2003年12月21日
クリスマス礼拝説教
於 会津田島教会礼拝堂
午前10時30分~正午
よろこびの音信は羊飼いへ
聖書 ルカによる福音書 2章8節~20節
説教者
石田 龍三
暗黒の中に住んでいる民は、大いなる光を見、死の地、死の陰に住んでいる人々に光がのぼった(マタイ4・16)
暗黒の中、死の地、死の陰とはどのようなところでしょうか。それは自分にとって光を期待することなどとうていできないところ、光など決して差し込むはずがないと、私たちが思っている全てのところであります。あの”マッチ売りの少女”が、窓の中にクリスマスを祝う人々をみているような、そして、ついには凍え、おばあさんの待つ天に昇っていくような、そんな世界であります。理由なく苦しみの中に投げ出された幼な子たちの叫びが、空しく消えていく場所であります。憎しみの炎が燃えさかる中で、流される多くの涙のあるところであります。また、一人の人間について言えば、自分ではよく知っていたとしても、他の人々には決して見せることのない、いわば墓場にまでもっていこうとするようなかたくなにとざした心の闇でもあります。そのような闇を、人は、持っているのであります。
私たちは、そこに光など届くことなどありえないと思いました。そう思いこもうとしているのであります。クリスマスの美しい飾りも、今ここで輝いているクリスマスツリーも、クリスマスの笑いさざめきも、私たちの外に、私たちと関係の無いところにあると考えようとするのであります。クリスマスをアルコールの喜びにかえ、若い男女のカップルの喜びにかえ、気前よく何でも”私”にくださるサンタさんの日にしてしまうこの国の人々がいる一方において、そのような人々の欲望の一カケラも自分のものにしえないような人々、すなわち、生きている間おそらく何一つ慰められることなど期待できない人々ーー暗闇の中に住む人々ーーが、確かに存在しているのであります。救いの外にある人々。夜、野宿していた羊飼いたちは、まさしくそのような人々であったのであります。歴史は彼らを美化しました。しかし、彼らは決して、後のキリスト教世界の英雄であったのではないのであります。彼らは、子供のときから羊を追い、老人になるまで羊の世話をした、ただそれだけです。それ以外の世界など彼らにはありえなかったのです。ただひとつの例外ーーそれはみ使いに告げられて、生活の場、労働の場である羊を飼う場所をはなれ、イエスに会いにいった時ーーすなわち、礼拝しに行った時だけであったのです。その生活は昨日も、今日も、そして明日も変わらない世界でありましょう。たといこの世界に新しい救い主のうわさと期待が満ちていたとしても、羊飼いたちは、その人々の中にはいなかったのであります。神の恵みは中央の偉い宗教家、貴族、金持ちのものではあっても、羊の番をしているような存在には期待することすら考えられなかったことなのであります。この貧しい、小さい、取るに足らない人々にとっては、神の恵みは自分たちの外にあり続けたのだと言えるのであります。
けれども、ルカは、この羊飼い達を主の栄光がめぐり照らしたと告げているのであります。主の栄光とは、ヨハネに従って言えば、”めぐみとまこと”が充満し今まさにあふれ流れ出そうとしているような栄光、であります。それはまた神が、この羊飼いと共におられる(インマヌエル)ことを意味しているのであります。ルカは、み使いがまず第一にヘロデ王に知らせたとも、律法学者、パリサイ人に知らせたとも、富裕な人々に知らせたとも語ってはいないのであります。また、たとえ、知らせたとしても、いったい彼らの中の誰れが飼い葉おけの中の幼な子を救い主として受け入れたでありましょうか。ヘロデ王のとった行動は、いったい何であったでありましょうか。
闇の中にあり続け、その闇が今から後も生きていく場である人々に、じつにこのような人々のただ中にこそ、主の栄光はめぐり照らされているのであります。今や主がこの羊飼いと共におることを明らかにされたのであります。羊飼いの生活の場が主の恵みの中におかれていることが今や明らかになったのであります。暗闇がどんなものであったとしても、主の栄光がめぐり照らす中にあっては、もはや、栄光のとどかない闇はありえないのであり、人々に陰を落とすことはできないのであります。不条理と涙にあふれ、希望すら持ちえない闇の世界が今、めぐみとまこととに満ちた主の栄光によってめぐり照らされたのであります。
