昔の人々の洪水から生命やざい産を守るくふうについて
海津町萱野(かやの)に現存している住居倉庫式水屋(じゅうきょそうこしきみずや)です。輪中下流部にあるため石垣(いしがき)の高さはひかく的高いです。ここの水屋は、井戸も便所も完びしています。 昔は堤防が切れると、川底より低い輪中内は、たちまちどろ水の中にしずんでしまいました。いったん水がはいると排水がむずかしく、たまり水となって十日も半月以上も水の引かないときがありました。そこで人々は、洪水にそなえて、もり土をしたり石垣を組んだりして屋敷(やしき)全体を少し高くするようになりました。しかし石垣を組んでも大洪水の時には、水につかることがあります。そこで、さらに土台を一段高く積みあげた所にひなんできる水屋を作り、水が引くまでそこで生活しました。そのために、米やしょうゆ・みそなど生活に必要なものをふだんからちょぞうしていました。
海津町本阿弥(ほんなみ)新田に現存しているどぞう式水屋です。輪中下流部にあるため石垣の高さはひかくてき高く、ここの水屋は、2階があります。
国営木曽三川公園内にふくげんされたゆたかな農家(のうか)の水屋です。もり土した上にさらにもり土して石垣を組んだ上に水屋がたてられています。石垣の高さは約4.35mもあります。
平田町今尾(いまお)にげんぞんしている水屋です。木曽三川下流部にあるため、石垣の高さは比較的高い(約3.3m)。 ここの水屋には、トイレ、物おき、ろう下がついています。この水屋は、昭和27年の長良川右岸勝賀(かつが)切れの時と、昭和34年8月13日の多芸(たぎ)輪中洪水、9月26日の伊勢湾(いせわん)台風の時に養老からひなんした家族に利用されました。
平田町今尾(いまお)にげんぞんしている水屋の石垣です。木曽三川下流部にあるため石垣の高さはひかくてき高く約3.2mあります。ここの水屋には、トイレ、物おき、ろう下がついています。
この水屋の石垣には、明治29年の長良川右岸勝賀(かつが)切れの時の最高浸水位(さいこうしんすいい、約2.9m)が青いペンキでかかれています。
水屋にある座敷(ざしき)です。洪水時に長期間水屋でねとまりできように畳(たたみ)のある部屋も用意してありました。
洪水になった時、水屋でひなん生活を送ることになりますが、その期間は2週間から2か月間ほどにおよぶこともあり、きんきゅう時の飲料水をこれにたくわえておきました。
海津郡平田町今尾の長谷川家母屋にある上げ仏壇(ぶつだん)です。洪水時には二階からかっ車できちょうな仏だんを引っぱり上げられるようにしてありました。仏壇の横に、チェーンブロックで引っぱり上げるためのワイヤーが見えています。
上げ仏壇を上から見たところです。ひっぱり上げるためのチェーンが見えます。
上げ仏壇のとなりの部屋のおしいれです。ふすまをあけると、仏壇の上に上がるためのかいだんが作られていました。
水屋は、主にお金持ちであった地主や自作農が洪水時のひなん場所としてたてたものですが、水屋を持てなかったまずしい農民たちの洪水時のひなん場所を助命壇(じょめいだん)、命塚(いのちづか)とも言います。 村や地区によっては、協同で土もりをしてひなん場所をつくったところもあります。上の写真は、地主であった佐野家が小作人たちのためにつくったものです。壇(だん)とよばれるように、建物ではなく、下の石垣を組んで、約1.5mほど土もりした部分のところを助命壇と言います。
海津町帆引新田にある新築(しんちく)された家です。もり土してりっぱな石垣が組んであります。最近、海津町内で新築された住居は、水害からざい産を守るために石垣を高く組むことがふえてきました。
※写真は1996年ごろにとられたものです。
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