(海津町梶屋)
梶屋(かじや)八幡神社の参道の両側に、社叢(神社の竹やぶ)がこんもりとしげっています。この竹は、洪水で神社が流れ着いた所に、自然に生えるといわれています。古文書には、八幡神社はもともと下石津郡庭田村厳崎(しもいしづぐんにわだむらいわさき)神社の所にありました。洪水のため、本殿が流され、同郡福江村にうつされ、その後洪水により同郡宮地(みやじ)村に移されました。その後、また洪水があって、稲山(いなやま)村(現在地)に着きました。本殿が移された時、いつも寒竹(かんちく)が株のまま流れて、神社の定まった所に自然に生えはじめたといわれています。
この寒竹は節と節との間が長く、黒い光を放つみごとなもので、一株が周囲3メートルほどにもなります。この竹を切って自分のものとして用いると、必ずたたりがあると言われ、みだりに切ってはならないとされています。
昭和57年に海津町天然記念物に、そのよく年には岐阜県の天然記念物に指定されました。
(愛知県立田村船頭平)
明治時代に木曽川と長良川の間が分流されたので、当時はそうとう使われていたふねの行き来を便利にするためにつくられたパナマ式運河の閘門です。向こう側(おく)が木曽川本流につながっています。平成5年9月30日から平成6年7月31日まで改築(かいちく)工事がおこなわれました。とびらは、鉄鋼(てっこう)からステンレス鋼にかえられました。 桑名(くわな)は水運、海運の要衝(ようしょう)であり、天明6年(1786年)より米穀(べいこく)市場が開設され、明治期には米穀取引所となっていました。また、宮内省御料局貯木場もあるなど、桑名は流域下流部の経済拠点(けいざいきょてん)として大きな位置をしめていました。そのため、愛知、岐阜、三重の米、信濃、飛騨、美濃の木材、その他の物資は桑名に集められ、桑名市場を経由して全国各地に散らばっていきました。鉄道や道路の発達していない明治大正のころ物資を運ぶ手段は主に舟運(しゅううん)によったにもかかわらず、この船の利用が三川分流によってとだえてしまうので、閘門建設の要せいが上がりました。これまで桑名の繁栄を支えてきたのは、揖斐川河岸にある桑名港でした。三川分流 が行われると、桑名港にとって木曽川・長良川との舟運はとだえてしまい、桑名港は衰退(すいたい)してしまいます。そこで、明治27年(1894年)5月桑名町の佐藤義一郎らは国会に閘門設立を請願(せいがん)し、5月19日の第6回特別議会で請願に関する実況陳述を行いました。その結果、舟筏交通の便や水位・地形・地質について比較検討され、この閘門ができました。
(海津町帆引新田)
海津町の揖斐川左岸(いびがわさがん)の堤防断面(だんめん)です。排水機場(はいすいきじょう)の改修工事(かいしゅうこうじ)のために、堤防が掘(ほ)られたので、堤防の断面形がよく分かります。
(1998年12月12日撮影)
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