〔社会と産業コース〕 竹内 孝
現代版『望ましい友』 放送大学にあり
「通信教育ダメ男」が放送大学に。さて、どうする?
放送大学の広告塔のような熱血漢、石川愼二さんのお奨めで放送大学に入学した。2005年のことである。入学して、科目の豊富さと絢爛たる先生方のラインアップに瞠目。早速履修科目の登録となった。
ところが、ひょんなことから、大事なことを思い出してしまった。それは、数十年前、東京ドームで開催されたコンピュータの展示会場にあったコンピュータによる性格診断の結果であった。それには、「あなたは、通信教育には適性がない。通信教育で成功する可能性はまずない。」とあったのである。当時、会社の業務命令で、受講していた日本能率協会の経営管理通信講座でも、毎回課題提出の催促を受けていたことまで思い出してしまったのだ。これはまずいことになったと思ったが、時すでに遅し。テキストが送付され、授業が始まっている。石川さんの放送大学推薦の魅力的な言葉に抗しきれず、このまま進むしかないと腹を決めた。
充実した教科目――大学の模範
放送大学の授業を受講して感じたことは、社会と産業コース(入学時は、社会と経済コース)の科目は、国内外で発生する政治・経済情勢の背景にある事柄について、歴史的事情などを含めて最新の動きまで分かりやすくまとめられていることである。必要に応じて、現地の状況視察や個人のインタービユーまで含めで、実にきめ細かな解説がなされており、すっかり感心してしまう。まさに、大学の授業はかくあるべしと、その模範を示しているように感じる。(現に、「自分の大学の授業はつまらない。是非放送大学を見習うべきだ。」と新聞の声の欄に投書した大学生もいた。)
放送大学の出番
このように、放送大学では、政治、経済が混迷を続ける中で、政治にかかわる人々、管理的な業務に携わる人々には、願ってもない科目が揃っており、これらの人々のための再教育の場を十分に提供できる体制にあるものと思う。これは、かねてから石川愼二さんが力説するところである。
歴史に「もし」は禁句なれど
歴史には「もし」は禁句ということにはなっているものの、思い起こせば、60年前の米英相手の戦争では、当時の知性を結集して設置された内閣調査局(初代長官吉田茂)が、この戦争を前提にした物資需給の見通しから、「戦争をしたらとんでもないことになる。」という結論を出したにもかかわらず、為政者が、世界情勢を踏まえて的確な判断を下すことができず、ズルズルと戦争に引き込まれてしまった訳だが、もし昭和初期に今日の放送大学のような教育機関が日本に存在し、為政者がこれらを受講していたならば、このような事態を避ける知恵は出たのではないか、そして、ベネディクト女史の「菊と刀」を名著だと有難がるようなこともなかったのではないかと思ってしまう。(哲学者の和辻哲郎先生は、「菊と刀」について、『この書にも、いろいろな価値はあるのでしょうが、(唖然とするような記載もあり)少なくとも学問的な価値はないとわたくしには思えるのであります。・・・この書は、「日本軍人の型」(というのもまだ云い過ぎで、「国粋主義的軍人の型」)を論じているのであって、「日本文化の型」を論じているのではないということであります。』と書いておられる。その理由については、和辻哲郎全集第3巻「埋もれた日本」(岩波書店)参照)
〔注〕「内閣調査局」については、「昭和史の天皇」第17巻(読売新聞社)に詳しい。
要注意 「いつでも」「どこでも」「自分のペースで」
放送大学は、「いつでも」「どこでも」「自分のペースで」勉強できるのが、特徴の一つになっているが、私は、「いつでも」「どこでも」・・・と聞くと、反射的に・・・「そのうちに(やればよい)」と反応してしまう悪い癖がある。しかし、放送大学の先生は、1学期15回きちんと休みなく講義をされ、「そのうちに教えます。」というようなのんびりした先生はおられない。
「そのうちに」・・・と思っているうちに、授業はどんどん進み、あっという間に置いて行かれてしまう仕儀となる。そこで、「いつでも」「どこでも」「絶え間なく」でなければならないと思い当たったものの、私の悪い癖はなかなか治らない。これが「通信教育ダメ男」たる所以であることに気づかされた。
意外な展開 ―― サークル活動などを通じた仲間
『英会話サークル』
まず、石川さんが会長をしていた『英会話サークル』のお世話になることにした。ここで、個性豊かなお仲間に出会うことが出来た。2005年10月、英会話サークル発足5周年記念研修旅行があり、ニューヨーク、コネチカット州にあるイェール大学などに連れて行ってもらった。米国滞在中は毎日雨天続き。いわゆるツアーガイドなしの旅行(レンタカー、モーテル利用)なので、英語を使わざるを得ない環境に投げ込まれた。引率の大畠教授が頼りで、毎日肝を冷やすような(?)事故に出会ったが、現地の人々との交流も経験し、全員無事帰国した。人生観が変わったお仲間も出た。
『ゴルフサークル』
