石塚 俊一さん [2011年12月~2012年1月]

放送大学と私

生活と福祉 石塚俊一

<放送大学の細く長い道のり>今私の前に放送大学の「単位修得一覧表」が開かれている。なんと多くの、そして雑多な科目を履修したことか。私の放送大学生活は平成4年度から23年度まで19年間続いてる。学習センターも東京第二(文京区)、東京第三(足立区)、茨城と変わった。「科目履修生」としてスタート、それから全科履修生「人間の探求」卒業、選科履修生と遍歴し、大学院科目もつまみ食いし、現在は「生活と福祉」に所属している。私の放送大学の道のりは細く長く続いている。

<牛に引かれた猿>

私は昭和7(1932)年生まれの申年である。放送大学に入ったのは60歳の時、丑年の妻が放送大学の学生で卒論に取り組んでいるのを見て、私もやってみようかと思ったのだ。

<傍で見るほど楽じゃなかった>

はじめ科目履修生になり、「ドイツ語1」と「ギリシャローマの文学」の2科目をとった。ドイツ語は40年も前の大学の第二外国語で習っていたが、単位を取るだけのおざなり勉強だったから、文法は定冠詞の語形変化der-des-dem-den)、文章は“Ich liebe dich.”(=我汝を愛す) くらいしか覚えていなかった。それでも放送大学は学期の中間にレポートがあるのと単位認定試験があるおかげで結構勉強して Aをもらった。「軽い、軽い!」と気をよくしていると、翌日届いた「ギリシャローマの文学」は“D”、落第だった。細かい年代などを覚えなかったからだ。妻の熱心な勉強ぶりをしり目に、「こんなの、教科書を一回読めばできる」と高を括っていた天狗の鼻をへし折られた。世の中、傍で見るほど楽じゃない、と悟った。

<生涯学習への目覚めー還暦の留学生、春山さんとの出会い>

東京第三学習センター時代、私が放送大学の学生になって3年目だったか、ドイツ語Ⅳの単位認定試験を受けた時だった。試験が終わったとき、隣席の白髪の紳士に声をかけられた。「お急ぎでなかったら、そこらで一杯どうですか」と。綾瀬駅近くの居酒屋で、初対面の二人の会話はいま終わったばかりのドイツ語の試験のこと、話すうちに紳士は春山さんといい、都内の私立大学で講師として、英文学を教えているということだった。「英文学でもドイツ語が必要なことがあるのです。いつもドイツ語専門の同僚に聞くわけにもいきませんから、放送大学でドイツ語の勉強のし直しです」春山さんはまた「夏休みを利用して語学研修のためドイツへ行きます、一か月間の予定です。」と言われた。還暦を過ぎてこの向学心、この勇気、私は「すごい!」と思った。春山さんの帰国後伺った話では、研修地はミュンヘン大学、寄宿舎のルームメイトは外国人、授業はドイツ語オンリーで進められたとのこと。私は春山さんに「生涯学習」の手本を見、同時に放送大学が生涯学習に果たす役割の大きさを実感した。このとき私は放送大学をずっと続けようと決心した。

<外国語を学ぶ楽しみ・・・放送大学がそれを可能にした>

私は数年前まで英語の教師をしていたので、興味がどうしても語学に向いてしまう。今あらためて「単位認定書」を見ると、私の外国語習得単位数は49単位にもなっている(卒業要件は6単位)。英、独、仏,西、露、中、韓、アラビア語と手当たり次第、食いついた感じだが、そのうち、今少しでも役に立ちそうなのは(英語は別として)ドイツ語とスペイン語くらいだ。では、あとは無駄だったか? 決してそうではない。新しい言語を習うことは、未知の世界に踏み込むことだから。今から66年前の昭和20(1945)年の4月に旧制中学一年生になった私は、最初の英語の授業で先生(綽名は赤鬼)が「英語では自分のことをマッカーサー(連合軍総司令官)でも浮浪児でも“I”(アイ)という。日本語の「私」「僕」「俺」「あたい」「吾輩」「わし」、みんな“I”なんだ。と言われた時の新鮮な驚きと、未だ敵国(終戦は8月)だった英語世界に対して抱いた強い好奇心を忘れられない。喜寿を過ぎた今も新しい言語に接するとき、私はそれと似た感動を覚え、地図を広げたり、歴史を調べたり、その国を訪ねたくなったりする。三日坊主の私が言語の世界探訪をつづけられたのは、レポートと単位認定試験で“がんばれ”と励ましてくれた放送大学のおかげである。

<セミナーへの参加…新しい人間関係の輪>

私は今年2月から朝野先生ご指導の「英語ゼミ」に、4月から塩見先生ご指導の「統計ゼミ」に参加させていただいた。「朝野ゼミ」は英語精読のよき道場であり、「塩見ゼミ」は理科的修練の場である、と同時に両先生の人格にふれ、諸先輩と交わり学ぶ貴重な機会となっている。