湯本 鐐三さん [2012年4月~8月]

2012/04/01 18:31 に 山口文夫 が投稿

1. 放送大学

放送大学の出会いは、2000年4月の選科履修生入学に始まります。動機は、東京勤務の定年数年前に先輩諸氏が都内に在る大学の社会人向けの聴講生として通学していたことに刺激を受け、茨城県に戻り定年を機に入学したまでです。先ず、入学して感じたことは、今まで過ごしてきた世界しか知らない自分を知り、専門バカであったことに気づきました。世の中は、私が置かれた世界に没頭している間に、発見、発展、進化していることに、特に、宇宙・天文学にありました。まったく新しい世界が開けた感があり、TVや新聞等の情報は断片的であり、放送大学こそ系統だった知識を得るにふさわしい場であります。選科履修生を3年間続けて、4年目に全科履修生に切り替え、「自然の理解コース」を選びました。毎期2教科程度を履修している間に、取得単位が貯まり学籍が切れる機会に一度卒業してみようという気持ちになり、単に卒業することでは味気なく、この際、卒業研究をして卒業することを目指しました。宇宙・天文学を中心に学んできたので、テーマと指導教官は宇宙・天文学からと考え、TV放送学習で親しみのある群馬学習センター所属の吉岡一男先生にお願いして卒業研究をまとめることができ、2009年3月に無事卒業することができました。

放送大学は私にとって生涯学習の場と考え、再入学(人間と文化コース)して現在に至っております。また、放送大学エキスパートについて、「宇宙・地球科学プラン」と「環境科学プラン」の認証取得申請を2011年度に行いました。

2. 福島支援について

2011年3月11日、東日本大震災その後の巨大津波の来襲を基として、福島第1原子力発電所において深刻な事故が発生し、日本中は勿論世界の人々を震撼させました。特に、周辺住民には避難という過酷な苦難を強いることになり、同じ世界に従事していた者の一人として、残念至極で悔やまれてなりません。少しでも福島支援として役立つことはないかと考え行動に移しました。

先ず、2011年4月15日から福島県の小中学校等の学校サーベイ(放射線量率測定)から始まりました。続いて、輸出産業を営む福島県中小企業者向けの放射線測定器講習会支援、避難民の警戒区域一時立入り際の安全管理者としての支援等と続き、2012年に入り、福島県民の内部被ばく検査(ホールボディカウンタ)の説明員としての支援等を続けております。3月末現在、8つの支援プロジェクトに参加し、延べ日数は60日以上に及んでおります。

現地での一例として、正月開けの1月4日から参加した福島県川俣町(一部計画的避難地域が存在)にて実施された内部被ばく検査において、3歳児以下のお子さんを持つ母親に対する検査結果の説明の際、日常食している食品の入手先を尋ねたところ、大部分の母親は福島県産以外のものを取寄せるなどして食していると、なかには川俣町で獲れた米や野菜を食している母親もおりました。検査結果はいずれも「セシウムは検出されず」でした。これを見て警戒区域隣接に居住している人でも、食品から取り込んでいる放射能は意外と少ないものであると感じとれました。

福島県が2月に公表した内部被ばく検査結果の実施状況によると、検査は2011年6月から警戒区域の子供達から開始され、その隣接市町村へと進行中です。2012年1月末までに、約15,400人の検査が済んでいて、その統計によると、99.8%以上の者が預託(生涯)線量で1ミリシーベルト未満であり、最も高くても3ミリシーベルト(2名)であったとのことです。心配されていた福島県民の内部被ばくがそれほど大きくはなかったことが明らかになっています。今後も引き続き、福島支援ボランティア活動をささやかですが続けて参ります。

3. JCO事故と原子力防災

1999年9月30日に、東海村の JCO(原子燃料加工会社)において、日本で初めての臨界事故(人災事故)が発生しました。福島第1事故の放射能放出事故とは違い、放射線漏れの事故であり、施設から遠くなればなるほど放射線は届かなくなります。原子力発電所は原子炉で臨界にしてエネルギーを産出することにあり、原子炉の周辺は厚い鉄板や重コンクリートで囲われているので、臨界になっても放射線は遮へいされ外に出ない構造となっています。しかし、核燃料取扱い施設では、絶対に臨界にならないような仕組みにしていますので、建屋の周辺は放射線に対してまったくの無防備であります。

事故が発生した当日、私は東海村の原子力施設内におり、昼のTV放送報道により知りました。まさか、臨界事故が起こるとは思いもよらず、会社組織の体質及び従事者の無知(教育不足)が招いた事故として悔やまれました。事故発生場所から350m以内に居住している村民が避難を余儀なくされました。この避難勧告は村長が国や県との相談もなく、そばにいた専門家のアドバイスを受け独自に判断したとして適切な処置とされています。

JCO事故の反省・教訓の一つとして、翌年の2000年4月から原子力施設所在の町村及び隣接市町村へ専門家を置く茨城県の制度ができ、私は、茨城原子力協議会の嘱託員として大洗町役場に週4日の駐在勤務となりました。そこで4年間従事し、地方自治体が作成する地域原子力防災計画書制定などのお手伝いをさせて貰いました。

4. 新潟県柏崎市民への出前講座

大洗町役場への駐在業務終了と同時に、NPO法人「原子力地域防災支援センター」へ2004年から参加し、世界最大発電規模の「柏崎刈羽原子力発電所」を抱える柏崎市の住民への放射線講座及び消防団員への原子力防災リーダ研修の講師として協力してきました。2年後にNPO法人は解散しましたが、引き続き柏崎原子力広報センターの講師陣として参画し、柏崎市民及び刈羽村民への放射能・放射線に関する理解促進に、毎年数回柏崎市方面へ現在も出かけています。

5. ボランティア活動の素地

放送大学入学以来、好奇心とチャレンジ精神に目覚め、ボランティア活動に参加するようになりました。大洗町役場に駐在中の2001年5月に大洗ゴルフ倶楽部にて開催された「ダイヤモンドカップトーナメント」へのボランティア参加を機に、2003年5月の同大会、2004年5月の「三菱ダイヤモンドカップ」、同年10月の茨城ゴルフ倶楽部にて開催の「日本プロシニアゴルフツアー選手権」、2006年6月宍戸ヒルズCCにて開催の「日本ゴルフツアー選手権」、その後、同様な大会に毎年数回ずつ参加し、現在まで10年間で、回数は延べ20数回にのぼります。

さらに、2001年7月に大洗町に開館した「大洗わくわく科学館」のボランティアとして、開設以来続けております。このようなボランティアの実績があるからこそ、福島支援ボランティア活動は苦もなく気楽に入れたものと考えます。そんなことで、趣味の囲碁や毎月1回の山歩きなどを含め、放送大学入学以降は、現役時代よりも日々を忙しく生活している今日この頃です。