2009年2月15日
礼拝説教
イエスは言われる、「思い煩うな」
於 会津田島教会礼拝堂
午前10時30分~正午
聖書 マタイ 6章24節~34節
説教者
石田 龍三
新約聖書のマタイの福音書は一番読む回数の多い箇所であるかもしれません。この今日読みましたところは、いわゆる山上の説教と言われているところであります。ところでギリシャ語の聖書では、24節から後ろがひとつのまとまりとして、読まれているように出ております。ですから今日はそれに従ってこの部分をお読み致しました。
24節のところですが、「誰も2人の主人に、兼ね仕えることができない」という言葉が、一番先に出て来ています。そして、この山上の説教が語られた対象、それはもちろん当初は、弟子たちとイエスのところに集まったガリラヤの人々、誰も飼うもののない羊として表現される人達でありました。当時の支配者層のパリサイ派や律法学者たちのような人々、裕福な人々、そのような人々ではなかったのであります。ガリラヤのまずしい人々がイエスの許に押しかけたのであります。その時イエスは一つ高い所に行って、みんなに聞こえるように、この言葉を語った。5章から7章までの部分、長い部分になりますが、イエスは新しい時代の到来を御自身の人格において語られたのであります。
今日選んだこの仕えるという言葉は、奴隷として仕えるという言葉であります。奴隷というのは意志、自分のものの考えや、自分の生き方というものがあるにもかかわらず、全時間、自分を所有している主人のために用いられなければならないわけであります。そういう点で、私たちは、奴隷という言葉を聞く時に、非常な圧迫を覚えるのだと思います。人間でありながら、人間としての扱いを受けない、主人の命令がどんなに無慈悲なものであったとしても、それに従っていかなければならないというそのことが、聖書の中でまず第一に知らなければならない言葉であります。ここでは2人の主人に同時に、同じ比重で、奴隷として仕えるということは出来ないと語っているわけであります。事実、24節の「誰も」という言葉は、「奴隷は誰も、同時に他の人に奴隷として仕えることは出来ない」ということを意味するのであります 。
これはイエス・キリストが語られましたように、今、イエスキリストの許にいる者たちは、2人の主人に仕えることは出来ない。これは恐ろしい言葉ではありません。そうではなくてイエス・キリストが新しい喜びをもたらす方であるとして語られているのであります。次に、ここで語られたもう一方の主人、それが誰であるかということであります 。このイエスの語られた「あなた方はできない」。これは、この「できない」という言葉も、「あなた方には、その能力が無い」という言い方であります。ですから、努力してもできない、もともとそういう能力に欠けているということであります。イエス・キリストの許に集っている人たちは、2つのものを同じように、同等に仕えるような、そうした器用なことはできないということであります。けれども、「それによって、あなた方は守られているのです」とイエスは語っておられるのであります。私たちは一人の主人にしか仕えることができないのです。その能力が欠けているのです 。
それでは私たちが仕える主人というのは誰でありましょうか。これはもちろん、イエス・キリストの父なる神ということになります。それですから、私たちの生涯かけて根っことしていくものとして、先ず神の義と神の国と、この2つを求めなさい、ということが、出てくるわけです。これが、教会にやって来る私たちの全生涯を貫いて大黒柱となっていくものであります。そして、その中で、このひとりの人に対し、奴隷として仕えなさいということ、全時間この人に捧げなさいということが、実は、私たちに途方もない自由と、可能性の地平を、与えて下さっているのであります。先に言いましたように、奴隷として仕えるという言葉の中に、ある種の圧迫を覚えるのは、私たちが自由に、時間を使うことができない、私たちを、打ち叩いて、我々を働かせるような、そうした主人というものを、連想するからであります。けれども、先ず、この言葉を語った方が、誰であるかということ。そして、奴隷として仕えるということを語ったこの方が、実は財産としてしか扱われていないような、人間の為に、自分の生命を、注がれたのだということであります。そのような主人が私たちの主人であるということであります。ですから、私たちが聖書の中で仕えるということを考える時、それは、奴隷という意味の中味が、すでに変わってしまっていることを意味しているのであります。
パウロはしばしば、イエスキリストの奴隷、僕ということで自分を語っております。「全時間、私はイエスキリストのものです」と語っています。けれども、その時に、パウロはいやいやながら、自分をこき使うような恐ろしい主人としてのイエスを考えていたのでは全くないのであります。イエス・キリストの弟子たちを迫害し回っていた時、声をかけて下さったイエス。そしてパウロのためにさえも、十字架の死を遂げて下さったそのイエスを知るに及び、彼はそのデューロスすなわち奴隷という言葉を常に語る人となったわけであります。自己紹介をする時に彼は、殆どその始まりのところに、「パウロス・アポストロス・デューロス」使徒である僕パウロ「パウロス・デューロス」奴隷パウロを、しばしば使っています。パウロは限りない感謝をもって、この言葉を語っている。言葉を変えるならば、イエス・キリストに対して、返済することのできない途方もない借金を許された者としての喜びが、この言葉の中にはあるということであります。イエス・キリストが今集って来たガリラヤの人たちに語った時に、「あなた方は、2人の主人に同じように仕えることはできない。必ず片一方につく」と語られた。「あなた方は、私に属する者である」とイエスは宣言して下さったのであります。そして、この言葉によって私たちは誰も攻めこむことのできないような仕方で守られているのだということであります。イエス・キリストの奴隷となっているということは、従って、限りない慈しみに裏打ちされているということであります。
