2017年2月26日
礼拝説教
主はいついかなる時も従うあなたの味方
於 会津田島教会礼拝堂
午前10時30分~正午
聖書 詩篇 146章1節~4節,6b節~10節
説教者
石田 龍三
146篇以降の詩は、ハレルヤ詩篇とも言われる。始めと終りがハレルヤとなっているからである。ハレルヤ(主をほめ讃えよ)の hillel(ヒレル)は強意再帰態になると、(他者から)称賛される、自分を誇る、などの意味になる。神を誇るのか自分を誇るのか詩人の決意は1節で明らかなように“主を誇れ”(主を讃えよ)である。詩人が青年なのか壮年なのか老年なのかは断定はできない。しかし全身全霊をもって、自分ではなく、主を讃えよ(誇れ)と詩人は言うのである。
2節は詩人の決意の表明である。私は命ある限り主を讃えていくであろう(未来);誇りとしていくであろう。生きている間、わたしの神をたたえる(ズィメルの未来形)であろう。詩人は光ある間だけではなく、死の陰の谷にうごめいている時でさえも、わたしはわたしの神を讃える(誇りとする)であろうと語っているようである。
全時間が主を讃えて生きる人生であるならば、人は3,4節の人生を生きることはない。諸侯に信頼する(バタフ)ことはない。人間の力に寄り頼むこともない。彼らには人間の悲惨を解決する能力はない、救い出す能力はない。人は息(ルアハ)が去ってしまえば土に帰ってしまう。
では主なる神はどうなのか。この問題が146:6bから始まる詩である。「とこしえにまこと(エメト)を守られる主は」(共同訳)あるドイツ語聖書の訳では、「主のまことは決して変わることがない(unwandelbar)」と意訳している。決して変わらない“まこと”のあらわれが7~9節である。主のエメト(真実:emeth)は7~9節で言及される人々に対してである。共同体の中で踏みつけられ、押しつぶされているような人々に対してである。
※福音書のプトーコイ(貧しい人々のエテモン)と同じ意味
主は主の共同体の、そして世界の、このような人々をいかなる犠牲を払ってでも守られる。主はこのような人々の側に立たれるのである。これは詩人の人生経験の中で得た主に対する揺るぎない信頼を示すものである。
イエスの許にやって来た人々こそ詩 146:7,8 の人々ではなかっただろうか。共同体(国家)において虐げられている人々にとっては必ずしも公平ではなかった。しかし、主はそうではない。これこそがこの詩人の、そして預言者たちの拠って立つ所なのである。
これらの人々を主自らが守られる。7~8節の人々については福音書の中でも登場する。飢えている人、それは満たされることのない空腹、渇望をも意味するであろう。うずくまっている人々は、死の陰の地でうごめいている存在でもあろう。従う人々(正しい人々)はヘブル語ツァディキムである。主にむかってひたすら耳を傾ける人々:従う人々(盲従ではない):主にむかって“まっすぐ”(ツァディクのエテモン)な人々、そしてよるべない人々、これらの人々に対し、たとえ世の人々が彼らを捨て、踏みつけたとしても主はそうではない。主は過去においてそうであったように今も、これからも、この人々の側に、そして今日礼拝の業をなしたあなた方の側に、味方として立たれる。あなたはわたしの目に(他の人々の目ではない)高価で尊い(イザヤ43)。主は必ずあなたの味方として立たれる。それは決して変更されることはない。ハレルヤー(主を誇れ)。