輪中の歴史
コンクリートブロックによって保護(ほご)されている小高く土もりされている部分が、鎌倉(かまくら)時代につくられたといわれている潮除堤(しおよけづづみ)のあとです。この堤(つつみ)は、昔の高須輪中内に海水が逆流してくるのをふせぐためにつくられました。この堤の北側(写真右側)部分が農地で、この堤の南側が、昔は海だったそうです。
これは、1754年から1755年にかけて、薩摩藩士(さつまはんし)947名が苦労に苦労をかさねて工事をした油島締切堤(あぶらじましめきりてい)のあとです。この工事により、この地で木曽川(長良川もいっしょになっていた)と合流していた揖斐川が、約2km下流まで締切堤によって分流されました。工事完成後に、この堤に日向松(ひゅうがまつ)が約千本植えられました。今では、史跡(しせき)「千本松原」として、人々のいこいの場所となっています。
宝暦治水(ほうれきちすい)によってつくられた油島締切堤(あぶらじましめきりてい)は、デ・レーケによる明治の三川分流工事ほか、昭和になってからもご岸工事が続けられ、現在のような油島千本松締切堤(あぶらじませんぼんまつしめきりてい)となりました。今では、国営木曽三川公園中央水郷(すいごう)地区となり、毎年春や秋にはたくさんの観光客が県内外からおとずれ、にぎわっています。
1754年から始まった宝暦治水(ほうれきちすい)の三の手工事で、多芸(たぎ)・福束(ふくづか)・高須輪中の水害(すいがい)をへらすために、大槫(おおぐれ)川へ流れこんでいた長良川の水量を制限(せいげん)する目的で、くろうしてきずかれた大槫川洗堰(おおぐれがわあらいぜき)の記念碑(ひ)です。別名「薩摩堰(さつまぜき)」とも言います。
宝暦治水で薩摩藩士(さつまはんし)が行ったであろう作業のようすを銅像(どうぞう)でさいげんしたものです。
宝暦4(1754)~5年に実施(じっし)された宝暦治水(ほうれきちすい)は、薩摩藩(さつまはん)の藩財政(はんざいせい)をあっぱくするなど大変な土木事業となりました。工事の総奉行(そうぶぎょう)である平田靱負(ひらたゆきえ)はその責任をおい、自殺しました。治水神社はその平田靱負を祭神(さいじん)として、昭和13年に油島締切堤(あぶらじましめきりてい)の付け根にたてられたものです。
デ・レーケは、明治11年2月23日から3月6日まで、12日間にわたって木曽三川を踏査(とうさ)しました。犬山から出発し、津島・大垣をへて岐阜まで、濃尾(のうび)平野を徒歩またはふねでひとめぐりしました。この現場調査のあと、明治11年4月6日、デ・レーケは明治改修計画(めいじかいしゅうけいかく)の原案(げんあん)となった木曽川下流の概説書(がいせつしょ)を提出しました。
明治改修(めいじかいしゅう)における三川分流工事の完成を記念し、大正12(1923)年3月に建てられたもので、羽島市桑原(くわばら)町に隣接(りんせつ)する海津町の木曽長良背割堤(せわりてい)付け根にあり、明治改修工事の規模(きぼ)に見合った堂々(どうどう)たる石碑(せきひ)です。碑(ひ)には宝暦治水をへて、三川分流を目的とする明治改修工事に着手せざるをえなかった経緯(けいい)などがしるされています。ここに、「(明治)六年、官、蘭人(らんじん)を聘(へい)して地勢(ちせい)を測勘(そくかん)し工程(こうてい)を企画(きかく)す」と書かれています。「蘭人(らんじん)」という文字から、デレーケのことであろうと想像できます。
ヨハネス・デ・レーケが計画した明治の木曽三川分流(さんせんぶんりゅう)工事によりできた、木曽・長良背割堤(せわりてい)の写真です。木曽・長良背割堤の付け根部分からとったもので、この後ろに三川分流碑(ひ)がたっています。
※写真は1996年ごろにとられたものです。
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