2017年3月19日
礼拝説教
主はつかれはてた魂を生きかえらせる
於 会津田島教会礼拝堂
午前10時30分~正午
聖書 エレミヤ書 31章 23節~26節
説教者
石田 龍三
南王国ユダの王エホヤキンからヒゼキア王の時代、民衆は声を発すれば暴虐、滅亡と叫ぶ預言者エレミヤに反発し、ユダの支配者層は、政治的指導者も宗教的支配者も、親バビロニア派的な預言を重ねるこの預言者エレミヤを迫害し、投獄したのであります。後の人々はこのようなエレミヤを亡国の預言者、嘆きの預言者と呼んでいるのであります。
エレミヤの預言のとおり北方の巨人バビロニアは 587 B.C. 南王国ユダを征服し、住民は、無産の民を除き、バビロニアへ捕囚となったのであります。
今はよくおぼえていないのですがこんな詩があります。故郷を失った者の悲しみ、苦悩がわかる歌です。
ちち はは は どこ ふるさと は どこ
追われ 追われて 果てしなき旅よ
道連れは涙 幸せはない
国の中にも 国の外にも
これは 詩 137 バビロンの流れのほとりにて を思い起こさせる亡国の民の心情であります。
歴史を導かれる主は、同時に希望の主でもあられます。エレ 31:26 わたしの眠りはここちよかった(口語訳)はそのひとつであります。これは気分的なものではありません。詩126:1「主がシオンの捕われ人を連れ帰られると聞いてわたしたちは夢見る人のようになった。」もこの理解を助けるでありましょう。31:26についてあるドイツ語聖書の訳は「わたしは何だか活力がみなぎり(frisch)元気を回復した(gestärk)のがわかった(fühlte mich)」であります。
萎え衰えていたエレミヤに主の力がみなぎった。その根拠は23~25の回復の約束にあります。これまで、主の命を受けて彼が預言したその内容は王国の亡びでした。希望の持てる預言ではなかったのであります。
この回復の約束(預言)は、もはやイスラエルの民族神ではなくて全世界を統治される神(万軍の主)の約束であります。
神は支配者バビロンの神でもあられるのであります。23節では(人々を)捕囚から連れ帰るとき、わたしはユダの地と町々で彼らにこの言葉(ハダーバール)を言わせる(RSV)とあります。
主は、あなたを、すなわち正義(ツァデク)の住むところに、聖なる山(ハル)に祝福を与えられる。
「あなた」は捕囚の民の心のふるさとエルサレムのことでありバビロンで生まれ育った子供たちに伝え続けた故郷の都エルサレムであります。それは神の祝福される正義(ツァデク)の住むところであります。その正義は人間がどう反応しようと正しい者は正しいというようなカントのリゴリスムスでは決してないのであります。この正義についてRSVでは時に次のように訳されているのであります。
①恵みの業(詩 103:6, イザヤ 46:12,13)
②救いの業(1,サム 12:7, 詩 40:10)
ですからこの正義は、一度約束(民に対し)されたならば決して変更することのない<神の>真実、愛(エメト)、慈しみ、慰め、恵み、憐みを示す言葉であり、つめたい法則ではないのであります。その正義の住むところ、それがエルサレムであります。ここにあるこのエルサレムのみが人々の心に限りない感謝と悔い改めの心を創造させるのであります。
主なる神の恵みあふれる都に住まわせていただける人々は、もはや富裕な人々でも、宗教的指導者でも政治的指導者でもない。ひたすら神のイスラエルを待ち望んだ捕囚の民、蚊帳の外に置かれたような無力な農民、地上を放浪する羊飼いたち:アム ハ アーレツ(地の民)であったのであります。イエス・キリストの許に集められた人々と同じであったのであります。彼らは目録に載っているような人々では決してなかったのであります。
25節は、このような人々に対する主なる神の慈しみの約束なのであります。人生の荒波の中でつかれ、よれよれになってしまった魂に生ける水を注ぎ、うるおわせ(エレミヤ 2:13)、すべての(例外はない)、すべて萎え衰えてしまった魂に、力をみなぎらせて下さる(参、詩 46)。いつかそうなるだろうということではない。実に今、神が必ずそうなされる。この約束は必ず実現する。教会に集められたわたしたちは確かにそれを知っているのであります。<主こそ>わたしの力である(詩 27)ことを。