アーカイブ 「今, 注目の人」

【1】 矢部時夫さん (掲載:2010年1月~3月)

【2】 前島寿子さん (掲載:2010年4月~5月)

【3】 河本紀久雄さん (掲載:2010年6月~8月)

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【4】 竹内 孝さん (掲載:2010年9月~11月)

現代版『望ましい友』 放送大学にあり 社会と産業コース 竹内 孝

「通信教育ダメ男」が放送大学に。さて、どうする?

放送大学の広告塔のような熱血漢、石川愼二さんのお奨めで放送大学に入学した。2005年のことである。入学して、科目の豊富さと絢爛たる先生方のラインアップに瞠目。早速履修科目の登録となった。ところが、ひょんなことから、大事なことを思い出してしまった。それは、数十年前、東京ドームで開催されたコンピュータの展示会場にあったコンピュータによる性格診断の結果であった。それには、「あなたは、通信教育には適性がない。通信教育で成功する可能性はまずない。」とあったのである。当時、会社の業務命令で、受講していた日本能率協会の経営管理通信講座でも、毎回課題提出の催促を受けていたことまで思い出してしまったのだ。これはまずいことになったと思ったが、時すでに遅し。テキストが送付され、授業が始まっている。石川さんの放送大学推薦の魅力的な言葉に抗しきれず、このまま進むしかないと腹を決めた。

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【5】 矢野 正義さん(掲載:2011年11月~2011年1月)

教えることは学ぶこと-定年退職後の10年- 大学院文化科学研究科 矢野 正義

2000年8月に約42年間の会社生活を卒業しました。この時考えたことは

1、これまでの専門とはまったく異なる分野(それは私の場合文化、芸術、宗教などいわゆる文科系) のことをもっと体系的に学びたい、そして人間的バランスを得たい

2、一方、エンジニアとして過ごしたこれまでに得た知識、経験、考え方、スキルなどを、もし役立てられるならば少しでも社会に還元したい という二つのことでした。

10年が経ったいま、これらの思いがどのように、どの程度実現あるいは しなかったか振り返ってみたいと思います。 まず1番目の項目に関しては放送大学 人間の探求コース入学という、強力でこの上ない恵まれた 環境に身を置くことができました。その豊富な科目の数に驚き、興味のおもむくままに選択し、 夢中でやっているうちに取得単位が積み上がり4年でトコロテン式に卒業してしまいました。

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【6】 古河 ノブ子さん(掲載:2011年1月~2011年3月)

学んで、教えて、また学んで 教養学部 古賀ノブ子

放送大学との出会い1987年頃であったろうか?偶然にも、放送大学テレビに伊能敬先生が出演して居られるのを拝見した。伊能忠敬の直系であられる先生は、元茨城大学理学部長依田修先生の友人で私も親しくさせていただいたこともあり、先生の「基礎化学」を聴講したいと思ったが、新しい職場に移った直後であり入学は果たせなかった。

その後、大学宛に放送大学の教材が恵与されることになり、希望を提出したら何と驚くことに「基礎化学」をはじめ、食生活に関する科学、地球科学など5教科の教科書、ビデオテープ75本をいただけることになった。これは喜びと同時に感激であり入学への願いがつのったが、慣れない環境での仕事は思いのほか忙しく、教科書とテープでの自宅学習となった。

放送大学の授業は担当者が錚錚たる顔ぶれであり、また、学ぶ意欲をかき立てる授業の進め方に感服したものである。今までの自分の教え方を反省し、再び学ぶことの大切さを切実に感じるようになった。放送大学のビデオが当時の私の授業を大きく改善させてくれたことを感謝している。理学部で専門科目を教えていた時には、年々新しくなってゆく学界の傾向に知らずのうちに乗って授業をしていたものが、一般教養科目では幅広く知識を吸収し、学生が楽しく学べるように多くの要素を組み合わせなければならない。

1997年にやっと入学を果たし、少しずつ必要な科目を視聴し始めることになる。

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【7】 堂本一成さん(掲載:2011年4月~2011年6月)

「放送大学と私」 : 堂本一成

定年後、これからの生き方を考えていたところ偶然テレビで放送大学を知り平成10年10月に入学した。38年間勤めた会社では、理工科系の仕事をしていたので、大学では変化を求めて文化系のコースを選んだ。もともと歴史と文学が好きだったので人間の探求を専攻した。授業科目は日本と外国の古代から現代にいたるまでの歴史と文学を中心とし、それに関連する科目を選択した。平成13年度に教養学部を卒業したが、その中で選んだ文化人類学で、移動民の都市人類学的研究とくに先住民の都市移動の問題に関心を抱いた。

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【8】 石川さんさん(掲載:2011年6月~2011年9月)

人生の転機 石川愼二

私なりに私の人生を回顧してみると、その曲がり角はいくつか思い浮かぶ。誰でも、就職、結婚がそれであることは共通している。 誰でも人生に転機はある。勿論、この私にも転機があった。私は当年とって齢(よわい)69歳、来年は70歳、世間ではこれを「古希」(杜甫が「人生七十古来稀なり」と呼んだことにより広まり古希といわれる)と言うらしい。古希を前にして、私の人生の転機となった中から2点を選んで考えてみた。◆ つづきは左サイドの「石川愼二さん」をクリックして閲覧ください ◆

【8】 石黒敬子さん(掲載:2011年9月~2011年11月)

60にして新人であり一年生、そのこころは放送大学です。入学をして2年になります。

まさか私より年下の先生方にご指導いただくことになろうとは、人生想定外のことでした。このような機会にめぐり会えたことは夢の中の出来事より現実のほうがはるかに楽しく、有意義な時間を味わうことができることも実体験しました。

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【9】 石塚 俊一さん(掲載:2011年12月~2012年1月)

放送大学と私 石塚俊一さん

<放送大学の細く長い道のり>

今私の前に放送大学の「単位修得一覧表」が開かれている。なんと多くの、そして雑多な科目を履修したことか。私の放送大学生活は平成4年度から23年度まで19年間続いてる。学習センターも東京第二(文京区)、東京第三(足立区)、茨城と変わった。「科目履修生」としてスタート、それから全科履修生「人間の探求」卒業、選科履修生と遍歴し、大学院科目もつまみ食いし、現在は「生活と福祉」に所属している。私の放送大学の道のりは細く長く続いている。

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【10】 立原やい子さん(掲載:2012年1月~3月)

父の言葉「大学へ行け」 (社会と産業) 立原 やい子

私の学生番号は00で始まります。平成12年に入学し17年卒業、その後再入学、学生生活は通算10年になりました。振り返れば遥か昔今は亡き父が「大学へ行け」としつこく言う事に反発、看護学校を選択しましたが、今思うと、私に大学合格の自信がなかったのだと素直に反省できます。 看護師になってからも、常に勉強はついて回り、特に昭和57年看護学校に異動後は、このままではいけない、大学で学ぼうと思うようになり、父の言葉が身に沁みました。

職場には放送大学で学ぶ看護師もいて刺激を受け、願書を取り寄せるのですが、もたもたして何年も過ぎました。平成11年になり、若い同僚に詳しい説明を聞くことができ、願書提出、晴れて入学となりました。週休2日のうち1日は学習センターと決め、卒業を目指しました。

専攻は「発達と教育」を選び、看護学概論・教育心理学等々、仕事上大いに役立ちました。

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