星 吉彦さん[2013年10月~2014年3月]

歴史を学んで、ふるさと会津の偉人・賢人を知る

選科履修生 星 吉彦

1. はじめに

定年退職後,これから何をやろうかと思っていた。その時、自宅近くの茨城大学の構内を散歩していて、放送大学の看

板が目に入る。受付で、説明を受けると誰でも学ぶことが出来、好きな科目を選択できるとのこと。 そこで平成15(2003)年10月に選科履修生で入学、その間「只、学ぶ」ことを目標に10年の歳月が流れた。このような機会を与えてくれた「放送大学」に感謝し自分にとっても大変よかったと思っている。

2. ふるさと会津の偉人・賢人たち

放送大学では「日本史」などを中心に、その時の世の中の動きを理解

する科目などを学んできた。その中で五味文彦先生の「歴史と人間」を受

講した。

私のふるさとは、福島県の奥会津「大内宿近くの湯野上温泉」である。定年退職までは、会津の歴史については、「鶴ヶ城」と「飯盛山の白虎隊」くらいであった。上記講座の中で、ふるさとの「山川健次郎」という偉人の存在を知り大変感動した。そこから、会津の歴史に興味を覚え、いろいろ調べ、また帰省の折に会津各地を訪ねて、その奥の深さを実感している。

その中で特に思うのは、ふるさと会津が、幕末から明治以降にかけ、多くの偉人・賢人を輩出している。それについて、私の拙い思いを綴ってみた。

(1) 山川家 (会津藩家老)の兄弟妹

○ (兄) 山川 浩 【弘化2(1845)年生~明治31(1898)年没】

家老・東京高等師範学校校長・貴族院議員・陸軍少将、など

〇 (弟) 山川 健次郎 【安政元(1854)年生~昭和6(1931)年没】

米国のエール大学に入学・日本最初の理学博士・東京帝大総長11年・九州帝大総長・貴族院議員、など

〇 (妹) 山川 捨松 【万延元(1860)年生~大正8(1919)年没】

捨松は津田梅子ら5人とともに、明治5(1871)年岩倉使節団に同行した、日本最初の女子留学生・大山巌陸軍大将の後妻・鹿鳴館の華・津田梅子の英学塾(現、津田塾大学)設立に協力、など。「捨松」は米国のバッサーカレッジを優等生で卒業し、その式で卒業生代表として『イギリスの日本に対する外交政策』について演説した。その内容が素晴らしかったので、1882年(明治15年)6月15日付の新聞『ポーキプシー・イーグル』に載せられた。この他に、アメリカでは演説の内容を、『ニューヨーク・タイムズ』のトップニュースで、日本でも『朝日新聞』で報道している。

(2) 山本家 (会津藩銃術指南役)の兄弟

○ (兄) 山本 覚馬 【文政11(1828)年生~明治25(1892)年没】

会津藩主「松平容保(かたもり)(1835-1893)の京都守護職に伴い、上京する。その後、戊辰戦争で荒廃した京都の復興に尽力。新島襄の同志社英学校設立に協力。京都府初代議長・京都市商工会議所会頭、など歴任。

名古屋藩の支藩「高須藩」より会津松平家の養子・会津藩主・京都守護職・会津に戻り戊辰戦争で敗戦・鳥取藩池田家で謹慎・その後、日光東照宮宮司、など。

山本覚馬の【管見】について述べてみたい。

薩摩藩邸に幽閉され、完全に失明した山本覚馬が口述し、野沢鷄一(けいいち)が筆記した【管見】を読んでみた。

広辞苑によれば【管見】とは「管(くだ)を通して見る意、 狭い見識。自分の見識や見解を謙遜していう語」とある。この題名は、覚馬の謙虚さの現われであり、この【管見】が覚馬の根底にある考え方であろう。

【管見】の中で、山本覚馬は当時日本のおかれた国際情勢と国内事情を的確に把握・分析し、独立国としてこれから進むべき日本のあるべき『国のかたち』を22項目にわたり述べている。情報量の大変少ない時代に、覚馬は江戸で佐久間象山に学び、吉田松陰・勝海舟・西周などとの交流があったにせよ、これほどの考えを持ち得た抜群の知能と信念の強さに感動を覚えた。覚馬がもし京都でなく、明治新政府の中枢で活躍していたら「この国のかたち」はもっと変わっていたと思う。

○ (妹) 山本 八重 【弘化2(1845)年生~昭和7(1932)年没】

八重については、大河ドラマ「八重の桜」で放映されておりますのでここでは割愛する。

(3) 柴 家 (会津藩士)の兄弟

柴家でも戊辰戦争で、祖母・母・兄嫁・姉・妹の5名が自刃

○ (兄) 柴 四朗 (東海散士) 【嘉永5(1852)生~大正11(1922)年没】

小説家・衆議院議員(福島県選出)

「佳人之奇遇」など8編が有名である。

○ (弟) 柴 五郎 【安政6(1859)生~昭和20(1945)年没】

陸軍幼年学校・陸軍士官学校を成績優秀で卒業。外国大使館武官・第12師団長(小倉)・陸軍大将。

(4) 遠藤家 (会津藩士)