思い煩ってしか生きることの出来ないような人生を送ってきているこの人たちにとっての思い煩いというのは、そのまま、衣・食・住につながること、あるいは、生命の危機につながっていくような思い煩いでありました。
今、私たちの煩いというのは、第一に経済的なこと、あるいは、家族の問題、就職のこと、老後自分はどうしていくのかということなどでありましょう。もし、イエスではなく私たちが、人々に「思い煩うな」と言ったら「失礼なことを言うな」といって、怒鳴られてしまうかもしれません。誰も他の人にとって代わることのできない思い煩いがあるからであります。この思い煩いという言葉はルカの福音書の中にあるマルタとマリアの話に出てきます。接待で忙しくて取り乱したという言葉が出て参ります。そこで使われている「多くのことに心を配って思い煩っている」という言葉も、同じ言葉です。
今日、私は週報に「思い煩う」は、不信仰であるという風に書きました。これは、どんなに他者のことを思い計るような時に使われたとしても、この思い煩うという言葉そのものは不信仰である、といわなければならないということであります。
思いわずらうというこの言葉は「メリムナオ」という言葉であります。この「メリムナオ」という言葉の元々の始まり、根っこになってくる言葉は「メリス+ムナオ(思う)」という言葉で、「部分」と「心で思う」で出来ています。「メリス」は、私たちの身体の部分部分を指す言葉として、パウロが教会・イエス・キリストの身体を形造っているひとつひとつを「メロス」という風に呼びました。「ムナオ」は、心に由来します。心が部分部分に細分されているという意味です。これが思い煩いであります。ですから、「あなたのことを心配しています」という時に、この「メリムナオ」が使われた時には、愛情の細やかさを表す言葉であったとしても、イエスは強い調子で「思い煩うな」と語られる。心はいくつにも分けられてしまってはならない。心は本来調和あるひとつだからであります。このように語られたガリラヤの多くの人たちは、実際、毎日の生活を思い煩わないで生きることができない人たちでありました。
経済不況の中で、突然解雇されて、住む場所も働く場所も無くなってしまった人たちがイエスの許に来るならば、この様な人たちに対して同じ強さでイエスは「思い煩うな」と宣言なさるでありましょう。そして、この言葉は、唯一人イエスのみが、実にイエスのみが語ることのできる言葉なのであります。実にイエスのみが、人間の深い欠乏の中に、やって来られ、「思い煩うな」ということのできる唯一人の方であるということであります。イエスが「心を細々にしてしまってはなりません」と語った時に、人は、本来ひとつであるはずの心を、色んなものに切断されてグチャグチャにされて生きるような、そうした存在ではない、はるかに優れた、神様から、神様のイメージ(imago Dei)に似せて造られた存在であるのだということを、ひとりひとりに語って下さったのを、知るわけであります。ここで、もう一度思い出して欲しいのは、イエスが呼びかけた人々は、明日のことを思い煩ってしか生きることの出来ない様な人たちであったということであります。イエス・キリストの許にやって来て、何かの望みをつなごうとしてやって来た。このような人たちに対し、イエスは「あなた方、ひとりひとりが、かけがえのない存在である」ということを語って下さっているのであります。普通の社会に戻っていった時に、多くは顧り見られることのない存在であります。「アムハーアーレッツ」という言葉を耳にしたことがあると思います。「地の民」です。人間として顧り見られないような所に置かれている、そうした地の民たちであります。イエスはそうした人々に対して、自分の生命を注ぎ出された。イエスのみがご自分の権威において、この人々に対し「思い煩うな」ということができた。それと同時に、「あなた方の生命が、何にもまして尊い」ということをもここで意味しているのであります。26節のところで、あなた方は鳥よりも、「はるかに優れたものではないか」と語っておられる。「野の草をきれいに飾って下さる。明日は炉に入れられてしまうような、食べものを作る為に使われるような、そのような草でさえも、今日きれいに飾って下さる。とするならば、今、ここに集まってきたあなた方ひとりひとり、どんなにみすぼらしく小さな者であったとしても、それ以上良くして下さらないはずがないではないか。」このように語っておられるのであります。
新しい権威をもって、今、人々に語りかけておられる。自分の存在をかけて、このような人々の側に立つ者として、イエスは、救い主であるわけであります。聖書は、特にこの福音書は、この点において、一歩もゆずることはないのであります。羊のように散り散りになってしまった人たち、そして、神様の恵みからさえも外れてしまったと思って生きているガリラヤの人たちの中に、イエスはやって来られて、ひとりひとりの中にある輝きをもう一度とり戻す方として、変りばえのしない、あるいは、抵抗して何かこの世で栄光をつかもうとする様なことからさえも、遠く離れているような人たちに対し、生命の輝きがあるのではないかと語る、唯ひとりの方として、私たちの所に近付いて、「先ず神の国と神の義を求めなさい」と、語った。それは、「思い煩いの一切を神様にゆだねなさい」と語った旧約の詩人の言葉の実現であります。今、「思い煩うな」と生命を注ぎ出すことにおいて、語って下さるイエス。このイエスにとどまり続けていく。その中で、私たちは、思い煩いではなくて、新しい限りない感謝の生活が、このイエスキリストの臨在においてすでに始まっているのであります。これからも、同じような状態が続いていくでありましょう。しかし、思い煩うような世界の中にあって、芽生えたものは、イエスにおいてこの世界を感謝をもって受け入れていく新しい生き方であります。教会は新しいイスラエルといわれます。まさしく、このイエス・キリストが体を張って、“思い煩うな”と言ってくださった、その中に私たちは守られ、今いるのであります。そして、誰もこれを私たちから取り去ることはできない、だから本当に安心して下さい。
「2人の主人に同じように仕えることはできない」のです。これは恵みです。喜びです。イエスのこの言葉によって、私たちは守られ生きているのであります。