vol.12 田根 剛(前編)

「場所の記憶」を未来へとつなぐ建築家、田根 剛(前編)

若手建築家のインタビューも6人目を迎えた。今回登場するのは田根 剛。パリを拠点に活動する彼は、『エストニア国立博物館』のコンペに勝利し、国際的に注目を集めた。前半の今回は、コンペから10年を経て完成した同博物館を中心に話を聞いた。


26歳でエストニア国立博物館の国際コンペに勝利して

2016年10月1日、DGT.(DORELL. GOHOTMEH. TANE/ARCHITECTS)が設計を手掛けたエストニア国立博物館がオープンの日を迎えた。DGT.はイタリア人のダン・ドレル、レバノン人のリナ・ゴットメ、日本人の田根 剛の3人が設立した設計事務所で、パリに拠点を置いている。『エストニア国立博物館』の国際コンペが行われたのは2005年。当時の田根はまだ26歳の若さだった。

「その頃の僕はロンドンのある設計事務所で働いていて、友人のリナとダンと一緒に何か大きなコンペに挑戦しようという話になった。そこで見つけてきたのがエストニアのコンペで、国家プロジェクトであるにもかかわらず、僕たちのような実績のない無名の若手にも公募で門戸が開かれていました。3週間で設計案を練って応募したところ、最優秀賞を受賞してしまった。いちばん驚いたのは僕たちです。すぐに独立して、3人で事務所を立ち上げました」

田根は10年前の出来事をこう回想する。バルト三国のひとつであるエストニアの歴史は近隣の大国の支配を抜きには語れない。エストニア民族が形成されたのは10世紀頃だが、13世紀から20世紀初頭まではドイツ人領主やスウェーデン、ロシアなどの支配が長く続いた。

写真(上)/エストニア国立博物館 Estonian National Museum 2016 Courtesy of DGT. Photos by Takuji Shimmura

エストニア第二の都市であるタルトゥに建設された国立博物館。全長355メートルの建物は既存の軍用滑走路をそのまま延長したようなデザイン。緩やかに傾斜した屋根は未来への飛翔をイメージしている。


ロシア革命勃発後の1918年に独立するが、1940年にソ連軍が占領、第二次世界大戦後はソ連に編入された。そしてソ連崩壊直前の1991年に独立回復を宣言し、現在のエストニアが誕生した。

国立博物館の建設は、国立美術館の建設、音楽院大学の設立と共に独立時の3つの公約のひとつだった。こうした歴史を踏まえれば、このプロジェクトが新国家の民族的・歴史的アイデンティティと密接に関連していることは明らかだろう。それを建築のデザインのなかにいかに落としこむのか、その提出された設計案は人々の意表をつくものだった。

写真(上)/パリの事務所にて。


負の遺産でも継承していくことに意味がある

「博物館の建設予定地をよく調べると、そこにソ連時代の軍用滑走路が残されていることがわかりました。そこで僕たちは敢えて、新しくつくる博物館を滑走路と直結させることにしました。ソ連時代の記憶はエストニアの人々にとっては負の遺産という側面もあります。

その時代の遺物をエストニアの未来を象徴する博物館とつなげてしまうのは果たして正しい選択なのだろうか、という議論は僕たちの間でもありました。しかし結論的には、負の歴史を隠すのではなく、その存在を認めて、未来へと繋ぐことをデザインのコンセプトとしました。審査員長の文化大臣が『モニュメントではなく、エストニアの大地に我々のアイデンティティを刻み付けるランドマークになっている』と評してくれたのが、とても嬉しかったです」

彼らはこの設計案をメモリー・フィールド(記憶の場所)と名付けた。コンクリートの軍用滑走路は全長1.2キロ。ミュージアムの建物はその滑走路をさらに約350メートル延長したようなかたちをしている。滑走路はそのままコンクリートの大屋根と繋がり、その下に地上二階・地下一階の建物が姿を現わす。

コンペに勝利してから博物館のオープンまでにかかった年月は10年。その道のりは決して平坦ではなかった。コンペ直後には「負の遺産」の継承に対してメディアからのバッシングが起きた。さらにリーマンショックの余波でエストニア国内の建築プロジェクトが軒並み頓挫。ギリシアやスペインの経済危機の影響でEUからの資金援助も中止となり、2012年には国立博物館のプロジェクトも休止状態に陥った。しかしその後、エストニア政府は国約である博物館建設のために国債を発行し、プロジェクトを再開する決定を下した。

「リーマンショックの影響やEUからの助成支援の中止から生じた問題は僕たちではどうしようもないことなので、ひたすら待つしかありません。さらに当初の予算の1/5を削減する必要が生まれ、いくつかの大きなデザインの変更を受け入れなければなりませんでした。それでも『建築はコンセプトだ、コンセプトが死ななければ、建築は死なない』と自分たちに言い聞かせ、前に進むことだけを考えました」


年月が経過し失われてきた「場所の意味」に注目する

田根の名前が日本国内で知られるようになった契機は、2012年に行われた新国立競技場のコンペだろう。最終審査に残った設計案は、緑の樹々で覆われた人工の山の中心部にスタジアム全体を埋没させるというもの。その形状から「古墳スタジム」と呼ばれた設計案は人々に強い印象を残した。

写真(上)/新国立競技場案「古墳スタジアム」 New National Stadium Competition in Japan “Kofun Stadium” Courtesy of DGT.

ザハ・ハディド案に決まった2012年の国際コンペで最終審査にまで残った設計案。人工地盤のうえに緑に覆われた小山を作り、そのなかにスタジアムを埋没させている。


「人々の手で神宮の森が作られてから百年が経っています。鎮守の森である明治神宮内苑に対して外苑は文化、芸術、スポーツの振興の場として作られたわけですが、GHQの占領や1964年の東京オリンピックなどもあり、年月が経過するうちに場所の意味が失われてきているのではないかと思いました。

次のオリンピックを契機に再開発が進めば、高い高層ビルが周囲にできて、青山や外苑は大きく姿を変えることになります。そのなかで国立競技場だけは、過去の百年と未来をつなげる建築であるべきだと考えました。そこで大きな立体の墳墓、つまり古墳をモチーフにすると決めました」

続く

【プロフィール】

田根剛(たね・つよし)

1979年東京都生まれ。2002年北海道東海大学芸術工学部建築学科卒。2003年デンマーク王立アカデミー客員研究員。2003~2004年ヘニイング・ラーセン・アーキテクツ勤務。2005~2006年デビッド・アジャイエ・アソシエイツ勤務。2006〜2016年DGT.(DORELL. GOHOTMEH. TANE/ARCHITECTS)共同主宰。2017年ATELIER TSUYOSHI TANE ARCHITECTS設立。現在、コロンビア大学GSAPP、ESVMD非常勤講師。

www.at-ta.fr

取材・文/鈴木布美子、撮影/松永 学、コーディネート/柴田直美