2019年1月19日
会津田島教会
石田 龍三
聖書:創世記19:12~29
テラが70歳になったときアブラム、ナホル、ハランが生まれた。(創、11:26)。ロトの名が出てくるのは、創、11:27~32のテラの系図の中である。
彼らは故郷カルデア(都市文明)を出立しハラン(都市文明)に向かい、さらにハランからカナン地方に出発していった。それは神の約束に基づくものであった(12:1~4)。
この時、父のいないロトは75歳のアブラムと行動を共にしている(創、12:4)。
財産が増し加わる中で、アブラム一族とロト一族の中で争いが生じ、アブラム一族は山地に、ロト一族は死海南部の低地に、それぞれ住み分けることとなった。以下14章でのアブラムによるロト救出の出来事、18:16以下、ソドム、ゴモラ滅亡の予告、19:12~29、ロト一家のソドム、ゴモラからの脱出が続く。
このソドム(囲いのある場所の意)、ゴモラ(水が多く、深いの意)は道徳的に退廃した悪の町として、天から火が降り注ぎ住民は滅ぼされてしまった。これは大筋としては大洪水のノア、バベルの塔の時の出来事とよく似ている。
この二つの町は旧約聖書、新約聖書を通し、腐敗堕落の典型として採り上げられている。
腐敗した指導者はソドムの民(イザヤ1:10)、ソドムのブドウの木(申命記32:32)。エルサレムの罪の大きさはソドムの罪(エゼキエル)、その他多数。
なおソドム、ゴモラの滅亡に関しては、例えば創世記14:10には、「ンディムの谷には、いたるところに天然アスファルトの穴があった」と記されている。このことから、地震が起こり、大地が陥没し、天然ガスや石油が大爆発を起こし、町町、人々が絶滅したのではないか、と言う人々もいる。聖書は、この出来事が人々の堕落と神の罰として理解している。
ロト一族は、この出来事に巻き込まれたのである。天の使いは、急いでそこから逃げ出すようロトに命じている。12~22節(共同訳)では7回逃げるという語が繰り返されている。(本来の意味での逃げるは17~22節で5回、ビブリア・ヘブライカ)。
この天からのカタストローフに際し、ロト一家は、ひたすら逃げるように(多分、着のみ着のまま)命じられている。それも山へ逃げるように。しかしロトが逃げのびたのは、神の憐れみにより、ツォアルであった。逃げのびるとき天の使いが命じたもう一つの事は、絶対に後を振り返らないことであった。しかし、皆さんがよく知っておられるように、ロトの妻は塩の柱になってしまった。(19:26)。
天の使いの命令について、二つの事が考えられる。一つは、ぐずぐずしているなら逃げきることが出来ないこと、二つ目は、時に人は過去と決別しなければならないとの命令である。この二つ目は、キリスト者にとって極めて重要な意味を含んでいる。
「命がけで逃れよ、・・・山に逃げなさい」(19:17)との命令は、ロト一家に救いと希望があること、しかも主なる神が提示する確かな希望があることを示している。それは人間の動向に左右されない、神の慈しみ、愛(ケセド)にほかならない(19:19)。
「人は、それがどんなに大切なものであったとしても、後を向いて、これからの人生を生きるのではない。」(加藤常昭“説教学、葬儀の時の説教”講義より)。
ロトも家族も、残していく財産、生きてきた思い出から決別し、命を救わなければならない。神の提示する恵みへと飛び込まなければならない。しかも急いで。これは非情でも何でもない。なぜならこの危急の時、主が招いておられるのは、主なる神のケセドに向かいなさいということだからである。
イエスをキリスト(救い主)と信じて生きる者は、主の使いの言葉がよく分かる。信仰者は過去を偲んで生きるのではないからである。テラもアブラムもロトも旅人であった。あり続けた。「その生涯において人は捨てざるを得ないものがある。意志しようとしまいと(ソドム、ゴモラの突然の終わりは、ロトの意志ではない)」
逃げるに際し、ロトの妻は主の使いの命令に反し、後を振り返り、瞬時に塩の柱と化してしまった(19:26)。これは人の持つ好奇心の例として語られることもある。またここからある徳目を引き出す人もあろう。
ロトの妻は何も言わない。振り返る行為の中に、私たちは好奇心ではなく、すべての物を捨てざるを得なかった彼の妻の悲しみを覚える。主イエスの言葉が浮かびあがってくる。「富は天に積みなさい。そこでは虫が食うことも、さび付くこともなく、また盗人が忍び込むこともない・・・。」(マタイ6:20)
衣類の一つ、茶碗の一つ、牧師なら註解書の一つ、それらが懐かしい思い出に詰まっていたら、捨てて来れようか。ロトの妻をあなたは裁くことが出来るのか。
しかし、今、すぐに確かな恵みへと人は逃れなければならない。そう今すぐ。あなたの、わたしのソドム、ゴモラから。
一時的な逃避所ツォアルに逃れるのではない(19:18)。
キリスト者がすべてのものを捨て逃れるのは山ではない。山以上のものである。ペテロのため信仰がなくならないように祈られたイエス、自分の足で立ち、歩き続けよと言われたイエス、私たちの内に活力のみなぎる聖書の解き明かしをされたイエス、疲れた者を休ませて下さるイエス、神の決して変更されることのない慈しみ、愛:ケセドであるイエス、このイエスに命がけで、今、逃げこむのである。ためらってはならない。永遠に悔ゆる日の来ぬ間に、さあ主に帰ろう。急いで。そして主と共に出発しよう。
見よ、わたしはいつもあなたがたと共にいる(マタイ28:20)。