2017年2月19日
礼拝説教
貧しい者たちへの約束
於 会津田島教会礼拝堂
午前10時30分~正午
聖書 詩篇 37章7節~11節
説教者
石田 龍三
ダビデが誰を対象に語っているかは定かではない。しかし、彼らは悪事を謀る者のことでいら立っており(1)不正を行うものをうらやむな(1)、繁栄の道を行く者や悪だくみをする者のことでいら立ち、やきもきするな(7)と言われている人々である。“不当だ”との思いは正義感に裏づけられ、負のエネルギーと化す。ダビデは怒りを解き放ち、憤りを捨てよと語り、ひたすら主の前に沈黙し、主を待ち焦がれよと勧める。それは心の奥深くに達する言葉にまず耳を傾けることを意味する(3,4,5)。
この人々は、主を待ち望む者(9)であり、柔和な者であり(11)、主に祝福された者(人々によってではない!)であり(22)、正しい者(共同訳:主に従う者)である。このような人々が、主なる神が贈って下さる大地(口語訳:国)を相続するであろうと言われる。9,11,22,29節の約束はすべて未来である(34は現在)。この地(国)はアッスリア、バビロニア、ダビデ王国といった国(地)ではない。その地の相続についてRSVの訳は(9,11,22,29)、主なる神が必ず“あなたがたに”地を継がせると解することができる。いかなる人々も妨害することはできない。これはルカ12:32のイエスの言葉「小さな群よ、恐れるな、あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」を私たちに想起させる。
この地(アーレツ)は、聖なる神の恵みが満ちあふれる所、慈しみ、愛がすべて約束された人々に行きわたる所である。主なる神は御自身の決意において必ずこれを実現して下さる。
本日は、約束された人々の中で特に11節の柔和な者に注目していきたい。マタイ5:5はここからの引用と思われる。柔和な者の訳は共同訳、新改訳、現代語訳ドイツ聖書のひとつでは貧しい人々と訳されている。旧約聖書の中で“柔和(訳語)”という語が出てくるのは民数記12:3、詩篇10:17、詩篇37:11、イザヤ書29:19、ゼパニヤ書2:12、ゼカリヤ書7:9(以上口語訳)である。これはアナヴ、アーニーの訳である。派生語の多くは貧しい、苦悩、弱い、哀れな等々各聖書で多様に訳出されている。アナヴ、アーニーの関連で見ると、山上の説教の5:3貧しい者、5:5柔和な者はヘブル語では同じ言葉である。
柔和な者(貧しい者、苦悩する者、みじめな者、苦渋と欠乏、痛めつけられている者 以上旧約の中での幾つかの聖書の訳)は、ダビデが語りかけていた人々であり、イエスの接した人々であれば、ガリラヤの多くの貧しい人々であった。このアナヴ(アーニー)は、一方において頼るものが何もない(神以外に)人々を意味し、心を砕かれた人を意味する。
民数記において、イスラエルの民は、不平、不満を言い続けるかたくなな心の民である。それが砕かれた者がアナヴ(アーニー)である。その人々に主なる神は必ず地を継がせると約束された。砕かれた魂(心):それは主なる神の真実、慈しみ、憐れみの中に落ちこんだ時にのみ、砕かれた心となるのである。それはもはや苦痛(アナヴ)ではない。そこには喜びがある。砕かれたのに喜びがある。決して変更されることのない愛(ケセド)。この愛こそが、慈しみこそが、ダビデが未来に託した約束の地(国)なのである。イエスとの出会は、私が、あなたが砕かれた心を、喜びの中で、感動の中で見出すことを意味する。神はイエスにおいて約束の地を保障して下さったのである。アーメン