3)。“正義”が人を殺し、後にこのことが問題となる。また彼の正義感はそれを肯定している(8:1)。
殺害の息をはずませながら彼は次の目的地ダマスコに向かった。その途上、彼は復活の主イエスに出会ったのである。彼は目が見えなくなり、8人の人々に手を引かれてのダマスコ入りとなったのである(9:8)。彼がたどり着いたところは“まっすぐ”という路地(共同訳では“直線通り”)にあるユダの家であった(9:11)。10章のコルネリオとペテロの出会いと同じく、通常ありえないであろうサウロとアナニアの出会いが主の導きによって実現する。事実ペテロもアナニアも主の指示に対しては消極的である(9:13,10:14)。新しい地平を開くことを可能にするのは主ご自身である。救済史はまさしく<“ミッシオ・デイ”;神ご自身の働き>なのである。
サウロをみまったこの突然の出来事の一方、主の弟子アナニアに主は声をかけられる。アナニアもまた“直線通り” にあるユダの家に向かうよう指示される。アナニアはすでにサウロの行状を知っており、主の指示に難色を示す。その指示は受け入れ難いものであった。主のさらなる説得の言葉は、「あの者は……わたしの名を伝えるためにわたしが選んだ器である。」(9:15)であった。今や手を引かれなければならなくなってしまったサウロとアナニアの出会いが、主の導きの中で、“直線通り”の路地で実現する。
ところで“直線”または“まっすぐ”は道路がまっすぐだから付いたごくありふれた地名であったかもしれないが 、もう一つの可能性はサウロの義(正義)との関連である。ヘブライ語のツァディク、ツェダーカー(義)のエテモン(語源)は多分“まっすぐ”である。まっすぐには日本語でも英語(ストレイト)でもドイツ語(ゲラーデ)でも“正しい”の意味が第二義的に発生する。 使徒行伝のギリシャ語“まっすぐ”(ユーテュース)についても、もちろん、同じことが言える。この“まっすぐ”が“正しい”、“義”の意味があるとすれば、それはサウロの義と主イエスにおける神の義とに目を向けるようルカが意図しているのではあるまいか。
若者サウロのユダヤ教への深い信頼それに基づく正義の理解はイエスの群れを滅ぼすことに直結する。正義が人を殺す。イエス殺害もまたユダヤ教の伝統を踏みにじったものとして正当化されたのではなかったか。自己の宗教が唯一完全なものであるとする断定は、自己完結の世界、時のない世界、異なる存在を認めない世界、感情のない世界である 。サウロの“まっすぐ”は右にも左にも決して曲がることのない、固まってしまったそして他者に耳を傾けることのない“まっすぐ”であったと言えるであろう。
“まっすぐ”と連続するツァディク(ツェダーカー)義、正義、は、RSVにおいて解放(イザヤ 46:12、ミカ 7:9)、救いの行為(サムエル上 12:9)、救済(ヨブ 33:26)、等々と訳されている。
主イエスによってサウロとアナニアが会うことになった“まっすぐ”路地は決して固定化された何かではない。主の備えられた“まっすぐ”に踏みこむためにサウロは盲目となった。しかもこの“まっすぐ”は固定化された他者を排除する正義(まっすぐ)ではなく、救い、解放、繁栄をその内に持つ“神の”まっすぐなのである。それは冷たい正義ではない。主なる神のあたたかさ、決して変更されることのない慈しみをその内に含む“まっすぐ”なのである。
主のまっすぐは人を活かす。サウロは暗黒の中で選び出され、真に“主によってたずね求められるもの”(サウロ)となったのである。しかし、それはサウロの力ではない。アナニアとの出会いを通してである。アナニア(ハナニア)とは、“主は過去においてそして今も恵み深くあられる”の意味である。このアナニアを通し、彼は固定化された正義感ではなく、恵みに満ちあふれた生きて働き、生きる勇気を与えてくださる主イエスからの命の力に満ちた呼びかけに活きる者となったのである。 主に必要とされる人(=サウロ)は、ユダヤ教を越えて、世界へ、異邦人の世界へと踏み出した大伝道者となったのである。
ダマスコの“まっすぐという名の路地”は、主イエスが備えてくださった“まっすぐ(ツァディク)である。 独善的な、自己完結的なサウロの“まっすぐ”はハナニア(アナニア:今に至るまで主は恵み深い)との出会いの中で、新しい“まっすぐ”、そして確かにサウロ(パウロ)における神の義(まっすぐ)の再発見となったのである。