輪中に関する資料
海津市歴史民俗資料館には、輪中に関する資料がたくさん展示されています。その一部を、許可を得てけいさいしています。
海津町の昔の様子やむかし使われた道具、輪中にかんする資料がたくさんてんじされています。手前に見えるのは、ふくげんされた船着き場です。(大江川)
低地では、水につかりすぎて米の取れ高が少なかったので、収量をふやすために沼田(ぬまた)の一部をほりとってとなりの部分を高くしました。これをほり上げ田(堀田)と言いました。1954年から1969年にかけて行われた県営うめ立てかんたく(土地改良)事業により、海津町でも堀田は見ることができなくなりました。そこで、海津町歴史民俗資料館がつくられる時、そのしき地内に堀田がふくげんされました。初夏には田植え風景が、秋には刈り取り風景を見学することができます。一見のかちがあります。
定杭(じょうぐい)は、水をめぐって対立してきたりんせつ小輪中の間にある堤(つつみ)の高さを話し合いで取り決め、輪中堤の高さを示すためにうった杭(くい)のことです。堤防横に堤防の高さと同じ杭をたて、5年ごとにあらためられました。この杭の高さが堤防の工事をしたり、土のうをつむときのきじゅんとなりました。
輪中地いきには、大水にそなえて水防団がそしきされていますが、水防団員もふだんは別の仕事をしているので、年に2日間、いざという時にそなえて写真のような水防工法のくんれんをしています。月の輪工、むしろばり工、シートばり工、杭打積土俵工(くいうちつみどひょうこう)などの工法があります。
昔の農家にあった水がめです。ここに水をくんでおき、飲み水や料理に使いました。水屋にもこのような水がめを置いて、洪水の時にひなんした場合に利用しました。
昔、堀田(ほりた)があったころ、このような小さな舟に苗(なえ)をのせて運び、田植えをしました。沼地(ぬまち)のような堀田を苗をとるためにたびたびおうふくすることは、たいへんな苦労(くろう)でありました。この苗舟も、低地に生きた人々の知恵(ちえ)の産物(さんぶつ)です。
水防作業のための資材がてんじされています。石みや土のう袋、たこつち、なわ、3m、4m、5mくいなどが見られます。
水防作業のための資材がてんじされています。石みや土のう袋、たこつち、なわ、3m、4m、5mくいなどが見られます。
洪水多発地帯(こうずいたはつちたい)であった輪中地いきには、いざしん水という時にそなえて、住まいにも工夫がしてありました。洪水の時だけ、かっ車(新しい物はチェーンプロック)を使って二階へ引き上げる仕組(しく)みを持った仏だんがあります。それを上げ仏だんといい、これは、そのもけいです。ご先祖(せんぞ)様を大切にするこの地方の人々の気持ちがよくわかります。
1754~55年にかけて行われた宝暦治水(ほうれきちすい)の総奉行(そうぶぎょう)です。美濃(みの)の人々を救(すく)うためにはるばる遠い薩摩国(さつまのくに)(現鹿児島県)から947名の武士を引き連れて、木曽三川(きそさんせん)下流部の治水工事に命をかけた人です。
(1998年4月22日撮影)
※著作権者のデータが含まれていますので、このシリーズのデータを利用したソフトの流通は不可です。
使用条件:学校教育においてのみ使用可