○ 遠藤 敬止【嘉永4(1851)生~明治37(1904)年没】七十七銀行頭取・仙台商工会議所会頭、など

取り壊される運命にあった「鶴ケ城」を買い取り、旧松平家に寄付した。

(5) 朝敵の汚名を着せられた会津藩の出身者には明治新政府の中枢での活躍はないが、上記のほかにも財界・教育者・軍人・最高裁判所長官など司法関係でも活躍した人が数多く存在する。

3. 何故、明治以降会津藩士より多くの偉人・賢人が輩出したのか

(1) 会津藩主保科正之【慶長16(1611)生~寛文12(1672)年没】は、第二代将軍「秀忠」の四男で、「秀忠」は保科正之が高遠藩(3万石)主になる際、優秀な家臣団をつけている。その後、山形藩(20万石)から会津藩(23万石)へ移封した。その際、高遠・山形よりその優秀なる家臣が会津に付いてきている。その子孫に偉人・賢人が多い。

また「保科正之」は幕府や藩政の運営には優秀な人材が必要であるとの考えで殉死の禁止を強力に実施したので、その子孫が明治期に残り活躍することになる。

(2) 藩校「日新館」での学び: 「日新館」は享和3(1803)年に鶴ヶ城の西側に、時の家老「田中玄宰(はるなか)」の[教育は100年の計にして、会津藩の興隆は人材の養成にあり]との進言により完成。それは、江戸時代に300ある藩校でも敷地八千坪・建物千五百坪の規模で、内容ともに全国有数の藩校といわれた。10歳で入学し、その教育内容は、論語などの素読・書学・医学・弓術・天文・水練(水泳)・砲術などであった。あの有名な「白虎隊」の学び舎である。 ここに、明治維新まで60年以上の教育が藩士の祖父・父・孫など3世代以上に渡り行われた。その教育は世の中が変わっても通用する、役に立つ人材の育成であった。

(3) 会津藩の幼年教育・「什の掟(じゅうのおきて)」:「日新館」教育は、十歳で入学する以前の六歳頃からすでに始まっている。幼年者の集団教育は、自然の遊びのうちに社会人としての基本を教えることを狙いとし、子供は子供同志、年長者と同年輩との交わりのなかで覚えていくのが自然である。これが藩の方針でした。

それを近隣の仲間十人を一組とし「遊び」をさせ「お話」をするという制度に発展させ、幼い者でも無理なく年長者への尊敬や礼儀をおぼえ、知識を得てゆくことが出来た。ここで「什の掟」の「ならぬことはならぬものです」の7項目を「日新館」に入学前の6歳~9歳までの子供たちに徹底的に教え込みました。

(4) 家庭教育

幼年期の「什の掟」や日新館で教育を受けた祖父・父から孫へと家庭内でも指導された。それは藩士としての心構え【武士道】の実践であった。女子についても「躾」を中心に読み書きなどを学習し、そこに男女の区別はなかった。それが山川捨松・山本八重・中野竹子などの才女達であろう。

(5) 会津藩の上層部は、会津というこの厳しい自然環境・風土の中で、藩内の人々が生きて行くためには、それに耐え得る人材、リーダーの育成が最大の課題であると考えていた。

その具体化したものが、上記の【家庭教育】・【幼年教育・「什の掟」】・【日新館】である。これらが三位一体となり融合したものが、会津藩の教育システムであろう。その教育を受けた高遠からの優秀な家臣団の子孫などより、明治期以降に多くの偉人・賢人が輩出したと思われる。

加えて、戊辰戦争【慶応4(1868)年】における、生死を分けた厳しい鶴ヶ城での籠城戦。その体験を通して、いかなる困難にも耐える精神力を培った。また朝敵にされた会津藩の汚名を晴らす、そのための信念は並々ならぬものであった。それらのことも、偉人・賢人を生んだ要因であると思う。

4. おわりに

(1) 日新館の宗像館長は「ならぬものはならぬ」の精神について「己に厳しく、人に優しく、志高く、正々堂々、凛として生きよ」と、これが会津藩の精神だと説いている。その根底にあるものは「自己犠牲の精神」すなわち、自分を「無」にして「公」を優先する考え方である。

この精神がリーダーの条件であると思う。

それは大河ドラマ「八重の桜」の中でも放映されている。

○ 山本覚馬は自分が買った、薩摩藩邸の土地を「同志社英学校」設立のため無償で提供するシーン。

○ 斗南藩より東京に引き上げてきた山川家に、弟の健次郎が米国留学から帰ってくるなり、玄関先で、弟が被ってきた帽子を姉「二葉」が借りて質屋に入れる。そのような苦しい生活の中でも、山川家は元会津藩士の子弟を預かり、教育しているシーンなどである。

(2) 現在も、会津藩の精神は会津若松市の小学校で「あいづっこ宣言」として、「ならぬことはならぬものです」と朝礼で宣言し、その精神を教えています。また会津の人たちは、その精神と偉人・賢人たちが体験した、上記の「いかなる困難にも耐える精神力」などをバネとし、それを誇りとして生きている。