2019年1月12日
会津田島教会
石田 龍三
聖書 イザヤ60:1~3
希望と喜びにあふれている世界とそれらが欠けている世界を、人は「善と悪」、「光と闇」との対立で説明してきました。これについては、私たちもよく知っています。同じことが新旧両聖書にも見出されます。旧約聖書イザヤ9:1には次のように記されています。「闇の中を歩む民は大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に光が輝いた。」マタイ4:12~17は異邦人のガリラヤとの関係で、ルカ1:76~80では先駆者バプテスマのヨハネとの関係で、イザヤ9:1を引用しています。
闇には好ましいイメージはありません。イザヤ21:11を見てみましょう。これは1954年版賛美歌218にも出てきます。
セイルから私に叫ぶ者がある、
「夜回りよ、今は夜の何どきか。夜回りよ、今は夜の何どきか。」
夜回りは、言った。
「朝は来る。また夜も来る。尋ねたければ尋ねよ。もう一度来るがよい。」新改訳2017
今日のテキスト、イザヤ60:2で強調されているのは、いつ遠のくか分からないこの闇であります。預言者イザヤがわざわざ「見よ(ヒーネー)」と言って、聴く者に注目させた世界は、今現在、暗闇にすっぽりと包まれているという認識でした。昔、東京やロスアンゼルスがスモッグにおおわれていたのと、似ていることを言い表しています。60:2は、闇が、スモッグがおおうように、イザヤの時代を分厚く包みこんでいると、表現しています。この闇(ハホーシェク)は、また、無知、罪、悲惨、破壊をも意味します。先に闇に好ましいイメージがないと言ったのは、このことです。
イスラエルの民は、もしかしたら、聴くことのできた少数の人々を除いて、この闇を知らなかったかもしれません。また闇と思っていなかったのかもしれません。だからこそイザヤはわざわざ「見よ」と言ったのだと思います。「見よ」とのイザヤの言葉からすれば、この世的には時に闇が光でありうるのかも知れないのです。その故に、彼らがその中に生きている世界を「暗きが地をおおっており、暗黒が国々を包み込んでいる」(2節)と語ったのです。
イザヤにとって(他の人々ではなく)闇と見えるその世界、に対し、彼はそこに住む人々に向かって、主の言葉を告げるのです。1節は命令です。「あなた(たち)の生き方が悪いから反省しなさい」というような命令ではありません。
「起きよ、光を放て」というこの命令は、主ヤーウェと御子イエスのみが与えることが出来る喜びと希望です。ですから、この命令は「さあ、活動を始めなさい。喜びを与えなさい」(1節)と訳すことも出来るのです。
起きよ(クーミー)、光を放て(オーリー)は、両方とも力あふれる元気の出る言葉です。私たちの内に力がみなぎってきます。イエスは「勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。」と言われましたが、その言葉と全く同じ力をこの二つの言葉、つまり「起きよ、光を放て」は持っています。
あなたがたの住んでいる世界は、あなたがたが明るいと思ったとしても、神の目には暗いのです。同時にイザヤは続けます。ここが最も重要なところです。あなたを照らす光はもうすでに到来している(完了NIV)。主の(臨在の)栄光はあなたの上に、今、照り輝いている(民衆にとってはいまだ実現していない、しかし預言者にとってはすでに実現しているのです、1節)。
預言者イザヤに、はっきりと示されているのは、主の命令に生きる人々の、何ものにもかえることの出来ない喜びの到来です。これはどんな闇の力も主の民から、この光を奪い取ることは出来ません。
イザヤは私たちの生きているこの時代をも闇と断定しています。にもかかわらずこの生活空間に光がもう照っているのです。「あなたの上には主が朝日のごとくに輝きいで、主の(臨在の)栄光があなたの上に現れている」とイザヤは言うでしょう。
最終的にこの光は私たちだけにとどまらないのです。3節は基本的に終末に属すると考えられています。終わりあるいは完成のとき(救いの)、イスラエル民族だけではなく、最終的に、すべての国々、すべての人々がこの光に集まって来るのです。すべての人がイエス・キリストの神に慰めと希望を見出す時が、必ずやって来るのです。すでに希望の光は私たちの中に到来しました。分厚い暗闇が、なおこの世界を包みこんでいます。しかし、私たちに失望はありません。光が射し込んだからです。この光は私たちと共にあります。ベツレヘムの飼い葉桶から、やって来る光です。それは慈しみ、慰め、恵みに満ち満ちています。
私たちに灯された輝きは、どんな力も取り去ることはないのです。飼い葉桶の光は、実は死の向こうから届いている光でもあります。つまり主イエスの復活の光、この光が暖かく私たちを照らし、私たちを包んで下さっているのです。
喜びに満ちあふれた、信じられない神の恵みの光が、私たちの心を刺し貫いたから、
「さあ、起きなさい。光を放ちなさい。」