水害の影響
かつて長良川が出水(しゅっすい)し、右岸堤防が決壊(けっかい)した時に濁流(だくりゅう)が流れこんでできた池です。こういう池を、「押堀(おっぽり)」と言います。堤防わきにある池を見ると、かつてその地で破堤(はてい)したことが分かります。これから先もこのような地は破堤しやすいと考えられています。
昭和27年6月24日ダイアナ台風による洪水で、現平田町勝賀地先の長良川右岸堤防が約50m決壊(けっかい)し、高須輪中が水没(すいぼつ)しました。浸水家屋(しんすいかおく)は3193戸、被害総額(ひがいそうがく)は約7億円でした。これは、押堀の写真の反対側をとったもので、鳥居(とりい)が見えるように、この地で二度と決壊してほしくないという願いをこめて、水神様がまつられています。
9.12水害(1976年9月12日に起きた長良川堤防決壊による水害)
昭和51年9月8日から連日ふり続いた雨で、岐阜県ではどの川も水かさがましていました。12日になって、ついに安八町大森で長良川の堤防が切れ、にごった水が、安八町や墨俣(すのまた)町へ流れこみ、大水害となりました。
この時、安八町の南どなりの輪之内町は、間にある福束輪中堤(ふくづかわじゅうてい)をしめ切って、洪水からまぬがれることができました。こうした旧輪中堤は、明治20年から33年にかけて、木曽三川を完全に分流する治水工事(ちすいこうじ)が完成してからは、水害が少なくなり、また、自動車交通の発達にともなって取りこわされてきました。その中で、福束輪中や高須輪中では、それぞれ上手(かみて)の十連坊(じゅうれんぼう)や大榑(おおぐれ)川輪中堤を残し、守ってきたため、大水害からのがれることができたのです。
高須輪中の水害の歴史
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