死の地、死の陰としか言いようのないつらい日々を送るとき、あなたがたは「私は絶望だ、私には光がない」と叫ぶかもしれません。しかし、ルカの報告を聞いて下さい。いったい神の栄光が、その恵みが、届かないところがありますか。神の栄光はすべてをめぐり照らしたと語っているではありませんか。あなたがたの闇は、飼い葉おけの中の幼な子の栄光によって、やさしくあますことなく、照らし出されたのです。羊飼いとその生活の場が栄光の恵みによって照らされているように、あなたがたもまた、羊飼いと共に立つものであるならば、実にこの恵みのただ中にいるのであります。
神の臨在の栄光の知らせに欠けたところは何ひとつないのであります。「めぐり照らした」とは、ですから、神のめぐみがとどかず、なお、不足しているところがある、というようなそんな不完全なものではありません。すべての闇がめぐり照らされたのであります。
天の使いが羊飼いたちに伝えた使信は、「飼い葉おけの中にくるまれている幼な子」だけでした。それ以上でもそれ以下でもありません。それ以外のことは何一つ言われてはいないのです。そして、それこそが完全なめぐみ、神の愛のしるしなのであります。
この時、み使いと天の軍勢は「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上ではみ心にかなう人々に平和があるように」と、高い空の中で賛美しています。この賛美の声はベツレヘム中の人々の耳に届かなかったはずはありません。しかし、そうした事についてルカは何も語ってはいないのです。これは限られた人々の耳にのみ、届いたのであります。賛美の言葉の中に”み心にかなう人々”とあります。「すべての人に、どんな人にもあるように」と私たちは気前よく言いたくなります。しかし、このクリスマスの喜びを受けるにふさわしい者は、依然としてみ心にかなう人々、神がその栄光の光を注いだ人々だけなのです。くりかえしますが、クリスマスの喜び、神の救い、神の平和に与る者は、神のみ心にかなう人々だけなのであります。
この事に対して不当であると誰も文句を言うことは出来ません。くりかえしますが、クリスマスの喜び、神の救い、神の平和に与る者は、神のみ心にかなう人々だけなのです。さらに言えば、幼子イエスの中に、あのシメオンのように、神の救いを見ることを許された者だけであるということであります。その人々というのは、神の栄光がめぐり照らしたときに、畏れ、自己の存在の小ささに気付くような心の貧しい人々であります。そして、その仕事場や、日常の生活をはなれて、今日、イエスの誕生の礼拝に出席したあなたがた一人一人でもあります。み心にかなう人々を呼びあつめられる神に心から従う人々であります。
もし、あなたがたが貧しくなって羊飼いと共に立つならば、あなたがたこそみ心にかなう人々であり、み使いの知らせを聞き、ベツレヘムへ行き、イエスに出会うという栄誉を与えられた最初の人々にほかならないのであります。
「羊飼いたちは、見聞きしたことが何もかも自分たちに語られたとおりであったので、神を崇めまた賛美しながら帰っていった」とあります。彼らが、イエスに出会ってのち、おごそかな気分になったとか、エクスタシーになったとか、家内安全・商売繁盛を約束してもらったとか、不死身になったとか、超能力者になったとか、力ある政治家や宗教家になったとか、幸福になったとか、そんなことは、全く書かれてはいないのであります。羊飼いが神を讃美したのは、イエスの誕生が、み使いの語ったとおりであったからであります。それ以外の理由はなにもないのであります。そして、それで十分なのであります。
何もかもみ使いが語った通りだったから、まさにそのゆえに、あなたがたも讃美するのであります。貧しい者の幸いがここにあります。羊飼いの帰ったところは、羊を飼う、ねずの番をする彼らにとっての日常の世界であります。彼らが人類愛に目覚め、世なおしを始めたなどと、ルカは書いておりません。何度も言いますが、そのような事が問題ではありません。そうではなく、イエスという存在に出会い新しく生まれた人間となって、相変わらず、人々から卑しい職業としてさげすまれた世界にーーそれが、自分の住む世界だからーー、羊飼いたちは帰ったのです。差別は続くでしょう。しかし、彼らは知ったのです。彼らの住む世界がイエス・キリストの恵みによって、もはやどのような闇も人々に対し闇とはなりえないことを、イエスが闇の最も深いところで、私たちに光を与えるかたであることを。今日、あなたの帰っていくところもまた、神の恵みあふれる栄光が、くまなく照り輝いている世界なのであります。