そのうち、石川さんの発案で、『ゴルフサークル』を作ろうということになり、認可を得た。ゴルフは、ショットそのものは数秒で完了してしまい、あとの時間はコース設計者の罠にはまらないように(プレーしやすいようにコースを造ってくれるようなお人好しの設計者は一人もいない)如何にコースを攻略するかを考えているというゲームで、一旦ゴルフに取り憑かれると、これをやめたいと思う人は殆どいないという奇妙なゲームである。これは、放送大学生にとっては打って付けのスポーツ(こういうものがスポーツといえるのかどうかわからないが)ではないかと思う。
『数学共楽会』
学習を進める上で一番困ったのが、数学である。他の教科は、テキストや工夫をこらした丁寧な放送を聴講することで、なんとか理解出来るのだが、数学はそうは行かない面がある。単位は取れても、理解不十分なところが残るので、復習が欠かせない。ところが、幸運にも、茨城学習センターには数学が得意で、わからないところは丁寧に解説してくれるというお仲間がいることがわかった。そこで、猪俣新次さんの発案で、『数学共楽会』を発足させてもらった。これは私にとって干天の慈雨であり、放送大学での最大の恩恵である。
数学の勉強でわかってきたことは、次のようなことである。即ち、数学は前にやったことは決して忘れない、そして証明されたものだけを縦横に駆使して次々に理論を積み重ねて行き、複雑な体系を形成して行く、しかも、これが一朝一夕になるものではないということである。
これは、私とは全く違った世界である。私は、以前にやったことや覚えた(と思った)ことはすぐ忘れ、やれるかどうかわからないものにも手を出し、同じ失敗を繰り返すなど、なかなかまとまらない。しかも、ゴルフにまでこれが現れて来る始末である。数学は、私の生活態度の改革まで迫ってくる。
〔学習センター所長の英語ゼミなど〕
学習センター所長の英語ゼミに入れてもらった。塩見先生のゼミでは、文法に忠実に解釈することにより、英文を正確に理解することの大切さを教わった。現在の朝野先生のゼミでも、この伝統は踏襲されており、テキスト(Rachel Carson著Silent Spring)の内容は読み応え充分、内容に係わる事項についての先生の解説は、出席者を魅了してやまない。
放送大学の英語科目も本格的なもので、現役時代途切れ途切れの勉強しかして来なかった私にとっては、貴重な科目である。
これらにより、英和辞典の便利さ、英語学習辞典(Oxford, Longman, Macmillan, Cambridge など)の有り難さを身に染みて感じている。これらは、巷で喧伝されている「聞き流すだけでマスター」する英語とは違って、英文法を踏まえ、辞書をしっかり引き、英文が何を伝えようとしているのかをじっくり理解するという、大学に相応しいものである。
それにしても、語彙が貧弱なのは如何ともし難い。学習時間が圧倒的に不足しているからである。これを少しでも補うべく、読むものは、極力英語の書物や雑誌にしているが、幸いなことに、昨今はインターネットの発達により、ニューヨーク・タイムズ、エコノミスト、フォーチュンなどは、無料で記事を配信してくれるので、これらも利用している。
さらに、茨城学習センターには、メーリング・リスト(ML)を作成管理してくれるお仲間がおり、MLでいろいろ貴重な情報やノウハウを伝授していただいている。
現代版「望ましい友」の典型
ところで、吉田兼好の徒然草第117段のなかに「よき友三つあり。一つには物くるる友。二つには医師(くすし)。三つには智恵ある友。」というくだりがある。現代では、「物」のなかで最も重要視されるようになったのは、情報やノウハウの類である。このことは、コーリン・クラークによる産業分類やペティ=クラークの法則などに照らし合わせても理解できる。お金や物は使うことにより無くなったり、消耗してしまうが、一旦得られた知識や智恵は無くなるどころか、年を追って輝きを増したり、益々役に立ったりする。それを得るためには、かなりの手間暇がかかるようになっている。上記のように、これらを惜しげもなく与えてくれる放送大学のお仲間は、さしずめ
現代版「望ましい友」の典型であり、世間では希有な存在であるに違いない。
羅針盤『放送大学エキスパート』
そのうち、放送大学には、授業科目を体系的に学習したことを証明する「科目群履修認証制度 放送大学エキスパート」が設けられた。23プランを見渡したところ、履修科目の多様性に魅せられて、興味の赴くままに履修して来た私に該当するものは、案の定なかなか見当たらない。現状では、何と、最後の方にある「社会数学プラン」に該当することになることが分かった。これは、放送大学に入学した当初には、予想もしなかった状況である。今のところは、「社会数学エキスパート心得違い」程度のレベルにすぎないと感じてはいるが、人生とは、不思議なものである。
これも偏に現代版「望ましい友」のご支援によるものであり、深く感謝している。